侵略国日本は国際社会の前科者

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中国が仕掛けた日中戦争

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/05 03:57 投稿番号: [8120 / 8458]
この通州事件で約260人の日本人が虐殺された。一度に起きた虐殺事件としては当時最大かもしれない。
しかしこのような残虐な殺人事件は中国大陸のあちこちで頻繁に発生している。
日本人が満州に渡った頃からだとおそらく数百回を超えるだろう。
一度の殺人事件や暴動で殺された日本人の数は1人から数人と数が少ないのがほとんどであるので、中国はもちろんであるが日本の歴史書や教科書からこれらの殺人事件のほとんど全部が消されている。
通州事件や済南事件はかろうじて記録に残されている氷山の一角の事件なのである。
それではこれから中国側がよく言う「日本の侵略」の発端とされる「満州事変」「盧溝橋事件」「上海事変」とこれら数多くの日本人虐殺事件との関係を見て行こう。

中国の歴史は殺戮と人食いの歴史

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/04 04:29 投稿番号: [8119 / 8458]
これはけして誇張ではない。
歴史的事実である。
それ故、中国人の頭の中は策略と陰謀に満ち溢れている。
「中国人は見かけほど善良で大人しい民族ではない」
戦前、大陸に渡った日本人は「自分が善良であれば、相手も善良に接してくれるだろう」と思い込んだために、そのほとんどが失敗しこのように虐殺された。
もう一度言う。「中国人は羊の仮面をかぶった狼である」

群集全体が狂気じみた段階:特徴は一言で概括できる。
人食い集団。
例えば、武宣市では、まるで伝染病が氾濫した時、死体を食べて目を赤くした犬の群れのようであった。
人々は人肉を食べる。気が狂ってしまったように食べまくる。何かするとすぐに人を 引っ張り出して「批判闘争」を行う。そして、批判闘争の後は必ず彼らを食べる。
一人が倒れれば、息を引き取ったかどうかも構わずに、大勢の人が群れをなして押し寄せる。
それぞれが事前に用意してきた包丁やナイフを倒れた人を目がけてどこの部分でも構わずに 人肉を切り取る。…ここまで来ると、一般の群集も人食いの流れに巻き込まれて行く。
ほんの僅か残された罪悪感と人間性も、「12級台風の階級闘争」によって、
綺麗さっぱり吹き飛ばされてしまう。人食いの疫病は武宣市を席巻した。
最頂点に達した時の形式は、「人肉宴席」と言っても、全く誇張ではなかった。
人の肉、心臓、腎臓、ひじ、関節、関節の筋を…蒸す、煮る、焼く、炒める、餡かけにする、 油で焼くなど、盛りだくさんの料理を作り出した。そして、酒を飲み、拳を打ち、 論功行賞を行う。まさに人食い最高の時期に達した。最高権力機構である「武宣県革命委員会」の食堂でさえ、人肉を調理したことがあるのだ!

これら人食い宴会は、決して民間での自発的な行為ではない。全体主義組織としての 中国共産党の社会に対する制御は、一つ一つの細胞まで浸透している。背後の中国共産党の 煽りと操縦がなければ、このようなことは決して起こりえない。

中国人による芸術的「地獄絵図」のつづき

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/02 21:26 投稿番号: [8118 / 8458]
世界広しといえども、中国人にしかできない虐殺センスに満ち溢れたみごとな「地獄絵図」である。

「近水楼入口で女将らしき人の死体を見た。足を入口に向け、顔だけに新聞紙がかけてあった。本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥(は)がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、4つ5つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。陰部は刃物でえぐられたらしく、血痕が散乱していた。帳場や配膳室は足の踏み場もない程散乱し、略奪の跡をまざまざと示していた。女中部屋に女中らしき日本婦人の4つの死体があり、全部もがいて死んだようだった。折り重なって死んでいたが、1名だけは局部を露出し上向きになっていた。帳場配膳室では男1人、女2人が横倒れ、或(ある)いはうつ伏し或いは上向いて死んでおり、闘った跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のようだった。女2人はいずれも背部から銃剣を突き刺されていた。階下座敷に女の死体2つ、素っ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突の跡を見た。1年前に行ったことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素っ裸の死体があった。その裏の日本人の家では親子2人が惨殺されていた。子供は手の指を揃(そろ)えて切断されていた。南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の死体が路上に放置してあったが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた」
(東京裁判の証言より)

中国人による芸術的「地獄絵図」を見よ!

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/02 21:03 投稿番号: [8117 / 8458]
ここで一服してコーヒーでも飲みながら、中国人のおこなった芸術的ともいえるような「地獄絵図」をじっくりと鑑賞しよう。

「守備隊の東門を出ると、数間ごとに居留民男女の死体が横たわっていた。某飲食店では、一家ことごとく首と両手を切断され、婦人は十四、五歳以上は全部強姦されていた。旭軒という飲食店に入ると、七、八名の女が全部裸体にされ、強姦射刺殺され、陰部に箒を押し込んである者、口中に砂を入れてある者、腹部を縦に断ち割ってある者など見るに堪えなかった。東門の近くの池では、首を電線で縛り、両手を合わせて、それに八番線を通し、一家六名数珠つなぎにして引き廻した形跡歴然たる死体が浮かんで居り、池の水は真っ赤になっていた。夜半まで生存者の収容に当たり、『日本人はいないか』と叫んで各戸ごとに調査すると、鼻に牛の如く針金を通された子供、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦などが、そこそこの塵箱の中やら塀の陰から出て来た」(朝日新聞法廷記者団『東京裁判』昭和三十八年・中巻30ページ)

日露戦争の世界史的意義のつづき

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/02 02:25 投稿番号: [8116 / 8458]
当時、日本が提案した「人種差別撤廃条項」は、時代を先取りした極めて画期的なものでした。しかし、皆さんの中には、
あの提案は、米国内における日本人移民に対する不当な差別や排斥を撤廃させる為になされたもので、それ程、崇高な理念の為に提案されたものでは無かった。
と仰る方もおありでしょう。確かに、そう言った側面があった事は事実です。しかし、本当にそれだけだったのでしょうか? 例えば、根強い有色人種差別社会であった米国において、人種差別撤廃を求めて戦っていた全米黒人新聞協会は、当時、
我々黒人は、講和会議の席上で、人種問題について激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬意を払うものである。
全米1200万の黒人が息を呑んで、会議の成り行きを見守っている。
と論説し、日本提案の行方に対して、非常に大きな期待を寄せていました。又、欧米列強によって分割・植民地支配されていたアジア・アフリカ地域の民衆も、日露戦争の際、面積で60倍、国家予算・鉄鋼生産高・造船能力も約10倍であった「超大国」ロシアを破り、有色人種国家で唯一、「列強」(一等国)に数えられる事となった日本の提案に、有色人種の「民意」(人種差別撤廃・植民地解放)をダブらせて支持をしたのです。しかし、結果は前述の通り、米英のエゴによって、葬り去られてしまったのです。

日露戦争における日本の勝利は、白人による全世界のアパルトヘイト化が、白人のアメリカ到達の後400年にして挫折した、20世紀最大の重大事件であった。
白人の帝国主義に苦しむアジア始め世界の諸国を覚醒・奮起させ、民族独立への希望と勇気を与えた。アジアではベトナムのホーチミン、インドのネールも日露戦争で大きな感銘を受けている。

アジアは日本の勝利を跳び上がって喜んだ」(『日露戦争全史』ウォーナー)と言われるように、独立の気運は、フィリピン、ベトナム、ビルマ、インドネシアなど東南アジア全域に及びました。

「日本の情熱が私の情熱をかき立てた……民族主義的な思想が私の心を満たした。私はヨーロッパの束縛からインドとアジアの自由を取り戻すための瞑想にふけった」(ネール)というように、インドにも波及しました。

またあるイギリス人がインドを旅行した際には、「大きな興奮がインド全土をかけめぐった。片田舎の村でさえ、インド人たちは車座になって、また夜は水煙草の壺の周りに集まって日本の勝利について語り合っている」とも述べているようです。

結果的に、日露戦争以後、白人の植民地は一つも増えていない。



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日露戦争の世界史的意義

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/02 02:04 投稿番号: [8115 / 8458]
日露戦争において、有色人種の一小国が白色人種の強国ロシアを打ち破ったことは、まさに13世紀の蒙古帝国以来絶えて久しいことであった。アジアの感激は大きく、シルクロードの宿場の多くには、明治天皇の御真影と東郷元帥の写真が飾られたほどで、インドのネールは、「青年時代最大の感激は、日露戦争で日本が勝利したことである」と記している。有色人種の志気を鼓舞し、民族意識を高めたことは論を待たない。
日本は、戦前の国際連盟で何度も《人種差別撤廃》を訴えていたのだよ。

人種的差別撤廃提案(じんしゅてきさべつてっぱいていあん)とは、第一次世界大戦後のパリ講和会議において、大日本帝国が提案した議題の1つ。大多数の賛成を得るがアメリカ合衆国や大英帝国などの反対で否決され、実現しなかった。
第一次世界大戦後の大正9(1920)年1月、スイスのジュネーブを本部に発足した「国際連盟」(League of Nations)の事です。この国際連盟 ── 当時の「国連」において、日本は常任理事国だったのですが、その日本が連盟設立に際して、ある一つの重要な提案をしていた事は、余り知られていません。そして、その「提案」の行方が、後に、日本と世界の歴史に重大な影響を及ぼしたのです。と言う訳で、今回は、日本が発議した「提案」と、その行方について書いてみたいと思います。

大正8(1919)年2月13日、第一次世界大戦の戦後処理を行う為に開催されたパリ講和会議の際、米国大統領・ウィルソンの首唱による「国際連盟」設立の為に同時開催されていた国際連盟規約委員会の席上、日本は既に固まっていた14ヶ条に加えて、「第15条」として、
人種あるいは国籍如何(いかん)により法律上あるいは事実上何ら差別を設けざることを約す
と言う条項、所謂「人種差別撤廃条項」を盛り込もうとしました。しかし、欧米列強社会に蔓延(はびこ)る根強い人種差別意識を目の当たりにした日本は、より採択可能な修正案として、「人種」の文言を削除した
国家平等の原則と国民の公正な処遇を約す
を提案し、評決にかけられたのです。(「国民の公正な処遇」によって、人種差別撤廃を実現しようとした) 同案は、16票中11票の賛成多数だったにも関わらず、議長であったウィルソン・米国大統領が突如として、「重要案件は全会一致でなければならない」等として勝手にルールを変更し、不採択を宣言、日本提案の「人種差別撤廃条項」は「幻の第15条」として葬り去られてしまったのです。しかし、この評決については、さすがに同じ欧米列強の一員であったフランス全権団からも、
それ迄2回の票決では、全会一致の規則が適用されていなかったにも関わらず、今回に限って全会一致の規則を適用する事には納得出来ない
との抗議がなされた程でしたが、これに対して、ウィルソン・米国大統領は、
我々の一部にとっては余りにも障害があるので、規約にそれ(人種差別撤廃条項)を挿入する事は出来無い
と嘯(うそぶ)いた挙げ句、議長役を放り投げてとっとと帰国、自らが提唱した「国際連盟」にも米国は参加せず、「米国不参加の「国際連盟」のお手並みを拝見」と言った態度を取ったのです。ちなみに、米国が自認する「民主主義」(デモクラシー)とは、「多数意見の尊重」が基本の筈です。それを、採択に際して、突如、「全会一致」の論理を持ち出した米国の論理。ここに図らずも、欧米列強の「本音」(論理)が垣間見られた訳です。

米国黒人社会の日本観のつづき

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/01 07:10 投稿番号: [8114 / 8458]
■6.日本での「忘れがたい経験」■

1936年、黒人運動の指導者デュボイスは、
満州に1週間、中国に10日間、日本に2週間滞在して、
「ピッツバーグ・クリア」紙に「忘れがたい経験」
と題したコラムを連載した。

デュボイスが東京の帝国ホテルで勘定を払っている時に、
「いかにも典型的なアメリカ白人女性」が、
さも当然であるかのように、彼の前に割り込んだ。

ホテルのフロント係は、女性の方を見向きもせずに、
デュボイスへの対応を続けた。
勘定がすべて終わると、彼はデュボイスに向かって深々とお辞儀をし、
それからやっと、その厚かましいアメリカ女性の方を向いたのだった。
フロント係の毅然とした態度は、これまでの白人支配の世界とは違った、
新しい世界の幕開けを予感させた。

「母国アメリカではけっして歓迎されることのない」一個人を、
日本人は心から歓び、迎え入れてくれた。
日本人は、われわれ1200万人のアメリカ黒人が
「同じ有色人種であり、同じ苦しみを味わい、同じ運命を背負っている」
ことを、心から理解してくれているのだ。[1,p109-118]

さらに、この旅で、デュボイスは日本人と中国人との違いを悟った。
上海での出来事だった。
デュボイスの目の前で4歳くらいの白人の子どもが、
中国人の大人3人に向かって、どくように言った。
すると、大人たちはみな、あわてて道をあけた。
これはまさにアメリカ南部の光景と同じではないか。

上海、この「世界一大きな国の世界一立派な都市は、
なぜか白人の国によって支配され、統治されている。」
それに対して、日本は、
「有色人種による、有色人種の、有色人種のための国」である。

■7.日本人と戦う理由はない■

日米戦争が始まると、黒人社会の世論は割れた。
「人種問題はひとまず置いておいて母国のために戦おう」という意見から、
「勝利に貢献して公民権を勝ち取ろう」、
さらには「黒人を差別するアメリカのために戦うなんて、馬鹿げている」
という意見まで。

デュボイスは、人種戦争という観点から捉え、
「アメリカが日本人の権利を認めてさえいれば、
戦争は起こらなかったはずだ」とした。

黒人たちは、
白人が日本人を「イエロー・バスタード(黄色い嫌な奴)」、
「イエロー・モンキー(黄色い猿)」
「リトル・イエロー・デビル(小さな黄色い悪魔)」などと
蔑称をさかんに使うことに、ますます人種戦争のにおいをかぎつけた。

アメリカは日本兵の残虐行為を理由に、
「未開人」という日本人イメージを広めようとやっきになっていた。
それに対して、「ピッツバーグ・クリア」紙は、ビスマーク沖での海戦で、
アメリカ軍は多数の日本の艦船を沈めた後、
波間に漂っていた多くの日本兵をマシンガンで皆殺しにした、
本土爆撃ではわざわざ人の多く住んでいる場所を選んで、
大人から赤ん坊まで無差別に殺した、
さらに「広島と長崎に原爆が落とされた時、
何万という人間が一瞬にして殺された。
これを残忍と言わずして、何を残忍と言おう」と主張した。

軍隊の中でさえ差別に苦しめられていた黒人兵たちにとって、
白人のために、同じ有色人種である日本人と
戦わなければならない理由は見いだせなかった。
ある黒人部隊の白人指揮官は、隊の95%は戦う気力がまったくない、
と判断を下した。
黒人兵の間では、やりきれない気持ちがこんなジョークを生んだ。

