李朝朝鮮

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Re: ぐずぐずしてる朝鮮

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/04/16 12:04 投稿番号: [762 / 1329]
>そこで、朝鮮通信使時代に朝鮮側の文書にも「天朝・皇朝・朝臣」という文字を使っていたことなどを示して追求すると、
朝鮮の外交官僚は急に「病気」になったりして話し合いが引き延ばされる。もうわけが分からないのである。

朝鮮の外交官僚は、自分たちの権限で対応して処理すると、あとから妙なところで弾劾されたり、「党争」に巻き込まれかねないもんだから「病気」で逃げるしかないんですよねぇ。
同情はしますよ。(苦笑)

Re: ぐずぐずしてる朝鮮

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/04/14 17:55 投稿番号: [761 / 1329]
どうでもよいところは取り上げて騒ぐのは昔からなのでしょうか。

詳しいご説明ありがとうございます。

http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/060/resi012.html
の続きです。

明治政府、朝鮮へ親書を送る・・・「皇政維新の書契」

  明治元年(1868年)、日本は朝鮮に使節を送って新政府の樹立を告げて新たな国交と通商を求めた。
当初その使節となったのは、従来から朝鮮との折衝にあたってきた対馬の宗氏である。

  「王政一新萬機親裁ノ旨ヲ朝鮮国ニ通達セシム」と宗氏をして朝鮮通信使などの300年来の親交ある朝鮮に知らせ、
従来どおりの勘合貿易と海難事故による漁民や商人の漂流民の保護などを
確認したいだけのことだった。


朝鮮、儒教の礼儀にかなっていないと受け取りを拒否

  ところが、そのための文書「皇政維新の書契」を朝鮮側の外交官僚が頑として受け取ろうとしない。
  なんでも礼儀にかなっていない文字が使われ、
印鑑がいけない、文字の位置も違うという。
なにがどうかというと「天皇」の「皇」の字がいけない、「天朝」などもいけないと言う。

そこで、朝鮮通信使時代に朝鮮側の文書にも「天朝・皇朝・朝臣」という文字を使っていたことなどを示して追求すると、
朝鮮の外交官僚は急に「病気」になったりして話し合いが引き延ばされる。もうわけが分からないのである。
  これは宗氏から外務省が直接に折衝するようになってからも同じだった。

Re: ぐずぐずしてる朝鮮

投稿者: samurai_06_japan 投稿日時: 2007/04/12 01:15 投稿番号: [760 / 1329]
>すると朝鮮は、清国の新聞の記事によれば、日本人の八戸順叔という者の話として、

因みに、この「八戸順叔という者」ですが。

香港滞在中の「日本国名儒八戸順叔先生」なる者(幕府の代官手代八戸厚十即の三男といわれる)が、
同地の漢字新聞に日本の近情を寄稿し、そのなかに、「現に肺を興し往きて朝鮮を討たんとするの志あり」と書いてあるのが朝鮮に伝えらる。

で、この事を突っ込まれた日本側は、朝鮮の外交官に対して。
「貴国のところは知らないけどわが国はある程度、言論の自由が保障されており、『貴方の国が嫌いだ』という人もいますよ。
けどそれが日本政府の意思であると勘違いされては困るし、これは日本に限らず外交上だいたいそうだから注意したほうがいいですよ。
そもそも、『貴方の国が嫌いだ』とかいう話が出始めた原因はあなた方が我々を散々バカにしたせいだろ。」

と説明したら、朝鮮側は「原因込みで貴殿の言う通りです。」と納得しておりまつ(笑)


>「日本江戸政府は船務将軍である中濱萬次郎の新制度により80隻の火輪船(蒸気船)を建造し、それによって朝鮮を征討しようとしている」とあるが、これは事実かと問うた。


船務将軍・・・って、何だ??(笑)

似たような役職っていったら・・・
・海軍奉行(表高五千石)
・軍艦奉行(表高三千石)
だが・・・

確かに、中濱萬次郎は1853年(嘉永6年)、幕臣に召抱えられているが・・・
「軍艦」に関わったのは1857年(安政4年)に「軍艦教授所教授方」のみ。
大体において、幕末の軍関係者・西洋医の新規召抱えの者は、知行三十人扶持(百五十俵=石高で言えば、表高百五十石)が殆どですから、中濱萬次郎もこのレベルかと。
*役職も、そのレベルですし。

とても「将軍」などでは・・・

それに、中濱萬次郎は「通訳・箱館奉行所与力次席」ですし。
*与力は「二百俵=実高八十石」の「実質御家人」(御目見え以下)

ぐずぐずしてる朝鮮

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/04/11 23:54 投稿番号: [759 / 1329]
はじめに提示してるHPから

江戸幕府は親切ですね。1862年の英国人を殺傷した「生麦事件」をきっかけとした薩英戦争を経験してるし、
アヘンの没収から起きた「アヘン戦争」や些細な件で無理やりこじつけて戦争になった「アロー戦争」を知ってるから、
調停をかってあげたのに。

http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/060/resi012.html
仏米と幕府使節と流言

  江戸時代幕末の頃、朝鮮は西洋列強が清国を侵略していることを知って攘夷を決定した。
  慶応2年(1866)3月には、国内で布教するフランス人神父9名を含むカトリック教徒8千名を処刑。
それを怒ったフランスは2度にわたって艦隊を送ったが、
朝鮮は2度とも撃退し、また同じく9月には、大同江を行く米商船シャーマン号を焼き払った。

  朝鮮はそれを日本に知らせたが、徳川幕府はその後、仏米が連合軍を整えて朝鮮を問責せんとしているのを知った。

  それにより幕府は仏米に調停役を申し出、また対馬の宗氏をもって懸念していることを朝鮮に知らせ、
またそのための幕府使節を長崎に送って朝鮮に渡海したい旨を報じた。

  すると朝鮮は、清国の新聞の記事によれば、日本人の八戸順叔という者の話として、
「日本江戸政府は船務将軍である中濱萬次郎の新制度により80隻の火輪船(蒸気船)を建造し、それによって朝鮮を征討しようとしている」とあるが、これは事実かと問うた。
  対馬宗氏は、それは根拠なき全くの虚妄の説であり、
おそらく日本が富国強兵の為に火輪船の製造を外国に頼んでいることから、そのように言う者があるのだろうが、全くの誤解であり、
幕府の使節と直接会えば分かることであると答えた。
すると朝鮮は、かつて幕府の使節が来た前例がないから拒絶すると伝えた。

  そうこうしているうちに幕府が政権を返上して明治の世となり、幕府使節は長崎を去って、このことはそのままとなった。

  以上(朝鮮国交通手続1対韓政策関係雑纂/再撰朝鮮尋交摘要、慶應三年 対韓政策関係雑纂/朝鮮事務書 第一巻)より。

朝鮮の石炭と鉄鉱石の鉱脈

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/04/09 00:17 投稿番号: [758 / 1329]
>重工業の発展途上だった日本にとって、
朝鮮の石炭と鉄鉱石の鉱脈が欲しいということもあったようです。


