吹田事件
投稿者: doronpa95 投稿日時: 2007/01/14 20:22 投稿番号: [460 / 1474]
ttp://homepage2.nifty.com/mi-show/peaceright/sho_soto/suita.htm
今から50年前の1952年6月25日、大阪・吹田で大規模な朝鮮戦争反対のデモが行われた。
前夜、大阪府学連の主催で「伊丹基地粉砕・反戦・独立の夕べ」が阪大石橋キャンパス(待兼山)で開催され、学生・労働者・朝鮮人約3千人が集い、その3分の2が朝鮮人だったといわれている。当時伊丹基地にはアメリカ進駐軍がおり、伊丹空港から連夜朝鮮半島に向けて爆撃機が飛んでいた。また吹田操車場からも軍事物資を載せた列車が走り、神戸港から朝鮮半島に送られていた。
キャンパスでキャンプファイヤーを行ったあと、吹田操車場に向かい軍需列車運行を阻止し、またその後大阪駅に向かって御堂筋でデモ行進を行う予定だった。深夜、集会参加者は二手に分かれデモ行進をスタート。約1000人は「山越え部隊」といわれ、西国街道から徒歩で箕面を通り、吹田操車場に向かった。もう一隊は「人民電車部隊」といわれ、阪急石橋駅で駅長と交渉し臨時電車を運行させ(午前3時)、約800人が服部駅で下車し、吹田操車場に向かった。
合流した1000人を越えるデモは吹田市警130人と対峙し、突破(午前5時半)、吹田操車場内で軍需列車を探したが見つからず、デモ行進を行い、「決死隊」は線路の上で座り込みをしたが、幸いにして列車はこなかった。このとき一部のデモ隊は派出所や警官輸送トラックに火炎瓶を投げつけ、茨木市警の警官が火だるまになり、ピストル2丁を奪い、「火炎ビンと竹ヤリ」といわれるように、後にこのことが事件の全容であるかのような印象を与え続けた。
午前8時、デモ隊は国鉄吹田駅から列車に乗り込み大阪駅に向かったが、駅で警官はピストルを発射、火炎ビンの応酬もあり駅構内は大混乱となった。デモ隊11人がピストルで撃たれ重軽傷を負った。
結局騒擾罪と威力業務妨害によって250人近くが検挙され、111人が起訴された。(日本人被告6割、朝鮮人被告4割。)その後の裁判闘争で、一審から三審まですべて無罪を勝ち取った。
金時鐘氏の公演】
・私は49年6月に渡日し、故国がもっとも苦難の時に逃げてきたという後ろめたさ、心の責めもあって、すぐに日本共産党に入党した。
・大阪駅はすごい騒ぎだった。構内でピストルを水平に撃つのを見たし、火炎ビンで火だるまになっている警官も見た。本当に怖ろしかった。私は環状線に乗るのをやめ、地下鉄で天王寺に向かって逃げた。私を含む男性二人と女性一人で地下鉄に乗ったのだが、脱糞していたのは私だけではなく、地下鉄の中で女性を庇うようにして私たちがたち、本当に恥ずかしかった。
・当時猫間川(現在の平野川)は真っ黒であぶくが浮いていたのだが、川底をさらって鉄屑で生活する人がたくさんいた。この鉄屑が朝鮮戦争の爆弾に化けるのだ。当時小松製作所は信管のネジなど、親子爆弾の部品を作っていたが、小松製作所は東成・生野の町工場(長屋工場?)に下請けを出していた。祖防(祖国防衛隊)は「同胞を殺す武器になるのだから止めろ」と説得し、工場を実力で潰すこともあった。今でも覚えているが熱で汚れた眼鏡をかけた人でね、「ヤメや、朝鮮人ヤメや!」と叫んでね、今でもあの声は忘れることが出来ない。
・越北した文化人の多くが、戦後2年の内に消息が知れなくなった。そんな人間を私はいくらでも挙げられる。思えばあのときに、北朝鮮は人民のためではなく特定の人物のための権力になったのだろうか。
