入って中国人に南京事件真相議論しましょう
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第二次南京事件8 漢口1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/17 15:06 投稿番号: [1326 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』
田中秀雄編集・解説
芙蓉書房
78〜80p
《 民国十六年四月、異郷にある人々にも春は訪れ、漢口市外の日本公園には桜が咲いた。
折からの神武天皇祭日に日曜日を兼ねた三日は、照りもせず曇りもはてぬ
頃合いの花見日和、それに数日来は市面も例になく平穏であり、
打ち続いての擾乱に久しい間、外出さえも控えがちであった在留二千の同胞は、
誰誘うともなく或いは公園に競馬場に、思い思いに春光を趁
(お)
うた。
しかも何たる運命の皮肉ぞ、その日の午後、日本租界は突如として阿鼻叫喚の巷と化し、
暴徒の毒手に仆れた同胞の血は真紅の花と散らされた。
事の起こったのはその日の午後三時過ぎ、半日の散策に空気銃を手にした二名の水兵が
日本租界燮昌路の料亭
「妻鶴」
の横手に来かかると、街上に遊んでいた
支那の子供が石を投げつける、これを追い払うとまた来て投げつける。
そうしているうちに何処から出て来たのか三十位の支那人が食って掛かってきた。
それとほとんど同時に附近にいた車夫の一団が、言い合わしたように殺到して
水兵を取り囲み殴り始めた。
水兵は言葉も分らず、何のことやら分らぬが事面倒と考えたのでその一人を突き倒し、
近くの料理店
「山吉」
に逃げ込んだ。そこには二三の水兵が遊んでいたのが
この騒ぎに顔を出すと、『それ日本水兵だ、やっつけろ』
とばかり、
たちまちの間に野次馬も加わって、「山吉」
とその隣家の
「浪花食堂」
は
瞬く間に跡形もなく破壊されてしまった。
先に水兵のために突き倒された一人の車夫と、これを取り巻く群衆は
この咄嵯の際にも金儲けを忘れない。微傷一つないのに気絶を装うた。
起き上がろうとすると側の群衆がこれを抑える。
『日本水兵が支那人を殺した』『車夫がナイフで刺された』
との謡言は
電光のごとく各所に喧伝された。
当日支那側では農民協会成立大会が催され、各地からの工会代表も参加し、
応援の各団体も混じって祝賀行列をやっていた。
租界内に事変の突発した頃は、ちょうどこの一行が旧ドイツ租界から
平和街に差し掛かる頃であった。
もし憶測を許さるべくんば、この事実は、事端を作った暴民と労農団体との間に
あらかじめ打ち合わせができていたことを証拠立てるものではあるまいか。
しかしその詮索は何
(いず)
れともあれ、
前記のような謡言にこの一団が時を移さず殺到したのは言うまでもない。
かくて半時を経たざるに、租界の三分の二は暴民によって埋められ、
処々に喊声
(かんせい)
が挙がる、警笛が鳴る、格闘、乱打、
悲鳴、叫喚、久々の安息日はたちまちにして未曾有の大厄日となった。
つづく
これは メッセージ 1324 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月7日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/17 14:59 投稿番号: [1325 / 2250]
一月七日
《 福田氏に国際委員会の趣意書を渡す。氏の話だと、
なにがなんでも南京の秩序を即刻回復せよ、と東京から厳命があったとのこと。
また、行政的な職務
(この私、ラーベの
「市長職」
も?)
も我々
「よそ者」
ではなく、
すべて自治委員会が担当すべし、といってきたという。
そういわれてしまっては、手も足もでない。
願わくは自治委員会にそれだけの能力があらんことを。
南京の危険な状態について、福田氏にもういちど釘を刺しておいた。
「市内にはいまだに何千もの死体が埋葬もされずに野ざらしになっています。
なかにはすでに犬に食われているものもあります。
でもここでは道ばたで犬の肉が売られているんですよ。
この二十八日間というものずっと、遺体を埋葬させてほしいと
頼んできましたがだめでした」。
福田氏は紅卍字会に埋葬許可を出すよう、
もう一度かけあってみると約束してくれた。
きょう午前十時ごろ、私の留守中のことだった。日本兵が一人、
使用人の部屋に押し入り、女たちが悲鳴をあげながら私の住居へ逃げこんできた。
屋根裏部屋まで追っていったところで、この日本兵は、
たまたま私を訪ねてきた通訳の日本人将校に取り押さえられ、放り出された。
占領されて今日で二十六日。南京のヨーロッパ人住宅の治安状況がどんなものか、
これでもわかるだろう。
リッグズが今日の視察の報告書をもってきた。
うつろな目をした女性がひとり、通りをふらふらさまよっていたという。
この人は病院に運ばれ、身の上を話した。
十八人家族だったが、生き残ったのはこの人ひとりだという。
残りの十七人は射殺されるか、銃剣で突き刺されるかして死んだ。
家は中華門の近くだそうだ。
わが家の収容所にやはり近くに住んでいた女性がいる。
弟が一緒だが、こちらは両親と三人の子どもをなくした。
全員日本兵に射殺されてしまったのだ。
せめて父親だけでも埋葬したいと、なけなしの金で棺桶を買ったところ、
これを聞きつけた日本兵たちが蓋をこじ開け、亡骸
(なきがら)
を放り出したという。
中国人なんかその辺に転がしておけばいいんだ、というのが、かれらの言い分だった。
*
義和団の前、清国の官憲が、“中国人の訴えを信用するな”
とやっていたが、
まさにこういう事だろう。
「なけなしの金で棺桶を買った」
というが、どこで棺桶を売っているのか?
どこにそんな店が開いている?
「棺桶を買ったところ、これを聞きつけた日本兵たちが蓋をこじ開け、
亡骸
(なきがら)
を放り出した」
と言うが、日本兵は中国語が分からない。そんな個人情報をどうやって知り得る?
棺桶を買ったのが、どこの誰とも分からないのに、
わざわざ捜し出して埋葬の妨害に出動するほど日本兵は暇か?
仮に、中国人が日本軍に密告したところで、そんな事で一々出動するか?
追い返すのが、普通だろう。
それに、そんな怖い日本軍なら密告した当人が殺されるのでは。
これは メッセージ 1320 (kireigotowadame さん)への返信です.
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第二次南京事件7南昌3
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/16 18:48 投稿番号: [1324 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』 田中秀雄編集・解説
芙蓉書房
73〜75p
九江埠頭の悪劇
《今回の引揚げに就いてはいよいよ避難引揚げの通知を受けましたのが
午後二時頃で、翌朝は立たなければならぬと言うのです。
それで何の用意もできずほとんど着の身着のままで引揚げました。
私ども三人は九江まで来て大元という宿に二三日いましたが、
経済のことも考えるので大東楼という支那宿に行った。
その内に漢口から船が来たというので急いでハルクに来ると船は出た後なのです。
ハルクまでの途中は支那服を着て支那語で話していたので、
苦力なども日本人とは気付かなかったのか、荷物は一円の約束で持って来た。
ところが最初お友達の奥さんと警察署の角で待ち合わせる約束していたのが、
その奥さんはとっくに船で立ってしまったことは知らないので、
約束の場所に行って
『奥さん、奥さん』
と呼んでみたのです。
真っ暗な所でしたが、すぐ日本人ということが分ったと見えて、
ハルクに行ったら十五六人の苦力が待ち構えていて、
荷物は一個二円でなければハルクに上げない、小さな手提でも二円だ、
自分で提げても二円よこせ、よこさなければ皆川の中に放り込むと言うのです。
やむを得ずその通り支払うと、今度は船賃を十六円出せと言う。
船頭との約束は二円だと言うと船頭を捉えて、なぜそんなに安くするのか、
これは日本人だ十六円でなければ駄目だとそそのかしている。
船頭も居直ってしまって十六円出さなければこのまま引き返すと言うて脅かす。
引き返されては大変なのでその通り払った。
恐ろしい顔した奴が十六人、荷物の上に腰掛けて威張っているのです。
まるで芝居のようです。
それから、やっとその一幕が済んだので、ボーイを大元旅館にやって様子を
聞かせようとしたら、また苦力どもがやってきてボーイの手を握り
二十円出さなければここを通さないと言うている。
仕方ないから二十円出す約束してようやくハルクに上がって来た。
いやもう大変な騒ぎの上に馬鹿な金を取られました。
後で水兵さんに話しましたら、早く呼んでくれればよかったのになど言われましたが、
その時はどうにもできないしまた随分遠くに離れていたのです。
それから領事館でも心配され水兵が銃を持ってハルクに立ち番しましたら、
苦力が一人も来なくなりました。
そうでなければまた船に乗る時に取られるところでありました。
(佐久間栄子氏談)》
南京事件はまだつづく
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1月6日 和平案への回答期限を十日に変更
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/16 18:41 投稿番号: [1323 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
262p
《 駐日大使ディルクセンが、四日、広田外相にたいして、
ドイツ側は中国に回答を督促している、と語り、外相は、十二日まで待つと応えた。
だが、近衛首相は、六日、四相会議
(首相、陸、海、外相)
を招集して、
十二日までは待てぬ、十日までにする、と定め、
回答を催促する内閣書記官長談を発表した。》
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
472p
《 日本政府は、独大使を通じて示した和平交渉条件の中国側回答が
一月五、六日ころまでには到着するものと期待しつつ年を越した。
ディルクセン大使は、従来の責任上これを捨てておけないので、
一月四日、広田外相に対して国民政府との接触経過に関し中間連絡を行うとともに、
本国政府及びトラウトマン大使にあて、
日本政府から速やかに国民政府の諾否を求められていることを通告した。
(このとき、中国側回答期限を十二日ころとしたが、
のち六日の四相会議で十日ころとするよう変更した)
一月六日、しびれをきらした近衛総理は、陸海外三相を招き、
国民政府にだめを押す相談をした結果、
早く回答しないとためにならぬという意味の内閣書記官長談を発表した。
この談話のなかでは
「もし中国側が如実に反省の真意を示すならとにかく、
わが方としては、あくまで所期の目的達成に邁
(まい)
進すべく、
今後この決意のもとに百般の対策を講ずる」
と述べている。
このころ、すなわち年末から年始にかけて日本側の対支態度には非常な変化があった。
中・北支における軍事的進展と北支、蒙疆における新政権の成立等により、
軍部はもちろん政党、ジャーナリズム、有力な国民層とくに右翼団体等の間に、
蒋介石の国民政府を相手にしなくても中国側を屈服させることは
必ずしも不可能でない、という空気が濃厚に台頭してきたので、
講和促進論者は沈黙せざるをえない情勢となっていた。
従って、前記書記官長談も、一般国民には和平無用論のような印象を与えた。
しかし参謀本部首脳は、長期戦に対する戦力の限界を考え、和平策を堅持していた。》
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第二次南京事件7南昌2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/15 18:49 投稿番号: [1322 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』田中秀雄編集・解説
芙蓉書房
72〜73p
《 私は一週間ばかり図書館にいてやや静まった様子なので家に帰って見ました。
実は今度は米国人の病院に避難するつもりでしたが、何を申し女ですから
良い着物だけでも持ち出したいと思うて、包みを抱えながら家に帰ったのです。
すると子供が一週間ぶりなので喜んで家に入ってしまった。
私も後からついて入りますと、北軍の兵士がイキナリやって来て、そっちを開けろ、
こっちを開けろという、仕方ないから開けると皆かっぱらって行くのです
海苔の缶詰など少しありましたが、これは日本の菓子だろうと言うて、
大変珍しがって皆持っていってしまった。
帯から着物、袷単物皆取られました。
蒲団だけは残していったので、それを持って病院に行ったのですが
高い入院料を取られるので家に帰ったら、またドンドンやり出す。
そして今度は何千人という南軍は外から北軍は城内から
一日一夜機関銃や小銃で戦争です。
それが八月二十日でしたが、南軍の兵士は割合に背が低いので
城外にある屋根に登って城門の中へ五六人が入り込んだそうです。
すると北軍は大変だというので、城の山下に立ち並んでいる家に火を放った。
屋根の瓦を破ってそこから綿に石油をつけ火を移して家の中に放り込んだ、
実に惨酷なことをしたものです。
逃げれば銃剣で殺される、逃げなければ焼き殺される、ほとんど皆殺しです。
幸い日本人は城内にいたのでその災難は免れました。
もう大丈夫だと思うているとまた掠奪です。
今度は前のこともあるので、兵士の侵入を防ぐつもりで、石などを運んで来て
門口や窓を固めていると、煉瓦壁に大きな穴を開け、そこから犬みたいに入ってくる。
そして剣付鉄砲を咽喉に押し当て金を出せと言う。
台所から出刃包丁を持ち出して脅かす、子供などはまったくたまげてしまうのです。》
つづく
これは メッセージ 1321 (kireigotowadame さん)への返信です.