墓石にはこう刻んでくれ。
白人を守ろうと、黄色人種と戦って命を落とした黒人、
ここに眠ると。[1,p120-140]

米国黒人社会の日本観

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/01 06:48 投稿番号: [8113 / 8458]
「20世紀の日本人   アメリカ黒人の日本人観   1900-1945」
レジナルド・カーニー、五月書房、H7.8

人種平等への旗手、米国黒人社会の日本観

■1.われわれ黒人は日本に最大の敬意を払う■

全米1200万の黒人が息を飲んで、会議の成り行きを見守っている。
1919年、パリ講和会議。第一次大戦の惨禍を再び繰り返すことのないよう、
国際連盟創設のための議論が進められていた。
米国の黒人たちが注目していたのは、国際連盟規約に「人種平等の原則」を
入れるという提案を掲げて参加した日本であった。

日本の全権使節団がパリに向かう途中、ニューヨークに立ち寄った時には、
「ボストン・ガーディアン」紙の編集長モンロー・トロッターなど、
黒人社会の指導者4人が、
「世界中のあらゆる人種差別と偏見をなくす」ことに尽力してほしい、
と嘆願書を出した。
自国のウィルソン大統領が講和会議の議長役をするというのに、
それをさしおいて、わざわざ日本の使節団に嘆願したのである。

われわれ(米国の)黒人は講和会議の席上で「人種問題」について
激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬意を払うものである。

全米黒人新聞協会が発表したコメントである。
人種差別に苦しむアメリカ黒人社会は、
有色人種でありながら世界の大国の仲間入りした日本を、
人種平等への旗手と見なしていた。
[1,p71-76]

しかし、本誌52号[a]で紹介したように、日本の提案は16カ国中、
11カ国の賛成票を得たが、議長であった米国大統領ウィルソンの
「全会一致でない」という詭弁によって退けられた。
ウィルソンは、人種平等を盛り込んだ連盟規約が、
米国南部や西部の議員たちの反対で、
批准されるはずのない事を知っていたのだ。

アメリカの黒人は、自国の政府の措置に怒り、
全米で数万人もの負傷者を出すほどの大規模な暴動が続発した。

■2.茶色い男たちのパンチが白人を打ちのめし続けている■

アメリカの黒人社会が、日本に期待をかけるようになったのは、
日露戦争の時であった。白人の大国に、有色人種の小国が独立をかけて、
果敢な戦いを挑んでいる、と彼らは見た。

米国黒人として最初の博士号をハーバード大学でとった黒人解放運動の
指導者W・E・B・デュボイスは、
ヨーロッパによる支配から有色人種を解放してくれる可能性の
もっも高い国として、日本を支持した。

日本が勝てば、やがて「アジア人のためのアジア」を
声高に叫ぶ日が来るだろう。
それは、彼らの母なる大地アフリカに同じような声が
こだまする前兆となる、と米国黒人の指導者たちは考えた。
黒人紙「インディアナポリス・フリーマン」は次のような社説を掲載した。

東洋のリングで、茶色い男たちのパンチが白人を打ちのめし続けている。
事実、ロシアは繰り返し何度も、日本人にこっぴどくやられて、
セコンドは今にもタオルを投げ入れようとしている。
有色人種がこの試合をものにするのは、もう時間の問題だ。
長く続いた白人優位の神話が、ついに今突き崩されようとしている。

日露戦争は、有色人種は白色人種に決して勝てない、
というヨーロッパ人による世界侵略の近代史で生まれた神話を
事実として否定してみせたのである。[1,p53-66]

パール博士の言葉

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/28 23:34 投稿番号: [8112 / 8458]
  パール博士は、広島の爆心地本川小学校講堂で開かれた世界連邦アジア会議にゲストとして参加された。この会議は独立したばかりの新興アジア諸国の指導者を交えた14カ国、45名の代表と千余名の世連主義者によって構成された。
  博士は45分間にわたる特別講演をおこなった。この講演は、アジア会議の性格を規定する重大な意義をもつものとして注目された。
  「人種問題、民族問題が未解決である間は、世界連邦は空念仏である。」と前提して博士はこう述べられた。

  「広島、長崎に投下された原爆の口実は何であったか。日本は投下される何の理由があったか。当時すでに日本はソ連を通じて降伏の意思表示していたではないか。それにもかかわらず、この残虐な爆弾を《実験》として広島に投下した。同じ白人同士のドイツにではなくて日本にである。そこに人種的偏見はなかったか。しかもこの惨劇については、いまだ彼らの口から懺悔の言葉を聞いていない。彼らの手はまだ清められていない。こんな状態でどうして彼らと平和を語ることができるか。」

  白人代表を目の前にしての痛烈な民族・人種問題についてのこの講演は、会議の性格を一変したといっていい。

原爆慰霊碑と博士の追悼詩
  11月5日、博士は原爆慰霊碑に献花して黙祷を捧げた。その碑に刻まれた文字に目を止められ通訳のナイル君に何がかいてあるかと聴かれた。『安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから』・・・博士は二度三度確かめた。その意味を理解するにつれ、博士の表情は厳しくなった。
  「この《過ちは繰返さぬ》という過ちは誰の行為をさしているのか。もちろん、日本人が日本人に謝っていることは明らかだ。それがどんな過ちなのか、わたくしは疑う。ここに祀ってあるのは原爆犠牲者の霊であり、その原爆を落した者は日本人でないことは明瞭である。落した者が責任の所在を明らかにして《二度と再びこの過ちは犯さぬ》というならうなずける。
  この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。その戦争の種は西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることも明瞭だ。さらにアメリカは、ABCD包囲陣をつくり、日本を経済封鎖し、石油禁輸まで行って挑発した上、ハルノートを突きつけてきた。アメリカこそ開戦の責任者である。」

  このことが新聞に大きく報ぜられ、後日、この碑文の責任者である浜井広島市長とパール博士との対談まで発展した。

  このあと博士はわたくしに「東京裁判で何もかも日本が悪かったとする戦時宣伝のデマゴーグがこれほどまでに日本人の魂を奪ってしまったとは思わなかった。」と嘆かれた。そして「東京裁判の影響は原子爆弾の被害よりも甚大だ。」と慨嘆された。

  その夜、わたくしたちのホテルに、広島市小町の本照寺の住職筧義章さんが訪ねてこられこういわれた。「わたくしの寺の檀徒も大勢原爆でやられています。また出征して多くの戦死者も出しています。これらの諸精霊に対して、どうゆう言葉を手向けたらよいか。パール博士に『過ちは繰り返しませぬから』に代わる碑文を書いていただきたい。」と懇願された。

  これを聞かれた博士は、意外にも快く引き受けられた。そして一夜想いを練られて、奉書紙と筆をとりよせ次のような詩を揮毫された。その詩が今も本照寺に建立されている『大亜細亜悲願之碑』である。ナイル君がベンガル語を和訳し、さらに英訳して三カ国語で大きな黒御影石に刻んだ。

それは次のような格調高い詩である。

         激動し   変転する歴史の流れの中に
         道一筋につらなる幾多の人達が
         万斛の想いを抱いて死んでいった
         しかし
         大地深く打ちこまれた
         悲願は消えない
           抑圧されたアジア解放のため
           その厳粛なる誓いに
           いのち捧げた魂の上に幸あれ
         ああ   真理よ!
         あなたはわが心の中にある
         その啓示に従って   われは進む

        1952年11月5日    ラダビノード・パール

人種差別の世界を叩き潰した日本・つづき

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/28 22:24 投稿番号: [8111 / 8458]
5、日本が連合国に敗れた後、今でこそ、日本の植民地支配を非難する連合国は、どのような行動をアジア諸国に対して起こしたのか。日本の教科書がこういうことをきちんと教えていないのは、「自国に対する正しい歴史観が欠落している」からである。連合国は、日本によって追い出されたアジア植民地を「再び取り返しに来た」のである。インドネシアは、3万人のイギリス軍と15万人のオランダ軍による連合軍と、4年間に渡る死闘を繰り広げている。その結果、住民80万人以上が犠牲となった。しかし、生き残った人々の証言によると、彼らが連合国と戦い抜く事ができた理由は、日本統治時代に、日本軍が軍事的能力を自分たちに与え、また四万丁にも及ぶ小銃や弾薬を、日本敗戦後渡してくれたからだと言う。そうでなければ、誰が彼らに武器を与え独立を支援してくれただろう。また、敗戦後も日本へ帰る道を選ばず、「インドネシア人と共に戦った日本兵が約2000人もおり」、この半数以上がインドネシア独立の為に戦死している。何より、彼らインドネシア人が独立を勝ち得たのは、死をも恐れぬ頑強な精神力、すなわち日本人が教えた「日本精神」であったと言う。この精神があったおかげで、武力では圧倒的に優位であったイギリスでさえ、最後には、とうとうインドネシア人を支配する事を「あきらめた」。

6、「大和魂」、これは、今の日本では必要無いように思われているかもしれない。しかし連合国から独立を目指す我々(当時の独立運動の指導者)には、独立のために不可欠な精神だった。民族として正しい意志を持つこと、これなしに独立を勝ち得ることはできなかっただろうと言う。

7、1955年バンドンで行われたアジア・アフリカ会議において「民族の自決」と「反植民地主義」が掲げられ、アジアで起こったドミノ倒しは、アフリカ諸国へ波及して行った。アジア独立運動に関わった人々は、「大東亜戦争が無ければ、アジア・アフリカ会議は無かった。日本はアジアの国々の独立を助け自由をもたらした」と言っている。

  以上の事が、アジアの国々で、当時の事を「本当に知っている」人々によって守られている。それが正しく伝えられず、後にさまざまな政治的意図で歪められて子供たちに伝えられるのは、自らの悪事を認められない「勝った」連合国の情報操作によるものである。日本の行った戦争には、はっきりとした「思想」があったと、独立運動の指導者が言う。日本は、敗れはしたが、結果としてアジアは、数百年に渡るヨーロッパ人の支配から解放された。日本がやらなければ誰にできたであろう。当時、日本の人々の心の中に「アジアの共栄」があった事は紛れも無い事実であり、それが作り事であったと物知り顔で言うことこそ、後の作りごとである。

人種差別の世界を叩き潰した日本

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/28 22:13 投稿番号: [8110 / 8458]
あるブログより引用。

戦時中から始まった、アジア諸国の独立
(欧米諸国から独立のため、日本に支援を求めたアジア諸国)

  日本の敗戦後、植民地を取り返しに来た欧米諸国、敗戦後も原住民義勇軍といっしょに、彼らの独立のため戦った日本軍人たち。
アジア諸国は、死をも恐れぬ「日本精神」で連合国と戦いぬき、白人はついにアジア人を支配する事をあきらめた。
(ヨーロッパ人に、日本を裁く権利がはたしてあるのか?)
世界じゅうで始まったドミノ倒し、白人はその瞬間、神ではなくなった
最初のドミノは日本が倒した
(日本が、アジア諸国の独立に火をつけ、それはやがてアフリカに広がった)
  大東亜戦争で、日本はアジア諸国を侵略し、耐えがたい悲しみと苦痛を与え、アジアの人々から憎まれている。このため、政治家が繰り返し謝罪し、歴史教科書を通じて罪悪感だけを植え付ける教育が行われている。しかし、この歴史観は、大東亜戦争のほんの一面しか表していない。事実、アジア諸国には、親日的な人々、あるいは、日本に感謝する人々が大勢いる。我々が目にすることのできる情報と言うのは、やはりマスコミによって一度ふるいに掛けられ、「操作されている」と言わざるをえない。

1、日本が戦ったのは、アジアの国々の住民ではなく、そこを200年も支配してきた、白人(ヨーロッパ人)である。

2、日本の植民地支配がひどく、欧米のそれは緩やかであったような認識は、誤りである。日本は、住民に学校を作って教育を与え、病院を建てたり、子供たちに予防接種をすることを始め、道路港湾、鉄道など社会資本を整備した。(「日本が現地人に現地語を禁止し日本語を強制した」と言うのは間違いである。日本語はあくまでアジア共栄圏の中で、アジア人が意思の疎通を図るための言語であり、例えばインドネシアでは、それまで250もあった島々の言語を「バハサインドネシア」に統一し、学校教育で普及させた。「言語の統一」は、インドネシア人の「感情、行動、民族」の統一に驚くべき力を発揮した。)また、議会を開設し、現地人にも政治参加の機会を与えた。また日本は、アジア諸国の独立を助けるため、現地人に軍事教育を与え、軍事的な能力を与えた。これが決定的な欧米支配との違いである。それに反して、欧米人は武器を持たせるどころか、現地人には、「人間としての価値を認めなかった」。共に泳ぐ事も許されず、青年の団体行動は(反乱に結びつくとして)禁止され、教育どころか徹底的な「愚民政策」により、識字率はわずか数パーセントであった。土地は奪われ、住民は農場で強制労働に借り出され、オランダ統治時代のインドネシア人の平均寿命は35歳だったと言う。もちろん、独立運動の指導者は投獄されたり、処刑されたりした。イギリスやオランダ経済の三分の一以上が、植民地からの収奪でまかなわれ、現地人はただの奴隷であった。当時、多くのアジア人にとって、白人は抵抗しがたい「神のような存在だった」。

3、インド、インドネシア、マレーシア、ビルマを始めとするアジア諸国では、「日本軍が独立の為に戦ってくれた」ことを忘れていない人も多い。インパール作戦など、まさにインド独立の為に、日本がインド国民軍と共にイギリスと戦ったのであり、「我々インド人は、我々のために死んでくれた日本人戦死者に子々孫々まで感謝したい」と言う。インドやビルマの人達は、自分たちの独立の為に日本の青年20万人が死んでくれたと言う事を未だに忘れていない。

4、日本が、アジア諸国の人々に与えた衝撃とは、今まで神のように犯しがたい存在であった「白人が、同じアジア人の軍隊に破れて白旗を掲げた」のを見た瞬間であった。これが、アジアの人々の潜在意識に革命的な転換をもたらした。

アメリカが虐殺した日本人の声を聞け!

