『太宗実録』と于山島1
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/02/02 08:42 投稿番号: [1058 / 18519]
高麗末期、倭寇討伐などで英雄になった李成桂は 1392年、高麗王朝にかわり朝鮮王朝を建国しました。そのころになると倭寇の勢力もだいぶ弱まりましたが、消滅したわけではありませんでした。
それから11年後の1403年、3代目の太宗は倭寇を警戒、江原道観察使の建議をいれ「武陵島居民」に島を出て本土に移るよう命令をだしました。武陵島とは鬱陵島をさします。
しかし、この命令はどこまで徹底したのか疑問でした。1412年、太宗は鬱陵島の実情調査を命じたところ、江原道観察使は「流山國島人 白加勿等十二名が江原道高城於羅津にやって来て、自分たちはもともと武陵で生長したが、その島には今11戸60名が住んでいると告げた」ことなどを報告しました(注1)。流山(ユサン)国とは、新羅時代の于山(ウサン)国の名が転訛したものです。
政府は、白加勿たちが武陵島に逃げ帰ることをおそれ、かれらを通州などに分けて居住させ、空島方針を堅持しました。1416年、空島方針は下記のように政策として決定されました(注2)。
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『太宗実録』太宗16年9月庚寅條
金麟雨を武陵等處按撫使となす。戸曹参判 朴習は王にこう奏上した。
「かって臣が江原道の観察使だったときに聞いた話では、武陵島は周囲が7息で、傍らに小島があります。その田は50余結で、入る道は人ひとりがやっと通れるくらいで、ふたりが並ぶことはできません。昔、方之用という者が15家族を引率して入って住み、時には倭人を装って本土を侵したりしました。その島を知る者が三陟にいますので、その者を派遣し調査させてください」
王は許可した。三陟人の前萬戸・金麟雨を呼び、武陵島のことを尋ねた。金麟雨は「三陟人、李萬がかって武陵島に渡りその島をよく知っています」と述べた。そこで李萬を呼んだ。金麟雨はまた奏上した。
「武陵島ははるかな海中にあり、人が通わないので、軍役を避ける者や逃亡者が島に入ることがあります。もし、この島に多くの人が入れば、ついには倭寇がかならず入り、ひいては江原道を侵すでしょう」
王はうなずき、金麟雨を武陵等處按撫使に、李萬を伴人として、兵船二隻に抄工二名、引海二名、それに火砲や火薬、食糧を与え、その島に渡り頭目を説得し連れてくるよう命じ、金麟雨に衣服や帽子、靴などをたまわった。
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この段階ではまだ于山島の名前は登場しませんでした。この当時『高麗史』はまだ発刊されておらず、鬱陵島に関するかぎり当時存在した資料は『三国史記』しかありませんでした。ちなみに『三国史記』の認識は「于山国は溟州の真東の海上にある島国で、別名を鬱陵島という」ものでした。
その一方で「傍らに小島があります」という実録の記述が注目されます。これについては後にふれることにして、翌年の金麟雨の帰還記事をさきにみることにします(注3)。
『太宗実録』太宗17年2月條
「按撫使の金麟雨は于山島から帰った。おみやげに大竹、水牛の皮、からむし、綿子、検樸木などを献納し、かつ三名を連れて来た。その島は戸数はおよそ15家族、男女86人である。金麟雨は途中で二度も台風に遭い、やっと生きて帰った」
これらの資料に関して、下條氏はこう指摘しました(注4)。
<于山島は『太宗実録』では鬱陵島の傍らに有る小島とされ、島の入り口が「わずかに一人を通じて並行すべからず」と記録されている事から判断しても、古地図に書かれた于山島は今日の竹嶼島とすべきである>
(つづく)
それから11年後の1403年、3代目の太宗は倭寇を警戒、江原道観察使の建議をいれ「武陵島居民」に島を出て本土に移るよう命令をだしました。武陵島とは鬱陵島をさします。
しかし、この命令はどこまで徹底したのか疑問でした。1412年、太宗は鬱陵島の実情調査を命じたところ、江原道観察使は「流山國島人 白加勿等十二名が江原道高城於羅津にやって来て、自分たちはもともと武陵で生長したが、その島には今11戸60名が住んでいると告げた」ことなどを報告しました(注1)。流山(ユサン)国とは、新羅時代の于山(ウサン)国の名が転訛したものです。
政府は、白加勿たちが武陵島に逃げ帰ることをおそれ、かれらを通州などに分けて居住させ、空島方針を堅持しました。1416年、空島方針は下記のように政策として決定されました(注2)。
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『太宗実録』太宗16年9月庚寅條
金麟雨を武陵等處按撫使となす。戸曹参判 朴習は王にこう奏上した。
「かって臣が江原道の観察使だったときに聞いた話では、武陵島は周囲が7息で、傍らに小島があります。その田は50余結で、入る道は人ひとりがやっと通れるくらいで、ふたりが並ぶことはできません。昔、方之用という者が15家族を引率して入って住み、時には倭人を装って本土を侵したりしました。その島を知る者が三陟にいますので、その者を派遣し調査させてください」
王は許可した。三陟人の前萬戸・金麟雨を呼び、武陵島のことを尋ねた。金麟雨は「三陟人、李萬がかって武陵島に渡りその島をよく知っています」と述べた。そこで李萬を呼んだ。金麟雨はまた奏上した。
「武陵島ははるかな海中にあり、人が通わないので、軍役を避ける者や逃亡者が島に入ることがあります。もし、この島に多くの人が入れば、ついには倭寇がかならず入り、ひいては江原道を侵すでしょう」
王はうなずき、金麟雨を武陵等處按撫使に、李萬を伴人として、兵船二隻に抄工二名、引海二名、それに火砲や火薬、食糧を与え、その島に渡り頭目を説得し連れてくるよう命じ、金麟雨に衣服や帽子、靴などをたまわった。
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この段階ではまだ于山島の名前は登場しませんでした。この当時『高麗史』はまだ発刊されておらず、鬱陵島に関するかぎり当時存在した資料は『三国史記』しかありませんでした。ちなみに『三国史記』の認識は「于山国は溟州の真東の海上にある島国で、別名を鬱陵島という」ものでした。
その一方で「傍らに小島があります」という実録の記述が注目されます。これについては後にふれることにして、翌年の金麟雨の帰還記事をさきにみることにします(注3)。
『太宗実録』太宗17年2月條
「按撫使の金麟雨は于山島から帰った。おみやげに大竹、水牛の皮、からむし、綿子、検樸木などを献納し、かつ三名を連れて来た。その島は戸数はおよそ15家族、男女86人である。金麟雨は途中で二度も台風に遭い、やっと生きて帰った」
これらの資料に関して、下條氏はこう指摘しました(注4)。
<于山島は『太宗実録』では鬱陵島の傍らに有る小島とされ、島の入り口が「わずかに一人を通じて並行すべからず」と記録されている事から判断しても、古地図に書かれた于山島は今日の竹嶼島とすべきである>
(つづく)
これは メッセージ 887 (hangetsujoh さん)への返信です.
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