竹島
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1866年からの真相を語る
投稿者: furieowk 投稿日時: 2003/02/09 03:59 投稿番号: [1080 / 18519]
当時、日本はウンルンドを竹島と呼び、今の竹島を松島と呼んでいました。
このとき日本の内務省は、松島(=今の竹島)の帰属について、両島(ウンルンドと松島)が、朝鮮領土であると結論しました。
しかし「版図ノ取捨ハ重大之事件」であるため内務省は、翌年の1867年3月17日に太政官に「日本海竹島外一島地籍編纂方伺」(付属書類の中で「外一島」を松島と明記)を提出して判断を仰いでいます。
太政官調査局の審査では内務省の見解が認められ次のような文書が起草されました。
別紙内務省伺日本海竹島外一島地籍編纂之件
右ハ元禄五年朝鮮人入島以来旧政府該当ト往復之末遂ニ本邦関係無之相聞候申立候上ハ
伺之趣御聞置之通御指令相成可然哉
此段相候成
御指令按
伺之趣竹島外一島之義本邦関係無之義ト可相心得事
この指令按は、右大臣岩倉具視、参議大隈重信、寺島宗則、大木喬任などによって承認・可決され、同年3月29日正式に内務省に指令された。
すなわち、当時の日本の最高国家機関たる太政官は両島を日本領ではないと公言、この指令は4月9日付で内務省から島根県に伝えられ決着した。
この決定に対しては外務省も異議をとなえていません。
このような過去のいきさつから、日本の外務省が竹島を日本領と主張できないのもうなずけます。
要するに松島(=今の竹島)を日本が朝鮮領とみなしているのです。
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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『成宗実録』と三峰島2
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/02/08 21:56 投稿番号: [1079 / 18519]
「三石列立」と表現された景観は、鬱陵島がふさわしいのか、竹島=独島がふさわしいのかは、両島を見比べてみないと何ともいえないところです。しかし、そのほかの描写からして問題の島を鬱陵島とするのは種々の点で無理ではないかと思われます。
まず、金自周が鬱陵島を描写するとしたら、北海岸の大巌柱付近しか説明しないのはあまりにも不自然で考えにくいところです。その一方で、周囲が数十kmもある大きな島を説明するのに、小さな「巌石(がんせき)」まで取りあげるのは不自然といわざるをえません。
これは、金自周たちが描いた島はそのような大きな島ではなく、小さな島を描写したので小さな巌石まで記述したとみるのが自然なようです。また「海水が通じて流れている」という表現も竹島=独島のほうがより真に迫っていることもたしかです。
一方、川上氏は竹島=独島で最大の島を「中島とするのはあたらない」と書いていますが、その島が最大であるのなら、私にはさして不自然な表現には思えません。むしろ、川上説にしたがえば、鬱陵島本島が「中島」、観音崎や一本立島が「小島」、孔岩が「巌石」に相当することになりますが、そうなると「中島」は小島とは比較にならないくらい巨大でありすぎて、中島という表現自体が成り立たず、川上説はもっと「あたらない」ことになります。
また川上氏は、小島の「観音崎」を大巌柱の付近としていますが、10万分の1の地図でそのあたりには小島は見当たりません。わずかに孔岩という岩があるのみです。一方、
島の東なら至近距離に観音島がありますが、この小島は鬱陵島の西側からはもちろんみえません。金自周は船を島の西に碇泊して観察しているので、たとえ方向を多少変えたところで観音島は本島に重なり、その間に海水が通じて流れていると認識することは不可能に思われます。
さらに、もし金自周たちがたどりついた島が三峰(鬱陵)島なら、同島に二度も行ったことのある金漢京たちが気がつかないはずはありません。とくに、この島には「海から顕著な目標」になっているほどの3本の大巌柱があるとのことなので見逃すはずはないと考えられます。それにもかかわらず、実録に目的とする三峰島に行ったとの記述がないのは、やはり金自周は同島でなくほかの島を見たためと思われます。
以上のように川上氏の反論は根拠が薄弱なようです。やはり金自周がみた島は今日の竹島=独島と見るべきと思われます。
余談ですが、川上氏は外務省の調査官として竹島=独島を日本領とすべく竹島=独島の史料を調査研究し前掲の著書を出版しましたが、そのなかでなぜか明治政府が竹島、松島を放棄した重要な太政官指令だけはまったくふれませんでした(注4)。それを公表すると日本に不利になるので、故意に資料隠しをしたのではないかと疑われます。そうした著書であるだけに読むときは細心の注意が必要です。
(注1)朴永圭『朝鮮王朝実録』新潮社、1997
(注2)『成宗実録』(巻68)成宗7(1476)年6月癸巳條
下書永安道觀察使李克均曰 今見卿啓 知鏡城金漢京等二人 辛卯五月 漂泊三峰島 與島人相接 又於乙未五月 漢京等六人 向此島 距七八里許 望見阻風 竟不得達 此言雖不可信 亦或非妄 今宜別遣壮健可信人三人 同漢京等入送捜覓
(注3)『成宗実録』(巻72)成宗7(1476)年10月丁酉條
兵曹啓 永興人金自周供云 李道觀察使 以三峰島尋覓事 遣自周及宋永老 與前日往還 金興 金漢京 李吾乙亡等 十二人 給麻尚船五隻入送 去九月一六日 於鏡城地瓮仇味 發船向島 同日到宿富寧地青巌 一七日 到宿會寧地加麟串 一八日到宿慶源地末應大 二五日 西距島七八里許到泊 望見則 於島北 有三石列立 次小島 次巌石列立 次中島 中島之西又有小島 皆海水通流 亦海島之間 有如人形 別立者三〇 因疑惧 不得直到 畫島形而來 臣等 謂往年朴宗元 由江原道 發船遭風 不得直到 今漢京等 發船於鏡城瓮仇味 再由此路出入 至畫島形而來 今若更往 可以尋覓 請於明年四月風和時選有文武才者一人入送 從之
(注4)川上健三『竹島の歴史地理学的研究』(復刻版)古今書院、1996
(半月城通信)
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これは メッセージ 1078 (hangetsujoh さん)への返信です.
