竹島
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Re: 保坂ビデオ
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2009/03/12 21:57 投稿番号: [17401 / 18519]
御参考まで
<日本人教授、「独島は韓国の地」>
MBCニュース
2009-03-01
http://imnews.imbc.com/replay/nwdesk/article/2293450_2687.html
日本は、これまで、独島が韓国の地として描かれた古地図が出るたびに、独島ではないと言い張って来ました。しかし、最近、独島の明白な形態が描かれた古地図が新たに確認されましたが、日本はこれさえも歪曲しています。チェ・フン記者が取材しました。
19世紀初め、朝鮮時代に作られた「海左全図」。鬱陵島の隣に「于山島」が描かれています。今の独島です。日本は、独島を表記した古地図が現れるたびに、独島ではなく鬱陵島の付属島であるチュクト(竹島)だと主張して来ました。しかし、チュクトは山がない平たい姿ですが、この地図には峰が明確に描かれています。実際の独島の峰をそのとおりに表示しているのです。
(保坂祐二教授/世宗大学)
「于山島に峰があるということは、とても重要なことです。そうであれば于山島がまさに独島であるということになりますから・・・・」
19世紀中ごろに作成された江原道地図では、確かに峰が二つとして独島が詳しく描かれています。
(保坂祐二教授/世宗大学)
「現在の東島と西島のことを指していると見ることができます。このような地図はとても貴重な地図だと言えます。」
韓国に国籍を変えた日系教授が、独島は韓国の地というまた一つの明白な証拠を捜し出したわけですが、日本はすでにこれを知って、歪曲作業を始めていることが確認されました。日本国立公文書館に保管されている海左全図の筆写本です。
「日本の人々が(我が国の地図を)19世紀あたりに書き写して行ったのです。その時は峰を正確に描いて行ったのですよ。」
しかし、日本の学界は、2年前から、この峰の表示が峰の描写ではなく文字の一部であると歪曲しています。于山島の「于」の字をハナから「宇」の字だと変えてしまって、峰が「于」の字の上にあるウ冠(うかんむり)だというのです。
(翻訳者注:ここの画面で「宇山」の文字の下に「絵図・地図で見た独島問題/日本タケシマ研究会」という字幕あり。)
「峰があれば独島だということになるから、宇宙の宇の字だというふうに歪曲しています。誰が見てもそういう漢字ではないですが・・・・。」
海左全図と19世紀江原道地図だけでなく、大朝鮮国全図と海東輿地図筆写本にもこのように峰が描かれていることが確認されています。
MBCニュース、チェ・フンでした。
これは メッセージ 17398 (yabutarou01 さん)への返信です.
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海外で日系企業が韓国企業に圧迫されている
投稿者: nortonvsetc 投稿日時: 2009/03/12 15:53 投稿番号: [17400 / 18519]
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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Re: 保坂ビデオ
投稿者: take_8591 投稿日時: 2009/03/12 14:47 投稿番号: [17399 / 18519]
保坂氏は、よほど自説に自信がないのでしょう。これは当然です。島に峯が描かれているから独島を描いたのだという珍説は、小学校高学年になれば受け入れないでしょう。
保坂氏は、海左全図の于山島がチェクトでないことを説明するために、航空写真を用意しました。19世紀に空からチェクトを眺めることはできませんでした。19世紀の人が見ることのできなかった風景を持って来なければいけない所に、保坂珍説の醍醐味があります。
なるほど、チェクトは平地のみで構成されているように見えます。
しかし、藪太郎さんのHPを見ると、チェクトは北が高く南が低くなっています。これは、鬱陵島から、海上から眺めたチェクトの姿です。
この予備知識を以って、保坂画像をみると、上のほうに山麓があるように見えます。
保坂珍説は、更に続きます。「日本学界は、2年前からこの峰の絵がウ冠であると主張します。峰をウ冠にして、この島を『宇山島』と読み、この島には峰が存しないと認識します。この絵図からは、誰も『宇山島』の漢字を抽出することはできません。日本学界の歪曲は明らかです。」旨の主張をします。
この日本学界とは、島根県Web竹島問題研究所のことです。
2年前の平成19年3月に、「竹島問題に関する調査研究
最終報告書」をまとめました。この中に、「島根県立古代出雲歴史博物館所蔵の竹島関係地図」という岡宏三氏の報告があります。これを保坂氏は、次の様に扱いました。岡氏が、山麓を示す山形を絵と捉えず、ウ冠と捉えこの下に「于」の文字を読み取り、「宇」の文字を捏造し、宇山島と読み取ったというのです。
この岡宏三氏報告の該当部分は報告書の一部分に過ぎず、少しだけ広く報告書みれば、朝鮮八道図の説明をしていることが判ります。ここで、「同島に附属して于山島(宇山島)描くこと⑦に同じ」としており、于山島と表記されているがこれは「宇山島」意味であると説明していることから、岡氏が正式名称を「宇山島」であると認識していたことが判ります。
要するに、岡氏は「宇山島」を正式名称とし、保坂氏は「于山島」を正式名称と認識しているに過ぎないのです。
ところで、保坂氏は、竹島問題研究所が2年前から保坂珍説を承知しており、それへの対抗の必要性から、海左全図の説明に「宇山島」を使用したと主張しているようです。しかし、保坂珍説を思い付く思考回路が判りませんし、出現が予想し得ない保坂珍説に対抗を取っておく必要性がありません。
尚、竹島問題研究所はテキスト部分で「宇山島」を使用していません。
http://take8591.wiki.fc2.com/?page=090312
これは メッセージ 17398 (yabutarou01 さん)への返信です.
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保坂ビデオ
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2009/03/11 20:53 投稿番号: [17398 / 18519]
日本である教授 "独島は韓国の地"
保坂祐二教授の'于山島に峰がない'説についてのニュース映像を発見しました。
http://imnews.imbc.com/replay/nwdesk/article/2293450_2687.html機械翻訳でうまく訳せてない部分に何と書いてあるかどなたか教えていただけませんでしようか。
あと「2年前から海左全図の峰絵を宇字の一部と歪曲している」とは誰の説なのかどなたか教えてください。私はこの話は始めて聞きました。
--------------------------------------------------------------------------------
引用開始
◀ANC▶
日本はその間独島が韓国地で描かれた古地図の出る度に独島ではないと言い張って来ました.しかし最近独島の明白な形態が描かれた古地図が新たに確認されたが日本はこれさえ歪曲しています.崔勳記者が取材しました.
◀VCR▶
19世紀初め,朝鮮時代に作られた海左全図.鬱陵島の隣に '于山島'が描かれています.今の独島です.
日本は独島を表記した古地図が出る度に独島ではなく鬱陵島の付属島な竹嶼と主張して来ました.
しかし竹嶼は山がない平たいようだが,この地図には峰が明確に描かれています.実際独島の峰をそのまま表示したんです.
◀INT◆ 保坂祐二教授/世宗大学校
"于山島に峰があるということはよほど重要な話です.そのようになれば于山島がすぐ独島という話になるから..."
19世紀中盤に作成された江原道地図には初めから峰が 2開路,独島がもっと詳らかに描かれています.
◀INT◆ 保坂祐二教授/世宗大学校
"現在同道して書道を言っていると見られますよ.このような地図はよほど稀な地図と言えます."
韓国で国籍を変えた日系教授が独島が韓国地というまた他の明白な証拠を捜し出したことだが,日本はもうこれを分かって歪曲作業をしていることで確認されました.日本国立公文書西関に保管中の海左全図筆写本です.
◀SYN▶
"日本の人々が(我が国の地図を)19歳位にベキョがで.その時は峰をよく描いておいて間ことですよ."
しかし日本学界は 2年前からこの峰表示が峰絵ではなく字の一部と歪曲しています.于山島の于者をてんから家優(宇)定木で変えてしまいながら,峰が 于定木の上にあるガッモリというはずです.
◀INT▶
"峰があれば独島になるから,宇宙の愚者式で歪曲しています.だれが見てもそういう漢字ではないが..."
海左全図と 19世紀江原道地図だけではなく対照選局前途(大朝鮮国全図?)と海東輿地図筆写本にもこのように峰が描かれていることで確認されました.
MBC ニュース崔勳です.
これは メッセージ 17392 (yabutarou01 さん)への返信です.
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意見書 & 沖縄から石垣へ
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2009/03/10 20:43 投稿番号: [17397 / 18519]
これは メッセージ 17395 (senkaku_islands さん)への返信です.
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野球も下手のくせに獨島を奪取するなんてw
投稿者: ilkuji_88 投稿日時: 2009/03/10 12:57 投稿番号: [17396 / 18519]
馬鹿な倭寇らめ。w
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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文芸春秋 & 日韓戦で感動したこと
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2009/03/08 20:11 投稿番号: [17395 / 18519]
これは メッセージ 17391 (senkaku_islands さん)への返信です.