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第二次南京事件7南昌1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/15 18:42 投稿番号: [1321 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』田中秀雄編集・解説
芙蓉書房
71〜72p
《 当時南昌に居住していて親しく苦難を嘗めた佐久間夫人の談話。
九月に南軍
(革命軍)
が入りました際に敗残の北兵
(五省連軍)
が
盛んに掠奪をやりました。その時の師長は訒汝琢と鄭俊彦というのでした。
これより先市中では仲秋お月見をやることになっていましたが、
十三日に二三百人の南軍が突然入城した。
その時には鄭師長はいなかったですが、
市民では南軍が来たというので非常に喜んだのですが、
十三、十四の二日間は盛んに砲火を交えたので、私どもは図書館に避難しました。
すると、南軍が勝ったというので十六日に家に帰りますと、また大砲が鳴り出した。
まだ危険だというので、再び図書館に戻りましたが、
今度は十八日の明け方近く馬蹄の響きが聞こえる。
見ると、北軍がドンドン入ってくる。
これは大変だと申していますと、外の方が非常に騒がしくなって、
彼方でも斬られた、此方でもやられたという騒ぎです。
私の家の前でも大変な人死でした。こんな有様なので一歩も外に出られない。
二日二晩というものは一二椀の粥で過ごした上に、
コックやボーイはみな隠れてしまうし城門は閉めてあるし、
ですので水汲みに行くこともできないので、お湯さえも飲めない。
その間は弾丸よけのつもりで蒲団を張り廻らし、その蔭に小さくなっているという始末です。
こうして皆がすっ込んで出ないので北軍の兵士が大いに怒り出した。
お前たちは南軍というと饅頭を食わしたりして非常に歓迎するが、
我々が来ると店を閉めてしまって物も売らない。
実にけしからぬ、これから皆殺しにするのだと言うて脅迫する。
市民は皆おびえきってしまったのです。》
つづく
これは メッセージ 1319 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月6日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/15 18:36 投稿番号: [1320 / 2250]
一月六日
《 ばんざい!
アメリカ大使館のアリソン、エスビー、マクファディエンの
三氏がアメリカの砲艦オアフ号で今日上海から到着した。
すでに十二月三十一日に南京を目の前にしていたのだが上陸の許可が下りず、蕪湖で
待機していたのだ。アリソン氏はかつて東京で勤務したことがあり、日本語ができる。
これで日本の軍当局から米と小麦粉
(これは軍が略奪したものだが)
が買える。
価格は高いが
(米一袋約十三メキシコドル)、約五万メキシコドル買うことにした。
石炭も一万二千メキシコドルぐらい買っておかなくては。
難民の蓄えが底をついてきたので早急に手を打つ必要がある。
韓はあまり乗り気ではない。
米屋から、中国軍が南京を奪還しようとしていると聞かされたからだ。
すでに南西部では砲声が聞こえたという。
「そうなれば米だって小麦粉だってただで手に入りますよ」。
けれども私は、心ならずも韓に言い聞かせなければならなかった。
「決してそんなことにはならないよ」
十時ごろ日本軍のトラックがきて、うちの収容所から下関の発電所の作業員を
十五人連れていった。みなしぶしぶ出かけていった。
前回、食事をちゃんと与えると約束しておきながら、
ろくなものを食べさせてもらえなかったからだ。
まったくありつけなかった者もいた。
それだけではない。発電所ではなく、
市の南部の門のちかくで塹壕
(ざんごう) 掘りをさせられた者も何人かいた。
午後五時、福田氏来訪。軍当局の決議によれば、我々の委員会を解散して、
その資産を自治委員会に引き渡してもらいたいとのこと。
自治委員会が今後われわれの仕事を引き継ぐことになっているからだという。
資産を引き渡す?
冗談じゃない。私はただちに異議を申し立てた。
「仕事を譲ることに関しては異存はありませんが、これだけはいっておきます。
治安がよくならないかぎり、難民は元の住まいには戻れませんよ」。
難民の住まいの大半は壊され、略奪されている。焼き払われてしまった家もあるのだ。
さっそく委員会の会議を開いて、福田氏にどう返事をしたものかと相談した。
また、治安や秩序をとりもどすためにどういう提案をするかについても。
日本から助言を得てはいるが、自治委員会はまるで無策だという気がする。
どうやら狙いは我々の金だけらしい。つまり、
「国民政府からもらったのだから、おれたちの物だ!」
というわけだ。
しかし我々の考えは全く違う。なんとしてもこちらの主張を通そうということになった。
アメリカやドイツの大使館が支持してくれると当てにしたうえでの結論だ。
といっても、先方が果たしてどう考えているのか、まるっきりわからないのだが。》
これは メッセージ 1314 (kireigotowadame さん)への返信です.
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第二次南京事件6蘇州5
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/14 18:59 投稿番号: [1319 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』
田中秀雄編集・解説
芙蓉書房
60〜62p
《 ところが巡捕側では総工会の廻し者もあり、必定日本人引揚げだと察知し、
即時に総工会に密告すると同時に館員全部監禁の暴挙に出たのである。
ここにおいてか領事を始め居合わせた重 (おも) なる在留邦人も
共々押し込められ如何ともすることができない。
職工側はまず日本人の引揚げはすなわち多数職工の生計を破壊するものとなし、
強いて引揚げを断行なるならば二ヶ年分の給料を払えと要求した。
邦人側では今回の引揚げは一時的のもので遠からず復帰する旨を説き聞かせると、
然らば日本人留守中は我々職工において工場を経営するから一ケ年分の給料を
保証として銀行に供托せよと主張する。
ずいぶん乱暴な要求とは思うが、何分館内にも工場にも人質的に
邦人を押えての談判である。すこぶる鼻息が荒い。
やむなく彼らの要求どおり約六万五千元の保障預け入れを承諾し、岩崎領事は
監視的に同行する職工代表十四名と共に上海に下り金策することとなった。
然るにその後で職工らは勝手に館内に押し入り、器具その他設備品全部を総工会に
持ち去り、木村署長以下館内にある者全部を完全に監禁してしまった。
超えて十二日には総工会緊急会議を開き、日本租界の回収、
休業中の職工生活費の保障並びに職工の精神的物質的損害の賠償要求、
排日大同盟の組織などを決議し、排日気勢を揚ぐると同時に
領事館支那人巡捕の武装を解除した。
上海にありてこれらの飛報に接した岩崎領事は、上海矢田総領事を通じ
国民軍東路総指揮白崇禧氏に対し取り締まり方を要求した。
その結果白崇禧軍二個中隊は十二日蘇州に到着、租界外の大路を包囲し
弾圧に取り掛かり不逞分子を捕縛し斬罪に処したので、
俄かに怖気づいた職工らは何時の間にか租界から引揚げ、
総工会本部では広間の正面に掲げてあった孫文氏の肖像や看板も取り除き、
役員は皆影を潜めた。
領事館と工場の監禁は自然に解かるることとなり、邦人一同始めて蘇生の思いをした。
岩崎領事も十三日には帰任する、各工場もそれぞれ折り合いが着く、
四月の二十三四日頃までには、引揚げその他ほとんど無事にこれを了した。
・・・
第三回引揚げの中絶により一番困ったのは城内とショウ
(門+昌)
門から
引揚げて来た人々であった。
これらは食糧の準備とてはなし、一時小学校で自炊生活をなし
汽車の開通を待って上海に避難した。
邦人が引揚げた後の留守宅は実に惨憺たるものであった。
飲料水甕
(かめ)
の中に放尿したり瓦石を投げ込んだりするのはまだしも、
井戸の中に猫の屍骸を投げ入れる、風呂桶に糞尿を詰める、畳の上は土足で汚される。
床板は踏み破られる、むしろきれいに持ち去られていた方がいいと思うほどであった。》
これは メッセージ 1318 (kireigotowadame さん)への返信です.
