竹島

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隠州視聴合紀「州」の用法と解釈 (2/7)

投稿者: te2222000 投稿日時: 2005/05/30 05:43 投稿番号: [9649 / 18519]
さて、私がこの問題で常々気にしていたのは「此州」という言葉にどこまでこだわるべきかです。

普通の感覚では「此州」は、それ以前に出てきた○○州という言葉を指すと考えるのが自然です。国代記の「此州」は隠州でないと主張される方も、一般論としてのこの意見には反対しないと信じます。

しかし、当時日本が朝鮮との往来を対馬経由に限定していたこと、そして隠州視聴合紀は磯竹島への渡航に触れた記述があることを考えると、隠州を日本の西北国境と言い切ることにも抵抗を感じます。

この対立する要素を踏まえてどう結論を出せばいいか考えると、「此州」という表現の持つ重みをどうとらえるか、つまり「『此州』と書いてある以上は州のことだ」と重く考えなければいけないか、それとも「『此州』が州を指していなくても別に構わない」と軽く考えて良いのか、というバランス感覚の問題になってきて、どうしても主観的な結論になりがちです。

そこで私は、隠州視聴合紀の上記引用部を除いた他の個所で「州」がどのように使われているか、また、島を指す場合にどのような言葉を使っているかを調べ、この問題にもう少し客観的な判断基準が得られないか考えてみることにしました。

以降の内容は次の通りです。
2章では調査に使用したテクスト、および隠州視聴合紀の章立てについて説明します。
3章では「州」の用法について具体的にテクストを引用しながら説明します。
4章では島を指す場合に使う言葉についての調査結果を示します。
5章では、調査結果を踏まえて「此州」の各解釈についての疑問点を提示します。
6章では、今の時点で結論できることをまとめます。

【2】テクスト

テクストとしては、以下に収録されているものを使いました。

  続々類書群従 第九
  編纂 国書刊行会
  発行 株式会社続群書類従完成会
  (昭和44年11月29日発行)
  (昭和59年10月20日第4刷発行)

これを選んだのは、最寄の公共図書館で閲覧可能だったということが理由の全てであり、学術的なテクスト批判は一切行なっていないことを申し上げておきます。

なお、著者名ですが、上の本には記載がなく、「三百藩家臣人名事典」(新人物往来社)によると、斎藤勘介、名は豊宣となっています。しかし、下條正男氏や池内敏氏など研究者による文章には斎藤豊仙と書かれているので、ここでもそれにならいます。詳細をご存知の方は教えてくださると幸いです。

次に、引用個所を示す便宜のためテクストの章立てを示しておきます。

−−−−−−−−−−−−
◇序

◇巻一
国代記

◇巻二
周吉郡(しきちぐん)
(西郷 津居村 犬来村 竈村 大久里 卯敷村 布施村 飯田村 東郷 飯尾湊 元谷村 中村庄
  湊村 西村 原田里 上西里 平村 国分寺 尼寺 大光寺村 有木村 護国寺 下西村 西田村
  今津湊 岸浜 箕浦 鴨里 蛸木浦)

◇巻三
隠地郡(をちぐん)
(津戸 都万県 那隅村 油井村 南方村 苗代田村 那隅路村 都万路村 小路里 那里
  山田村 一宮村 北方村 代村 酌村 伊後村)
島後の人口

◇巻四
知夫郡(ちふりぐん)
(知夫郡同別府 美田郷 浦郷 知夫湊)
海部郡(あまぐん)
(崎村 布施村 台浦 知々井浦 森郷 福居村 宇津賀村 豊田湊)
島前の人口
神名帳
国中仏寺
名所和歌
知夫郡焼火山縁起
文覚論
−−−−−−−−−−−−

巻一の国代記は長いので、便宜的に更に以下のように分けることにします。

- 地理(隠州在北海〜以此州為限矣)
- 産物(民部図帳曰〜堀尾氏之所定也)
- 歴史1[鎌倉室町](古老伝曰〜従是京極経世佐々木繁栄)
- 歴史2[清政](過元亨健武之世〜於是隠州又為一)
- 歴史3[為清](其孫判官為清〜不知何是矣)
- 歴史4[清家から五郎へ](初為清有子〜莫曽違於心者)
- 歴史5[五郎から才又郎へ](才又郎在芸州〜元就大喜焉)
- 歴史6[才又郎逃亡後](五郎君卒才又郎逃亡〜帰万々世)

ちなみに前章で引用した個所は国代記・地理に相当します。

テクストを引用する際は、読み易さのために適宜引用者の判断で改行を入れました。旧字体については、できる限りテクスト通りにしましたが、一部、文字が見つからなくて新字体で書いたものもあります。漢文の返り点は省略しましたが、訓読はテクストの返り点を踏まえたものです。


(続く)

隠州視聴合紀「州」の用法と解釈 (1/7)

投稿者: te2222000 投稿日時: 2005/05/30 05:42 投稿番号: [9648 / 18519]
先日からこの掲示板に書いてきたように、隠州視聴合紀のテクスト全体を読んで「此州」が何を指すかを考えています。ひとまず現時点での考えがまとまったので投稿します。本小論だけで独立した記事となるように以前投稿した内容を再度書いた部分がありますが、ご了承ください。

なお、この掲示板で長文の投稿を連続して行なうことは初めてなので、最後まで投稿できるかどうか分かりません。途中で投稿できなくなった場合は、時間を置いて残りを投稿します。

----------------------------------

【隠州視聴合紀における「州」の用法と「以此州為限矣」の解釈】

【1】はじめに

隠州視聴合紀の巻一・国代記の冒頭にある以下の記述は、北西の限りとする「此州」の解釈を巡ってしばしば論争になります。

−−−−−−−−−−−−
隱州在北海中故云隱岐嶋
(中略)
從是南至雲州美穂關三十五里
辰巳至伯州赤崎浦四十里
未申至石州温泉津五十八里
自子至卯無可徃地
戊(ママ)亥間行二日一夜有松島
又一日程有竹島
俗言磯竹島多竹魚海鹿
此二島無人之地
見高麗如自雲岐(ママ)望隱岐(ママ)
然則日本之乾地以此州爲限矣
−−−−−−−−−−−−

この文章だけを見る限り、私は此州の解釈として竹島、隠州のどちらも可能だと考えています。試みにその両方の解釈を以下に示します。テクストに書いていない文を説明のため補った個所には《》を、二つの解釈で内容の異なる個所には●を、それぞれ付けてあります。

−−−−−−−−−−−−
A.此州を竹島とする解釈

隠州は、北の海の中にある。それ故、隠岐島という
《隠州から見てそれぞれの方位にある日本の領地について以下に説明する。》●
南に35里のところに雲州美穂関がある。
南東に40里のところに伯州赤崎浦がある。
南西に58里のところに石州温泉津がある。
北から東にかけては、行っても行ってもたどり着く土地がない。
北西に2日行くと、松島(竹島=独島)がある。
さらに1日行くと竹島(鬱陵島)がある。
これは俗に言う磯竹島のことである。竹、魚、アシカが多い。
この二島は無人島である。
ここから朝鮮国を見ると、あたかも出雲から隠岐を眺めるように見える。●
《つまり、朝鮮と向かい合う最先端の土地である。》●
なので、竹島(鬱陵島)が日本の北西の国境となる。●