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Re: 保坂よこの地図を見よ、どこが独島なの
投稿者: take_8591 投稿日時: 2009/03/07 06:30 投稿番号: [17394 / 18519]
【第1ステージ】
韓国側は、朝鮮が作成した地図・絵図に「于山島」として描かれている島は「独島」である。と主張していました。
その理由として、「于山島が鬱陵島の東に、独島として正確に描かれている。」と主張しました。これを最初に聞いた時は奇異に感じましたが、どうやら、17世紀以前に描かれた絵図は于山島の位置が定まらず、日本側から「ヒョッコリひょうたん島」と揶揄されていたけど、18世紀以降の絵図は于山島を鬱陵島の東に描くことが多くなったので、「独島として正確に描かれている」という主張になった模様です。又、「長久保赤水等の地図でも、竹島・松島のみが描かれ、チェクトは描かれていない。広い地域を描くには、小さな島は省かれることが多い。朝鮮作成の絵図もこれに倣ったものである。」と主張しました。
しかし、前者は、その論理飛躍が明らかですし、後者は、赤水図は竹島・松島のみを描いたが、江戸期の日本人が作成した絵図の多くは、竹島・松島が詳細に描かれ、少なくとも他の島と峻別可能な程度に描かれています。詳細絵図が存しない朝鮮側と同列に論じることはできません。
この様な状態で、両者の議論は平行線をたどっていました。
平行線を辿る議論に決着を付けるには、「どちらに立証責任を負わせるか」という判断が必要です。これを指摘すると、韓国側は「狼たちの国際法が・・・」「朝鮮侵略への反省が足りない」等々・・・訳の判らない反応を示します。
【第2ステージ】
朝鮮が作成した地図・絵図に「于山島」として描かれている島は、一般常識で判断すると「チェクト」であり、「独島」とするには鬱陵島に近すぎました。それでも、韓国側は、于山島=独島の主張を翻しません。
この状況に一石を投じたのがゲーリー氏でした。ゲーリー氏は、「鬱陵島圖形」を示し、そこに「所謂 于山島 - 海長竹田」の文字を発見し、于山島がチェクトであることを証明しました。又、1目盛りが10里で作成されている「逭邱圖」を示し、そこに描かれている于山島が鬱陵島から5Km程度しか離れていない島である事を明らかにしました。
韓国側は、「于山島の描かれた絵図は数百枚ある。その内の2枚の絵図が・・・」と負け惜しみを言いますが、何が描かれているか判らない数百枚の絵図と、はっきりチェクトと判明する2枚の地図の証明力の差は歴然としています。
「逭邱圖」の特徴の一つに、南沿岸に5つの判然としない島影が描かれています。この特徴を引継いだ1899年大韓全図の于山島もチェクトと言うことになります。李氏朝鮮は、その終焉まで鬱陵島を正確に認識することができなかったのです。
【第3ステージ】
最早、為す術が無いのか、韓国側はこの2年間沈黙を守って来ました。この沈黙を破ったのが鉄砲玉を他認する保坂氏でした。保坂氏は、「海東輿地図」に描かれている「于山島」が独島に見えると言います。しかし、これは彼の個人的な趣味嗜好を述べたに過ぎず、ゲーリー氏の指摘が有していた論理性・客観性が欠如しています。何の説得力もありません。
未だ、第3ステージは始まっていないと思われます。
尚、「海東輿地図の于山島」の特徴は、南北に細長い島で、北に山麓があり南に平野が広がっています。この絵図に近いのは、竹嶼・竹島の何れでしょうか。私は、竹嶼であると思います。
http://take8591.wiki.fc2.com/wiki/%E4%BF%9D%E5%9D%82%E6%B0%8F%E3%81%8C%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E6%B0%8F%E3%81%AB%E5%8F%8D%E8%AB%96%EF%BC%9F%E3%80%80090223?sid=ee2d1ac426627a4f920577eb603
4d752
これは メッセージ 17392 (yabutarou01 さん)への返信です.
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Re: 青い海 & 小沢一郎の決断
投稿者: diaoyuzhuyu 投稿日時: 2009/03/05 00:20 投稿番号: [17393 / 18519]
琉球新報 1908年 尖閣列島遊覧希望者に就き
右等の事情によりて●許當分の処は御断わり
● =爰
大日本国誌 内務省地理局 明治
勝沼智一:《尖閣列島の領土問題の歴史と法理》,1973年
これは メッセージ 17391 (senkaku_islands さん)への返信です.
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保坂よこの地図を見よ、どこが独島なのか
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2009/03/04 23:44 投稿番号: [17392 / 18519]
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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青い海 & 小沢一郎の決断
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2009/03/04 21:06 投稿番号: [17391 / 18519]
これは メッセージ 17388 (senkaku_islands さん)への返信です.
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于山島が人形の形???
投稿者: antikoreanbrainwashpropaganda 投稿日時: 2009/03/04 13:33 投稿番号: [17390 / 18519]
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-引用
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-
半月城です。
以前、金正浩『大東輿地圖』に于山島は記載されなかったと書いたのです
が、実は于山島が記載されている版もあることが判明しました。ちょっとした
発見です。塚本氏によれば、国会図書館所蔵の筆彩本(1861頃)第14帖には于
山島が描かれているとのことでした(注1)。おそらく最新版なのでしょう。
塚本氏はさすが同図書館のプロです。
塚本氏のコピーをみると、于山島は大きさが欝陵島の1/15くらい、位
置は欝陵島の東に、形はやや人形のように描かれました。一方、欝陵島の形は
楕円に近く描かれており、いずれも実際の踏査は行われなかったようです。
それにしても『大東輿地圖』が日本で大切に所蔵されていたとは意外でし
た。これは陸軍省あるいは朝鮮総督府あたりから受けついだのでしょうか。
(注1)塚本孝「竹島関係旧鳥取藩文書および絵図(下)」『レファレンス』
1985,5月号,P100、国会図書館の請求記号は 292.1038-Ki 229d
--
-引用終わり
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-
この于山島をどうやって見れば人形に見えるのかw
http://www.flickr.com/photos/21594572@N08/2147328493/
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Re: 中国が法的根拠にしている「カイロ宣言
投稿者: diaoyuzhuyu 投稿日時: 2009/03/04 13:23 投稿番号: [17389 / 18519]
1996 年,美國駐日大使蒙戴爾在接受美國媒體採訪時表示 , “在日美安全條約中沒有強制美軍介入釣魚島糾紛”。
同年10 月 30 日美國駐日大使蒙戴爾仍表示: “日美安全保障條約不適用於尖閣群島”。
毘舎耶国(フィリピン)
完全に誤った
宋朝の《諸蕃志》
流求國=琉球 毗舍耶=臺灣 三嶼=フィリピン
上記には、台湾は毘舎耶国(フィリピン)に属すると書かれてある。
これは確かに笑い話です,日本人の歴史の知識は本当に問題がありますよ,senkaku_islandsさん,そこのところをよく考察されて下さい。
神武天皇の即位年(紀元前660年 辛酉の歳)
どうして即位年は辛酉年ですか?
《易緯》:“辛酉爲革命,甲子爲革令。”
《詩緯》;“辛酉革命,甲子革政。”
日本は陰陽家の“辛酉革命説”を採用しました。
藤井貞幹の《衝口発》
戦国呉太伯の後代の天孫氏と琉球の玉依姫結婚した,そこで神武天皇を生みました。
日本が琉球に属すのであれば、日本は日本の領土ではありません。
日本は中国に比べて,もっと前に台湾を発見することができますか
日本→中国
彌生
(1)去程:弁辰→對馬→遠瀛(沖之島)→中瀛(大島)→築前胸形(宗像)
(2)來程:倭國築前胸形(宗像)→中瀛(大島)→遠瀛(沖之島)→對馬→弁辰
(3)去程:帶方郡→對馬→壹岐→松湧半島
倭
(1)樂浪郡→帶方郡→韓國→倭土各國
(2)帶方(韓國臨津江入海口附近)循海岸航行→乍南乍東→航船至半島西南角折向東(循陸南側行)到達東南角北岸(洛東江口附近)→(利用左旋流)對馬國→瀚海→一支國(壹岐)→末盧國(九州松浦半島)→東南陸行→伊都國→奴國→不彌國→投馬國→邪馬台國(倭女王國)
允恭天皇~欽明天皇
(1)日本(難波)→朝鮮半島→循西海岸北上→經過渤海灣(山東長島縣廟島群島)→(像踏腳石連接遼東半島)→山東半島→登州(現蓬萊)沿大陸南下→到達中國江南地方;
(2)(朝鮮半島西岸)甕津半島→渡黃海→山東半島尖端沿大陸南下→到達江南地方
(3)(日本)自築紫渡韓,似由肥前開洋。(據載,赴韓土之征討軍,留有發自松浦之形跡也。)由松浦出外洋,仍遵三世紀前葉北九洲倭女王卑彌呼與魏、帶方郡交通往返之路:經壹岐→對馬→(韓)任那之金海府沿海岸航行→百濟(彼時無法經過高句麗)渡航黃海(按彼時日本造船術較原始,不易直航揚子江口)先至山東半島沿江蘇海岸南下→建康(江)返回時仍行此路。
推古天皇〜醍醐天皇
北路(渤海路):
(1)壹岐→對馬→朝鮮半島南海耽羅國(濟州島北中間通過)→沿半島西海岸北上甕津半島之角渡黃海→山東半島之角上陸。
(2)壹岐→對馬→沿朝鮮半島及遼東半島東海岸之西端,渡渤海→廟島列島→(山東登州府)文登縣上陸→萊州→兗州→汴州(開封)→長安(此條路線與遣隋使行走路線相同。)
南路:築紫(博多)開洋→值嘉島(平戶島及五島列島之舊名)渡中國東海徑航→長江口/杭州灣→明州(寧波)/越州(紹興)
南島路:築紫(博多)→沿九州肥前、肥後、薩摩西岸南下→多褹(種子島)→夜久(屋久島)→奄美(南島,即奄美大島)折向西航行→渡中國東海→長江口/明州(寧波)陸行揚州→沿大運河邗溝•通濟渠→楚州(淮安)→汴州(開封)經洛陽→長安。
醍醐天皇(延喜8年)〜後宇多天皇(弘安3年)
(1) 來程:博多→平戶島→(宋)明州(偶有駛入泉州者)
(2) 返程:明州(或福州)→(日)平戶島→博多(或敦賀、但馬)
(3) 宋商來往日本之航海路線:發自兩浙斷中國東海→肥前值嘉島→(築前)博多(與唐末、五代相同);或日本海→越前敦賀(返回宋船:敦賀→博多(或壁島,今名加部島)→值嘉島→明州)
龜山天皇(文應元年)〜後光嚴天皇(貞治6年)
博多→慶元
遣明船
(1)遣明船(中國路):兵庫→戶內海→博多→五島→寧波(宋明州,元慶元)→運河→余姚→紹興→蕭山→杭州→嘉興→蘇州→常州→揚州→鎮江→淮安→彭城→濟→天津→北京(明初都南京,由鎮江至南京)。
(2)兵庫(2、3月間或7、8月間發船)→博多(秋季小汛)→五島→渡中國東海(蓋利用秋季小汛東北季風)→北京。
(3)遣明船(南海路):堺→土佐沖→薩摩之坊津→寧波(自坊津起航不經過土佐沖)
明治前
長崎、平戶→寧波、普陀山、溫州、福州、廈門、漳州、廣東
これは メッセージ 17388 (senkaku_islands さん)への返信です.