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/28 07:44 投稿番号: [8109 / 8458]
その火事場に中学校の生徒がいっぱい、
檻〈おり〉(木のわく)に押えられて下敷きになってんですよ。
足も手もバタバタ、こうしてるのが下から見えるんですよ。
傍〈そば〉が、火が、ドンドン燃えとる。
そこをやっと通って後ろを向いたら、
そこは焼けきってしまって、向こうへ移ってましたからね。
全部の学生は、そこで焼け死んだいう事になるんですね。

そしてこの広い道路は、全然、隙〈すき〉の無いだけに、
何千人の学徒〈がくと〉が、ワーッと来たんです。
真っ裸の者が、全部ですけど、5人に1人位は
血だるまになってる子がいるんです。
そして女と男の区別は全然つかないんです。
皆もう真っ裸になって、女の子の髪がポンと空向けに
パッと上向いてるんです、立ってるんです。
ほいで、あの子は女の子じゃという区別しかつかない。
そしてもうワーッ…

それが地下壕〈ちかごう〉の上へ、建物が潰〈つぶ〉れたもんですから、
その地下壕〈ちかごう〉の中の、奥の方に居る人や、
小使室〈こづかいしつ〉の方でマゴマゴしてる女達や、
小使いのお年寄り夫婦なども、皆、生き埋めになったわけ。
下で『助けてー、助けてー』
『誰それさん助けてー、お母さーん!!』と云う声が
地底から聞こえるんです。
それを助けようにも道具が無い、つるはし一つ、何も無い訳〈わけ〉です。
一瞬になくなってしまった。
それがもう、皆、逃げ切れないわけです。

ところが間もなく気が付いた時、辺り木材が、
全部火を含んでおって、火災となった。
その熱気が、今度は我々の身体へ反射しまして、耐えられなくなった。
『とり巻け!』と、もうこれ以上は我々も共死にすると、
火に囲まれてしまった、と。
皆…、皆、念仏〈ねんぶつ〉を唱〈とな〉えよ!   という事で、期せず、自発的に
『南無阿弥陀仏〈なむあみだぶつ〉、南無阿弥陀仏〈なむあみだぶつ〉』と云って、
生き残りが下で地底で泣き叫〈さけ〉ぶ『助けてー、助けてー』と云う、
その、食い入る様な、後髪引かれる様な気持ちで…

まだ生まれて間もない赤ん坊を抱いて、
こぅ、来るのを見たところ、
赤ん坊が、全身もうひどいケガをして、
真っ赤になってるんです、血でね。
「アメリカの野郎め、酷〈ひど〉い事をしやがるな」と思ってもう、
本当その時になって初めて怒りが燃え上がって来たんですよ。
それから。私達の部隊の演習場〈えんしゅうじょう〉を、ずうっと入って行ったら、
夥〈おびただ〉しいヤケドをした人達が居る。
薬らしい、薬は無いんです。
なにか、黒い油みたいなモノを背中に塗ったり
ヤケドしたとこをズーっと塗ってたんだけどね。
そしたらもう広島駅の方から、俗にいう、ユーレイ、皆手を上げて、
ブルブル震〈ふる〉えながら、焼けた服着て、ゾロゾロゾロゾロ来るんですよ…

http://www.geocities.co.jp/s20hibaku/link/link_1.html

アメリカの大犯罪原爆投下「被爆者の声」

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/28 07:19 投稿番号: [8108 / 8458]
ありゃまぁ、どうした(どのような)爆弾落としたのだろうか、
思うておって暫〈しばら〉くしてると
向こうの方から破れ着物を着た人が、こっからか血を流した人、
パーっと手の先が、皮膚が垂れておる、ぶら下がっておる人、そういう人、
女でも髪を乱した人が、
半裸体〈はんらたい〉ですね、半裸体〈はんらたい〉になって人が次々次々、
ダラーッと首を垂れてやって来おるんですよ。
女学生なんかがスカートを、破れたヤツを、手を覆〈おお〉う様にして、
それがズンズンズンズン続いて来る、
それがもう何十、何百なのか続いて来る。
これはもう酷〈ひど〉い事じゃ、それを見ると、
もう、本当、私共はこの世ながらの、いわゆる地獄ではないか…


空がすごく暗くなりましてね。暗くなったいうのが、
日食ですかね、あれ全部、お日さんが隠れますでしょ、
そん時暗くなるでしょ、あれ位だったか、
あれよりまだ暗かったか思うんですが、
空は真っ黒い雲ですね。
皆、煙突から抜け出た様に、煤〈すす〉もぐれのような感じで、
髪は逆立ちに立ってますし、勿論〈もちろん〉、服なんか真っ黒ですよね。
だからあの時は、灰色よりまだ黒い色と、真っ赤な血と、
いう色しか無かったと思います。

それで雨が叩〈たた〉きつけるように降ってきました。
その中学の1年生、2年生位のちっちゃいのが、全身もう焼けて、
風船の様に膨〈ふく〉れてますね。皮はボロボロ下がってる。
男の子は、帽子被〈かぶ〉ってる所は髪が残ってるんですけど、
その帽子の下から全部ヤケドですから、
髪も溶〈と〉けて無いし、耳も溶〈と〉けた様な感じです。

『もしもし』って呼ぶ子が居るんです。女の子でしたね。
女の子か男の子かわかりませんけど、声聞いてわかりますで。
『雨に打たれて寒いから、何か着る物ないですか?』云って、
云うわけなんですよね…

黒く焼けた人達、真っ黒い丸坊主になったのが、
皮ぶら下げて、手の皮が、丁度〈ちょうど〉ブラブラっと身体に下がってる。
それが列をなして逃げたんじゃないですかね。
その逃げる途中、川が二つありました。
橋が一カ所燃えてたんです。怖がって、皆、川へ入る。
川へ入るもんだから、途中で皆、歩けん様になるんですね、
水の中に入った為に、だから川ん中が、
何かもう埋まってましたね、広い天満川〈てんまがわ〉が。

それから、道路の縁に水槽と防空壕〈ぼうくうごう〉が掘ってあった。
水槽の中へ、ちょっと水を飲もう思うんでしょうな、
水槽…立ったままでね、顔だけ突っ込んで死んでる。
行きよる人は、水の中に手をつけたり顔にかけよる、
そうすると水…、そのままポッと首を突っ込んでしまう。
そんなんが一つの水槽に数人居る。
道端に防空壕〈ぼうくうごう〉掘ってたもんだから、防空壕〈ぼうくうごう〉の中に足をとられてコケるんです。
いっぺんコケるとダメになる。動かん。
目だけ上げて、真っ黒いやら、皆、一杯になっとる。コケるともうダメ。

http://www.geocities.co.jp/s20hibaku/link/link_1.html

東京裁判はデタラメ裁判だった

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/28 06:47 投稿番号: [8107 / 8458]
東京裁判に隠された真実
東京裁判:戦勝国による集団リンチ   〜パール判事が訴えたこと

法の不可遡に反し事後法で敗戦国のみを裁いた
日本を「侵略国」に仕立てるための東京裁判

< 問題点 >
事後法によるもので国際法上違反
「戦争」そのものは犯罪ではない。第二次大戦後の多くの戦争も責任者は裁かれていない。
「戦争」は国家行為であり、個人の行為ではない。

戦勝国の戦争犯罪不問
裁判長は「東京裁判は日本を裁く裁判であって、連合国を裁くのが目的ではない」とし、日本弁護側の主張や証拠書類は悉く却下された。
中国側の出した証拠書類や証人の証言を偽証罪なしでそのまま認めた。
11人の判事はすべて連合国側の人間であり、国際法の専門家はインドのパール判事のみ。
パール判事だけが日本を擁護し全員無罪を主張した。

ポツダム宣言は「有条件」
戦争犯罪についても同宣言10条の「我らの俘虜を虐待した者を含む戦争犯罪人」だけが対象になる。
  ↓
ポツダム宣言以降に作られた「平和に対する罪」「人道に対する罪」は仮にあったとしても日本には適用できない。

共同謀議の捏造、協定済みの事件の断罪など

  証言
マッカーサー証言
1951年(昭和26年5月3日)   「日本が戦争に突入した理由の大半は安全保障だった」  
トルーマンとの会談でも「東京裁判は平和のため何ら役に立たなかった」と述べたと言われている。

オランダのレーリング判事
「東京裁判は勝者による復讐劇だといったのは、まさに正しかった。・・連合国側の犯罪行為については一切取り上げられなかった」

米国務省のジョージ・ケナン政策企画部部長
「東京裁判はいかさまな法手続きで装飾された裁判のための裁判」

判決1948年(昭和23年)   11月23日   東條英機など7人は死刑、終身刑16人、有期刑2人
7人の死刑は判決の翌月12月23日   巣鴨拘置所において執行された。   12月23日は皇太子(現天皇陛下)の誕生日。

1951年9月   サンフランシスコ講和条約締結    戦犯既決囚の管理が日本政府に移される。
4月7日11カ国は刑の残りを免除を通告   10人が放免された。

パール判事の言葉
1952年(昭和27年)4回目の来日したパール判事の言葉
「日本とドイツに起きたこの二つの国際軍事裁判を、他の国の法律学者がこのように重大問題として真剣に取り上げているのに、
肝心の日本において、これがいっこうに問題視されないということはどうしたことか。
これは敗戦の副産物ではないかと思う。
すなわち一つに戦争の破壊があまりにも悲惨で、打撃が大きかったために、生活そのものに追われて思考の余地を失ったこと、
二つにはアメリカの巧妙な占領政策と、戦時宣伝、心理作戦に災いされて、過去の一切があやまりであったという罪悪感に陥り、
バックボーンを抜かれて無気力になってしまったことである」

パール判事の日本無罪論 (小学館文庫)
結語
「時が熱狂と偏見とを   やわらげた暁には
また理性が虚偽から   その仮面を剥ぎとった暁には
その時こそ正義の女神は
その秤を平衡に保ちながら
過去の賞罰の多くに
そのところを変えることを   要求するであろう」

アメリカ兵の残虐行為

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/27 23:03 投稿番号: [8106 / 8458]
太平洋戦争中の米国による日本人に対する残虐行為は、人種差別に根ざすものだと英国人ジャーナリストのラッセル・スーパーは述べています。

「アメリカ人は絶望的になっている敵国人を殺戮することに、気がとがめなかった。彼らは太平洋において人種戦争を常に派手に戦ってきた。新聞の大見出しになる種を探しているアメリカの高官連中は公然と、日本人を殺すことはシラミを殺すよりも悪いことではないと言明した。
サイパン島バンザイ・クリフの悲劇は米軍の強姦と虐殺が誘発した
  昭和19年7月、サイパン島陥落時に邦人男女が「万歳」を叫んで次々に断崖から海に身を投げて自殺したいわゆる“バンザイ・クリフ事件” 実は米軍による婦女暴行や虐殺が誘発した事件であったことが生々しい自殺説として『我ら降伏せず サイパン玉砕の狂気と真実』田中徳祐著に綴られていた。彼は敗戦後もゲリラ活動で戦い通した元陸軍大尉である。
その手記の一部であるバンザイ・クリフ事件の項を紹介する。

「いまだにジャングル内に残っている日本の兵隊さん、住民に告ぐ。いまかけた歌は、なんと懐かしい歌ではありませんか。みなさんの幼い頃を思い返してください。一日も早く、平和な日が訪れるのを、故郷の父母が待っていることを忘れないでください」
  そしてさらに、「米軍は虐待しません。命が大切です。早く出てきてください」   投降を勧める放送は再三くり返された。   投降呼びかけの放送とはうらはらに、米軍は人道上許しがたい残虐な行為を次々と展開しだした。
  我々は、バナデルの飛行場を見おろせる洞窟に潜んでいた。距離にして1000米くらい先に、上陸してすぐの3月20日から作業をはじめ完成させた滑走路が横たわっていた。しかしいまは米軍の砲爆撃で無惨な姿をさらけだしている。
  そこへ、三方から追いまくられた数百の住民が逃げ込み、捕われの身となった。   幼い子供と老人が一組にされ、滑走路の奥へ追いやられた。婦女子が全員、素っ裸にされた。そして、無理やりトラックに積み込まれた。積み終ったトラックから走り出した。婦女子全員が、トラックの上から「殺して!」「殺して!」と絶叫している。
  その声がマッピ山にこだましてはねかえってくる。
  やがて、次のトラックも、次のトラックも走り出した。   絶叫する彼女たちの声はやがて遠ざかつていった。   ……なんたることをするのだ!   小銃だけではどうすることもできない。もし、一発でも発砲すれば敵に洞窟の場所を知らせることになる。この悲劇をただ見守るより仕方ない。(この婦女子はその後、1人として生還しなかった)
  婦女子が連れ去られたあと、こんどは滑走路の方から、子供や老人の悲鳴かあがった。ガソリンがまかれ、火がつけられた。飛び出してくる老人子供たち。その悲鳴・・・。米軍は虐待しません、命が大切です。早く出てきなさい……。
あの投降勧告はー体なんだったのか。常夏の大空をこがさんぱかりに燃え上がる焔と黒煙。幼い子供が泣き叫び、絶叫する。断末魔があがる。そのすさまじいばかりの叫びが、中天高くあがり太平洋の波をゆさぶらんばかりである。
  残虐な行為は凄絶をきわめた。火から逃れようとする子供や老人を、周囲にいる敵兵は、ゲラゲラ笑いながら、また火の中へ突き返す。かと思えば、死に物狂いで飛び出してくる子供を、再び足で蹴りとばしたり、銃で突き飛ばしては火の海へ投げこんでいる。

二人の兵隊が滑走路のすぐ横の草むらに置き去られて泣いている赤ん坊をみつけだし、両足を持って、真二つに引き裂いて火の中へ投げこんだ。「ギヤッー!」という悲鳴。人間がまるで蛙のようにまた裂きにされ殺されていく……。彼らは、それをやっては大声で笑った。無気味に笑う彼らの得意げな顔が、鬼人の形相に見えた。
『我ら降伏せず サイパン玉砕の狂気と真実』田中徳祐著からの抜粋

ここにこんな写真がある。
これは1943年の「ライフ」誌に載っていた、南太平洋戦線で戦った米兵が婚約者に送った日本人の頭蓋骨である。

「あれがパリの灯だ」で有名な飛行冒険家のリンドバーグの手記に載っていたが、日本兵の捕虜を飛行場に集め、ブルドーザで生きているまま踏み潰した話、たくさんの日本兵の捕虜を殺害し残飯捨て場に捨てた話、この写真のように日本兵の頭蓋骨をお土産に持って帰るのが流行った話おまけにまだ緑色した頭蓋骨(皮を剥いで間もない)を衣のう(軍隊の大型の袋)に入れていて飛行場で注意を受けた話、大たい骨を削って靴べらにするのが流行った話等。

日本人に対する人種差別意識

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/27 22:49 投稿番号: [8105 / 8458]
あるブログより引用。

ルーズベルト「日本人は獣である」

「マンハッタン計画」をスタートさせたフランクリン・ルーズベルト大統領は、日本人を“劣等人種”として激しく差別していたことで知られている。

一般のアメリカ人の間にも、日本人に対する人種差別意識が蔓延していた。 当時のアメリカの雑誌にはこう書かれていた。

「アメリカ人はドイツ人を憎むことを学ばなければならないが、日本人に対しては憎しみが自然と湧いてくる。これはかつてインディアンたちと戦ったときと同様に自然なものだ。」

「普通の日本人は知性が低く、無知である。たぶん人間なのだろうが、人間であることを示すような点はどこにもない。」

当時、トマス・ブレーミー将軍も、こう演説していた。
「諸君らが闘っているのは奇妙な人種である。人間と猿の中間にあると言っていい。文明存続のために我々は最後まで戦いぬかねばならない。日本人を根絶しなければならない!」