−−−−−−−−−−−−
B.此州を隠州とする解釈

隠州は、北の海の中にある。それ故、隠岐島という
《隠州から見てそれぞれの方位にある土地について以下に説明する。》●
南に35里のところに雲州美穂関がある。
南東に40里のところに伯州赤崎浦がある。
南西に58里のところに石州温泉津がある。
北から東にかけては、行っても行ってもたどり着く土地がない。
北西に2日行くと、松島(竹島=独島)がある。
さらに1日行くと竹島(鬱陵島)がある。
これは俗に言う磯竹島のことである。竹、魚、アシカが多い。
この二島は無人島である。
ここから朝鮮半島を見ると、あたかも出雲から隠岐を眺めるように見える。●
《無人の、したがって日本人が住んでおらず、朝鮮半島が見える程に近い島を日本の領土とは言い難い。》●
なので、隠州が日本の北西の国境となる。●
−−−−−−−−−−−−

下條正男氏は『竹島は日韓どちらのものか』で、テクスト全体を素直に読めば、Aの解釈が正しいことが分かると主張していますが、私はこのようにどちらの解釈も成り立つ余地があると思っています。

なお細かく見ていくと、この部分の解釈は他にもいくつか考えられます。それらについては後の5章で触れることにします。

(続く)

見境なくペイントして反省しております

投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/05/30 02:51 投稿番号: [9647 / 18519]
年表年代が順序よく表示されていたので、その流れが知りたくて、ついペイントしてしまったが、確かに幕府は竹島一件に関して竹島(鬱陵)のみへの渡海を禁じただけで、朝鮮領という承認は与えていませんね、私の認識不足でした。

>長久保は鬱陵島を日本領と誤認していたとは思えないのすがな、

Okino:
なるほど、私の勉強不足でした、よく検討せずに、貼り付けてしまった事を反省します。
そうなると、鬱陵島は放棄していないので、幕府としては、80年間実行支配してきたから、それを根拠にして、これからも日本は、鬱陵島を領有主張出来るものでしょうか、教えて下さい

座布団五枚

投稿者: torezojp 投稿日時: 2005/05/30 00:21 投稿番号: [9646 / 18519]
>東郷平八郎元帥個人がそう書いたからですね。

久しぶりに笑わせて頂きましたわい。

洒落のタネも尽き掛けて、ネタの質が
落ちると、せめて山葵だけでも利かせないとね。

東郷平八郎の報告

投稿者: seonsaeng 投稿日時: 2005/05/29 23:52 投稿番号: [9645 / 18519]
東郷平八郎元帥個人の報告に「リヤンコールド岩」と書かれていたのを其のまま官報が伝え、後日、別の官報で「竹島」と訂正したという話ですね。

>日本は3か月前にその島を領土編入して「竹島」と命名したはずなのに、政府の官報でその名前が使われず、なぜ「リヤンコールド岩」と書かれたのでしょうか?

「日本海海戦に関する連合艦隊、司令長官東郷平八郎の報告」と君が自ら引用して自爆している通り、東郷平八郎元帥個人がそう書いたからですね。

>竹島(島根県隠岐郡)の歴史

投稿者: torezojp 投稿日時: 2005/05/29 22:40 投稿番号: [9644 / 18519]
>1696年    幕府「竹島(鬱陵島)」への渡航を禁止。鬱陵島は韓国領で決着。現・竹島には言及なし。
>http://toron.pepper.jp/jp/take/ahn/ikken.html
>http://whatever.say.jp/program/snap_shot/site/11134630755165/
>長久保赤水「日本輿地路程全図」。「隠州視聴合記」からも引用。長久保は鬱陵島を日本領と誤認。  

ところでOKINOさん、愚老には 鬱陵島は韓国領で決着、長久保は鬱陵島を日本領と誤認していたとは思えないのすがな。幕府は竹島一件に関して竹島(鬱陵)のみへの渡海を禁じただけで、朝鮮領という承認は与えていないように受け取れませんかな。年取ると諄うなってしもうて・・・。

忌憚無いところをお聞かせ頂ければと存じますわい。上のURLの記載見直しても、渡海を禁じることにより、領有権問題は触れずに済ませているような、そのような決着と受け取れますわ。なにか、他に材料がおありでしょうや。大勢に影響が無いことで実際どうでも良いとは思われますけどな。

http://toron.pepper.jp/jp/take/ahn/ikken.html
① 元禄九年(1696年)に
先年松平新太郎因州伯州領知之節相窺之伯州米子之町人村川市兵衛大屋甚吉竹嶋江渡海至爾今雖致漁候向後竹島江渡海之儀制禁可申付旨被仰出之候間可被存其趣候    恐々謹言

正月廿八日
                           土屋相模守
                           阿部豊後守
                           大久保加賀守
松平伯善守殿
右御奉書之趣村川大屋両人江   申聞竹島渡海相止候事  
(池田文書)

②対馬藩に対しても、この幕府の姿勢を朝鮮政府に伝えるように指示した。元禄九年(1696年)十月、新藩主を祝うために来島していた同知(通訳官の官職)の卞延郁同知と宋裕養判事に其の方針を伝えた。両訳官は翌年・元禄十年(粛宗二十三年・1697年)正月に帰国した。
続いて、対馬藩は二月に、阿比留兵衛を渡鮮させ、東莱府使・李世戴に書を渡して、幕府の命により日本人の鬱陵島への出漁を禁じた事を知らせた。

③鬱陵島と竹島が同一の島である事、およびその朝鮮領たることを承認する件については言及しなかった。しかし、朝鮮政府としては、当面の問題である漁業禁止に満足して、翌元禄十一年(1698年)三月、礼曹参判李善薄の名をもって幕閣の決定に謝意を表し、併せて鬱陵島・竹島一島二名の理由を説明した。(「粛宗実録」二十四年庚子三月二十五日の条)

竹島=独島「領土編入」の秘密主義3

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2005/05/29 22:37 投稿番号: [9643 / 18519]
   上記の「疑問への回答(1)」の立場からすると、訂正記事は海軍省や官報関係者の無知を単純に改定したということになります。
   一方「疑問への回答(2)」の立場からすると、日本政府はこの時点に至るや、リアンコールトの名前を容認するわけにいかなかったのか、その対応をしたと考えられます。
   官報の訂正記事は、活字も一段と小さく簡単に書かれたのですが、その効果は確実でした。マスコミは訂正記事にしたがって島名を変更しました。6月5日の東京朝日新聞は1週間前と同じ地図で「リヤンコイルド岩」の名を「竹島」に変えました(注5)。

