松本重治氏、ジャキノ難民区へ1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/05/17 18:51 投稿番号: [839 / 2250]
松本重治著
『上海時代(下)』
中公新書
236〜237p
《 南市攻略は歩兵第六十八連隊によって十一月十一日から始められた。
中国軍は 「日暉クリークに沿う堅固な陣地に拠って上海戦最後の抵抗を
行うことが明らかになった」。
中国軍の 「右翼の拠点はフランス租界の境界線上に設けられているので、
この陣地攻撃ではわが砲弾が租界内に流れて国際問題が起る公算が極めて大きい。
……わが第一線部隊は……上海の特殊事情には暗い。
これらの事情を攻撃部隊に配慮せよと要求することは無理であるから、
それを未然に防ぐことこそ上海憲兵隊の戦闘任務である」 と、塚本憲兵大尉は考えて、
「現地事情に精通する下士官約二十名を指揮して、攻撃部隊に随伴することにした」
(塚本誠著『ある情報将校の記録』一七九〜一八一ページ参照)。
「集中砲撃が終ると、攻撃部隊が攻撃を開始し、憲兵たちもこの第一線について、
日暉クリークを渡河する。案の定、敵はフランス租界を背にしたトーチカから
側射してくる。……逐次敵を圧迫し、南市の西南端に達したが、
市街突入は翌払暁ということで、私(塚本)らも第一線と共に敵と対峙したまま
夜を徹した。……払暁、私を先頭に憲兵らが、歩兵部隊に先んじて南市市街に進出すると、
敵影を認めないばかりか、住民はすべて両市北部フランス租界に近い地区に集められ、
その難民区は周囲にフランスの小旗を抱げて標示されている。
この地区に近づくと……巻脚絆姿の田中(正一)領事」に会った。
「田中さんの応援で」、その境界線に仁王立ちして待っていたジャキノ神父と
「折衝が円満に進んだ」(塚本氏同上、一八一ページ参照)。
こうして塚本大尉以下二十名の兵が率先、陣頭に立って、
境界線に近づく歩兵部隊が難民区に入ることを抑え、
軍規を維持し得たことは、
難民区の成功に少なからざる寄与をしたことになった。
十三日の朝、私は、前々日から塚本大尉と行動を共にした同僚の殿木 (圭一) 記者から、
前日の難民区の成立成功についての報告を受けた。
私が 「殿木君、何べんも両市と支社とを往復してもらってご苦労だったが、
僕自身も、難民区に行って、ジャキノ神父に 『おめでとう』 をいいたいから、
君、済まんが、いま一度、僕といっしょに行ってくれないかね」 というと、
「松本さん、ジャキノ神父の計画を知っておられるのですか。
喜んでいっしょに行きましょう。カメラマンを連れて」 という快い返事だ。
そこで、三人で、殿木君の案内で、車を走らせた。難民区は、難民が充満していた。
殿木君に 「神父はどこにいるだろう?」 と尋ねると、
「昨日会った場所はこここら辺でしたがね」 と殿木君からは少し頼りない返事だ。
「ジャキノ先生 (シンサン:上海語の発音) に会いたいんだが」 と
数人の難民を相手に押問答をやったが埒があかない。困ったなあと思っていると、
しばらくして、 「仏国人有了 (ファコニンユーラ)」
と私らにいいながら一方を指す人が二、三人現れた。
なるほど、難民がジャキノ神父の名を知っているはずはない。
しかし、数日前にここに来ていた難民は、フランス人が難民の世話をしていた
ことだけは知っているわけだった。 「仏国人 (ファコニン) に会いたいんだ。
私たちは仏国人の朋友 (ポンユー) なんだ」というと、
有志が私らをジャキノ神父のいるところまで案内してくれた。》
つづく
《 南市攻略は歩兵第六十八連隊によって十一月十一日から始められた。
中国軍は 「日暉クリークに沿う堅固な陣地に拠って上海戦最後の抵抗を
行うことが明らかになった」。
中国軍の 「右翼の拠点はフランス租界の境界線上に設けられているので、
この陣地攻撃ではわが砲弾が租界内に流れて国際問題が起る公算が極めて大きい。
……わが第一線部隊は……上海の特殊事情には暗い。
これらの事情を攻撃部隊に配慮せよと要求することは無理であるから、
それを未然に防ぐことこそ上海憲兵隊の戦闘任務である」 と、塚本憲兵大尉は考えて、
「現地事情に精通する下士官約二十名を指揮して、攻撃部隊に随伴することにした」
(塚本誠著『ある情報将校の記録』一七九〜一八一ページ参照)。
「集中砲撃が終ると、攻撃部隊が攻撃を開始し、憲兵たちもこの第一線について、
日暉クリークを渡河する。案の定、敵はフランス租界を背にしたトーチカから
側射してくる。……逐次敵を圧迫し、南市の西南端に達したが、
市街突入は翌払暁ということで、私(塚本)らも第一線と共に敵と対峙したまま
夜を徹した。……払暁、私を先頭に憲兵らが、歩兵部隊に先んじて南市市街に進出すると、
敵影を認めないばかりか、住民はすべて両市北部フランス租界に近い地区に集められ、
その難民区は周囲にフランスの小旗を抱げて標示されている。
この地区に近づくと……巻脚絆姿の田中(正一)領事」に会った。
「田中さんの応援で」、その境界線に仁王立ちして待っていたジャキノ神父と
「折衝が円満に進んだ」(塚本氏同上、一八一ページ参照)。
こうして塚本大尉以下二十名の兵が率先、陣頭に立って、
境界線に近づく歩兵部隊が難民区に入ることを抑え、
軍規を維持し得たことは、
難民区の成功に少なからざる寄与をしたことになった。
十三日の朝、私は、前々日から塚本大尉と行動を共にした同僚の殿木 (圭一) 記者から、
前日の難民区の成立成功についての報告を受けた。
私が 「殿木君、何べんも両市と支社とを往復してもらってご苦労だったが、
僕自身も、難民区に行って、ジャキノ神父に 『おめでとう』 をいいたいから、
君、済まんが、いま一度、僕といっしょに行ってくれないかね」 というと、
「松本さん、ジャキノ神父の計画を知っておられるのですか。
喜んでいっしょに行きましょう。カメラマンを連れて」 という快い返事だ。
そこで、三人で、殿木君の案内で、車を走らせた。難民区は、難民が充満していた。
殿木君に 「神父はどこにいるだろう?」 と尋ねると、
「昨日会った場所はこここら辺でしたがね」 と殿木君からは少し頼りない返事だ。
「ジャキノ先生 (シンサン:上海語の発音) に会いたいんだが」 と
数人の難民を相手に押問答をやったが埒があかない。困ったなあと思っていると、
しばらくして、 「仏国人有了 (ファコニンユーラ)」
と私らにいいながら一方を指す人が二、三人現れた。
なるほど、難民がジャキノ神父の名を知っているはずはない。
しかし、数日前にここに来ていた難民は、フランス人が難民の世話をしていた
ことだけは知っているわけだった。 「仏国人 (ファコニン) に会いたいんだ。
私たちは仏国人の朋友 (ポンユー) なんだ」というと、
有志が私らをジャキノ神父のいるところまで案内してくれた。》
つづく
これは メッセージ 838 (kireigotowadame さん)への返信です.