韓カテ資料室
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Re: 川島洋子関連のスレ
投稿者: koshien21c 投稿日時: 2007/01/24 16:03 投稿番号: [478 / 1474]
亀レス失礼しました。トピを見失い探していました。
>その時期であれば、支給は真意だったとも考えられます。
旧台糖関係者(在、東京)に会う機会があれば時期や金額など含め聞いてみようと思っています。
>南京陥落の半年後に国際連盟の諮問委員会は、支那代表の声明に基づき、「日本軍の侵攻によって脅かされている支那の独立と領土保全」に奮闘する支那に対して同情の意を表する、という決議を行いましたが、南京虐殺はまったく触れられていません。
当時、国民党に敵対していた毛沢東共産党軍の公式文書である軍事記録書にも南京虐殺についての記載が無いとの事です。1万人でも虐殺されたならば、当然それを記載し、国民党に対する非難材料にも使えます。
蒋介石は抗日国際宣伝処を通じ米国へ日本軍の残虐非道ぶりを非難する情報戦を展開したわけですが、そのでっち上げの南京虐殺が一人歩きしだしたと言うことでしょう。
でっち上げを示唆するものとして国民党の国際宣伝処長を務めていた曾虚白の手記がありますね。
この汚い情報戦に日本はやられたともいえます。
昭和12年12月の南京攻防戦を直接取材した朝日毎日の従軍記者の証言です。
「虐殺?全然見たことも聞いたこともありません。夜は皆集まりますが、そんな話は一度も聞いたことはない。誰もそういうことを言ったこともないし、朝日新聞では話題になったこともありません。難民区は兵隊や憲兵がいて入れませんでした。ですから市民は安全でした。一般市民の屍体というのは一つも見ていません。紅卍字会の人が戦死体をかたづけたりしていました。」
(山本治氏
大阪朝日新聞記者)
「南京事件ねえ、全然聞いてない。もしあったとすれば、記者の中で話が出るはずだ。記者というのは、少しでも話題になりそうなことは、互いに話をするし、それが仕事ですからねえ。噂としても、聞いたことがない。朝日では、現地記者を集め、座談会もやったが、あったなら話がでるはずだ。報道規制?何も不自由は感じていない。思ったこと、見たことはしゃべれたし、書いていた。」
(橋本登美三郎氏
朝日新聞南京派遣記者団キャップ)
「私が編集局長の時、南京に特派した記者たちを集めて、一人一人聞いてみたが、そのようなことは見たことも聞いたこともない、という返事ばかりだ。何万、何十万なんていう虐殺など、絶対にない。」
(細川隆元氏
朝日新聞編集局長)
これは メッセージ 474 (trip_in_the_night さん)への返信です.
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Re: 韓カテ資料室
投稿者: himajin92 投稿日時: 2007/01/24 09:08 投稿番号: [477 / 1474]
おおっ☆
ちぇっく&りさーちのスピードは流石師父サマ
(ili´▽`).。oO
アマ○ンのレビュー見るとカン違いしてるのが
結構いそうれす・・・・・コウサクインカナ・・・
これは メッセージ 476 (toapanlang さん)への返信です.
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Re: 韓カテ資料室
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/01/23 19:08 投稿番号: [476 / 1474]
阿部美穂子れすか。
妹によりますと、彼女の結婚相手はかなりの金持ち、出産の際の病院も超高級、優雅に恵まれまくった生活をしているとのことで、とても一般的な体験記とは言えない、韓国人と結婚した日本人女性がみんなあんなふうだとは思ってほしくない、とおかんむりらったのれす。
これは メッセージ 475 (himajin92 さん)への返信です.
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Re: 韓カテ資料室
投稿者: himajin92 投稿日時: 2007/01/23 18:56 投稿番号: [475 / 1474]
これは メッセージ 1 (justina_eto さん)への返信です.
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Re: 川島洋子関連のスレ
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2007/01/21 22:00 投稿番号: [474 / 1474]
>台糖への蒋介石からの機械設備類の補償金は支給時期など詳細を聞いておりませんので検証出来ていません。
誠にお手数をお掛けしました。ありがとうございました。
お話自体はウソではないだろうと思います。
ただ蒋介石のことですから、その支給した意図が別にあるかも知れないと考えました。
また蒋介石の立場・戦略が、台湾に逃げ込んだ後では、日本に高圧的なものから協力を求めるものへと変化しました。
その時期であれば、支給は真意だったとも考えられます。
そういう意味で言えば、「台糖」の話は、逆に興味をそそられる話です。
下に掲げた著書の内容と通ずるものがあります。
>日本は33年に国際連盟を脱退したので後は蒋介石が連盟で日本を誹謗中傷し放題で日本は反論できずでした。しかし、当時国際連盟では重慶爆撃で日本を非難したそうですが、南京虐殺の話はまったくなかったと、又戦後フランスの高官が日本は連盟を脱退すべきでなかった、それは心情的に日本に不利に働いたと随分古い正論で読んだ記憶があります。
南京虐殺について、確かに、南京陥落の半年後に国際連盟の諮問委員会は、支那代表の声明に基づき、「日本軍の侵攻によって脅かされている支那の独立と領土保全」に奮闘する支那に対して同情の意を表する、という決議を行いましたが、南京虐殺はまったく触れられていません。
東中野教授によると、「南京大虐殺30万人説」の出所は、当時南京大学教授で、国際安全地帯委員会の一員だったシャール・ベイツの4万人虐殺説を下敷きに、事件の3年後に刊行されたエドガー・スノーの「アジアの戦争」で、スノーはベイツ説を「その大部分は女子供」と改竄した。さらに5年後、43年に刊行されたアグネス・スメドレーの「支那の歌声」では、ベイツ説を5倍にして20万人殺戮と拡大宣伝した。
ということです。
その裏では、蒋介石の国民党の対米工作がかなり進んでいたことが伺われます。
昭和20年の南京では虐殺証言が次々と現れ、南京の戦犯裁判、東京裁判に提出されるようになりました。
ほとんどが国民党によるでっち上げ証言でした。
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深田匠著
「日本人の知らない『二つのアメリカ」の世界戦略」高木書房より
昭和41年9月に岸信介元首相の名代として5名の日本人台湾使節団が訪台し、蒋介石と面談している。そして面談の最、その5名の中の一人である田中正明氏が松井大将の秘書であったことを思い出した蒋介石は、田中氏の手を堅く握り締めて涙を流しながら「南京に虐殺などなかった。松井閣下にはまことに申し訳ないことをした」と告白している。この蒋介石の涙の謝罪は、日本人訪台団、通訳、蒋介石の側近らが全員耳にした歴然なる事実であり、南京事件なるものは一切存在しなかったことを当事者が認めた貴重な証言である(72頁)。
http://www8.ocn.ne.jp/~senden97/nankinjiken1.html#深田匠櫻井よし子
ジャーナリスト
諸君8月号
平成17年度
戦時中、中国国民党の国際宣伝処長を務めていた曾虚白という人物がいるのですが、彼は自伝の中で、対日戦争における情宣工作についていくつかの手口を明かしています。具体的には、中国の兵士を鼓舞する英雄物語を数多く創作することと、日本軍の残虐行為を国際社会に宣伝することでした。そのような工作をしているまさにその時、毎日新聞が「百人斬り競争」の記事を書いた。この時の印象について曾虚白は「物事は信じがたいほどうまくいくものだ。われわれが敵の材料を探していた時に、敵の方からそれを提示してくれた」という主旨のことを書き遺しています。彼はすぐにティンパーリーというオーストラリア国籍の新聞記者と、金陵大学の社会学の教授であったスマイスというアメリカ人にカネを渡し、日本軍の暴虐行為を本にさせたとも書いています。のちに北村稔・立命館大学教授の調査(『南京事件の探求』文春新書)により、ティンパーリーは国民党国際宣伝処に雇われた人物だったことが当時の文献から明らかになっています。
そして日本軍の南京入城が1937年12月13日です。日本軍の占領は1938年2月末まで続きますが、その同じ年の11月には英国でティンパーリーの『What
War
Means』が出版された。じつに手際よく、国民党から発信された情報が英訳されて国際社会に喧伝されたのです。曾虚白は、これは非常にうまくいった例であると回想しています。のちにこの本が南京大虐殺を確定する証拠資料として東京裁判に提出され、A級戦犯も裁かれたわけですね。
http://www8.ocn.ne.jp/~senden97/nankinjiken1.html#櫻井よし子 >http
これは メッセージ 473 (kohshien21c さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/4za5aba5fbbqnabcbc_1/474.html
Re: 川島洋子関連のスレ
投稿者: kohshien21c 投稿日時: 2007/01/21 00:09 投稿番号: [473 / 1474]
いえいえ一向に構いませんよ。私自身はトリップさんのレスで勉強させて貰い、謝謝です。
台糖への蒋介石からの機械設備類の補償金は支給時期など詳細を聞いておりませんので検証出来ていません。しかし、その話をした相手の方は仕事とプライベートでもお付合いしていた経営陣の中で極めて高位の方であり、雑談で同社の歴史を語っていた時に聞いた話です。私に嘘を付いても意味が無いので確かと思います。
私は単に蒋介石はまともな事をしたんだなとの感想を持ち、根掘り葉掘り聞くことは控えました。台糖社は戦前名前を出すと差し支えあるかと思いますので控えますが、宮家も出資していた国策会社です。蒋介石はそれを知っていたのかなとも思ったり。
彼は国際条約を破り日本居留民を殺害する他日貨排斥運動を進めるなど露骨に敵対し、又貼っていただいた資料の第二次上海事変の如く実質的に日本へ宣戦布告、解釈によっては日本居留民への侵略戦争を起こしました。その後南京攻防に移ったのですが、蒋介石は逸早く逃げて責任者として戦闘収拾の責任を取っていません。その責任を日本へかぶせたのですが、日本は33年に国際連盟を脱退したので後は蒋介石が連盟で日本を誹謗中傷し放題で日本は反論できずでした。しかし、当時国際連盟では重慶爆撃で日本を非難したそうですが、南京虐殺の話はまったくなかったと、又戦後フランスの高官が日本は連盟を脱退すべきでなかった、それは心情的に日本に不利に働いたと随分古い正論で読んだ記憶があります。
資料を貼れずにあやふやな話で失礼しました。
これは メッセージ 472 (trip_in_the_night さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/4za5aba5fbbqnabcbc_1/473.html
Re: 川島洋子関連のスレ
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2007/01/20 10:28 投稿番号: [472 / 1474]
これは メッセージ 469 (kohshien21c さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/4za5aba5fbbqnabcbc_1/472.html
Re: 川島洋子関連のスレ
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2007/01/20 01:19 投稿番号: [471 / 1474]
>>(残念ながら、台湾については蒋介石のために、台湾内の日本資産だけでなく、日本国内の機械設備まで強奪するという、もっと悪辣な状況ですが、これは台湾の原住民の責任ではありません。)
>これはチョッと違うのではないかと思います。中国本土及び台湾に残した日本側資産が莫大なため蒋介石は日本への戦時賠償を請求しませんでした。
>台湾精糖(後の台糖、一昨年4月合併して三井製糖)の古い関係者の話では、
>摂取された機会設備全ての保証を蒋介石から台湾元で貰ったそうです。
台湾精糖に渡された「台湾元」の話は、少し分からない点があります。
蒋介石が台湾に逃亡した後の政治宣伝とも考えられます。
「蒋介石・中華民国政府」の行為を、次のように考えおります。