日本では、溶鉱炉と製鉄所と圧延炉を備えた重工業が業績を上げていました。
それに従い、必要とする原料の需要も増大したのですが、
これらの原料の大部分輸入に頼らざるをえなく、この輸入に関しては、完全にその原産地を所有している欧米列強に依存し、彼等の言う値を支払わなければいけない状態でした。

日本の商船は、ロンドン・ブリストル・リバプール・アムステルダム・ロッテルダム・シェブール、マルセーユ、ブレーメン、ハンブルグ、コペンハーゲン、ニューヨーク、サンフランシスコ
を航海する事を許されていませんでした。
また日本が日本の製品をそこへ運び込むことも許可されていませんでした。
インド・インドネシア・中国へ日本の船で行くこともできませんでした。

というのは、欧米列強が全ての港をコントロールしていて、自分達が許可した商社が扱う商品の輸送船以外は出入港しないように厳重に監視していたからです。

そういうことだったから、必要な外貨を得るために、日本が製造したものを輸出したいと思えば、従来と変ることなく、横浜・神戸・長崎・その他の治外法権地域にある欧米の商社に輸出品を持ち込まなければなりませんでした。
そして、欧米の商社が決める価格で取引され、文句を言うことができませんでした。

日本は欧米列強に喉元を絞められていました。
その結果、工場労働者の賃金が益々低下しました。
労働者達は反発し、流血騒ぎも起こしていました。
労働者の賃金を下げる以外、欧米の商社が買ってくれるような安い価格の商品を製造することは不可能だったのです。

そんな日本にとって、欧米に支配されていない隣国の朝鮮の資源は注目する存在でした。

列強との条約締結「5%付帯条約条項」続

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/04/07 02:05 投稿番号: [757 / 1329]
以後、明治時代の45年間、新政府は欧米諸国と「5%付帯条約条項」の破棄について交渉を重ねました。
使節団をワシントン、ロンドン、パリ、ハーグ、モスクワ、ベルリンへ送りましたが、どこでも冷たい対応でした。
多国間会議を何回も東京で開催し、各国を招待しました。
列強は日本にキリスト教の宣教師に無条件で門戸を開くといった条件を出して、これを受け入れなければ交渉するつもりは全く無いと言った。
日本はこうした前提条件を次々と容認したのでした。
しかし、それでも「5%付帯条約条項」は撤廃されることはなく、
その目的の達成されないがために、日本の外務大臣はめまぐるしく交代しました。
「5%付帯条約条項」と「治外法権の領事裁判権」を撤廃する代わりに、
日本は全ての外国人に無制限に土地の購入件と相続権を認めること、裁判所には日本人より多数の外国人裁判官をおくことという欧米側の2つの提案を受け入れるということが判明し、暗殺を企てられた外務大臣もいました。
これはアヘン戦争で負けた中国が仕方なく認めた譲歩よりも、はるかに大きい譲歩だと日本の新聞は批判しました。

日本を溺死させないために、明治政府は、ほとんど無関税の欧米の工業製品で、日本の市場があふれかえるのを阻止する方法を模索しました。
関税に関して、列強と理にかなった合意に達することは望めなかったので、
日本政府はなるべく目立たないように、間接的な方法で輸入商品の価格が輸入業者から消費者に渡っていく過程で高くなるような方法を講じました。
そのための最も良い、そして無難なやり方が、鎖国時代に生まれ育った流通システムだったのです。(^^)v

「日本には、10社から20社の超大商社、大商社、中間業者、小売業者といった中世的で複雑な流通機構があり、商社は生産者から消費者へ渡っていく過程で加速的に値上がりしていく仕組みになっていく」

参考資料
http://www.amazon.co.jp/%E9%A9%95%E3%82%8C%E3%82%8B%E7%99%BD%E4%BA%BA%E3%81%A8%E9%97%98%E3%81%86%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BF%91%E4%BB%A3%E5%8F%B2-%E6%9D%BE%E5%8E%9F-%E4%B9%85%E5%AD%90/dp/4163669809

Re: 列強との条約締結「5%付帯条約条項」

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/04/07 02:01 投稿番号: [756 / 1329]
>そうなると、どうしても台湾や朝鮮は、経済学的に純然たる植民地とは言い切れない、とまでは言えましょうかね。
そうして考えてみると、「台湾や朝鮮は、植民地と言うよりも、領土=内地の延長」という表現が、しっくりきます。


確かに基本的にはそういうことですが、
日本は国際慣習法に従い、
(この国際慣習法とは国力がある国対国力が無い国との関係だったらという慣習ってことなんでしょうけど;)
両国間には「自由な通商」が行われることとするが、朝鮮が日本から輸入に関する商品については、関税はゼロにするということになりました。
国際間の通商の泥沼を知らない朝鮮は、1876年、この条約に署名しています。

インドやベトナムの状況は知らなくても、宗主国の大事を何にも観察していないし、日本が開国前からかなり情報をかき集めて、憂国の士が騒いでる状況と比べると、朝鮮は何やってんのかって感じですね。お手本がたくさんあったのに。

日本が朝鮮を欲しがったのは防衛上のこともありますが、
重工業の発展途上だった日本にとって、
朝鮮の石炭と鉄鉱石の鉱脈が欲しいということもあったようです。

Re: 列強との条約締結「5%付帯条約条項」

投稿者: honkytonk_2002_x 投稿日時: 2007/04/07 01:22 投稿番号: [755 / 1329]
通貨のレートに関しては、それでも幕府の小栗豊後守(後の上野介)あたりが渡米時にかなり頑張ったんですけどね。
ギリギリのところまで食い下がったが、国力の差はいかんともしがたく、不平等になってしまったというところでしょうか。

>と同時に、まだ初期のヨーロッパの工業製品を全面的に受け入れることができる大市場を植民地に作り出しました。

そうなると、どうしても台湾や朝鮮は、経済学的に純然たる植民地とは言い切れない、とまでは言えましょうかね。
そうして考えてみると、「台湾や朝鮮は、植民地と言うよりも、領土=内地の延長」という表現が、しっくりきます。

ワタシは金完燮はかなりアテに出来ない人物だと思っていますが、彼の以下のたとえ話は分かり易かった。

「たとえば、ある商店主が、倒産した他の商店を買い取ったとする。すると、その店舗をまさかそのままにしてはおかないだろう。きっと、綺麗に改装して、さらに商売がうまくいくように工夫するはずだ。日本は朝鮮をそういう風に改装したと言える」と。

列強との条約締結「5%付帯条約条項」

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/04/07 01:11 投稿番号: [754 / 1329]
>農村経済を急速に崩壊させたのは不平等条約とは平気で嘘を吐きますね。日本でも不平等条約解消まで時間がかかったが農村経済は崩壊していない。

朝鮮が不平等条約で蒙った経済的損害はよくわかりませんが、日本も確かにこの不平等条約で経済的にも長年苦しみました。
不平等条約で日本側が経済的に苦しんだのが、
欧米との両替のゴールドラッシュで通貨制度が崩壊し、通貨価値が暴落した
(この結果、幕府は有力大名や商人達の支持を失っていた)ことの他に、
通商条約締結6年後の「欧米から輸出される全ての商品に対する関税の上限を5%ととすること」という無理な要求でした。