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第二次南京事件6蘇州4
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/14 18:47 投稿番号: [1318 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』
田中秀雄編集・解説
芙蓉書房
58〜60p
ところが一難去ってまた一難、当日から瑞豊工廠内の日本人は
皆糾察隊のために監禁されてしまった。
この糾察隊は革命軍入城後直ちに組織されたもので、
工場内の男工は残らず毎日軍隊教練をやる。
彼らの武器である六尺棒は総工会から強要して絲廠に調整さしたもので、
最初二尺位のものを作ってやると、これではだめだから背丈より長くしろと言う。
やむなく杉木で作ると堅木にしろと言う。
在留邦人は自分どもで拵
(こしら)
えてやった六尺棒で
自分どもが引っぱたかれることになったのである。
十日の未明には邦人一同既に寝室に入ったまま監禁の形に置かれた。
六尺棒が張番しているのだ。夜が明けると一番に瑞豊工会長の汪が来た。
続いて押し寄せた大勢の職工はまず電話機を破壊し、次いで暴動にかかった。
手当たり次第に器物を毀す、目ぼしい物は持ち去る。
時の間に各室とも惨憺たる有様となった。
邦人が最初本式に監禁されたのは寄宿舎であったが、ここで職工らは
三ヶ年分の給料前払いを要求してきた。いわゆる人質を押えておいての難題だ。
網野廠長は彼らのために領事館に引き行かれそのまま領事館に監禁されてしまった。
十日夕刻には総工会執行委員長夏偉烈なる者が来て、邦人を呼び出し厳重な身体検査をした。
ピストルこそ突きつけなかったがまったくの脅迫だ。
いかんとも仕様がないので彼らの為すがままに任せていると、
検査済みの者は一人一人事務所の二階に押し上げる。
女子だけは舎宅に置こうとしたので万一の危難を恐れ、窓を突き破り二階に
飛び上がってきた。それで男女二十三名がそこに監禁されることになった。
その晩は七人の女だけを畳の上に寝かし男子は皆板の間に古新聞を敷いて休んだ。
その後十五日までの四日間はご飯はくれる、
用便にも出してくれたがその都度六尺棒がついている、まったくの囚人だ。
領事館巡捕の裏切り
これより先日本領事館では形勢の急転を慮り、在留邦人側とも凝議の結果
いよいよ引揚げに決定し、前の話にもあったように
十日午前二時を期してそれを決行する手筈であった。
然るにその手配中突然領事館雇用の支那人巡捕のために外部から錠をかけられ、
それらの注進によって殺到した各邦人工場の職工約五百名のために包囲されてしまった。
総工会並びにそれに従属する糾察隊がその先登であるのは言うまでもない。
これはその晩、領事館で領事館雇用の支那人巡捕を集め、
一ケ月余り留守にするから然るべく頼む旨を申し渡し一ケ月の給料を前渡した。》
つづく
これは メッセージ 1316 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月5日 石川達三南京到着
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/14 18:39 投稿番号: [1317 / 2250]
『生きている兵隊』
中公文庫のあとがき・解説
(半藤一利)
205pより
《 南京に着いたのは、十三年一月五日。
念のために書くが、南京を日本軍が攻略したのは十二月十三日。
石川はずっと遅れてその地に着いている。
東京裁判でいう暴虐事件を目撃することはなかったが、
なお血なまぐさい、なまなましい事件後の状況を見聞することは可能であり、
そこで日本軍の実態に接してふかい衝撃をうけた。その回想が残されている。
「小便くさい貨車に便乗して上海から南京へゴトゴトゆられて行きました。
南京市民は難民区に隔離され、町のなかにゴロゴロと死体がころがっていて、
死の町という言葉がピッタリでした。
はじめて目撃した戦場は、ショックでした」
そして南京で八日、上海で四日、精力的な取材をすませると、
ただちに帰国する。》
*
ここでも、彼は、他の善良な日本人と
同じ勘違いしている。
「南京市民は難民区に隔離され」
と言っているが、
別に日本軍が隔離したわけではない。
難民区は外国人が作ったのであって、便衣兵の温床・隠れ蓑となっていた。
日本軍は逆に、難民区を解体しようとしていた。
そして、それを外国人は快く思っていなかった。
次に
「町のなかにゴロゴロと死体がころがっていて、・・・ショックでした」
と衝撃を受けた感想を述べているが、
彼も、この死体を作ったのは日本軍だと決めつけている。
本当は、中国軍が脱出の時の同士討ちや混乱で生じたものなのだけど。
結果として、彼が、描きたかった残酷シーンに相応しい現場の状況を見聞でき、
好材料を得て
『生きている兵隊』
という、
日本兵が残虐行為を働く小説が完成する事になる。
これは メッセージ 1049 (kireigotowadame さん)への返信です.
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第二次南京事件6蘇州3
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/13 18:52 投稿番号: [1316 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』
田中秀雄編集・解説
芙蓉書房
57〜58p
《 一同の手荷物はとっくに船着場に運び出してある。
船は十日の午前二時に租界に戻る手筈である。
それが十分たち二十分たち一時間たっても来ない。
小雨はシトシトと降り出す。東の空は明るくなるような気がする、皆気が気でない。
或いは職工らに感づかれはしまいかと思うと闇に響く靴音にも聞き耳を立てる。
万一見つかったらピストルに見舞われるは必定だ。一同の緊張は絶頂に達した。
そこにあわただしく駆け込んだのは領事館雇いの前川氏だ。
そして今領事館では領事館の巡捕のために武器も何も取り上げられ、
皆は一室に監禁されたので、自分はかねて勝手を心得ているので
窓の錠を外し脱出して注進に及んだという話。
一同はただ呆然として途方に暮れてしまった。
しかしこのままでは一刻もおれぬので互いに相励まし、
荷物の一部は廠内に入れ一部は近くの岡田氏の所に運び込んだ。
それが三時過ぎであった。
そして密かに様子を見ていると同氏邸前に最初二三人の男工だけだったが、
漸次に女工も加わって四五十人となり、日本人を叩き殺せと喚きながら
ガラス窓を開け、火をつけた蝋燭を突っ込んで見回している。
その中に一同のいるのを認めたのか戸を押し破って入ろうとする。
一同はそこを退いて奥の糀
(こうじ)
室に隠れた。
すると遂に扉を破って闖入した彼らは家宅捜索を始め、
糀室の前まで迫って来て一尺平方位の明り窓を打ち破って火を突っ込んだ。
同時にピストルが閃く。覚えず顔見合した一同は一語を発する者もない。
やがてピストルも火も引っ込ませたが、今度は外の戸を釘付けにしている。
これはたまらぬ、釘付けにした上に火を放けられたら大変だというので、
どうせ殺されるようならその覚悟でここを突破しようと言うことに一決し、
まずその前に嘆願的に救出の事を頼んで見ることにした。
そこに思いがけなくも救いの手が現われた。それは租界外の居住者政次氏である。
同氏は領事館差し回しの曳船に荷物を積み込み、
午前二時までに租界の船着場に集合するはずのところ、
小蒸気船の機関は何者のためにか破壊され動かなくなり、
やむなく自分で艪
(ろ)
を押して来たとのこと。
これで小蒸気船が待てども待てども来なかった理由もハッキリしたと同時に、
同氏から支那人を説得してもらって無事に出ることができた。
ところが一難去ってまた一難、当日から瑞豊工廠内の日本人は
皆糾察隊のために監禁されてしまった。》
つづく
これは メッセージ 1315 (kireigotowadame さん)への返信です.
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第二次南京事件6蘇州2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/13 18:44 投稿番号: [1315 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』 田中秀雄編集・解説
芙蓉書房
56〜57p
工会員の跋扈
(ばっこ)
《 蘇州における日本人工場の重
(おも)
なるものは、
昨年七月に開業した瑞豊絲廠
(日華蚕絲会社経営)
貝ボタン工場
(橋本高次郎)
備後屋畳表工場、湯浅工場などであるが、
その中瑞豊絲廠は職工数も多いので自然今回の争議の焦点となった観があるので、
以下同廠の出来事を中心に叙述の筆を進めることにする。
二十四日に難件を持ち込まれた以後の工場は事実上支那人職工の管理に帰した形で、
しかし日本人も全然顔出さぬとなるとまた騒ぎ出す恐れがあるので、
毎日出張っては見るが指図も何もできない。
もちろんこれでは成績も挙らず、規律は乱れる、職工の要求は増長する、
何時の間にか生産費は従前の二倍以上になってしまった。
一体蘇州は生糸の産地で、支那人の経営に係る製糸工場も三つある。
総工会の手はそれにも延びていった。
国民党中の過激派の使嗾によるのはもちろんである。
総工会と工場側との衝突は予期されていた。
果然、延昌恒絲廠の操業休止は騒擾の端をなした。
平常ならば新繭
(まゆ)
買い入れまでの女工解雇の如きは問題にならない。
延昌恒絲廠もそれであったが、時が時であった。たちまち物議が持ち上がった。
その際仲裁に入った斯業界の長老汪氏の息子はこれをなだめんとして
却って女工の激昂を買い、彼らに追われて便所に隠れたり
屋根の上を逃げ回ったりしていたが、遂に寝室に追い込められ、捉
(つか)
まって
総工会に曳かれて千余名の女工の前で笞刑に処せられた。
その翌日は血迷った職工ら汪父子を車に乗せ、楽隊を先頭に市中を曳
(ひ)
き回し、
邦人工場の門前にも来て喊声
(かんせい)
を挙げるなどまったく暴動化して来た。
支那の警察もあるがもちろん手を着けない。
こうして工人側の気勢はますます強くなる。
四月四日にはより以上の要求を持ち出した。
瑞豊絲廠では余儀なくこれを容れたものの、
このままでは到底仕事を継続する見込みは立たない。
しかしここで邦人全部が引揚げるとなるといかなる面倒が起らないとも限らないので、
領事館側とも打ち合わせ秘密裡にこれを決行することとし
九日の夜半を期し残留邦人四十八名が小蒸気船で落ち延びる手配をなし、
各工場では職工を瞞
(だま)
かすつもりで酒を振舞ったり、
夜遅くまで麻雀などして何気ない風を装うたりして時の至るのを待った。
然るに準備してあった小蒸気船を荷物取りまとめのため
租界外の居住者の所に廻したのが戻ってこない。》
つづく
註 :
絲は糸の本字
これは メッセージ 1313 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月5日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/13 18:36 投稿番号: [1314 / 2250]
《 わがジーメンス・キャンプはほかの収容所からあまり芳しくない評判をとっている。
韓がちょっぴりよけいに米を配るからだ。なにしろ韓は気がいいから!
いくらなんでも五百平方メートルの庭に六百二人は狭すぎるので、
難民を一部、他の収容所に移そうとしたがうまくいかなかった。
ここだけが安全だと思っているので、だれも出たがらない。まあ、しかたないだろう!
衛生状態が気になる。これについては私もどうしていいのかわからない。
伝染病がひろがらないといいが。
今日の午前までは水が出たのだが、午後になってとまってしまった。
電気はまだつかない。それなのに、近所ではいまだに家が燃えている。
登録はまだ終わっていない。何万人もの女の人が乳のみ児をかかえて
五列に並んだまま、もう六時間も外で待たされている。果てしなく長い行列だ。
このきびしい寒さのなか、いったいどうやって耐えているのかと思う。
またもや漢中門が閉まっている。きのうは開いていたのに。クレーガーの話では、
門のそばの干上がった側溝に三百ほどの死体が横たわっているそうだ。
機関銃で殺された市民たちだ。
日本軍は我々外国人を城壁の外に出したがらない。
南京の実態がばらされたら困るからな。》
*
「漢中門のそばの干上がった側溝に三百ほどの死体が・・・機関銃で殺された市民」
と言っているが、本当に市民なのだろうか?
ラーベ達外国人は、12月12日夜の、中国兵脱出の時の混乱で生じた、
城内の大量の死体ですら、日本軍
(まだ南京城内に入っていなかった)
の仕業と
思い込むくらいだから、そのつもりで聞いていた方がいいだろう。
便衣兵の処刑によるものなのか、
戦闘で殺されたものなのか、
脱出時の混乱で死んだものなのか、
判別はつかない。
これは メッセージ 1305 (kireigotowadame さん)への返信です.