ウィリアム・ハルゼー海軍元帥
日本軍との戦闘に際し「敵を殺せ!敵をもっと殺せ!猿肉をもっと作れ!」
など度々過激な発言を繰り返したことで知られているが、日本への原爆投下
に対しては批判的だった。

ハイドパーク協定
1944(昭和19)年9月18日
フランクリン・ルーズベルト米大統領とウィンストン・チャーチル英首相が
米ニューヨーク州ハイドパークで会談し、日本への原爆投下と将来の核管理について 申し合わせた秘密協定
1972(昭和47)年に初めて公開された
ニューヨーク州ハイドパークの大統領私邸でルーズベルトと会談した英国の
ロナルド・キャンベル大使がルーズベルトから「劣等アジア人種」の品種改良と いうとんでもない提案を受けたと本国に宛てた書簡に書き残している。
「インド系、あるいはユーラシア系とアジア系を、さらにはヨーロッパ人とアジア 人種を交配させ、それによって立派な文明をこの地に生み出していく。 ただ日本人は除外し、もとの島々に隔離して衰えさせる」

トルーマンのカバートへの返事
1945年8月11日
日本人の理解する唯一の言語は、彼らを爆撃することのように思われます。
獣と相対したときは、獣として扱う他はありません。

トルーマン回想録
"Japanese are beast. So are treated as"(「日本人は獣だ。だから、そのように扱った」)
アメリカからみると対独戦より対日戦の方が、はるかに「人種戦争」という面が濃厚であった。
ダワー教授によれば、アメリカ側の、日本人に対するステレオタイプの典型は「猿」であり、野蛮人、劣等人間、人間以下、害虫、と続いた。それは、個性もなく次々とわいてくるものであったという。

原爆投下は人間以下の動物とみなされた日本人の大量虐殺が目的だった

ハーバード大学総長で連邦科学行政官のジェームズ・B・コーナントの提案により、陸軍長官ヘンリー・スティムソン   は、就業労働者が多数いて、周囲に労働者住宅が密集する軍需施設がもっとも望ましい原爆投下の攻撃対象になるだろうと同意した。   これについてネーション誌は次のように解説している。
  お上品な婉曲表現を剥ぎ取って考えれば、この議事録は非戦闘員である労働者とその妻子を殺戮する意図をはっきりと謳っている。これは第二次世界大戦の残虐行為の一部であった。
さら続けて、ネーション誌は指摘する。
  広島は軍事上の攻撃目標ではなかった。住民の大部分は非戦闘員だった。広島を原子爆弾の攻撃目標とするにあたって、米軍参謀部と文官指導層はそのことを正確に予想していた。原爆を投下する第1の目的は、敵の非戦闘員を大量に殺戮することにあり、さらにこれによって生存者を威嚇することにあった。

リンドバーグが見たもの
彼は1944年(昭和十九年)にニューギニアの米軍基地で陸軍将校として四ヶ月過ごしたが、その体験を日記に記して後に「第二次大戦日記上巻、下巻」として出版した。
それによると彼は戦場で見たものにショックをうけた。それは兵士が嬉々として敵を殺したからではなく、米兵が日本兵に対して抱く露骨な人種蔑視の念と、それに基づく残虐行為を目のあたりにしての苦悩であった。
たとえ敵味方に別れて戦い軍服に違いがあるとしても、敵の人間としての勇気は勇気として、兵士の使命は使命として認めなければならないにもかかわらず、太平洋地域の連合軍の中には、そうした感情のカケラもないことを発見した。
そこでは士官も兵士も日本人に対する人種差別、蔑視から自分達と同じ人間とは考えず、人間以下の単なる動物としか見ていなかった。

トルーマンという人物像

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/27 10:58 投稿番号: [8104 / 8458]
あるブログより引用。

実は、トルーマンは、もともと、ルーズベルト大統領の副大統領にすぎず、それも、ほとんど偶然のように就いた地位であった。周囲だけでなく、本人も、重責を担う器量があるなど信じていない。それが、ルーズベルトが突然1945年4月12日に病死すると、トルーマンは大変ショックを受けた。意図せず、自分が、ある意味世界で最も重い責任を負わなくてはならなくなったからである。マスコミはすかさず、新大統領の経験のスキルの不十分さを揶揄した。それで、トルーマンは意地になって男らしく素早く決断しようと強がった。

トルーマンは南部の出身で、リンカーンが大嫌いだった。とても人種差別的で、日本人を心から軽蔑しようとした。いや、本当はその潜在能力を恐れていたのかもしれない。それで一層、真珠湾攻撃を卑怯だと煽った。バターン死の行進などの捕虜虐待に憤り、硫黄島や沖縄本土決戦の頑強な戦いから、今後も戦争が続くなら、米軍にも多数の犠牲者が出ると憂慮した。そこで、決定的に日本の戦意を挫く武器としての原子爆弾に着目したのである。それはソ連に対する十分すぎる示威にもなる。

実際、ある米軍関係者は、日本本土上陸作戦による米軍の被害を50万人と踏んだ。本土上陸は、1945年10月1日に、九州、と予定されていた。もし、原爆で日本の戦意を挫いて降伏に追い込むなら、それは有意義だ、とトルーマンら首脳は、思った。原爆は、軍事施設ではなく、都市部に落とさなくてはならないとも思った。そのために民間人の犠牲もやむをえない。そこに、トルーマンらの人種的偏見があったのは否めない。

ところが、アイゼンハワー、マッカーサ、レーヒという米軍の指導者達は、戦争の終結に、原爆の使用は不要と思っていた。寧ろ、無条件降伏を要求する代わりに、天皇制の保持を含む条件をつけて降伏を要求することの方が重要と考えた。しかし、当初、トルーマンはそれで同意しなかった。その条件が最期に入れられたのは、グルー元駐日大使の進言による。

一方、マンハッタン計画に携わったオッペンハイマー、シラード、コンプトンなどの物理学者達は、原爆の日本の民間人への使用に反対し始めた。明らかに人倫に悖るというのである。スティムソン陸軍長官も強く反対した。それは、民間人の大量殺傷となって、フェアプレイの精神に悖る。下手したら後世、米国がヒットラー・ドイツ以上の残虐国家として記憶されるかもしれない。その信頼失墜は覆いがたい、というものであった。

しかし、バーンズ国務長官ら強行派の意見を留めるのは難しかった。ジャップをやっつけろ、の乗りである。いろいろな意見を聞いていたトルーマン大統領は、昔からの知り合いでもあるバーンズに弱虫と思われたくなかった。それで、俺は男だと言わんばかりに、1945年7月25日に、ついに日本に原爆を落とす決断を下した。

1945年8月6日の夜、テニアン島では、能天気な兵士どもによって、祝賀パーティが開かれた。しかし、爆弾装備を手伝った物理学者達は、祝賀パーティへの出席を拒んだ。恐るべき兵器の開発に関与した物理学者のほとんどは、深い悔恨の念を共有したのである。

さて果たして原爆投下が、日本の無条件降伏受諾を早めたのかどうか、その判断はまだ歴史的に決着がついていない。なぜなら、「終戦秘史」下村海南、講談社学術文庫によると、天皇の玉音放送を力ずくで阻止しようとした軍部の一部の不逞の輩は、原爆投下の事実は知らなかったからである。ただ、天皇のご聖断の決意を強めたのは確かであった。

一方のトルーマンであるが、大統領の職から降りても、原爆投下決定のことで後悔したという、そぶりは全く見せなかった。寧ろ、ベストの判断だったといい続けた。しかしそれは精一杯の虚勢であったかもしれない。なぜなら、後年の取材で広島のことが話題に出ると、動揺の色を隠せなかったという。

私は責任をとるという意味をときどき考える。トルーマンは一体、どうやって来世に亙って、この巨大な責任をとるのだろうか。あるいは、天は、トルーマンに責任はないと見過ごすのだろうか。

ともあれ、トルーマンは、原爆投下決定を決定をした空前絶後の首長であるべきである、これだけは言える。

原爆投下の正当性について

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/27 04:43 投稿番号: [8103 / 8458]
あるブログより引用。

原爆投下がソ連に対する抑止力というのは間違いであろう。何故なら少なくとも当時のアメリカはソ連に対して戦友としてよい印象を持っており、例えば日本占領時に於いて日本側が捕まえていた社会主義者やソ連のスパイらを解放して彼らを『反戦』を唱えた英雄に祭り上げ、日本の間接統治に利用している。他にも戦争直後におけるアメリカの行動には、ソ連や社会主義者らに対して敵対するような行動は皆無といっていい。このような実例は多いのだ。ソ連との関係が悪化したのは朝鮮戦争以後のことである。
  そもそも、もし仮にアメリカがソ連に対して何らかの警戒心が存在していたら、日米戦争自体起こらなかったはずである。何故なら当時のアメリカ国内における親日派の人たちは『社会主義に対抗するために日本と協調するべきだ』と声高に叫んでいたのである。それを無視して日本との戦争を望み実現したのはアメリカ自身ではないか。そんな彼らが『ソ連脅威論』を支持するわけがない。そんなことをすれば日本と戦争をしている自分達の行為そのものを否定してしまう事になるからである。日本が正義である事を認めてしまう事になるのである。
  因みにアメリカがソ連の参戦よりも早く原爆投下を急いでいた事は知られているが、それは単に日本という領土の取り分を独り占めにしたかっただけである。ドイツをソ連と半分に分ける事になってしまった事から、最低限日本だけでもアメリカが独り占めにしなければ、今回の戦争に使った費用の利益が出ないからである。赤字になるからである。ただそれだけなのだ。ソ連と利益の取り分の競争をしていただけなのである。ゲーム感覚だったわけである。彼らにとって戦争とは楽しい楽しいゲームであり、野球と同じスポーツの一種だったのである。戦争でアメリカ人が日本人を殺してもいいが、日本人がアメリカ人を殺すのはルール違反というゲームを。だからこそ日本への原爆投下は当然であるという認識。これが当時の世界の、そしてアメリカの常識なのである。
  つまり、戦後に於いて原爆投下の正当性に疑問が持たれたことから、その頃には既にソ連との関係が悪化していた事を利用し、正当な理由として捏造され、こじつけられたと考えた方が正しいようである。

Last Updated : 2009-5-17

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原爆で虐殺された日本人は60万人

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/26 20:17 投稿番号: [8102 / 8458]
原爆・長崎・広島の被害者数は,広島40万長崎20万,(現在まで年々原爆被災で死んでいく原爆被災者を含む。)

(1)当時、日本は戦争終結に向けソ連に仲裁を求めていました。ソ連はそれを無視し連合国側となったわけですが、日本政府の関心はもっぱら終戦に向け「天皇の立場」の保障でした。最初のポツダム宣言に保障は書かれていませんでした。返答の期日も明記してありませんでした。

(もっとも原爆投下命令はポツダム宣言以前に出されていましたが)日本側は原爆という具体的なものではなく特殊な強力兵器の一種を米が開発したとの情報は知っていたようです。

アメリカは返事を待たずに二発目の長崎型(プルトニウム)を投下したのですが、その後に連合軍は天皇の地位を保証する旨を通達してきました。そして終戦です。

広島の被害(原爆の正体)が分る前に二つ目が落とされた事、軍が政治を握っていた事も”動き”が遅くなった要因のようです。日本は壊滅状態にあり市民はそれどころ
ではない状態でした。当時の価値観は今と相当の開きがあります。

(2)戦後ラジオなどを使い「真相はこうだ」といった番組が1年近く流されました。GHQによる統治の始まりです。軍関係の事はほとんど「悪」に塗り替えられたようです。様々な記録も軍やGHQにより破棄されました。公的記録が事実ともいえないところです。

アメリカの良心について
当時アメリカはオサマビンラディンに対するように集団ヒステリー状態でした。最初の原爆を自国で実験したときにその威力に驚きはしても計画中止には至りませんでした。中には開発に反対の人も居ましたが少数でした。「世界警察」として強いアメリカを誇りにする軍人に殺人の命令が来れば人としての心は影を潜めるのでしょう。

現場が彼らを動かしたのです。もちろん宋美齢が涙ながらに教会で巡礼をしたことは、日本を「東洋の極悪国」に位置付ける格好の材料になったのですが・・・
当時の先進諸国がどの様であったかはすりかえられているのでしょうね。

歴史は作られるとは良く言ったものだと思います。

「原爆投下は多くの命を救った」事を信じる事で殺人者の汚名を着ない(着せない)のですから悪夢は見るかもしれませんし、後の支援は行ってもそのこと自体はどうでしょうか・・資料館で涙を流されるアメリカの方は少数派です。これが現実だと思います。

広島原爆資料館,説明指導員の話をまとめました。

アメリカによる日本人虐殺・原爆の被害

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/26 17:43 投稿番号: [8101 / 8458]
デルタ地帯(三角州)の広島は、爆風や熱線を遮る山などがあまりないため、建物が全焼し倒れたところが広い範囲にわたっています。 浦上谷という谷間に原子爆弾が投下された長崎は、被害が谷部分である北半分に集中しました。広島よりは狭い範囲だったにもかかわらず、爆弾の威力は約2倍だったと言います。

広島はほぼ平坦なデルタ地帯(三角州)の真中に原子爆弾が投下されました。爆風や熱線を遮る物があまりなかったため、爆心地から離れていても外傷を受ける確率は高かったようです。爆心地から1キロメートル熱傷(やけど)をおった人々は一週間以内に死亡したのです。 長崎は三方を小高い丘陵地に囲まれた細長い市街地のほぼ北部に原子爆弾が投下されました。谷間に投下されたため、爆心地から離れるほど外傷を受ける確率は低かったようです。しかし、熱傷(やけど)は広島とは違って爆心地から離れても10%程受ける確率があったようです。

黒い雨

黒い雨は広島だけに降ったもので、被爆後の調査で、爆心地から11〜19キロメートルの範囲で大雨が、15〜29キロメートルの範囲で小雨が降ったと分かりました。この「黒い雨」は、原子爆弾の爆発20〜30分後頃から広島市の北西部に降り始めました。雨の間は夏にも関わらず急に気温が低下して裸や薄着で逃げ回っていた人々は寒くてふるえました。しかも、降り始めの1〜2時間は爆発の時の泥やほこり、すすなどを含んだ黒い大粒の雨で、しかも強い放射線が含まれていて、池や川の魚がたくさん死んで浮き上がったと言います。雨の降った地域で水を飲んだ人の多くは下痢になったりその後雨に含まれていた放射能のため体調を崩したりしました。

後遺症

後遺症の一つにガンがあります。1960年頃から、甲状腺癌・乳ガン・肺ガンなどの発生率の増加が疑われるようになってきました。現在は放射線がガンの発生に重要な関係があると認められる報告もされています。放射線との関係が認められているガンの中でも、乳ガン・肺ガンのように被爆20年後(1965年)に増加が始まったものや、胃ガン・骨髄ガンのように被爆30年後(1975年)に増加したものもあります。『被爆したときの年齢が若いほど、ガンになりやすいとされています。』

