『成宗実録』と三峰島1
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/02/08 21:54 投稿番号: [1078 / 18519]
半月城です。朝鮮史料シリーズをつづけます。
1470年、成宗は12歳で第9代の王になりましたが、治世にたけていたようで儒教思想による王道政治を盤石にしたのをはじめ、ほとんどの基礎を完成させたようで、その意味あいから死後「成宗」という廟号を受けました。実際、成宗の時代は朝鮮開国以来もっとも平和な時代で、その後期には平和的すぎて退廃的な雰囲気も生まれるほどでした(注1)。
成宗元年(1470)、朝廷に東北の永安道(咸鏡道)観察使から、賦役逃れの「背国情犯」が「三峰島」に入島する弊害がはなはだしいとの報告が入りました。
朝廷は三峰島を蔚陵島(鬱陵島)と考え、島民を連れ戻すために三峰島敬差官、朴宗元および軍隊を派遣しました。船は大風にあいましたが、4隻のうち3隻が蔚陵島にたどりつき、3日間島を捜索しました。かれらは住居跡を見つけたものの、居住民を発見できませんでした。
その報告を受けた朝廷は、三峰島と蔚陵島はちがうのではないかと考えるようになり、その調査を永安道観察使に命じました。観察使は、かつて1471年に三峰島に漂泊し島民とじかに接したことがあるという鏡城の金漢京たちを派遣しました。
1475年、金漢京たちは三峰島から7,8里(3km)離れた地点において島を望見することができましたが、風が強かったため上陸しませんでした。これらの記録からすると、蔚陵島を永安道では三峰島と呼んでいたようです。
しかし、この報告に疑問を払拭しきれない朝廷は、さらに三峰島のくわしい調査を命じました(注2)。1476年、観察使は金自周に麻尚船5隻を与え、さらに渡航歴のある金興や金漢京、李吾乙亡たちを一行に加えました。金自周たちは、この三峰島探索の過程で今日の竹島=独島を確認したようで、実録にこう記録されました。
『成宗実録』成宗7(1476)年10月丁酉條(注3)
25日、島の西7,8里に碇泊し望見した。島の北には三石が列立し、次に小島がある。次に巌石が列立し、次に中島がある。中島の西にまた小島がある。みな海水が通じて流れている。
また、海島の間に人形のように立っているものが30ある。おそろしさのため島に近づくことができなかった。島の形を絵にして帰った。
島の形を描いた図形は現在伝わっていませんので、島の正確な形は知ることができませんが、この島をめぐって日韓で主張が対立しているようです。川上健三氏はこう記しました(注4)。
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高麗大学校申教授は、上述のように「金自周の語った三峯島の形状は、今の独島とまったく同じである」となし、さらに、「金自周が語った島の北方に三石が列立しているというのは、西島北方に高くそびえた三つの岩島をいったものである」といい、また、中島は西島のことで、小島と岩石とは東島と西島の間に散在している無数の岩を指している、と述べているが、その形状はむしろ鬱陵島に比定する方が、一層自然である。
すなわち申教授は、金自周のいう「中島」を今日の西島に比定しているが、西島は竹島最大の島であって、これを「中島」とするのはあたらない。今日の竹島は、この西島とこれに次ぐ東島とで主島を構成し、これを囲繞する他の岩礁は、その大きさにおいてこの両島とは格段の相違がある。
金自周のいうところは、一つの主島を取りまいて、中島・小島・巌石などの付属島嶼があるように受け取れるので、この点からもこれを今日の竹島に比定することは適当でない。
さらに興味があるのは、金自周の報告にある、島の北にある三石の列立しているという光景である。これは、鬱陵島北端近くの三本立の奇勝を指していると考える方が、より適切である。
三本立ては、海岸の絶壁に近く、高さ5,60メートルの大巌柱が、あたかも鉾を立てたように海面に聳立しており、海から顕著な目標となっているからである。そしてその付近には、金自周のいう小島・巌石に該当する観音崎、一本立島、孔岩等一連の岩礁が点在している。
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(つづく)