これには開国後、日本の繊維工業が発展を遂げ、毎年かなりの輸出超過をしたことに原因がありました。
1910年までの以後45年間、この「5%付帯条約条項」は有効で有り続けました。
この影響は、署名した次の年の貿易収支に表れました。
それまではわずかでも輸出超過で、貿易収支の黒字は工業化の途上にある日本の支えとなっていたのですが、その貿易収支が一変したのです。
日本はその年、当時の状況でいうと、一千万ドルという壊滅的な赤字の収支決算となったのでした。
日本は真綿で首を絞められるように、インドや中国と同じような運命をたどらされる危険に晒されていました。
この2つのアジアの大国に比べて、日本が唯一有利だった点は、日本の国内には、治外法権地域を除いて、まだ外国の軍隊が居なかったことでした。

インドでは占領されてから、中国ではアヘン戦争とアロー号事件以後、欧米の植民地地保有国は、両国の既存の工場制手工業を潰すことを組織的に図ったばかりでなく、両植民地に工業が発展しないよう、あらゆる手を尽くして芽のうちに摘み取ってしまおうとしていました。
と同時に、まだ初期のヨーロッパの工業製品を全面的に受け入れることができる大市場を植民地に作り出しました。
両植民地は完全にヨーロッパの原料供給国に成り下がっていたのです。
日本は刻々と同じ危険に近づきつつあったのです。

「市場は我々にとって、呼吸をするための空気のように重要である。」とオールコック卿はヨーロッパ人の本音を吐露しています。
「もし息をするための空気を得ることができないならば、我々は空気を奪いとらなければならない。」

Re: 朝鮮の門戸開放 〜列強との条約締結

投稿者: koshien21c 投稿日時: 2007/04/04 16:02 投稿番号: [753 / 1329]
>なぜ、「結局朝鮮は北京で交渉を進め」ることになったのか?ここが問題かと。(笑)

外交は清国が握ってましたからね。

>朝鮮がアメリカ、日本、中国、英国、ドイツ、ベルギー、ロシアと結んだ条約はどれも不平等条約のお手本のようなものでした。
このような不平等条約は朝鮮の農村経済を急速に崩壊させ、鉄道敷設権、鉱山採掘権、逓信権、運航権など、各種政治、経済的な略奪が加速化していきます。

日本も不平等条約とわかったのは、万国公法を手に入れてからですね。それで明治維新後不平等条約解消すべく交渉を続け、結局日露戦争に勝ったことで最終的に不平等条約解消を実現したと思います。

明治維新当時、朝鮮が万国公法を理解しており近代国家の概念がわかっておれば、明治天皇の勅使を追い返すような外交上の非礼はなかったでしょう。近代国家は対等であり、皇と書いてあるから無礼との華夷秩序が通用しないわけですから。

しかし、農村経済を急速に崩壊させたのは不平等条約とは平気で嘘を吐きますね。日本でも不平等条約解消まで時間がかかったが農村経済は崩壊していない。

また、不平等条約のため鉄道敷設権、鉱山採掘権、逓信権、運航権など、各種政治、経済的な略奪が加速化していきます。とあるが、事実は全く違います。

李朝末期に閔妃や高宗などが下らないことに湯水の如く金を消費し、国庫が空になったためですが、何故こんな嘘を教えるのですかね。

歴史を直視せず、改竄して美化しているのが韓国です。

Re: 朝鮮の門戸開放 〜列強との条約締結

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/04/04 11:00 投稿番号: [752 / 1329]
>KBSWORLDのですが、欧米列強達の朝鮮を巡る対立などをちゃんと書いているようですが、
ん・・・朝鮮が清の属国だったことが明確に感じられないような文章ですね。

そうですね。「章程」のことを書くなど、割合しっかり事実をおさえてある文章なんですが、おっしゃるとおり、属国だったということが感じにくいようです。

>中国は機会があるたびに朝鮮にアメリカと修交通商条約を結ぶように勧め、結局朝鮮は北京で交渉を進め、1882年3月にアメリカと朝米修交通商条約を締結します。

なぜ、「結局朝鮮は北京で交渉を進め」ることになったのか?ここが問題かと。(笑)

>朝鮮がアメリカ、日本、中国、英国、ドイツ、ベルギー、ロシアと結んだ条約はどれも不平等条約のお手本のようなものでした。
このような不平等条約は朝鮮の農村経済を急速に崩壊させ、鉄道敷設権、鉱山採掘権、逓信権、運航権など、各種政治、経済的な略奪が加速化していきます。

なぜ、何年たっても不平等条約の改正に乗り出さなかったのでしょうね?それどころか、高山採掘権などの権益を切り売りしているし。

Re: 朝鮮の門戸開放 〜列強との条約締結

投稿者: nanairokamen03 投稿日時: 2007/04/04 04:08 投稿番号: [751 / 1329]
>1882年3月にアメリカと朝米修交通商条約を締結します。

これらの条約の締結文書の末尾には墨黒々と「光緒八年」って書いてあるんですが読めないってことはシアワセ。

朝鮮の門戸開放 〜列強との条約締結

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/04/03 00:05 投稿番号: [750 / 1329]
KBSWORLDのですが、欧米列強達の朝鮮を巡る対立などをちゃんと書いているようですが、
ん・・・朝鮮が清の属国だったことが明確に感じられないような文章ですね。

http://rki.kbs.co.kr/japanese/korea/korea_click_detail.htm?No=1232

朝鮮の固く閉ざされていた扉がついに開きました。1876年日本と結んだ江華島条約を契機に、アメリカやイギリスなど列強諸国とも通商条約を結び、完全に門戸を開放することになっていくのです。

江華島条約に従い、朝鮮政府は日本に外交使節の修信使を派遣します。
高宗はキム・ギス(金綺秀)を代表にして随行員75人とともに日本に遣わしました。
一行は江華島条約が締結された年の1876年4月29日に、日本が提供した汽船に乗り釜山を出発しました。
それまでは何日もかかった船旅でしたが、真っ黒い煙を吐き出す蒸気船は一行をわずか1日で下関に運びました。
下関に到着すると、蒸気船に驚いた一行を、さらに驚かすものがありました。蒸気機関車です。修信使一行を驚かせたのは蒸気船と機関車だけではありませんでした。
彼らは西洋式の政府機構や軍事、教育施設、博物館など、日本の多様な近代文物と施設に接して衝撃を受け、その後、朝鮮の開放と変化を主張する開化派となっていきます。

このように朝日通商条約以後、朝鮮に対する日本の影響力があらわになってくると中国はいらだちにかられます。
当時中国はアヘン戦争後、フランスとイギリスの勢力の下におかれるようになり、さらにロシアが韓半島に進出しようとしていました。
中国はロシアの韓半島進出を防ぎ、日本の占有を妨害し、朝鮮に対する宗主権を国際的に認めさせるには朝鮮に各国を引き入れる必要があると判断します。韓半島を列強の角逐の場にして、そのすきを狙い既得権を手にしようとしたのです。
そして中国はその最初の対象としてアメリカを選びました。