白血病は後遺症の一つで、後遺症の中ではもっとも早い被爆5年後(1950年)に発生率が高くなり始めました。『白血病とは血液を作り出す役目をしている骨髄が、何らかの原因で白血球を無限に作り続けてしまう病気です。』白血球が増殖し続けると、正常な機能を失ってしまい、病原菌が入ってきても抵抗しにくくなくなります。広島や長崎は近い距離で被爆した若い人たちが多くかかり、放射線による血液の後遺症と考えられるようになりました。被爆から5年後の1950年に発病する人が多く、原爆による後遺症の代表として人々に不安を与えました。
後遺症は他にも、ケロイド・体内被爆・原爆白内障があります。

放射能

原子爆弾最大の被害は放射線による放射能障害です。放射能は人の体の奥深くまで入り込んで細胞を破壊したり、血液を変質させます。それとともに骨髄などの血を作る機能を破壊して、内臓を侵すなどの大変重度な障害を起こす原因となりました。『放射線を遮る物のない屋外で被爆した場合、爆心地(島病院)から1キロメートル以内にいた人々は放射能による高度の障害をうけ、1〜2キロメートル以内にいた人々は中度の障害をうけ、2〜4キロメートル以内にいた人々は軽い障害をうけました。』うえの表を見るとたとえ屋内でも木造だと放射能によって後に10〜50%の確率で障害が起こるということがわかります。放射能による障害は、爆発して1分以内に出された爆発とともに出た放射能(初期放射能)によるものと、黒い雨や灰などに含まれ、呼吸などにより人体に入った放射能(残留放射能)による物の2種類に分けられます。初期放射能の影響で、爆心地から焼き1キロメートル以内にいた人々は重度の影響を受けて、多くの人は数日たつと死亡しました。また、けがをまったくしていなくても被爆後何年か経過して発病し、死亡することもありました。残留放射能によっても、初期放射能と同じようになったり、被爆後広島に入ってきた人々の中に直接被爆した人と同じようになる人も現れたのです。

アメリカの最大の日本人虐殺は原爆投下

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/26 17:09 投稿番号: [8100 / 8458]
原爆による被害は、熱線、爆風、放射線の影響の3つに大別されます。直接被爆した人は市民、街に入った人、軍人をあわせて約35万人にのぼると推定されています。正確な被害を特定することはできませんが、1945年の終わりまでに約14万人前後が亡くなったと考えられています。爆心地から半径2キロ以内の建物がほとんど焼き尽くされ、破壊されました。

(1)熱線による被害
 
原爆の爆発の瞬間、空中に発生した火球は1秒後には直径280メートルの大きさとなり、表面温度も7000度にも達しました。

▽人への影響

爆心地に近い所にいた人は、原爆の爆発を黄色がかった赤色と感じ、遠くにいた人はマグネシウムの燃焼のような青白色の感じだった、と言います。爆発で放射された強烈な熱線は、爆心地から3.5キロメートルまでの地域にいた人々にひどいやけどを負わせました。特に、爆心地から約1.2キロメートル以内でさえぎるものがないまま熱線の直射を受けた人は、皮膚が焼きつくされ、体内の組織や臓器に致命的なダメージを受けたため、そのほとんどが即死か数日のうちに亡くなりました。

■中学生の残したツメと皮膚
 
県立広島第二中学枚1年生の手島範明(てしま・のりあき )さんは、爆心地から600メートルの中島新町で建物疎開作業中に被爆。全身の皮膚が垂れ下がるほどの大やけどを負い、友人に助けられて帰宅しました。のどの渇きに耐えかねてか、ツメのはがれた指先から出るウミを吸ったといいます。苦しみなから、翌7日に亡くなりました。母親がツメと皮膚の一部を出征中の父親への形見として残しました。

私の強みは、アメリカ批判も中国批判もできること。

あなたの弱みは、アメリカ批判はできても中国批判はできないこと。

日本兵が捕虜のアメリカ兵に加えた虐待

投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/02/26 13:14 投稿番号: [8099 / 8458]
太平洋戦争で日本兵が捕虜のアメリカ兵に加えた虐待の実態を詳細に描くノンフィクションだ。
アメリカ人の反日感情を確実に高めるに違いない本書が今、アメリカでよく売れている。
ニューヨーク・タイムズ紙の週間ベストセラーリストの単行本ノンフィクション部門で
トップ5に13週連続でランクイン。直近は2位に落ちたが、それまでは6週連続でトップだった。

本書は、次のように具体的な数値をあげ、日本による捕虜の扱いが、ナチス・ドイツよりもひどかったと断じている。

「東洋を暴れ回った日本は、想像を超える規模の残虐な行為と死をもたらした。
その最たるものが戦争捕虜の扱いだった。日本はアメリカ兵やイギリス兵、カナダ兵、
ニュージーランド兵、オランダ兵、オーストラリア兵ら約13万2000人を捕虜にした。
そのうち3万6000人近くが死んだ。4人に1人を超える確率だ。特にアメリカ兵の捕虜の待遇がひどかった。
日本に捕らえられた3万4648人のアメリカ兵のうち、37%超に相当する1万2935人が死んだ。
ちなみに、ナチス・ドイツやイタリアに捕らえられたアメリカ兵のうち、死亡したのはわずかに1%だった」

「何千人もの捕虜たちが、殴られたり焼かれたり、銃剣で刺されたり、こん棒で殴られたりして
殺され、銃殺され、人体実験で殺され、人食いの風習で生きたまま食われた。ごくわずかしか食事が与えられず、
不潔な食品や水のために、さらに何千人もの捕虜たちが餓死し、容易に予防できるはずの病気のために亡くなった」

捕虜に対する虐待がなぜ日本軍では日常的に行われたのか、本書は次に引用するように日本軍の特異なカルチャーにその原因の一端をみる。
「当時の日本陸軍では、下士兵に対する殴打は日常的に行われていた。『鉄は熱いうちに打て。兵士は下っ端のうちになぐれ』ということが
兵士の間ではよく言われていた。『殴られてはじめて強い兵士ができあがる』とも言われていた。」

兵士たち自身が、日常的に殴られた経験があるため、そのうっぷんが捕虜に向かったというのだ。

人民裁判のつづき

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/26 01:30 投稿番号: [8098 / 8458]
中国で蒋介石が「徳を以って恨みに報いる」と言ったなどというのはまったくのウソで、北京や南京など10ヶ所で「戦犯法廷」が開かれた。
毎日新聞特派員佐藤亮一氏の獄中記「北京収容所」にはこうある。
「徹底的に復讐する」
「口惜しかったらなぜ戦争に負けた」
という以外のなにものでもない。
奇怪な妖術にも似た裁判が続き、もちろん日本や第三国の弁護人の立会いは許されず、形式的につけられた国民党側弁護人から検察官や裁判官の言い分を「あのように言っているのだから、あきらめなさい・・・」式の慰め(?)の言葉がかけられ、翌日の新聞には仰々しくいうならば、仇を取ってやったぞといわんばかりの報道をさせたり・・・(中略)・・・われわれは死刑囚と同居し、その一人一人が刑場に引かれていくのを見、犬猫も顔をそむける食物に肉体は骸骨のように痩せ衰え、病人や発狂者が続出する中で酷寒と酷熱の春夏秋冬・・・。
量刑はわいろ次第、身代金目的で何の罪もない資産家が捕らわれるなどはザラだった。
死刑の前には市中を引き回され、刑場に着くまでに半死半生となった。
死刑は大衆の見物する中での銃殺。
射手はわざと急所をはずして撃ち、苦しめるだけ苦しませた。
いくら戦勝国が日本人を虐待しても、こんな文化は中国以外にない。

通州事件つづき4

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/25 21:23 投稿番号: [8097 / 8458]
在留日本人380名中、惨殺された260名。
  冀東防共自治政府2ヵ年足らずの歴史は、ここに通州事件という世紀の惨劇をもって幕を下ろした。
  中国人が日本人を虐殺した数多くの事件の中でも、その凄惨なることで通州事件をしのぐものはない。
  その残忍なること、悪鬼すらかくまではすまじ、と思われる極悪の所業であった。
  通州事件は冀東政府の保安隊が、日本機に通州の兵舎を爆撃され、疑心暗鬼になって起こした反乱であるとの説が我が国では流布している。
  つまり誤爆した日本側に責任がある、とする例の日本悪玉論の亜流である。
  だが、日本軍誤爆説は昔日のものであり、もはや中国でさえ通用しない。
  誤爆があったのは昭和12(1937)年7月27日だが、誤爆を知った細木特務機関長は直ちに冀東政府長官・殷汝耕を往訪陳謝すると共に、自ら現場を視察し、遺族の弔慰に奔走、翌28日保安隊教導総隊幹部一同に対し、誤爆原因について釈明、慰撫に努めている。誤爆原因説では保安隊の反乱やその後の日本人大虐殺は説明し切れず、通州事件の説明はいま一つ釈然とせぬものが残っていたのだ。
  ところが近年になって、通州事件は冀東保安隊第1、第2総隊の計画的行動であることが中国側史料によって明らかとなった。
  例えば、張慶余(当時冀東保安隊第1総隊長)の「冀東保安隊通県決起始末記」(元国民党将領抗日戦争体験記叢書「七七事変」所載)や「戦火蔓延、平津陥落」及び「冀東保安隊の決起について」(武月星他「盧溝橋事変風雲偏」)等である。
  詳細は割愛するが、要はこうである。
  昭和10(1935)年11月に冀東防共自治委員会が成立して河北保安隊が冀東保安隊と改称されるや、第1総隊長・張慶余は河北省主席・商震に指示を仰いだところ、暫(しばら)く表面を糊塗(こと)すべしと言われた。
  12月、冀東政務委員会が発足して宋哲元が委員長に就任すると、張慶余は第2総隊長・張硯田と共に哥老会(かろうかい、明代からの秘密結社)の首領・張樹声を通じて宋哲元と面会した(張慶余・張硯田ともに哥老会会員)。
  宗哲元は両名の抗日決意を「政府を代表して」歓迎すると述べ、軍事訓練を強化して準備工作をしっかりやれと命じ、各々に1万元を贈った。
  2人が「委員長に従って国家に忠誠を尽くす」旨(むね)を述べると、宋哲元は「素晴らしい、素晴らしい」と言った。
  通州での決起はこの会見と関係がある―――こう張慶余は告白しているのだ。
  翌昭和11(1936)年春には、張硯田の第2総隊内にすでに中共支部が結成されていた。
  宋哲元との会見以後、冀東保安隊は29軍(宋哲元軍長)と秘密裡(ひみつり)に連携を保ったが、昭和12(1937)年7月盧溝橋事件が発生すると、張慶余は河北省主席・馮治安(ひょうちあん)に指示を仰いだ(宋哲元は北京に不在)。
  馮は第29軍の開戦に呼応して通州で決起し、同時に一部保安隊で豊台を側面攻撃して狭撃の効果を挙げようと指示すると共に第29軍参謀長・張越亭と連絡せしめ、張越亭は直ちに冀東保安隊第1、第2総隊を戦闘序列に編入した。
  他方、張慶余、張硯田両総隊長は、通州特務機関長細木中佐が、第29軍の通州攻撃を防ぐために開いた軍事会議の席上、密かに示し合わせて細木機関長を欺(あざむ)き、分散していた配下の保安隊を通州に集結させるよう提案した。
  両名を信頼していた細木中佐はこれに賛成、かつ散在していた日本居留民を保護するため通州に集合させたのであった。
  欺して準備が整うや、7月28日夜12時を期して通州城門を閉鎖し、一切の交通、通信を遮断して決起に移ったのである。
  中国側の最新史料によれば通州反乱に至る事情は大要先の通りである「誤爆」などどこにも出てこない。
  通州事件は2年間にわたる秘密裡の計画に基づく日本人襲撃事件だったのであり、日本機に兵舎を誤爆され、疑心暗鬼となって保安隊が起こした事件などでは全然ない。

通州事件のつづき3

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/24 22:32 投稿番号: [8096 / 8458]
支那駐屯歩兵第2連隊小隊長として7月30日、連隊主力と共に救援に赴(おもむ)いた桜井文雄証人によれば、
  「守備隊の東門を出ると、ほとんど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっており、一同悲憤の極みに達した。「日本人はいないか?」と連呼しながら各戸毎に調査していくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体がそこここの埃箱(ゴミばこ)の中や壕(ごう)の中から続々出てきた。ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され惨殺されていた。婦人という婦人は14、5歳以上はことごとく強姦されており、全く見るに忍びなかった。旭軒では7、8名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されており、陰部に箒(ほうき)を押し込んである者、口中に土砂をつめてある者、腹を縦に断ち割ってある者など、見るに耐えなかった。東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせてそれに8番鉄線を貫き通し、一家6人数珠つなぎにして引き回された形跡歴然たる死体があった。池の水は血で赤く染まっていたのを目撃した」
  実に悪鬼も目をそむける酷(むご)たらしい淫虐(いんぎゃく)の情景が次々と証言されて行った。それは正しく悪獣も及ばぬ極悪無道の所業であった。

  (注)お決まりの虐殺方式   上の東京裁判証言に明らかな如(ごと)く、通州事件でも、頭部切り落とし、眼球抉(えぐ)り取り、胸腹部断ち割り、内臓引き出し、陰部突刺など支那軍特有の猟奇的虐殺が日本人に対して行われている。日清戦争以来、お決まりの惨殺パターンと言ってよい。

前文中の「南京事件」について

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/24 22:21 投稿番号: [8095 / 8458]
1937年12月の日本軍による南京占領時の
いわゆるウソの「南京事件」(南京大虐殺)ではなく、
1927年3月24日に中国の国民革命軍第6軍と第2軍が
南京を占領したとき、日本人が被害を受けた南京事件。

■1927年の南京事件■1927年(昭和2年)3月24日

昭和2年(1927年)蒋介石は、
他の軍閥を倒して中国を統一する為、北伐を開始しました。
この北伐は中国の国内問題ですから、
日本としては干渉する気はありません。

ただ一つ問題があります。それは中国軍の常として、
軍が都市を通過する際、
略奪・強姦・殺戮・放火など乱暴・狼藉を働らく事です。
従って警戒しなければなりません。

ところが南京の森岡領事は、今の平和主義者と全く同じ考えで
★「こちらが友愛で接すれば、相手も友愛で返してくれる」
と信じている人でした。
だから《過度に防備を備えて相手を刺激してはいけない》
と考えていたのです。

その結果どうなったか、
そこの所を児島襄著『日中戦争』で見てみましょう。

森岡領事は、国民革命軍が入城した以上
「十中八九危険は去った」と判断し、
荒木大尉に"武装"の撤去を求めた。

午前七時ごろ、約三十人の国民革命軍兵士が訪れ、
敗兵の所在を訊ねたが、不在と聞くと黙って去った。

日本人一同が安心していると、
約三十分後、五十人程の兵士が「疾風の如く」領事館に乱入して、
警察署長木村三畩の所持品を奪い左腕に貫通銃創を負わせた。
同時に居合わせた陸軍武官根元博少佐も腰を銃床でなぐられ、
署長と少佐は領事の病室に避難した。

