『世宗実録 地理志』と于山島
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/02/05 22:13 投稿番号: [1069 / 18519]
今回は、竹島=独島領有問題の重要文献である『世宗実録地理志』の成り立ちなどを補足することにします。この地理志は世宗6(1424)年に編纂が開始されましたが、二段階で制作されたことが序文から読みとれます。
1.東国の地理志は三国史に簡単に記されているのみで、他にこれといった文献がない。
2.そのため世宗大王は尹維、申檣たちに州郡沿革を考察させ、この本を編纂させた。時は世宗14(1432)年となった。
3.その後、行政区域の変動があった。
4.とくに北方の両界地域の新設された州鎮などであるが、それらを該当する道の末尾に変動事項として追加した。
1432年に完成した原本は『新撰八道地理志』とよばれていますが、これは現在『慶尚道地理志』以外は現存しません。
地理志の編纂ですが、王命をうけた戸曹と礼曹は記述に統一性をもたせるため一定の規式を地方官庁に提示し、その回答を編纂する形式で制作されました。
規式は12項目からなりますが、島に関係する部分を見ると「諸島の陸地を去る水路の息数(距離)および前に入民、接居の事実と農作の有無」と書かれています(注1)。しかし、于山島はこれに反して簡単にこう記述されました。
『世宗実録地理志』江原道蔚珍県
「于山、武陵二島は県の東の海中にある。二島はお互いに相去ること遠くなく、天候が清明であれば望み見ることができる。新羅の時、于山国と称した。一に鬱陵島ともいう。その地の大きさは百里である」
規式にしたがえば、于山島や武陵島は蔚珍県からどれくらい離れているかをまず記述すべきですが、そうしなかったのは両島が遠すぎて、実際の距離がよくわからなかったためと思われます。
この規式をたてに下條氏は「于山武陵二島 在縣正東海中 二島相去不遠 風日清明 則可望見」中の「二島相去不遠」を「二島が近くにある事実を示した」にすぎないと解釈しました(注2)。
しかし同氏は、二島がどこの近くにあるのかは明記しませんでした。同氏は規式をたてにしているので、おそらく二島は陸地から遠くないと解釈しているものと思われます。
しかしながらこれは無理です。文中に「相」の字が挿入されているので、遠くないのは二島間の関係であり「二島はお互いに相去ること遠くなく」としか読むことができません。もし二島が陸地から遠くないと書くなら、「相」を落として単に「二島去不遠」で十分です。
一方、もし下條氏が「二島相去不遠」を「二島はお互いに相去ること遠くなく」と解釈しているのなら、つぎにつづく「風日清明 則可望見」の主語はとうぜん二島ということになり、鬱陵、于山島はおたがいに天候がいいときだけ望み見ることができるという解釈になります。
それが前回書いたように、誤読の多い同氏はこれを否定して、主語を恣意的に鬱陵島(蔚陵島)にしてしまい<陸地の蔚珍縣から鬱陵島は望み見える「距離」にある、と解釈せねばならない>と主張しました(注2)。
しかし、なぜ主語が二島のうち鬱陵島(蔚陵島)一島だけなのでしょうか? 同氏の「規式」解釈からすれば、主語は于山島かもしれないし、あるいはむしろ于山島、蔚陵島の二島を主語にするほうが理にかなっています。それにもかかわらず、于山島を抜きにして主語を蔚陵島のみと断定する根拠は文脈上なにもありません。
これは、陸地から鬱陵島は見えても竹島=独島は見えないので、同氏にとって、主語は蔚陵島単独にしないと具合が悪いためかもしれません。したがって、我田引水でも何でも主語を蔚陵島とするしかないようです。何とも浅ましい姿です。
さて地理志の宿命ですが、地理志は完璧なものであっても時代の変化で完成したときから記述の不適合や実際との不一致が始まります。そのため改訂作業はたえず継続する必要があります。
『世宗実録地理志』は完成翌年の1455年から改訂作業が始まりました。梁誠之の『八道地理志』です。完成に21年かかり、成宗7(1476)年に完成しました。これは現存しませんが、これに初めて地図が添付されたようで、それらはもちろん『東国輿地勝覧』やその改訂版である『新増東国輿地勝覧』につながりました。
(注1)方東仁『韓国地圖の歴史』(韓国語)シンギュ文化社,2001
(注2)下條正男「竹島問題、金炳烈氏に再反論する」『現代コリア』1999.5
