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百済武寧王について(12)

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/01/16 12:44 投稿番号: [461 / 1474]
七支刀は武寧王が下賜したニダ!の註釈、後半です。

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(31)   七支刀の制作年代である「泰△四年△月十六日丙午」がいつであるか正確に知ることはむずかしいことである。現在としては推定するほかはない。
①菅政友は銘文と広開土王碑文は同じ書体で、これは一−四世紀中国でつかわれたという。したがって、この二つの遺物は同じ時代のものとみるべきものであり、七支刀を四世紀の制品とみなしてもかまわないであろう。
②一九七一年関東地方の一つの古墳では第二の七支刀が出土し、学界ではこの古墳を五世紀のものと推定しているので、倭王旨のものは四世紀のものとみてもよかろう。
③「泰△四年」は、百慈王が即位して四年になる年と思われるが、いつであるかはよくわからない。ところが、『日本書紀』には多くの事実記事があり(王仁博士、五経博士、仏経などの来倭)あり、それらは大体事実と符合する場合が多いようである。
    ところで、「神功紀」にある肖古王と七枝刀、七子鏡の記事は関係があるものとみて、「泰△四年」を一応肖古王即位後の四年か、あるいは近仇首王四年の年と暫定的な推定をしたい。
(32)   「奇生聖音」は当代につかわれた吉祥語にみられるが、今日その意味を理解しにくいようである。李道学は、これを「百済王治世時にたっというまれ(奇生)があるから、聖上の聖音として〝故意〟と解釈する。そして百済王治世時に奇妙にもらった神聖な音信が生じたため」と解釈している。李道学「百済七支刀銘文の再解釈」『韓国学報』六〇、一九九〇年、七八ページ参照。
(33)   前述のとおり福山らは「倭王旨」の読法に対し異論を提起しているが、上田、栗原、三品、佐伯、李丙菇、金錫享ら少なくない人士がこれに反対している。金昌鎬によると、百済文書の慣行には人名表記において、官等が人の前にくるということで、倭王旨の「旨」は人名であるほかないという(金昌鎬「百済七支刀銘文の再検討」『歴史教育論集』第一三・一四集、一四一−一四六ページ)。
    事実、上代文書にはかならず人名がなければならないというのが法則であり、しかも上王が侯王におろす文書にはその名前がかならずあるのである。それで銘文の「侯王」の場合も、次の字は「旨」にみえるが不幸にも毀損され知ることができない。
    『礼記』には「侯」が天子に謁見するとき、「臣某侯某」と告げる格式があるが、この時「倭王旨」の場合は「臣倭侯旨」としなければならない。
(34)   山尾幸久は「侯王は身分が高く裕福な人(高位高官または高貴な人)をいう一般的な常用語である。これはほとんど確定された概念であろう」という(山尾幸久『古代の日韓関係』東京・塙書房、一九八九年、一七三ページ)。
(35)   金錫享によると三国時代には「王世子」というのはなくて、太子で通用されたという(金錫享『初期朝日関係史』東京・勁草書房、一九六九年、一九六ページ)。
(36)   銘文の「世△」を「世世」とみる理由は、銘文には「先世」と「後世」という王家の系統の表記があり、また「宜供供」のような複合表現もあり、そういうふうに読むほうが自然的にみえる。
    今まで日韓両国の解釈者らは皆これを「王世子」と読んでいるが、金錫享氏だけがこれに反対する。これが正しい見解だと思う。最近村山教授はこれを「世世」と呼んでいる。
(37)   最近学界の一部では、七支刀「献上」に反対しており注目される。特に、山尾幸久は「結論的には七支刀は百済王の倭王に臣属とか、百済王による倭王の封建も一緒に意味するものではない」と主張し、七支刀の平等者間の授受を強調するようである(山尾幸久『前掲書』一七三ページ)。
(38)   李道学は「斧鉞や刀剣の賜与は下位者に対する上級者の信頼としての性格が強いだけに服属の礼という側面を見過ごしてはならない」という(李道学、前掲論文、八一ページ)。

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読めば読むほどバカになるイヤ論文、次回は、倭王武の上表文についてです。
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