二人が逃げると呼笛が鳴らされ、
すかさず平服の女性と青年を先頭にした兵士達約二百人が
喚声をあげて領事館内になだれ込んだ。
掠奪品運搬の為、トラック、馬車、人力車までが続行した。

暴兵と暴民は荒れ狂った。
館内の隅々まで先を争って走り込み、
トランクを開け戸棚を壊して物品を掠奪した。

男女の別なく衣服を奪われ財布・時計・指環は例外なく奪取されたほか、
次々に衣服をぬがされて身体検査をされた。

女性の場合は下着までぬがされて「忍ブベカラザル」検査さえされた。
森岡領事は荒木大尉を自室に呼び
「気の毒ながら各兵の階級章及び帽子の如き標識を一時取り去られたし」
と言った。
荒木大尉は血相を変えた。
国民を外敵から守るのが軍人の本務、
それを戦うなと言うだけでなく軍装まで解けと言う。
「度を過ごしたる無抵抗主義」は、
却って相手の増長心を刺激し暴行を激化させる。
そう思ったが「在留民の生命が風前の灯だから」と
病床に深々と頭を垂れる領事を見て承知した。

森岡領事の病室にも暴兵が乱入し、
室内の品を奪ったあと領事の布団・寝間着も剥いで行った。
一人の暴兵が領事めがけて威嚇射撃を行い、
居合わせた邦人数人が逃げ領事の他、
夫人・木村三畩署長・根元博少佐の三人が残った。
「外に出よう」   領事がベランダに出たとたん
一人の暴兵が走り込んで来て、
木村署長は左胸を銃剣で刺されて階下に逃げ、
根元少佐は後続した二人の暴兵に左腹部・左臀部を刺され、
ベランダ下の貯水槽に転落した。

暴兵達はひとわたり荒し回ると事務所の大金庫に集中した。
こじ開けようとしたが開かないので
館員のだれかれとなく鍵を出せと迫った。
領事夫妻はベランダにいたが、裏庭に避難した邦人達が
「暴兵達が車庫からガソリンを持ち出して放火しようとしている」
と告げたので、
階下に降り金庫の鍵を煙突の破口に投げ込んで、一同と合流した。
暴兵は尚も、一同に迫り交互に銃剣を突きつけて鍵を要求していたが、
午前十時半ごろ、一人の中国人将校が現れて、暴行を制止し終わった。
とあります。本文は長いので抜粋しました。

尚、この様な掠奪・暴行は市内の全ての外国人のいる所で行われた様です。
そして、4月末に領事館を訪ねた佐々木少佐は
「…金物という金物はドアのハンドルにいたるまで取り外し、
窓枠の木材、ガラス、床板すべてが持ち去られ…」と記録しています。

また、女性に対する「身体検査」というのも
本当は強姦の事実を隠す"外交辞令"で、
実際には27人に輪姦された婦人もいるとの事です。
この事件で屈辱的な「無抵抗」を強いられた荒木大尉は自決しました。

通州事件のつづき2

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/23 22:11 投稿番号: [8094 / 8458]
悪獣も及ばぬ猟奇の惨殺劇

  中国保安隊は我が守備隊や特務機関を攻撃したのみならず、日本人居留民の家を一軒残らず襲撃し、無辜(むこ)の居留民(多数の老幼婦女子を含む)に対して略奪、暴行、凌辱(りょうじょく)、殺戮(さつりく)などおよそ残虐の限りを尽くした。
  中国兵特有の猟奇的な殺害、処刑の場面が白昼堂々、各所で展開された。
  その凄惨(せいさん)なること、かつての南京・済南両事件を上回り、我が軍の危惧(きぐ)した通り、尼港事件の再現となったのである。
  東京裁判で弁護側は、同事件に関する外務省の公式声明を証拠として提出したが、ウエッブ裁判長はこれを却下した。
  所謂(いわゆる)"南京事件"で裁判長が中国側の公式資料を証拠として採用した事を考えると、公平を欠いた裁判指揮であった。
  しかし虐殺現場を目撃した証人の宣誓口供書は受理されたので、そこから惨劇の一端を拾い出してみよう。
  当時、天津歩兵隊長及び支那駐屯歩兵第2連隊長で、7月28日の南苑戦闘に参加した後、30日午後通州に急行して邦人救援に当たった萱島高証人は凡(およ)そ次の如く証言した。
  「旭軒(飲食店)では40から17〜8歳までの女7、8名が皆強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されており、その中4、5名は陰部を銃剣で刺殺されていた。商館や役所に残された日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものだった。」
  まさになぶり殺しではないか。
  中でも悲惨を極めた旅館・近水楼での惨劇について通州救援の第2連隊歩兵隊長代理を務めた桂鎮雄証人の供述は次の通り。
  「近水楼入口で女将らしき人の死体を見た。足を入口に向け、顔だけに新聞紙がかけてあった。本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥(は)がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、4つ5つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。陰部は刃物でえぐられたらしく、血痕が散乱していた。帳場や配膳室は足の踏み場もない程散乱し、略奪の跡をまざまざと示していた。女中部屋に女中らしき日本婦人の4つの死体があり、全部もがいて死んだようだった。折り重なって死んでいたが、1名だけは局部を露出し上向きになっていた。帳場配膳室では男1人、女2人が横倒れ、或(ある)いはうつ伏し或いは上向いて死んでおり、闘った跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のようだった。女2人はいずれも背部から銃剣を突き刺されていた。階下座敷に女の死体2つ、素っ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突の跡を見た。1年前に行ったことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素っ裸の死体があった。その裏の日本人の家では親子2人が惨殺されていた。子供は手の指を揃(そろ)えて切断されていた。南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の死体が路上に放置してあったが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた」

(注)近水楼を襲撃したのは武装した黒服の学生団と保安隊であった。彼らは女中数名を惨殺、残る10数名の男女従業員・宿泊客に対して金品を強奪した後、全員を麻縄で数珠つなぎにして銃殺場に引き出し、処刑したのであった。
  その凄惨極まる処刑場の情況については、当時だれ1人これを知るものもなかったが、当日近水楼に泊まり合わせた同盟通信特派員・安藤利男氏が命がけで銃殺場から脱走し、北京にたどり着いた結果、世界はその実相を知ったのであった。

中国人による日本人虐殺事件・通州事件

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/23 21:54 投稿番号: [8093 / 8458]
盧溝橋事件発生から3週間後の7月29日、北平(北京)東方の通州で中国保安隊による大規模な日本人虐殺事件が発生した。
  世に言う「通州事件」である。
  中国に気兼ねする余り、我が国の歴史学者が口を緘(かん)し、教科書も新聞も雑誌も一行すら書こうとせぬこの世紀の大虐殺―――。
  恨みを飲んで殺された200数十名の同胞への鎮魂の気持ちを込めて、この事件を書き留めておこう。
  通州の冀東(きとう)防共自治政府は、昭和10年、親日家の殷汝耕が南京政府から離脱して創設した政権で、1万余の冀東保安隊を有していた。
  この保安隊は、昭和8(1933)年塘沽(タンクー)停戦協定に基づいて置かれたものであったが、所要以上の人員を有し、また銃と剣だけではなく、機関銃や野砲も持ち、保安隊と称し得る以上の戦闘能力があった。
  さて通州の宝通寺に中国第29軍の1個営が駐屯していたが、7月25、26日廊坊、広安門の両事件が発生するに至って、通州特務機関も、この宝通寺部隊の処理を考える必要に迫られた。
  この部隊は日中関係悪化と共に、去就(きょしゅう)すこぶる曖昧(あいまい)になり、放置しておくのは危険と判断されたのである。
  そこで廊坊事件直後の26日、日本側は宝通寺部隊に対して北平(北京)への撤退を求める最後通告を行った。
  だが中国軍からの回答はなく、遂に27日早朝、我が軍は攻撃を開始、正午までに宝通寺部隊は敗走、潰滅(かいめつ)した。
  ところがこの戦闘で、支援のため飛来した関東軍の爆撃機が、誤って宝通寺兵営と隣接する冀東保安隊幹部訓練所に爆弾を投下し、数名の保安隊員が死亡するという不幸な事態が起きたのである。
  保安隊は我が爆撃機が対地戦闘を開始するや、好奇心から隊員一同が訓練所校庭に飛び出して爆撃を見物していたのだが、飛行機には冀察と冀東の境界線も保安訓練所の位置も分からず、脚下で騒いでいる保安隊を29軍の一味と速断したのも無理のない事であった。
  誤爆の報に接するや、細木特務機関長は直ちに冀東政府の殷汝耕長官を往訪(おうほう)し陳謝するとともに機関長自ら現場を視察、遺族の弔問(ちょうもん)に奔走(ほんそう)した。
  更に翌28日には保安隊教導総隊幹部一同に対して誤爆について釈明し、慰撫(いぶ)に努めたのであった。
  調度、事件の起こった27日頃、デマを流すので有名な南京放送(中国国民政府の御用放送)が「盧溝橋で日本軍は29軍に惨敗し、豊台と廊坊は完全に中国軍が奪還した。中央は陸続、華北の戦野んい兵を進めつつあり、日本軍の潰滅も旬日のうちであろう」と事実と正反対の放送を流した。
  南京政府は最後に「軍事会議の結果、蒋委員長は近く29軍をもって大挙(たいきょ)冀東を攻撃し、偽都・通州を屠(ほふ)り、逆賊殷汝耕を血祭りにすることを決議した」と叫んでいた。
  これは我が北平(北京)特務機関が聴取したのである。
  このデマ放送が北京方面の実情に疎(うと)い通州の中国兵に相当の心理的動揺を与えたことは疑いない。
  通州保安隊は張慶余指揮の第1総隊と張研田指揮の第2総隊であったが、早くから人民戦線運動の影響を受けていた。
  「日本軍敗走」「冀東攻撃」という南京のデマ放送は、彼らの抗日態度を決定的ならしめ、日本側に付いているよりも29軍側に寝返った方が有利であるとの誤った判断を抱かせたに違いない。
  折もおり、通州の日本軍守備隊は、主力が南苑攻撃に向かい、留守部隊は藤尾小隊40名、山田自動車中隊50名、それに憲兵、兵站(へいたん※補給の事)、兵器部その他を合わせて110名程度の微弱な兵力でしかなかった。
  我が部隊の手薄なこの時期を狙(ねら)って、張慶余、張研田の両保安隊は日本軍民への襲撃を開始した。
  夜影に乗じて長官公署を襲って殷汝耕を拉致し、主力は日本軍守備隊を襲撃した。
  我が方の残留兵力は極めて僅少ではあったが、千数百を算する敵の攻撃に対して死力を尽くして戦った。
  守備隊には軽機関銃、小銃、手榴弾があるのみで重火器は無かった。
  保安隊の装備の方が遥かに優れていた。
  守備隊は敵の集中砲火を浴び、死傷者の続出する中で撃退に努めたが、居留民や特務機関まで守る余裕は無かった。
  鬼畜と化した中国保安隊の日本人居留民に対する暴虐は、この間に進行していた。
  また通州特務機関は、1個中隊ほどの保安隊の襲撃を受け、2名の少年給仕(日本人)を含む機関員が死力を尽くして応戦したが、数十倍の敵には抗し難く、遂に全員が壮絶な最期を遂(と)げ、特務機関は全滅した。

人民裁判

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/23 20:31 投稿番号: [8092 / 8458]
人民裁判
  中国共産党の本拠地である延安から若い裁判官がやってきて人民裁判が始まった。日本人には馴染みがないこの様子を紹介する。台の上に日本人が立たされる。満州時代の罪状を民衆に問う。黒山の野次馬の中から「俺達を酷使した」。「俺達を殴った」という声が上がる。裁判長が「どうする」と問うと。「打死!打死!(殺せ殺せ)」と民衆が叫び、これで裁判は終わり。その日本人は背中に「南無阿弥陀仏」と書かれ、馬に乗せられて市内引き回しの上、河原に連れて行かれて次々と銃殺されたという。また、別の満州引揚者から直接お聞きした話だが、当時小学校で仲良しの女の子がいた。ところが父親が警察官だったため、終戦後、多数の中国人がその家を襲い奥さんと小学生の女の子まで連れ去っていった。同級生の女の子は二度とその家に戻ってこなかった。親子3人が中国人になぶり殺しにされたのである。敗戦国民の悲しさで、誰も助けてあげられなかった。

中国人による日本人大虐殺

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/23 02:23 投稿番号: [8091 / 8458]
★   中国人による日本人大虐殺−『日本女性の悲劇』

『満州開拓史』(昭和41年発行)に、『事件別開拓団志望者一覧』が記載されている。避難の途中、中国軍、ソ連軍、満州軍、中国暴民の襲撃などにより戦闘死又は自決した者の内、ほとんどが“全滅”あるいは犠牲者を出した例を一覧にしたものだ。

置き去りにされ、オオカミの餌食になったと思われる日本人の子供達もいた。栄養失調で死ぬ日本の子供達が続出した。昭和18年に、大陸の花嫁として敦賀港から満州に渡ったK子は、満州での生活にも慣れた頃、日本の敗戦を迎えた。開拓村を出発してまもなく、中国人の匪賊の襲撃を受ける。

「これまで親しくしていた中国人の友人も“匪賊”と化して襲ってきました」妻を、夫を、愛する我が子を交戦の場に残して、人々は逃げ惑った。難民収容所の生活は、塩を入れたトウモロコシの粥だけ。栄誉失調で倒れるものが続出し、治安が収まると、クーリキ(苦力)として働かされた。そして、「『日本人は皆殺しだ!』と宣告され、幼児までが『中国語で話せ!』と強要された」

ソ連軍はもとより、それ以上に残酷で鬼畜な所業は、中国・満州側の軍人と国民が、貧しく無抵抗な「日本開拓団民」を、襲撃し、日本女性を衆人監視の前で強姦し、中国人たちの『性奴隷』として働かせ、赤ん坊のオシメまでもぎ取り、虐待し、虐殺したことだ。

氷の原爆

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/23 02:17 投稿番号: [8090 / 8458]
★   ロシア人(旧ソ連)による日本人大虐殺−『氷の原爆』

残酷なソ連軍(現ロシア)に占領された満州とモンゴル、そして国民党と共産党の中国地域にいた日本人は、軍人であれ民間人であれ、生き残るのが難しかった。特に“ソ連軍による蛮行”は、抑留60万人、虐殺6万人というのが通説になっているが、ロシアのジャーナリスト、アルハンゲリスキー氏が書いた『シベリアの原爆』(邦題:『プリンス近衛殺人事件』、新潮社、2000年)という本によりその実状が暴露された。

この本によると、『ソ連による日本人抑留は約100万人に達し、この内40万人が虐殺されたという』シベリアで虐殺された日本人が、アメリカの原爆で殺された死者より遥かに多い為、アルハンゲリスキー氏は、『氷の原爆』と名づけたという。