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『成宗実録』と三峰島1
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/02/08 21:54 投稿番号: [1078 / 18519]
半月城です。朝鮮史料シリーズをつづけます。
1470年、成宗は12歳で第9代の王になりましたが、治世にたけていたようで儒教思想による王道政治を盤石にしたのをはじめ、ほとんどの基礎を完成させたようで、その意味あいから死後「成宗」という廟号を受けました。実際、成宗の時代は朝鮮開国以来もっとも平和な時代で、その後期には平和的すぎて退廃的な雰囲気も生まれるほどでした(注1)。
成宗元年(1470)、朝廷に東北の永安道(咸鏡道)観察使から、賦役逃れの「背国情犯」が「三峰島」に入島する弊害がはなはだしいとの報告が入りました。
朝廷は三峰島を蔚陵島(鬱陵島)と考え、島民を連れ戻すために三峰島敬差官、朴宗元および軍隊を派遣しました。船は大風にあいましたが、4隻のうち3隻が蔚陵島にたどりつき、3日間島を捜索しました。かれらは住居跡を見つけたものの、居住民を発見できませんでした。
その報告を受けた朝廷は、三峰島と蔚陵島はちがうのではないかと考えるようになり、その調査を永安道観察使に命じました。観察使は、かつて1471年に三峰島に漂泊し島民とじかに接したことがあるという鏡城の金漢京たちを派遣しました。
1475年、金漢京たちは三峰島から7,8里(3km)離れた地点において島を望見することができましたが、風が強かったため上陸しませんでした。これらの記録からすると、蔚陵島を永安道では三峰島と呼んでいたようです。
しかし、この報告に疑問を払拭しきれない朝廷は、さらに三峰島のくわしい調査を命じました(注2)。1476年、観察使は金自周に麻尚船5隻を与え、さらに渡航歴のある金興や金漢京、李吾乙亡たちを一行に加えました。金自周たちは、この三峰島探索の過程で今日の竹島=独島を確認したようで、実録にこう記録されました。
『成宗実録』成宗7(1476)年10月丁酉條(注3)
25日、島の西7,8里に碇泊し望見した。島の北には三石が列立し、次に小島がある。次に巌石が列立し、次に中島がある。中島の西にまた小島がある。みな海水が通じて流れている。
また、海島の間に人形のように立っているものが30ある。おそろしさのため島に近づくことができなかった。島の形を絵にして帰った。
島の形を描いた図形は現在伝わっていませんので、島の正確な形は知ることができませんが、この島をめぐって日韓で主張が対立しているようです。川上健三氏はこう記しました(注4)。
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高麗大学校申教授は、上述のように「金自周の語った三峯島の形状は、今の独島とまったく同じである」となし、さらに、「金自周が語った島の北方に三石が列立しているというのは、西島北方に高くそびえた三つの岩島をいったものである」といい、また、中島は西島のことで、小島と岩石とは東島と西島の間に散在している無数の岩を指している、と述べているが、その形状はむしろ鬱陵島に比定する方が、一層自然である。
すなわち申教授は、金自周のいう「中島」を今日の西島に比定しているが、西島は竹島最大の島であって、これを「中島」とするのはあたらない。今日の竹島は、この西島とこれに次ぐ東島とで主島を構成し、これを囲繞する他の岩礁は、その大きさにおいてこの両島とは格段の相違がある。
金自周のいうところは、一つの主島を取りまいて、中島・小島・巌石などの付属島嶼があるように受け取れるので、この点からもこれを今日の竹島に比定することは適当でない。
さらに興味があるのは、金自周の報告にある、島の北にある三石の列立しているという光景である。これは、鬱陵島北端近くの三本立の奇勝を指していると考える方が、より適切である。
三本立ては、海岸の絶壁に近く、高さ5,60メートルの大巌柱が、あたかも鉾を立てたように海面に聳立しており、海から顕著な目標となっているからである。そしてその付近には、金自周のいう小島・巌石に該当する観音崎、一本立島、孔岩等一連の岩礁が点在している。
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(つづく)
これは メッセージ 1069 (hangetsujoh さん)への返信です.
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重要なのは官撰史料
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/02/08 21:50 投稿番号: [1077 / 18519]
半月城です。
kusuo1さんは鬱陵島一島説にこだわるあまり、一島説以外の史料は見ようとしないようです。しかも、論証に官撰史料ではない私的な史料を多用しているようですが、それらはいくら寄せ集めても朝鮮政府の見解にはならず、領有問題にはあまり参考になりません。
たとえば kusuo1さんが結論を導くのに重視した金正浩の地図がそのいい例です。金正浩は地図出版の罪により刑死しましたが、これから察せられるように、かれの近代的な地図は官撰地図ではないので領有問題には参考になりそうにありません。朝鮮の官撰史料では一島説が次第に否定されていくのですが、その過程を私は書きつつあるところです。
これは メッセージ 1071 (kusuo1 さん)への返信です.
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陳腐ですが
投稿者: the_prettiest_girl0308 投稿日時: 2003/02/08 19:17 投稿番号: [1076 / 18519]
ネットも社会の縮図ではありますから。とにかく、実りある議論がなされる事を望みます。
これは メッセージ 1075 (big_face3 さん)への返信です.
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このトピも
投稿者: big_face3 投稿日時: 2003/02/08 14:43 投稿番号: [1075 / 18519]
在日朝鮮人どものプロパガンダに利用されてるだけになっとるのう...。
前は良トピだったが、朝鮮人が絡むだけでこんな惨状になる。
本当に悪性のバイ菌のような民族だな...。
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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>備辺司謄録の見方
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2003/02/08 12:08 投稿番号: [1074 / 18519]
Am I AHOです。
お察しのとおり、国史編纂委員会のサイトで「國訳備辺司謄録」を閲覧することが出来ます。
当該資料は、國史データベース中の「中世史」にて閲覧できますが、UNICODEではなく"euc-kr"で記述されております。
これは韓國語を表現するための文字コードですが、UNICODEではなく、韓國工業規格のようです。愚生の場合はブラウザに韓国語フォントをインストールする事によって閲覧しております。文字化けする場合には、エンコードし韓國語を指定することにより解読することが出来ます。
インストール方法については、下記URLを参考にして下さい。
http://docs.yahoo.co.jp/docs/help/korea/index.htmlちなみに、ご紹介いたしました史料は検索語「武陵」でヒットします。
ただし、画面左上の"Quick Search"は使いづらいので、必ず韓國史データベース中世史画面から検索するようにしてください。
これは メッセージ 1073 (hangetsujoh さん)への返信です.
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備辺司謄録の見方
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/02/07 22:33 投稿番号: [1073 / 18519]
半月城です。
Am_I_AHO_1stさん、備辺司謄録の紹介をありがとうございます。その出所は下記の国史編纂委員会のサイトと思われますが、史料がうまく見れません。サイト内にある UNICODEフォントの組み込みだけではダメなようですが、何かをダウンロードするのでしょうか?
http://www.nhcc.go.kr/
これは メッセージ 1070 (Am_I_AHO_1st さん)への返信です.
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>>属島
投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/02/06 11:06 投稿番号: [1072 / 18519]
それは、勅令と島根県編入の間の話しだけに興味深いですな。半けつさんは、一切触れておりませぬ。都合が悪いのかな?
その組合法には、操業領域や組合設立目的とかは書かれていないのでしょうか。インターネットで探したけど見つかりませんでした。
日本と同様、地方と中央や現場で混乱してたのでは?
これは メッセージ 1066 (Am_I_AHO_1st さん)への返信です.
