百済武寧王について(8)
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2006/12/26 00:55 投稿番号: [447 / 1474]
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『日本書紀』の七支刀「献上」は加筆
「通説」は七支刀銘文の解釈で銘文とは関係のない『書紀』神功紀五二年条の記事を持ち出している。その理由は、「久テイ[氏の下に一]らが千熊長彦について来て七枝刀一口、七子鏡一面および各種の重宝を献」じたという記録があるからである。
しかし、『日本書紀』には神功紀の記事以外いたるところに百済王が剣と鏡そして重宝などを「献」じたとかあるいは「貢」したといい時に五経博士や暦博士、医博士および仏経までも「献」じたとある。また百済太子らが倭王に「質」として来ているという記事もある。(26)
ところが、このような記事はすべて後代人が歴史の必要性によって造作したものとみえるが、その中でも特に「神功紀」に対しては総合的に造られたというのが著名な史学者津田左右吉の主張である。
『日本書紀』にみられる記事の大部分が後代人によって変造あるいは改造されたというのは、津田の言及によらなくても(27)、武寧王陵から出土した誌石だけをみてもすぐわかることである。
一九七一年宋山里古墳から出土した一枚の誌石には「寧東大将軍百済斯麻王」が六二歳の寿命をまっとうし、「癸卯年五月・崩」御されたという事実が記録されているが、この「崩」は言うまでもなく天子や大王の死を意味するものであって、これは一つの歴史体系や政治体制下においてはただ一人だけがつかうことのできる表記である。(28)
ところが、『日本書紀』継体紀一七年条には、武寧王の逝去を「百済王武寧薨」と記録しているが、これは王が継体(男弟王)の「侯王」として逝去したというふうに格下げしたのであり(29)、また『書紀』継体紀二五年条には「天皇崩于磐余」というがこれは彼の逝去を「大王」の死と格上げしたものであり大変あやまった表記である。
このような重大な捏造のため、『日本書紀』における主・客体の位置が完全に転倒され、その結果「神功紀」のような加筆が可能になり、すべての表記が当初の「百済王・賜」から「献」あるいは「貢」と後先が入れ代わるのである。そして、統治行為と関連がある百済太子らの倭国行きは、すべて「質」に転落するのである。(30)
故に、『日本書紀』の「百済王・薨」・「天皇・崩」というふうに捏造された記録をそのまま据え付けておくかぎり、表記上の「献」や「貢」または「質」のような臣属用語は、事実上別に意味のない一つの単語にすぎないのである。
・・・・・・・
>『日本書紀』にみられる記事の大部分が後代人によって変造あるいは改造されたというのは、津田の言及によらなくても(27)、武寧王陵から出土した誌石だけをみてもすぐわかることである。
っていうか、むしろ武寧王陵の発掘で、日本書紀の記述の正確さが証明されたってのが事実なんですがね。
それにしても、今ごろ津田左右吉マンセーかよ、と。
>このような重大な捏造のため、『日本書紀』における主・客体の位置が完全に転倒され、その結果「神功紀」のような加筆が可能になり、すべての表記が当初の「百済王・賜」から「献」あるいは「貢」と後先が入れ代わるのである。そして、統治行為と関連がある百済太子らの倭国行きは、すべて「質」に転落するのである。(30)
故に、『日本書紀』の「百済王・薨」・「天皇・崩」というふうに捏造された記録をそのまま据え付けておくかぎり、表記上の「献」や「貢」または「質」のような臣属用語は、事実上別に意味のない一つの単語にすぎないのである。
なるほど、そういう手があったか。羊月城で使えばよかった。(苦笑)
「通説」は七支刀銘文の解釈で銘文とは関係のない『書紀』神功紀五二年条の記事を持ち出している。その理由は、「久テイ[氏の下に一]らが千熊長彦について来て七枝刀一口、七子鏡一面および各種の重宝を献」じたという記録があるからである。
しかし、『日本書紀』には神功紀の記事以外いたるところに百済王が剣と鏡そして重宝などを「献」じたとかあるいは「貢」したといい時に五経博士や暦博士、医博士および仏経までも「献」じたとある。また百済太子らが倭王に「質」として来ているという記事もある。(26)
ところが、このような記事はすべて後代人が歴史の必要性によって造作したものとみえるが、その中でも特に「神功紀」に対しては総合的に造られたというのが著名な史学者津田左右吉の主張である。
『日本書紀』にみられる記事の大部分が後代人によって変造あるいは改造されたというのは、津田の言及によらなくても(27)、武寧王陵から出土した誌石だけをみてもすぐわかることである。
一九七一年宋山里古墳から出土した一枚の誌石には「寧東大将軍百済斯麻王」が六二歳の寿命をまっとうし、「癸卯年五月・崩」御されたという事実が記録されているが、この「崩」は言うまでもなく天子や大王の死を意味するものであって、これは一つの歴史体系や政治体制下においてはただ一人だけがつかうことのできる表記である。(28)
ところが、『日本書紀』継体紀一七年条には、武寧王の逝去を「百済王武寧薨」と記録しているが、これは王が継体(男弟王)の「侯王」として逝去したというふうに格下げしたのであり(29)、また『書紀』継体紀二五年条には「天皇崩于磐余」というがこれは彼の逝去を「大王」の死と格上げしたものであり大変あやまった表記である。
このような重大な捏造のため、『日本書紀』における主・客体の位置が完全に転倒され、その結果「神功紀」のような加筆が可能になり、すべての表記が当初の「百済王・賜」から「献」あるいは「貢」と後先が入れ代わるのである。そして、統治行為と関連がある百済太子らの倭国行きは、すべて「質」に転落するのである。(30)
故に、『日本書紀』の「百済王・薨」・「天皇・崩」というふうに捏造された記録をそのまま据え付けておくかぎり、表記上の「献」や「貢」または「質」のような臣属用語は、事実上別に意味のない一つの単語にすぎないのである。
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>『日本書紀』にみられる記事の大部分が後代人によって変造あるいは改造されたというのは、津田の言及によらなくても(27)、武寧王陵から出土した誌石だけをみてもすぐわかることである。
っていうか、むしろ武寧王陵の発掘で、日本書紀の記述の正確さが証明されたってのが事実なんですがね。
それにしても、今ごろ津田左右吉マンセーかよ、と。
>このような重大な捏造のため、『日本書紀』における主・客体の位置が完全に転倒され、その結果「神功紀」のような加筆が可能になり、すべての表記が当初の「百済王・賜」から「献」あるいは「貢」と後先が入れ代わるのである。そして、統治行為と関連がある百済太子らの倭国行きは、すべて「質」に転落するのである。(30)
故に、『日本書紀』の「百済王・薨」・「天皇・崩」というふうに捏造された記録をそのまま据え付けておくかぎり、表記上の「献」や「貢」または「質」のような臣属用語は、事実上別に意味のない一つの単語にすぎないのである。
なるほど、そういう手があったか。羊月城で使えばよかった。(苦笑)
これは メッセージ 446 (toapanlang さん)への返信です.
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