日本との中立条約を一方的に破棄し、満州に攻め込み、無抵抗な日本兵、民間人を連行して、シベリアの鉄道建設の労働力として、ラーゲリー(収容所)に抑留した。涙も凍る極寒のシベリアで食料も防寒具もろくに与えられず、(日本人は、夏服しか持っていなかった)重労働を課せられ、実に40万人という、夥しい日本人が死亡していったのです。まさに『氷の原爆』です。しかもソ連は、虐殺された日本人死者の数字を誤魔化すだけでなく、スターリンは、『日本人虐殺の証拠を隠滅する為』に、日本人墓地の破壊までやってのけたのです。

食人宴席

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/22 20:41 投稿番号: [8089 / 8458]
食人宴席―抹殺された中国現代史 鄭義(ツェン・イー)

内容は、中国の文化大革命時の広西大虐殺事件を扱っている。
文化大革命のときは「覇王別姫」で見るように、文化人、知識人、金持ちたちが階級闘争の名のもとにリンチされたり、虐殺されたりした。裁判も法律も、さらには理由なども関係なく、目をつけられた者は、狂ったように興奮する群集に「殺せ!」と言い立てられて、咎なくて死んでいったのだ。広西ではそれが虐殺に終わらず、人肉を食べる大宴会になった。中国の広西省では文化大革命時に無実の罪で虐殺された人間は9万人にのぼるという。
文化大革命は1966年から10年も続かなかったのだから、毎日毎日何十人も殺されていたのではないか。
鄭義は食人の3段階を記している。まず、処刑された死体を夜にこっそり解体して、肝を盗んで持って帰るこそこそ段階、高潮期には集会を開いてライブで処刑、その場で解体し、おおっぴらに人食いができた。第3段階に入ると、食人大衆運動期で、人肉が目的であるかのように、糾弾集会が開かれ、言い掛かりをつけて多くの人間を殺し、いや、まだ生きていても肉を削がれていった。手際のよい解体方法まで普及した。
胸のところを「人」の字に切り裂いて、下腹部をドンと踏むと、肝臓と心臓(おいしい部分)がピョンと出てくるのだ。群集は毎日、文字通り度胆を抜くリンチで大宴会をひらいていたのだ。

中国では、人を食ってきた歴史が長く食人が一つの文化だと言うのは知っていたが共産革命や文化大革命のときにも多くの『敵』が食われていたとは、、。

中国人民は、共産党が怖くてしょうがなく人を食べたのか、と思いきや嬉々として『ご馳走』をほおばったようだ。

・・・心臓と肝臓を五寸の刀で刺し腹を切り開いて、足で力いっぱい踏むと、心臓と肝臓がたちまち飛び出してきて切り取って持って行かれた。
続いて、人々はどっと襲い、あっと言う間に人肉がすっかり削ぎ取られたのである。・・・・・・P69


『人民の敵』を食べることは人民の敵を『打倒する』という意味になる

『食人宴席』抹殺された中国現代史
鄭義(ツェン・イー)/著   黄文雄/訳   光文社/93年11月初版

通化事件の最終章

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/22 16:02 投稿番号: [8088 / 8458]
通化事件というのは、大東亜戦争がすでに終結したあと、日本に帰国するために比較的治安のよかった通化市で起こった事件です。

日本に帰国しようとする避難民に対し、支那共産党は略奪強姦の限りを尽くし、我慢の限界を超えた日本人が、武器も持たずに一斉蜂起(2月3日)すると、彼らはこれを鎮圧しました。

そして蜂起とは何の関係もなかった日本人を含め、3千人とも4千人ともつかない日本人を、零下30度の極寒の中で、両手を上げさせて銃剣で追い立て、一部を殺害し、一部を監禁。
監禁された日本人は、せまい部屋に120人ごとに押し込め、さながら満員電車のような身動きできない空間で、酸欠で口をパクパクしている人達を、窓からライフルで撃って殺した。
5日間にわたって、大小便垂れ流し状態で死体とともに立ったまま部屋で監禁されていた日本人たちは、ようやく息も絶え絶えに部屋から出されると、こんどは朝鮮人たちが、こん棒で好き放題に殴りつけました。ある者は殺害され、生き残った者も手足をぶらぶらさせていました。

一週間にわたる拷問と銃殺、あるいは凍死によって、一般の民間人二千人(一説によると数千人)近くが殺された、この通化事件は、支那が捏造している南京事件と異なり、完全な事実です。

しかも、ときは戦時中ではなく、戦争が終わった後、それも武器を持たない一般市民に対して行われた暴虐です。

ちなみにこの事件の際、支那共産党に媚を売り、日本人の密告や財産の強奪の手引きをしていた日本人の共産党工作員がいました。

彼ら工作員は、日本人避難民が乞食同然の生活苦でいたときに、立派な服を着て街を闊歩し、罪のない日本人を売って得意になっていました。

しかし通化事件のとき、その日本人共産党員も、他の日本人と同様、殺され、監禁され、手足の骨を折られています。
悪に魂を売って、一時的な利益を得ても、結局は悪によって滅ぼされる。

通化事件は、たいへんな死傷者を出した大事件です。
記録にもあるように、この事件では、日本人が二千人(一説によると数千人)も殺され、その死体は、夏になっても渾江川に浮かんだ。
大規模な殺害があれば、そういう証拠がいつまでも残るものです。

まして支那や反日主義者が主張するように、南京で日本人が30万人も虐殺を行ったとするならば、その記録や証拠が、いくつも残らなければおかしい。
しかし、そんな証拠はまったくないし、証拠として出されているものも、それが捏造である事実がことごとく暴かれています。

戦後の反日左翼主義者、反日思想家たちは、この通化事件について、日本軍が乱暴狼藉を働いたために、その騒動に一般の日本人民間人が巻き込まれ、たいへんな被害に遭ったと説明しているようです。

しかし、上に述べたとおり、日本人の旧軍人たちが蜂起したのは事実ではあるけれど、彼らは武器すら携帯していなかった。軍刀すら没収されて持っていなかったのです。
そして事件までの半年間、財産を奪われ、家屋に押し入られ、女性たちを強姦され、あるいは殺され、暴行を受け、無理やり共産主義万歳と唱えさせられ、もうどうにもならないところまで追い込まれて、彼ら軍人は、蜂起した。
それに対する支那共産党の報復は、蜂起した軍人の逮捕ではなく、一般人の虐殺だった。
事件が起こったのは、昭和21年です。すでに戦争は終わっています。
日本と支那は、このときすでに交戦状態ではなかったのです。

つまり暴動が起きた、それも武器を持たない市民(旧軍人もこの時点では一般市民)の蜂起であったとすれば、鎮圧は国内の治安維持活動であるはずです。
にも関わらず、支那が行った行為は、暴行であり虐殺でした。
これが非道にあらずして、何をもって非道というのか。

それともうひとつ。
通化事件で、日本人は、たいへんな目に遭いました。

国が亡くなる、支那共産党に支配される。するとどういうことが起こるか。
その実例がこの通化事件にあります。

日本は良くない国だ、という人たちがいます。
支那と仲良くすることが良いことだと言う人たちがいます。
支那、朝鮮、日本を東アジア共同体として、ひとつの国にまとめあげようという人たちがいます。

しかし、実際にそうなったときの実例が、通化事件にあります。

そんなことは何十年も昔の話だろう、という人もいます。

しかし、天安門事件、あるいはウイグル弾圧、チベット弾圧等々。
いまも昔も、支那共産党はなんら変わらない。

通化事件のつづき

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/22 14:53 投稿番号: [8087 / 8458]
この通化事件の情況について

出典は、高崎弥生氏の著書「実録、遥かなる回想」です。

中国八路軍のことごとに理不尽な暴圧に堪えかねた旧日本軍の一部と、在留邦人の中の抗議派の人々が、ついに立ち上がった。
この人たちが、どのような手段で決起したのか知る由もなかったが、総勢、約千名が、2月3日の未明を期して一斉に蜂起した。
この反乱は、わずか数時間の後に完全に鎮圧されてしまった。

血に彩られた旧正月の朝は明けた。
おびただしい死体が各所に散乱していた。

この事件は八路軍に大きな衝撃を与え、日本人に対する怒りは頂点に達した。
これは日本人弾圧の絶好の口実となった。

やがて恐ろしい報復が行われ始めた。
元旦を祝って家族がささやかな朝食についたとき、八路軍の兵士が侵入し、夫たちを引き立てて行った。

通化市内では、16歳以上60歳までの日本人男子は、ことごとく八路軍兵舎その他に集合せよと眼入れされた。市内は恐怖のるつぼと化した。

八路軍側は、抗戦派だけでなく、すべての日本人に対して、仮借なく復讐しようとしたのである。
この反乱にまったく無関係の者も、反乱に反対だった者も、ほとんど差別されなかった。

とくに兵舎の前に集合させられた数百名の日本人は、身震いしておののいていた。
そこにひとりの将校があらわれて、絶叫するように叫んだ。

「今朝、日本人を主とした反乱軍のために、わが軍は多大の犠牲を受けた。諸君は同胞として、その罪を免れることはできない。わが軍は報復として、ただちに諸君を銃殺に処する」

その瞬間、兵舎の窓から十数台の機関銃が一斉に火を噴いた。みるみるうちに、ばたばたと倒れた。
重傷を負って死にきれない者に対しては、容赦なくピストルが撃ち込まれた。
死体は待機していたトラックに次々と積み込まれ、一部は渾江の橋の上から凍結した川面に投げ捨てられ、一部は近くの谷間に投げ込まれた。

逮捕拘引された日本人は、およそ三千人に及び、元憲兵隊の監獄や、公署の防空壕の中に分散監禁された。
監禁された日本人は、狭い部屋に何十人も押し込まれ、身動きすらできない中で大小便垂れ流しのまま5日間もの間立ったままにされた。
苦しさのあまり「出してくれ」と叫んだ者があると、銃弾が撃ち込まれてくる。
発狂する者もあれば、中には立ったまま死んだ者もあった。
しばらくして取り調べがはじまると、ひとりひとり引き出され、反乱軍との関係の有無を詰問される。
そのとき態度が悪かったり、言葉に詰まったりすると、こん棒や革のムチで容赦なく、力いっぱい打ちのめされた。
その場で悲鳴をあげて倒れる者、全身を殴りつけられて意識を失い、ついに動けなくなった者も少なくなかった。
そうすると、そのまま戸外に放り出されてしまう。
酷寒二月のことである。たちまち寒気のために不動のまま凍死してしまった。
やがて材木のようにトラックに積まれ、谷間に投げ込まれる。
するとどこからともなく貧民が集まってきて、硬直した死体から着衣をはぎとってゆく。
全裸の死体は、荷物のように運ばれて、渾江の橋の上から投げ込まれる。
これが毎日のように行われた。
なんという地獄絵図だろうか。
一週間目ごろから、ぽつぽつ釈放者が出るようになったが、帰って来た人も、無傷な人はいなかった。
手を折られた人、足を折られた人、杖にすがってやっと家にたどり着いた人。
帰ってからも発熱のために苦しむ者。凍傷のため、廃疾者同然になった者などが大部分で、五体満足で帰って来た人はわずかであった。

抑留中は精神に異常をきたし声を出すものなどが続出したが、そのたびに窓から銃撃され、窓際の人間が殺害されました。
殺害された者はそのまま立ったままでいるか、他の抑留者の足元で踏み台とされました。
また、数百人が凍傷に罹り不具者となりました。
拘束から5日後、部屋から引き出されると、朝鮮人民義勇軍の兵士たちにこん棒で殴りつけられ、多くが、その場で撲殺されました。
撲殺を免れたものの多くは、骨折した手足をぶらぶらさせていました。
その後、支那共産党軍による拷問と尋問が行われ、凍結した川の上に引き出されて虐殺が行われました。
女性にも多数の処刑がされました。
渾江川の上には、服をはぎ取られた女性の裸の遺体が転がっていました。
男たちが拘束されている間、支那共産党軍の兵士たちは、日本人住居に押し入り、家族の前で女性を強姦することもあり、凌辱された女性の中には自殺するものもありました。

通化事件のつづき

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/22 13:47 投稿番号: [8086 / 8458]
支那共産党軍は、ソ連進駐軍の下請けとして日本軍の脱走兵狩りを行い、男性600人を検挙し吉林へ連行してしまいます。
つまり、通化市を、日本人の女子供と老人ばかりにした。
ソ連軍が撤退すると、通化の支配を委譲された支那共産党軍は、通化市の市役所の幹部職員全員を連行し、旧満州人の役人全員を殺害します。つまり日本人社会の行政機能を奪った。

さらに清算運動と称して、旧満州人たち通化市民の家宅に片端から侵入し、民族を問わず金品を掠奪します。

そして昭和21(1946)年9月22日には、支那共産党軍が、公式な連合国軍であった中華民国政府軍に攻撃を仕掛けて、通化市から駆逐してしまいます。
10月23日になると、支那共産党軍の一個師団が新たに通化市に進駐してきます。
11月2日には、支那共産党軍劉東元司令が着任します。
そして同日付けで、支那共産党軍は、17000名を超える日本人遺留民に対して、収容能力5000名以下しかない旧関東軍司令部へ「全員、移動せよ」と命令します。
移動した日本人遺留民に対し、支那共産党軍は、即日「遼東日本人民解放連盟通化支部(日解連)」の設立を命じました。

日解連は、日本人に対する中国共産党軍の命令下達や、日本人への共産主義教育を担当する支那共産党の下請け組織です。
日解連は、日本人のスパイとなり、支那共産兵に、どこぞの日本人宅には、これこれの財産がまだ隠されている、誰々の家には、美人の娘さんがいるなどの情報を与えた。
しかし、恐怖に縛られ、この手のいわゆる裏切り(分断工作)に応じた人たちも、結局は被支配者であり、しょせんは奴隷にすぎない。
日解連は、支那共産党軍の指示に従い、日本人遺留民の財産を全て没収しようとします。
これに対し、日本人遺留民たちは、正々堂々、最低限の衣類や食糧の確保の嘆願を続けます。
すると支那共産党は、没収を見合わせる条件として、日本人全員が共産主義者になることへの誓約を要求します。
そして11月17日には、支那共産党に応じない元満鉄総裁の大村卓一を、満鉄総裁であったことを罪状として逮捕、投獄した。
この間も、支那共産党の兵士たちは、武器捜索を名目に、日本人の家屋に押し入っては、略奪・暴行・強姦を、連日続けています。

12月23日、日解連の通化日本人遺留民大会が、通化劇場で開催されます。
劇場には、中国共産党万歳、日本天皇制打倒、民族解放戦線統一などのスローガンがおどっています。
大会には、劉東元司令を始めとする支那共産党の幹部が列席し、日解連幹部らも檀上に勢ぞろいした。そこに日本人遺留民3000人が出席します。
議長は、日解連幹部で元満州国官吏の井手俊太郎が務めます。
彼は、「自由に思うことを話して、日本人同士のわだかまりを解いてもらいたい」と、冒頭に発言した。
日解連幹部たちは、自分たちのこれまでのやり方の手ぬるさの謝罪が行われ、「我々が生きていられるのは中国共産党軍のお陰です」などと、連日乱暴狼藉を働く支那共産党に媚びた発言がなされます。