GHQは日本の在外財産を留保しながら、3300億円にものぼる日本国内の機械設備を接収し、主として台湾(50%)、フィリピン、蘭印、仏印などに引き渡す暴挙に出た。
これは「中間賠償」と呼ばれ、蒋介石の強要によるものであった。
この他、米韓協定によって、日本人民間人資産は全て失われた。
日本人所有の台湾、中国本土、満州の資産も同様である。
これは明らかにトルーマンと蒋介石による強奪であった。
それを取り繕うために、その後のサンフランシスコ条約に賠償条項が付け加えられた。
さらに台湾に逃れた蒋介石は破廉恥にも、52年日華平和条約締結交渉で、500億ドルの賠償を求めたが、日本政府はすでにサンフランシスコ条約で解決済みであるとして拒否した。
そこで蒋介石・中華民国政府は、「蒋介石は徳を以て怨みに酬い、賠償請求を放棄した」と政治宣伝を始めた。
これは メッセージ 469 (kohshien21c さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/4za5aba5fbbqnabcbc_1/471.html
Re: 川島洋子関連のスレ
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/01/20 00:54 投稿番号: [470 / 1474]
>1.朝鮮式思考法は、yokoの父親が731部隊の戦犯だとか韓国側では根拠もなく主張しているようですが、韓国では先祖を親日派とレッテル貼りして葬り去るように、親が悪人なら子供の主張を全否定できるという論理ですね。
ええ。呉善花を攻撃する際には、彼女の主張ではなく、その出自や学歴を云々しておりましたね。
>韓国人が現在の日本人を、「日帝の子孫、戦犯国の子孫w」というのは、罵倒かつ全否定の意味だと分かりました。
彼らの好む「道徳的志向」に拠る決めつけでもあるでしょう。
>でも、反論・反証として成立しない朝鮮式の非論理的思考法は、まったく理解できません。(笑)
そうですね。反論を担保するのに論理や物証ではなく「道徳」をからめるというのは、将棋にチェスの駒を投入するようなものです。まったくフィールドが違うぞと。
で、論破された後は「チェスでなら勝っている」とかぬかすわけです。
>2.yokoの話を否定しようとして、類似の話がどんどん出てくるとなると、今回の件は韓国の薮蛇になりますね。
どのように韓国が防戦するのか、楽しみです。
これまでの経過を見ていますと、韓国側が勝手に盛り上がって燃料を投下しているだけにしか見えないのです。
>また、日韓の政府レベルの喧嘩になることを期待しております。(笑)
日本の新聞にも大きく取り上げられるでしょうから。
それはどうでしょうか?元来はアメリカでのお話ですし。しかし、なぜ推薦図書になったのでしょうか?戦争の悲惨さを題材にしつつもアメリカが悪い形で関わっていない題材だったからかなぁ。
日本側が動くとすれば、産経が取りあげるより、朝日毎日あたりが利用するために取りあげるほうが速いかもしれません。で、その記事を韓国マスコミが喜んで取りあげると。
>ところで、朝鮮人の犯罪行為の他に、朝鮮半島からの日本人引揚者(日本企業を含む)は個人財産を失っています。
当時のGHQ(米国)と韓国の横暴とはいえ、利得を得た韓国は泥棒猫であります。
それで、在外財産協会の47億ドル、GHQの53億ドルという「試算」になるわけですね。
>(残念ながら、台湾については蒋介石のために、台湾内の日本資産だけでなく、日本国内の機械設備まで強奪するという、もっと悪辣な状況ですが、これは台湾の原住民の責任ではありません。)
あの男は、ほんまうまいことやりくさったなぁ、と思わざるを得ません。
おっしゃるとおり、台湾人ではなく中華民国の仕業ですね。あれだけ焼け太りしておいて「以徳報恩」としれっとのたまうあたりは支那世界的な英雄やのぉ、と苦笑します。
これは メッセージ 468 (trip_in_the_night さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/4za5aba5fbbqnabcbc_1/470.html
Re: 川島洋子関連のスレ
投稿者: kohshien21c 投稿日時: 2007/01/20 00:47 投稿番号: [469 / 1474]
>(残念ながら、台湾については蒋介石のために、台湾内の日本資産だけでなく、日本国内の機械設備まで強奪するという、もっと悪辣な状況ですが、これは台湾の原住民の責任ではありません。)
これはチョッと違うのではないかと思います。中国本土及び台湾に残した日本側資産が莫大なため蒋介石は日本への戦時賠償を請求しませんでした。
それに加え、一例だけで判断はどうかと思いますが、台湾精糖(後の台糖、一昨年4月合併して三井製糖)の古い関係者の話では、
摂取された機会設備全ての保証を蒋介石から台湾元で貰ったそうです。
それが二束三文になったので台糖社に記念として保管していたそうです。
まあ、台湾元は国際通貨で無いし、当時台湾からの買い付けにはOKでしょうが、貨幣価値が激変したのでしょう。
これは メッセージ 468 (trip_in_the_night さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/4za5aba5fbbqnabcbc_1/469.html
Re: 川島洋子関連のスレ
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2007/01/20 00:25 投稿番号: [468 / 1474]
投稿者: yuzukinokimiさんは、活躍の場を広げておりますねえ。(笑)
>>marcusmiller氏が論点を整理してくれた通り
1.yokoの親をどう位置付けようが、彼女の小説が否定される訳ではない。
2.yoko話以外にも、似たような話は数多くある。ということを韓国人に理解して頂きたいものです。
1.朝鮮式思考法は、yokoの父親が731部隊の戦犯だとか韓国側では根拠もなく主張しているようですが、韓国では先祖を親日派とレッテル貼りして葬り去るように、親が悪人なら子供の主張を全否定できるという論理ですね。
韓国人が現在の日本人を、「日帝の子孫、戦犯国の子孫w」というのは、罵倒かつ全否定の意味だと分かりました。
でも、反論・反証として成立しない朝鮮式の非論理的思考法は、まったく理解できません。(笑)
2.yokoの話を否定しようとして、類似の話がどんどん出てくるとなると、今回の件は韓国の薮蛇になりますね。
どのように韓国が防戦するのか、楽しみです。
また、日韓の政府レベルの喧嘩になることを期待しております。(笑)
日本の新聞にも大きく取り上げられるでしょうから。
ところで、朝鮮人の犯罪行為の他に、朝鮮半島からの日本人引揚者(日本企業を含む)は個人財産を失っています。
当時のGHQ(米国)と韓国の横暴とはいえ、利得を得た韓国は泥棒猫であります。
(残念ながら、台湾については蒋介石のために、台湾内の日本資産だけでなく、日本国内の機械設備まで強奪するという、もっと悪辣な状況ですが、これは台湾の原住民の責任ではありません。)
もっとよい資料があればと思います。
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第041回国会
予算委員会
第2号
昭和三十七年八月二十七日(月曜日)
午前十一時開会
(前略)
○杉原荒太君
一九四五年在韓アメリカの軍政府が帰属命令によって接収した在韓の日本財産の内容並びに一九四八年米韓協定によって、米軍政府から韓国に移譲された財産の内容は、政府においてわかっておりますか。この際、内容の説明を私は求むるものではないのでありますが、政府にその内容がわかっておるかどうかという点をお尋ねいたします。
○政府委員(中川融君)
在朝鮮あるいは韓国に限定いたします。在韓国日本財産、これがその後四五年のいわゆるヴェスティング・デクリーによって、アメリカに接収され、さらに一九四八年の米韓協定によって韓国政府に渡されておるわけでございますが、その具体的内容につきましては、正直のところ、日本側にはわれわれの資料というものはないわけであります。引揚者から、その引き揚げの際に申告を受けたもの、これが唯一の根拠でございますが、これとても不完全なものであるわけ、でございます。それで具体的に米国が韓国に渡した際に、どんな財産があったのか、その内容を知らしてもらいたいということをアメリカ政府に久しく前から要求しておるのでございます。その要求に基づきまして、ある程度の資料は最近参りました。しかしながらこれまた十分でないのでございまして、さらにその残余の分についても、資料を出すようにと、今アメリカに折衝いたしております。なお韓国側にも、この資料の要求を求めておりますが、韓国側からは、この点についての資料はわれわれのところに送ってきていないのが現状でございます。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/041/0514/04108270514002c.html
これは メッセージ 467 (toapanlang さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/4za5aba5fbbqnabcbc_1/468.html
川島洋子関連のスレ 3
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/01/19 21:46 投稿番号: [467 / 1474]
(つづき)
日成直系の李紅光に率いられた朝鮮人部隊(日本人は新八路と呼んだ)が、「36年の恨み」を口にしながら、暴行、掠奪、処刑と残虐な所業で日本人を震え上がらせていた。(中略)また女だけの留守宅は、朝鮮の新八路軍に襲われ強姦されて自決した女性もいた。
http://www.alphapolis.co.jp/mailmaga/maga_each.php?maga_id=1000060&maga_no=8876&back=1&back_time=1162868460「マンセイ・マンセイ」
ATSUSHI
ある日の夜8時過ぎにどんどんと戸をたたく音がした。当時戒厳令が出ていて、夜の8時以降は外出禁止になっていた。父が戸の傍に出て、「どなたですか?」と言うと、「保安隊から来た。ちょっと開けてください。」と言うので、父が「保安隊から戒厳令が出ているのに可笑しいですね、用事があるなら明日あさにきて下さい」と言うと今度は「ソ連の特務機関から来た。開けなさい」と厳しい口調になったようである。父がすかさず、「特務機関のあるのは、日本だけだ」と言うと「どうしても開けないか。開けないと撃つぞ」と言う声。父が「ようし、皆入ってきたら、構わないから、鉈でたたき殺せ」と怒鳴った。
当時捕虜となって行進中に脱走してきた兄の友人を匿っていたのだが、彼は空の五右衛門風呂に蓋をかぶってがたがた震えていたそうである。私と姉は裏庭から隣の家に避難していたが、押し問答の声は静まりかえった夜だけに全部聞いていた。ややあって、ダダン・と銃声が鳴り、父の声も沈黙。一瞬やられたか?と心配したが、朝鮮人とロシア兵の話し声が聞こえ、立ち去っていった。当時朝鮮人が若い女性の居る日本人の家を教えて稼いでいたようである。
30分程度の検索でこれだけHITしました。
ここに挙げたのは終戦時の強姦関係だけで、略取・殺人などその他暴行省略しました。
身内に満州・朝鮮引揚者がいる日本人は、似たような話を聞かされています。
ネット上に挙がっていない本の記述や、祖父母の証言等も含めれば結構な数になるでしょう。
というわけで、YOKOの親を悪人に仕立てても無駄ですから。
(終わり)
これは メッセージ 466 (toapanlang さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/4za5aba5fbbqnabcbc_1/467.html
川島洋子関連のスレ 2
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/01/19 21:29 投稿番号: [466 / 1474]
(つづき)
「平和の礎
海外引揚者が語り継ぐ労苦12」(平成14年
平和祈念事業特別基金発行)
8月15日(終戦日)を境にして、それこそ天地がひっくり返ったようになり、いく先の運命は段々と暗くなっていった…
文坪の町も日に日に治安が悪くなっていた。しばらく鳴りを潜めていた朝鮮過激分子の跳梁が始まってきた。元山でも朝鮮人が暴徒と化して、日本人経営の店や住宅にまで押しかけて暴行、略奪を始めたという噂が入ってきた。私たち文坪在住の日本人も、このままでは危ない、何か対策をたてないとということで相談を始めたところに、朝鮮保安隊(朝鮮人による警備隊)から指示があった。その内容は、「日本人は町中の一ヵ所に集め、集団生活をさせることとなった。2世帯か3世帯が一緒になって同居のような形になる」というような内容だった。態度を豹変させた保安隊員は、指示により他に移り住む人々を、まるで囚人を追い立てるかのように家から追い立てていた。まだ移転する準備もできずに家財道具も整理していないのに、小銃などで追い出していた。私の家も追い立てられて、よその人の家に同居することになった。