中国は機会があるたびに朝鮮にアメリカと修交通商条約を結ぶように勧め、結局朝鮮は北京で交渉を進め、1882年3月にアメリカと朝米修交通商条約を締結します。
日本と江華島(カンファド)条約を結んでから6年後のことでした。
2週間後、朝英修交通商条約が結ばれ、さらに朝独修交通商条約も締結されます。1ヶ月の間に3カ国と条約を締結したのです。

朝英修交通商条約が締結される1年前の1881年、英国はロシアの南下を防ぐために韓半島の巨文島を不法に占領したことがありました。
これは韓半島の領土が西欧列強により不法に占領された最初の事件でした。
この時に仲裁に乗り出したのが中国でした。
イギリスが朝鮮の領土を不法に占領したことをロシアが知ることになれば何をするか分からないので、撤収した方が良いと説得したのでした。
それから1年後、イギリスは朝鮮と通商条約を結び、その中には清の立場を認める内容が含まれていました。

中国の朝鮮に対する内政干渉は1882年6月、朝鮮の旧式軍隊が起こした反乱、
壬牛(イモ)軍乱を契機に本格化します。
中国は反乱の鎮圧を助けるために朝鮮に軍隊を派遣、事態が一段落した後でも軍隊を朝鮮に駐屯させ内政干渉を行います。
また同じ年の8月には朝清条約が結ばれますが、条約といわずに章程と言いました。章程としたのは、清が朝鮮との関係を国家と国家間の関係ではなく、国内の関係とみなしていたからです。

高宗は軍隊をソウルに駐屯させ、軍事的な圧力を加えて不平等条約締結を強要する清に対し不信感を抱くようになります。
そして清の干渉を押しのけるために他の外国勢力を引き入れますが、その新しい突破口がロシアでした。
ロシアは列強が韓半島に進出する情況を注視していました。
そして1884年5月、在中国のロシア領事がソウル入りし、2週間後に条約が締結されます。

朝鮮がアメリカ、日本、中国、英国、ドイツ、ベルギー、ロシアと結んだ条約はどれも不平等条約のお手本のようなものでした。
このような不平等条約は朝鮮の農村経済を急速に崩壊させ、鉄道敷設権、鉱山採掘権、逓信権、運航権など、各種政治、経済的な略奪が加速化していきます。

Re: 19世紀、朝鮮は資本主義の芽、なかった

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/04/02 23:30 投稿番号: [749 / 1329]
>植民地化以前の19世紀朝鮮に'内在的'に資本主義の芽が出始めてい
た、と主張する人々

日本には確かにあったものだから、朝鮮には無かったと素直に言えないのでしょうか。

>租税を米で統一した大同法

大同法は知りません。

ちょっと色々調べてみました。



大同法は、1608年から約100年をかけて一部地域を除く朝鮮全域で実施された税制・財政改革

http://rki.kbs.co.kr/japanese/korea/korea_click_detail.htm?No=999

http://rki.kbs.co.kr/japanese/korea/korea_click_detail.htm?No=1053

>光海君、 彼は即位後、改革的な政治を試みます。その代表的な例が大同法の施行です。大同法が施行される前までは、すべての民衆は国に税金として穀物を収めなければなりませんでした。それを貧しい農民には税金を賦課せずに、土地を所有する地主にだけ米を差し出すようにしたのが大同法で、貧しい農民を救済するための革新的な法だといえます。このように戦乱後の国を再建するための改革政治を繰り広げた光海君でした。

>1608年、宣祖41年に大同法が施行されました。 それまで朝鮮では税金を特産物や労働力で納付し課税の基準も不明確でした。しかし大同法は土地の規模に従い税金を賦課したため公平な課税が実現し、米や綿布で税金を徴収するようになります。そして政府は必要な物資を指定した商人から調達することになり商業の発達を促しました。

近代的な国際法秩序

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/04/01 00:12 投稿番号: [748 / 1329]
>朝鮮王室お抱えの医者であり、通訳として朴一行に同行していました。のちにアメリカの駐朝大使になって活躍する人です。

イギリスのオールコック卿も医者でしたし、彫刻をやってたり、
この時代の外交官は多才ですね。


>近代的な国際法秩序と伝統的な華夷秩序の相違点が露わになった「事件」であったのでしょうなぁ、と。

この近代的な国際法秩序も西洋の偏った秩序を基にしたメガネがかかってる法で、
東洋の日本人の目から見れば、どうなんだかなんですけど。



「(欧米の不平等条約で経済&治安で大混乱した江戸末期)日本人は初めて、ヨーロッパの理論はどのように展開されているかを目のあたりにした。・・・
欧米人は正義に対して二つの尺度を持っている。一つは自分達欧米人自身のための尺度であり、もう一つは非西洋人に対する尺度である。このことを彼等は折りある度に目に見えるように示してくれた。」

開国してから日本は、極端に不平等な貨幣の両替、白人が日本人に対して頻繁に犯した銃殺・撲殺・強姦、それに対して苛立つサムライ達の駐在する白人達への襲撃、欧米列強がその事件を口実に日本に軍事行動をさせないための苦策としての過酷なサムライへの処罰(欧米人要人を招待して晒し首)、
欧米列強(特に英仏)の威圧的な(時には幕府高官を招待して)千人以上の駐屯部隊の演習で不安な時期を過ごしました。

そうこうしているうちに、
アメリカの有名な法律家、ヘンリー・ホイートンの『万国公法』が日本語訳で出版されました。
アメリカとヨーロッパ諸国との間の通商・経済関係を簡潔な表現で法律的に解説した著書です。

この本の日本語訳によって日本人達は、白人達はどんな規則や法律に従って交流しあい、通商を行っているかを初めて認識しました。
アメリカ領事のハリスをはじめとする欧米列強の公使達が、国際的なやり方だと言って幕府に推奨したものは、
嘘だったことがわかり、幕府は衝撃を受けました。
欧米諸国では、お互いの貿易相手国に、自国領土内に治外法権地域を設ける権利を認め、自己の裁判権を放棄し、通商国相手に軍隊の駐屯を許している国などなかったのです。
全てが反対でした。欧米ではどの国も自国の主権を守るために細心の注意を払っていました。法律は万人に適用されました。もし、民法や刑法に違反した罪を犯した場合は、外国人にも法律が適用されました。


ヘンリー・ホイートンの『万国公法』を日本語訳にする際に際して、幕府の要請をアメリカ人がいることを聞いて、江戸駐在のフランス公使はアメリカ領事にこう言ったと伝えられています。
「許可を受けずに、我々の法律の実態を日本人に知らせる手助けをした奴は誰か。そいつをここから消すように手配すべきだ。そいつの首を絞め上げてくれる人間を探せないだろうか」


資料:松原久子『奢れる白人と戦う近代史』より


19世紀、朝鮮は資本主義の芽、なかった

投稿者: copypekun 投稿日時: 2007/03/30 12:08 投稿番号: [747 / 1329]
(ソウル=聨合ニュース)植民地化以前の19世紀朝鮮に'内在的'に資本主義の芽が出始めてい
た、と主張する人々は大同法実施を契機に、それを担当した貢人集団が成長することで、
手工業と商業の発達が成り立ったと強調する。

