竹島

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Re: 「于山島=鬱陵島」と認識の韓国史料

投稿者: chaamiey 投稿日時: 2009/02/25 22:21 投稿番号: [17374 / 18519]
翻訳を改良して見ました。


<古色蒼然たる歴史的遺跡・鬱陵島を尋ねて!>

   鬱陵島・独島学術調査の時、学術調査団隊長として鬱陵島と独島を直接探査された宋錫夏先生の次の文を通じても、石島がすなわちドクソムと発音され、ドクソムが現在の独島であることを把握することができる。

                * * * * *

   浦項から水路124海里、東方海上の世の中から忘れられたような鬱陵島が歴史に現れるのは、新羅・智証王の13年(西暦512年)であり、今から1430余年前だ。その後、高麗・太祖の13年に、土民白吉、土豆等が方物を奉って来たので位階と官職を与えた。また毅宗の11年(西暦1159年)に 溟州監倉・金柔立を送り、その結果、村落基地7ヶ所と石仏、鉄鍾、石塔等はあるが住民が暮すには不便であるとの報告を得た。その後、李朝・太宗の17年(西暦1417年)には按撫使・金麟雨が鬱陵島から大竹、水牛の皮、綿子、検樸木などを献上したと言う。

   これらの歴史的記録は、同島の北西辺の遺跡地域から出土する遺物で良く説明できる。しかし、世宗地理誌や常識的に知られた大竹、大桃などは今は影さえなくて、ただ香木が昔の礼服のように絶壁にかろうじて残っているだけだ。鬱陵島の人煙は数次の無人島時代を経た後、 今から64年前の開拓民移住から始まって現在に至っているが、現存する当時の移民はわずかに一人が沙洞というところに残っているだけだ。

   彼らの移住当時の産物であった木材は、その後の乱伐によって一本もなく、全島にいるガクセ(鳥)と海の特産である全鰒は今は滅種に近く、このたびの調査でも発見できなかった。

   鬱陵島から再び東へ48海里を行けば、時の脚光を浴びたドクソム(独島)がある。東西ドクソムになっており、西側の島が少し大きく高さ157メートル強であり、 西島は噴火口があるが今は塞がっていて、その下には海水が出入りしている。両島の間には陥没した残骸が残っていて、この残骸を今回の調査隊では「獅子島」と命名した。

   歴史的には、李朝・成宗の3年から12年(1472-1481年)までの10年間、この島の問題が沸騰し、朴宗元を敬差官として我が国の逃潜者を捜そうとしたことがあり、富寧の人金漢京らが行って逃潜民を捕まえようとしたが上陸できず、地図だけ書いて帰って来たという。いわゆる三峯島捜覧問題だ。

   現在、島民の唯一の基礎的産業はイカ漁だ。7、8、9月の3ヶ月間は、島民のほとんど全部の男たちが夕陽のころになれば発動機船で海に出て夜通し捕獲し、朝早く帰港する。この海の恵沢が全島民一万五千人の生活を支えている。

(古色蒼然たる歴史的遺跡・鬱陵島を尋ねて!/宋錫夏/国際報道3巻1号(新年号) pp.328 /国際報道連盟/国立中央図書館所蔵)

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   この文は1947年8月16日から8月28日までの第一次鬱陵島・独島学術調査団の派遣の直後に書かれた文であり、当時でも独島は「ドクソム」と称されていたことを示唆していて、独島の語源を糾明するのに重要な意味があると言える。大韓帝国勅令第41号の石島(トルソム)はドクソムである独島であることがさらに明らかになる。


(翻訳終わり)
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