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第二次南京事件6蘇州1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/12 18:55 投稿番号: [1313 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』
田中秀雄編集・解説
芙蓉書房
54〜56p
《 革命軍の入城
(註:革命軍とは国民党軍の事)
風光明媚、描けるような江南の天地にも戦禍を免れなかった。
三月二十日前後には既に蘇州の郊外近く押し寄せた国民革命軍は、
同二十二日には早くも威風堂々城内に入った。
同地在留邦人では南北の勝敗はともかく、いずれか敗残兵の掠奪暴行は免れまいとの
想念から領事館に避難せる者もあり、互いに徹夜して警戒した晩もあった。
革命軍の入城はこれらに一安心を与えた。
一体同地では北軍よりもむしろ南軍の歓迎に傾いていた。
と言うのは革命軍側の早くからの宣伝によるのはもちろんであるが、
とにかく革命軍の入城は蘇州官民によって歓呼して迎えられた。
在留邦人においても支那側のそれほどではないが、とにかく戦禍から早く免れ得た、
すなわち掠奪暴行などの災厄を免れ得たという喜びはあった。
しかもそれは見事に裏切られた。もとより常勝軍の余威は手早く戦局を
収拾し得たるために、甚だしき戦争の惨禍からは免れ得たが、
しかし酬
(むく)
いられたものは、より以上に乱暴な、より以上に深刻なものであった。
それはすなわち革命軍の労働者使嗾
(しそう)
である。
蘇州の人心が動揺し、労働者の気勢が邦人の目にも留まるようにおかしく
なったのは、さかのぼって言えば革命軍が杭州から北上し呉江に達した頃、
すなわち三月十二三日頃からである。
それが革命軍の入城によって急速に具体化し、入城二日目の二十四日には、
総工会の名義で日本人工場に乱暴な条件が持ち込まれた。
双方が押し問答している間に、職工側の言い分はますます募る。
工場内では彼処に一団、此処に一団と構えて示威的気勢を示す。
二十九日には革命軍の戦役烈士紀念日と称し、各工場の職工全部が参加し
楽隊を先頭に大旆
(おおはた)
をかざし、邦人工場にも押し寄せた。
邦人側では、やはり隠忍していたので何事も起らなかったが、
しかし四囲の形勢は日にますます不穏を増すのみなので、
まず婦人子供だけでも避難させようということになり、
上海から廻してもらった小蒸気船で三十一日に五十二名が引揚げ、
次いで四月五日に二十二名が避難した。》
つづく
これは メッセージ 1311 (kireigotowadame さん)への返信です.
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支那軍将校…犯罪を日本軍のせいに
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/12 18:49 投稿番号: [1312 / 2250]
ラーベ達が日本軍の犯罪と決めつけていた事が、実はそうではなく、
中国兵の犯罪で有った事が判明しました。
東中野修道著
『南京大虐殺の徹底検証』
275〜276p
〈一九三八年一月三日上海発の
『ニューヨーク・タイムズ』
の記事
(一月四日付)である。
「元支那軍将校が避難民のなかに - 大佐一味が白状、南京の犯罪を日本軍のせいに」
と題する記事は、次のように言う。以下は全訳である。
《 南京の金陵女子大学に、避難民救助委員会の外国人委員として残留している
アメリカ人教授たちは、逃亡中の大佐一名とその部下の将校六名を
匿 (かくま) っていたことを発見し、心底から当惑した。
実のところ教授たちは、この大佐を避難民キャンプで
二番目に権力ある地位につけていたのである。
この将校たちは、支那軍が南京から退却する際に軍服を脱ぎ捨て、
それから女子大の建物に住んでいて発見された。
彼らは大学の建物の中に、ライフル六丁とピストル五丁、
砲台からはずした機関銃一丁に、弾薬をも隠していたが、
それを日本軍の捜索隊に発見されて、自分たちのものであると自白した。
この元将校たちは、南京で掠奪したことと、ある晩などは避難民キャンプから
少女たちを暗闇に引きずり込んで、その翌日には日本兵が襲ったふうにしたことを、
アメリカ人たちや他の外国人たちのいる前で自白した。
この元将校たちは逮捕された。戒厳令に照らして罰せられ、
恐らく処刑されるであろう。》
南京安全地帯は中立地帯であった。
そこに、ベイツやスマイスなどアメリカ人教授が支那軍将校を匿っていたのである。
これは重大な中立違反であった。その上、あろうことか、
〈市民に変装した現役の将校たち〉が掠奪や強姦を重ねては、日本軍の犯行にしていた。
アメリカ人教授が 「心底から当惑」 したのも当然であったろう。
しかも、彼らの十号文書 (十二月十八日付) は、安全地帯に支那兵は
一人もいないと保証していたのであった。
しかし、この安全地帯で生じた重大な出来事が、不思議なことに、
『南京安全地帯の記録』 には収録されていない。
日本軍告発という目的に、合致しなかったからであろう。
しかも、これは氷山の一角に過ぎなかった。〉
*
別に驚くに当りません。
東中野がどうとか、日本軍の発表だ、とか言う以前の問題です。
ラーベも龍上校と周上校を金を貰って匿いました。
「945
12月12日のラーベの日記
2」
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=552022058&tid=ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfb
faj5doc0a47a4dea47a4ga4a6&sid=552022058&mid=945
そして、中国軍は安全区を基地にし、ラーベ達の要請にもかかわらず、
撤去しませんでしたから、彼らが武器を持っていても、何の不思議もありません。
これは メッセージ 1305 (kireigotowadame さん)への返信です.
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第二次南京事件5 松崎医師2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/11 16:07 投稿番号: [1311 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』
田中秀雄編集・解説
芙蓉書房
38〜39p
《 後を振り向くと一人の兵士が小銃に装弾しつつ近寄ってきて
『お前たちは何国人だ』 言う。
田坂氏が
『日本人
(リーベンレン)』
と答えると、それを
『高麗人(コーリーレン)』
と間違えたらしく
『高麗人なら許すが日本人だと許さないぞ』
と怒鳴ったので、
急に高麗人すなわち朝鮮人になりすましようやく虎口を逃れた。
当時我同胞は日本人であることさえも高唱されなかったのだ。
かくて宝来館旅館の附近まで来るとその辺一帯は掠奪の最中である。
震旦大学の門内には二名の仏国宣教師が殺害され、髯から頭髪まで焼かれて
無残の死骸を横たえている。筋向いの日本小学校も掠奪されている。
二人は革命軍の暴虐に驚きながら西華門に向う途中で、
ようやく知人に支那服を借り受け、それに着替えて、とある阿片館に隠れた。
その家は草屋根の二室しかない小屋で、隣室に阿片を吸うている労働者風の
支那人の話し声がよく聞える。
『南兵はなぜ外国人を殺すのだ』
『彼奴らは俺たちの国に素手で来て、帰りには儲けて行くからだ』
『まるで泥棒だ』
『虐殺されるのは当然だ。日本領事館では鼻に針金を差し込んで、
一人残らず殺してしまったよ』
聞かされた二人は、まさかと思ったがまったく身の毛のよだつ思いをした。
そこへ突然昨年須藤医院を卒業した宣君が尋ねて来てくれた。
領事館からの依頼で方々を探し歩いたとのこと、
そして今外では二人の日本人がこの家に入ったと言うので、
二百元の懸賞で捕縛することになっているから早く逃げよとの話だ。
吃驚してそこを飛び出し二丁ほど離れた宣君の家に落ち着き、
始めて領事館の日本人の無事であることを知った。それが午後四時頃であった。
その内に江岸に当って盛んに砲声が聞える。今外国軍艦と革命軍と交戦中で、
日本軍艦二隻は沈没したとの噂が伝わって来た。
二人はお互いの運命もこれまでだと観念し、一切を認めて支那人に頼んで
蕪湖領事館に送り届けようとしたが、船便がなかったために果たさなかった。
やむなくその夜は今後を心配しつつ宣君の宅で過ごしたが、
幸いにも翌二十五日朝十時、領事館からの急便で引揚のことを知り、
ミルク、菓子などを携え領事館に駆け付けた。
当時城外に居住し、軍艦に収容されたものは左記二十四名である。(後略)》
70p
《 六月末に南京城内の被害調査に赴いた山野氏報告に左の如き一節があった。
路傍の楊樹は無心に我らを迎え山川風光昔に異ならざるも当時を回想すれば
感慨悲壮、荒廃せる我らの旧居を目睹するに及んでは只鳴咽あるのみ。
殊に惨状を呈せしは城内宝来館、須藤、栗林、松崎の三医院にしてほとんど
旧態を止めず、見る影もなく荒れ果てて床板もなき室に蓆を敷き並べ、
蒜と汗の臭気紛々たる裸体の兵士が我が物顔に昼寝せる様、唖然たるの外なく
到底再び住居とする勇気も出でざる状態なりき云々》
*
『彼奴らは俺たちの国に素手で来て、帰りには儲けて行く』『泥棒だ』
この理屈が正しいのなら、日本に来ている中国人も襲撃されねばならない。
何度襲われても中国に行こうとする日本の企業は、バカではなかろうか。
これは メッセージ 1310 (kireigotowadame さん)への返信です.
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第二次南京事件5 松崎医師1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/11 15:58 投稿番号: [1310 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』
田中秀雄編集・解説
芙蓉書房
36〜38p
《城内キョウ
(龍+共)
家橋にある松崎医院の院長松崎熊士氏は、
これまで同じ城内の須藤医院に副院長を勤めていたが、
今度独立することになって三月二十一日に開業した。
その夜はあたかも革命軍が南京に迫った頃で、殷々たる砲声を真近に聞きながら
開業の宴を張った。そして一人の患者も見ないうちに今回の災厄である。
同医院では二十四日午前六時、革命軍の入城を知ると同時に、
晴天白日旗と茶菓を用意して歓迎の意を表することにした。
これも凡
(すべ)
ての在留邦人と同じく革命軍を信じていたのである。
然るにその期待は見事にも裏切られた。
まもなく数名の革命軍の兵士が入って来て
『この家を司令部にするから明け渡せ』
と言う。
松崎氏は
『俺は日本人だ、お前らに貸し渡すことはできない』
と突っぱねると、
彼らは口々に
『洋鬼子々々々』
と罵りつつ金を出せと迫り、
同氏のポケットの一つ一つに手を突っ込んで、時計財布など残らず取り上げて立ち去った。
その後で松崎氏は急ぎ近所の田坂写真師に電話し、領事館に避難するため二人で
家を出で、約一里の間を革命軍に後について歩いた。
途中は格別危険もなかったが鼓楼医院の前まで来ると
『須藤理助』
とした名刺が
路上に散乱している。すぐ坂上の日本領事館では馬車や馬で盛んに荷物を運び出している。
不審だと思いながら二人とも領事館が掠奪を受けてるとは思わなかった。
正門を入るとき田坂氏だけはうまく通過したが、
松崎氏は革命軍の兵士に捉まって外套、眼鏡、現金を奪取され、
ほうほうの体で領事館に来て見ると、どの部屋もどの部屋もがらんどうだ。
そして紙片や書類などの散乱した中を革命軍の兵士が右往左往している。
赤い腕章をつけた平服の支那人が無頼漢らしい者どもを指揮して荷物を運んでいる。
裏口に抜けて領事官舎に行くとボーイがいたので、
日本人はどこにいるかと聞くと知らぬと言う。
官舎の裏手に回ると雨水タンクの上に根本少佐が仰向きに仆
(たお)
れている。
まったくの死人だ。それに一人の日本人の姿も見当たらないのと考え合わせて、
邦人全部虐殺されたと直感した。
そこで始めて危険の迫れるを感知し、根本少佐には気の毒だったが
これを打ち捨てて愴惶(そうこう)
として館内を抜け出で、
鼓楼医院の側で田坂氏にめぐり合い、
北門橋の南京写真館に行って支那服の借用を乞うたが断られ、
まったくの落人の気持ちで戦々恐々、五丁ほどを歩いたと思う頃、
突然
『止まれ』
と大喝された。》
註
: 愴惶
ソウコウ
大いに恐れ、あわただしいさま。
つづく
これは メッセージ 1308 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月3日 蒋介石 和平使派遣 拒否
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/11 15:47 投稿番号: [1309 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
262p
《 その翌日
(3日)、国民政府は、正式に次のように決定した。
「否認
将派代表
赴南京
與日方
講和」
(日本側との和平交渉のために代表を南京に派遣することは、認めない)
和平拒否
−
である。
だが、この決定は極秘にされ、ドイツ側にもつたえられなかった。》
*
中国は
「和平拒否」
を決定していながら、ドイツ大使に伝えないため、
当然の事ながら日本にも伝わらない。
そのお陰で日本では、無用な会議を連日続けることになる。
これも中国側の作戦かも知れない。
無用な疑心暗鬼をさせて、日本を精神的に疲れさせるための。
これは メッセージ 1303 (kireigotowadame さん)への返信です.