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>『世宗実録 地理志』と于山島
投稿者: kusuo1 投稿日時: 2003/02/05 23:14 投稿番号: [1071 / 18519]
『世宗實録「地理志」』の原型となる『新撰八道地理志』(一四三二年成稿)が成立する前年に撰進された『太宗實録』には、すでに于山島の名が見えてゐるのである。そして、『世宗實録「地理志」』にはその『太宗實録』の記事が引用されてゐるので、于山島の記事も『太宗實録』を典據としたとみてよいであらう。
事實、『太宗實録』の記事は、武陵島(鬱陵島)條の註のみならづ、『世宗實録「地理志」』の本文にも數多く引用されてゐる。それは『太宗實録』の選者である尹淮や申穡が、『世宗實録「地理志」』の編者でもあつたからである。
その、『太宗實録』(卷三三)十七年二月壬戌條には「按撫使金麟雨、于山島より還り、(中略)居人三名を率ゐて以つて來たる。その島の戸おおよそ十五口、男女併せて八六」とある。
この記事から『太宗實録』では于山島には人が住めると認識されていくのである。その意味で、この『太宗實録』の記事は、『世宗實録「地理志」』に「于山、武陵二島」と併記させ、註記には「一云于山、鬱陵島本一島」と記述させた原點と言へる。
後年、粱誠之は『世宗實録「地理志」』の于山武陵二島に基づき「八道總圖」や「江原道」の圖を描くが、それが『東國輿地勝覽』に收載され、後世を迷はせることになるのである。粱誠之の圖には、于山島は、鬱陵島と陸地の中間の位置に、鬱陵島とほぼ同じ大きさに描かれたため、あたかも實在する島と思わせ續けてきたからだ。
今日、朝鮮時代の古地圖と言はれるものの多くは、この粱誠之の地圖に由來するが、その誤謬も踏襲されている。
英祖十一年(一七三五年)には、この種の地圖による誤解が起きてゐた。『國朝寶鑑』英祖十一年正月條によると、江原道監司の趙最壽が凶年を理由に三年一往の鬱陵島掃討の中止を上啓したが、廷臣「其(鬱陵島)の西に于山島なるもの有り、また甚だ廣濶」とし、鬱陵島掃討を命じている。英祖十一年といへば、鬱陵島の歸屬問題から四十年もたつていない時期である。この時すでに鬱陵島周邊に廣闊な于山島があると信じられていたのは、粱誠之等の地圖で形成された認識が一般化していたからであろう。
しかし、實際に鬱陵島を目撃した人々の鬱陵島認識は、粱誠之の地理觀に惑わされてはいなかった。
『東國輿地勝覧』にも関与した金宗直は、「羽陵行」の中で「于山一点滄溟の中」と詠み、李光庭も「狐嶼隠隠として中に高起す」としたが、江原道に配流された李山海も「海気澄朗なれば則ち領東よりこれを望む、一片の蒼烟の如し」と「鬱陵島記」に記してゐる。いずれも一點、狐嶼、一片と鬱陵一島の存在のみを記し、古地圖では陸地と鬱陵島の中間にあるとされる于山島には觸れていない。
この事實は、粱誠之らの古地圖によって形成された鬱陵・于山島像とは違って、現実に即した鬱陵島認識が別に存在したことを示してゐる。そしてそれは英祖三十三年(一七五七年)、洪良漢の発意で編集された『輿地図書』に至つて確定し、于山島の名も消えていくのである。
さらに、この鬱陵島像は朝鮮時代後期の地理學者金正浩の『大東地誌』にも継承され、やうやく鬱陵島一島のみの近代的な地理観が確立するのである。
これは メッセージ 1069 (hangetsujoh さん)への返信です.
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賦役逃れ
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2003/02/05 22:56 投稿番号: [1070 / 18519]
>太宗時代に武陵(鬱陵)島を空島にする方針が決定され、島民はしばしば本土に連れ戻されましたが、その後も賦役などを逃れるためにこの島に渡る人は絶えなかったようでした。
刷還政策施行後も鬱陵島に渡る者がいましたが、これは必ずしも賦役逃ればかりでは無かったようでした。
備辺司謄録の粛宗19年(1693年)11月14日記事の趣旨から簡単に紹介しましょう。
左議政睦来善「慶尚道沿岸の漁民は、いつも鬱陵島及び外の島に渡っており、漁採を営む民を一切禁止することは難しい。」
右議政閔黯「接慰官が戻れば子細を知ることが出来ますが、如何に厳禁しようとしても、どうしようもない現状です。」
王「海辺の民は、毎日船に乗り海に入らなければならず、禁止して生活の途を断つことは出来ないことであるが、今後は特に申し渡して軽率に渡らないようにさせよ。」
これは メッセージ 1067 (hangetsujoh さん)への返信です.
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『世宗実録 地理志』と于山島
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/02/05 22:13 投稿番号: [1069 / 18519]
今回は、竹島=独島領有問題の重要文献である『世宗実録地理志』の成り立ちなどを補足することにします。この地理志は世宗6(1424)年に編纂が開始されましたが、二段階で制作されたことが序文から読みとれます。
1.東国の地理志は三国史に簡単に記されているのみで、他にこれといった文献がない。
2.そのため世宗大王は尹維、申檣たちに州郡沿革を考察させ、この本を編纂させた。時は世宗14(1432)年となった。
3.その後、行政区域の変動があった。
4.とくに北方の両界地域の新設された州鎮などであるが、それらを該当する道の末尾に変動事項として追加した。
1432年に完成した原本は『新撰八道地理志』とよばれていますが、これは現在『慶尚道地理志』以外は現存しません。
地理志の編纂ですが、王命をうけた戸曹と礼曹は記述に統一性をもたせるため一定の規式を地方官庁に提示し、その回答を編纂する形式で制作されました。
規式は12項目からなりますが、島に関係する部分を見ると「諸島の陸地を去る水路の息数(距離)および前に入民、接居の事実と農作の有無」と書かれています(注1)。しかし、于山島はこれに反して簡単にこう記述されました。
『世宗実録地理志』江原道蔚珍県
「于山、武陵二島は県の東の海中にある。二島はお互いに相去ること遠くなく、天候が清明であれば望み見ることができる。新羅の時、于山国と称した。一に鬱陵島ともいう。その地の大きさは百里である」
規式にしたがえば、于山島や武陵島は蔚珍県からどれくらい離れているかをまず記述すべきですが、そうしなかったのは両島が遠すぎて、実際の距離がよくわからなかったためと思われます。
この規式をたてに下條氏は「于山武陵二島 在縣正東海中 二島相去不遠 風日清明 則可望見」中の「二島相去不遠」を「二島が近くにある事実を示した」にすぎないと解釈しました(注2)。
しかし同氏は、二島がどこの近くにあるのかは明記しませんでした。同氏は規式をたてにしているので、おそらく二島は陸地から遠くないと解釈しているものと思われます。
しかしながらこれは無理です。文中に「相」の字が挿入されているので、遠くないのは二島間の関係であり「二島はお互いに相去ること遠くなく」としか読むことができません。もし二島が陸地から遠くないと書くなら、「相」を落として単に「二島去不遠」で十分です。
一方、もし下條氏が「二島相去不遠」を「二島はお互いに相去ること遠くなく」と解釈しているのなら、つぎにつづく「風日清明 則可望見」の主語はとうぜん二島ということになり、鬱陵、于山島はおたがいに天候がいいときだけ望み見ることができるという解釈になります。
それが前回書いたように、誤読の多い同氏はこれを否定して、主語を恣意的に鬱陵島(蔚陵島)にしてしまい<陸地の蔚珍縣から鬱陵島は望み見える「距離」にある、と解釈せねばならない>と主張しました(注2)。
しかし、なぜ主語が二島のうち鬱陵島(蔚陵島)一島だけなのでしょうか?
同氏の「規式」解釈からすれば、主語は于山島かもしれないし、あるいはむしろ于山島、蔚陵島の二島を主語にするほうが理にかなっています。それにもかかわらず、于山島を抜きにして主語を蔚陵島のみと断定する根拠は文脈上なにもありません。
これは、陸地から鬱陵島は見えても竹島=独島は見えないので、同氏にとって、主語は蔚陵島単独にしないと具合が悪いためかもしれません。したがって、我田引水でも何でも主語を蔚陵島とするしかないようです。何とも浅ましい姿です。
さて地理志の宿命ですが、地理志は完璧なものであっても時代の変化で完成したときから記述の不適合や実際との不一致が始まります。そのため改訂作業はたえず継続する必要があります。
『世宗実録地理志』は完成翌年の1455年から改訂作業が始まりました。梁誠之の『八道地理志』です。完成に21年かかり、成宗7(1476)年に完成しました。これは現存しませんが、これに初めて地図が添付されたようで、それらはもちろん『東国輿地勝覧』やその改訂版である『新増東国輿地勝覧』につながりました。
(注1)方東仁『韓国地圖の歴史』(韓国語)シンギュ文化社,2001
(注2)下條正男「竹島問題、金炳烈氏に再反論する」『現代コリア』1999.5
(半月城通信)
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これは メッセージ 1068 (hangetsujoh さん)への返信です.