1470年、成宗は12歳で第9代の王になりましたが、治世にたけていたようで儒教思想による王道政治を盤石にしたのをはじめ、ほとんどの基礎を完成させたようで、その意味あいから死後「成宗」という廟号を受けました。実際、成宗の時代は朝鮮開国以来もっとも平和な時代で、その後期には平和的すぎて退廃的な雰囲気も生まれるほどでした(注1)。
成宗元年(1470)、朝廷に東北の永安道(咸鏡道)観察使から、賦役逃れの「背国情犯」が「三峰島」に入島する弊害がはなはだしいとの報告が入りました。
朝廷は三峰島を蔚陵島(鬱陵島)と考え、島民を連れ戻すために三峰島敬差官、朴宗元および軍隊を派遣しました。船は大風にあいましたが、4隻のうち3隻が蔚陵島にたどりつき、3日間島を捜索しました。かれらは住居跡を見つけたものの、居住民を発見できませんでした。
その報告を受けた朝廷は、三峰島と蔚陵島はちがうのではないかと考えるようになり、その調査を永安道観察使に命じました。観察使は、かつて1471年に三峰島に漂泊し島民とじかに接したことがあるという鏡城の金漢京たちを派遣しました。
1475年、金漢京たちは三峰島から7,8里(3km)離れた地点において島を望見することができましたが、風が強かったため上陸しませんでした。これらの記録からすると、蔚陵島を永安道では三峰島と呼んでいたようです。
しかし、この報告に疑問を払拭しきれない朝廷は、さらに三峰島のくわしい調査を命じました(注2)。1476年、観察使は金自周に麻尚船5隻を与え、さらに渡航歴のある金興や金漢京、李吾乙亡たちを一行に加えました。金自周たちは、この三峰島探索の過程で今日の竹島=独島を確認したようで、実録にこう記録されました。
『成宗実録』成宗7(1476)年10月丁酉條(注3)
25日、島の西7,8里に碇泊し望見した。島の北には三石が列立し、次に小島がある。次に巌石が列立し、次に中島がある。中島の西にまた小島がある。みな海水が通じて流れている。
また、海島の間に人形のように立っているものが30ある。おそろしさのため島に近づくことができなかった。島の形を絵にして帰った。
島の形を描いた図形は現在伝わっていませんので、島の正確な形は知ることができませんが、この島をめぐって日韓で主張が対立しているようです。川上健三氏はこう記しました(注4)。
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高麗大学校申教授は、上述のように「金自周の語った三峯島の形状は、今の独島とまったく同じである」となし、さらに、「金自周が語った島の北方に三石が列立しているというのは、西島北方に高くそびえた三つの岩島をいったものである」といい、また、中島は西島のことで、小島と岩石とは東島と西島の間に散在している無数の岩を指している、と述べているが、その形状はむしろ鬱陵島に比定する方が、一層自然である。
すなわち申教授は、金自周のいう「中島」を今日の西島に比定しているが、西島は竹島最大の島であって、これを「中島」とするのはあたらない。今日の竹島は、この西島とこれに次ぐ東島とで主島を構成し、これを囲繞する他の岩礁は、その大きさにおいてこの両島とは格段の相違がある。
金自周のいうところは、一つの主島を取りまいて、中島・小島・巌石などの付属島嶼があるように受け取れるので、この点からもこれを今日の竹島に比定することは適当でない。
さらに興味があるのは、金自周の報告にある、島の北にある三石の列立しているという光景である。これは、鬱陵島北端近くの三本立の奇勝を指していると考える方が、より適切である。
三本立ては、海岸の絶壁に近く、高さ5,60メートルの大巌柱が、あたかも鉾を立てたように海面に聳立しており、海から顕著な目標となっているからである。そしてその付近には、金自周のいう小島・巌石に該当する観音崎、一本立島、孔岩等一連の岩礁が点在している。
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(つづく)
これは メッセージ 1069 (hangetsujoh さん)への返信です.
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