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第二次南京事件4 宝来館裡の悲鳴3
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/10 17:10 投稿番号: [1308 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』 田中秀雄編集・解説
芙蓉書房
35〜36p
《余は地獄で仏に会った思いでその将校を捕え、
このままではいつ殺されるか分らぬので、一刻も早く脱出して領事館に避難したいから、
どうか同行して頂きたいと嘆願すると、将校はそれではあとで警察署長を出すから
それまで待てといって、そばの巡査に自分の名刺を与え、裸で震えている余に
着物を貸せと命じて立ち去った。
三十分の後巡査部長が来て、巡査二人で余らを護送してくれることになったので、
余はズボン下一枚の上に、巡査が苦力の着ていたのを脱がしてくれたぼろぼろの
上衣一枚を肌に当てたまま街上に出た。
黒山と取り巻く人馬の中には、糾察隊のマークをつけた学生が混じって、
『そいつらを引き渡せ、渡さぬと殺すぞ』
と幾度か巡査を脅かし
余らを連れ去ろうとするが、テコロ病院の前にさしかかると、
石畳の上に生々しい血潮が流れ、砕かれた脳漿が散乱している。
その門のすぐそばで外人紳士二人が兵士に取り囲まれて、まさに銃殺されんとしていた。
これを目撃した余らは自分の運命を告げられているような気がして、
われにもあらず目の前が真っ暗になるのを感じた、
そのうちにようやく領事館の建物が見えるところにくると、
正門前の坂道を兵士や無頼漢の群れが押し合うようにして家具類を抱えて降りてくる。
見れば門前も前庭も公用書類が地を埋めて乱れている。
『領事館もやられたのだ』
と始めて目の当たりを見て、
思わずも鉄槌で殴られたように驚きを感じた。
(三月三十日東京朝日所載)
一方丸裸にされ、座布団を前と後ろにあてがって、寒いのと恥かしいのを防いで
敵味方を笑わした鈴木老人は、暴徒のすきを見て向い側の支那人宅に飛び込み
着物をもらい、宝来館から一丁ほど離れた警察署へ救助を頼んだ。
署長は顔馴染みなので好意を持って世話を焼いてくれたが、
まもなく兵卒らが来て乱暴にも署長を殴りつけ、老人を引っ張って督弁公署の
要の錬兵場に連行し、またまた丸裸にしてしまって銃剣を咽喉に擬する。
鈴木老人はいよいよ殺されるものと観念した。その刹那に一名の将校が来て
『打つな打つな』
と叫んだので危機を免れることができた。
それで老人はその将校に領事館までの護送を頼んだが容れない。
やむなく知り合いの附近の鉄葉屋の主人を訪ねて着物を乞受け、
途中でこれまた顔知った車夫からも着物を借り、一緒に宝来館に帰ってみると、
まだ掠奪の最中らしいので逆戻りして車夫の宅に隠れ、
そこからまた車夫や乞食に衛られて福民巷の孫氏(督軍署日本語通訳)の宅に遁れ、
そこで一夜を明かし、領事館からの密使で軍艦への引揚を知り、
孫氏の令息がボーイに、鈴木老人は盲人に変装し、ようやく危険地帯を突破し
無事領事館に着いて始めて安堵した。
鈴木氏は在支数十年、いろいろの災害にも遭遇したが、
今度ほど弱らされたことはなかったと言うている。》
これは メッセージ 1307 (kireigotowadame さん)への返信です.
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第二次南京事件4 宝来館裡の悲鳴2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/10 16:58 投稿番号: [1307 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』 田中秀雄編集・解説
芙蓉書房
33〜35p
《 余は無抵抗のいかに悲惨なるかを体験し、生来二十八年、
この時ほど自分が弱いものだと思ったことはなかった。
しかしこうなれば死を決して暴徒のなすままに天運を待つほかなかった。
そのうちに余らは外套、服、ワイシャツ、着ているもの全部をはぎ奪われ、
ズボン下一つきりになったが、暴兵は刻々に数を増すばかりで、
奪ってゆくもののなくなった腹立たしさに、室内の小道具類を片端から破壊し始め、
『百円出せば命だけ助けてやる』
とか、
『張作霖びいきの日本人は皆殺しだ、もう五十人殺された』
などと喚きながら、
一人の兵は一間余も間近からピストルを向けて余を狙撃した。
幸いにして弾丸は余のびんをかすめ、とびらを貫いた。
一緒の者四人既に生きた心地はない。
どうでもなれと観念のほぞを固めているうち、
兵隊に続いて潮の如き無頼漢の群衆雪崩れ込んで来て口々に我々を冷笑しながら、
家の中の品物を片ッ端から持ちだしてゆく。
めぼしい品物はもちろんのこと、後では畳、床板、便器、鉄瓶のかかった火鉢、
たんつぼに至るまで持ち出して、
部屋の中はまるで馬小屋同様のあばら家同然となってしまった。
余らは丸裸になってこの暴挙を眼の辺に眺めながら、どうなる事かと胸を痛めていると、
やがてどかどかと数人の兵が飛び込んできて、『貴様らは支那の土地に勝手に
家を建てる権利はない、早く出てゆけ、下で銃殺してやるから早くゆけ』
と言い捨てて余らを引きずり出した。
いよいよ最後の時が来た、もうもがいても喚いても駄目だと観念して、
彼らのなすがままに引き立てられて階下のボーイ部屋に押し込められた。
そこで暴兵らは、またもや悲鳴を挙げて拒む女中を取り押さえて、
腰巻までも奪おうとする。これを見た余は思わず眼がくらんだ。
凌辱でもして見ろ、その時には剣を奪って斬り死にしてくれんと
決心し見ていると幸いそのまま出て行ってしまった。
これより先、危害がいよいよ身辺に迫ったので、このままでは暴徒のために
掠奪されるばかりだと思ったので、余は密かにボーイを密使に立てて、
急を領事館に告げしめ適宜の処置を請うた。
宿から領事館まで二十丁の道程だが、ボーイは待てど暮らせど帰らぬ。
やっと十時過ぎに帰って来て、領事館も大掠奪を受けている。
兵隊が一杯でとてもゆけぬと告げた。
まさか領事館がやられるはずはない、遭難を恐れて途中から逃げ帰ってきたのかも
知れぬ、この上は命をかけても飯事館に逃げのびるはか道はないと考えて、
裏口から脱け出ようとしているところへ、またもや鬼のような兵士が十数人押し寄せて、
日本人は全部銃殺するから用意せよと破れ鐘のような声で宣告し、
壁際に引き据えて、まず小銃の狙いを女中の心臓部にすえた。
もうこれまでだ、暴徒は遂に引金を引いた。すると天いうか、
弾丸が入っていなかったため、空しくカチリと鳴っただけで、
命はようやく絶たれんとして一瞬に残し得た。
暴兵はいまいましげに舌打ちして気をいら立てながら弾丸を入れているところへ、
突如少佐服を着けた二人の将校が門の前を通り合わせ、この有様を見るや否や、
つかつかと入って来て兵士の腕をつかんで制止したので、余らは危機一髪を
免れたが、暴兵はいまいましげににらみつけて立ち去った。》
つづく
これは メッセージ 1306 (kireigotowadame さん)への返信です.
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第二次南京事件4 宝来館裡の悲鳴1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/10 16:50 投稿番号: [1306 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』
田中秀雄編集・解説
芙蓉書房
31〜33p
《南京唯一の日本旅館宝来館は南京城内石板橋にある。
二十二日の邦人の避難の際には馬車が来ないためにそれに加わることできず、
二十三日は連合軍の退却で市中は上を下への大混乱にどうすることもできない。
その夜は当時の宿泊客東京朝日の園田記者ほか一人と家中とで、
そこここにあがる銃声に脅えつつ息を潜めて夜を明かすことにしたが、
午前二時頃からにわかに静かになったので、皆気を許してまどろんだと思う間もなく、
けたたましい銃声が間近の街上に鳴り渡った。
さては市街戦が始まったかと思われたが、同館ではかねがね懇意の孫文会の
中山事務所から検査済みの札をもらったので安心していると、
七時頃になって突然二階の窓ガラスめがけて三四発の銃弾が注がれ、
その弾は折から服を着替えていた園田記者の身辺を掠めて天井の電球を砕いた。
またたくうちに街上を埋めた革命軍の暴兵は開門、開門と怒号しつつ
表の鉄門を押し破り、どかどかと乱入し泥靴のまま畳を踏み荒らし、
奉天兵はいないか、ピストルはないかなど、口々に連呼しつつ家捜しを始め、
主人の鈴木氏を捉えて
『金を出せ』『ピストルを出せ』
と迫り、
有り金を引っさらって出て行くとまた押し入って来る。
次から次と入れ代り立ち代り、金、金、金!と叫びながら入って来ては
各室に侵入し、手当たり次第に掠奪する。
宿泊客の荷物はもちろん、主人が永年の支那生活で集めた大小幾百の骨董品は、
見る見るうちに彼らのポッケに隠され小脇に抱えられ、
幾分も立たぬ間に影も留めなくなった。
当時同旅館にあって親しく暴虐に直面した東京朝日の園田記者の遭難記は、
凄絶惨絶、鬼気人をうつものがある。左にその一節を録する。
〈(前略)
たちまち数人の暴くれた兵隊がどかどかと乱入して
奉天兵が逃げ込んではいないか武器は持たぬかなどと連呼しながら
泥靴のまま畳を踏み荒らして家捜しをはじめ、トランク一個を奪取して引き上げた。
その時まではまさか掠奪だとは気づかず、平気でいると続いて四十数名の兵士が乱入して
『ピストルは持たぬか』
と呼びつつ、われわれの所持品懐中の点検をはじめ、
まず写真機と外ポケットのがま口を取り上げ、次いで内ポケットの財布をひったくった。
その間一人の兵は宿の女中をつかまえ指輪を抜き取ろうとしていたが、
堅くて容易に抜けないのに気をいらだて、『面倒だ、指を切り落としてやる』
といいさま、懐中から短刀を取り出してあわや左の薬指を切落とそうとする、
女中は必死に抵抗しつつようやく抜き取って渡した。
そうして掠奪だと気がついた時分には、部屋々々はいずれもピストルや小銃の
引金に手をかけた乱入者で一ぱいでいれかわり立ちかわり現れて来ては、
すご文句でおどしつけながら、めぼしい品物を奪取してゆく、少しでも抵抗の気を
見せようものなら、すぐさま銃殺する面がまえで引金に手を当てて迫ってくる。〉》
つづく
これは メッセージ 1304 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月3日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/10 16:43 投稿番号: [1305 / 2250]
一月三日
《 きのう夜七時に、スマイスがフィッチあての報告書を手に
医者の許伝音氏のところからやってきた。
フィッチ様!