   結局、この時も日本政府は竹島=独島の「領土編入」を公にすることはありませんでした。かつて水路部が『日本水路誌』でなく『朝鮮水路誌』に記述したリヤンコールト岩は、日露戦争時になぜか「竹島」になり、日本領のように扱われたということになります。その理由を日本国民が知ることはほとんどありませんでした。

(注1)カタカナはひらがなに、旧字体は新字体に変換。官報の影印は下記URL。
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/etc/kanpou_050529.pdf
(注2)半月城通信<竹島=独島の領土編入>
http://www.han.org/a/half-moon/hm095.html#No.6985
(注3)島根県告示、第四十号
北緯三十七度九分三十秒 東経百三十一度五十五分 隠岐島ヲ距ル西北八十五浬ニ在ル島嶼ヲ竹嶋ト稱シ 自今 本縣所属 隠岐島司ノ所管ト定メラル
  明治三十八年二月二十二日
               島根県知事   松永武吉
(注4)山陰新聞記事、1904.2.24
○隠岐の新島
  北緯三十七度九分三十秒 東経百三十一度五十五分 隠岐島を距る西北八十五浬(ノット)に在る島嶼を竹嶋と稱し 自今 隠岐島司の所管と定めらると縣知事より告示せり 右島嶼は周圍十五町位の二島より成る 周圍には無數の群島散在し 海峡は船の碇泊に便利なり 草は生え居たるも樹木は無しといふ
(注5)東京朝日新聞、1905.5.30 & 6.5、影印
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/etc/asahi1905kaisen.pdf

(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/

竹島=独島「領土編入」の秘密主義2

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2005/05/29 22:36 投稿番号: [9642 / 18519]
疑問への回答、その(2)
   日本政府は、領土編入の事実を隠しとおすために「リアンコールト」の名前を使用しつづけたのかも知れません。
   領土編入に際し竹島=独島が「無主地」であると強弁したのは、国境画定機関である水路部でした。竹島=独島の領土編入後、その水路部が上部組織の指示で領土編入の秘密を守り、それを海軍に情報提供していたのかも知れません。あるいは海軍が積極的に秘密を守ったのかも知れません。

秘密主義
   日本が竹島=独島の領土編入を秘密にしたかったのは、竹島=独島は「韓国領地の疑」があるからでした。領土編入の過程で内務省は「此時局に際し 韓国領地の疑ある莫荒たる一箇不毛の岩礁を収めて、環視の諸外国に我国が韓国併呑の野心あることの疑を大ならしむる」と反対していました(注2)。
   その内務省が、結局は「時局なればこそ其領土編入を急要とするなり」と主張する外務省の意見を受けいれて領土編入を閣議にはかりました。
   閣議決定に際し、日本は関係国である朝鮮との協議はおろか、政府レベルでの公示すら一切しませんでした。これは小笠原諸島の領土編入とくらべると対照的です。
   小笠原諸島の場合、日本は関係国であるアメリカなどと何度も十分な協議を重ねて相手国の同意を得て領土編入を行いましたが、それに反し竹島=独島の場合は政府内で秘密裏に処理されました。
   官報による告示もなく、わずかに政府の訓令を受けた島根県が県告示で公表したにとどまりました。その告示も単に島の位置や新名称、新所管を知らせるような内容で、とても領土編入をうかがわせるような内容ではありませんでした(注3)。
   これはマスコミも同様です。この告示を地元の山陰新聞のみが伝えたようでしたが、その小さな記事は雑報欄で県の告示内容を伝え、それにつけたしで新島の周囲を簡単に紹介するのみで、同島がかつての松島とよばれた事実の紹介などもありませんでした(注4)。いずれも「領土編入」という刺激的な語は意識的にか避けられたようでした。

官報の訂正
   日本海海戦の一週間後、官報に「リヤンコールド」岩を「竹島」に訂正する下記の記事がのり注目されます。これをどう解釈すべきでしょうか。

  <去月二十九日 官報号外本欄 日本海海戦の項 其三及 同三十日同日本海海戦続報の項 其五中「リヤンコールド岩」を孰も「竹島」に訂正す    官軍省副官(注1)>
(つづく)

竹島=独島「領土編入」の秘密主義1

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2005/05/29 22:35 投稿番号: [9641 / 18519]
   半月城です。

   今日は何の日でしょうか? 答は、日露の歴史的な「日本海海戦」を報じる官報の号外がだされて百年目にあたる日です。号外は日露戦争の戦果をこう記しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
○日本海海戦 戦報
   一昨二十七日以来 継続中なる日本海海戦に関する連合艦隊 司令長官 東郷平八郎の報告 左の如し(海軍省)
  ・・・
   其三   今二十九日午前著電
連合艦隊の主力は 二十七日以来 残敵に対して追撃を続行し 二十八日「リヤンコールド」岩附近に於て 敵艦「ニコライ」第一世(戦艦)、「アリヨール」(戦艦)・・・よりなる一群に会して之を攻撃せしに「イヅムルード」は分離して逃去せしが 他の四艦は須臾(しばらく)にして降伏せり 我艦隊には損害なし・・・(注1)
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   この号外で注目すべきは「リヤンコールド岩」の名です。これが竹島=独島をさすことはいうまでもありません。日本は3か月前にその島を領土編入して「竹島」と命名したはずなのに、政府の官報でその名前が使われず、なぜ「リヤンコールド岩」と書かれたのでしょうか?   しかも翌日になると、島の名前を「リアンコルド」として官報はこう記しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   其五   同上(今三十日午後 著電)
連合艦隊の大部は前に電報したる如く 一昨二十八日午後「リアンコルド」岩附近に於て敗残敵艦隊の主力を包囲攻撃して其降伏を受け 追撃を中止し 之が処分に従事中 午後三時頃・・・(注1)
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   リアンコルドが外国の島なら、それがリヤンコールドと表記されようが、正式名はさして問題ではありません。海戦を伝える5月30日の東京朝日新聞は「リヤンコイルド岩」と記しました(注5)。島の名前はまちまちです。問題はその島が、なぜ「竹島」と表記されなかったのでしょうか?   それを考えてみたいと思います。

疑問への回答、その(1)
   海軍省や官報を作成する政府機関は「竹島」が日本領になったことを知らず、その島を外国の島と思い込んでいたのかも知れません。
   それも無理ないかもしれません。何しろ、竹島=独島の領土編入は政府レベルでは極秘になされたので、海軍省や官報の記事を発行する機関すら知らなかったとしても当然かも知れません。
   外務省はホームページに「1905年(明治38年)の、閣議決定及び島根県告示による竹島の島根県への編入措置は、日本政府が近代国家として竹島を領有する意志を再確認したもの」と記しましたが、官報の関係者すら知らないような秘密主義で領土編入するのが外務省のいう「近代国家」でしょうか。
(つづく)

『大日本史』

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2005/05/29 22:32 投稿番号: [9640 / 18519]
   半月城です。

   VIVA_VIVA_21さん、RE:9599
>つまり幕府は鬱稜島を自国領と見なし開発許可を与えたということです。

   斉藤豊仙が、江戸幕府から朱印をもらった大船が島の開発にあたる実例を知っていたのなら、あるいは上のような解釈も考える余地が少しはあるかも知れません。しかし、斉藤豊仙にかぎらず、1667年以前にそんな実例は皆無ではないでしょうか?