ソ連兵や保安隊員の傍若無人ぶりは、相変わらずであった。女性に対する暴行事件も後を絶えず、暴行を受けた人の中には自ら死を選んだ人も多かった…
死者が出ても葬式をだせるはずもない…
なんとかしなければと有志の人たちが、保安隊の幹部に申し入れてやっと許可を得た…
深さ1.5メートル、幅2.5メートルぐらいの穴を掘り、そこに山から風倒木を運んできて薪をつくり、それを土の上に敷き並べて、さらにその上に遺体を数体ずつ置き、石油をかけて四方から火をつけて荼毘(だび)に付した。
家族の者や作業をしていた人だけが手を合わせて野辺の送りをしたが、運命とはいえ、悲しく、かつわびしい有り様でした…
保安隊では、お骨を持って帰ることを許さなかった。噂話で聞くところによると、遺体が灰になった後、金歯などの貴金属を探して持っていったということだった。
第三國人の暴行
「
表題の件に付ては既に一通り書き終えた心算であったが、本日郷土、城東葛飾に赴いたところ、偶々老人達が本件を論じてゐた
中にも地方議員たる七十翁の回顧は愚生の筆より数段迫力有りし故、帰宅早々記憶により再現し、此処に記して御歴々の御参考に資せむとするものである
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録取者
北斗星
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終戦後の第三國人どもは本當に酷かった
軍の兵器を盗んで來たらしく、三八式歩兵銃や南部式拳銃で武装し、小銃には着剣して強盗強姦傷害恐喝脅迫不動産窃盗、時には殺人まで、経済犯、實力犯を中心にあらゆる悪事を重ねてゐた」
田岡一雄山口組組長の回顧録(「山口組三代目
田岡一雄自伝」より転載)
「一瞬、ぎくりと立ちどまり、悲鳴のあがる方角に走った。途中で四、五歳の女の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた。
「どないしたんや」
「おかあちゃんが、おかあちゃんが」
少女は私に泣きじゃくりながらしがみつく。この世のものとは思えぬ女の狂気じみた悲鳴がきこえつづけていた。
「ここにいるんやで。ええな」
私は少女をその場において一目散に走った。少女の母親は木立の中で数人の男に犯されていた。飛行服の男たちだった・・・(中略)
通りすがりの通行人の目つきが気に食わないといっては難くせをつけ、無銭飲 食をし、白昼の路上で集団で婦女子にいたずらをする。善良な市民は恐怖のどん底に叩き込まれた。こういった不良分子(朝鮮人)は旧陸海軍の飛行服を好んで身につけていた。袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを 首に巻きつけ、肩で風を切って町をのし歩いた。腰には拳銃をさげ、白い包帯 を巻きつけた鉄パイプの凶器を引っさげたかれらの略奪、暴行には目にあまるものがあった。警官が駆けつけてきても手も足も出ない。「俺たちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人が何をいうか」警官は小突き回され、サーベルはヘシ曲げ られ、街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。
投稿者 不動明部長 : 2006年06月15日 23:15
私は満州引き揚げ者の孫ですが、朝鮮半島での引き揚げ者に対する朝鮮人の非道を語り継ごうと考えています。
女性に対する拉致・強姦、強盗・殺人その他ありとあらゆる非道を受けて日本人は満州から引き上げてきました。
ロシア人からの被害をマスコミでは目にしますが、朝鮮人もかなり行っています。
祖父母はロシアに対しては何も言いませんが、朝鮮人だけは許す事が出来ないと言っています。
http://blog.nikkansports.com/general/yoshida/2006/06/post_72.html(つづく)
これは メッセージ 465 (toapanlang さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/4za5aba5fbbqnabcbc_1/466.html
川島洋子関連のスレ 1
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/01/19 21:22 投稿番号: [465 / 1474]
ヨーコ・ワトキンス・カワシマの『竹の森遠く』に関連して、エンコリでの拾い物です。
日本人がyoko話に驚かない理由 投稿者: yuzukinokimi
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=75340削除されないか心配なので、内容を写しておきます。
・・・・・・・
似たような話を良く聞くからです。
「正論」
平成17年
11月号
引揚民間人を襲った略奪・暴行・殺戮の嵐
「吉州や端川の海岸線にでた人たちに対するソ連兵や朝鮮保安隊の略奪と暴行は、残酷をきわめた。
夜中に雨戸を蹴破って侵入してきたソ連兵は、17になる娘を父親からひったくるように連行。娘は明け方になり無残な姿で、涙もかれはてて幽鬼のごとく帰ってきたという。
みなソ連兵を朝鮮人が案内したのだった。
部落ごとの保安隊の関所では、厳重な身体検査が行われ、金や着物や米などが取り上げられた。
靴の底や、女の髪のなかから金を探し出すのはふつう。一糸まとわぬ姿にされ、取調べられた若い女性もあった。城津での惨状は言語に絶した。(中略)
朝鮮人の男女が数十人の団体でおしかけ、干してある洗濯物から赤児の着物まで剥ぎ取って掠奪され、あげくは婦人の“提供”を要求されたという」
「博多港から車で40分ほどの二日市温泉郷につくられたのが、「二日市保養所」である。強姦によって妊娠させられた女性たちには、堕胎手術が施された。また、性病に感染した女性たちにについても、匿って回復するまで治療が行われた。(中略)
「二日市保養所」の産婦人科部長だった橋爪医師の証言が、「水子の譜」に収録されている。同医師が昭和21年6月10日付で救療部に提出した報告書によれば、強姦の加害者は朝鮮人が最も多く、次いでソ連人、中国人、アメリカ人、そして台湾人、フィリピン人も登場する。」
この二日市保養所の報告書が残っているようです。
「二日市保養所報告書
六月十日p183 "地域別と加害者"
(一部期間)
不法妊娠(強姦等による妊娠 救療部の用語)ヲ地区別ニ分類スルニ北朝2ニシテ最多、 南鮮14、満州4、北支3ノ順序ニシテ
鮮人ニ因ルモノ28、ソ連人ニ因ルモノハ8、支那人ニ因ルモノ6人、米人ニ因ルモノ3、台湾人、比島人ニ因ルモノ各1ナリ 」
朝鮮人による被害者は全体の6割です。
『ある戦後史の序章』
(「石田一郎の手記」西日本図書館コンサルタント協会
所収)
「満州や北朝鮮からの初期の脱出者は悲惨で、今も念頭を去らないいくつかのエピソードがある。北朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、年頃の娘二人を連れ、辛苦のすえやっと38度線近くの鉄原にたどりつ いた。
そこで見たものは、日本人の娘達がつぎつぎにまずソ連兵に犯され、ついで朝鮮人の保安隊に引き渡されてさらに散々に辱められたうえ、虐殺されている光景であった。折角ここまで連れてはきたが、最愛の二人の娘達もまもなく同じ運命をたどるであろうことを不悩に思い、近くの林の中の松の木に経って自決させ、これはその遺髪ですといって私に見せてくれた」
(つづく)
これは メッセージ 1 (justina_eto さん)への返信です.
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Re: 中国人韓国滞在記
投稿者: ricky_eto 投稿日時: 2007/01/19 16:42 投稿番号: [464 / 1474]
これは メッセージ 463 (reishikikannsen21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/4za5aba5fbbqnabcbc_1/464.html
Re: 中国人韓国滞在記
投稿者: reishikikannsen21 投稿日時: 2007/01/19 16:12 投稿番号: [463 / 1474]
えとさん、「よく見ました。」(エンコリ翻訳風)
この中国の方は相当、御立腹の様ですね。
下に有るコメントもなんだ?って感じでありました。
しかし、掲示板に出没する、ゾックトドンムはこの方が
言っている事と合うとなります。(再びエンコリ翻訳風、
カタカナの部分はいい加減なものです、すいません。)
これは メッセージ 462 (ricky_eto さん)への返信です.
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百済武寧王について(12)
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/01/16 12:44 投稿番号: [461 / 1474]
七支刀は武寧王が下賜したニダ!の註釈、後半です。
・・・・・・・
(31)
七支刀の制作年代である「泰△四年△月十六日丙午」がいつであるか正確に知ることはむずかしいことである。現在としては推定するほかはない。
①菅政友は銘文と広開土王碑文は同じ書体で、これは一−四世紀中国でつかわれたという。したがって、この二つの遺物は同じ時代のものとみるべきものであり、七支刀を四世紀の制品とみなしてもかまわないであろう。
②一九七一年関東地方の一つの古墳では第二の七支刀が出土し、学界ではこの古墳を五世紀のものと推定しているので、倭王旨のものは四世紀のものとみてもよかろう。
③「泰△四年」は、百慈王が即位して四年になる年と思われるが、いつであるかはよくわからない。ところが、『日本書紀』には多くの事実記事があり(王仁博士、五経博士、仏経などの来倭)あり、それらは大体事実と符合する場合が多いようである。
ところで、「神功紀」にある肖古王と七枝刀、七子鏡の記事は関係があるものとみて、「泰△四年」を一応肖古王即位後の四年か、あるいは近仇首王四年の年と暫定的な推定をしたい。
(32)
「奇生聖音」は当代につかわれた吉祥語にみられるが、今日その意味を理解しにくいようである。李道学は、これを「百済王治世時にたっというまれ(奇生)があるから、聖上の聖音として〝故意〟と解釈する。そして百済王治世時に奇妙にもらった神聖な音信が生じたため」と解釈している。李道学「百済七支刀銘文の再解釈」『韓国学報』六〇、一九九〇年、七八ページ参照。
(33)
前述のとおり福山らは「倭王旨」の読法に対し異論を提起しているが、上田、栗原、三品、佐伯、李丙菇、金錫享ら少なくない人士がこれに反対している。金昌鎬によると、百済文書の慣行には人名表記において、官等が人の前にくるということで、倭王旨の「旨」は人名であるほかないという(金昌鎬「百済七支刀銘文の再検討」『歴史教育論集』第一三・一四集、一四一−一四六ページ)。
事実、上代文書にはかならず人名がなければならないというのが法則であり、しかも上王が侯王におろす文書にはその名前がかならずあるのである。それで銘文の「侯王」の場合も、次の字は「旨」にみえるが不幸にも毀損され知ることができない。
『礼記』には「侯」が天子に謁見するとき、「臣某侯某」と告げる格式があるが、この時「倭王旨」の場合は「臣倭侯旨」としなければならない。
(34)
山尾幸久は「侯王は身分が高く裕福な人(高位高官または高貴な人)をいう一般的な常用語である。これはほとんど確定された概念であろう」という(山尾幸久『古代の日韓関係』東京・塙書房、一九八九年、一七三ページ)。
(35)
金錫享によると三国時代には「王世子」というのはなくて、太子で通用されたという(金錫享『初期朝日関係史』東京・勁草書房、一九六九年、一九六ページ)。
(36)
銘文の「世△」を「世世」とみる理由は、銘文には「先世」と「後世」という王家の系統の表記があり、また「宜供供」のような複合表現もあり、そういうふうに読むほうが自然的にみえる。
今まで日韓両国の解釈者らは皆これを「王世子」と読んでいるが、金錫享氏だけがこれに反対する。これが正しい見解だと思う。最近村山教授はこれを「世世」と呼んでいる。
(37)
最近学界の一部では、七支刀「献上」に反対しており注目される。特に、山尾幸久は「結論的には七支刀は百済王の倭王に臣属とか、百済王による倭王の封建も一緒に意味するものではない」と主張し、七支刀の平等者間の授受を強調するようである(山尾幸久『前掲書』一七三ページ)。
(38)
李道学は「斧鉞や刀剣の賜与は下位者に対する上級者の信頼としての性格が強いだけに服属の礼という側面を見過ごしてはならない」という(李道学、前掲論文、八一ページ)。
・・・・・・・
読めば読むほどバカになるイヤ論文、次回は、倭王武の上表文についてです。
これは メッセージ 457 (toapanlang さん)への返信です.