本日午後四時三十分ごろ、劉培坤は、暴行されそうになった妻を守ろうとして
日本兵に射殺されました。
近所の家が日本兵に占領されているため、わが家はいま、逃げてきた婦人たちで
いっぱいです。私はシュペアリング氏に手紙を書き、すぐにこちらへきて
我々を守って下さるようお願いしました。シュペアリング氏の体があかない場合、
ここ寧海路五号に、だれか他の外国人をさしむけていただけないでしょうか?
敬具
許伝音
本部に泊まりこんでいるはずのシュペアリングをスマイスが探しに行っている間、
私はマギーといっしょに日本大使館へ行った。
マギーはすでにこの件について詳しい報告を受けていた。
田中氏に軍部に出向いてもらい、この事件を調査するよう要求してもらうのだ。
これは実に計画的で残虐な犯行だ。
劉の妻がおそわれたのは昨日の朝だった。五人の子どもがいる。
夫がかけつけ、日本兵の横っ面をはって追い払った。
午後、朝は丸腰だったその兵士は、今度はピストルを持ってやってきて、
台所に隠れていた劉をひきずりだした。
近所の人が必死で命乞いをし、ある者は足もとにひれ伏してすがった。
だが日本兵は聞き入れなかった。
田中氏は、ただちに軍部に報告すると約束した。
私も氏が約束を果たさなかったとは思っていない。
だが結局、沙汰やみだ。兵士の処罰といえば、いつだってたかだか平手打ちどまり。
それ以上こらしめたという話を聞いたことがない。
せめてもの慰めのつもりだろう、田中氏は、そのあととてもうれしいことを教えてくれた。
目下蕪湖にいるローゼン、それからたぶんヒュルターとシャルフェンベルクの三人が、
一月五日に南京に到着するそうだ。ということは、アメリカ大使館の人たちと同じ日だ。
そちらからはすでに連絡がきている。
(数行略)
給食所と収容所の決算報告で、委員会の財政がかならずしも楽ではないことが
わかったが、これには改めてうなってしまった。
要するに、働いている中国人がめいめいしっかり手数料を取っていたのだ。
なんせここは中国だ。手数料なしにはなにひとつ運ばない。
今日うちの庭で、とほうもない値段をふっかけようとした野菜売りをつかまえた。
ちょうどそこにいあわせた女の人たちが品物をそっくり買いとろうとしたので、
私はそれをとめ、そいつを追い払った。
*
>朝は丸腰だったその兵士は、今度はピストルを持って<
「日本兵 (陸軍) はピストルを持っていない」
と私は聞いている。
「将校が自決用にピストルを持っている」
とも。
自決用なら、弾に予備はあまり無いだろう。
と言うか、将校のピストルは自前だから、弾は軍所有の弾と合わない。
ピストルを持って来た兵士
便衣兵の変装ではないのだろうか?
*
「働いている中国人がめいめいしっかり手数料を取っていた」
ラーベ達が善意で無償で働いているのに、当の助けられている中国人が
手数料をとり、人の弱みに付け込み、途方もない値段を吹っ掛けている。
ラーベ達も大概で、自分達が何をしているのか気づくべきだろうに。
これは メッセージ 1290 (kireigotowadame さん)への返信です.
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第二次南京事件3 埠頭の流血
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/09 18:46 投稿番号: [1304 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』田中秀雄編集・解説
芙蓉書房
30〜31p
《 連合軍
(国民党以外の軍)
退却開始と同時に恐るべき掠奪暴行の
演ぜらるべきを予想した日本海軍では、二十二日下関すなわち江岸一帯に
在住せる邦人の大部分を駆逐艦桃、檜二隻に収容したが、
これらの避難民の中数名は家財をまとめるために上陸し、
二十三日午前十一時頃、日清汽船会社のハルクに引き返した処を折柄
襲来した革命軍
(国民党軍)
のために、行李その他所持品全部を掠奪された。
二十四日未明に南京に入った
―
そして我領事館に暴虐を逞しくした革命軍の先鋒は、
軍艦桃、檜、濱風の碇泊せる江岸を通過の際に、
その日本軍艦であることは明白なるにかかわらず盛んに射撃を加えたため、
各艦とも数発の小銃弾痕を残した。
同じく八時過ぎにはますますその数を増した革命軍は日清汽船のハルクに殺到し、
鉄条網を引き回し桟橋を取り除きあるにもめげず掠奪を企てたので、
その附近一帯は一時混乱を極め、ハルクに在って防備に努めていた後藤機関兵曹は、
痛ましくも彼らの乱射せる銃弾に仆
(たお)
れた。
そばに居合わせた須藤医院の津田氏が助けてボートに移し手当てしたが、
遂に異域の露と消えた。
これは後日譚であるが、二十六日に日清埠頭の広場で同機関兵の葬儀が営まれ、
各艦長、居留民皆参列し焼香の最中に革命軍の一兵卒は
汚い軍服でヒョロヒョロと式場に乗り込み、歩哨兵の禁止も聞かず
『洋鬼子、ざまを見ろ』 『打倒帝国主義だ』 『ここは俺たちの土地だ、通行は勝手だ』
など口汚く罵りつつ、式場を右往左往し、
参列者を尻目にかけ祭壇の前に立ちはだかって
『洋鬼子』
と叫んだ。
洋鬼子というのは支那人が外国人を罵る言葉である。
あまりの暴状に歩哨兵は彼を捉えて殴りつけ場外に追放した。
ああ、我後藤機関兵曹は、死してなおかつ暴兵に辱められたのである。》
つづく
これは メッセージ 1301 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月2日 蒋介石 和平拒絶を命ず
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/09 18:39 投稿番号: [1303 / 2250]
児島襄著
『日中戦争4』
261p
《 一月二日、外交部長王寵恵が、ドイツ大使トラウトマンから
対日回答の督促をうけていると報告すると、
「日方所授条件等
於征服
與
滅亡我国、與
其屈服而亡、
不如戦敗 而亡之為愈」
(日本側の条件は、わが国を征服して滅亡させるためのものだ。
屈服してほろびるよりは、戦って敗れてほろびたほうがよい)
蒋介石は、大声で、そう、叫ぶと、王部長に命令した。
「応即厳詞拒絶」 (断乎として拒絶せよ) 》
*
日本は、別に、中国を征服して滅亡させるような条件などつけていないのだけど。
自分で勝手に戦争をしかけておきながら、勝手に滅亡の妄想をしている。
日本はただ、早く戦争を止めたいだけなのに。
しかし、蒋介石は、断固拒絶を命じた。
蒋介石は、またしても、和平の拒絶を選んでしまった。
これは メッセージ 1276 (kireigotowadame さん)への返信です.
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Re: 歴史辞典等の記述にみる南京事件
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/08 19:20 投稿番号: [1302 / 2250]
>同社が
中国共産党の手先だとか、反日勢力に加担する
サヨク集団である
とは
到底、思えない。
バカじゃないの。
今の日本は、NHKから各TV局、新聞社、出版社、マスコミ、自民党、民主党、
その他の政党から、日教組、労組、・・・全部反日思想に洗脳されているではないか。
産経新聞だって、時たま、反日思想の者が、桜チャンネルに出てくる。
今や、日本中が反日サヨクに席巻されているのだ。
だから、日本の辞典がそうなっていて当たり前。
そんなものを出して根拠にしても、何の意味も為さない。
ガリレオ時代の公的文書に、地動説はない。
地動説を唱えると処刑される。
君のは、教会の文書を盾に、地動説をトンデモ論と言ってるのと同じ。
でも、嘘は、いつか正される。
まー、永久に恥をかいてろ。
ごく一部の者が真実にめざめて活動しているのだ。
マトリックスに例えるなら、君はプラグをつけて夢の中を現実と思っている者。
我々は、プラグを外した者。
これは メッセージ 1297 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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第二次南京事件2 外国人の被害
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/08 18:47 投稿番号: [1301 / 2250]
児島襄著
『日中戦争1』
文春文庫
66〜67p
《 近くの
「金陵大学」
では、それとわかる掠奪暴行の騒音がつづいているし、
警備のためという中国兵五人は、なんとなく
「物色スル」
風情で館内を
ぶらつき、ときにギロリと日本人をにらむ。
武器を完全に奪われている日本側としては、わずか五人の武装兵でも
〝強敵〟 である。
やがて中国人使用人が帰ってきて、街から
「支那マンジュウ及茶」
を買い求め、
一同はひと息つく心境になった。
聞けば、英米両領事館をはじめ教会、学校、商店、住居など外国人の占有場所は
軒なみに襲撃されたが、中国人については住居も個人も被害は皆無だ、という。
まさしく
「純然タル組織的排外暴動」
だ、と領事たちは理解し、歯がみすると同時に、
そうであればより一層の襲撃も予想されるので、恐怖心が刺戟された。
森岡領事は、暴兵たちが
「日本帝国主義打倒」
と叫んでいたのを思いだして、
日英がとくにねらわれたらしいが英国領事館はどうか、と使用人にたずねた。
「惨状甚シ。領事以下鏖殺
(おうさつ)
セラレタルモノノ如シ」
実際には、英領事館は午前九時すぎから襲われ、医師と港務長が射殺され、
軍艦
『エメラルド』
から派遣されたスペア大尉が右腕、左脚に負傷した。
しかし、領事ジャイルスは、左脚に銃創をうけたうえ、
暴兵に青龍刀で斬首される寸前に中国人将校の制止で救助されている。
米国領事館では、いち早く館員および在留米国人を
「金陵大学」
に避難させていた。
しかし、市内の米人系学校、会社、事務所など無人の建物は、
かえって思いのままに荒らされ、十戸に放火された。
「金陵大学」
でも、副学長 J・ウイリアムスが射殺され、
米国人男女は構内を逃げまどった。
のちに女流文学者として知られるパール・バックは、
夫である宣教師 J・バックとともに友人の中国人女性の小屋にかくれていたが、
そのときの想いを次のように記述している。
「まるで暴風が吹き荒れているようであった……そして、
私は自分が蒔きもしない種を刈り取らされている形であった……
私たちはただ自分たちが白人だというだけでかくれねばならなかった……」》
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』
田中秀雄編集・解説
芙蓉書房
41p
《 さらに欧米人に対して行われた暴虐もまったく同様の手段であった。
英米領事館を始め、欧米人の住宅、店舗が遺憾なきまでに荒らされたのはもとより、
各学校にある欧米人までが一々物色して危害を加えられた。
中にも金陵大学副校長イー・ゼー・ウイリアム博士と、
震旦大学の仏人教師二名は暴兵のために惨殺され、
その中の一人は頭髪から髭、陰毛までも焼かれた上、
大腿部を切断され街頭に遺棄されていた。
このほかに重傷を受けまたは衣服を剥がされたものは数うるにいとまないほどである。
殊に婦人にして凌辱を受けたものも少なからずと言うが、
これらの事実に徴しても、いかに計画的に行われたかが分ると思う。》
註
:
鏖殺
オウサツ
皆殺しのこと
つづく
これは メッセージ 1292 (kireigotowadame さん)への返信です.