   VIVA_VIVA_21さんは『隠州視聴合記』をどうしても上記のように解釈したいのでしょうが、資料を取捨選択すればいかなる結論も可能です。
   前に書いたように『大日本史』の著者は『隠州視聴合記』からは松島、竹島が「我が版図」になったとは解釈できず、『隠岐古記』などから「我が版図」になったと解釈しています。VIVA_VIVA_21さんは、この資料は素通りですか?

外一島について(2)

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2005/05/29 18:11 投稿番号: [9639 / 18519]
なるほど、島根の書類にある竹島・松島がもしも半月城さんのいう「正統日本地図」の大きさに合致すればそれなりに説得力はあるかもしれません。しかし、どうもこれはあてはまるようではありません。

この「正統日本地図」の土台となるのは長久保赤水のものですが、そこでの竹島・松島は必ずしも島根の書類に一致する大きさではありません。また、島根の書類における竹島・松島の周囲の比率は40km:3.3kmですが、この比率も長久保の地図とはずいぶんと違いがあることが分かります。

つまり「正統日本地図」にしたところでたとえば勝海舟の大日本沿海略図などよりも若干竹島・松島が小さく描かれただけに過ぎません。

むしろ、当時、太政官が竹島=アルゴノート、松島=ダジュレーの位置で認識したとする可能性の方が大きいといえることでしょう。

証拠としては、陸軍参謀局の朝鮮全図(1875)、文部省の日本全図(1877)、そして内務省の大日本全図略図(今回アホさんと議論)が地図資料としてあげられるでしょうし、その傍証として1880年の天城の調査によって鬱稜島が松島と確定したことなどがあげられそうです。

太政官は島根県の提出書類を参考としつつ「竹島・松島」を「判図外」とした。しかしそこに地理的理解は正確には伴っておらず、結局、それは1880年の天城の調査で確定したように、松島=鬱稜島でしかなかったということです。

位置的な認識はともかくとして太政官は二島説をとり「竹島・松島」を「判図外」としたのだから、両島がどこに位置しようとすでに松島は放棄されていると見ることも可能でしょうが、私はいずれにしても明治政府の理解は天城の調査で確定したものとさしあたりは考えるわけです。

以上、私見です。

外一島について(1)

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2005/05/29 18:07 投稿番号: [9638 / 18519]
半月城通信を読むと、半月城さんは当時における地図の混乱を把握しつつ、一方で太政官が判断した竹島は鬱稜島であり、松島が現竹島であったことを断言していらっしゃいます。
----------------------
   以上のような混乱の結果、竹島は鬱陵島をさしたり、架空のアルゴノート
島をさしたりしました。同時に、松島は竹島=独島をさしたり、鬱陵島をさし
たりしました。明治期すら絶海にある無人島の正確な認識はいかに容易でない
かを示したものといえます。
   ちなみに、内務省や太政官が1877年に放棄した松島は、島根県の伺い書
で周囲30町(3.3km)と記載されているので、現在の竹島=独島をさすことに疑
問の余地はありません。また、同時に放棄した竹島は、周囲およそ10里
(40km)と記されているので、現在の鬱陵島をさすことはまちがいありません。
正統日本地図の認識を引き継いでいたといえます。
   ところでここの会議室ではワラにもすがる思いからか、あるいはつまらぬ
裁判ごっこのいきがかりからか、明治政府は架空の島を含んだ松島、竹島を放
棄したと主張している人がいますが、荒唐無稽です。
   内務省や太政官は架空の島を放棄するほどいい加減でもないし、愚かで
もありません。版図(領土)の取捨は「重大事件」との認識から、両島の位置
や大きさなどを把握し、具体的に樹木の有無や種類、島の産物などを知ったう
えで、慎重に竹島(鬱陵島)と松島(竹島=独島)の放棄を決定しました。こ
の事実は、偏狭な「竹島死守派」にとってはなかなか認めがたいようです。
(竹島、松島の島名混乱
Yahoo! 掲示板「竹島問題を考える」#2423
http://messages.yahoo.co.jp/
2001年9月02日)
----------------------
私は前から疑問だったのですが、つまり半月城さんが太政官が判断した竹島は鬱稜島であり、松島が現竹島であったことを断言なさるのは、結局は以下の理由に過ぎないようです。

1.島の大きさ
2.内務省や太政官はいい加減でも愚かでもない

2はあまり理由にはならないでしょうから、結局1、つまり島の大きさが島根県提出の書類が現実(あるいは正統日本地図)に即しているから太政官が判断したのも鬱稜島と現竹島であるということでしょうか。

ちなみに、島への距離は島根の資料は大きくずれています。また、産物や樹木の多い少ないは太政官が隠岐の向こうにある島を二島とするか三島とするか、またそれがどの位置にあるのかという問題とは関係がありません。

☆竹島(島根県隠岐郡)の歴史 2

投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/05/29 17:11 投稿番号: [9637 / 18519]
http://whatever.say.jp/program/snap_shot/site/11141143459477/

1787         フランス船が鬱陵島を発見。ダジュレー島と命名。89年イギリス船も発見しアルゴノート島と命名。
           同じ島だが経緯度の違いで別の2島化。日本寄りにダジュレー、朝鮮寄りにアルゴノート島となり、
           ダジュレーが松島に、アルゴノートが竹島に。1854ロシア船の測定でアルゴノートが不正確と判明。
           1849フランス船[リアンクール]号竹島を発見。54年ロシア、55イギリス[ホーネット]。一時3島併存。
           1870年代アルゴノート消滅。1900年代ダジュレー(or松島)、リアンクール(orホーネット)で確定。
           シーボルトがダジュレーを松島、アルゴノートを竹島にしてたが、アルゴノート消滅で竹島も消える。
           http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/konran.html
1801(享和元年) 「長生竹島記」にも、松島をもって「本朝西海のはて也」
1828(文政11年) 江石梁編述「竹島考」が現・竹島に関する、かつてより更なる詳細描写。
1836(天保7)     「竹島」での密輸事件で、死罪申し渡し書に「松島への渡海の名目を以って竹島へ渡り・・・・・・」
1849(嘉永2年)   フランスの捕鯨船リアンクール号竹島を発見
1858         ロシア、愛琿条約で清国から黒龍江以北の地を奪う。
1860         ロシアが北京条約で沿海州獲得。
1861         ロシア軍艦が対馬を占領。英国の抗議で撤退。樺太・千島・北海道にも触手。
1867         勝海舟編纂の「大日本国沿海略図」は3島併存。
           アルゴノート(竹島=架空の島)、ダジュレー島(松島=鬱陵島)、リアンクール(現・竹島)。
           http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/konran.html
*以上、誤解、間違いから大混乱が生じ、文献上の島名の取り扱いに注意が必要に。