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『世宗実録』と于山島2
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/02/05 22:11 投稿番号: [1068 / 18519]
その下條氏がまたもや無理な解釈をしているようです。地理志の「二島相去不遠 風日清明 則可望見」とある部分です。同氏は「風日清明」の前に恣意的に「武陵島」を補い「武陵島は風日清明なれば、すなわち(陸地)から望み見るべし」と読みました(注4)。
このように途中で恣意的に主語を変えて読むのも勝手ですが、そうすると「風日清明 則可望見」の一節がその直前の「二島相去不遠」と切れてしまい文章がうまくつながらず唐突で不自然です。無理な我田引水といわざるをえません。
話が横道にそれましたが、朝鮮王朝は空島政策を堅持すべく、またも武陵島民を連れ戻したのですが、それもつかのまで十年も経つと島へ渡る人がまた続出しました。そのうち、島は特産物が多く、土地は肥え、しかも逃亡者がいるとのうわさもあり、朝廷も放っておけず南薈、者敏を茂陵島巡審敬差官として派遣し、島民を連れ戻したことが実録に記録されました。
『世宗実録』世宗20(1438)年7月戊戌條(注5)
護軍の南薈、司直の者敏が茂陵等から帰り復命した。男女66人を捕らえ、島で産出する砂鉄や鍾乳石、生アワビ、大竹などを進呈した。
いわく、船で発って島に一日一夜で到着した。暁に人家を襲ったが、反抗する者はいなかった。皆本国人である。かれらがいうには、この地は肥沃で豊饒と聞いて一年前の春に密航してきた。
その島は四面がみな石で雑木と竹が林をなしている。西海岸に一箇所碇泊できるところがある。東西は一日くらい、南北は一日半ほどの距離である。
たまに空島政策は島の放棄であると誤解する人がいるようですが、これはもちろん版図の放棄ではありません。世宗の言葉にみられるように、放棄した島は他国領ではなく自国領であり、また自国領であるから空島であれ政策をしくことが可能になります。他国領に空島「政策」をしくことは不可能です。
(注1)『世宗実録』世宗7(1425)年10月乙酉條
于山武陵等處按撫使金麟雨 搜捕本島避役男婦二十人 來復命 初麟雨領兵船二隻 入茂陵島 船軍四十六名 所坐一艘 飄不知去向 上謂諸卿曰 麟雨捕還二十餘人 而失四十餘人 何益哉 此島別無異産 所以逃入者 專以窺免賦役 禮曹參判金自知啓曰 今此捕還逃民 請論如律 上曰 此人非潛從他國 且赦前所犯 不可加罪 仍命兵曹置于忠清道深遠山郡 使勿復逃 限三年復戸
(注2)『世宗実録』世宗18(1436)年閏6月甲申條(注2)
江原道監司柳季聞啓 武陵島牛山 土沃多産 東西南北各五十餘里 沿海四面 石壁周回 又有可泊船隻之處 請募民實之 仍置萬戸守令 實爲久長之策 不允
(注3)『世宗実録地理志』江原道蔚珍縣條(1432,1454)
于山武陵二島 在縣正東海中 二島相去不遠 風日清明 則可望見 新羅時稱于山國 一云鬱陵島 地方百里
(注4)下條正男「竹島問題、金炳烈氏に再反論する」『現代コリア』1999.5
(注5)『世宗実録』世宗20(1438)年7月戊戌條
護軍南薈 司直者敏 回自茂陵島復命 進所捕男婦六十六及産出沙鐵石鍾乳生鮑大竹等物 仍啓曰 發船一日一夜乃至 日未明 掩襲人家 無有拒者 皆本國人也 自言聞此地沃饒 年前春 潛逃而來 其島四面皆石 雑木與竹成林 西面一處可泊舟楫 東西一日程 南北一日半程
(半月城通信)
http://www.han.org/a/half-moon/
これは メッセージ 1067 (hangetsujoh さん)への返信です.
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『世宗実録』と于山島1
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/02/05 22:10 投稿番号: [1067 / 18519]
太宗時代に武陵(鬱陵)島を空島にする方針が決定され、島民はしばしば本土に連れ戻されましたが、その後も賦役などを逃れるためにこの島に渡る人は絶えなかったようでした。
太宗の三男で第四代国王の世宗は、先王の時に武陵島へ派遣された金麟雨をふたたび按撫使に任命し、島民を連れ戻したことが『世宗実録』に記録されました。時は1425年、日本では足利義量の時代です。
『世宗実録』世宗7年10月乙酉條(注1)
于山 武陵等處 按撫使、金麟雨が本島に役を避けた男女20人を捜索、捕らえて復命した。最初、麟雨は兵船二隻で茂陵(ムルン)島に入ったが、船軍46人を乗せた1隻はつむじ風にあい、行方不明になった。
王は諸卿に「麟雨は20余人を捕らえたが、40余人を失ったので、何の益があろうか」と言った。
この島は別に特産物もなく、逃亡者の動機はもっぱら賦役を逃れようとすることにある。礼曹参判・金自知は、今回捕らえた逃亡者を法律にしたがって処罰するよう述べた。
王は「かれらは他国へ密航したのではない。また前にも赦したことがあるので処罰は適当でない」として、兵曹に命じてかれらを忠清道の奥深い山郡に移し、ふたたび逃げ帰れないようにしたうえで3年間賦役を免除した。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
このとき遭難した乗組員は36人が死亡し、10人が日本の石見(いわみ)長浜に漂着し、のちに朝鮮に送り返されたと実録に記録されました。
さて、うえの記事で注目されるのは「于山 武陵等處 按撫使」という記述です。「等」という字から于山と武陵は別々な存在、すなわちそれらは二島として認識されていたことがわかります。
これは『世宗実録』に付属した地理志をみるともっと明瞭になります。この地理志は1432年に完成し、1454年に若干改定されましたが、そこに于山はこう記述されました。
「于山、武陵二島は県の東の海中にある。二島はお互いに相去ること遠くなく、天候が清明であれば望み見ることができる。新羅の時、于山国と称した。一に鬱陵島ともいう。その地の大きさは百里である」(注3)
この一節にみえる于山島を韓国側は現在の竹島=独島とみています。鬱陵島周辺で天候が清明なときだけ見える島というと鬱陵島と竹島=独島の間、または本土と鬱陵島との間しかなく、本土から竹島=独島はみえませんので、文脈からみて韓国側の解釈は妥当なところです。
しかし、これを何としても認めたがらない人がいます。下條教授です。前回書いたように、同氏は太宗実録に関して<于山島は『太宗実録』では鬱陵島の傍らに有る小島とされ>などと事実無根を書いたり、また「傍らの小島」についても誤読をおかしました。
同氏は、ほかの資料でも韓国語の「形便」を「形状」と誤訳して珍説を展開したりするなど、とかくきちんとした論証に欠ける人です。
http://www.han.org/a/half-moon/hm085.html#No.593(つづく)
これは メッセージ 1059 (hangetsujoh さん)への返信です.
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>属島
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2003/02/05 17:26 投稿番号: [1066 / 18519]
それは恐らく、外国領海水産組合法(1902)による鬱陵島の水産組合の話だろう。
1904年頃からリャンコ島へ出漁しているようだが、勿論当時は「外国領」と云う認識ではなかったろうか。なにせ「外国領」海水産組合法だし。
これは メッセージ 1065 (henchin_pokoider01 さん)への返信です.