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中国が法的根拠にしている「カイロ宣言」
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2009/03/04 00:32 投稿番号: [17388 / 18519]
ちょっとここで一息入れたいと思います。
http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/kaimon-1892/上記の解説で軍艦海門は尖閣には行っていない旨記載しました。
http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/kikan-okinawa63/上記「06」の8ページ下段を見れば分かりますが、「同列島に対する実地調査は明治25年軍艦海門によっても行われた(注 ただしこの事実は目下のところ第一次資料によって確認されたものではない)」とあります。
政府の外郭団体が発行した論文にも関わらず、第一次資料で確認していないものを載せるとは噴飯ものですね。日本は食品偽装も建築偽装も歴史歪曲も今や"お家芸"になっております。一次資料で確認されたものではないのであれば、何の資料を見て海門が尖閣に行ったと主張しているのでしょうか?
私が調べれば日本政府もグーの根の出ません。これからも徹底的に調査しアップロードします。
あと、以前どなたかが私のHPを指して「kunitaka氏のHPは国際法からのアプローチが弱い」と言っていましたが、先ずは史料のアップロードと思って、今まで国際法から見た領土問題は記述しておりませんでした。
ここで私の意見を開陳したいと思います。
2004年3月、つまり尖閣諸島の争議が起こったとき、米国国務院のスポークスマンは「1972年以来、尖閣群島は沖縄の一部分である。日本に返還されて以来、その列島は日本政府の行政管轄下にある」ことを明らかにし、続けて「1960年に締結した日米安保条約第五条は、同条約は日本管轄下の領土に適用されるとしており、そのため第五条は尖閣群島にも適用される」と述べております。
尖閣群島は行政上、琉球列島の一部分です。サンフランシスコ講和条約第三条では「南西諸島」内に組み込まれております。第二次大戦後、米国が占領し、27年間管轄し、1972年にその主権は沖縄返還の一環として日本へ返しております。
http://www.libertytimes.com.tw/2008/new/jul/29/today-p7.htmまた、中国が尖閣諸島問題で事あるごとに持ち出している、2つの宣言に対する解釈も間違いです。カイロ宣言もポツダム宣言も宣言というのは、声明、広報であって条約ではないので、もともと法的根拠にはならい。国際法の根拠になるのは条約です。
尖閣が台湾に属すのであれば、尖閣は中国の領土ではありません。
東寧王・鄭経の『閩海紀要(びんかいきよう)』1633年
明の遺臣であった黄宗羲の『賜姓始末』、『鄭成功伝』
金賓の『康煕(こうき)福建通志台湾府』
高拱乾の『台湾府志』
楊廷耀の『台湾府志』
連横の『台湾通史』
郁氷河『裨海遊記』
周元文の『重修台湾府志』
周鐘瑄の『諸羅県志』
雍正帝の『東華録選輯』
黄淑敬の『台海使槎録』
沈起元の『台湾理蕃古文書』
明の遺臣・沈光文の『重修台湾府志』
清の康煕帝の『清聖祖実録選輯』
清の将軍・頼塔の『清史講義選録』
洪亮吉『乾隆府庁洲県図志・台湾府』
呉子光『台湾記事』
※上記には、台湾は毘舎耶国(フィリピン)に属すると書かれてある。
当時の中国の政治家や知識人が書いた書籍だけでなく、国家最高権威の「正史」でさえ、台湾は古(いにしえ)より中国と通ぜずとあります。中国大陸から見て台湾でさえそのような認識しかないのに、台湾より更に先にある無人島の尖閣が中国の領土であるはずがありません。
これは メッセージ 17387 (senkaku_islands さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/17388.html
警告板工事設計書 & 日露首脳会談
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2009/03/03 21:51 投稿番号: [17387 / 18519]
これは メッセージ 17385 (senkaku_islands さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/17387.html
Re: その二つの側面 & 北九州で自民大敗
投稿者: diaoyuzhuyu 投稿日時: 2009/03/03 15:24 投稿番号: [17386 / 18519]
senkaku_islandsさん
日本水路誌 第二巻下 明治41年
地学雑誌 - 1909年10月、第11輯・第130巻 台湾の北東に位する小離島
写真を掲載してください
最新大日本地理集成. 上,下巻 角田政治著. - 改訂,隆文館図書, 大正3−5 国立国会
P395-396 尖閣列島 釣魚嶼 尖閣諸島嶼 黄尾嶼
これは メッセージ 17385 (senkaku_islands さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/17386.html
その二つの側面 & 北九州で自民大敗北
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2009/03/02 21:07 投稿番号: [17385 / 18519]
これは メッセージ 17371 (senkaku_islands さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/17385.html
Re: 日韓新聞報道比較
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2009/02/28 19:48 投稿番号: [17384 / 18519]
>これではまったく文意が通じません。
確かに、通じませんが、次のような読者を量産する効果はあります。
「これから時間が経てばますます独島が韓国のものと言う明白な証拠がたくさん出てくる。日本の人々も自分たちの不利な証拠が多いことを知っているんだろうが、固執するのは何のためなのか。国土拡張欲のためなのか。」
「その立て札が独島の主人が誰かいうことを示す歴史的証拠なら、それが韓国人の手に入って来るとどうして大変だというのか? 本当にそうなら自分たちで手に入れて永遠に証拠湮滅すれば良い。」
「何だと? 当時の日本では独島を鬱陵島と呼んでいた? 日本人たちよ、話になる話をしてこそ人間だと言えるのだ。話にならない話をするからウェノムと言われるのではないか。明々白々な史料さえ否定するならば君たちに残るのは何か? 古事記、日本書紀が虚構なら歴史根拠をどこに求めることか? 良心ある日本人たちの良心宣言を期待する。」
これは メッセージ 17383 (yabutarou01 さん)への返信です.
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Re: 日韓新聞報道比較
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2009/02/28 17:17 投稿番号: [17383 / 18519]
(産経)
江戸時代に「竹島」と呼ばれた韓国領の鬱陵(うつりょう)島について、「朝鮮国に属しており、渡航を禁じる」
(朝鮮)
「独島は韓国の領土なので日本人たちの渡航を禁止する」
(産経)
鬱陵島は現在の竹島(韓国名・独島)とは異なるが、立て札の記述は韓国側が竹島を自国領と主張する際にたびたび引用されているという。
(朝鮮)
「当時の日本では独島を鬱陵島と呼んでおり、鬱陵島は現在の独島とは違うのに韓国側が独島を自国の領土と主張する根拠に誤った主張が引用されており、
(産経)
鬱陵島を舞台に天保7年、石見浜田藩(島根県浜田市)の商人らが行った密貿易について、関係者を処罰したことを伝える内容。その中で、「竹島」という記述とともに「元禄之度朝鮮国江
御渡ニ相成候以来渡海停止候」との記述が読み取れる。「元禄之度」とは元禄5(1692)〜9年に起きた「竹島一件」と呼ばれる鬱陵島をめぐる日本と朝鮮の領有権争い。以降、幕府は領有権を放棄し同島への渡航を禁じており、立て札は幕府の命を受け、改めて掲示されたものとみられる。
(朝鮮)
「独島は韓国の領土なので日本人たちの渡航を禁止する」という内容が書かれた江戸時代の立て札が出品されると報道した。
(産経)
島根県竹島資料室によると、「朝鮮国江御渡」という記述を含む触書は、幕府や諸藩の記録に残っており、韓国メディアが現在の竹島と取り違えて報道するケースがあるという。同県の竹島問題研究顧問の杉原隆さん(70)は「韓国側が『竹島』と記述された鬱陵島の資料を買い集めているという情報もある。史実は変わらないが、今回の立て札も韓国に渡れば自分たちの都合のよい資料として使われるだろう」と指摘するが、同県総務課は「財政状況が厳しいので落札は難しい。韓国側に値段をつり上げられると太刀打ちできない」としており、行方を不安視している。
(朝鮮)
島根県の独島問題研究顧問である杉原氏(70)は、「韓国側が独島と書かれた鬱陵島の資料を買い集めていることは知られているが、この立て札が韓国側に移れば大きな問題だ」とし、論難を呼び起こしている。
産経新聞が「竹島」と書いた部分を朝鮮日報は自動的に「独島」に変換してしまっています。しかも「当時の日本では独島を鬱陵島と呼んでおり」の部分は、どう考えても「当時の日本では鬱陵島を独島と呼んでおり」の間違いとしか思えません。。これではまったく文意が通じません。。。
これは メッセージ 17382 (chaamiey さん)への返信です.
