>『世宗実録 地理志』と于山島
投稿者: kusuo1 投稿日時: 2003/02/05 23:14 投稿番号: [1071 / 18519]
『世宗實録「地理志」』の原型となる『新撰八道地理志』(一四三二年成稿)が成立する前年に撰進された『太宗實録』には、すでに于山島の名が見えてゐるのである。そして、『世宗實録「地理志」』にはその『太宗實録』の記事が引用されてゐるので、于山島の記事も『太宗實録』を典據としたとみてよいであらう。
事實、『太宗實録』の記事は、武陵島(鬱陵島)條の註のみならづ、『世宗實録「地理志」』の本文にも數多く引用されてゐる。それは『太宗實録』の選者である尹淮や申穡が、『世宗實録「地理志」』の編者でもあつたからである。
その、『太宗實録』(卷三三)十七年二月壬戌條には「按撫使金麟雨、于山島より還り、(中略)居人三名を率ゐて以つて來たる。その島の戸おおよそ十五口、男女併せて八六」とある。
この記事から『太宗實録』では于山島には人が住めると認識されていくのである。その意味で、この『太宗實録』の記事は、『世宗實録「地理志」』に「于山、武陵二島」と併記させ、註記には「一云于山、鬱陵島本一島」と記述させた原點と言へる。
後年、粱誠之は『世宗實録「地理志」』の于山武陵二島に基づき「八道總圖」や「江原道」の圖を描くが、それが『東國輿地勝覽』に收載され、後世を迷はせることになるのである。粱誠之の圖には、于山島は、鬱陵島と陸地の中間の位置に、鬱陵島とほぼ同じ大きさに描かれたため、あたかも實在する島と思わせ續けてきたからだ。
今日、朝鮮時代の古地圖と言はれるものの多くは、この粱誠之の地圖に由來するが、その誤謬も踏襲されている。
英祖十一年(一七三五年)には、この種の地圖による誤解が起きてゐた。『國朝寶鑑』英祖十一年正月條によると、江原道監司の趙最壽が凶年を理由に三年一往の鬱陵島掃討の中止を上啓したが、廷臣「其(鬱陵島)の西に于山島なるもの有り、また甚だ廣濶」とし、鬱陵島掃討を命じている。英祖十一年といへば、鬱陵島の歸屬問題から四十年もたつていない時期である。この時すでに鬱陵島周邊に廣闊な于山島があると信じられていたのは、粱誠之等の地圖で形成された認識が一般化していたからであろう。
しかし、實際に鬱陵島を目撃した人々の鬱陵島認識は、粱誠之の地理觀に惑わされてはいなかった。
『東國輿地勝覧』にも関与した金宗直は、「羽陵行」の中で「于山一点滄溟の中」と詠み、李光庭も「狐嶼隠隠として中に高起す」としたが、江原道に配流された李山海も「海気澄朗なれば則ち領東よりこれを望む、一片の蒼烟の如し」と「鬱陵島記」に記してゐる。いずれも一點、狐嶼、一片と鬱陵一島の存在のみを記し、古地圖では陸地と鬱陵島の中間にあるとされる于山島には觸れていない。
この事實は、粱誠之らの古地圖によって形成された鬱陵・于山島像とは違って、現実に即した鬱陵島認識が別に存在したことを示してゐる。そしてそれは英祖三十三年(一七五七年)、洪良漢の発意で編集された『輿地図書』に至つて確定し、于山島の名も消えていくのである。
さらに、この鬱陵島像は朝鮮時代後期の地理學者金正浩の『大東地誌』にも継承され、やうやく鬱陵島一島のみの近代的な地理観が確立するのである。
事實、『太宗實録』の記事は、武陵島(鬱陵島)條の註のみならづ、『世宗實録「地理志」』の本文にも數多く引用されてゐる。それは『太宗實録』の選者である尹淮や申穡が、『世宗實録「地理志」』の編者でもあつたからである。
その、『太宗實録』(卷三三)十七年二月壬戌條には「按撫使金麟雨、于山島より還り、(中略)居人三名を率ゐて以つて來たる。その島の戸おおよそ十五口、男女併せて八六」とある。
この記事から『太宗實録』では于山島には人が住めると認識されていくのである。その意味で、この『太宗實録』の記事は、『世宗實録「地理志」』に「于山、武陵二島」と併記させ、註記には「一云于山、鬱陵島本一島」と記述させた原點と言へる。
後年、粱誠之は『世宗實録「地理志」』の于山武陵二島に基づき「八道總圖」や「江原道」の圖を描くが、それが『東國輿地勝覽』に收載され、後世を迷はせることになるのである。粱誠之の圖には、于山島は、鬱陵島と陸地の中間の位置に、鬱陵島とほぼ同じ大きさに描かれたため、あたかも實在する島と思わせ續けてきたからだ。
今日、朝鮮時代の古地圖と言はれるものの多くは、この粱誠之の地圖に由來するが、その誤謬も踏襲されている。
英祖十一年(一七三五年)には、この種の地圖による誤解が起きてゐた。『國朝寶鑑』英祖十一年正月條によると、江原道監司の趙最壽が凶年を理由に三年一往の鬱陵島掃討の中止を上啓したが、廷臣「其(鬱陵島)の西に于山島なるもの有り、また甚だ廣濶」とし、鬱陵島掃討を命じている。英祖十一年といへば、鬱陵島の歸屬問題から四十年もたつていない時期である。この時すでに鬱陵島周邊に廣闊な于山島があると信じられていたのは、粱誠之等の地圖で形成された認識が一般化していたからであろう。
しかし、實際に鬱陵島を目撃した人々の鬱陵島認識は、粱誠之の地理觀に惑わされてはいなかった。
『東國輿地勝覧』にも関与した金宗直は、「羽陵行」の中で「于山一点滄溟の中」と詠み、李光庭も「狐嶼隠隠として中に高起す」としたが、江原道に配流された李山海も「海気澄朗なれば則ち領東よりこれを望む、一片の蒼烟の如し」と「鬱陵島記」に記してゐる。いずれも一點、狐嶼、一片と鬱陵一島の存在のみを記し、古地圖では陸地と鬱陵島の中間にあるとされる于山島には觸れていない。
この事實は、粱誠之らの古地圖によって形成された鬱陵・于山島像とは違って、現実に即した鬱陵島認識が別に存在したことを示してゐる。そしてそれは英祖三十三年(一七五七年)、洪良漢の発意で編集された『輿地図書』に至つて確定し、于山島の名も消えていくのである。
さらに、この鬱陵島像は朝鮮時代後期の地理學者金正浩の『大東地誌』にも継承され、やうやく鬱陵島一島のみの近代的な地理観が確立するのである。
これは メッセージ 1069 (hangetsujoh さん)への返信です.
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