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属島
投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/02/05 10:06 投稿番号: [1065 / 18519]
半けつさんは、竹島は鬱陵島の「属島」って言い切ってましたよ。だから鬱陵島の渡航禁止に伴い自動的に竹島も放棄したんだって。
2chに出所は不明だけど、「日本人の漁師が竹島でのアシカ漁に、朝鮮人を雇用した。その朝鮮人が「石島」って呼び始めた」ってのがあった。
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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1900年勅令の謎2
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2003/02/04 22:57 投稿番号: [1064 / 18519]
・安眠島は忠清南道に属する島であり、付近に属島あり。
・全羅南道沿岸一帯は多島海とも呼ばれ、無数の無人島や岩礁も点在する。
・濟州の周辺には、無数の無人島や岩礁が存在する。馬羅島は韓國最南端の島であり、済州島の属島である。
・鬱陵島には、観音島・竹嶼・獨島などの付属島が存在する。ただし、獨島は鬱陵島からの直線距離92kmと離れており、竹嶼も2km程離れている。
これは メッセージ 1063 (Am_I_AHO_1st さん)への返信です.
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1900年勅令の謎
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2003/02/04 22:46 投稿番号: [1063 / 18519]
高宗時代の各司謄録などを幾つか調べてみた。
建陽元年
安眠島を洪州郡に全属管轄させる勅令
建陽二年
全州・南原・羅州の三部所属の島嶼に莞島・智島・突山の三郡を増設、霊巌・康津・海南・長興など四郡所属の島嶼を智島郡に移属
・3月7日勅令第14号にて莞島郡の飛禽島・都草島の二島を智島郡に移属
・5月16日勅令第21号にて左水営に麗水郡を新設、順天郡の管下に栗村面・麗水面・サンイル面・召羅面の四面を帰属。
光武二年
地方制度中 管轄勅令改正により濟州牧濟州郡大靜郡旌義郡は全羅南道管轄より独立
・鬱陵島區域を 地方制度中添入
調べた結果、これらに属島は一切出てこない。
1900年の勅令40号も、属島は省略している可能性がある。
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どっちも。。。?
投稿者: nandesho_na 投稿日時: 2003/02/03 07:30 投稿番号: [1062 / 18519]
歴史を遡るとどちらも関係があるんじゃないでしょうかねぇ。。?
人のあまりすまない小さな島に領土、国境という観念ができる以前、そして領海とか漁業権とかそうキマリもまだないときからはっきりとした線引きなく両方が関係を持ってたということじゃないでしょうか?
それが現在の「国家」の時代になってはっきりしないといけなくなってもめだしたとか、、、じゃないんですか?
勉強不足で何も知らなくてごめんなさい。また勉強してきます。それにしてもいつごろからこの論争は始まったのですか?歴史は古いんでしょうか?
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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>『太宗実録』と于山島2
投稿者: nobuo_shoudoshima 投稿日時: 2003/02/02 13:54 投稿番号: [1061 / 18519]
さて。朝鮮王国時代には鬱陵島についての認識ですら曖昧であり、韓国側は鬱陵島近辺の小島と竹島を混同させて混乱を図るなどの策を弄してきたことが、これまでの討論の結果、明らかになった。
つまり、日本が指摘して初めて朝鮮側は現在の竹島の存在を認識したわけであるが、当時の李氏朝鮮の国家体制は腐敗し堕落していたために実効支配を行うことが不可能であったことも証明された。
鬱陵島についての認識も曖昧であったという点から、韓国の鬱陵島への実効支配にも疑問が持たれるのは当然である。
古代からの因縁から考えても鬱陵島がどちらに属するかは(私の書き込みからもわかるように)明らかである。
また、戦後の支配についても、国際法、条約について正確な認識を持つ能力が無く、誤った歴史認識を持つ国家による支配が実効的支配であるかも疑問となる。
(shoudoshima通信)
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【再掲】
投稿者: nobuo_shoudoshima 投稿日時: 2003/02/02 13:35 投稿番号: [1060 / 18519]
済州島は、過去、耽羅国と呼ばれていた独立国であった。
日本書紀にも「忱彌多禮トミタレ」として記述がある。
「非時の香の木の実」の伝説にある「常世の国」とは済州島のことであったという可能性が高い。
また、高麗地理誌などに記述のある済州島の開国神話である三姓神話によると、済州島には昔、人が住んでいなかった。3人の神が地面から忽然と姿をあらわしたのが始まりであるという。
そして、3人の神は碧浪国から訪れた3人の王女と結婚したという。
『碧浪国』つまり碧い浪という名称から、当時、日本海を制していた海洋民族をイメージすることは容易である。
古代においては、百済に服属したとされるが、その後の百済滅亡、百済の王族が日本に亡命したという歴史の流れも見逃せない。事実、古代史を詳細に読み解けば、古代の日本が東アジア一帯において強力な影響力を持っていたことは容易に理解できる。
耽羅国が日本に貢献したという記録もあり、日本との深い関わりを示している。
そして、朝鮮によるその後の支配も必ずしも実効的であったとは言えないのではないかという疑問もある。
前の鬱陵島についての考察でも明らかなように、朝鮮の島嶼部への認識は極めて貧しいものであった。
この島嶼部一帯への支配についての疑問もクリアーになった。
「世宗実録」に
「倭人不過一二而本国之民仮著倭服成党作乱」
という記述があり。「倭人は1、2に過ぎずして、本国の民、仮に倭服を着して党を成し乱を作す」と読めることから、倭寇の正体は朝鮮の民衆であったという説があり、謎の部分でしたが、これは即ち「朝鮮の文化圏には属さないが、行政の区分上は朝鮮の版図にある」人々が「倭寇」であったと考えるのが自然です。
近年でも済州島4・3事件があり、日本は相当数の避難民(現在の在日朝鮮人の多く)を受け入れてきたという事実があるように、これらの島々と日本との関係は決して浅くはありません。
(shoudoshima通信)
これは メッセージ 1059 (hangetsujoh さん)への返信です.
