百済武寧王について(11)
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/01/10 09:40 投稿番号: [457 / 1474]
ほんま、註釈までアホ記述ばかりだわ・・・
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註釈
(21) 一方、文定昌と岡崎敬は忠北中原郡出土の「建興五年銘金銅如来像」にある「建興」は百済の私年号(威徳王の)とみているのが注目にあたいする。しかし、韓国学界の多数はこれを高句麗のものであると主張しているのでこれからの検討が必要である(文定昌『百済史』ソウル・人間社、一九八八年、一二九ページ。岡崎敬「三世紀より七世紀の大陸における国際関係と日本」『日本の考古学』一九七六年、六三一ページ)。
(22) 百済の干支年代は、五世紀になり本格化されたようで、これは「元嘉暦年」の導入と時を同じくしたものとみられる。
(23) 筆者の所見では、百済が私年代から「干支紀年」に転換した理由は、年号の独自性が継続維持され、隅田八幡宮鏡銘や江田船山大刀銘でみる「大王年」、「大王世」のような表記が可能で、「大王」や「大王国」の存在を強調することのできる利点があるためそうしたとみられる。
(24) 高句麗のそのような私年代はその後も長らく持続されたし、高句麗滅亡の時まで存続したと思われる。
(25) 李丙菇、『前掲書』五二四ページ。
金廷鶴も「百済は東晋成安二年以来、中国とひんぱんな交流をしながらも、奇妙に思われるほど中国年号をつかわなかった」という(金廷鶴「石上神宮所蔵七支刀の真偽に対して」『百済研究』一七、一九八六年、七七ページ)。また、金貞培(七支刀研究の新しい方向、一九八〇年)と李基東(韓国古代史のなぞ)も「泰和」を東晋の年号ではないと言っている。
(26) 『書紀』神功紀一四年二月条(貢) 欽明紀一二年三月条(献)
仁徳紀一二年七月条(貢・献) 欽明紀一〇月条(献)
武烈紀六年一〇月条(調) 欽明紀三年三月条(質)
継体紀六年四月条(貢・調) 推古紀五年四月条(貢)
一方、『三国史記』も百済太子らの倭国行きをすべて「質」と表記している。
(27) 津田左右吉によると、「神功紀四六年と五二年条は『書紀』編著が百済の記録に、肖古王が甲子年に初めて日本と交渉したという記事があるのをみて、これを基礎にして机上でつくられた説話」であると言った(津田左右吉、百済に関する『日本書紀』の記載、『満鮮地理歴史研究報告』#七、一九二〇年三月刊、参照)。
(28) 『礼記』には人の死を身分によって表記しているが「天子死曰崩、諸侯曰薨、大夫曰卒、士曰不禄、庶人曰死」という。
(29) 『三国史記』も「百済武寧王薨」と表記している。
(30) 『書紀』雄略紀五年条には武寧王が(四六一年)筑紫で生まれたと言い、武烈紀四年条には百済王位(五〇一年)についたと記録している。
武寧王は百済王位にのぼる前まで「倭」国にいたとみえるが、彼には「質」のためにきているという記事がないのが注目される(昆支君は質としてきたということを示唆している)。
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註釈
(21) 一方、文定昌と岡崎敬は忠北中原郡出土の「建興五年銘金銅如来像」にある「建興」は百済の私年号(威徳王の)とみているのが注目にあたいする。しかし、韓国学界の多数はこれを高句麗のものであると主張しているのでこれからの検討が必要である(文定昌『百済史』ソウル・人間社、一九八八年、一二九ページ。岡崎敬「三世紀より七世紀の大陸における国際関係と日本」『日本の考古学』一九七六年、六三一ページ)。
(22) 百済の干支年代は、五世紀になり本格化されたようで、これは「元嘉暦年」の導入と時を同じくしたものとみられる。
(23) 筆者の所見では、百済が私年代から「干支紀年」に転換した理由は、年号の独自性が継続維持され、隅田八幡宮鏡銘や江田船山大刀銘でみる「大王年」、「大王世」のような表記が可能で、「大王」や「大王国」の存在を強調することのできる利点があるためそうしたとみられる。
(24) 高句麗のそのような私年代はその後も長らく持続されたし、高句麗滅亡の時まで存続したと思われる。
(25) 李丙菇、『前掲書』五二四ページ。
金廷鶴も「百済は東晋成安二年以来、中国とひんぱんな交流をしながらも、奇妙に思われるほど中国年号をつかわなかった」という(金廷鶴「石上神宮所蔵七支刀の真偽に対して」『百済研究』一七、一九八六年、七七ページ)。また、金貞培(七支刀研究の新しい方向、一九八〇年)と李基東(韓国古代史のなぞ)も「泰和」を東晋の年号ではないと言っている。
(26) 『書紀』神功紀一四年二月条(貢) 欽明紀一二年三月条(献)
仁徳紀一二年七月条(貢・献) 欽明紀一〇月条(献)
武烈紀六年一〇月条(調) 欽明紀三年三月条(質)
継体紀六年四月条(貢・調) 推古紀五年四月条(貢)
一方、『三国史記』も百済太子らの倭国行きをすべて「質」と表記している。
(27) 津田左右吉によると、「神功紀四六年と五二年条は『書紀』編著が百済の記録に、肖古王が甲子年に初めて日本と交渉したという記事があるのをみて、これを基礎にして机上でつくられた説話」であると言った(津田左右吉、百済に関する『日本書紀』の記載、『満鮮地理歴史研究報告』#七、一九二〇年三月刊、参照)。
(28) 『礼記』には人の死を身分によって表記しているが「天子死曰崩、諸侯曰薨、大夫曰卒、士曰不禄、庶人曰死」という。
(29) 『三国史記』も「百済武寧王薨」と表記している。
(30) 『書紀』雄略紀五年条には武寧王が(四六一年)筑紫で生まれたと言い、武烈紀四年条には百済王位(五〇一年)についたと記録している。
武寧王は百済王位にのぼる前まで「倭」国にいたとみえるが、彼には「質」のためにきているという記事がないのが注目される(昆支君は質としてきたということを示唆している)。
これは メッセージ 456 (toapanlang さん)への返信です.
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