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日韓新聞報道比較
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2009/02/28 15:49 投稿番号: [17382 / 18519]
<鬱陵島渡航禁止の触書がオークションに
韓国側の落札懸念>
産経新聞
2009.2.27
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/090227/trd0902270131002-n1.htm
江戸時代に「竹島」と呼ばれた韓国領の鬱陵(うつりょう)島について、「朝鮮国に属しており、渡航を禁じる」との内容が書かれた江戸時代の立て札が、京都市内で3月に開かれるオークションに出品されることが26日、分かった。
鬱陵島は現在の竹島(韓国名・独島)とは異なるが、立て札の記述は韓国側が竹島を自国領と主張する際にたびたび引用されているという。立て札が韓国に渡る可能性もあり、竹島問題と向き合う島根県の関係者らは成り行きを懸念している。
立て札は天保8(1837)年に書かれたもので、幅73センチ、縦33センチ。「高田役所」の名があり、オークションの主催会社によると、越後高田藩(新潟県上越市)内で掲示された可能性があるという。東日本在住の所有者が出品し、最低落札価格は120万円。3月15日に京都市中京区の同社で公開入札される。
鬱陵島を舞台に天保7年、石見浜田藩(島根県浜田市)の商人らが行った密貿易について、関係者を処罰したことを伝える内容。その中で、「竹島」という記述とともに「元禄之度朝鮮国江
御渡ニ相成候以来渡海停止候」との記述が読み取れる。
「元禄之度」とは元禄5(1692)〜9年に起きた「竹島一件」と呼ばれる鬱陵島をめぐる日本と朝鮮の領有権争い。以降、幕府は領有権を放棄し同島への渡航を禁じており、立て札は幕府の命を受け、改めて掲示されたものとみられる。
島根県竹島資料室によると、「朝鮮国江御渡」という記述を含む触書は、幕府や諸藩の記録に残っており、韓国メディアが現在の竹島と取り違えて報道するケースがあるという。同県の竹島問題研究顧問の杉原隆さん(70)は「韓国側が『竹島』と記述された鬱陵島の資料を買い集めているという情報もある。史実は変わらないが、今回の立て札も韓国に渡れば自分たちの都合のよい資料として使われるだろう」と指摘するが、同県総務課は「財政状況が厳しいので落札は難しい。韓国側に値段をつり上げられると太刀打ちできない」としており、行方を不安視している。
<日本が命をかける「独島高札」は正にこれだ!>
朝鮮日報 2009.02.27 17:34
http://photo.chosun.com/site/data/html_dir/2009/02/27/2009022701281.html#bbs
27日、日本の産経新聞は、3月に日本・京都市内で開催される競売に、「独島は韓国の領土なので日本人たちの渡航を禁止する」という内容が書かれた江戸時代の立て札が出品されると報道した。
同新聞は、「当時の日本では独島を鬱陵島と呼んでおり、鬱陵島は現在の独島とは違うのに韓国側が独島を自国の領土と主張する根拠に誤った主張が引用されており、この立て札が競売によって韓国側に移るとすれば大きな問題だ」と伝えている。
立て札は1837年に日本で作られたもので、幅73センチ、長さ33センチの大きさで、「高田役所」の名前が書かれていて、日本の新潟県で使われた可能性が高いと言う。東日本在住の持ち主が出品して、価格は120万円で、3月15日に京都市で公開入札される。
島根県の独島問題研究顧問である杉原氏(70)は、「韓国側が独島と書かれた鬱陵島の資料を買い集めていることは知られているが、この立て札が韓国側に移れば大きな問題だ」とし、論難を呼び起こしている。
(翻訳は投稿者)
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安龍福事件に対する検証
投稿者: take_8591 投稿日時: 2009/02/27 23:46 投稿番号: [17381 / 18519]
質問集の答えに
1693年に安龍福が連行されたときに独島が朝鮮領であるとの書契を伯耆藩からもらったと主張する人が韓国では多いのですが、日本の史書を照合すると疑問です。ただし、1696年に安龍福がみずから来日した時、彼は欝陵島と子山島(独島)が朝鮮領であると主張したことは日本の村上家文書などから確認できるのですが、1693年の場合は日本の史書ばかりではなく、朝鮮史書を見ても疑問です。安龍福の取調官は、拉致された一介の漁民が領土主張しても日本は認めないだろうと判断していましたし、首相に相当する領議政も同じように考えていました。
私は、そうした疑問点に対して両国の史書を検証して『安龍福事件に対する検証』を韓国水産開発院から出しました。その本は非公開ですが、今後も機会あるごとに韓国へも疑問点をぶつけていきたいと思っています。
--------------------------------------
とありますが。
No.16489
(2008/ 4/22)
に次のとおりです。
(注2)朴炳渉『安龍福事件に対する検証』韓国海洋水産開発院
(近刊予定、日本語および韓国語併記、販売は韓国の政府刊行物販売センター)
更に、
http://han.org/a/half-moon/hm133.html
では、『安龍福事件に対する検証』にリンクが貼ってあります。
そして、「google」で検索すると、トップに表示されます。
2008/ 4/22には、ネット公開可であったものが非公開になったのですか。それとも、全く違う論文なのでしょうか。
尚、シンヨンハ氏の「日本の領有権主張が誤りである理由」の日本語バージョンが、2007年には公開されていたのですが、現在は「日本語版 豫定」となっています。この論文は、デタラメがひど過ぎるので、日本語版が廃止になったと思われます。この論文に比べると、『安龍福事件に対する検証』はまともな論文のように思われるのですが、同じ扱いなのでしょうか。
これは メッセージ 17342 (take_8591 さん)への返信です.
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獨島=石島なら
投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2009/02/27 16:01 投稿番号: [17380 / 18519]
七月に皇城新聞に照会記事が出た後に、「やっぱり我が国の領土だった、日本国の領有はおかしい」というぐあいに反応があるはず。
騒ぎ立てた本人はまだ生きてるわけだし。
よって、獨島=石島という認識は、当時あったということはできない。
すくなくともアリバイは成立しない。
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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池内教授 石島=独島を否定
投稿者: puracyaka2007 投稿日時: 2009/02/27 03:44 投稿番号: [17379 / 18519]
http://www.kr-jp.net/ronbun/ikeuchi/ike-090221.pdf
去る2月21日に行われたシンポジウムですが、池内教授は石島=独島を一蹴したようです(大爆笑)。ちなみに固有領土論は日韓の両者について否定。せっかくだから一部抜粋します。
1906年に、「独島」は鬱島郡主の管轄区域であったという。一方、1900年の勅令41号には「独島」を管轄区域として明記していない。ことは中央政府レベルでの行政区画の画定問題である。仮に「石島」と「独島」が同じ島を指すものだとすれば、1900年と1906年のあいだで、二つの島の名称が異なることについての行政文書での説明が残されておらねばならず、また「独島」を管轄領域とすると明文規定がなされなければ、末端行政官が遵守しようがない。「勅令41号以後の鬱陵島の官制に関する別の勅令が公布されたことがない」とすれば、それはとりもなおさず「独島」が管轄領域としては中央政府レベルでの認知を経ていないことを示すものにほかならない。『独島は大韓民国固有の領土です』における説明としては、論としてまるで転倒している。
この説明では、日本の領土編入措置はどこから見ても合法としかならないでしょう。統監府からの照会にだって「独島」が鬱陵島の所属島と答えられるはずがありません。なにせ、「「独島」が管轄領域としては中央政府レベルでの認知を経ていない」のですから。
これで、竹島編入に対する韓国の無抗議の理由も明らかとなったわけです。なにせ、「「独島」が管轄領域としては中央政府レベルでの認知を経ていない」
のですから。
「外交権が無かったから抗議できなかった。」なる主張は、日本人の贖罪意識を悪用した妄言に過ぎないということは、既に明らかと言えるでしょう。
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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『磯竹島覚書』と于山島
投稿者: take_8591 投稿日時: 2009/02/26 07:48 投稿番号: [17378 / 18519]
これは メッセージ 17342 (take_8591 さん)への返信です.
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『磯竹島覚書』と「竹島一件」
投稿者: take_8591 投稿日時: 2009/02/26 07:40 投稿番号: [17377 / 18519]
竹島の書付によると、安龍福を逮捕し長崎に送る迄の間の、元禄6年(1693年)5月22日に、鳥取藩は、幕府に回答しています。
それは、「竹島鮑への税金を徴収していない」「竹島渡海の詳細は不知」「伯耆守の支配所ではない」という内容です。鳥取藩としては、竹島派兵になったら嫌ですから、両家がお見え資格を持っている事を逆手に取って逃げを打ったのだと思います。
結局、竹島一件は対馬藩が担当することになりますが、口先だけで朝鮮人を動かすのは、今も昔も大変です。対馬藩の論理は正鵠を突き、万機要覧等の朝鮮史書はその交渉経緯を残すことができない程の内容でした。
朝鮮の言い分は、「鬱陵島の領有権を放棄していない」「空地政策を採っている」「その根拠は余地勝覧にある」というものでした。この論理は、大戦後なら通用するでしょう。しかし、17世紀の世界標準ではありません。
一方、日本側としては、「鎖国政策を採っているので他国人と交わるのは困る」「余地勝覧根拠説は検討の余地がある」ということになり、日本も空地政策を採ることにしました。そこで、両家に預けてある「竹島渡海免許状」を取り上げ、竹島渡海を禁止することにしました。
しかし、鳥取藩は大藩ですから、その意向を最終確認する必要がありました。元禄8年12月24日、質問を発しました。『磯竹島覚書』に次のとおりです。
それは、「因州伯州へ付けている竹島は、いつから両国に附属する事になったのか、先祖が両国を領地とする以前のことか、その後のことなのか。」というものです。これにより、半月城さんは、この時の幕府が「鳥取藩の竹島」との認識を有していたと考えているようですが、これはありえません。既に、「伯耆守の支配所ではない」との回答を得て、元禄竹島一件処理に鳥取藩を加えていなかったのですから。又、質問と回答の期間が短すぎます。たったの一日です。
ですから、「竹島は、因幡伯耆の附属ではない」との回答は、意外でも何でもありません。予定されていた内容です。半月城さんは、この「鳥取藩の回答が決め手になり、幕府は竹島などを朝鮮領であると認識したのである」と言われます。この事は、安龍福を釈放する前に決まっていた事なのです。この回答で決まるなら竹島一件は起こっていないのです。
この半月城さんの論理は、二つの問題を含んでいます。一つは、元禄6年の鳥取藩回答を無視していることです。史実を無視して、我田に引水することは許されません。一つは、封建制度下において武士が領しない土地は無く、鳥取藩領でなければ朝鮮領になる。という論理は、内藤氏と半月城さん以外に理解できる人はいません。誰も理解できない論理で、自己の主張を正当化するのは許されません。