しかし、経済史専攻である聖信女子大学校パク・キジュ(46)教授が「貢物定案」を含む朝
鮮時代の関連資料を検討した結果、租税を米で統一した大同法施行以後も貢納制はそのま
ま維持されたし、基本帳簿である貢案もまた大同法以前の貢案と等しい元利によって作成
された事実を明らかにした。

大同法実施以後も朝鮮は相変らず王が国家経済の中心に立って、このように取り入れた歳
入を、王室の個人事業や支配層に分ける'再分配経済'体制にあったというのだ。王室に財
政収入が集中しているせいで、中央と地方政府は不足な運営経費の用意のために、他の財
源を開発しなければならなかったし、この過程で換穀(訳注:凶年に貧民に貸与し、収穫
期に還収した農民救済制度)を含む『三政の紊乱』がおきた。(中略)

パク教授は「大同法実施によって貢納制が廃止されたという通説に深刻な疑問を持たざる
を得ない」「19世紀にも朝鮮は相変らず再分配経済とその維持のための道徳経済を維持し
たので、自律的な市場経済の発展を受容することができなかった」と評した。

やはり経済史家であるキム・ジェホ全南大教授も「六典條例」を通じて朝鮮後期、中央財
政の運営実態を点検した結果、中央政府に必要な各種物資の大部分は、市場ではなく貢人
に30万石を支給して貢物として調逹したことを明らかにした。

さらにこの時期、中央政府は毎年5万〜10万石にのぼる慢性的な赤字財政が構造化していた
という事実も同時に現われた。落星垈経済研究所パク・ヒジン研究員は朝鮮時代に評価が高
かった半官半民的な光州分院陶磁器産業がどうして20世紀以後、消滅してしまったのかを
19世紀後半に集中して追跡した結果、分院が陶磁器生産に必要な原料と焚き物を国家から
保障受けていたという事実に注目した。彼によれば分院は20世紀以後、これを支えた制度
的基礎が崩壊すると日本製陶磁器と競争相手になれなかったというのだ。

落星垈経済研究所が30日、ソウル大ホアム教授会館で『朝鮮王朝の財政と市場』を主題に
開催する学術大会はイ・ヨンフン(ソウル大)、イ・ホンチァン(高麗大)、パク・キジュ、
キム・ジェホ教授を含む経済史学者たちが発表を担当し、これに対する討論を国史学者ら
が引き受けるやり方で進行される。
(後略)
ソース:聨合ニュース(韓国語)"19世紀朝鮮は慢性赤字にもがく"
http://www.yonhapnews.co.kr/culture/2007/03/27/0901000000AKR20070327172700005.HTML

Re: 韓国版「ロミオとジュリエット」?

投稿者: canyontrue 投稿日時: 2007/03/29 00:19 投稿番号: [746 / 1329]
イタリアで見つかった人骨が、約6000年前に埋葬されたって話だから、それへの対抗意識か?

韓国のことだ、遅かれ早かれ”7000年前だった”と捏造し直すだろう。

Re: 韓国版「ロミオとジュリエット」?

投稿者: honkytonk_2002_x 投稿日時: 2007/03/29 00:13 投稿番号: [745 / 1329]
炭素14法とかで、とりあえず測定したのかねえ?

6000年と決め付けてるみたいだけど。

韓国版「ロミオとジュリエット」?

投稿者: imp_mania_jk 投稿日時: 2007/03/29 00:07 投稿番号: [744 / 1329]
新石器時代に158センチの女性と165センチの(おそらく)男性。
ずいぶんでかいね。

>年代については、墓周辺の土器などを通じて判断した

日帝が来る前まで土器使ってただろ。
骨の状態もいいし、墓は120年程度前のものじゃね?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
6000年前の韓国版「ロミオとジュリエット」?

6000年前の韓国版ロミオとジュリエットなのだろうか。全羅南道麗水市南面安島里の新石器時代貝塚の墓から2体の人骨が発掘された。

  新石器時代の墓から人骨2体が一緒に埋葬されているのが発掘されたのは今回が初めて。発掘団の国立光州博物館の趙現鍾(チョ・ヒョンジョン)館長は27 日、「身長158センチ程度の1体(写真上側)は右腕に貝殻で作った腕輪をしており、人骨の専門家も女性の骨と認定した」と発表した。しかし、身長 165センチ程度のもう1体の性別はまだ確認されていない。

  博物館側は「韓半島(朝鮮半島)で発掘された人骨のうち、最も古いものの一つであり、保存状態も非常に良好だ。年代については、墓周辺の土器などを通じて判断した」と説明した。

  発掘の結果、二人が同時に埋葬されたことも分かっているが、外傷の有無についてはまだ確認されていない。

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2007/03/28/20070328000028.html

Re: 朝鮮は自主の国だったか?

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/03/27 21:42 投稿番号: [743 / 1329]
>>もう清国の国力を見て舐めていたってことでしょうか。

>そうかもしれません。または、清の掣肘から独立しようという動きの表れかも。
とりあえず、現存史料の解読とテキスト起こし、その他資料の確認が先決ですねぇ・・・・・・

史資料を読んだ感じでは、どうも当事者らも結構迷走しているような感じを受けました。
とりあえず、朴定陽の三端違反については、計画的な行動かどうかさえあやしく、使節の随員であったアメリカ人アレンってのが朴を説得して違反させたような展開ですねぇ。外交儀礼上、全権大使はまず相手国の担当所管に行かなきゃダメだ、でないと侮辱になるぞ、って言って。

このアレンというのは、がんらい朝鮮王室お抱えの医者であり、通訳として朴一行に同行していました。のちにアメリカの駐朝大使になって活躍する人です。

近代的な国際法秩序と伝統的な華夷秩序の相違点が露わになった「事件」であったのでしょうなぁ、と。

Re: 李朝朝鮮を知る

投稿者: ijneuk 投稿日時: 2007/03/25 21:44 投稿番号: [742 / 1329]
何よりもの問題は、このような李氏朝鮮描写を少しでもマイナスに評価したものは韓国では販売されないという現実ですな(親日の本も含めて)。

彼らが、あらゆる視点から併合について考えることができないことの大きな原因の一つでしょうね。

Re: 李朝朝鮮を知る

投稿者: ijneuk 投稿日時: 2007/03/25 21:39 投稿番号: [741 / 1329]
やはり第三の国の方が書いた本というのは客観的ですからね。
動画がストレートな表現で笑いました。

Re: 李朝朝鮮を知る

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/03/25 17:06 投稿番号: [740 / 1329]
>これで十分でしょ

本1、2冊で分かれば苦労はしませんな。
朝鮮王朝実録や清史稿くらいは読め、とは言いませんが。

あと、史料批判も重要だから。なんでも鵜呑みにしちゃいけないよ。「盡信書則不如無書」って言うしねぇ。(´∧`)у─┘~~

とくに黄文雄とか名越二荒之助を読むときは気をつけてね。

Re: 朝鮮は自主の国だったか?