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吹田事件
投稿者: doronpa95 投稿日時: 2007/01/14 20:22 投稿番号: [460 / 1474]
ttp://homepage2.nifty.com/mi-show/peaceright/sho_soto/suita.htm
今から50年前の1952年6月25日、大阪・吹田で大規模な朝鮮戦争反対のデモが行われた。
前夜、大阪府学連の主催で「伊丹基地粉砕・反戦・独立の夕べ」が阪大石橋キャンパス(待兼山)で開催され、学生・労働者・朝鮮人約3千人が集い、その3分の2が朝鮮人だったといわれている。当時伊丹基地にはアメリカ進駐軍がおり、伊丹空港から連夜朝鮮半島に向けて爆撃機が飛んでいた。また吹田操車場からも軍事物資を載せた列車が走り、神戸港から朝鮮半島に送られていた。
キャンパスでキャンプファイヤーを行ったあと、吹田操車場に向かい軍需列車運行を阻止し、またその後大阪駅に向かって御堂筋でデモ行進を行う予定だった。深夜、集会参加者は二手に分かれデモ行進をスタート。約1000人は「山越え部隊」といわれ、西国街道から徒歩で箕面を通り、吹田操車場に向かった。もう一隊は「人民電車部隊」といわれ、阪急石橋駅で駅長と交渉し臨時電車を運行させ(午前3時)、約800人が服部駅で下車し、吹田操車場に向かった。
合流した1000人を越えるデモは吹田市警130人と対峙し、突破(午前5時半)、吹田操車場内で軍需列車を探したが見つからず、デモ行進を行い、「決死隊」は線路の上で座り込みをしたが、幸いにして列車はこなかった。このとき一部のデモ隊は派出所や警官輸送トラックに火炎瓶を投げつけ、茨木市警の警官が火だるまになり、ピストル2丁を奪い、「火炎ビンと竹ヤリ」といわれるように、後にこのことが事件の全容であるかのような印象を与え続けた。
午前8時、デモ隊は国鉄吹田駅から列車に乗り込み大阪駅に向かったが、駅で警官はピストルを発射、火炎ビンの応酬もあり駅構内は大混乱となった。デモ隊11人がピストルで撃たれ重軽傷を負った。
結局騒擾罪と威力業務妨害によって250人近くが検挙され、111人が起訴された。(日本人被告6割、朝鮮人被告4割。)その後の裁判闘争で、一審から三審まですべて無罪を勝ち取った。
金時鐘氏の公演】
・私は49年6月に渡日し、故国がもっとも苦難の時に逃げてきたという後ろめたさ、心の責めもあって、すぐに日本共産党に入党した。
・大阪駅はすごい騒ぎだった。構内でピストルを水平に撃つのを見たし、火炎ビンで火だるまになっている警官も見た。本当に怖ろしかった。私は環状線に乗るのをやめ、地下鉄で天王寺に向かって逃げた。私を含む男性二人と女性一人で地下鉄に乗ったのだが、脱糞していたのは私だけではなく、地下鉄の中で女性を庇うようにして私たちがたち、本当に恥ずかしかった。
・当時猫間川(現在の平野川)は真っ黒であぶくが浮いていたのだが、川底をさらって鉄屑で生活する人がたくさんいた。この鉄屑が朝鮮戦争の爆弾に化けるのだ。当時小松製作所は信管のネジなど、親子爆弾の部品を作っていたが、小松製作所は東成・生野の町工場(長屋工場?)に下請けを出していた。祖防(祖国防衛隊)は「同胞を殺す武器になるのだから止めろ」と説得し、工場を実力で潰すこともあった。今でも覚えているが熱で汚れた眼鏡をかけた人でね、「ヤメや、朝鮮人ヤメや!」と叫んでね、今でもあの声は忘れることが出来ない。
・越北した文化人の多くが、戦後2年の内に消息が知れなくなった。そんな人間を私はいくらでも挙げられる。思えばあのときに、北朝鮮は人民のためではなく特定の人物のための権力になったのだろうか。
単なる恥かしいテロ犯罪集団です。
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イルボンは韓流にメロメロニダ【2】
投稿者: imp_mania_jk 投稿日時: 2007/01/12 23:10 投稿番号: [459 / 1474]
人気番組でも、寒流やると逆に視聴率が落ちるって事も判明してます。
「ロンドンハーツ」(05年)
7/12
15.3%
話題杉田かおる格付け復活”もう私は暴れるよ”
7/19
13.7%
急逝橋本真也さんに捧ぐ…亡くなる直前の収録分
7/26
16.1%
衝撃格付け女バトル新企画
8/02
13.7%
格付けしあう女たちは、医師の西川史子
8/09
8.9%
話題格付け女vsチェ・ジウ
←ここ
8/16
13.1%
衝撃格付け女vs毒舌子役!!
8/23
16.2%
「公約”世界の中心で謝罪”青木さやかvs熊田曜子
8/30
16.3%
爆笑格付け若手芸人SP!!
--------------------------
「発掘!あるある大事典」(05年)
1/23
16.3%
新陳代謝悪化が老け顔&疲れの原因!
1/30
13.1%
月10万円でもできた楽園ハワイ生活!
2/13
16.0%
手で身体の危険度をズバリ診断
2/20
14.5%
体脂肪を減らす救世主αリポ酸
2/27
9.3%
あなたのお肌が…韓流美肌のヒミツ
←ここ
3/06
15.0%
筆跡でわかる!本当の自分2
3/13
16.0%
老けない身体をつくる
早期発見シリーズ「腰」
3/20
12.0%
冷え人間は太るし老ける!?
(おまけ)
愉快な韓国トピでも載ってましたが、こちらにも貼っておきます。
日本の若者、百人に聞きました
「貴方の知ってる韓流スター」
http://www.youtube.com/watch?v=8ba7glXp_Lk 1. Q(日本の若者達は) 韓流スターに興味ありますか?
-A 韓流スターに興味ないです。
2. 韓流スターは好きじゃないです。すみません。
3. 代表的な韓流スター 8人を選定
4. 日本の繁華街で投票。あなたが知っている韓流スターは誰ですか?
5. Qこの中で好きな韓流スターはいますか?
-A いいえ、ないですね。
6.Q この中で好きな韓流スターはいますか?
-A いいえ、ないですね。
7. Q同級生の中で人気のある韓流スターは誰ですか?
-A 韓流は全然人気ないです。
8. 誰もこの人たち(韓流スター)の話はしないです。
9. では韓流スターが好きな人は誰ですか?
-A おばさんです。60才以上の老年層です。
10. 元々おばさんたちのパワーは凄いです。
11. お母さんが韓流スターが好きだと言ったらどうする?
-A 家出します(笑い)
12. 正直、僕も家出します。
13. 韓流は馬鹿みたいですね。恥ずかしいです。
それに対するコメント欄
Die jap!!Die jap!!Die jap!!Die jap!!Die jap!!Die jap!!
Die jap!!Die jap!!Die jap!!Die jap!!Die jap!!Die jap!!以下略
これは メッセージ 458 (imp_mania_jk さん)への返信です.
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イルボンは韓流にメロメロニダ【1】
投稿者: imp_mania_jk 投稿日時: 2007/01/12 23:05 投稿番号: [458 / 1474]
冬のソナタ
9.2 10.9 11.4 12.3 9.2 13.6 12.6 15.0 14.8 15.7 17.6 17.1 16.6 16.5 16.3 16.8 15.5 16.5 10.0 20.6 平均14.4%
最初で最後の20%越え
寒流とか冬ソナ大ヒットとかって、一体何処の平行世界でのお話ですか?
【国内高視聴率ドラマランキング】(平均視聴率)
1
HERO
34.3%
2
ビューティフルライフ
32.3%
3
GOOD LUCK.
30.4%
4
ごくせん【第2期】.
27.8%
5
やまとなでしこ
26.1%
6
プライド
24.9%
7
渡る世間は鬼ばかり【第5期】
24.3%
8
オヤジぃ
24.2%
9
白い巨塔
23.7%
10 渡る世間は鬼ばかり【第6期】
23.4%
11 西遊記
22.8%
12 エンジン
22.4%
13 空から降る一億の星
22.3%
14 Dr.コトー診療所2006.
22.1%
15 ラストクリスマス
21.5%
16 人にやさしく
21.4%
17 電車男
21.0%
18 Love Story
20.8%
19 僕と彼女と彼女の生きる道
20.7%
20 白い影
20.3%
21 ショムニ
20.3%
22 救命病棟24時【第2期】.
20.2%
ランク外
冬のソナタ
14.4%
【国内韓国ドラマ平均視聴率ランキング】
1
冬のソナタ.
14.4%
2
天国の階段
11.7%
3
美しき日々
11.5%
4
宮廷女官チャングムの誓い
11.3%
5
悲しき恋歌
8.9%
6
オールイン
8.8%
7
ホテリアー
4.6%
8
真実
4.6%
9
パパ
3.9%
10 秋の童話
3.8%
11 パリの恋人
3.7%
12 秘密
3.7%
13 星に願いを
3.5%
14 サンドゥ、学校へ行こう!.
3.5%
15 屋根部屋のネコ.
3.3%
16 レディ・ゴー!.
1.9%
これは メッセージ 1 (justina_eto さん)への返信です.