半月城さんは、「幕府は鳥取藩の回答に松島が新たに登場したことに関心をもち、さらに松島に関する詳細な質問を追加した。」と言われます。しかし、幕府がした再質問と鳥取藩の回答は松島に限ったことではありません。如何なる史料に基づいたものか疑問に思います。少なくとも、磯竹島覚書にその根拠を求めることはできません。
半月城さんは、鳥取藩回答書を得るまでの「幕府はこの時まで松島の存在を知らなかったのである」と言われます。しかし、隠州視聴合記に「朱印を奉じて竹島松島に渡海する」とあり、山陰地方では両家が、黒印(鳥取藩主の許可)ではなく、朱印(幕府の許可)を得て竹島松島に渡海していることが常識となっていたのです。幕臣阿部家の書状が竹島一件で検討されていなかったとしても、「松島の存在を知らなかった」ということはありえません。
「竹島・松島を一対にして日本領外と」したというのが、半月城さん主張の基本の筈です。そうでなければ、日朝外交文書に「竹島」としか書かれていないのに、松島は朝鮮領になったとは言えないと思います。
そこで、「磯竹島覚書」を色々検討しましたが、この年末年始にかけての幕府と鳥取藩が、「竹島」という文言を用いて「竹島+松島」を認識していないことが明らかになりました。
画像付き記事
http://take8591.wiki.fc2.com/?page=%E3%80%8E%E7%A3%AF%E7%AB%B9%E5%B3%B6%E8%A6%9A%E6%9B%B8%E3%80%8F%E3%81%A8%E3%80%8C%E7%AB%B9%E5%B3%B6%E4%B8%80%E4%BB%B6%E3%80%8D%E3%80%80take_8591
これは メッセージ 17342 (take_8591 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/17377.html
官撰地誌における竹島・松島
投稿者: take_8591 投稿日時: 2009/02/26 07:17 投稿番号: [17376 / 18519]
半月城さんの「明治政府の竹島=独島認識」は次にあります。
http://www.kr-jp.net/ronbun/park/park200810.html
「日本地誌提要」の「巻50隠岐」には次のように記載されています。
島嶼
島津島・・・松島一名島山・・・大森島・・・○本州ノ屬島・・・合計179之ヲ総称シテ隠岐ノ小島ト云○又西北に方リテ松島竹島ノ二島アリ土俗相傳テ云フ・・・松島・・・海路凡69里・・・竹島・・・海路凡100里・・・朝鮮ニ至ル海路136里・・・
この史料を元に半月城さんは、「この官撰地誌において竹島・松島が本州の属島とは別に記載されたが、これは重要である。両島が本州の属島でなければ、もちろん九州や北海道の属島でもなく、両島は日本の領土外として扱われたと解される。」と主張されます。同じ主張が[No.16105]にもあります。
先ず驚くべきは、半月城さんが「本州」を青森から下関で構成される「本州」と解していることです。ここでの「州」は「国」の意味であり、隠岐国を指すことに疑いはありません。こんなことは半月城さん百も承知でしょう。文言解釈は自己の理念に合うように為されるべきと考えられているのでしょう。どの様にでも解釈できるものなれば、インパクトの強いものを採用する方針の様です。
問題は、「本州の属島・・・又西北に松島竹島・・・」の部分です。
私は、次のように解釈します。
日本地誌提要は、77個の袋に分類されています。50番目の袋は隠岐と命名されています。この隠岐の袋を開けると、領域・形勢・・・海峡・島嶼・暗礁・・・と多くの袋が表れます。この島嶼の袋を開けると、「島津島・・・」「本州の属島」「又西北に方リテ松島」の袋が表れます。この「本州の属島」と「又西北に方リテ松島」は袋が違いますから、松島を「本州の属島」の外と解することに問題はありません。しかし、この「本州の属島」と「又西北に方リテ松島」は、「島嶼」の袋の中に入っていますから、松島を本州の「島嶼」内と解するのが相当です。
尚、1905年に吉田東伍が著した「日本地名辞書」は、「地誌提要には隠岐の国に附載して曰く」としています。
半月城さんの間違いは、「島嶼」というヘッダーを抜かして説明していることです。
更に、半月城さんは、学雑誌210号で「本誌200号に掲げた記事は、全く竹島の記事に非ずして、鬱陵島の記事なるが如し。」と本人が否定している論文を参照して、「明治時代の地理学者である田中阿歌麻呂もその(両島は日本の領土外として扱われた)ように理解して『地学雑誌』200号にこう記した」と主張されます。本人が否定していても、「どこまでをリアンクールとして、どこから欝陵島と勘違いしたのかを読み取ること(No.16140)」が必要であると主張します。しかし、本人が否定している論文の中身を詮索して、ここは正しい・ここは勘違いと評価を入れた結果は、それは執筆者本人の主張ではなく、半月城さんの主張に過ぎないと思います。
これらは、史料の改竄にも相当するものです。少なくとも、史料解釈に公平性は無く、我田引水がひどすぎます。必要な文言を抜かしてでも、本人が否定している論文でも、自分の都合の良いように解釈して、「自己の主張にブレがない」様に演じているのです。
以上は、No.16105、No.16134、No.16140、No.16141を現在の私がまとめたものです。
画像付き記事
URL:
http://take8591.wiki.fc2.com/?page=%E5%AE%98%E6%92%B0%E5%9C%B0%E8%AA%8C%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E7%AB%B9%E5%B3%B6%E3%83%BB%E6%9D%BE%E5%B3%B6%E3%80%80take_8591
これは メッセージ 17342 (take_8591 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/17376.html
「抗議出来なかった」のか?3
投稿者: puracyaka2007 投稿日時: 2009/02/26 05:54 投稿番号: [17375 / 18519]
>抗議出来なかったという主張は韓国が証明しなければならないことになります。
では、「抗議出来なかったという主張」を証明するには、韓国はどの程度の証拠をそろえなければならないのでしょうか。(以下、次回)
前回の続きです。
「抗議出来なかったこと。」は韓国が証明しなければならないことはご理解頂けたと思います。
では、この場合に「証明する。」とはどういう証拠を出さなければならないのでしょうか。(たとえば貸金返還訴訟においては、原告は金銭消費貸借契約書とか借用書を出さなければなりません。出せなければ、被告にそんな「事実は
知らない。」と言われて終わりです。。)
かなり古い論文(昭和38年)ですが、皆川洸元一橋大学教授が『竹島紛争と国際判例』で「抗議については、実際に抗議しようとして、それを日本の責めに帰せられるごとく阻止された事実が記録されているかどうかが問題である。回顧的に、現在の韓国政府であったならば抗議したであろうとか、仮説的に、かくかくの事情がなかったならば抗議しえたであろうとか云うのでは問題にならない。」と述べています。
また、川崎孝子(東京国際大)は『日本と国際法の100年第2巻
陸・空・宇宙』(平成12年)の中で、「韓国は、朝鮮政府は当時日鮮協定により、日本政府の完全なコントロール下にあったから、抗議する術がなかったと主張している。知っていたが抗議できなかったというのは、日本が抗議を阻んだ事実が証明されない限り理由にならない。したがって、1905年の日本による正式な領土編入措置と爾後の国家機能の発現は、実効的先占という同島の主権に関する決定的な意味をもつものであり、この事実に基づく「確定的権原」は、仮に韓国が竹島に対する何らかの権原を有していたとしても、そのような「仮説的タイトル」に優先する。」と述べています。
結論的に言いますと、「韓国が抗議しようとしたところ、それを日本が妨害したという具体的な記録を出せ。」ということで、出せなければ抗議できなかったことにならないということです。
これらの専門家の意見を念頭に置くと、杉野洋明氏が発見された皇城新聞1906年7月13日の意味の大きさが判ると思います。統監府が朝鮮政府に対して鬱陵島の所属島嶼を照会して、「該郡所管島はチュク島と石島で、東西が六十里で南北が四十里なので、合せて二百余里だという。」という回答をしていますが、「抗議できなかった。」というのであれば、このときの朝鮮政府の内部文書を公開すべきなのです。統監府の側から照会してるくらいですから、鬱陵島に独島が所属していると回答したところで問題になるとはとても考えられません。(以下、次回)
これは メッセージ 17373 (puracyaka2007 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/17375.html
Re: 「于山島=鬱陵島」と認識の韓国史料
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2009/02/25 22:21 投稿番号: [17374 / 18519]
翻訳を改良して見ました。
<古色蒼然たる歴史的遺跡・鬱陵島を尋ねて!>
鬱陵島・独島学術調査の時、学術調査団隊長として鬱陵島と独島を直接探査された宋錫夏先生の次の文を通じても、石島がすなわちドクソムと発音され、ドクソムが現在の独島であることを把握することができる。
* * * * *
浦項から水路124海里、東方海上の世の中から忘れられたような鬱陵島が歴史に現れるのは、新羅・智証王の13年(西暦512年)であり、今から1430余年前だ。その後、高麗・太祖の13年に、土民白吉、土豆等が方物を奉って来たので位階と官職を与えた。また毅宗の11年(西暦1159年)に 溟州監倉・金柔立を送り、その結果、村落基地7ヶ所と石仏、鉄鍾、石塔等はあるが住民が暮すには不便であるとの報告を得た。その後、李朝・太宗の17年(西暦1417年)には按撫使・金麟雨が鬱陵島から大竹、水牛の皮、綿子、検樸木などを献上したと言う。
これらの歴史的記録は、同島の北西辺の遺跡地域から出土する遺物で良く説明できる。しかし、世宗地理誌や常識的に知られた大竹、大桃などは今は影さえなくて、ただ香木が昔の礼服のように絶壁にかろうじて残っているだけだ。鬱陵島の人煙は数次の無人島時代を経た後、 今から64年前の開拓民移住から始まって現在に至っているが、現存する当時の移民はわずかに一人が沙洞というところに残っているだけだ。
彼らの移住当時の産物であった木材は、その後の乱伐によって一本もなく、全島にいるガクセ(鳥)と海の特産である全鰒は今は滅種に近く、このたびの調査でも発見できなかった。
鬱陵島から再び東へ48海里を行けば、時の脚光を浴びたドクソム(独島)がある。東西ドクソムになっており、西側の島が少し大きく高さ157メートル強であり、 西島は噴火口があるが今は塞がっていて、その下には海水が出入りしている。両島の間には陥没した残骸が残っていて、この残骸を今回の調査隊では「獅子島」と命名した。
歴史的には、李朝・成宗の3年から12年(1472-1481年)までの10年間、この島の問題が沸騰し、朴宗元を敬差官として我が国の逃潜者を捜そうとしたことがあり、富寧の人金漢京らが行って逃潜民を捕まえようとしたが上陸できず、地図だけ書いて帰って来たという。いわゆる三峯島捜覧問題だ。
現在、島民の唯一の基礎的産業はイカ漁だ。7、8、9月の3ヶ月間は、島民のほとんど全部の男たちが夕陽のころになれば発動機船で海に出て夜通し捕獲し、朝早く帰港する。この海の恵沢が全島民一万五千人の生活を支えている。
(古色蒼然たる歴史的遺跡・鬱陵島を尋ねて!/宋錫夏/国際報道3巻1号(新年号) pp.328 /国際報道連盟/国立中央図書館所蔵)
* * * * *
この文は1947年8月16日から8月28日までの第一次鬱陵島・独島学術調査団の派遣の直後に書かれた文であり、当時でも独島は「ドクソム」と称されていたことを示唆していて、独島の語源を糾明するのに重要な意味があると言える。大韓帝国勅令第41号の石島(トルソム)はドクソムである独島であることがさらに明らかになる。
(翻訳終わり)
これは メッセージ 17370 (yabutarou01 さん)への返信です.