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/03/25 16:47 投稿番号: [739 / 1329]
>研究者(学者)の基準が、世界と朝鮮では違うのでしょうね。
世界では研究者の本分は不変の真理を追究することに有ると思うのですが、彼の国の学者とは士大夫なのですね。

まず、拠って立つ所が違うんでしょうね。
最初に結論ありきですし・・・仮説を持ったうえで史料に取りくむこと自体は、さほど悪いことではないんでしょうけど、考察の結果、その仮説が成り立たないことが判明したらどう振舞うか、というあたりが決定的に違うのかと。
士大夫というより、司祭と言ったほうがいいかもしれません。ご神体は「韓国マンセー」ってことで。(苦笑)

>つまり朝鮮はヨーロッパ的に言うとルネスサンス以前の暗黒の中世の住人と言うことですね。そして朝鮮が朝鮮式朱子学の呪縛から抜け出した時が精神的な近代化の始まりとなるのでしょう。

ええ、信仰に囚われ、他者をもその信仰に引きずり込まなければ、精神の安定を欠く、という点では、おっしゃるとおりかと。
「朝鮮式朱子学」という考え方は非常に重要ですね。アレは支那大陸の朱熹が大成した朱子学ではなく、朝鮮でアレンジ・進化したモノですから。「朝鮮性理学」という言い方もしますね。
だいたい、清に完全に屈服したにもかかわらず「親明」を称揚し「北伐」を企図した孝宗が即位した後、1650年代から「朝鮮式朱子学」が芽生えてくるとみていいかと。王子・世子時代の孝宗の教師役だった宋時烈ってのがキーパーソンですね。

>現在のところ、その可能性は非常に低いように見えますが、どうでしょうか・・・

まともな学者がいないわけではないんですがねぇ・・・
たとえば、1990年代後半から、日帝の統治下で近代化が進んだという「植民地近代化論」を唱えた安秉直は、史料・データの分析・考察を行なった結果、そういう解釈をせざるを得ない、ということで同説を唱えたわけです。自分の思想信仰ではなく学問的な論理思考に従っただけの話なんですが。ま、「ニューライト」なんて言われていますね。

ややこしいのは、現実の盧武鉉政権や左派的史観を事とする研究者たちに対抗する意図を以て、ニューライト史観に組する研究者もいるわけでして・・・
左右保革に関係なく、学問を特定の思想や政治に奉仕させるという点では同じ穴の狢に堕しているんですよ。所詮「党争」と言い切りたくなりますねぇ。(苦笑)

ま、あまり期待しないほうが吉かと。

Re: 朝鮮は自主の国だったか?

投稿者: akkambeh 投稿日時: 2007/03/25 12:40 投稿番号: [738 / 1329]
お邪魔します。
>李泰鎮とか慎𨉷厦、金文吉といった、韓国の「第一級」とされる教授連中ですら、推測・憶測・願望で史料を使いますからねぇ・・・

研究者(学者)の基準が、世界と朝鮮では違うのでしょうね。
世界では研究者の本分は不変の真理を追究することに有ると思うのですが、彼の国の学者とは士大夫なのですね。

つまり朝鮮はヨーロッパ的に言うとルネスサンス以前の暗黒の中世の住人と言うことですね。そして朝鮮が朝鮮式朱子学の呪縛から抜け出した時が精神的な近代化の始まりとなるのでしょう。
現在のところ、その可能性は非常に低いように見えますが、どうでしょうか・・・

李朝朝鮮を知る

投稿者: copypekun 投稿日時: 2007/03/25 04:33 投稿番号: [737 / 1329]
http://blogs.yahoo.co.jp/yamato588/3386633.html

これで十分でしょ

Re: 朝鮮は自主の国だったか?

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/03/25 00:13 投稿番号: [736 / 1329]
>趣味ですから♪酒を飲むより、史料に溺れるほうがおもしろいかも・・・

酒も史料も嫌いではありませんが、溺れるまでいったことがありません。
(時々ネットしながらお酒を飲んでるうるるですが、お酒で記憶をなくすほど泥酔の経験は無し・・・本当に)

>彼らの場合、結論が先にあり、それに合うように資料を読み、解釈引用しますから・・・

う〜ん。なるほど。

>李朝には近代化の萌芽があったにも関わらず、列強とくに日本のせいでその芽は潰されざるを得なかった、

時々、新聞で併合や軍国化無しに日本が平和路線でいく道があったのではないかみたいな韓国人の掲載文章を見る度にため息が出ます。
そして、それを掲載する日本の新聞に腹が立つのですが。

日本人が欧米人と戦って、アジアの植民地が開放された正義の戦士と世界でしっかり肯定されると、
その日本人と共に戦ったのはウリ達ニダと寝返ってくれるのかな(苦笑)

Re: 朝鮮は自主の国だったか?

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/03/24 21:16 投稿番号: [735 / 1329]
>日本がどのように欧米の狙いを外して国を死守したのか韓国人に伝えることができたら、あの時代の状況を知ってもらえることができたら、
日韓併合の過去について冷静に受けとめてもらえるのではないかと時々思うのです。

私は、そのあたりは全く皆目期待してはいないのです。
彼らの場合、結論が先にあり、それに合うように資料を読み、解釈引用しますから・・・李泰鎮とか慎𨉷厦、金文吉といった、韓国の「第一級」とされる教授連中ですら、推測・憶測・願望で史料を使いますからねぇ・・・

そういうわけで、自分の既成概念や信仰を覆すような事象に対しては、耳目を覆って「あーあーあー聞こえないニダ」ってやるだけでしょう。
ま、自分の拠って立つものをいちいち検証するってのは、韓国人でなくとも難しいことであるとは思うんですが。

斜め上に飛んで、李朝には近代化の萌芽があったにも関わらず、列強とくに日本のせいでその芽は潰されざるを得なかった、と持ってゆくのが関の山かと。

Re: 朝鮮は自主の国だったか?

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/03/22 04:28 投稿番号: [734 / 1329]
>幕府はアヘン戦争後の中国と同じような運命をたどることを極度に恐れていました。そのためどんなことがあっても、条約には後で罠と分かるようないかなる付帯条項をつけることを阻止したいと考えてしました。
条約の文の選定に未経験なせいで、西洋から日本に廃人をつくるアヘンを輸入する門戸を開いてしまうようなことはなんちしても阻止しようとし、この一点に関しては粘り強く、その点で確認できて、ようやく幕府は調印に踏み切りました。
日本にアヘンを持ち込まないように死守した幕府に感謝です。

そうですね。なんだかんだ言っても「日本国内」に、有害なものを持ち込ませない、という事を遵守させただけでも、日本国代表としての「ご公儀」の価値はあったかと。

>しっかり第一資料からの作業なのですね。
いつもながら感心してしまいます。

趣味ですから♪酒を飲むより、史料に溺れるほうがおもしろいかも・・・

>もう清国の国力を見て舐めていたってことでしょうか。

そうかもしれません。または、清の掣肘から独立しようという動きの表れかも。
とりあえず、現存史料の解読とテキスト起こし、その他資料の確認が先決ですねぇ・・・・・・

Re: 朝鮮は自主の国だったか?