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百済武寧王について(11)
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/01/10 09:40 投稿番号: [457 / 1474]
ほんま、註釈までアホ記述ばかりだわ・・・
・・・・・・・
註釈
(21)
一方、文定昌と岡崎敬は忠北中原郡出土の「建興五年銘金銅如来像」にある「建興」は百済の私年号(威徳王の)とみているのが注目にあたいする。しかし、韓国学界の多数はこれを高句麗のものであると主張しているのでこれからの検討が必要である(文定昌『百済史』ソウル・人間社、一九八八年、一二九ページ。岡崎敬「三世紀より七世紀の大陸における国際関係と日本」『日本の考古学』一九七六年、六三一ページ)。
(22)
百済の干支年代は、五世紀になり本格化されたようで、これは「元嘉暦年」の導入と時を同じくしたものとみられる。
(23)
筆者の所見では、百済が私年代から「干支紀年」に転換した理由は、年号の独自性が継続維持され、隅田八幡宮鏡銘や江田船山大刀銘でみる「大王年」、「大王世」のような表記が可能で、「大王」や「大王国」の存在を強調することのできる利点があるためそうしたとみられる。
(24)
高句麗のそのような私年代はその後も長らく持続されたし、高句麗滅亡の時まで存続したと思われる。
(25)
李丙菇、『前掲書』五二四ページ。
金廷鶴も「百済は東晋成安二年以来、中国とひんぱんな交流をしながらも、奇妙に思われるほど中国年号をつかわなかった」という(金廷鶴「石上神宮所蔵七支刀の真偽に対して」『百済研究』一七、一九八六年、七七ページ)。また、金貞培(七支刀研究の新しい方向、一九八〇年)と李基東(韓国古代史のなぞ)も「泰和」を東晋の年号ではないと言っている。
(26)
『書紀』神功紀一四年二月条(貢)
欽明紀一二年三月条(献)
仁徳紀一二年七月条(貢・献)
欽明紀一〇月条(献)
武烈紀六年一〇月条(調)
欽明紀三年三月条(質)
継体紀六年四月条(貢・調)
推古紀五年四月条(貢)
一方、『三国史記』も百済太子らの倭国行きをすべて「質」と表記している。
(27)
津田左右吉によると、「神功紀四六年と五二年条は『書紀』編著が百済の記録に、肖古王が甲子年に初めて日本と交渉したという記事があるのをみて、これを基礎にして机上でつくられた説話」であると言った(津田左右吉、百済に関する『日本書紀』の記載、『満鮮地理歴史研究報告』#七、一九二〇年三月刊、参照)。
(28)
『礼記』には人の死を身分によって表記しているが「天子死曰崩、諸侯曰薨、大夫曰卒、士曰不禄、庶人曰死」という。
(29)
『三国史記』も「百済武寧王薨」と表記している。
(30)
『書紀』雄略紀五年条には武寧王が(四六一年)筑紫で生まれたと言い、武烈紀四年条には百済王位(五〇一年)についたと記録している。
武寧王は百済王位にのぼる前まで「倭」国にいたとみえるが、彼には「質」のためにきているという記事がないのが注目される(昆支君は質としてきたということを示唆している)。
これは メッセージ 456 (toapanlang さん)への返信です.
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百済武寧王について(10)
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/01/08 20:04 投稿番号: [456 / 1474]
七支刀編、ようやく終わりです。
・・・・・・・
3
百慈王が七支刀を下賜
通説は『日本書紀』神功紀を根拠に、七支刀は百済(漢城百済)で造ったのは三六九年(東晋太和四年)のことであり、これを百済使臣「久テイ[氏の下に一]」らが、「倭の出兵により高句麗の侵入をふせぐことができ感謝するという表示」として大和朝廷に「献上」したのは、三七二年(神功五二年)のことであると言っている。(37)
しかし、銘文のどこをみても七支刀がそのような複雑な過程をふまえて送ったという痕跡はなにもない。万一通説の主張が事実であるとすれば、銘文のどこかにそのような経緯が記録されていなければならないはずである。
前述のとおり、隅田八幡宮鏡銘には「斯麻」(武寧王)が銅鏡を造るため「開中費直
穢人
今州利二人等」を「遣」わしたという事実が記録されているが、七支刀銘文にはそのような言及が全然ないのである。だから、七支刀は百済(漢城百済)の地で造られ、またそこから百慈王が直接それを彼の侯王(倭王旨)に賜ったものであるとみなければならない。
ところが、天子から侯王にあたえる武器などの性格に対して『礼記』は「方伯の侯は天子から弓矢を受けとった後に逆徒を征伐することができ」、また「鉄鉞をうけとった後に初めて殺戮することができる」と規定されているが、ここの武器の「下賜」は外でもない征伐権か統治権と同じ権力を与える儀式行為であるとみるべきである。
これから推してみるとき、百慈王から七支刀を下賜された倭王旨の場合も、ひっきょうそのような権能と権力をあたえられ大変よろこびながら七支刀を前に立てて封土(倭)へ立ったのであろう。(38)
・・・・・・・
>これから推してみるとき、百慈王から七支刀を下賜された倭王旨の場合も、ひっきょうそのような権能と権力をあたえられ大変よろこびながら七支刀を前に立てて封土(倭)へ立ったのであろう。(38)
このような、学術的文章にとっては無意味な感情表現が入った文章こそ、朝鮮論文修辞の大きな特徴です。安物の講談みたいなもんですわな。
次回からは、百済武寧王について(7)〜(9)に登場した註釈を紹介します。多分2回で済むはずですが。
これは メッセージ 448 (toaniuniu05 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/4za5aba5fbbqnabcbc_1/456.html
上田正昭のお仕事 4
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/01/05 19:57 投稿番号: [455 / 1474]
「だいいち百済王が「倭王」を「侯王」とした段階がなかったなどとは、百済王が「侯王」たる「倭王」に与えたこの銘文をみるならば、簡単にそのように断言することはできないと思うのである。」(p.14)
仮説にすぎない「「倭王」に与えた銘文」であることを与件の如く用い、「下賜」証明の論拠として用いる循環論法ですね。そしてまたしても「なかったなどとは〜断言することはできない」という「可能性」に逃げます。同じ手法を用いれば、アダムスキー型UFOだろうが何だろうが、存在を「証明」できるでしょう。
というか、この上田の指摘、実は大問題なんです。坂元は、百済の王・侯について「過渡的な存在」であり新興貴族の勢力の均衡の上での王権の専制化の過程であらわれたものと見なしています。更に坂元は5世紀の百済について、倭に対して王族・貴族を質として充てた点や、倭の軍事的を背景に百済王になった例、更には倭の冊立によって百済王になったものの存在を指摘し、「東アジアの国際社会の中にあっては<大王>としての地位はついに認めて貰えなかったのである。」と結論しているわけです。
つまり、坂元の所論に従えば、百済が倭に従属的な時代にこそ百済に「王」「侯」制がみられる、ということに。4世紀に王・侯がいたら、坂元の論文自体が破綻しちゃうんです。(だから坂元自身は、七支刀の解釈を述べる時には自らの「王」「侯」説を直接用いないし、同様に七支刀を「王」「侯」説の根拠に用いない。もっぱら金錫亨等を註引するにとどめ、下賜・献上いずれとも読める解釈を提示する。)
上田君、本当に坂元論文読んでますか?君の主張、坂元論文を否定しちゃってるよ、と。
さて、本「論文」の結びの語は、以下の通り。
「この銘文のどこにも倭王に「献上した」刀とすべき証拠はない。「帰化人史観」や「征服史観」に低迷していたのでは、この銘文の真相を解明しえないことだけはたしかである。石上神宮と七支刀をめぐる謎についても、ゆがめられた史観からの解放なしには、迫真の古代史学を進めることはできないのである。(p.14)
……解説略。
・・・・・・・
そういえば、上田正昭さんって、かの「四天王寺ワッソ」の顧問でもありましたね。
10代の頃は上田さんの本で古代歴史学を学んで楽しんだのですが、これじゃぁね・・・
これは メッセージ 454 (toapanlang さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/4za5aba5fbbqnabcbc_1/455.html
上田正昭のお仕事 3
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/01/05 19:49 投稿番号: [454 / 1474]
(続き)
「この刀は百済王が「侯王」たる「倭王」に与えたものである。銘文のどこに「献上」、「貢献」、「奉る」、「贈る」の意味があるのか。「献上する」相手を第一「侯王」とよぶはずはないではないか。」
あのぉ、吉祥語説とかは無視?銘文の表と裏の非連続性の指摘は無視ですか。はぁ、そうですか。
「百済王が「侯王」とみなした「倭王」に下賜した刀と、私はみるのである。」(p.14)
不思議なことに、主張が「みなした」に後退してますね。「侯王たる倭王」が証明されているならば、ここで「みなした」と書く必要はありません。自信のないのがばれるような書き方は、素直ではありますが、論文としては如何なものでしょう。まあ、これは保留して、上田の考察を見てみましょう。
それなら、「侯王」という用例が百済にあったのかどうか。そのことがただちに問題になろう。ところが五世紀の百済には、百済王のほかに、(中略)地名をおびた王が存在した(坂本義種「五世紀の百済大王とその王・侯」、「朝鮮史研究会論文集」四)。これは百済において王・侯の属王が存在したことを物語る。
え〜と、坂本じゃありません。坂元です。ちなみに、坂元氏にとって五世紀百済の王・侯の存在は証明対象ではなく前提です。当該論文「はじめに」の冒頭は「五世紀の百済には、「百済王」以外に「王」・「侯」が存在しており」という一文から始まります。上田君、他の処でも「五世紀後半の百済に、大王とその下に王・侯が存在したことが実証されている」(前出上田「解説」)、なんて言ってますが、誤読です。一回学部に戻って、論文講読の基礎から勉強しなおした方が良いんじゃないですかねえ。
というか、それ以前に、坂元が考察しているのは「王」・「侯」であって「侯王」ではありません。「「侯王」という用例が百済にあったのかどうか」と問題提起しておきながら、何をごまかしているんですか、と。
実は他にも大問題があるのですが、それは後ほど。
「もちろん、事例は史料の制約によって五世紀後半に限られており、その制約によってそれ以前に遡及させることができない。」
分かっているならやるなよ、などと突っ込みたいところですが、もうしばらく待ちましょう。
「しかし、いわゆる冊封関係を中国王朝の立場からのみ考えるのは史実にそくしたものなのかどうか。」
そう言うセリフは、中国以外の立場で冊封体制を構築していた史実を提示してから言いなさい、と。まぁ、村山正雄氏が同様の指摘を既にしてますが。
(続き)
これは メッセージ 453 (toapanlang さん)への返信です.
