Re: 中国が法的根拠にしている「カイロ宣言
投稿者: diaoyuzhuyu 投稿日時: 2009/03/04 13:23 投稿番号: [17389 / 18519]
1996 年,美國駐日大使蒙戴爾在接受美國媒體採訪時表示 , “在日美安全條約中沒有強制美軍介入釣魚島糾紛”。
同年10 月 30 日美國駐日大使蒙戴爾仍表示: “日美安全保障條約不適用於尖閣群島”。
毘舎耶国(フィリピン)
完全に誤った
宋朝の《諸蕃志》
流求國=琉球 毗舍耶=臺灣 三嶼=フィリピン
上記には、台湾は毘舎耶国(フィリピン)に属すると書かれてある。
これは確かに笑い話です,日本人の歴史の知識は本当に問題がありますよ,senkaku_islandsさん,そこのところをよく考察されて下さい。
神武天皇の即位年(紀元前660年 辛酉の歳)
どうして即位年は辛酉年ですか?
《易緯》:“辛酉爲革命,甲子爲革令。”
《詩緯》;“辛酉革命,甲子革政。”
日本は陰陽家の“辛酉革命説”を採用しました。
藤井貞幹の《衝口発》
戦国呉太伯の後代の天孫氏と琉球の玉依姫結婚した,そこで神武天皇を生みました。
日本が琉球に属すのであれば、日本は日本の領土ではありません。
日本は中国に比べて,もっと前に台湾を発見することができますか
日本→中国
彌生
(1)去程:弁辰→對馬→遠瀛(沖之島)→中瀛(大島)→築前胸形(宗像)
(2)來程:倭國築前胸形(宗像)→中瀛(大島)→遠瀛(沖之島)→對馬→弁辰
(3)去程:帶方郡→對馬→壹岐→松湧半島
倭
(1)樂浪郡→帶方郡→韓國→倭土各國
(2)帶方(韓國臨津江入海口附近)循海岸航行→乍南乍東→航船至半島西南角折向東(循陸南側行)到達東南角北岸(洛東江口附近)→(利用左旋流)對馬國→瀚海→一支國(壹岐)→末盧國(九州松浦半島)→東南陸行→伊都國→奴國→不彌國→投馬國→邪馬台國(倭女王國)
允恭天皇~欽明天皇
(1)日本(難波)→朝鮮半島→循西海岸北上→經過渤海灣(山東長島縣廟島群島)→(像踏腳石連接遼東半島)→山東半島→登州(現蓬萊)沿大陸南下→到達中國江南地方;
(2)(朝鮮半島西岸)甕津半島→渡黃海→山東半島尖端沿大陸南下→到達江南地方
(3)(日本)自築紫渡韓,似由肥前開洋。(據載,赴韓土之征討軍,留有發自松浦之形跡也。)由松浦出外洋,仍遵三世紀前葉北九洲倭女王卑彌呼與魏、帶方郡交通往返之路:經壹岐→對馬→(韓)任那之金海府沿海岸航行→百濟(彼時無法經過高句麗)渡航黃海(按彼時日本造船術較原始,不易直航揚子江口)先至山東半島沿江蘇海岸南下→建康(江)返回時仍行此路。
推古天皇〜醍醐天皇
北路(渤海路):
(1)壹岐→對馬→朝鮮半島南海耽羅國(濟州島北中間通過)→沿半島西海岸北上甕津半島之角渡黃海→山東半島之角上陸。
(2)壹岐→對馬→沿朝鮮半島及遼東半島東海岸之西端,渡渤海→廟島列島→(山東登州府)文登縣上陸→萊州→兗州→汴州(開封)→長安(此條路線與遣隋使行走路線相同。)
南路:築紫(博多)開洋→值嘉島(平戶島及五島列島之舊名)渡中國東海徑航→長江口/杭州灣→明州(寧波)/越州(紹興)
南島路:築紫(博多)→沿九州肥前、肥後、薩摩西岸南下→多褹(種子島)→夜久(屋久島)→奄美(南島,即奄美大島)折向西航行→渡中國東海→長江口/明州(寧波)陸行揚州→沿大運河邗溝•通濟渠→楚州(淮安)→汴州(開封)經洛陽→長安。
醍醐天皇(延喜8年)〜後宇多天皇(弘安3年)
(1) 來程:博多→平戶島→(宋)明州(偶有駛入泉州者)
(2) 返程:明州(或福州)→(日)平戶島→博多(或敦賀、但馬)
(3) 宋商來往日本之航海路線:發自兩浙斷中國東海→肥前值嘉島→(築前)博多(與唐末、五代相同);或日本海→越前敦賀(返回宋船:敦賀→博多(或壁島,今名加部島)→值嘉島→明州)
龜山天皇(文應元年)〜後光嚴天皇(貞治6年)
博多→慶元
遣明船
(1)遣明船(中國路):兵庫→戶內海→博多→五島→寧波(宋明州,元慶元)→運河→余姚→紹興→蕭山→杭州→嘉興→蘇州→常州→揚州→鎮江→淮安→彭城→濟→天津→北京(明初都南京,由鎮江至南京)。
(2)兵庫(2、3月間或7、8月間發船)→博多(秋季小汛)→五島→渡中國東海(蓋利用秋季小汛東北季風)→北京。
(3)遣明船(南海路):堺→土佐沖→薩摩之坊津→寧波(自坊津起航不經過土佐沖)
明治前
長崎、平戶→寧波、普陀山、溫州、福州、廈門、漳州、廣東
同年10 月 30 日美國駐日大使蒙戴爾仍表示: “日美安全保障條約不適用於尖閣群島”。
毘舎耶国(フィリピン)
完全に誤った
宋朝の《諸蕃志》
流求國=琉球 毗舍耶=臺灣 三嶼=フィリピン
上記には、台湾は毘舎耶国(フィリピン)に属すると書かれてある。
これは確かに笑い話です,日本人の歴史の知識は本当に問題がありますよ,senkaku_islandsさん,そこのところをよく考察されて下さい。
神武天皇の即位年(紀元前660年 辛酉の歳)
どうして即位年は辛酉年ですか?