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『太宗実録』と于山島2
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/02/02 08:44 投稿番号: [1059 / 18519]
これらの資料に関して、下條氏はこう指摘しました(注4)。
<于山島は『太宗実録』では鬱陵島の傍らに有る小島とされ、島の入り口が「わずかに一人を通じて並行すべからず」と記録されている事から判断しても、古地図に書かれた于山島は今日の竹嶼島とすべきである>
下條氏は、実録にある「傍らの小島」を于山島と決めつけていますが、これは憶測に過ぎず『太宗実録』にはそのような記述はありません。
つぎに下條氏は「島の入り口がわずかに一人を通じて並行すべからず」と書かれている島を「傍らの小島」=于山島としていますが、これは誤読です。文脈からして朴習の奏上は武陵島の説明に終始していることは明らかです。もし奏上で「その田は50余結」とされている島を「傍らの小島」にしてしまうと、本題の武陵島の説明が皆無になってしまうので、文脈上あきらかに無理です。下條氏は相変わらず思いこみが激しいようです。
さて、実録の記事だけを客観的に整理すると下記のようになります。
1.流山国の島民の話では、武陵島に11家族、60名が住んでいる
1.かって朴習がきいたところでは、武陵島に方之用ら15家族が住んでいる。
2.また、武陵島の傍らに小島がある。
3.金麟雨が行った于山島には15家族、86名が住んでいる。3名を連れ帰った。
ここで于山島に15家族が住んでいると書かれていることが注目されます。その一方、武陵島に15家族、あるいは11家族が住んでいるとされているので、どうやら于山島と武陵島は同じ島をさしているようです。
これは、太宗が武陵島の調査に派遣した金麟雨が武陵島ではなく于山島から帰ってきたと記述されているので、両島は同一の島をさしている可能性がますます強くなります。本来なら金麟雨を武陵島に派遣したので、武陵島から帰って来たと記述するのがあたりまえです。そう書かないのは于山島を于山国と混同したか、あるいは武陵島と混同していた可能性が高くなります。
その一方で、于山島を「傍らの小島」と考えていた可能性も考えられますが、その場合はその小島に15家族も住んでいたかどうかの検証が別途必要になります。
他方、ここで注目されるのは、江原道の観察使が武陵島の傍らに「小島」があると認識していたことです。これは竹島=独島かもしれないし、あるいは現在の竹嶼であるかもしれません。
要するにいろいろな可能性が考えられますが、『太宗実録』では流山国や于山島、武陵島、「傍らの小島」相互の関係はあいまいなままです。1403年というと、日本では室町時代初期、足利義満の時代になりますが、当時は鬱陵島を記した地図もなかったようであり、離れ小島の認識があいまいなのも無理はありません。
そうした初期のあいまいな資料だけをことさら取りあげて、今日の領有権問題に直結する下條氏の手法ははなはだ疑問です。
太宗期のあいまいさも時代がくだるにつれ次第に認識が正確になり、竹島一件により確定的になりますが、これについてはおいおい書くことにします。
(注1)『太宗実録』太宗12年4月己巳條
命議政府 議處流山國島人 江原道觀察使報云 流山國 白加勿等十二名 來泊高城於羅津 言曰 予等生長武陵 其島内人戸十一 男女共六十餘 今移居本島 是島自東至西 自南至北 皆二息 周回八息 無牛馬水田 唯種豆一斗・・・
(注2)『太宗実録』太宗16年9月庚寅條
以金麟雨爲武陵等處按撫使 戸曹參判朴習啓 臣嘗爲江原道觀察使 聞武陵島周回七息 傍有小島 其田可五十餘結 所入之路 纔通一人 不可竝行 昔有方之用者 率十五家入居 或時假倭爲寇 知其島者 在三陟 請使之往見 上可之 乃召三陟人 前萬戸金麟雨 問武陵島事 麟雨言 三陟人李萬 嘗往武陵而還 詳知其島之事 召李萬 麟雨又啓 武陵島遙在海中 人不相通 故避軍役者 或逃入焉 若此島多接人則 倭終必入寇 因此而侵於江原道矣 上此然 以金麟雨爲武陵等處按撫使 以萬爲伴人 給兵船二隻 抄工二名 引海二名 火〓火藥及糧 往其島 諭其頭目人以來 賜麟雨及萬衣笠靴
(注3)『太宗実録』太宗17年2月壬戌條
按撫使金麟雨還自于山島 獻土産大竹水牛皮生苧綿子檢樸木等物 且率居人三名以來 其島戸凡十五口 男女并八十六 麟雨之往還也 再逢颱風 僅得其生
(注4)下條正男「竹島問題、金炳烈氏に再反論する」『現代コリア』1999.5
(半月城通信)
http://www.han.org/a/half-moon/
これは メッセージ 1058 (hangetsujoh さん)への返信です.
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『太宗実録』と于山島1
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/02/02 08:42 投稿番号: [1058 / 18519]
高麗末期、倭寇討伐などで英雄になった李成桂は 1392年、高麗王朝にかわり朝鮮王朝を建国しました。そのころになると倭寇の勢力もだいぶ弱まりましたが、消滅したわけではありませんでした。
それから11年後の1403年、3代目の太宗は倭寇を警戒、江原道観察使の建議をいれ「武陵島居民」に島を出て本土に移るよう命令をだしました。武陵島とは鬱陵島をさします。
しかし、この命令はどこまで徹底したのか疑問でした。1412年、太宗は鬱陵島の実情調査を命じたところ、江原道観察使は「流山國島人 白加勿等十二名が江原道高城於羅津にやって来て、自分たちはもともと武陵で生長したが、その島には今11戸60名が住んでいると告げた」ことなどを報告しました(注1)。流山(ユサン)国とは、新羅時代の于山(ウサン)国の名が転訛したものです。
政府は、白加勿たちが武陵島に逃げ帰ることをおそれ、かれらを通州などに分けて居住させ、空島方針を堅持しました。1416年、空島方針は下記のように政策として決定されました(注2)。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
『太宗実録』太宗16年9月庚寅條
金麟雨を武陵等處按撫使となす。戸曹参判 朴習は王にこう奏上した。
「かって臣が江原道の観察使だったときに聞いた話では、武陵島は周囲が7息で、傍らに小島があります。その田は50余結で、入る道は人ひとりがやっと通れるくらいで、ふたりが並ぶことはできません。昔、方之用という者が15家族を引率して入って住み、時には倭人を装って本土を侵したりしました。その島を知る者が三陟にいますので、その者を派遣し調査させてください」
王は許可した。三陟人の前萬戸・金麟雨を呼び、武陵島のことを尋ねた。金麟雨は「三陟人、李萬がかって武陵島に渡りその島をよく知っています」と述べた。そこで李萬を呼んだ。金麟雨はまた奏上した。
「武陵島ははるかな海中にあり、人が通わないので、軍役を避ける者や逃亡者が島に入ることがあります。もし、この島に多くの人が入れば、ついには倭寇がかならず入り、ひいては江原道を侵すでしょう」
王はうなずき、金麟雨を武陵等處按撫使に、李萬を伴人として、兵船二隻に抄工二名、引海二名、それに火砲や火薬、食糧を与え、その島に渡り頭目を説得し連れてくるよう命じ、金麟雨に衣服や帽子、靴などをたまわった。
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この段階ではまだ于山島の名前は登場しませんでした。この当時『高麗史』はまだ発刊されておらず、鬱陵島に関するかぎり当時存在した資料は『三国史記』しかありませんでした。ちなみに『三国史記』の認識は「于山国は溟州の真東の海上にある島国で、別名を鬱陵島という」ものでした。
その一方で「傍らに小島があります」という実録の記述が注目されます。これについては後にふれることにして、翌年の金麟雨の帰還記事をさきにみることにします(注3)。
『太宗実録』太宗17年2月條
「按撫使の金麟雨は于山島から帰った。おみやげに大竹、水牛の皮、からむし、綿子、検樸木などを献納し、かつ三名を連れて来た。その島は戸数はおよそ15家族、男女86人である。金麟雨は途中で二度も台風に遭い、やっと生きて帰った」
これらの資料に関して、下條氏はこう指摘しました(注4)。
<于山島は『太宗実録』では鬱陵島の傍らに有る小島とされ、島の入り口が「わずかに一人を通じて並行すべからず」と記録されている事から判断しても、古地図に書かれた于山島は今日の竹嶼島とすべきである>
(つづく)
これは メッセージ 887 (hangetsujoh さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/1058.html
師匠
投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/01/31 22:50 投稿番号: [1057 / 18519]
徹夜あけだったので、ちょっと言い過ぎでした。すんません。史料提供と間違いの指摘、感謝してます。眠いので今日はこれで。
これは メッセージ 1056 (Am_I_AHO_1st さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/1057.html
>>証拠がない?