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上田正昭のお仕事 2
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/01/05 19:33 投稿番号: [453 / 1474]
(続き)
さて、気を取り直して、続きを読んでみましょう。
6)七支刀下賜説1――先行研究批判
「これまでの研究史で納得のできない点がある。(中略)もっとも重要なことは、これまでの解読者達は、すべてこれを百済王より倭王へ「献上した」「奉った」あるいは「贈った」刀としているが、はたしてそのようなことがこの銘文からいえるかどうか。その点が問題である。」(pp.12-13)
…すでに結論先行してるので、今更問題提起のフリをしても無駄だと思うのですが。
「帰化人史観」等々と繰り返してきたことからも分かるように、上田は記紀の記述を重視しません。特に七支刀に関する記述は「あくまで記紀の立場にたっての書きぶり」(p.14)として考慮の埒外に置きます。その代わりに出てくるのが、「銘文からいえるか」・「銘文のどこに「献上」、「貢献」、「奉る」、「贈る」の意味があるのか。」(p.14)・「銘文のどこにも倭王に「献上した」刀とすべき証拠はない。」(p.14)という論法、つまり銘文の記述だけからどう理解するのか、という手法です。(金錫亨も同様の手法を用いている。)
銘文は「依頼・希望」の文章とも読めますんで、「奉る」「贈る」は読み取れるんですけどね。上田は既に「何人も認めねばなるまい。」なんて断言してしまってますので、こんなことは考えません。
さて、再び気を取り直して、続きを読んでみましょう。
「私は冒頭に「帰化人史観」「征服史観」がいかに「初期日朝関係」史をゆがめてきたかを究明することが、現在の古代史学に必要であると述べたが、七支刀銘文の解読の歩みにもそのことを痛感する。/栗原氏の論拠をここにとりあげたのに他意はない。大なり小なりそうした視点にたってこれまでの解読がなされてきたのである。」(p.13)
→栗原の「当時の倭と百済との関係からみて(中略)百済がこの七支刀を倭の君主に贈ってくるはずはない」という考察に対して、「断言することはできない」とする。
栗原氏は、いわゆる「東晋下賜説」を唱えた研究者。上田は、「百済がこの七支刀を倭の君主に贈ってくるはずはない」という栗原の論考を「帰化人史観」「征服史観」であると批判し、「下賜説」の論法だけを「百済下賜説」に援用するわけです。となると、実は金錫亨説をそのまま用いているのと大差無いわけですが……
上田にとって困ったことに、栗原氏に対して「断言することはできない」と批判するだけでは東晋下賜説を否定できません。そこで「「世」の次の字が、はたして「子」かどうか、依然として今後の解読にまつべき余地がある」と言い出します。「世子」と読んでしまうと百済下賜説にとって致命的なのは理解しているようです。このあたりの手法も金錫亨と同一。(そのわりに、東晋の正朔を奉じているのは問題視しないんですが…)。一般的には可能性ではなく妥当性を論述するのが論文。しかし上田式「論文」では可能性こそ枢要です。そういえば李泰鎮も「余地がある」とか口にしてましたねぇ。
7)七支刀下賜説2――「論証」?
「泰和四年すなわち三六九年は、近肖古王が高句麗を討ち、その二年後には平壌に攻め入っている(『三国史記』)(中略)/百済王の政治勢力が結集し、いちだんと高まったおりの作刀である。しかもその銘文の形式は下行文書の形式であって上位者が下位者へ降す文言をとっている。」(p.14)
当然ですが、「三六九年(中略)百済王の政治勢力が結集し、いちだんと高まったおりの作刀」とは、銘文に書いてありません。銘文の記述の分析をしている筈の上田、何故か『三国史記』をもちだします。こういうのを二重規範と言います。
ちなみに『三国史記』を見ると、369年の戦闘は高句麗が先に攻め入ったため雉城を急襲したもの、371年の戦闘は同じく高句麗が先に攻め入り(百済は伏兵でこれを破る)、同年百済は平壌に攻め入ったものの結局平壌を抜けなかった、というもの。この後百済は、長らく対高句麗は劣勢です。「いちだんと高まった」って、どういう意味でしょうねぇ。対新羅では、366年には新羅に使節を派遣し、368年には新羅に良馬を贈っています。何がどう「いちだんと高まった」のか、これまた良くわかりません。
上田は何故か、前後関係を全く解説してくれません。いったい何と比較して「いちだんと高まった」のでしょうか。
(続く)
これは メッセージ 452 (toapanlang さん)への返信です.
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上田正昭のお仕事 1
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/01/05 19:24 投稿番号: [452 / 1474]
たびたび私と娘々が紹介している蘇鎮轍の「イヤ論文」とも関連するので紹介します。
・・・・・・・
■「論文」の書き方2――上田正昭の手法に学ぶ
投稿者: polalis
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&page=11&nid=74465yonaki氏が金錫亨に手を出してくれたのに触発されて、論文の書き方、第二弾。
今回は、上田正昭「石上神宮と七支刀」(『日本の中の朝鮮文化』9、1971.3.25、pp.4-14)の手法を学んでみましょう。
※上掲「論文」は、註が一つも付されていないいわば随筆の類である。しかし、七支刀研究に於いては屡々論拠あるいは自明の事実の如く用いられていることに配慮し、「論文」としてとりあつかう。
※なお、本誌は学会誌ではない。発行は日本の中の朝鮮文化社、発行人は鄭詔文である。この人名に聞き覚えのある方も多かろうが、今回はその件についてはとりあつかわない。
■研究史上の位置
面倒なので、下図をご参照下さい。
(東亜註:図は略)
■「論文」の構成
1)金達寿の「帰化人」に関する指摘を引用
「……すべて朝鮮を『征服』したことによってもたらされた『帰化人』としてしまっている。ここにまず一つの大きなウソがあって、今日なお根強いものがある日本人一般の朝鮮および朝鮮人に対する偏見や蔑視のもとになっているばかりか」云々(p.4)
2)金達寿指摘への同意明示
「その疑問は当然であり、その指摘は的を貫いている。」(p.4)
3)先行研究の「問題」指摘
「そのような「帰化人」観を助長し、そのような「征服」観をはぐくんできた、日本古代史学の史観そのものを根底から史実にもとづいて問いただすことが肝要」(p.5)
「帰化人史観」や「征服史観」が、いかに「初期日朝関係」史をゆがめてきたかを、具体的に究明することが、これまでの古代史学の姿勢をただす大切な課題」(p.5)
4)石上神宮に関する所所感の開陳(pp.5-10)
5)七支刀に関する「解説」
「この刀は呪刀であって、百済王が倭王に下賜した刀であった。」(p.7)
「百済王が倭王に与えた七支刀」(p.8・p.11)
「この刀が倭王に与えられたものであり、後世に伝示せよとしたものであることは、何人も認めねばなるまい。」(p.11)
「研究史の要点は別に書いたので(『日本文化の起源』日本史編・解説)、ここでは省略するが、」(p.12)
→「百済王が倭王に「献上した」刀などとするような誤った見解から解放されて(上田正昭「石上神宮と七支刀」昭和四十六年)、あらたに謎の四世紀に迫る必要を痛感するのである。」
(上田正昭「解説」(『日本文化の起源
第二巻
日本史』(平凡社、1971.5.24))p.25)
ひとまず、ここまでの要約。
先行研究は、「帰化人史観」「征服史観」らしいです。史観がどうであれ、事実立証が適切に行われていれば無問題……とは考えないのが上田式。この手法はある意味無敵です。
ちなみに、「「帰化人史観」や「征服史観」が、いかに「初期日朝関係」史をゆがめてきたかを、具体的に究明することが、これまでの古代史学の姿勢をただす大切な課題」と言ってます。つまり、史観が初期日朝関係史をどのように歪められたかは、まだ具体的には究明されてないわけです。いきなり自滅です。
更に、七支刀についての論証開始前なのに、百済王が「下賜した刀」「与えた刀」と断言しちゃってます。結論先行です。ついでに、「何人も認めねばなるまい」と言いだします。なぜそう理解するのが妥当であるかを論述する手間を、思いっきり惜しみます。先行研究に山ほど異説があるのは無視です。「依頼・希望でも同じ表現だよ」なんて指摘は、きっと聞こえていません。
(続く)
これは メッセージ 1 (justina_eto さん)への返信です.
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在日韓国、朝鮮の人口
投稿者: imp_mania_jk 投稿日時: 2007/01/05 17:42 投稿番号: [451 / 1474]
これは メッセージ 1 (justina_eto さん)への返信です.
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御挨拶
投稿者: justina_eto 投稿日時: 2006/12/31 20:00 投稿番号: [450 / 1474]
皆様
まだ開設してから8ヶ月と経っていない当「韓カテ資料室」のご愛顧
ありがとうございます
トピ主が無知のため
自ら書き込む事もせず
皆様の書き込みを参考にするのみですが
常々感謝致しております
この勢いで来年の「金色の豚年(藁」も
引き続きご愛顧賜りますよう
伏してお願い致します
ありがとうございましたっ♪
ちゃわんにむ!もっと 素早く手返しせんかっ!
/\⌒ヽペタン
/
/⌒)ノ ペタン
∧_∧ \ ((
∧_∧
ゼエロ君
(; ´Д`))'
))<`∀´ ;>
これで手一杯ニダ
/
⌒ノ
( ⌒ヽ⊂⌒ヽ
.(O
ノ
) ̄ ̄ ̄()__
)
)_)_) (;;;;;;;;;;;;;;;;;;)<_(
あ゛っ!!!
∧_∧
(; ´Д`)
.| ̄|
ゴスッ
/ ⌒二⊃=|
|
.O
ノ <`ー‐'⊂⌒ヽ
)
) )
)~ ̄ ̄()__
) あいごっ・・・
ヽ,lヽ) (;;;;;;;;;;;;;;;;;)<_(
まあいいや
やっちめいっ!
___
ガスッ
あいごっ
|___ミ
ギビシッ
あいごっ
.||
ヾ
ミ 、
グシャッ
あいごぉぉぉぉぉっ!
.
∩_∧/ヾヽ
ニヤニヤ | |・∀・). .|
|;,
ゲシッ
...
/ ⌒二⊃=|
|∵. )
.
O
ノ %`ー‐'c⌒`っ
ゴショッ
)
) ) .) ̄ ̄ ̄(ヽ)
ヽ,lヽ) (;;;;;;;;;;;;;;;;;;;)
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世界にウイルスを撒き散らす韓国
投稿者: imp_mania_jk 投稿日時: 2006/12/31 17:35 投稿番号: [449 / 1474]
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百済武寧王について(9)
投稿者: toaniuniu05 投稿日時: 2006/12/30 12:32 投稿番号: [448 / 1474]
読んでいて嫌になるこの手の朝鮮学者電波を、ネイバー総督府では「イヤ論文」とか呼ぶそうですが。(苦笑)
・・・・・・・
五
七支刀銘文の新しい解釈――七支刀は百済王の下賜
1
銘文の訳文
七支刀銘文には、「泰」の字から始まる百慈王の年号がはっきりしないばかりか、ほかの数個の字も毀損が甚だしくて判読がむずかしい点はあるが、銘文を読むのに大きな問題はないようである。この銘文は「下行文書」の形式をとっているため、刀を造った百慈王を主体とした「下行」解釈をすれば、正当な解釈ができるのである。
しかし、福山の通説は「下行文書」である銘文を、「上行」と解釈をしているため、銘文の体系的解釈が不可能であり、また銘文の中に大きな混乱が惹起されている。百慈王を主体とする解釈だけが、銘文の正しい意味を明らかにしてくれるのである。
泰△四年△月十六日(31)丙午日の正午に銑鉄を百回もたたいて七支刀を造る。この刀は百兵(災殃)を避けることができ当然侯王(旨)に
与えるべきだ。
先世以来だれもこのような刀をもっていなかったが百慈王は世々に奇生聖音(吉祥語)(32)があり倭王旨のために造った。後世にながく伝えよ。
2
百慈王は「大王」、倭王旨は侯王(33)
通説の主張とおり、百慈王が中国の年号をつかう「天子」の「諸侯」のような存在であれば、彼は決して倭王旨を侯王とは呼べないはずである。なぜならば、ただ倭王旨の上王である大王だけが彼を侯王と呼ぶことができるからである。
最近上古の「倭王」に対して、山尾幸久ら一部の学者は、ただ「一般的に常用する吉祥語」かあるいは「特別な解釈をする必要のない普通名詞」と同じものとしかみられないというが(34)、これはどこまでも身分用語で大王の意をたっとぶ臣下(大王の子弟宗親)を意味するものである。
それゆえ、銘文では百慈王が倭王旨を侯王と呼んでいるという事実だけでも、中国の年号とは無関係であることが証明されたのである。故に、銘文の「百慈王世△」の読法に対しても、通説は「百慈王世子」や「百慈王・世子」と判読しているのはあやまりである。(35)
「百慈王世子」が倭王旨を侯王と呼ぶことができないというのは『礼記』にもあり、ただ彼の父王である「大王」だけがそういうふうに呼べるのである。そして「百慈王・世子」の場合も同じく、万一銘文がそのように読むことができるならば銘文は当然「百慈王与世子」のように書かれていなければならない。したがって七支刀銘文の場合は、前後の表現を勘案してみるとき「王世△」は「王世子」ではなく「王世世」とみるのがもっとも合理的な読法になろう。(36)
・・・・・・・
蘇鎮轍が執拗に繰り返す「侯王」なんて概念自体、基本的に存在しませんから。
諸侯や王を指す単語でしかないですし。確か陳勝の発言も、漢書では「侯王将相いずくんぞ種有らんや」でしたね。
これは メッセージ 447 (toapanlang さん)への返信です.