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郭岐が明かした略奪者
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/08 18:39 投稿番号: [1300 / 2250]
ラーベは、略奪は日本軍がやっていて、中国人はかわいそうな被害者だと思っていすが、
実は中国人こそが略奪の犯人だったと郭岐は書いています。
それは、松村俊夫著
『「南京虐殺」
への大疑問』
138〜141p にあります。
《 ところで、いささか長文になるが、次に重要な文章を引用する。
これこそが
「略奪」
の真相だったと考えられるからである。
〈 十二月十二日の後、城門は大型の荷車が通行できず、汽船の運行も断絶していたのに、
なぜ上海路ではあのように売買がおこなわれたのだろうか。
また商品はどこから来るのだろうか。これらは
簡単なことであった。
一夜のうちに商品はすべて揃い、選ぶ手間も運ぶ時間も省け、
そのうえどれも使えそうな商品ばかりだった。
一般に生計が苦しく度胸がある難民たちは、
昼は隠れて夜活動するというねずみのような生活をしていた。
夜の間は獣兵は難民区の内外を問わず、活動する勇気がなく、
兵隊の居住する地区を守る衛兵がいるだけで、このときが活動の機会となった。
人々は難民区外の大企業、大店舗、大きな邸宅を好きなだけ物色した。
当時、食品会社には食べ物が、妙機会社には日用品が、絹織物問屋には絹織物があった。
だから一晩動くと翌日には手に入らない物はなく色々なものがすべて揃った。
長い間世に出ることのなかった骨董書画、磁器や、馬桶、たんつぼ、箸、お碗、
小皿、電球までもが揃っていて、一つの家庭を作るのも容易なことだった。
半日もかからずにすべて買いそろえることができ、
しかも価格を勝手に決めることができた。
あるときなど、私は銅貨三枚で茶壷を買ったが、帰り際に売っていた人は
「友よ、持って行けよ!」
とでもいうように笑っていた。
真新しい洋服でも、おそらく二元あれば買え、新品のソファーが三元もしなかったし、
狐の皮の長衣が十数元で、これを着て日本兵に仕えて荷物運びをしている者もいた。
一番良い上等のロシア絨毯が数元もしなかったが、惜しむらくは、
それらの書画や古い磁器が獣兵にも多く買われていたことである。
その中には、世に伝わる名品もあり、長い間、世に出てこなかった物もあったが、
今無造作に道端に並べられていた。ある人が地中から金の碗を二つ掘り出したが、
茶碗のように大きく、表面がとてもきたなかったので、
てっきり鋼製だと思い、上海路に並べて売っていた。
注意深い人が、手で持ってみたところ思ったよりも重量感があったので、
表面を少し力を入れてこすってみると、美しい光沢があったので、金ではないかと疑った。
そこで二角で二つの碗を買い取って、鑑識眼のある人に見てもらうと、
本当に金製であったとのことである。
その他にも骨董品の値打ちが分からずにやたらに買った人は多く、
磁器一つとっても、六朝時代、康煕帝時代のものまで多く含まれていた。
しかし、そのとき盗んで売った者も、買って持っている者も何の罪もとがめられなかった。
ただ金陵女子大の黄女史だけが入り口のところに次のように書いて貼っていた。
「略奪品を買って持ち込むべからず」 と。・・・・〉(②234頁〜235頁)
この文章を読んで、読者は誰が書いたと思ったろうか。
「獣兵」
とあるのは日本兵を意味するのでとまどうかもしれないが、
これは
『資料集②』
に載っている郭岐の手記の一部である。
先に書いたように、彼は南京戦当時、支那軍の指揮官であった。》
注:松村俊夫氏の言う資料集とは、青木書店刊
『南京事件資料集』
の事
②は中国関係資料編
*
「それらの書画や古い磁器が獣兵にも多く買われていた」
つまり、中国人が略奪し売っていた
「書画や古い磁器」
を日本兵が
買ったと言うのです。ところが、善良な日本人はその買った日本兵を
略奪者と見なしています。ひどい話ですね。
これは メッセージ 1290 (kireigotowadame さん)への返信です.
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歴史辞典等の記述にみる南京事件(5)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/08 15:30 投稿番号: [1299 / 2250]
日本で発刊されている主な辞書事典類、歴史専門書などで
南京虐殺事件自体を否定している記述のものは、おそらく
ひとつもないだろう。
いずれも
学術的な書籍だからだ。
純粋な学問とは次元の異なる
イデオロギー、政治思想が
絡んできて、はじめて
「虐殺はウソ」「捏造」
という
否定論が持ち出される隙間が生じてしまう
ということだ。
否定論には、「中国の情報戦略」だとか、反日左翼の策謀
だとか、プロパガンダ
などという、学問とは別な次元の
思想差別や
論者への人格攻撃が
必ず付きまとっている。
しかし、歴史辞典や歴史教科書、公文書類は、特定思想や
政治宣伝に関係して編集されるものではない。したがって
それらの記述は、すべて
南京での虐殺は事実と記される。
日本で採用されている歴史教科書は、すべて
南京事件を
記載しており、あの「作る会」編集の歴史教科書でさえも
例外ではない。
ただし、「作る会」教科書は
「日本軍
によって民衆にも多数の死傷者がでた」という程度でしか
記述していない。
これでは、まるで偶発的に
民間人が
戦闘にまきこまれて
犠牲になった
という印象をうける。
こうした表現は、じつに
不正確なものだ。
「民衆にも多数の死傷者がでた」というのは、南京だけに
限ったことではなく、中国大陸各地で
日本軍が行動した
ほとんど
あらゆる戦場で起こったことで、これだけでは
なぜ「南京事件」が
世界的な非難の的に
なったのかが
理解できないだろう。
南京事件が
なぜ特別の注目を集めるかといえば、それは
戦闘中だけでなく、とくに
戦闘終了後も、捕虜や一般の
市民に対する
殺戮行為が
大規模に、しかも
組織的に
行われた点
なのであり、その肝心の事実を
抜きにして
「民衆にも多数の死傷者がでた」
というだけの叙述では
とても
この事件の本質を
知ることはできない。
完璧な人間など、どこにも
存在しない。
ましてや
成長過程では、誰しもが
失敗を経験する。
若気の至りで他人に迷惑をかけたり
試行錯誤を経て
世間に尊敬されるような人格者に
成長していく。
同様に
はじめから
「完璧な国家」
も存在しない。
あらゆる国家は過去において必ず
間違いを起こした。
悲しいことだが、高度な民主主義社会に到る過程では
避けられない運命であった。
しかし、ここから先が
その国民の
質と未来を
決定する。
過去の過ちを
ひた隠そうとする人間は
品性下劣だ。
その程度は低く、他人(他国民)から
信頼されない。
けれども、自分の過ちに気づき、その間違いを自力で
乗り越えるとき、その人間(国家)には
未来がある。
自己の行為を厳しく点検・反省する一連の苦行により
人間(国家)の質が
高められるばかりか、自浄作業
そのものが、他人(他国)の信頼を
かちとるからだ。
自分の犯した間違いを認めようとせず、自画自賛だけ
繰り返す者は、一見、愛国者に見えて、じつは国民の
質を貶め、日本国の名誉を汚し、国際社会から永遠に
この国を隔離しようとする
売国奴である
と思う。
これは メッセージ 1298 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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歴史辞典等の記述にみる南京事件(4)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/08 15:30 投稿番号: [1298 / 2250]
辞書や百科事典類は、当然
素人が執筆するものではない。
少なくとも
日本で発行されている辞書・事典については
専門知識を有すると社会的に公認される
各分野の権威が
相当の研究成果と学術的根拠に基づいて編纂されるものだ。
たとえば、いま
手元にある『日本の歴史』(中央公論社)
第25巻『太平洋戦争』
の執筆者は、歴史学者の林茂氏だ。
歴史学に
少しでも
縁のある人間ならば、林茂という名は
おそらく
一度ならず
聞いたことはあるはずだが、多分
南京事件否定派の諸氏では
知らない者も多いと思うので
念のため説明すると、林氏(1912年〜1987年)は、
戦前は
東京帝国大を卒業後、京城帝国大助教授、戦後は
東京大学教授などを歴任した
日本を代表する歴史学者だ。
その林氏が執筆した
「南京占領と虐殺事件」
の解説を、
以下に
引用しておこう。
まず
南京事件の前史について
次のように
語っている。
「上海の防禦陣地を破られたあとは、南京までのあいだには
中国の防禦線はなく、日本軍は日に六、七里というスピード
で進撃を続けた。この間、『軍補給点の推進は
師団の追撃
前進に追随するを得ずして、上海付近より南京に至る約百里
の間、殆んど糧秣の補給を受くることなく、殆んど現地物資
のみに依り、追撃を敢行せり』(『第九師団作戦の概要』)
という状態であり、徴発を名とした掠奪が行われた。同時に
『敗残兵狩り』
という名目で、一般民衆にたいする
虐殺・
暴行がくりひろげられ、それはやがて、世界を驚かせた南京
虐殺事件の前史をなしている」
短い文章だが、この作戦に加わった第9師団の作戦記録で
証拠づけをしながら、記述を
すすめているところなどは、
さすがに
歴史学者の筆だ
と思う。
続けて、南京事件の本史について述べた文章を引用しよう。
「南京城に対する攻撃は、十二月十日から開始され、十三
日には日本軍の手中におちた。
国民党政府は漢口に逃げ
のびていた。
そしてその日から、日本兵は捕虜の虐殺を
はじめた。」
このあと、林氏は
当時の旅団長として
攻撃を指揮した
佐々木到一中将の記述を引用しながら敗残兵虐殺の事実を
記述している。
どうやら、南京事件否定派の
定義では、
林氏も
捏造をたれ流す“反日サヨク”の筆頭になりそうだ。
もちろん
同氏は、学者として
事実を記したにすぎない。
記述は、事件の国際的反響をも含め
次のように続いている。
「その後も、みさかいもなく
一般民衆にたいする虐殺が
つづくのであり、十五日の夜だけで
二万人が殺されたと
いわれる。(中略)
このニュースは世界に大々的に報道
されたが、日本人は、戦後の東京裁判で
追求されるまで、
この事件を知らないでいた」(『太平洋戦争』64頁)
これは メッセージ 1297 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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歴史辞典等の記述にみる南京事件(3)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/08 15:28 投稿番号: [1297 / 2250]
平凡社『日本史大事典』第5巻に記述されている南京事件の
項目は、詳細で
かつ
かなり正確な解説なので、抜粋して
以下に
引用しておこう。
【南京虐殺】
「日中戦争で南京占領に際し
日本軍によって
中国軍民に
加えられた大規模な残虐行為。」