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
1.東国の地理志は三国史に簡単に記されているのみで、他にこれといった文献がない。
2.そのため世宗大王は尹維、申檣たちに州郡沿革を考察させ、この本を編纂させた。時は世宗14(1432)年となった。
3.その後、行政区域の変動があった。
4.とくに北方の両界地域の新設された州鎮などであるが、それらを該当する道の末尾に変動事項として追加した。
1432年に完成した原本は『新撰八道地理志』とよばれていますが、これは現在『慶尚道地理志』以外は現存しません。
地理志の編纂ですが、王命をうけた戸曹と礼曹は記述に統一性をもたせるため一定の規式を地方官庁に提示し、その回答を編纂する形式で制作されました。
規式は12項目からなりますが、島に関係する部分を見ると「諸島の陸地を去る水路の息数(距離)および前に入民、接居の事実と農作の有無」と書かれています(注1)。しかし、于山島はこれに反して簡単にこう記述されました。
『世宗実録地理志』江原道蔚珍県
「于山、武陵二島は県の東の海中にある。二島はお互いに相去ること遠くなく、天候が清明であれば望み見ることができる。新羅の時、于山国と称した。一に鬱陵島ともいう。その地の大きさは百里である」
規式にしたがえば、于山島や武陵島は蔚珍県からどれくらい離れているかをまず記述すべきですが、そうしなかったのは両島が遠すぎて、実際の距離がよくわからなかったためと思われます。
この規式をたてに下條氏は「于山武陵二島 在縣正東海中 二島相去不遠 風日清明 則可望見」中の「二島相去不遠」を「二島が近くにある事実を示した」にすぎないと解釈しました(注2)。
しかし同氏は、二島がどこの近くにあるのかは明記しませんでした。同氏は規式をたてにしているので、おそらく二島は陸地から遠くないと解釈しているものと思われます。
しかしながらこれは無理です。文中に「相」の字が挿入されているので、遠くないのは二島間の関係であり「二島はお互いに相去ること遠くなく」としか読むことができません。もし二島が陸地から遠くないと書くなら、「相」を落として単に「二島去不遠」で十分です。
一方、もし下條氏が「二島相去不遠」を「二島はお互いに相去ること遠くなく」と解釈しているのなら、つぎにつづく「風日清明 則可望見」の主語はとうぜん二島ということになり、鬱陵、于山島はおたがいに天候がいいときだけ望み見ることができるという解釈になります。
それが前回書いたように、誤読の多い同氏はこれを否定して、主語を恣意的に鬱陵島(蔚陵島)にしてしまい<陸地の蔚珍縣から鬱陵島は望み見える「距離」にある、と解釈せねばならない>と主張しました(注2)。
しかし、なぜ主語が二島のうち鬱陵島(蔚陵島)一島だけなのでしょうか? 同氏の「規式」解釈からすれば、主語は于山島かもしれないし、あるいはむしろ于山島、蔚陵島の二島を主語にするほうが理にかなっています。それにもかかわらず、于山島を抜きにして主語を蔚陵島のみと断定する根拠は文脈上なにもありません。
これは、陸地から鬱陵島は見えても竹島=独島は見えないので、同氏にとって、主語は蔚陵島単独にしないと具合が悪いためかもしれません。したがって、我田引水でも何でも主語を蔚陵島とするしかないようです。何とも浅ましい姿です。
さて地理志の宿命ですが、地理志は完璧なものであっても時代の変化で完成したときから記述の不適合や実際との不一致が始まります。そのため改訂作業はたえず継続する必要があります。
『世宗実録地理志』は完成翌年の1455年から改訂作業が始まりました。梁誠之の『八道地理志』です。完成に21年かかり、成宗7(1476)年に完成しました。これは現存しませんが、これに初めて地図が添付されたようで、それらはもちろん『東国輿地勝覧』やその改訂版である『新増東国輿地勝覧』につながりました。
(注1)方東仁『韓国地圖の歴史』(韓国語)シンギュ文化社,2001
(注2)下條正男「竹島問題、金炳烈氏に再反論する」『現代コリア』1999.5
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
これは メッセージ 1068 (hangetsujoh さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/1069.html