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/03/21 21:29 投稿番号: [733 / 1329]
>>同じ東アジアの地域の李朝朝鮮・日本の江戸時代の末期は共に欧米の列強に狙われている状態でした。
なので、李朝の開国の状態と平行して、
しばらく自分の国の日本がそれをかいくぐろうとした詳細を扱えたらなと思っています。

気持ちを汲んでくださってありがとうございます。
日本がどのように欧米の狙いを外して国を死守したのか韓国人に伝えることができたら、あの時代の状況を知ってもらえることができたら、
日韓併合の過去について冷静に受けとめてもらえるのではないかと時々思うのです。

朝鮮は宗主国アヘン戦争についてどう捉えていたのでしょう。
日本の不平等条約で国内が混乱して幕府が滅びていった様子をどう捉えていたのでしょう。
朝鮮は国を守るために条約締結でどれだけの慎重さを見せたのでしょうか。

幕府はアヘン戦争後の中国と同じような運命をたどることを極度に恐れていました。そのためどんなことがあっても、条約には後で罠と分かるようないかなる付帯条項をつけることを阻止したいと考えてしました。
条約の文の選定に未経験なせいで、西洋から日本に廃人をつくるアヘンを輸入する門戸を開いてしまうようなことはなんちしても阻止しようとし、この一点に関しては粘り強く、その点で確認できて、ようやく幕府は調印に踏み切りました。
日本にアヘンを持ち込まないように死守した幕府に感謝です。



>という点について史料を入手しました。現在画像スキャン・処理とテキスト起こしの最中ですが、その作業が今月中に終わるかどうかさえ怪しいところです。(苦笑)

しっかり第一資料からの作業なのですね。
いつもながら感心してしまいます。

>1887年夏、アメリカに赴いた駐美大使朴定陽は清大使館に行かず、勝手に単独でアメリカの外務省に行ってしまいます。

もう清国の国力を見て舐めていたってことでしょうか。

Re: 朝鮮は自主の国だったか?

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/03/21 20:23 投稿番号: [732 / 1329]
>同じ東アジアの地域の李朝朝鮮・日本の江戸時代の末期は共に欧米の列強に狙われている状態でした。
なので、李朝の開国の状態と平行して、
しばらく自分の国の日本がそれをかいくぐろうとした詳細を扱えたらなと思っています。

朝鮮がアメリカと修好通商条約を結んだのち、清は朝鮮に対して外交について3つの約定を守るよう指示しました。
『清史稿   列伝   属国   朝鮮』光緒十三年(1887年)の記述から引用します。

十三年、鴻章遵旨籌議朝鮮通使各国体制、奏言:電飭駐扎朝鮮弁理交渉通商事宜升用道補用知府袁世凱、転商伊国応派駐扎公使、不必用"全権"字様。旋於九月二十三日接拠袁世凱電稟:准朝鮮外署照称;奉国王伝教、前派各使久已束装、如候由咨文往返籌商、恐須時日、請先電達北洋大臣籌覆。並拠其国王咨称;近年泰西各国屡請派使修聘、諸国幅員権力十倍朝鮮、不可不派大公使。惟派使之初、未諳体制、未先商請中朝、派定後即飭外署知照各国、以備接待。茲忽改派、深恐見疑。仍請准派全権公使前往、待報聘事竣調回、或以参賛等員代理、庶可節省経費;並飭使至西国後、与中国大臣仍恪遵旧制。'等語、辞意甚為遜順。臣復加籌度、更将有関体制者先為約定三端:一、韓使初至各国、応請由中国大臣挈赴外部;一、遇有宴会交際、応隨中国大臣之後;一、交渉大事関系緊要者、先密商中国大臣核示、並声明此皆属邦分内之体制、与各国無干、各国不得過問。当即電飭袁世凱転達国王照弁。茲復准王咨称:於十月杪飭駐美公使朴定陽、駐英徳俄意法公使趙臣煕先後前往、所定三端並飭遵行。臣査朝鮮派使往駐泰西、其国原約有遣使互駐之条、遂未先商請中国、遽以全権公使報聞各国。此時慮以改派失信、自是実情。既称遣使後与中朝使臣往来恪遵旧制、臣所定擬三端又経遵行、於属邦事例並無違礙。

つまり、清の執政たる李鴻章は、袁世凱を通じて、朝鮮の大使は現地での外交において、

一、韓使初至各国、応請由中国大臣挈赴外部
  ・使者は各国に着いたら、清の大臣と共に相手国の外務省へ行くこと。
一、遇有宴会交際、応隨中国大臣之後
  ・宴会など外交のお付き合いの場合、朝鮮の席次は清の下とすること。
一、交渉大事関系緊要者、先密商中国大臣核示、
  ・重要な外交案件については、まず清の大臣と相談すること。

以上3点を遵守せよと命じてきました。これを「三端[別の左側]約」といいます。

ですが、1887年夏、アメリカに赴いた駐美大使朴定陽は清大使館に行かず、勝手に単独でアメリカの外務省に行ってしまいます。

さて、そのあと事態はどうなったか?という点について史料を入手しました。現在画像スキャン・処理とテキスト起こしの最中ですが、その作業が今月中に終わるかどうかさえ怪しいところです。(苦笑)

Re: 『大君の都』

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/03/19 21:53 投稿番号: [731 / 1329]
>>初代駐日公使ラザフォード・オールコック

>有名な方ですね。

植民地を増やすことに情熱と、そのための格段の嗅覚を持っている人物でした。

アヘン戦争があったのは、この本が出版されるわずか20年前のことです。
江戸でアメリカ初代総領事ハリスが捕鯨船のために2つの港を開いた親和条約を改定し、無条件の自由貿易、治外法権の居留設置、白人独自の裁判権を容認した包括的な通商条約を結ぶことを求めました。

これより少し遅れて日本にやって来たオールコック卿は、
ライバルのアメリカが、ちょうど始まったばかりのアロー号事件を巧みに脅しに使って、日本へ条約締結へと急がせたと出し抜かれた悔しさが書かれています。
彼ならもっと日本を苦しめるほど不利で、大英帝国に有利な条約を結んだのでしょうか?

彼は北海道の鉛鉱山で採掘される少ない鉛の量を見て、
「このことは、兵隊が鉄砲の実践教育のために使う実弾射撃の消費量が驚くほど少ないことを意味する、この事実は欧米列強に無関心なことではない。記憶に留めておくことである」と書いています。
本当に日本を植民地にする可能性があるかどうか真剣に考えていたのでしょう。

Re: 檀君はいずこへ?

