韓カテ資料室

Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー

[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

百済武寧王について(10)

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/01/08 20:04 投稿番号: [456 / 1474]
七支刀編、ようやく終わりです。

・・・・・・・

3   百慈王が七支刀を下賜
  通説は『日本書紀』神功紀を根拠に、七支刀は百済(漢城百済)で造ったのは三六九年(東晋太和四年)のことであり、これを百済使臣「久テイ[氏の下に一]」らが、「倭の出兵により高句麗の侵入をふせぐことができ感謝するという表示」として大和朝廷に「献上」したのは、三七二年(神功五二年)のことであると言っている。(37)
  しかし、銘文のどこをみても七支刀がそのような複雑な過程をふまえて送ったという痕跡はなにもない。万一通説の主張が事実であるとすれば、銘文のどこかにそのような経緯が記録されていなければならないはずである。
  前述のとおり、隅田八幡宮鏡銘には「斯麻」(武寧王)が銅鏡を造るため「開中費直   穢人   今州利二人等」を「遣」わしたという事実が記録されているが、七支刀銘文にはそのような言及が全然ないのである。だから、七支刀は百済(漢城百済)の地で造られ、またそこから百慈王が直接それを彼の侯王(倭王旨)に賜ったものであるとみなければならない。
  ところが、天子から侯王にあたえる武器などの性格に対して『礼記』は「方伯の侯は天子から弓矢を受けとった後に逆徒を征伐することができ」、また「鉄鉞をうけとった後に初めて殺戮することができる」と規定されているが、ここの武器の「下賜」は外でもない征伐権か統治権と同じ権力を与える儀式行為であるとみるべきである。
  これから推してみるとき、百慈王から七支刀を下賜された倭王旨の場合も、ひっきょうそのような権能と権力をあたえられ大変よろこびながら七支刀を前に立てて封土(倭)へ立ったのであろう。(38)

・・・・・・・

>これから推してみるとき、百慈王から七支刀を下賜された倭王旨の場合も、ひっきょうそのような権能と権力をあたえられ大変よろこびながら七支刀を前に立てて封土(倭)へ立ったのであろう。(38)

このような、学術的文章にとっては無意味な感情表現が入った文章こそ、朝鮮論文修辞の大きな特徴です。安物の講談みたいなもんですわな。

次回からは、百済武寧王について(7)〜(9)に登場した註釈を紹介します。多分2回で済むはずですが。
[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ

[検索ページ] (中東) (東亜) (捕鯨 / 捕鯨詳細)