1870(明治3年)   「朝鮮国交際始末内探書」に「竹島 松島 朝鮮附属ニ相成候始末」
            “松島は、竹島の隣島・・・。これまで掲載した書類もない”   松島≠現・竹島

1875         江華島事件。朝鮮開国。開化派・独立党が日本に接近。
           日本統治以前の韓国は絶望的な奴隷社会。
           http://whatever.say.jp/program/snap_shot/site/11134635711075/
1876         日朝修好条規。閔氏一族は当初改革派であり日本と連携して諸改革に取り組む。
1877         太政官指令「日本海内竹島外一島〜〜本邦関係無之義」*外一島=現・竹島との証拠なし。
           http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/taittou.html
*「松島の議」「松嶋巡視要否の儀」現・竹島は日本領と認識。ただ「現竹嶼→松島、現鬱陵島→竹島」解釈も存在。

☆竹島(島根県隠岐郡)の歴史 1

投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/05/29 17:06 投稿番号: [9636 / 18519]
http://whatever.say.jp/program/snap_shot/site/11141143459477/

1145         「三国史記」<十三年(512)夏六月、于山国帰服>干山国、・・・或いは名、鬱陵島≠現・竹島
           http://toron.pepper.jp/jp/take/15C/shiragi.html
1471         「成宗実録」<于山、武陵二島・・・>半島南端・江原道からの視線であり≠現・竹島
           http://toron.pepper.jp/jp/take/15C/sesyuu.html
1438         韓国、鬱陵島に空島政策を始める。(以降450年)
1481         「東国輿地勝覧」<一云武陵   一云羽陵・・・>砂浜・樹木が見える、干山鬱陵本一島≠現・竹島
           http://toron.pepper.jp/jp/take/tizu/rekireki.html
1614         「芝峰類説」日本人が鮑・若布(ワカメ)採取目的で磯竹島(鬱陵島)の占拠を始める
1617         米子の回船問屋が鬱陵島を発見。
1618(元和4年)   大谷・村川両名に幕府から竹島(鬱陵島)へ渡海免許。以降80年日本が鬱陵島を実効支配。
           「竹島渡海由来記拔書」   http://toron.pepper.jp/jp/take/ahn/tokai.html
1643         鬱陵島に続き、竹島も発見。以降、現・竹島を鬱陵島渡航への寄港地、漁労地として利用。
           遅くとも1661年には大谷、村川両家が幕府より現・竹島を拝領。
1656         『輿地志』に「一説に于山、鬱陵本一島」。現・竹島の記述なし。
1667          隠岐島巡察報告「日本の乾(北西)の地、此の州を以て限りと為す」鬱陵島北限で現・竹島日本領
           http://toron.pepper.jp/jp/take/jpn/onsyu.html
1692(元禄5)     朝鮮人漁民が「竹島(鬱陵島)」に出漁を始める。
1693          日本船が朝鮮漁民2人を連行(安龍福事件)。安の現・竹島韓国領虚言がいつの間にか韓国史実に。
1696          幕府「竹島(鬱陵島)」への渡航を禁止。鬱陵島は韓国領で決着。現・竹島には言及なし。
           http://toron.pepper.jp/jp/take/ahn/ikken.html
宝暦年間51-64   「竹島図説」に「隠岐国松島」から40里に「竹島」と記述。現・竹島は隠岐の国に属していた。
1770         『旅菴全書』「彊界考」の<按ずるに、輿地志に云う、「一説に于山、鬱陵本一島。」而るに諸図志を
           考えるに、二島なり。一つは則ちその所謂松島にして、蓋し二島は倶に是れ于山国なり。>を底本
           に、『東国文献備考』「輿地考」が <輿地志に謂う、鬱陵、于山皆于山国の地。于山は即ち倭の
           所謂松島なり>   http://toron.pepper.jp/jp/take/tizu/kaizan.html
           安龍福事件(1693)で、<安龍福証言「松島即ち于山島」>の曲解証言(『粛宗実録』)で知った、
           「松島」名を古来の『輿地志』の于山に強引に結びつけたものと思われ。もともと松島(現・竹島)の
           所在を未把握のため、その後「松島」「竹島」名は鬱陵島付属小島(現竹嶼)に収斂され「松竹島」に。
           http://whatever.say.jp/program/snap_shot/site/11134630755165/
           長久保赤水「日本輿地路程全図」。「隠州視聴合記」からも引用。長久保は鬱陵島を日本領と誤認。
           http://toron.pepper.jp/jp/take/jpn/nagakubo.html
1785         林子平「三国通覧輿地路程全図」。「竹嶋」を<朝鮮ノ持也>。当時の竹嶋は鬱陵島のこと。

>隠州視聴合紀・ソウル大写本

投稿者: te2222000 投稿日時: 2005/05/29 16:04 投稿番号: [9635 / 18519]
kikousidayoさん

> kikousidayo の情報は何によるものでしょうか。

お名前に敬称を付け忘れました。お詫びして訂正します。

隠州視聴合紀・ソウル大写本

投稿者: te2222000 投稿日時: 2005/05/29 16:01 投稿番号: [9634 / 18519]
kikousidayoさん

> 名古屋大学大学院文学研究科教授池内敏氏は
> ソウル大付属図書館所蔵の「隠州視聴合記」の
> ものは下記のように、「按神書所謂五十猛歟」が
> 割注として追加されているといわれています。

次の URL を見ると、池内氏はソウル大の写本について下記のように書いています。
http://www.jkcf.or.jp/pub/news/no31/8.pdf

----------------------------------
今ひとつは、割注部分に「按神言所謂五十猛歟」とする部分があることです。
----------------------------------

これによると「神書」ではなく「神言」です。kikousidayo の情報は何によるものでしょうか。

また、上の池内氏の記述を見ると、「按神言所謂五十猛歟」はあくまでも割注部分の一部分である、つまり割注部分はもう少し広い範囲のようです。

どこからどこまでが割注か池内氏の文章からは分かりませんが、#9311に書いたように「続々群書類従」では「俗言磯竹島多竹魚海鹿」が割注であることを考えると、「俗言磯竹島多竹魚海鹿按神言所謂五十猛歟」が割注であると考えることが妥当な気がします。

半月城通信 No.93 に書かれているテクストは、池内氏の文章の内容と合わせて考えると、川上健三氏が1966年に使用したテクストだろうと推測します。

海東地図、1750年代鬱陵島の小六島

投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/05/29 15:51 投稿番号: [9633 / 18519]
転写:
http://myhome.shinbiro.com/~shkimhp/urd/photo/haedong.jpg