投稿者: toaniuniu05 投稿日時: 2007/03/19 01:49 投稿番号: [730 / 1329]
引き続き、東亜師父に代わって。

>他のロムしてる方のために、まとまってるサイトがあったので、
置いておきます。

こういうサイトがあるんですか。

>古朝鮮
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kochosen/kochosen0-mokuji.htm

んー、ただ檀君朝鮮について『桓檀古記』を引いた上、註釈無しというのは、ちょっとどうかと思ったりしますねぇ。
あれでは、読者に『桓檀古記』が、まっとうな史書か野史の類いだと思わせてしまうかも、と危惧するのですが・・・。

Re: 『大君の都』

投稿者: toaniuniu05 投稿日時: 2007/03/18 23:38 投稿番号: [729 / 1329]
師父に代わって。

>初代駐日公使ラザフォード・オールコック

有名な方ですね。
中国赴任時代に培った東洋人への認識と扱い方を以て日本人に接しようとして、アーネスト・サトウに「それは危ない。日本人は中国人とはちょっと違います。恫喝は効きません」というような忠告をされ、また薩英戦争の交渉などで、日本人への認識を改めたと聞きます。

>マルクスは日本に関する知識をラザフォード・オールコック著の回想記「大君の都」(大英博物館所蔵)によって、1863年頃勉強していたらしい。

マルクスが日本に対してどんな感想を持ったんでしょうねぇ。興味あるところではあります。

Re: 『大君の都』

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/03/18 23:22 投稿番号: [728 / 1329]
初代駐日公使ラザフォード・オールコック
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%83%E3%82%AF
生い立ち
1809年、ロンドン西郊のイーリングで医者トーマス・オールコックの息子として生まれた。母親が早く亡くなったため、イングランド北部の親戚の家に預けられ、15歳の時に父の下に戻り、医学の勉強を始めた。最初ウェストミンスター病院とウェストミンスター眼科病院で1年間教育を受けた後、1828年までパリに留学し、解剖学、化学、自然史を修め、またフランス語だけでなく、イタリア語も身につけた。勉学の傍ら、彫刻家のアトリエに通い、彫刻の手ほどきを受けている。ロンドンに戻った後、上の二病院で研修医として2年間過ごし、1830年に王立外科学校から開業医としての免許を得た。
その後、イギリス軍の軍医となり、戦乱のイベリア半島に赴任している。ロンドンに戻った後、内務省解剖検査官などをしたが、外務省の要請により、イベリアでの外交問題処理のため、再びスペイン、ポルトガルに赴任した。 しかし、イベリアでの過労がたたってリューマチに犯され、両手の親指が全く利かなくなった。このため、外科医として将来を断念せざるを得ず、外務省に入って外交官となることになった。




http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=mfbdabdabaaf&sid=1835396&mid=722
この本は、英国の初代駐日公使ラザフォード・オールコックが
書いた1859年6月(安政六年五月)から1862年3月
(文久二年二月)帰国するまでの三年間の記録である。
表題の「大君」とは徳川将軍のことで、幕末に用いられた称号である。

かなりの長編

マルクスは日本に関する知識をラザフォード・オールコック著の回想記「大君の都」(大英博物館所蔵)によって、1863年頃勉強していたらしい。

Re: 檀君はいずこへ?

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/03/17 23:42 投稿番号: [727 / 1329]
>ただ、史料を投げっぱなしにされることが多いので、私は自分の勉強のためもあって、わかりやすい形に通辞しているだけです。

えら〜い。

東亜さんは既にお解かりのことかもしれませんが、

他のロムしてる方のために、まとまってるサイトがあったので、
置いておきます。

古朝鮮
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kochosen/kochosen0-mokuji.htm

Re: れRe: 檀君はいずこへ?

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/03/17 23:30 投稿番号: [726 / 1329]
>もちろん、「伝説」と断っています。

ちょっとほっとします。それが現代ですよね。
どの国の神話も事実かどうか確かじゃないものが多いですが、
その地域の特性を表現している大切な歴史資料です。
韓国の神話って、単純にお話として面白くないなと思うのは私だけ?

>私が使っている機械、韓国製ですが(たぶん)「檀君」は一発で出ませんでした。

私のは日本の某P社のですが、キムジョンイルとか、キムイルソンとかもしっかり漢字で一発変換で出てきます。

れRe: 檀君はいずこへ?

投稿者: red_mangou 投稿日時: 2007/03/17 23:16 投稿番号: [725 / 1329]
>実は現代の韓国でさえ、きちんとした檀君の歴史的な考証・位置〜
>なんか、この時期って確信的無理やり神話創作の過渡期だったような。

最近近所に出来た古本屋に行ってきました。「道洞古書」ってんですけど、
店名にハングルのルビなし。店内の本も、東洋史以外でも漢字の部分は漢字
で表記された本も結構ありました。ホッとしますね。

で、「韓国史」関係の本をいくつか目次をめくってみたのですが、いずれも
「三国時代」からですね。東亜同務の書き込みで予想はしてましたが。
「韓国史」に関する文で、唯一「檀君」について書かれているのは、日本でも
割とその筋では有名な姜在彦ソンセンニムのものだけです、私が見たのは。
もちろん、「伝説」と断っています。

ところで秋風さん、
私が使っている機械、韓国製ですが(たぶん)「檀君」は一発で出ませんでした。
それに韓国から送ってる、んですけどねぇ。

Re: 檀君はいずこへ?

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/03/17 23:09 投稿番号: [724 / 1329]
>いえ、それはさておき、李朝時代における檀君の地位の変遷なんてのがあるんですね。
檀君神話のソースをたどってる東亜さんはすごいな〜。
もしかして、エンコリでご活躍ですか。

すごいのは私ではなく、元スレを作ってらっしゃる方のほうですよ。
ただ、史料を投げっぱなしにされることが多いので、私は自分の勉強のためもあって、わかりやすい形に通辞しているだけです。
それで、分かりやすい形ということで「漫コラ(漫画コラージュ)」を多様するわけです。

>人名や地名なんか、多数佛教がらみだし>(・∀・)ノシΩへぇ〜へぇ〜
それはしらんした。

三国遺事の著者一然は坊さんですしね。桓因は帝釈天から採っただろ、というのはわりかし耳にする話ではあります。

>なんか、この時期って確信的無理やり神話創作の過渡期だったような。

そうですね。小中華主義の成立やらなんやかんやがあって、いろいろ辻褄を合わせたり、整合性を取ろうとしたりして大変だったんでしょうなぁ、と。

なお、北朝鮮では、1993年、平壌の檀君陵発掘調査が行なわれ、翌年に学術発表会が開かれました。その成果をまとめた本がありますが、そこでは、檀君の即位を紀元前2993年とする論文が発表されています。
こちらの本もちょっと突っ込んで読んでみることにしますね。

Re: 檀君はいずこへ?

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/03/17 22:46 投稿番号: [723 / 1329]
檀君・・・だんくん・・・なんでこんな言葉が日本語のPCで一発で変換できるのか?(まだこだわってる)

いえ、それはさておき、李朝時代における檀君の地位の変遷なんてのがあるんですね。
檀君神話のソースをたどってる東亜さんはすごいな〜。
もしかして、エンコリでご活躍ですか。

>意訳:三国遺事って高麗の坊主が書いたもんだし、もとの古記なんて誰が書いたか知れたものじゃないよね。人名や地名なんか、多数佛教がらみだし。昔の史者、書く事が無くって史書に採用しちゃったけど、仁賢の国たる朝鮮に、こんな怪しいイメージつけられちゃ迷惑なんだよね、ああ、憂鬱。


人名や地名なんか、多数佛教がらみだし>(・∀・)ノシΩへぇ〜へぇ〜
それはしらんした。

>東史綱目 そんかし檀君がなくなるみたいですけど。どっちがいいのでしょう?

なんか、この時期って確信的無理やり神話創作の過渡期だったような。
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