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2003/01/31 18:39 投稿番号: [1056 / 18519]
>そうでしょうね。私は、実効的支配の「直接的証拠」が優先されたマン・エクの判例をベースに考えてますから。この判例でも平行線になるから、中世以前の間接的推定をバッサリ切ったんでしょ?だから、後は空島政策時に実効支配を行っていた直接的証拠(一次史料)があるかどうかが、私の興味の対象でやんす。特に竹島一件以降、鬱陵島へ3年に1度の巡回したらしいですから、その記録が興味のわくところです。
特に異論なし。
>「明治政府が竹島は日本の領土だ」とした確かな証拠(一次史料)は、1905年の編入以外ありません。あとは、間接的推定ですよ。推定にスパイスを利かせすぎたかな(笑)。
いや、そうとも言い切れないんじゃないか。
これは韓國側にも云えることだが、一次資料には地方の資料も含まれる。今までこの方面の研究は必ずしも進んでいないのではないかと思う。
例えば、中央政府による実効支配の証拠が無かったとしても、島根県なりに一次資料があれば有効だろう。
>私の推定は、「1.松島は現竹島→2.松島は鬱陵近くの架空の島→3.松島はchukudo(佐田)→4.これは朝鮮領だろ(佐田)→5.外一島の松島(chukudo)は版図外→6.chukudoは竹島(天城)→7.りゃんこ島が松島だった→8.りゃんこ島を編入」って流れなんですけど。師匠のご指摘は、2〜5(の一部)を無視してますね。「松島」が指す島が2転、3転しているのは認めてますよ。このぶれが、「日本政府」として実効支配できていなかった証拠だと言われれば、認めますよ。半けつさんみたいに、一環して「于山は竹島だ」と主張するために、切り張り解釈はしたくありませんから。
無視しているのではない。違うことを云って居るんだけどね。
リャンコ島に関する考証を加えるべきだと思うが。
>あと、東国文献備考って現存してたんでしたっけ?少なくとも、一次史料でも二次史料でもなく、三次史料であることも証明できないのでは?韓国の人は無批判に信じるみたいだけど。なおかつ、1900年前後の話しに突然、100年以上前の話しを出す意図がわかりませんね。師匠は日本に一次史料に基づく、領有権の主張の証拠を求めておきながら、韓国には、三次史料以下の史料で実効支配の証拠としているんですよ。わかります?
だから、証拠能力の多寡は認めているじゃないか。
不毛の議論をする気はないので控えているのだが、「無い」とされると、「ちょっと待て」と云いたくなるわけ。
まあ、厳しく見てくれた方が有り難いことは確かだから、今まで通りで良いんじゃない?
これは メッセージ 1055 (henchin_pokoider01 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/1056.html
>証拠がない?
投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/01/31 16:01 投稿番号: [1055 / 18519]
> 証拠能力の多寡を問題にするなら話の余地はあるが、有無を問題にするなら過去と同じで平行線のままだろうね。
そうでしょうね。私は、実効的支配の「直接的証拠」が優先されたマン・エクの判例をベースに考えてますから。この判例でも平行線になるから、中世以前の間接的推定をバッサリ切ったんでしょ?だから、後は空島政策時に実効支配を行っていた直接的証拠(一次史料)があるかどうかが、私の興味の対象でやんす。特に竹島一件以降、鬱陵島へ3年に1度の巡回したらしいですから、その記録が興味のわくところです。
>政府の公式見解としては「当然日本領と思っていた」証拠は無いってことだよ。
何か間違ってる?
「明治政府が竹島は日本の領土だ」とした確かな証拠(一次史料)は、1905年の編入以外ありません。あとは、間接的推定ですよ。推定にスパイスを利かせすぎたかな(笑)。
私の推定は、「1.松島は現竹島→2.松島は鬱陵近くの架空の島→3.松島はchukudo(佐田)→4.これは朝鮮領だろ(佐田)→5.外一島の松島(chukudo)は版図外→6.chukudoは竹島(天城)→7.りゃんこ島が松島だった→8.りゃんこ島を編入」って流れなんですけど。師匠のご指摘は、2〜5(の一部)を無視してますね。「松島」が指す島が2転、3転しているのは認めてますよ。このぶれが、「日本政府」として実効支配できていなかった証拠だと言われれば、認めますよ。半けつさんみたいに、一環して「于山は竹島だ」と主張するために、切り張り解釈はしたくありませんから。
あと、東国文献備考って現存してたんでしたっけ?少なくとも、一次史料でも二次史料でもなく、三次史料であることも証明できないのでは?韓国の人は無批判に信じるみたいだけど。なおかつ、1900年前後の話しに突然、100年以上前の話しを出す意図がわかりませんね。師匠は日本に一次史料に基づく、領有権の主張の証拠を求めておきながら、韓国には、三次史料以下の史料で実効支配の証拠としているんですよ。わかります?
これは メッセージ 1054 (Am_I_AHO_1st さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/1055.html
証拠がない?
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2003/01/31 13:53 投稿番号: [1054 / 18519]
証拠能力の多寡を問題にするなら話の余地はあるが、有無を問題にするなら過去と同じで平行線のままだろうね。
東国文献備考には所謂倭の松島は于山であると書いてあるし、地誌に于山が記載されていれば実効支配の証拠としては充分だろう。
ただし、証拠能力を問題にするならば、補完資料としての地図などが不充分だとは思うがね。
>また、そうやって、前後関係を無視したトリミングと揚げ足とり方をする。その手にはのりませんよ、師匠。
政府の公式見解としては「当然日本領と思っていた」証拠は無いってことだよ。
何か間違ってる?
これは メッセージ 1053 (henchin_pokoider01 さん)への返信です.
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>>りゃんこ島
投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/01/31 13:40 投稿番号: [1053 / 18519]
>獨島(現竹島)に興味がない?(笑)
韓国側の実効支配の証拠がなければ、日本の領有権に影響を及ぼす話じゃないので。外一島もそうですけどね。
>当然と思っていたのなら、太政官は本邦と関係なしなどと指令しませんって。
また、そうやって、前後関係を無視したトリミングと揚げ足とり方をする。その手にはのりませんよ、師匠。
これは メッセージ 1052 (Am_I_AHO_1st さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/1053.html
>りゃんこ島
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2003/01/31 13:26 投稿番号: [1052 / 18519]
>どうしても、そちらに持っていきたいみたいだね〜。興味の対象外なのでりゃんこ島の扱いに関しては、よくわかりまへん。
獨島(現竹島)に興味がない?(笑)
>外務省の一部の人間を除いて、島根県のいう松島=りゃんこ島という認識はなかった。ただし、明治政府は、現鬱陵島が朝鮮領で、江戸時代の経緯から島根が言ってる松島とやらは、日本領だと当然思っていた。そうだ、鬱陵島近傍に島(架空)があった!!
当然と思っていたのなら、太政官は本邦と関係なしなどと指令しませんって。
当時の日本人は幕府の見解に反対する人たちもいたんだね。野史である大日本史には竹島松島共に日本の版図だと書いてある。
大日本史は大正年間に完了する水戸藩の大事業なのだが、遡れば水戸光圀公の時代に在野からも有能なも者を史官として採用してスタートさせているわけ。
江戸時代に流布された赤水の図にも、幕府をはばかってか着色こそされないものの、しっかり松島竹島は記載され続ける。
当然という言葉を使うなら、政府の見解とは違っても「松島竹島共に」日本領としたがっていたと云うなら分かる。
これは メッセージ 1050 (henchin_pokoider01 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/1052.html
ふと思ったこと。
投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/01/31 12:56 投稿番号: [1051 / 18519]
当時の情勢を考えると、日本は少しでも大陸、半島の近くに自由に行動できる場所を確保しておきたかったはず。松島がりゃんこ島とは感づいてはいたが、半島近くに出現した架空の島を島根の松島だと意図的に捏造解釈していた可能性もあるのでは。まぁ妄想。
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/1051.html
りゃんこ島
投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/01/31 12:27 投稿番号: [1050 / 18519]
どうしても、そちらに持っていきたいみたいだね〜。興味の対象外なのでりゃんこ島の扱いに関しては、よくわかりまへん。
外務省の一部の人間を除いて、島根県のいう松島=りゃんこ島という認識はなかった。ただし、明治政府は、現鬱陵島が朝鮮領で、江戸時代の経緯から島根が言ってる松島とやらは、日本領だと当然思っていた。そうだ、鬱陵島近傍に島(架空)があった!!