その一つには「所謂于山島」と明記

>所謂于山島

投稿者: seonsaeng 投稿日時: 2005/05/29 13:51 投稿番号: [9632 / 18519]
>一つが于山島とは、これで観音島が于山島の可能性でてきた

ichibachoさんのご指摘は画期的な発見だと思います。

「所謂于山島」と書いてある島は、今の Jukdoと考えるのが妥当でしょうね。韓国の言う「三峰島」も Jukdoで、「可支島」は鬱陵島ですね。

http://www.daea.com/dokdo/dokdo.asp

このサイトのように根拠のない事(嘘)を平気で言う点は、韓国政府及び半月城・AHO(半月城の分身)も同じですね。

伊能忠敬(1745-1818)

投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/05/29 13:44 投稿番号: [9631 / 18519]
転写

http://www.geocities.co.jp/Bookend/4373/vol_037.htm

伊能忠敬

伊能忠敬(1745-1818)が"流行"っていますね。
彼が日本測量の旅(1800)に出て200年目にあたるからです。"伊能ウォーク"と言って彼の足跡をたどるイベントも行われたり、ゲーム付き万歩計「平成の伊能忠敬」なんて言うのも売り出されたりしました。

彼は病弱だったのですが、50歳まで千葉の佐原で家業に名主にと力を尽くし、隠居後江戸に出て55歳から71歳まで、17年、3736日に及ぶ測量をしたことです。その間、歩いた歩数、なんと四千万歩。
「中高年の星」、江戸時代の老人パワー、恐るべし!
しかも、最初の測量は、要した金の多くを忠敬は自分で出しています。

彼は、代々酒造業を営む伊能家の養子となり家業の建て直しをはかります。
そして、米穀の取引を行い、江戸に薪炭問屋も開いています。
明和・天明の飢饉には窮民の救済につとめ藩主から苗字帯刀を許されました。

ところで、彼が測量したデーターをまとめようとした時、実はずれていました。なぜでしょう?
そう、地球は丸いので、それを平面に書き写すことが出来ないのです。
勿論、彼はそれを修正し、今見ても完璧といえる地図「大日本沿海輿地(よち)全図」(「伊能図」)を完成したのです。
緯度の最大誤差でも1/1000だそうです。

この、「伊能図」は一般市民は使いませんでした。幕府が極秘としたのです。
一般には長久保赤水の作った地図が使われました。
伊能図が真価を発揮したのは、明治になってからです。
伊能図が我が国の地図の近代化に果たした役割はきわめて大きいといえます。

極秘の「伊能図」が、シーボルト事件を引き起こします。
幕府の天文方、高橋景保がシーボルトから洋書を譲り受けたお礼に「伊能図」の写しなどを渡したのです。
1828年景保は逮捕され翌年獄死、シーボルトは国外退去処分になります。
「伊能図」はシーボルト事件の後(1840年)にヨーロッパで出版され、高度な地図の技術水準が外国でも評価されました。
(シーボルトの項の蛇足参照)

長久保赤水(1717-1801)

投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/05/29 10:18 投稿番号: [9630 / 18519]
転写

http://www.geocities.co.jp/Bookend/4373/vol_037_01.htm


長久保赤水

■長久保赤水(ながくぼ   せきすい:1717-1801)
あまり聞いたことが無いでしょうが、彼の作った地図は驚くほど良く出来ています。

赤水は、現在の茨城県高萩市の農民の子として生まれ、52歳で認められて、水戸藩に出仕し、61歳のときには藩主の治保(はるもり)公に講義をする侍講(じこう)にまでなりました。

赤水は、多くの日本地図や世界地図を作りました。

それまでの日本地図は、日本の形や全国を構成する国の形がなんとなくわかるといったものでした。
しかし赤水が作成した『改正日本輿地路程全図』(1775年)は、それまでの普及版日本図に比して図形が飛躍的に正確となったことです。
また、「一寸十里」(1296000分の1)という縮尺をそなえ、刊行図として、はじめて経緯線を取り入れました。
これで蝦夷地(現北海道)を除く日本の形がほぼわかるようになりました。

もちろん、正確さでは実測をもとにした伊能忠敬の『伊能図』(1821年)に劣りますが、赤水の地図はそれまでの地理学を検証して作成されたもので、実測によるものでは無いだけに、驚くべき研究の成果、労作といわれています。

「州」は「す」が一番にあう

投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/05/29 00:33 投稿番号: [9629 / 18519]
「州、しゅう」は行政上のくぎり「州、す」は、しま   小生は「す」と読むことにしました、それは当時のインテリーは「す」と呼んだのではないだろうかと推測、島は俗世では、島おくり、島流し、島ぬけ、にも使われますね、此州を長久保赤水、子平両先生は「嶋」と記しました、つまり両先生は「す」と解釈したのです、斎藤豊仙は「す」即ち嶋と書いたのでは。

>捏造、改竄、冷汗・三千升

投稿者: kana_ikeuchi 投稿日時: 2005/05/29 00:06 投稿番号: [9628 / 18519]
【訂正】

  【正】 ------ ⑧
  【誤】 ------ ⑨

    恥じ入ってます・・・・・   <(_ _)>

于山島は鬱陵島小六島の一つか

投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/05/28 23:38 投稿番号: [9627 / 18519]
>皇城新聞の記者は1750年代の地図「海東地図」も参考

沖の:
鬱陵島の小六島は1750年代、朝鮮で、すでに知られていたんですね
その一つが于山島とは、これで観音島が于山島の可能性でてきたな

捏造、改竄、冷汗・三千升

投稿者: kana_ikeuchi 投稿日時: 2005/05/28 23:35 投稿番号: [9626 / 18519]
http://www2s.biglobe.ne.jp/~halfmoon/hm093.html#No.671
(注1)斎藤豊仙 『隠州視聴合記』(1667年)
  隠州在北海中故云隠岐島 従是 南至雲州美穂関三十五里 辰巳至伯州赤碕浦
四十里 未申至石州温泉津五十八里 自子至卯 無可往地 戍亥間行二日一夜有松
島 又一日程有竹島(俗言磯竹島多竹魚海鹿按神書所謂五十猛歟)此二島無人
之地 見高麗如自雲州望隠州 然則日本之乾地 以此州為限矣


http://toron.pepper.jp/jp/take/jpn/onsyu.html
隠州視聴合紀の竹島関連の部分

① 隠州在北海中故云隠岐島、
② 従是南、至雲州美穂関三十五里、
③ 辰巳至泊州赤碕浦四十里、
④ 未申至石州温泉津五十八里、
⑤ 自子至卯、無可往地、
⑥ 戍亥間行二日一夜有松島、
⑦ 又一日程有竹島、
⑧ 俗言磯竹島   多竹魚海鹿、按神書所謂五十猛歟
⑨ 此二島無人之地、見高麗如自雲州望隠州、
⑩ 然則日本之乾地、以此州為限矣