《易緯》:“辛酉爲革命,甲子爲革令。”
《詩緯》;“辛酉革命,甲子革政。”
日本は陰陽家の“辛酉革命説”を採用しました。
藤井貞幹の《衝口発》
戦国呉太伯の後代の天孫氏と琉球の玉依姫結婚した,そこで神武天皇を生みました。
日本が琉球に属すのであれば、日本は日本の領土ではありません。
日本は中国に比べて,もっと前に台湾を発見することができますか
日本→中国
彌生
(1)去程:弁辰→對馬→遠瀛(沖之島)→中瀛(大島)→築前胸形(宗像)
(2)來程:倭國築前胸形(宗像)→中瀛(大島)→遠瀛(沖之島)→對馬→弁辰
(3)去程:帶方郡→對馬→壹岐→松湧半島
倭
(1)樂浪郡→帶方郡→韓國→倭土各國
(2)帶方(韓國臨津江入海口附近)循海岸航行→乍南乍東→航船至半島西南角折向東(循陸南側行)到達東南角北岸(洛東江口附近)→(利用左旋流)對馬國→瀚海→一支國(壹岐)→末盧國(九州松浦半島)→東南陸行→伊都國→奴國→不彌國→投馬國→邪馬台國(倭女王國)
允恭天皇~欽明天皇
(1)日本(難波)→朝鮮半島→循西海岸北上→經過渤海灣(山東長島縣廟島群島)→(像踏腳石連接遼東半島)→山東半島→登州(現蓬萊)沿大陸南下→到達中國江南地方;
(2)(朝鮮半島西岸)甕津半島→渡黃海→山東半島尖端沿大陸南下→到達江南地方
(3)(日本)自築紫渡韓,似由肥前開洋。(據載,赴韓土之征討軍,留有發自松浦之形跡也。)由松浦出外洋,仍遵三世紀前葉北九洲倭女王卑彌呼與魏、帶方郡交通往返之路:經壹岐→對馬→(韓)任那之金海府沿海岸航行→百濟(彼時無法經過高句麗)渡航黃海(按彼時日本造船術較原始,不易直航揚子江口)先至山東半島沿江蘇海岸南下→建康(江)返回時仍行此路。
推古天皇〜醍醐天皇
北路(渤海路):
(1)壹岐→對馬→朝鮮半島南海耽羅國(濟州島北中間通過)→沿半島西海岸北上甕津半島之角渡黃海→山東半島之角上陸。
(2)壹岐→對馬→沿朝鮮半島及遼東半島東海岸之西端,渡渤海→廟島列島→(山東登州府)文登縣上陸→萊州→兗州→汴州(開封)→長安(此條路線與遣隋使行走路線相同。)
南路:築紫(博多)開洋→值嘉島(平戶島及五島列島之舊名)渡中國東海徑航→長江口/杭州灣→明州(寧波)/越州(紹興)
南島路:築紫(博多)→沿九州肥前、肥後、薩摩西岸南下→多褹(種子島)→夜久(屋久島)→奄美(南島,即奄美大島)折向西航行→渡中國東海→長江口/明州(寧波)陸行揚州→沿大運河邗溝•通濟渠→楚州(淮安)→汴州(開封)經洛陽→長安。
醍醐天皇(延喜8年)〜後宇多天皇(弘安3年)
(1) 來程:博多→平戶島→(宋)明州(偶有駛入泉州者)
(2) 返程:明州(或福州)→(日)平戶島→博多(或敦賀、但馬)
(3) 宋商來往日本之航海路線:發自兩浙斷中國東海→肥前值嘉島→(築前)博多(與唐末、五代相同);或日本海→越前敦賀(返回宋船:敦賀→博多(或壁島,今名加部島)→值嘉島→明州)
龜山天皇(文應元年)〜後光嚴天皇(貞治6年)
博多→慶元
遣明船
(1)遣明船(中國路):兵庫→戶內海→博多→五島→寧波(宋明州,元慶元)→運河→余姚→紹興→蕭山→杭州→嘉興→蘇州→常州→揚州→鎮江→淮安→彭城→濟→天津→北京(明初都南京,由鎮江至南京)。
(2)兵庫(2、3月間或7、8月間發船)→博多(秋季小汛)→五島→渡中國東海(蓋利用秋季小汛東北季風)→北京。
(3)遣明船(南海路):堺→土佐沖→薩摩之坊津→寧波(自坊津起航不經過土佐沖)
明治前
長崎、平戶→寧波、普陀山、溫州、福州、廈門、漳州、廣東
これは メッセージ 17388 (senkaku_islands さん)への返信です.
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