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百済武寧王について(8)
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2006/12/26 00:55 投稿番号: [447 / 1474]
2
『日本書紀』の七支刀「献上」は加筆
「通説」は七支刀銘文の解釈で銘文とは関係のない『書紀』神功紀五二年条の記事を持ち出している。その理由は、「久テイ[氏の下に一]らが千熊長彦について来て七枝刀一口、七子鏡一面および各種の重宝を献」じたという記録があるからである。
しかし、『日本書紀』には神功紀の記事以外いたるところに百済王が剣と鏡そして重宝などを「献」じたとかあるいは「貢」したといい時に五経博士や暦博士、医博士および仏経までも「献」じたとある。また百済太子らが倭王に「質」として来ているという記事もある。(26)
ところが、このような記事はすべて後代人が歴史の必要性によって造作したものとみえるが、その中でも特に「神功紀」に対しては総合的に造られたというのが著名な史学者津田左右吉の主張である。
『日本書紀』にみられる記事の大部分が後代人によって変造あるいは改造されたというのは、津田の言及によらなくても(27)、武寧王陵から出土した誌石だけをみてもすぐわかることである。
一九七一年宋山里古墳から出土した一枚の誌石には「寧東大将軍百済斯麻王」が六二歳の寿命をまっとうし、「癸卯年五月・崩」御されたという事実が記録されているが、この「崩」は言うまでもなく天子や大王の死を意味するものであって、これは一つの歴史体系や政治体制下においてはただ一人だけがつかうことのできる表記である。(28)
ところが、『日本書紀』継体紀一七年条には、武寧王の逝去を「百済王武寧薨」と記録しているが、これは王が継体(男弟王)の「侯王」として逝去したというふうに格下げしたのであり(29)、また『書紀』継体紀二五年条には「天皇崩于磐余」というがこれは彼の逝去を「大王」の死と格上げしたものであり大変あやまった表記である。
このような重大な捏造のため、『日本書紀』における主・客体の位置が完全に転倒され、その結果「神功紀」のような加筆が可能になり、すべての表記が当初の「百済王・賜」から「献」あるいは「貢」と後先が入れ代わるのである。そして、統治行為と関連がある百済太子らの倭国行きは、すべて「質」に転落するのである。(30)
故に、『日本書紀』の「百済王・薨」・「天皇・崩」というふうに捏造された記録をそのまま据え付けておくかぎり、表記上の「献」や「貢」または「質」のような臣属用語は、事実上別に意味のない一つの単語にすぎないのである。
・・・・・・・
>『日本書紀』にみられる記事の大部分が後代人によって変造あるいは改造されたというのは、津田の言及によらなくても(27)、武寧王陵から出土した誌石だけをみてもすぐわかることである。
っていうか、むしろ武寧王陵の発掘で、日本書紀の記述の正確さが証明されたってのが事実なんですがね。
それにしても、今ごろ津田左右吉マンセーかよ、と。
>このような重大な捏造のため、『日本書紀』における主・客体の位置が完全に転倒され、その結果「神功紀」のような加筆が可能になり、すべての表記が当初の「百済王・賜」から「献」あるいは「貢」と後先が入れ代わるのである。そして、統治行為と関連がある百済太子らの倭国行きは、すべて「質」に転落するのである。(30)
故に、『日本書紀』の「百済王・薨」・「天皇・崩」というふうに捏造された記録をそのまま据え付けておくかぎり、表記上の「献」や「貢」または「質」のような臣属用語は、事実上別に意味のない一つの単語にすぎないのである。
なるほど、そういう手があったか。羊月城で使えばよかった。(苦笑)
これは メッセージ 446 (toapanlang さん)への返信です.
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百済武寧王について(7)
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2006/12/21 12:27 投稿番号: [446 / 1474]
さて、今回も「金石文に見る百済武寧王の世界」(蘇鎮轍
彩流社)を紹介します。
・・・・・・・
Ⅳ
七支刀銘文の新しい解釈
――倭王旨は百済の「王族」――
四
「通説」を反駁する
1
「泰和四年」は中国の年号でない
福山の日本「通説」は、はじめから銘文はおろかありもしない中国年号をひき出し、それをもって『書紀』神功紀を合理化する超銘文的な解釈に一貫しているが、そのような主張は事実でないばかりでなくまったく根拠もない想像にすぎないのである。
国宝隅田八幡鏡の銘文には、百済武寧王(斯麻)の年代である「大王年・癸未年」(五〇三年)があり、また一九七一年韓国公州の宋山里古墳から出土された王の誌石には、百済斯麻王の崩年である「王崩・癸卯年」(五二三年)という事実があるが、これらを通じてみるとき武寧王は六十年の生涯(四六一−五二三年)を通じてただ自身の「大王年・干支紀年」とともに在世されたことが立証される。
王のこのような「大王年・干支紀年」は、王の後世らも継続され、百済が唐によって滅ぼされる日まで存続されたのである。(21)
しかし、王の先世である蓋鹵王以前の年号はどういうものであったかは史料の欠如で記すすべがない。ただ武寧王の干支年代は、彼の先世にも使われたと思われるが、(22)このような干支年代は「時代的要求」によって持続してきた私年号から転換されたものとみられる。(23)
百済での干支年代以前に私年代の存在を推定する理由は、四世紀高句麗の年号が独自的な私年代であったというのである。(24)
我々がよくわかっている広開土王碑文には「永楽」という好太王の私年代(三九一〜四一二)があるが、当時高句麗とは長い間宿敵関係を持続していた百済においても、そのような独自的な私年代制をもっていたと推定される。
この点について、韓国の李丙菇は「七支刀銘文の「泰」の字の次の字が何であろうとそれは中国年号ではない」百済年号であると断固たる主張をしている。(25)
・・・・・・・
存在したかどうかさえわからない百済の私年号に違いない、と堂々とおっしゃる姿勢は大したものですね。(苦笑)
これは メッセージ 418 (toaniuniu05 さん)への返信です.
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Re: 逆説の日帝植民地(2)
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2006/12/20 00:32 投稿番号: [445 / 1474]
>私は、この文はわざと芝居がかった逆説的な書き方をしてあるものの、そのメッセージは、日本の韓国統治は、皆が信じているような差別、収奪ではなく同化政策だったのだということを韓国人に気付かせようとしているものと理解して紹介しました。
そう韓国人読者も読み解いていれば、いいのですが。
いや、私の読み方がヒネていて素直じゃなかったのかも知れません。(笑)
確かに韓国では、事実をストレートに書かず、日本に対して少し侮蔑的に表現しないと、親日派認定され、アタマから否定される危険がありますね。
とにかく、被害者意識や植民地収奪論から抜けて、事実に即した日韓併合の実態に迫るのは、いいことだと思います。
これは メッセージ 444 (chaamiey さん)への返信です.
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Re: 逆説の日帝植民地(2)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/12/19 23:39 投稿番号: [444 / 1474]
うーん・・・・・・、trip_in_the_nightさんは、そう読みましたか。
私は、この文はわざと芝居がかった逆説的な書き方をしてあるものの、そのメッセージは、日本の韓国統治は、皆が信じているような差別、収奪ではなく同化政策だったのだということを韓国人に気付かせようとしているものと理解して紹介しました。
これは メッセージ 443 (trip_in_the_night さん)への返信です.
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Re: 逆説の日帝植民地(2)
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2006/12/19 00:36 投稿番号: [443 / 1474]
>>私がもし日本人として生まれていたら、私は日帝時代を勉強しながらひどく自尊心が傷つき、恥かしいと思うだろう。どうして私たちは、朝鮮人たちに、私たちと同じになろうと、同じように暮そうと、あのように懸命に哀願し、説得し、涙ぐましい努力をしたのだろうかと思うと、鬱憤を堪えることができないほどだ。
><コメント>
>これは、韓国人が韓国人に向かって書いたものです。右派のサイトにはこういう意見も出るようになりました。
創氏改名の誤解は別にして、
残念なことに、コンプレックスの裏返しの強がりですね。
日本をさげすみながら、自己満足することにおいては、普通の反日と類似の思考パターンです。
根拠のない民族的自尊心を保とうとすると、また歴史認識が違った方向に捻じ曲がってしまう危険を感じます。
日本人から見ると、単なる皮肉と誤解されるかも知れません。
それでも、韓国は植民地ではなかったという事実を基礎にしている点は進歩かと思います。
自ら近代化できずに、日本に教えてもらったのは、どうして?
何が問題だったの?
韓国が併合を願い出たときの世界情勢はどうだったの?
という風に、素直に自分たちの歴史を深く検証すれば、民族的自尊心の無意味さも理解できるでしょう。
誰もその歴史が惨めだとか、民族がダメだとか言ってないのに、韓国人は自らを歪めてしまっている気がします。
ここまで日本にこだわるのは、単なる韓国民の意識の問題と思うこの頃です。
こうしたコンプレックスを韓国民に植え付けている韓国の反日歴史教育の罪深さを感じます。
ニューライトは、そうしたレベルの低さを乗り越えて欲しいものですね。
これは メッセージ 442 (chaamiey さん)への返信です.
