竹島

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『世宗実録』と于山島1

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/02/05 22:10 投稿番号: [1067 / 18519]
   太宗時代に武陵(鬱陵)島を空島にする方針が決定され、島民はしばしば本土に連れ戻されましたが、その後も賦役などを逃れるためにこの島に渡る人は絶えなかったようでした。
   太宗の三男で第四代国王の世宗は、先王の時に武陵島へ派遣された金麟雨をふたたび按撫使に任命し、島民を連れ戻したことが『世宗実録』に記録されました。時は1425年、日本では足利義量の時代です。

『世宗実録』世宗7年10月乙酉條(注1)
   于山 武陵等處 按撫使、金麟雨が本島に役を避けた男女20人を捜索、捕らえて復命した。最初、麟雨は兵船二隻で茂陵(ムルン)島に入ったが、船軍46人を乗せた1隻はつむじ風にあい、行方不明になった。
   王は諸卿に「麟雨は20余人を捕らえたが、40余人を失ったので、何の益があろうか」と言った。
   この島は別に特産物もなく、逃亡者の動機はもっぱら賦役を逃れようとすることにある。礼曹参判・金自知は、今回捕らえた逃亡者を法律にしたがって処罰するよう述べた。
   王は「かれらは他国へ密航したのではない。また前にも赦したことがあるので処罰は適当でない」として、兵曹に命じてかれらを忠清道の奥深い山郡に移し、ふたたび逃げ帰れないようにしたうえで3年間賦役を免除した。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   このとき遭難した乗組員は36人が死亡し、10人が日本の石見(いわみ)長浜に漂着し、のちに朝鮮に送り返されたと実録に記録されました。
   さて、うえの記事で注目されるのは「于山 武陵等處 按撫使」という記述です。「等」という字から于山と武陵は別々な存在、すなわちそれらは二島として認識されていたことがわかります。

   これは『世宗実録』に付属した地理志をみるともっと明瞭になります。この地理志は1432年に完成し、1454年に若干改定されましたが、そこに于山はこう記述されました。

  「于山、武陵二島は県の東の海中にある。二島はお互いに相去ること遠くなく、天候が清明であれば望み見ることができる。新羅の時、于山国と称した。一に鬱陵島ともいう。その地の大きさは百里である」(注3)

   この一節にみえる于山島を韓国側は現在の竹島=独島とみています。鬱陵島周辺で天候が清明なときだけ見える島というと鬱陵島と竹島=独島の間、または本土と鬱陵島との間しかなく、本土から竹島=独島はみえませんので、文脈からみて韓国側の解釈は妥当なところです。
   しかし、これを何としても認めたがらない人がいます。下條教授です。前回書いたように、同氏は太宗実録に関して<于山島は『太宗実録』では鬱陵島の傍らに有る小島とされ>などと事実無根を書いたり、また「傍らの小島」についても誤読をおかしました。

   同氏は、ほかの資料でも韓国語の「形便」を「形状」と誤訳して珍説を展開したりするなど、とかくきちんとした論証に欠ける人です。
http://www.han.org/a/half-moon/hm085.html#No.593
(つづく)
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