⑨でどの部分が割注か分からなかったので、素直に転写しておけば良かったのですが
半月城さんの(注1)斎藤豊仙 『隠州視聴合記』(1667年)から早合点して、番号を抜き
勝手に書き直してしまいました。捏造と言わずに改竄と表現して下さったお優しい皆様
にお詫び申し上げます。どうかお許し下さいませ。(冷汗・三千升)

>Re:此州を以て国境と為す

投稿者: shuku_remus 投稿日時: 2005/05/28 23:34 投稿番号: [9625 / 18519]
Okinoさま

「此の州」の「州」は、雲州、隠州の「州」と同じような意味とするよう、
並列させて用いられたものと考えます。

読み方については分かりません。意味合いからは「しゅう」になりますが、
音読みよりも、訓読みがよさそうであり、「す」,「しま」,「くに」などが
想像されます。私は「しま」と読んで「しゅう」の意に受けとめています。

                          shuku_remus

>Re:此州を以て国境と為す

投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/05/28 22:48 投稿番号: [9624 / 18519]
shuku_remus様へ

shukuさんは「此の州」の「州」を「しゅう」と読まれているのか、それとも「す」と読まれているのか、どちらでしょうか

以此州為限矣

投稿者: ichibacho 投稿日時: 2005/05/28 22:45 投稿番号: [9623 / 18519]
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835396&action=m&mid=&mid=6389

半月城特有の「外務省が日本領の有力な根拠としてきた『隠州視聴合紀』は、実は逆に不利な材料になってしまい、固有領土の主張が根底から危うくなりました」という妄言に対して、seonsaeng氏を初め、皆さん同じような結論ですな。

            /
           /               
          /     日本の限り        
     高麗    /       ||           
        /       此の州          
       /       (此の二島により構成)   
      /        ┌───┐         
     /         │□ 竹島(鬱陵島)     
    /          │     │         
   /           │    □ 松島(竹島)    
  /            └───┘         

Re:此州を以て国境と為す

投稿者: shuku_remus 投稿日時: 2005/05/28 22:30 投稿番号: [9622 / 18519]
Okinoさま

私の理解する原文の意味は下の絵のようになっています。日本の限りは日本
の北西の地の果ての行政区域である此の州(松島,竹島)となります。海に
国境線を引くとすれば竹島(鬱陵島)と高麗の間にあるのはご指摘の通りです。

                          shuku_remus

            /              
           /               
          /     日本の限り        
     高麗    /       ||           
        /       此の州          
       /       (此の二島により構成)   
      /        ┌───┐         
     /         │□ 竹島(鬱陵島)     
    /          │     │         
   /           │    □ 松島(竹島)    
  /            └───┘         

此州を以て国境と為す

投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/05/28 21:22 投稿番号: [9621 / 18519]
>高麗を見るとした地点は竹島(鬱陵島)からでしょうが、日本の限りを述べるにあたり、地理でなく領土を表明するべく

Okino:
日本の北西の地(つち、陸、大地、場所、領土)即ち日本の北西の領土、此の竹島を以て国境と為す・・・の方がなんかすっきりしますね、なぜなら国境線は一本ですから、もし此の州が松島,竹島なら国境線はどこに引けばいいのだろうか

>>>隠州視聴合紀の此州

投稿者: kikousidayo 投稿日時: 2005/05/28 20:59 投稿番号: [9620 / 18519]
隠州視聴合記   (松江藩士・斉藤豊仙著   1667年)
隠州在北海中故云隠岐島、従是、南至雲州美穂関三十五里、辰巳至泊州赤碕浦四十里、未申至石州温泉津五十八里、自子至卯、無可往地、戍亥間行二日一夜有松島、又一日程有竹島、俗言磯竹島多竹魚海鹿、此二島無人之地、見高麗如自雲州望隠州、然則日本之乾地、以此州為限矣

『続々群書類従』収録分は上記の通りです。名古屋大学大学院文学研究科教授池内敏氏はソウル大付属図書館所蔵の「隠州視聴合記」のものは下記のように、「按神書所謂五十猛歟」が割注として追加されているといわれています。

隠州視聴合記   (松江藩士・斉藤豊仙著   1667年)
隠州在北海中故云隠岐島、従是、南至雲州美穂関三十五里、辰巳至泊州赤碕浦四十里、未申至石州温泉津五十八里、自子至卯、無可往地、戍亥間行二日一夜有松島、又一日程有竹島、俗言磯竹島多竹魚海鹿、「按神書所謂五十猛歟」、此二島無人之地、見高麗如自雲州望隠州、然則日本之乾地、以此州為限矣

1.「俗言磯竹島多竹魚海鹿、按神書所謂五十猛歟」とするものは初耳ですので、kana_ikeuchiさんの
#9597のものは半月城氏のものに近い改竄でないかと思われます。従って# 9600 のte2222000さんの論拠に私も同意します。

2.#9604のshuku_remusさんの考え方
>高麗を見るとした地点は竹島(鬱陵島)からでしょうが、記述では此の二島からとしていますので、地域・諸島の意味として、此の二島(松島,竹島)から(此の二島のある地点から)高麗を見ると文字通りするべきでしょう。
  此洲を竹島・松島の二島にとるか文意から竹島に限定すべきか私にはよく分かりません。何れにしろ斉藤豊仙は両島を日本領と受け取っていることは言い得るとおもいます。
今後の御議論を期待しています。

蛇足:   ATOK16で   ”しま”   と入力して州と変換できる事を今日たまたま発見しました。余計なことで申し訳ありません。

おまけ

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2005/05/28 18:48 投稿番号: [9619 / 18519]
大日本全国略図に記された竹島・松島はどうやら島根県提出の由来による隠岐→松島が80里、松島→竹島が40里という記述に距離的にもあわないようですね。島根県提出書類から大日本全国略図が導けないことはこれからも明らかです。

とにかく

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2005/05/28 18:03 投稿番号: [9618 / 18519]
鬱陵島が竹島と松島に描かれており現在の独島は描かれていないとされる陸軍参謀局の朝鮮全図(1875)と文部省の日本全図(1877)にあわせて「外一島」の理解のために大日本全図略図は貴重な資料となりうるかもしれません。

その点で資料のご提示に感謝いたします。

微妙に違いますか

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/28 17:45 投稿番号: [9617 / 18519]
家鴨と兎さんの見解として、西洋人の地図に限らないと云うことで了解しました。

愚生の見解としては、測量のバックデータの欠落した地図単体では、地名の参照程度がせいぜいだろうと云うことであり、これは既に指摘したように、内務省地理局の由来と、当時の法令から考えてそうだろうと云うことです。

>リアンクール=松島との認識があれば大日本全図略図に竹島・松島があのように描かれる可能性はありません。松島をダジュレーとした、そこに二島認識と三島認識の微妙な混乱が見て取れるということです。

その様な限定条件を付せばと云うことですね。何故その様な限定条件が付くのか、またそれがどの様な因果関係でその様な結論になるのか良く分かりませんが、これも家鴨と兎さんの見解として承ります。