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逆説の日帝植民地(2)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/12/17 21:28 投稿番号: [442 / 1474]
<日帝時代とは何か>
(翻訳その2)
しかし、日本は、朝鮮人と日本人の間にそんな差別を置かなかった。朝鮮人たちが東京大学で、早稲田大学で、日本人学生たちと一緒に勉強した。もちろん士官学校も一緒に通い、任官もできた。朝鮮人は日本軍内で中将にまでなった。洪思翊(ホン・サイク)将軍だ。洪将軍は創氏改名を拒否していたが中将まで昇進した。日本の陸軍士官学校出身でもなく、旧韓国軍訓練団出身だ。韓国人も努力さえすれば、司法試験にパスして裁判官になることができた。裁判官は、どの時代、どの国を問わず、支配階層だ。
日本人と韓国人の間の結婚は、全く禁止されたり抑圧されなかった。二人が愛するなら結婚は合法だった。
日本は、日本人と韓国人を区別するすべてのものを無くそうと狂奔したのであって、差別しようと努力したわけではない。同じ文字を書くようにし、同じ服を着せ、同じ言葉を話すようにし、同じ天皇を仰ぐようにし、同じ学校に通うようにし、同じ町内で一緒に暮し、風呂屋で日本人と朝鮮人が一緒に裸になって同じ湯に入った。同じ散髪屋で同じ理髪師が同じバリカンで朝鮮人と日本人の髪を同じ料金で受けて刈った。
帝国主義時代に、世界のどこにこんな植民地があったか?
言って見よ。
だから、どんな側面でも、日帝時代を植民地時代と呼ぶことはできない。日帝時代は植民支配時代ではないのだ。
私がもし日本人として生まれていたら、私は日帝時代を勉強しながらひどく自尊心が傷つき、恥かしいと思うだろう。どうして私たちは、朝鮮人たちに、私たちと同じになろうと、同じように暮そうと、あのように懸命に哀願し、説得し、涙ぐましい努力をしたのだろうかと思うと、鬱憤を堪えることができないほどだ。
日帝時代の本質は、日本が、日本人と朝鮮人を一つにしようとあたふたした時代だったということだ。差別して虐待するために血眼になった時代ではなかったということだ。朝鮮人に対する日帝の虐待は、差別から出たのではなく、同じになることを拒否した朝鮮人たちに加えられた刑罰だった。この差に注目しなければならない。これが他の植民支配と日帝時代が違う根本的な理由だ。
支配国民と被支配国民の差別政策から始まった抑圧と虐待ではなく、同化政策の推進から出た産物だったという点だ。
日帝時代の日本人たちは、朝鮮人たちが「もう私も日本人になるよ。日本人と同じにするよ。」とさえ言えばそれで良く、それ以上どうすることもできなかった。
狂った奴らではないか、こいつらは。朝鮮人が日本人と同じになろうとしたからと言って、生意気だと叩かれることもなかった。むしろ、同じになると言うだけで、抱きしめて、特権も与え、恩恵も与え、勉強もさせ、裁判官もさせ、将校にもなれるようにした。私は、日帝時代の日本人たちが理解できないことが多い。本当にしょうもないことをいっぱいした奴らだと言う気がする。
朝鮮人が日本人と同じ名前を名乗れば捕まえてしたたかに殴ったのではなく、同じような名前を使えと血迷い発狂した。全世界の歴史で、被支配民衆が支配民族のような形式の名前を書かないといって苦しめ、いためつけた狂ったやつらは、日本人たちだけだ。
これが日帝時代の本質だ。日本人たちが朝鮮人と同じになろうと必死になった時代が、私たちが恥かしいという36年だ。どうだ、恥かしいと言うが、何が恥ずかしいか?
顧みれば、むしろウェノムどもが恥じる仕業ではないか?
違うか?
<コメント>
これは、韓国人が韓国人に向かって書いたものです。右派のサイトにはこういう意見も出るようになりました。
これは メッセージ 441 (chaamiey さん)への返信です.
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逆説の日帝植民地(1)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/12/17 21:00 投稿番号: [441 / 1474]
<日帝時代とは何か>
www.nrzen.com
No.22151
流れ雲
2006/12/14
http://www.nrzen.com/cafebbs/view.html?gid=main&bid=cat_05&pid=22151照会:337
推薦:4
(翻訳その1)
我が国の人々の間の大多数にとって、日帝時代は恥かしい歴史だと認識されている。汚辱の歴史、傷ついた自尊心、それで、どうにかして歪曲して、捏造をしてでも、忘れて否定したい自虐と劣等感の源泉になっているのだ。
しかし、日帝時代は、その本質を正確に見るならば、私たちがそんなに恥ずかしがるとか自虐を感ずるものにはならない。日帝時代の傷は、無知から来る病気だ。
事実としておいてみる時、韓国人と日本人が向き合ってお互いを眺めれば、その時代が恥ずかしいと思うのは日本側だ。むしろ堂々として誇るのは、朝鮮人たちであり韓国人たちだ。
多くの人々は、表面だけを見て本質を見逃してしまう。日帝時代、その恥かしいと言われる36年の本質が何であるか、一度振り返って見よ。周辺的なこと、副次的なこと、枝葉に属するものなどをすべて取り払い、目をあげてじっとその本質を直視して見よ。何が見えるか?
イルボンノムどもが開化が少し早かったから、国力がちょっとばかり強くて軍隊が多くあったから、軍靴と日本刀で朝鮮人たちを踏み付けて支配したのが見えると言うか?
それで、そのウェノムどもに牛馬のようにこき使われて虐待を受ける朝鮮人の姿が見えるか? もちろん、そういうものが見えるだろう。ところで、そんなことは、できごとだ。できごとの一片ではなく本質を見よという話だ。日帝時代の本質を。
見えない?
分からない?
それではしょうがない、流れ雲が説明するしかあるまい。
日帝時代は、原住民たちを人種的、階級的、身分的、血統的に移住民たちと区分して差別しつつ、原住民たちをその地で分離して奴隷と召使いにし、その地を新しい移住民たちが占めた帝国主義諸国家の植民地経営とは百八十度異なるものだった。
そんな差別をして、冷遇し、虐待して、奴隷や下男としてこき使ったのではなく、日本の願いは、ひたすら日本と朝鮮が一つになることだった。ドイツがユダヤ人にダビデの星を胸につけさせてドイツ人とユダヤ人が区別できるようにしたのとは違い、日本は、朝鮮人の名前と日本人の名前が違って区別が生じるから、その区別を無くそうとして創氏改名という珍妙な方法まで用いて一つになろうと哀願した奴らだ。
ドイツ人は、ユダヤ人たちと、結婚はもちろん性関係を持っただけでも処罰された。ナチの法に明文化されていた。大部分の帝国主義列強たちは、自国民たちと植民地の原住民の間の通婚を法で禁止した。同じ食堂を利用することもできなかったし、汽車も同じ車両に乗ることができなかった。ほとんどの文化施設は、原住民立ち入り禁止だった。原住民の学生が移住民の学校で勉強することは、夢にも見られなかった。居住地からして区域が違った。これが植民地だ。
(続く)
これは メッセージ 1 (justina_eto さん)への返信です.
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総督府の教育政策(1)
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2006/12/17 19:11 投稿番号: [440 / 1474]
今回は、アジア歴史資料センター「現行朝鮮教育法規(抄)」(レファレンスコードA03034081500)を元ネタとします。
日本時代の朝鮮においては各種の学校が整備されていました。(当たり前ですが)
で、その学校制度については、まず勅令で「朝鮮教育令(明治四十四年八月二十三日
勅令第二百二十九号)」が定められ、それを受けて総督府が「普通学校規則(明治四十四年十月二十日
朝鮮総督府令第百十号)」のように各学校について規則を作っていったわけです。
朝鮮教育令の第一条が「朝鮮に於ける朝鮮人教育は本令に依る」とあるように、対象は朝鮮人です。
ここでは、大正九年十一月十二日の朝鮮総督府令第百八十一号で改正された「普通学校規則」を紹介します。
普通学校は朝鮮教育令において「普通学校の修行年限は六年とす但し土地の状況に依り五年又は四年と為すことを得(第九条)」、「普通学校に入学することを得る者は年齢八年以上の者とす(第十条)」と定められております。
では、本文から気になるところを紹介しましょう。
・・・・・・・
第六条
普通学校の教科目は修身、国語、朝鮮語及漢文、算術、日本歴史、地理、理科、唱歌、体操、図画、手工、裁縫及手芸、農業初歩、商業初歩とす但し唱歌、手工、裁縫及手芸、農業初歩、商業初歩は土地の状況に依り当分之を欠くことを得
修行年限は四年と為したるときは前項教科目中日本歴史及地理は之を欠く
手工は男児に、裁縫及手芸は女児に授け農業初歩、商業初歩は其の一を男児に課す
第九条
国語は普通の言語、文章を教へ正確に他人の言語を了解し自由に思想を発表するの能を得しめ生活上必須なる知識を授く兼て徳性の涵養に費することを要旨とす
国語は仮名より始めて普通の口語を授く漸く進みては平易なる文語に及ぼし其の材料は修身、歴史、地理、理科、実業其の他生活上必須なる事項に採り女児の為には特に家事上の事項を交ふべし
国語を授くるには読方、解釈、会話、暗誦、書取、作文及習字を併せ課すべし但し作文、習字は特に教授時間を区別して課することを得
読方は発音に注意し抑揚緩急其の宜しきを得むことを要す
解釈は平易なる口語を用ゐて語義文意を明かならしむへし
会話は読本中の文章又は事項に因みて之を授け進みては日常の事項に付対話を為さしむべし
暗誦は読本中の佳句、格言、韻文等を適宜に選択して之を課すべし
書取は読本中の文字、文章其の他児童の了解し得べき文字、文章を選びて之を課すべく時としては暗誦せしむることあるべし
作文は一般に口語体とし先づ単句より始めて漸次長編に及ぼし書翰文を併せ課すべし
習字は実用を旨とし仮名及漢字を練習せしむべし漢字の書体は楷書、行書の二体とす
第十条
朝鮮語及漢文は普通の言語、文章を理解し日常の応対を為し用務を弁ずるの能を得しめ兼て徳性の涵養に資することを要旨とす
朝鮮語及漢文は諺文より始めて漢字交り文及平易なる漢文を授け其の材料は国語に準じて選択し特に漢文は徳性の涵養に資するものを採るべし
朝鮮語及漢文を授くるには読方、解釈、暗誦、書取、作文を併せ課すべし
朝鮮語及漢文を授くるには当に国語と連絡を保ち時としては国語にて解釈せしむることあるべし
・・・・・・・
しっかりハングル(諺文)を教えていますね。
なお、朝鮮における内地人への教育については後日紹介します。(現在入力中)
これは メッセージ 1 (justina_eto さん)への返信です.
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Re: アン・ビョンジク氏インタビュー(6)
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2006/12/17 12:08 投稿番号: [439 / 1474]
詳細な説明、ありがとうございます。
>ニューライト・ネットワークとニューライト全国連合は、政界との関係でもかなり違います。
ニューライト全国連合は、ハンナラ党と組む方向ですが、ニューライト・ネットワーク側は、自分たちは韓国の世直しをするのだから、単に一つの政党と組むのではなく、左右政党を含め、国民全体を理念的にリードする役割に徹すると言っています。
ニューライトの二つの団体は「左派民族主義歴史観」と対決するという点では共通するが、政治的か学術的かで路線が違うんですね。
とすると、ニューライト全国連合会は、ハンナラ党的な従来からの反日歴史観、頑迷な国史学者とどこが違うのか、判然としなくなります。
いずれにしても、アン・ビョンジク氏や教科書フォーラム(ニューライト・ネットワーク)は、様々な方向から攻撃を受けますが、奮闘して欲しいですね。
これは メッセージ 438 (chaamiey さん)への返信です.
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