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「抗議出来なかった」のか?2
投稿者: puracyaka2007 投稿日時: 2009/02/25 20:19 投稿番号: [17373 / 18519]
>可能性があるとすれば、「抗議しようとしたが、日本の圧力で潰された。」くらいの話でしょうか。では、「抗議しようとしたが、日本の圧力で潰された。」という主張が法的に成立するかどうか次に検討します。
続きです。
外交的抗議を行うことの目的ですが、当然のことながら、相手国の権利発生を阻止することにあります。(ただし、抗議したからといって自国の権利が証明されたわけではありません。抗議が受け入れられる為には、かなりきちんとした根拠が必要です。)
では、「抗議することが不可能だった。」という主張の証明(あるいは逆に抗議可能だったという主張の証明)は誰が行うのでしょうか。
1「抗議することは可能だった。」ということを日本が証明しない限り、「抗議することは不可能だった。」となるのでしょうか。(証明責任は日本が負担する。)
2「抗議することは不可能だった。」ということを韓国が証明しない限り、「抗議することが不可能だったとはいえない。」となるのでしょうか。(証明責任は韓国が負担する。)
日本の民事訴訟法の通説では次のような取り扱いになります。(国際法上の扱いは分かりませんが、たぶん同じではないかと思う。)
権利発生障害事由
権利根拠規定に基づく法律効果の発生の障害を定める規定の要件事実は、その法律効果の発生を争う側に証明責任がある。言うなれば、発生したかに見える権利が実際には発生していないなどの主張である。
竹島について言うならば、「韓国は外交権を奪われていたため日本の竹島編入に抗議出来なかった。」という主張は、もし韓国が外交的自由があれば当然に日本に対し抗議をし、日本の領有権発生を阻止したはずだという主張にほかならず、「発生したかに見える権利が実際には発生していない。」という意味になりますから2です。抗議出来なかったという主張は韓国が証明しなければならないことになります。
では、「抗議出来なかったという主張」を証明するには、韓国はどの程度の証拠をそろえなければならないのでしょうか。(以下、次回)
----------------------------------------------------------------------
chaamiey様、ご紹介の韓国施政改善に関する協議会の記録では、韓国の大臣は伊藤統監に対してかなり食い下がっているように見えます。人も住めない無人島の帰属について伊藤統監に抗議したからといって何か問題があるようにはとうても見えません。
また、伊藤統監は韓国で陸軍が軍用地として収用した土地を半分以上返還させています。私は韓国政府から伊藤統監に対して何らかの働きかけがあったものと推測していますが、これをもってしても竹島ごときで問題が生ずるとは思えません。
これは メッセージ 17366 (puracyaka2007 さん)への返信です.
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外交権の屁理屈。
投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2009/02/25 11:10 投稿番号: [17372 / 18519]
神奈川県には他国との外交権はない。
勝手に条約をむすぶことはできない。
だが、米軍基地にはいつも反対デモがおしかける。
知事だって申し入れも抗議もする。
外交権を奪われていたから抗議できなかったなどというのは、
文面がどうこうなどという以前の屁理屈です。
事実経過としては、顛末として鬱陵郡の範囲を報道して確認した時点で
鬱陵郡ではないという示唆をして終わってます。
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尖閣の油田開発 & 激動!世紀の大事件
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2009/02/23 21:03 投稿番号: [17371 / 18519]
これは メッセージ 17340 (senkaku_islands さん)への返信です.
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Re: 「于山島=鬱陵島」と認識の韓国史料
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2009/02/22 17:50 投稿番号: [17370 / 18519]
恐らく、この文章のことを言っているのではないかと思われます。
浦項で 水路一百二十四海里 東チォックバダソックに 世上で低ぼかしを受けた のような 鬱陵島が 史上にナッアナギは 新羅 智証王十三年 [A.D.512]であり,至今から 一千四百三十余年 前だ. その後 高麗 太祖十三年の時に 土民 白吉 土豆 等が 方物を バッチョッウムで 正位と 正朝官職を与えた.また 毅宗十一年 [A.D.1159]に 溟州監倉 金柔立を送るよ見た 結果 村落基地 七個所と 石仏 鉄鍾 石塔 等はあるが 住民が暮すには 不便すると 報告した. その後 李朝 太宗十七年 [A.D.1417]には 按撫使 金麟雨が 鬱陵島で 大竹水牛皮綿子 検樸木 等を 献上したと言う.
これら 歴史的記録は 同島 北西便 遺跡地域で 出土する 遺物で 能ヒ 説明できる. しかし 世宗地理誌や 常識的に知られた大竹 大桃みたいなことは 只今は 影子さえなくてただ 香木が 昔のザツェを言うように 絶壁右にやっと残っているだけだ. 鬱陵島の 人煙は 数次の 無人島時代をギョックグン後 只今から 六十四年 前に 開拓民の 移住から 始作下は 現在に至ったが 現存一 当時の 移民はやっと限り人が 沙洞というところ残っている だけだ.
イネドルの 移住当時の 産物でも 木材はその後 濫伐で 因しなければならない爆利刀なくて 全島エイッヌン 寄鳥 グァックセと海の 特産 全鰒は 只今は 滅種にガッがウォ この番 調査にも 発見できなかった.
鬱陵島で また 東便で 四十八海里に行けば群れの 脚光を受けたドックソム(独島)が ある.東西 ドックソムになるよ 西チォックソムがちょっと大きくなって 高度百五十七米突であり 西島は 噴火口があるが 只今は支えてその 下部には海物が ドルナックナルナックする.両島の間には 陷沒一 残骸が残っていて この 残骸を今度 調査隊では 獅子島だと 命名した.
歴史的では 李朝 成宗三年で 十二年(1472-1481)まで 十年間 この島の 問題が 沸騰下は 朴宗元を 敬差官ウロして我が国の 逃潜者を 捜そうと韓日があり 富寧人金漢京等歯軋りして 逃潜民に 劫ウルデで※ 上陸できなくて 図形だけ グリョワッダする.所謂三峯島捜覧問題だ.現在 島民の 唯一限り 生命線的 産業は 烏賊魚 漁業だ.七·八·九月の 3ヶ月の間は 島民の巨津 全部の 男子は 夕陽マンドエなら 発動機船で 海に出てウェンバムドングアン 捕獲真書アツムイルズックが 帰浦する. この海の 恵沢が 全島民 一万五千の 生命を受け継ぐ.
--------------------------------------------------------------------------------
(古色蒼然限り 歴史的遺跡 鬱陵島を捜して !/宋錫夏/国際補も 3冊1号(新年号) pp.328 /国際報道連盟/国立中央図書館所長,
(韓国語) かなり後ろの方
http://dokdo.naezip.net/Dokdo/Dokdo3.htmウエブ翻訳
http://honyaku.yahoo.co.jp/url
これは メッセージ 17369 (yabutarou01 さん)への返信です.
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「于山島=鬱陵島」と認識の韓国史料
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2009/02/22 17:20 投稿番号: [17369 / 18519]
山陰中央新報の記事です。
「于山島=鬱陵島」と認識の韓国史料
竹島(韓国名・独島)をめぐり日韓両国が領有権を主張する中、戦後間もない一九四七年に韓国の調査団が、同国側が竹島の古い名前だと主張する「于山島」を鬱陵島と同一視していたことを示す史料が見つかった。二十二日の「竹島の日」を迎え、韓国側の主張の矛盾を裏付けるものとして注目を集めそうだ。史料は、島根県の竹島資料室が見つけた。米軍政下の暫定政府の要請に基づき、竹島などの領有権を固めるため、朝鮮山岳会が四七年八月に学術調査した内容を、民俗学者の同会の宋錫夏会長が翌四八年にまとめた。竹島の北西九十二キロに位置する鬱陵島について、歴史や朝鮮本土からの位置関係など島の概要を紹介している。この中に于山島そのものの表記はないが、「太宗十七年(一四一七年)」の年号や「按撫使の金麟雨が鬱陵島で大きな竹や水牛皮、綿子、検樸木などを献上した」など、一四三一年編さんの韓国の歴史書「太宗実録」で初めて登場した于山島に類似する記述を、鬱陵島のこととしている。また、于山島と関連があるとされる于山国が、歴史書「三国史記」に登場する年号「新羅智証王十三年(五一二年)」も記されている。竹島資料室の錦織希衣さんは「韓国側が調査当時、于山島を鬱陵島と認識していたとみられる」と指摘。「于山島が竹島という韓国側の主張が、成り立たないことを補強できる史料」とした。
于山島をめぐっては、韓国在住の米国人研究家ゲーリー・ビーバーズ氏が、韓国の古地図や文献を基に、于山島は竹島ではなく、鬱陵島の北東に隣接する竹嶼(ちくしょ)を指している、とする研究成果を発表。島根県の竹島問題研究会も同様の見解を示している。
http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=510247004
「米軍政下の暫定政府の要請に基づき」とありますが、米軍政のアメリカ軍人の要請ではなく、暫定政府で独立準備をしていた韓国人高官が公式に調査団を送れないので民間で調査団を結成させたものであると私は記憶しています。
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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Re: 「抗議出来なかった」のか?
