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百済武寧王について(6)

投稿者: toaniuniu05 投稿日時: 2006/12/10 10:58 投稿番号: [418 / 1474]
  したがって、大王年、癸未年八月に、斯麻がかくも多くの白銅鏡を鋳造する必要性も、そのような時代的要請に応えるためのものだったと思われる。斯麻は壬午年(五〇二年)に百済の熊津(今の公州)で、百済王国第二十五代王に即位したから、癸未年(五〇三年)は彼の即位翌年のことで、彼は自身の即位を弟王の男弟王と彼の臣下に報知し、彼らに対する不変の信任を確かめる意味で絶妙な多数の白銅鏡を制作、それを男弟王に「賜」わったとみられる。(32)   したがって、彼は鏡の銘文に男弟王の長寿を念願しながら、「弟国」の繁栄と安定を確約したのであろう。(33)

註釈
(32)   川西教授は鏡の下賜に対して、「前期において、鏡や玉制品の分与に関して、畿内政治権力がその勢力下に入る地方首長に対する報償として、これら宝器を下賜することは想像できる」と主張する。『考古学雑誌』第六九巻第二号、一三五ページ。
(33)   ところが、つとに斯麻・武寧王を主張した乙益重隆は、斯麻がこの鏡を制作した動機を根も葉もなく歪曲している。彼は『斯麻王が未多王(東城王)を打倒するクーデターには、日本側の陰謀と援助があったのではないかと思われるが、王位にあがって間もなく、その報いとして「斯麻とこしえに奉仕することを念願」して、この鏡を日本朝廷に送ったとすればつじつまが合うが、史料の根拠はない』と、彼の希望を吐露している(乙益重隆、隅田八幡鏡銘文の一解釈、『考古学研究』第一一巻四号、一九六五年)。

(終わり)

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機会があれば、この先生の「七支刀銘文」「倭王武の上表文」に対する解釈も紹介したいと思います。
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