単なる恥かしいテロ犯罪集団です。
今から50年前の1952年6月25日、大阪・吹田で大規模な朝鮮戦争反対のデモが行われた。
前夜、大阪府学連の主催で「伊丹基地粉砕・反戦・独立の夕べ」が阪大石橋キャンパス(待兼山)で開催され、学生・労働者・朝鮮人約3千人が集い、その3分の2が朝鮮人だったといわれている。当時伊丹基地にはアメリカ進駐軍がおり、伊丹空港から連夜朝鮮半島に向けて爆撃機が飛んでいた。また吹田操車場からも軍事物資を載せた列車が走り、神戸港から朝鮮半島に送られていた。
キャンパスでキャンプファイヤーを行ったあと、吹田操車場に向かい軍需列車運行を阻止し、またその後大阪駅に向かって御堂筋でデモ行進を行う予定だった。深夜、集会参加者は二手に分かれデモ行進をスタート。約1000人は「山越え部隊」といわれ、西国街道から徒歩で箕面を通り、吹田操車場に向かった。もう一隊は「人民電車部隊」といわれ、阪急石橋駅で駅長と交渉し臨時電車を運行させ(午前3時)、約800人が服部駅で下車し、吹田操車場に向かった。
合流した1000人を越えるデモは吹田市警130人と対峙し、突破(午前5時半)、吹田操車場内で軍需列車を探したが見つからず、デモ行進を行い、「決死隊」は線路の上で座り込みをしたが、幸いにして列車はこなかった。このとき一部のデモ隊は派出所や警官輸送トラックに火炎瓶を投げつけ、茨木市警の警官が火だるまになり、ピストル2丁を奪い、「火炎ビンと竹ヤリ」といわれるように、後にこのことが事件の全容であるかのような印象を与え続けた。
午前8時、デモ隊は国鉄吹田駅から列車に乗り込み大阪駅に向かったが、駅で警官はピストルを発射、火炎ビンの応酬もあり駅構内は大混乱となった。デモ隊11人がピストルで撃たれ重軽傷を負った。
結局騒擾罪と威力業務妨害によって250人近くが検挙され、111人が起訴された。(日本人被告6割、朝鮮人被告4割。)その後の裁判闘争で、一審から三審まですべて無罪を勝ち取った。
金時鐘氏の公演】
・私は49年6月に渡日し、故国がもっとも苦難の時に逃げてきたという後ろめたさ、心の責めもあって、すぐに日本共産党に入党した。
・大阪駅はすごい騒ぎだった。構内でピストルを水平に撃つのを見たし、火炎ビンで火だるまになっている警官も見た。本当に怖ろしかった。私は環状線に乗るのをやめ、地下鉄で天王寺に向かって逃げた。私を含む男性二人と女性一人で地下鉄に乗ったのだが、脱糞していたのは私だけではなく、地下鉄の中で女性を庇うようにして私たちがたち、本当に恥ずかしかった。
・当時猫間川(現在の平野川)は真っ黒であぶくが浮いていたのだが、川底をさらって鉄屑で生活する人がたくさんいた。この鉄屑が朝鮮戦争の爆弾に化けるのだ。当時小松製作所は信管のネジなど、親子爆弾の部品を作っていたが、小松製作所は東成・生野の町工場(長屋工場?)に下請けを出していた。祖防(祖国防衛隊)は「同胞を殺す武器になるのだから止めろ」と説得し、工場を実力で潰すこともあった。今でも覚えているが熱で汚れた眼鏡をかけた人でね、「ヤメや、朝鮮人ヤメや!」と叫んでね、今でもあの声は忘れることが出来ない。
・越北した文化人の多くが、戦後2年の内に消息が知れなくなった。そんな人間を私はいくらでも挙げられる。思えばあのときに、北朝鮮は人民のためではなく特定の人物のための権力になったのだろうか。
単なる恥かしいテロ犯罪集団です。
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