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2009/02/22 11:02 投稿番号: [17368 / 18519]
これは、以前にこの掲示板で紹介されていた韓国施政改善に関する協議会の記録です。
国立公文書館アジア歴史資料センター
「単行書・韓国施政改善ニ関スル協議会要領筆記・韓国元老ノ伊藤統監招待会席上談話要領〜」
レファレンスコード
A04017269100
1905年12月に韓国統監府が設置されましたが、統監府と韓国政府との間では定期的な意見交換の場が設けられていました。一部を拾い書きして見ましたが、この資料からも、韓国政府側としては、言いたいことがあるならば言える状況にあったと判断できますね。
韓国施政改善に関する協議会第65回
明治41年(1908年)12月25日
統監府側
統監伊藤博文ほか
韓国政府側
総理大臣李完用ほか各大臣及び次官
<明治42年度の予算についての総括協議>(52枚目から)
伊藤「予算はまとまったのか」
荒井度支部次官「はい、内協議は終わりました。」
伊藤「ではこの席で決定していいわけだな」
李首相「おおよそ昨日の内閣会議でまとまりましたが、なお3点ほど課題が残っています。内務部は、水上警察が原案のとおり3ヶ所は認められないということであれば、せめて一ヶ所は設置したいと言っています。教育部は、実業学校設立が財政上無理ということであれば、小規模な形でもいいから是非やりたいと言っています。それから農商工部の博覧会経費です。これらはいずれも有用な経費ですから何とか予算に入れたいのですが、そうすると他の経費を削ることになるのでなかなか難しく、慎重に考慮しなければいけないと思っているところです。」
伊藤「そう言っても、査定がすんだからには今さら他の経費を削減するというわけにはいかんのではないか。自分の見方としては、韓国では海岸線が長く島も多いから水上警察を設置していくというのは大変だし、今そこまでの必要があるかも良く分からないし、もう少し様子を見るべきではないですかな。実業学校は、既にいくつかある。小さな実業学校を増やしてもあまり意味がないのではござらんか。韓国人が教育に関心を持っているのは事実だが、学んだ者をどう活用するのか。韓国の状況が平常に戻り、人心が実行を重んずる状況にならなければ学校を卒業した者が使用される場がない。」
李教育部大臣「学校の件で一言申し上げます。一方で学校を起こし生徒を養成すると共に、他方において実業を発達させる必要があるというのはその通りです。自分としても、統監がおっしゃるように実業に注目せずにとかく空論に走る傾向があるのは知っており、これは矯正していかなければならないと思っています。その一方で、これまで設置している十三道の普通学校を卒業した者にさらなる高等の教育の道を開こうと思って、十三道に一校の簡易な実業学校を設置する案を出したのです。先般、自分が各地方を巡視して見聞したところによれば、実業学校は全部官立でなくても、公立として地方の資産家から寄付をしてもらうという見込みもあります。そうすれば、一校あたり3〜4000円で設立できます。十三校全部が無理というのであれば半分でも設立したいのです。」
伊藤「あなたの考えは一面ではもっともだが、世の中のことは需要と供給の関係が大事です。」
そして、伊藤は、韓国の実業が卒業生を吸収できるほど発達しているのか、まだ、国民自身が実業を起こすべしという気風がない、それを育てることが先決だ、実業なくして富国はない、実践の土台がないところに高等教育はかえって弊害にもなる、などの長広舌をふるう。統監が強硬に反対するのに対し李教育部大臣はもう一度意見を述べる。
李教育部大臣「来年度設置したいと思っている実業学校は程度の低いもので、例えば農家の子弟に、稲を刈ったあとにはどうすべきかというような簡易なことであって直ちに父兄の職業に応用して利益のある道理と技術を教えるに過ぎないものです。」
これに対して伊藤が再び長い話をして反対を繰り返し、さすがにここでこの件は終了し、他の話にうつる。
これは メッセージ 17366 (puracyaka2007 さん)への返信です.
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「抗議出来なかった」のか?
投稿者: puracyaka2007 投稿日時: 2009/02/22 07:36 投稿番号: [17366 / 18519]
タイトルも含めて書き直しです。
「韓国は外交権を奪われていたため日本の竹島編入に抗議出来なかった。」という主張がありますが、この主張が法的に成立するかどうか検討してみます。
第二次日韓協約での規定は次のようになっています。
第二條 日本國政府ハ韓國ト他國トノ間ニ現存スル條約ノ實行ヲ全フスルノ任ニ當リ韓國政府ハ今後日本國政府ノ仲介ニ由ラスシテ國際的性質ヲ有スル何等ノ條約若ハ約束ヲナササルコトヲ約ス
韓国が日本と締結する条約まで日本国政府の仲介を必要とするという意味でないのは一読して明らかです(これでは民法108条でいう自己契約になってしまう。)。また、第二次日韓協約の規定により置かれた統監の目的そのものが「統監ハ專ラ外交ニ關スル事項ヲ管理スル」こととなっています。「外交権が奪われた」というのは、あくまでも「第三国との外交権」という意味です。
外部の廃止は1906年1月17日ですが、外部事務は議政府に移り、議政府内に外事局が新設されています。
だから、第二次日韓協約後に締結された条約である「森林経営に関する約款」(1906.10.19調印)では議政府参政大臣朴斎純が筆頭署名者になっているわけです。(そのほかにいくつかの条約を締結していることは言うまでもない。)
竹島問題は日韓間での問題ですから、「韓国は日本によって外交権を奪われ、外交を扱う外部が廃止されていて抗議は不可能でした。」という主張が破綻していることは明らかだと思いますがいかがでしょうか。
第二次日韓協約後も日本と韓国がいくつもの条約を締結していることは明らかだし、実務上も様々な交渉を行っていることは明らかですから、「抗議が不可能だった。」という主張が具体的に何を意味しているのかサパーリ分かりません。可能性があるとすれば、「抗議しようとしたが、日本の圧力で潰された。」くらいの話でしょうか。では、「抗議しようとしたが、日本の圧力で潰された。」という主張が法的に成立するかどうか次に検討します。
これは メッセージ 17341 (puracyaka2007 さん)への返信です.
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南小島北小島=中国名
投稿者: diaoyuzhuyu 投稿日時: 2009/02/22 01:27 投稿番号: [17365 / 18519]
一 指南広義 福州回琉球
鳥嶼=鳥島=北小島
花瓶嶼並彭嘉山又用単乙七更取釣魚臺離開水甚緊北過用乙卯並単卯針四更鳥嶼前面黄毛嶼北過用単卯針十更取赤嶼
程順則注;以上十條三十六姓所傳針本抄
二 台海使槎録 南北向 南北峙
臺地負山面海,諸山似皆西向,皇輿圖皆作南北向,初不解;後有閩人雲:臺山發軔于福州鼓山,自閩安鎮官塘山、白犬山過脈至雞籠山,故皆南北峙立。往來日本、琉球海舶率以此山為指南,此乃郡治祖山也。
senkaku−note・尖閣諸島問題
Ⅰ
☆南小島と北小島の名の由来
考えてみよう。なぜ、「北」小島と「南」小島といわれるのだろうか。不思議である。この二つの小島は西小島、東小
島ともいえるのである。そういった方がいいようにさえ思う。南北に並んではいないとまではいえないが、どうもすっき
りとしない。
これは メッセージ 17364 (senkaku_islands さん)への返信です.
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The Senkaku lslands 7 下
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2009/02/21 23:25 投稿番号: [17364 / 18519]
were incorpOI`ated into the ad]ninlstratiVe tel`rltory of the
City of Chllung・ The Summary of Local SclfGovernment
jn thc・ PrQvince of Taiwan, 19G5,an(l the YQallbook of the
Repub】icofChina,1968,specify that the Agine白u代工sland
eon鴎itules the nolth limit or extl・emFnorlh or the Prひ
vinee of Taiwan sjnce the end of the xVar. TheSenkaku
blands alt remote frQrnthe Agincourt lsland by 150Km.
The alave,quotfcl Sunlmary indicates that l珀fore the
Sino-、lapane'se戮'arぐunder the dynastles of Ming and
Ching).the nol‘Lh llmit orTaiwan was Chllung l.sland.and
thatthe訟1ands such as Aglncou践lsland wel・e attached
to TMwan lmder the Japmlebe Rule、
The PeoPle's Republlc or China gave a geographieal
dennitiQn to むhe Ryukvu lslands in the People‘s Daily of
JanuaryS.j953、Aceol・dユngtothlsde侃nitlon,the Senkak11
1slands arc lncluded in the Ryukyu ls】ands exPrゼssly・
The People's Dany uses the .阻panese appe1・tion ゛‘senkaku
Shoto" in place of jts Chinese name “Chogyodai"、 The
Map of PI・Qvjncja1 Div包ions of the PeoPle's Rーpublic
of Chlna of 1964 indleates the Agincourt lsland. not the
Senkaku lslands,as the North limit of the PI・ovince of
Tajwan.
Thus,it is an tlTefutablQ fact that China did not
treat the Senkaku lslands as part of the Provjnceof
Taiwan jn the past. For the Ch拍ese eve, the Senkak11
1slands al・c nol the islands pertailing to Taiwan. At
the eむnclusiQn of the Slno,Japanese PeaceTreaty jn
Aprn 1952, 0r in conncxloD w4th the Artlcle 3 Qf the
San F¥ancjseo Peace Treaty concerning the Senkaku
ls】ands,neither the Government of thきRepubljc of China,
nor the Government of the Peop】e's ReP11♭1ic of China,
hs rajsed any objection. This fzlt underlia`sth“tboth
lhe Governments have not l'egar(1ゼd the Senkaku lslands
as l)e】ongillg to the PI・ovmce ofTaiwan.
Anyway. Chlna has never exerclsed any eaective
c・ollt1‘Qlov脚'the Senkak11 1slands. ll js the case wlth
the Republic cf China, 111d wlth the PeQple‘s Republic of
Chlna.Therefol・e,we can conelude that both the conte滋一
拍g GQvernments agaln5t Japan‘s terrjtorial titles to the
Senkakt・ lslanlls have no le邨1imate ground ln lnternatlonal
Law.
これは メッセージ 17363 (senkaku_islands さん)への返信です.
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The Senkaku lslands 7 上
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2009/02/21 23:24 投稿番号: [17363 / 18519]
m1`Sll・d llQllulion, Mcj、lりL11cヽMILy、tlljs Un1VellsttV dls,
IQU・11ell a 1・t1、s・!n・tヽねt1哨111田197tl,wllkh cQuld nQt condUet
lhe s111・vt≒yQwjれg to nlett・tJlr湛以・、11 ron(IEt柘|珀.