おっとこれが島根のいう松島さんかい。その島(架空)は古来、島根が松島として利用してきており、日本領だ。朝鮮は鬱陵島までだ。でしゃばるでない。
そうだ佐田、日朝交渉のついでに、ちょっと様子を見てこい。佐田は、「鬱陵島のすぐ隣りに松島(現竹嶼)ありまっせー、さすがにこんな近くの島は、朝鮮のものでっせー」と報告。そうか、ならば仕方あるまい。その松島(佐田が報告した現竹嶼)は、版図外だ。その後の天城での調査も、「松茸ペア(現鬱陵、竹嶼)はやっぱ朝鮮のもんじゃん。」で終了。
日本の領土として明治政府の目は、常に、りゃんこ島の先にある架空の島であり、現竹嶼であり、鬱陵島近辺に向いている。その手前にあるりゃんこ島が日本領なのは当然と判断していたのでは?
そして後々の研究で、「おいおい、もしかして島根のいってた松島って、りゃんこ島のことかい。そう言えば、竹島外一島は版図外っていっちゃったな〜。まいったな〜。勘違いされちゃうかな〜。正式に島根県に編入して証拠を残しておこっと」
テキトーに書いたけど、こんなところでどうかな?
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/1050.html
腹話術だってよ
投稿者: wakarannjin 投稿日時: 2003/01/31 11:32 投稿番号: [1049 / 18519]
これは メッセージ 1043 (hagechabinzzz さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/1049.html
>師匠、相手をお間違いです!!
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2003/01/31 10:16 投稿番号: [1048 / 18519]
質問てのは、「竹島 松島 朝鮮附属ニ相成候始末」についてだね。
この「松島」を獨島(現竹島)に特定しうる決定的な証拠はないな。
何度も指摘しているが、1870年以降の一連の資料は、むしろ当時の明治政府は江戸時代に松島と呼称された島を見失っていることを示して居る。
官許図を見ても分かるとおり、獨島(現竹島)はリアンコヲルトと認識されておる。
これは メッセージ 1003 (henchin_pokoider01 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/1048.html
お前さんのは
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2003/01/31 09:31 投稿番号: [1047 / 18519]
>愛国心じゃないね!人として当然な「主張」だよ。その事を理解した方がいい。
「偏執」って云うんだけどな。
ゴミキャラも大勢湧いてきたし、連中はお前さんに任せよう。
これは メッセージ 1040 (microvax2_2003 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/1047.html
おいおい、逆だろう
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2003/01/31 09:18 投稿番号: [1046 / 18519]
日本側の大嘘が暴かれてきたんだわ。
一例を挙げると、松島渡海免許は実在しなかった。
この重大な資料捏造はどう評価するね。
また、太政官布告は実在したことも定説となっているが、お前さんは捏造だと騒いでおったな。
これは メッセージ 1041 (microvax2_2003 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/1046.html
>みなさん、よく相手に出来ますね(笑)
投稿者: llllowollll 投稿日時: 2003/01/31 00:29 投稿番号: [1045 / 18519]
相手にするというか、、もうギャグの世界です。純粋に楽しめます。(笑
>私にとっては、韓国の領土であるという積極的な根拠が皆無で実効的支配の実績も無いと言う時点で終わった話題なのですが。(笑)
全面的に同意ですね。それどころか竹島の存在を認知したのが100年にも満たない可能性も大きくなってきました。
前にも言ったのですが、歴史的には韓国から新たな資料が発見・提示でもされない限りこの問題の決着は完全についています。
彼らは日本の資料・根拠を論点にしたくてたまらないようですが、それは彼らのくだらないレトリック(日本の資料に少しでも疑わしい点があれば、それが何故か韓国領であることの根拠になると思い込ませたい)なので相手にするのは確かに馬鹿馬鹿しいですけどね。
しかも半月君は単なるプロパガンダでしかなく、はなから議論なぞする気はありませんしね。
アホ−師匠は行動がおもろいからいいけどね
これは メッセージ 1025 (nobuo_shoudoshima さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/1045.html
アホ−師匠の定説発見!!
投稿者: llllowollll 投稿日時: 2003/01/31 00:16 投稿番号: [1044 / 18519]
さすがアホ−師匠!!今日も一段と切れてますね
すばらしいお言葉ばかりじゃないですか!
論理・人智を超越しておりまする。
ぶっとびました。
これからはアホ−師匠の定説として後世に残していきましょう
■アホ−師匠の定説その1
【挙証責任を振り回すのは、論ナシの証明。】
もう一度
【挙証責任を振り回すのは、論ナシの証明。】
えー、つまり人語に訳しますると、、「我が主張に根拠は必要なし!」
ってことですね、くーーー、さすが師匠らしい、大胆かつ豪快な定説です
さあ、人語でもう一度いきましょう!
【我が主張に根拠は必要なし!】
■アホ−師匠の定説その2
【間違った主観と、正しい主観があるのを知っといた方が良いぞ。】
かーー、こりゃまた素晴らしい
うーん、もう一回
【間違った主観と、正しい主観があるのを知っといた方が良いぞ。】
人語に訳しますと、、
【俺の主観は正しいけど、おめーの主観はまちがっとるんだ!!理由なんぞ必要なし!】
なるほど、素晴らしい、師匠は神の境地に達し得たわけですな
うーん、きっと神の啓示か悟りを開かれたんでしょうな。
さて、これも人語で行きましょう!
【俺の主観は正しいけど、おめーの主観はまちがっとるんだ!!理由なんぞ必要なし!】
これは メッセージ 1022 (Am_I_AHO_1st さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/1044.html
ザクとかシブラルとかアホ師匠とか
投稿者: hagechabinzzz 投稿日時: 2003/01/30 23:48 投稿番号: [1043 / 18519]
結局ここの掲示板の韓国人はこういうふうな罵倒が生きがいの荒しキャラにしかなれないんだね。
まあ、ここまで論破されまくって、恥と醜態をさらせばそうならざるを得ないのも分かるけどね。
腹話だけはあまりにみっともないから止めたほうがいいけどね!師匠
これは メッセージ 1028 (Am_I_AHO_1st さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/1043.html
不思議な人たち
投稿者: hagechabinzzz 投稿日時: 2003/01/30 23:42 投稿番号: [1042 / 18519]
アホ師匠が窮地に立たされるといつも出てくる不思議な人たち
banjogbari
jirochuono_tonari
書き込みの時間帯も同じだし、なぜか原因を作ったアホ師匠じゃなくて相手を批判するところも一緒だし。仲いいね
同じパソコンから投稿してるみたいだけど一緒に住んでるの?
これは メッセージ 1032 (jirochuono_tonari さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/1042.html
韓国は日本に対して!
投稿者: microvax2_2003 投稿日時: 2003/01/30 22:09 投稿番号: [1041 / 18519]
謝罪して、竹島を返還しなければならないんだよ。何故か?一番困るのは、在日そして韓国人(本国)だよ。過去の歴史が未来を予想させるからだよ。
これは メッセージ 1039 (Am_I_AHO_1st さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/1041.html
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