>そうですか

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2005/05/28 17:36 投稿番号: [9616 / 18519]
>つまり、どの様な地図かは分からないけれども、不特定の「西洋人の地図」に影響されたかもしれないと仰りたいわけですね。

微妙に違いますね。西洋人の地図に限りませんので。

私が申し上げたのは、大日本全図略図の竹島・松島は島根県の提出書類にのみよったものではなく他の資料を総合的に勘案した結果の記述であるということであり、その背景においては他の地図(西洋含む)を排除しないということです。

>「では、当時の政府が三島認識していたことを客観的に裏付ける根拠はなんですか」とお尋ねしているのですが。

リアンクール=松島との認識があれば大日本全図略図に竹島・松島があのように描かれる可能性はありません。松島をダジュレーとした、そこに二島認識と三島認識の微妙な混乱が見て取れるということです。

>「たまたま似たような位置に描かれたための錯覚でしょう」と云うことです。

そうですか。「錯覚」と言われたらどうしようもないですね。アホさんが定規で調べろというからわざわざ私も定規を取り出して律儀に確認したわけですが…。

一旦整理

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/28 17:31 投稿番号: [9615 / 18519]
ここで一旦愚生の考えを整理しておきます。
内務省地理局の見解には今のところ三島認識を裏付ける資料は提示されていないが、愚生自らが9574で指摘したように略図の元となった「大日本全国図」を確認する必要は残されている。
従って、現時点で内務省が三島認識をしていたとは言えず、日本政府が三島認識していたことを裏付ける客観的な根拠は他の根拠も含めて提示されていない。

そうですか

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/28 17:19 投稿番号: [9614 / 18519]
つまり、どの様な地図かは分からないけれども、不特定の「西洋人の地図」に影響されたかもしれないと仰りたいわけですね。

リアンコヲルトロツクについての家鴨と兎さんの見解9558では、「当時、明治政府は竹島・松島の二島認識があったことでしょう。もちろんそれ以前の歴史的にもそうです。しかし、三島認識(アルゴノート、ダジュレー、リアンクール)も出てきていた。」と仰るから、「では、当時の政府が三島認識していたことを客観的に裏付ける根拠はなんですか」とお尋ねしているのですが。

9583については、愚生の見解は既に述べましたが、改めて簡略に申し上げますと、「たまたま似たような位置に描かれたための錯覚でしょう」と云うことです。

>勿論

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2005/05/28 17:07 投稿番号: [9613 / 18519]
>しかし家鴨と兎さんが「アルゴノート、ダジュレーに地理的に一致する」と仰るならば、それがどの地図なのか特定して頂かないと分かりませんね。

私はさしあたり大日本沿海略図を参照したので、それでもどうぞご覧になってください。リアンクールが記されていないことについては、私の考えはすでに解答したとおり。

>さて、当時の内務省地理局が入手が可能であったあらゆる地図のうち、どの様な「西洋人の地図」を参照したのですか?

さあ、分かりません。現実としてあるのは大日本全国略図が島根県の提出書類だけでは説明できないこと、それが大日本沿海略図のアルゴノート・ダジュレーとほぼ一致することだけです。

あとは、それにいたった背景となる地図を具体的に特定することは今の段階では不可能でしょう。そこにおいては私は西洋の地図を排除しないというだけの話です。

さて、それはともかく、9583についてはどうお考えですか。

もしかして

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/28 17:01 投稿番号: [9612 / 18519]
川上健三氏の仮説がそうだから、それを無批判に迎合しているだけでしょうか。

愚生の推理はこうです。
島名の混乱は恐らくあった。
しかし、それは単純なものではなく、日本政府官僚組織の縦割り弊害との相乗効果で発生した。
アルゴノートが記載された地図は、或いはDP(位置が疑わしい)として或いは存在そのものが疑わしいとして記載された英国海軍の水路誌などにはあったろう。
しかし、恐らく内務省地理局は水路誌は守備範囲外として参照していない。
それを参照したとすれば海軍だろう。

勿論

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/28 16:50 投稿番号: [9611 / 18519]
現在の国土地理院が保有する地図は、厳密には何時購入したものなのかまで検証しなければなりませんが、今のところそこまでする必要もないでしょう。
また国土地理院は内務省だけでなく陸軍省の資料も引き継いでいますから、国土地理院が保有しているからと云って、それが当時の内務省が保有していたのか迄は蔵書印まで確認しなければ分かりません。

しかし家鴨と兎さんが「アルゴノート、ダジュレーに地理的に一致する」と仰るならば、それがどの地図なのか特定して頂かないと分かりませんね。
確かに仰るように国土地理院は『大日本沿海略図』を保有しています。
しかし測量データも併せて引き継いだ伊能図とは異なり、測量データの裏付けのない地図単体では地名の参照程度にしか使いようがありません。
そうして現に内務省地理局はリアンコヲルトロツクを除外しているのですから、明らかに『大日本沿海略図』は否定されているわけでしょ。

さて、当時の内務省地理局が入手が可能であったあらゆる地図のうち、どの様な「西洋人の地図」を参照したのですか?

>>>引き続き検証

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2005/05/28 16:14 投稿番号: [9610 / 18519]
>随分と曖昧なことを仰るのですね。「西洋人の地図」を特定して下さいな。

曖昧に決まっているではないですか。分かっているのは大日本全国略図が島根の提出書類だけによる地図ではないということ、そしてそれがアルゴノート、ダジュレーに地理的に一致するということだけです。

なお、私が西洋人の地図も含ませたのは入手が可能であったあらゆる地図を地理局が参照した可能性を排除しないためですがそれにあたってはことさら今の国土地理院の古地図コレクションにこだわる必要はないと思いますよ。

どうやら国土地理院の古地図コレクションには大日本国沿海略図も入っているようではありますが。

>内務省地理局の発行した地図では、松島の形状は『大日本沿海略図』のように鬱陵島ではなく、獨島の形状が描かれました、

ご提示いただいたサイトの地図ではとてもそこまで確認できませんでしたが、そうなのですか?島根の提出書類だけによったものでないという私の論旨から申しますと、形状は別にどうでもいいことですが。

>更に『大日本沿海略図』に描かれたリエンコヲルトロツクも描かれませんでした。

回答済み。

>位置関係については、隠岐島との距離が大日本国沿海略図と全く一致しないことが実証されたはずです。

申し訳ありませんが何が「実証」なのか意味が分かりません。私は緯度・経度からほぼ一致すると申し上げました。また大日本全国略図が島根県の提出書類によったものではないとする根拠はすでに9583で示しております。

>実証的に検証されていない仮説に、曖昧な思いこみを加え、それを太政官の判断にまで適用するわけですか。

これは仮説ではなく根拠を示したものです。繰り返しますが、私は大日本全国略図が島根県の提出資料だけで作成されたものでなく、また、その位置関係はアルゴノートとダジュレーにまったくもって一致すると、それぞれ「根拠をあげて」申し上げたのです。
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