VI.Conclusion
The Senkakublilnds werc・ illc・ol'pQj'ated into Japan゛s
nsltlonal tu・l・110り「in v11・tue of an lnlernntional legal
pl‘jnclple: OM・upatklll. Afler the incQIヽpQration in 1895,
JaPan hEls n叫・・ecleived any ob佃clion agaln、st thig aet
fllclll any coulllry. untU qllile l・ecenUy (1971).Japan
has peaeerlilly occllPled the lslands durlng 75 yeal`s xyith
no olりectlon fllom any Sta加in the world. lndeed, Japan
has e
x
erciscd an e俘e吋ive and eoηstant cQntrol Qver the
Senkakuls】ands,audha8耐・mlv establlshed]ler territol・la]
ljt】estothel]l nluch prjQI・ to the SecQnd lVor】d M7ar.
Afle【・the M'a1・, the Senkaku lslands M・ere placed to-
gethel・ with othc・r Nansei islands under the Alnerican
authorjtv、Thev have been under the eぼective contl・QI
bvtheU.S.Civi1 Administl・ation and the Ryukyu Govern-
ment.The united States of Ameriea has never denied
Japan's residual soverelgnty over the Senkaku lslands、
ltisaworlかMide knQMierlge that the Senkaku lslands
pe1'tanl to lapan・ ln thi・s l'esped, one may quote val'iQus
w哨・1111は1Qs.Fol・ examp知,tlw Cltlzen`s Atlas (jf tl洵
ゝVQrld(Bal・1holQn狗wきdltion).1952,eQlors the Senk4ku
lMlnnlls as the JaPanむlse tQrrltり1・y.The TlmeB Atlas of
thゼXVol`1d(B4汽holo111ew edj,!958,1ndkateg them as
¨Senkaku Gunto¨4fLer tl叫Jipanese pronunc哨Uon.t!le
Wo1'k1 Se14es−China,MQれgolla&Kりrea(13arthり1Qmew
e(1,}.1阻陶.shows ‘・Senkaku Sh以Q・・,and lndlcaUs further
the、lapanese narnQ O【each island.such a・ Koubi Akao
(Akao js a mistakりl pronundat1Qn fQr Sekibl)、The
BI・1Unicals 1VO1・ld Atlas 11拓0,Wrltes IISenkakU lslands"
The xVorld Atlas published jn Engl眩h at Moscow, 1967.
11doPts the Japanee name “Senkaku Gunto". The ?er.
ga1110nゝVol`1d Atlas puhnshed in Engllsh at lyarsaw, 1968,
uyes anothel・ Japancse appellaLlon ‘‘Senkaku ShQtol`.
The nepubHe of China has contlnuously denied her
territol・jal right to the Senkaku lslands, untll quite r6
centLy.This connrmation receive5 suppoれfronl thl
Chinese geographical publlcations.Forexample.aHiston
of the City Gf Ch1Lung・ 1954, edited by the Documentatio,
CommiUee of the Citv、 enumerates 7 islands pertaining t・
thls citv TI廸・Senk日ku l、s】ands are not jnduded amonl
Ulenl Thls bo()k pojnts oul a fad: jt 包oniy anel
19筒tllal tlセ3 isjanris, jlaaping. Cr・・igl andAが゜゜1'l・ら
これは メッセージ 17362 (senkaku_islands さん)への返信です.
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The Senkaku lslands 6 下
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2009/02/21 23:22 投稿番号: [17362 / 18519]
Augllst 12, 196.s,the Chitose identlned 45 Taiwaneses
on Mlnami-kojima,and ordered them to leave the island
imm`ldjatdy. They were working there for the demol1.
tion of sunk ships. 0n July 11, 1970,another case of
unlawful entl’y was identi助d on Kuba-jjma,where 14
Taiwaneseswere demolishing sullk ships. They were
ordered to quit the island without delay・
The Talwaneses wllo had been ordel・ed to 地ave
Mjnami-kojima applied for an entry permission. The
U.S.Civi1 Administration a山nitted the entry or 50 worka`s
onboaj`d of 3 shipg on August 30, 1968,wlth a time limlt
of octoba・31,1969、The num1坦r of per7”itted workers
were revised to 7s. on Aplli1 21, 1969(SeeHCPS412り3〕,
Under the American adminjstelすng authollity, 7
acadelnlcol゛ resources sul‘veyteamsv扨ited the Senkaku
ls】ands.The nr鴎was an entomolo齢Ql survey by Fre
fessor Tdsuo Takara (the Ryllkyu universlty)in1950. 1n
1952,the Ryukyu unlversity (PIlof. 7ゝkara and others)
andtl犯R3ukyu Governnlent゛5 ResourcesBureau(Sinjun
Tawada,technieal staf)efectuated a biologtcal and
resoul‘ces survey・ln1953,the Ryukyu universily (PI’of.
Takara,Motosuke Miyaか,Asslsta11t Professor, andothers}
made a bjological researeh、 lnl963,the Ryukyu unjveF
sity(Prof.Takara,Yoshima Niina, Asslstanl Profe耶吋,and
other幻and the R3ukyu Meteo1QgLca1 Agency (Anshln
lshimine,chier Qmcial of the Maritime Sectlon)conducled
an卯ademic(se訃blr(1s and vegetat1Qn)and marltime meta
ologicalsurvey. ln1968,t1犯Omce of the Prlme Mlnister
(Japan)or斟nized a jolnt survey tQm wlth a mi白sion
to e汀ectuate pl`eliminary geological (petroleum)resear-
ches. The joint survey l6m (h凹ded by Dajsuke Takao㎞,
speciallst member of a Consultallve Commlttee for the
Pro1)1ems of okinawa)w4s cQmposed of the Ryukyu
univenlty(P1・o£Takal`a. Prof邸so1‘ Kjyoshl Kaneshlma
and othel・s)、tbe Rvuk!11 Gむvernment lPubljc Serylc6
Sec・tion of the Cenel’a1 Afa11・s DePurむmenl of the Govern-
mellt,the Yaり「amJ1 Brnnch omc・e of tlle Governlnenl, the
Maritime MelgolQ一回1Ageney,a・lheTaeyama Mcteo・
1ogica1 Station),aれd the City of lshipkl. Thisresources
s11rvev盾「as conducted 3 months prlol・ to the ECAFE’6
sul゛vey.]n l970. the Kyushu unlverslty and the Naga-
saki unjversity dispatched an academic suryey team
(geo】ogy肌ld l〕iむlogy).ln 1971. the Ryukyu universlty
sent a large team (Prore邸or S;1dao lkehal・a and 13
peμo匹)to the gnkaku 【slands fQr nlulUple purposes
{geology. anima】s and plaats.malllneresources,envjron-
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The Senkaku lslands 6 上
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2009/02/21 23:21 投稿番号: [17361 / 18519]
1・1に:
l`|・MI'Co thlsu‘11hlm・l.tht・「い、11kり1ぐliwt・1・lllm・削.llu.
p1's61Uhヽlk,ヽd llsM・t、t、心111Hm lむlg・1 roll hls priyllLely
りglllxl tli1111 jslm111s. Ft11・ llls llt・w ilit・mlle rl・(珀111珀I以lha_
jjm亀(htヽUM'1ヽr1・I・11ヽnt ,・l・m・g(ヽdl山11 wrth apl`1MきII11enL
lax.ln 1970. Kogys nxt・d;lssQts t;lx u'a.R・1211US.山II哨rs,
anE1111、s PI`1`Fn'n靫`111 tax rol・ the miHtal・へk・asQ lncome was
l,1ふO U、S、doll副・s、The1.1ヽgi。1,1Ui1~e・ or the Ryllkyu lslands
垣ls rol~ll1111at以l a l'etiUQn. oll Mallch 5,j955,fQr the
lnklntlo【1りrlheU,S.Cixlll A11milli、Qt1・allonj lhe Governlnむnt
of J、lpan and thlヽUnik・d N以iol狗Organlzallon. in an
m(・kkntl汀tlM so,qllled D印以ln Sdtoku Maru Case vicUme
ばalm以I Mtaclks f1'om two ilon-idcllU6erl junks. The ship
Mas al・ed ill thtヽtel・|'itQrial wate1~sdthe良・nkaku lslands,
mlssing 3 scl`ewmen(March 2, 1955)、工n thls tragedy.
lhe RyukyuGQvel'ninentQ汀ered the consolatory nloney
j`angmg fl・oln gs7、45 U.S.donars to 4,750,65 U.S、dollars
fol・thevic山n fMnlilies on octQber 28, 1967.
0n AI)1‘11,111961,the Cjty of Jshigaki dispatched a
mission to the Senkaku lslands, with a view to coun1・m,
on the spot, the real land values、 This mission uas
mQtlvated bv a new Act for Land RentaI Sla]lilization.
The llllssion was c・harged with a task Qf evaluating on
tllpsP]t l111・ 1・{1111 1111111 1jl'GlucUvily・ ln M、ly 1969,thむ
ls111gilki Cily (thヨ・りugh U袴Mnyりr Mms司りerRetld
lllgヽぷ1rlli」11s11・a11Vel.lnd,marks Qn the lWe jMlaRds, 0Q
Uりtsurレ』11r・il.11・Q clly aulho1~1typlun恥dlspe山肌eQncrQte・
boa1・d e・llumel・uUngLhe S lslandsconsUtul1ηg the Senkaku
凶la叫ls
No`゛.one wlll prQceed tQ lhe jQlr・tAmQricanaRyukyu
CQQperat1Qn Cases against lhe UnlawfUI.frequ1`nti Qntry
by cerUdn citizens into the ten・1torlal waters ol the
Ryllkyu Jslands. Froln 1968 Qn,the Rvukyu-Amerkan
AuthQritks adopled a serles of severely prQbibitivQ
meaRlllsag削11飢this kind of a改iv江y. ln l誂S8,theU、S.
Clvj1A(1mlnjsU'帆lons鴎to ny the patrQl air-erarts arQund
the Senkaku lslanGs, End built Qn them a warnlng Board
whkh reads lls follows:
Entry into any of tha Ryukyu lslands including this
island, or their territorial waters other than lnnGcent
passage, by persons other than the residents of the
Ryukyu lslandsj is subJect to criminal prosecuti()n exeept
as auむhorjzed by the U.S.High Commlssionel'. By order
of the High Commjssioner of咄e Ryukyu lsl2nd.
The R}uk、
x
uGovernmeJltput the CMIQse, ap趾roJ
hQal,al`oun(lt1埓Sellkakll blElnds from j96S on on
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