しかし発言を求められた日本人遺留民たちは、その席で、日解連を堂々と非難したのです。
そして明治天皇の御製を読み上げ「日本は元来民主主義である」などの発言を、次々に繰り広げます。
そして山口嘉一郎老人が、
「宮城遥拝し、天皇陛下万歳三唱をさせていただきたい」と提案しました。
会場に、満座の拍手が沸き起こります。
議長が苦い顔で、賛意を示す者に起立を求めました。
会場のほぼ全員が起立した。
そして高らかに、宮城遙拝と天皇陛下万歳三唱が行われます。
万歳のあと、山口老人は、
「我々は天皇陛下を中心とした国体で教育され来たので、いきなり180度変えた生き方にはなれません。ですから徐々に教育をお願いしたい」と述べます。きわめて常識的な発言です。
しかし、その日の翌日以降、大会で発言した者は、全員、支那共産党によって連行され、殺害されてしまいました。

大会から1週間が経過し、年が明けた昭和21(1946)年1月1日、支那共産党の工作員であった内海薫が、殺害されます。犯人はわかりません。

1月10日、支那共産党は、日解連幹部の高級官吏や日本人遺留民の指導者ら140名を、内海薫を殺害した容疑であるとして連行します。
そして全員を抑留した上で、日解連も強制的に解散させてしまった。

1月21日、支那共産党は、日本人4名を市中引き回しの上で、渾江の河原で公開処刑します。
日本人たちが見ている前で、彼らは遺体を何度も撃ち、銃剣で突き刺し、ハチの巣にしたうえで、切り刻みます。

日本人遺留民たちの怒りは、徐々に高まっていきます。

そして昭和21(1946)年2月3日、通化事件は起こります。つづく

中国人による日本人虐殺事件・通化事件

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/22 12:50 投稿番号: [8085 / 8458]
大東亜戦争が終わっても、満洲や朝鮮にいた日本人居留民の引揚者が、無事に日本へ帰ることは容易ではありませんでした。

通化事件(つうかじけん)というのは、終戦の翌年である昭和21(1946)年2月3日に、かつての満州国通化省通化市で、日本人に対して一週間にわたって拷問と銃殺が行われ、あるいは凍死させられ、軍とは何のかかわりもない民間人二千人(一説によると数千人)が殺害された事件です。

加害者は、支那共産党軍と朝鮮人民義勇軍南満支隊(李紅光支隊)、被害者は日本人です。

通化市というのは、いまの北朝鮮と支那の国境付近にあった市です。

終戦時の通化は、中華民国(蒋介石・国民党)政府の統治下に置かれ、満洲国通化省王道院院長を務めた孫耕暁が国民党通化支部書記長に就任し、満州国軍や満州国警察が転籍した中華民国政府軍によって治安が維持されていたのです。

治安が維持されていたから、満洲の奥地から日本に帰国しようとする多くの在留邦人や引き上げのために集まった日本人、17000名が滞在していました。

男は、満洲にソ連が侵攻した際の戦いに出自し、辺境で命を落としたり、シベリアに連行されたりしています。
命がけで、女子供や老人を逃し、そのために命を犠牲にして戦った。

ですから当時の通化にいたのは、男たちが戦って時間をかせいでいる間に、必死に逃げさせた女性や子供、老人たちだったのです。

しかし、彼女たちや老人たちは、無事に逃げおおせたわけではありませんでした。

落ちる途中で、支那人や朝鮮人たちによって、ようやく持ち出した手回り品やわずかばかりの財産全部を奪われ、暴行を受け、強姦に遭い、厳寒の地で衣類さえも奪われ、麻袋に穴を空けたものをわずかに身に着けただけの姿で、ようやく一定の治安が保たれている通化にたどり着いたのです。

通化では、在留邦人がそうした日本人避難民に衣服や住居を提供するなどしていたのだけれど、その通化市居留の日本人ですら、家屋や家財を強制的に接取されるなどしていました。

そこに昭和20(1945)年8月24日、ソ連軍の将校20人、兵士200人が進駐し、市内の竜泉ホテルに司令部を設置します。

この連中も悪かった。
日本人居留民の家屋に押し入り、財物や衣類を奪い、奪うモノがなくなると、日本人女性や少女を強姦し、抵抗する男性や老人は平気で暴力をふるい、殺害しました。

武装解除されたとはいえ、通化市にあった日本軍憲兵隊は、ただ手をこまねいていたわけではありませんでした。

原憲兵准尉は、ソビエト兵が白昼の路上で日本女性を裸にして強姦していた現場に駆け付け、女性を救おうと制止してもソ連兵行為を止めないため、やむなく軍刀でその強姦兵を一刀のもとに斬り捨てました。しかしその場で原准尉は、別のソビエト兵に射殺されている。

そしてこの事件以降、日本人は、憲兵といわず民間人といわず、日本刀も没収の対象となっています。

完全に丸腰となり、身を守る術を持たなくなった日本人遺留民に対し、ソ連の軍司令部は、公然と日本人女性を慰安婦として供出せよと命じてきました。

ご存知の通り、朝鮮半島における従軍慰安婦などというのは、まったくのデタラメな捏造でしかありません。
朝鮮人の女衒たちが、同国人の女性をさらって独身男性が大量にいる日本軍兵舎横で売春宿を開いていただけの話です。
売春が合法だった時代です。

日本兵はちゃんと金を払って彼女たちを買っていました。
ですから、日本兵の給料が将校クラスで25円、兵隊クラスで15円が相場だった時代に、彼女たち売春婦は、2年もすると3〜5万円の貯金ができたのです。
当時のお金で3〜5万円というのは、いまの貨幣価値にしたら3〜5億円の大金です。ですから一家のうちの女の子が日本人相手の売春婦になるというと、当時の朝鮮人は、一族をあげて大喜びした。

しかも日本は、彼女たちによって性病がまん延するのを防ぐために、公費を使って彼女たちの健康診断までしています。
ついでにいうと、当時荒稼ぎできた成功体験から、韓国ではいまでも売春がさかんです。
韓国で床屋に行くと、マッサージ嬢というのが出てくる。売春婦です。床屋でさえ、それが「サービス」になっている。
要するに彼らにとって、売春は成功体験になっている。

偉大なる殺人者・毛沢東

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/22 10:47 投稿番号: [8084 / 8458]
ギネスブックにも載った、人類史上最大の虐殺を行ったスーパーヒーローだな。
3000万人〜5000万人の自国民を殺せるのは毛沢東しか居ない!
偉大なる殺人者だ!さすが支那畜だ!

世界一の人殺し1位毛沢東・2位スターリン

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/22 10:15 投稿番号: [8083 / 8458]
「毛沢東はスターリン、ヒトラーに並ぶ永遠の罪人」
「毛沢東記念堂は大虐殺記念館と改称せよ」

中国で人気絶大の歴史教師、袁騰飛氏が4月下旬、ネットにアップされた映像講義で、毛沢東を痛烈に批判、保守派が袁氏バッシングに出るなど波紋を呼んでいる。袁氏の主張は、毛沢東が築いた一党独裁体制批判に通じるため、当局は当該映像の削除を指示、サイト掲示板の書き込みの規制を始めた。

袁氏は北京の私立精華学校高等部の看板教師で、国営中央テレビの教養番組「百家講壇」の講師を務め、出演番組は常に最高視聴率を記録。その人気に着目した動画サイトは、約2年前から教壇での講義をアップ、これも年間数千万のアクセス数を誇る。軽妙な語り口と大胆な解釈が売りで、ネット投票で「中国で最高の歴史教師」に選ばれた。

今回問題になったのは、市内の予備校での講義。
「文化大革命」を論じたが、文革にとどまらず毛沢東の全面批判だ。

「毛沢東の問題点は、独裁者と同時に教祖になったことだ。20世紀の三大暴君は、毛とスターリン、ヒトラーだが、ヒトラーは外国人を殺したのに、毛とスターリンは自国民を殺した」

「数千万の餓死者を出しながら自己の権力のため原爆を製造したのは、今日の北朝鮮と同じだ。彼の息子(毛岸英氏)が(朝鮮戦争で米軍に)殺されてなければ、今日の中国も北朝鮮の金王朝と同じだったろう」

袁騰飛氏は毛沢東時代を「赤色テロの時代、中国で最も暗黒の時代」と呼び「1949年以降、毛沢東が行った唯一の正しいことは、死去したこと」と断じる。政治的に微妙なチベット問題に関しても「ダライ・ラマがノーベル平和賞を受賞したのは、共産党の武力侵略に抵抗したため」と言い切った。

袁氏は他の講義で、西側の三権分立制ができたのは「絶対的権力は絶対的に腐敗するため」とし、間接的に現体制を批判してもいる。その立場は、2008年に「08憲章」を起草し、懲役11年になった作家の劉暁波氏に近い。

「中国人は人食い人種」異論ありますか?

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/22 00:09 投稿番号: [8082 / 8458]
まず多くの中国の歴史書に堂々と書かれている。
多くの人間料理法が書いてある。
人間を殺すことを屁とも思っていない。
まさに世界史上唯一の食人文化を持っている国である。

文革時代の食人について書かれた「食人宴席」には
「武宣県では、食人事件が流行にさえなった。街頭引き回しデモ闘争があるたびに、老婆たちはかごを下げて、糾弾大会の終わるのをじっと待っていた。人間が殺害されると死体に競って群がり、なるべくいい人肉を切り取って持っていく。遅れてきた者は人肉を切り取れないので、骨まで持っていく。人肉を食べた者は幹部の中でも少なくなかった。
略)
もっとも残虐な食人事件は、生きているままで腹を裂き、まだ息絶え絶えなのに肉一切れ一切れを削ぎ落とし、その人肉を油で揚げて食べるということだろう。」P六二〜六三
「陳は最初、腹を裂き、肝を取り出すことができなかった。どういうふうに手を下せばよいかを知らなかったのだが、そのとき、一人の年寄りが彼に人肉と肝を切り取る要領を教えたという。腹部に向かって『人』の字の形で切り、足で力強く下腹部を踏めば、心臓と肝臓がすぐとび出て来るということを教えたのだった。つまり、これは、腹を裂き、心臓をえぐり取る技術がすでに存在していたことがわかる。」P八〇
「一九六八年七月一日夜八時、

黄副校長の人肉は、人間の教育と人材を育成する場所で、すっかり削ぎ取って持ち去られ、最後は人骨しか残らなかったという。まことに恐ろしい光景が出現したのであった。
略)
やがて、人肉削ぎが始まり、だれが最初に切ったのか、諸説紛々いろんな説があるが、大多数の証言によると、当時、女子学生の紅衛兵・覃柳芳が最初に人肉を削いだようだ。彼女は、黄副校長の息子と恋愛関係にあり、彼女は自分の立場をはっきりさせるために、人肉を取る行動に走ったらしい。
彼女はもう一人の学生の名前を告白した。黄佩農である。彼は、最初に肝を切り取ったのだった。
略)
彼女の証言によると、自分と甘票英らが見たところでは、黄佩農は肝を下げて、近くの田んぼまで行って、水で洗い、その後、肝を炊事場まで持っていったようだという。また多くのクラスメートも同じく人肉を切り取って、食堂まで走っていったという。
略)
この日の桐嶺中学は、人肉料理をつくるのに忙しく、賑やかな光景が見られた。
厨房で人肉を煮たり、教員宿舎で人肉を煮たり、女子学生宿舎でも人肉料理をつくっている。教室の廊下で人肉を焼いたり、校内で人肉を焼いたり、臨時的につくられた二つのレンガの上に瓦をのせたかまど、自家制作の即席かまどで人肉を焼いているのが目撃されたのである。
政府側の資料でさえ、こう書いている。
『七月二日、桐嶺中学校の厨房のまわり、宿舎の縁の下など、人の肝、人の肉を焼く状況は、いたるところで見られた。いたるところが血だらけで、臭気が、なまぐさい匂いが漂い、煙がもうもうと出て、焦げた匂いが充満し、恐ろしい状況が人の度肝を抜いた』
略)
人肉を食うことができなかったのは、四人の黒いグループと言われた教師だけである。教師達は、たった二つの小さな竹かごに黄副校長の遺骨を入れ、牛の骨を担ぐように集めて埋葬した。
略)
・ ・・七月二日午後五時、われわれ四人が呼ばれ、遺骨収集に行った。黄副校長の遺骨は運動場近くのかわやの側に置いてあったので、二つの竹かごだけでそれを全部入れた。頭は殴られ、真っ黒にはれ上がり、大腿骨とすね、そして手の肉は全部、切り取られ、肝、心臓、性器もすべてとられ、胸部は空っぼで、はらわたも流れ出していた。」P一〇一〜一〇六
「文革期間に、武宣県で殺され、迫害によって死んだ人間は五二四人。そのうち、食われた者は百数十人。最終的に裁判で有罪判決となった者は三十四人。刑期がもっとも長かったのは十四年、最短二年。一般的には七〜十年の刑であった。
ただ民衆の不満を和らげることができなかったのは、たった一人の死刑者もでなかったことだし、無期懲役さえ一人も出なかったことだ。簡単に計算すると、一人の人間を殺しても、刑期はたった半年だけにすぎないことになる。
略)
さらに人肉を食べた人間は、ただの一人さえも法的制裁を受けたことがなかった。私は武宣県の文革収拾事務所の四百余人の食人者の名簿を握っている。」P一三一
以上、「食人宴席」(鄭羲 黄文雄訳 光文社 一九九三年)より引用。

デタラメの「中国の教科書」

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/02/21 07:51 投稿番号: [8081 / 8458]
■中国の教科書こそ歴史を歪曲■

元寇に関する記述が全く無い。→「俺たちは侵略戦争した事が無い」という主張が崩壊するため。

日露戦争に関する記述が全く無い。→日本がロシアに勝って満州の権益を得た事実を隠すため。

第二次大戦で日本は米国ではなく中国共産党軍により敗北させられた、と教えている。

戦後の日本に関する記述は全く無い。→日本脅威論が成立しなくなるため。

戦後、中国軍はチベットやウイグルや内モンゴルや満州やインドやロシアやフィリピンやベトナムに侵攻したのに、自衛以外の戦争はしたことがない、と教えている。

1950年代に毛沢東による大躍進政策で3000万人が餓死した事に関する記述が全く無い。

北朝鮮軍の侵略で始まった朝鮮戦争を「米国と韓国が北朝鮮を侵略したことで始まった」と教えている。

民主化デモを武力弾圧した天安門事件を「騒乱分子が国家基盤を危うくした犯罪行為」と教えている。

東京裁判では130万人とされた日中戦争における中国側の死者数が、今や3500万人にまで増えている。
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