「一九三七年(昭和十二)八月、日中戦争は華北から華中に
拡大、日本軍は上海で
中国軍の激しい抗戦に
直面し、
大きな損害を被った。
十一月上旬
ようやく
中国軍を
退却させると、中支那方面軍(軍司令官松井石根大将)は、
指揮下の
上海派遣軍(軍司令官
朝香宮鳩彦王中将)と
第一〇軍(軍司令官
柳川平助中将)を、与えられていた
任務を逸脱して
国民政府の
首都南京に向かって急進撃
させた。」
「上海戦で疲労し、凱旋の期待を裏切られた
日本軍兵士は
自暴自棄となり、補給がともなわず
現地徴発に頼ったこと、
中国侮蔑感情や戦友の仇を討つという郷党意識にとらわれて
いたことなども加わって、南京への進撃途上で
すでに掠奪・
強姦・虐殺・放火などの非行が
常態化する状況となった。」
「十二月十三日、南京占領に際しては、十七日の入場式に備え、
徹底的な掃討を行い、投降兵・捕虜を長江沿岸などで
大量に
処刑し、多数の一般市民を
その巻き添えにし、略奪・強姦・
放火を重ねた。
さらに
十二月二十二日、佐々木到一少将が
城内粛清委員長に就任、中国兵の狩出しと
処刑を続け、
三十八年二月初めに及んだ。」
「犠牲者数については
中国側の公式見解は三十万人とするが、
戦闘行為による戦死者を除き、上海から南京へ
進撃途中から
三十八年二月初めまでの期間をとれば、十数万人から二〇万人
前後に達するとみられる。(以下、省略)」
以上、平凡社版『日本史大事典』からの引用だが、南京虐殺を
事実という者に対し、「腐れサヨク」や
「反日・親中国」、
あるいは
「共産主義者の回し者」の類だ、と
悪罵を吐く
ウヨにかかれば、平凡社も
その類に
されてしまうだろう。
だが、同社が
中国共産党の手先だとか、反日勢力に加担する
サヨク集団である
とは
到底、思えない。
平凡社にかぎらず、日本国内の
主要な出版社が
発行する
歴史辞典・百科事典の類は、いずれも
学術的に
証明され、
信用に足る記録と情報に基づいて
編纂されているのだ。
これは メッセージ 1296 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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歴史辞典等の記述にみる南京事件(2)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/08 15:27 投稿番号: [1296 / 2250]
日本の歴史事典や百科辞典類で、南京大虐殺事件を否定
または
存疑として
記述しているものは、なかなか
見つけられない。
国内の歴史教科書にも
事件自体に疑いを差し挟んでいるものは
例の「作る会」教科書も含め、おそらく
一つもないと思われる。
南京大虐殺否定論は、右翼たちが、学術的には見向きもされない
根拠のない主張を
勝手に言い立てているだけ
にすぎない。
日本でも
公の場では全く認められていない、アングラ的言説に
過ぎないのだが、このアングラ説に
とびついた漫画(ゴー宣)や
いわゆる「トンデモ本」
とよばれる
カルト本などのせいで、
そういうものしか読まないような者は、こちらが
真説なのだと
思い込んでしまう傾向があるらしい。
何とも仕方のないことだ。
そんなレベルの人間でも理解しやすい
子供向け学習事典もある。
たとえば、ネットで検索する百科事典の解説を
引用してみよう。
以下、『学研の学習百科事典
学研キッズネット』
の解説文だ。
ナンキンぎゃくさつじけん【南京虐殺事件】
「日中戦争(せんそう)中の1937(昭和12)年12月、中華民国
(ちゅうかみんこく)の首都
南京占領
(ナンキンせんりょう)
前後に日本軍(ぐん)がひきおこした
投降兵(とうこうへい)・
一般住民(いっぱんじゅうみん)を
殺害(さつがい)した事件。
南京大虐殺
(ナンキンだいぎゃくさつ)ともいう。」
「日本軍が
殺害(さつがい)した
中国人の
人数については
数万から30万までの諸説(しょせつ)があるが、この事件は
中国民衆(みんしゅう)の
怒(いか)りを
高め、国民政府
(こくみんせいふ)は
武漢(ウーハン)に
うつって
抗戦
(こうせん)を
つづけた。」
ひら仮名がふってあるので、否定派諸氏でも
読めるだろう。
否定派諸氏なら、学研は反日サヨクが牛耳っている出版社だと
言い出すかもしれないが、おそらく
そうではなく、学問的に
すでに定説となっている事実を
書いているだけであると思う。
図書館などに足を運ばない諸氏には、電子書籍もお奨めしたい。
マイクロソフト社の電子百科事典『エンカルタ百科事典』では
以下のように
解説している。
南京大虐殺
ナンキンだいぎゃくさつ
「日中戦争で日本軍が南京で中国人に対しておこなった無差別の
大量虐殺事件。(中略)軍人・捕虜・一般市民など、虐殺された
中国人は
数万人とする説から
43万人とする説まであるが、
少なくとも20万人以上であったと推定されている。」
「12月13日に南京を占領した際に、多数の捕虜を不法に虐殺。
その後数週間にわたって、南京城内外で敗 残兵狩りや、一般市民
に対する略奪・強姦・放火・虐殺をくりかえした。 この日本軍に
よる蛮行は
アメリカなど世界中で
報道されたが、日本国民には
知らされず、第2次世界大戦後の
東京裁判(極東国際軍事裁判)で
はじめて明らかにされた。(以下、略)」
これは メッセージ 1295 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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歴史辞典等の記述にみる南京事件(1)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/08 15:25 投稿番号: [1295 / 2250]
国際的には
疑いのない歴史的事実として
認識されているが、
日本国内の
一部では、70年代頃から
中国側の捏造だとか、
あるいは
投降兵の殺害行為は
正当な行為であった
などと
否定派や正当化論者が
主張を繰り返しており、教科書の記載
問題などをめぐり、しばしば
社会的に
注目を浴びている。
国内の書店にも
「南京大虐殺はなかった」、「外国人の捏造」、
「情報戦による謀略」、「反日プロパガンダ」、「自虐史観」など
文言を書き連ねた
事件否定論を流布する
“トンデモ本”が
並んでいる。
来日した外国人
留学生などが
心底から驚き、
これが日本社会の共通認識なのかと疑いを持つのも当然だろう。
実際には、大虐殺否定論は
一般に
受け入れられてはいない。
少なくとも
日本で刊行される辞書・事典などには、否定論や
正当化論に基づく
解説などは、まったく
見当たらず、当然
政府や
自治体の公的文書、刊行物にも取り上げられていない。
学術・学問的には、歯牙にもかけられていない
ということだ。
『山川
世界史小辞典(改訂新版)』(04年
山川出版社)は、
230名の専門家が
最新の研究成果を取り入れて
執筆した
約9,400項目を収録し、世界史を学習するうえで
必携書
といえる
権威ある歴史辞典の一つだが、その497ページに
掲載されている「南京事件」の項目は、次のように記している。
「①1927年3月24日、南京で起きた
暴動に端を発した
国際的事件(省略)」
「②〔1937〕
南京大虐殺
ともいう。
日中戦争初期に
中国国民政府の首都
南京を攻略した
日本軍が、中国軍民に
対して
大規模な
残虐行為を行った事件。」
「1937年
12月13日に
南京を占領した
日本軍は、
住民を
巻き込んだ
包囲殲滅戦、残敵掃蕩戦を
展開した。
この時、すでに
戦闘部隊の体をなさず、戦意を
喪失した
膨大な数の投降兵、敗残兵、捕虜、負傷兵を、戦時国際法に
違反して
処刑、殺害した。」
「日本軍の軍事占領は翌3月まで続き、この間に
敗残兵狩り、
便衣兵(私服になった兵士)狩りを行い、兵士の嫌疑をかけた
成年男子市民も
殺害した。」
「中国女性の強姦、食物や物資の略奪、人家の放火・破壊など
軍紀の乱れによる
不法行為も多発した。」
「南京城内とその周辺
さらに付近の農村を含めて
十数万の
中国軍民が
犠牲になった
と推測されている。」
以上が、『山川
世界史小辞典(改訂新版)』からの引用文だが
どこを
見ても、「〜というウソ」、「これは中国人の作り話」、
「共産主義者のプロパガンダ」などといった解説は
ひと言も
付記されてはいない。
否定論者諸氏は、この辞典を執筆した
学者先生は反日サヨクに違いない
という妄想を
吐くしかない。
これは メッセージ 1284 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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東中野がどうしたって?
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/07 20:35 投稿番号: [1294 / 2250]
くそみたいな文、一々読んでないが、彼の代わりに言っておこう。
「オマエに言われたくない」
だな。
まー、人間、ミスもする。
読んでないから、それがミスかどうか知らないが、どうでもいい。
お前の引用している、証拠の杜撰さに比べれば、一万倍、いや一億倍はまともだろう。
終り
これは メッセージ 1284 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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Re: 虐殺事件を否定しない日本の辞典
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/07 19:35 投稿番号: [1293 / 2250]
くだらん
辞書に書いてあれば真実か?
支那事変の最初から、欧米は、中国に加担していた。
中国が戦争を仕掛け、日本がやむなく応戦している事実を知りながら、
中国の言う
「日本が侵略している」
という嘘の訴えを採用し、日本叩きに利用した。
中国軍を裏から指揮していたのはドイツ軍将校だった。
上海爆撃を指揮したのは、元米軍のシェノールト。
中国が上海攻撃を始めるとソ連は中国と条約を結んで、
大量の武器や飛行機、パイロットや資金を送り込み、中国を援けた。
英国は上海で中国軍に武器や食料を与え、租界を利用させた。
米国は、日本を伝染病になぞらえ、隔離せよと宣言した。
汪精衛 (兆銘)
が重慶から出てきて、和平の話をしようとしたとき、米国は妨害した。
《 汪精衛の側近だった胡蘭成氏によると、
「汪精衛が重慶を出るとき蒋介石と話をつけていた」そうだ。
「建前として蒋介石が抗戦を担当し、汪精衛が講和を担当する。
うまく行けば講和に移ると。
汪精衛は東京で話を聞いてから上海に帰り、蒋介石に打電した。
『これで私の役目は終わった、本番は貴方に頼む』
と。
ところが、この時、既に事情が異なっていた。
米国が中国に“軍事物資の援助をするから”と言って蒋介石に講和を止めさせた。
結果、汪精衛は裏切り者にされたと。》
(胡蘭成著『日本及び日本人に寄せる』日月書店
昭和54年1月発行より要約引用)
米国は、中国には、講和に応ずるなとやっていた。
日本には、戦争をやめろと言うくせに。
戦争を仕掛けている中国がやめないのに、仕掛けられている日本がどうやって止められる。
後ろを向いたら攻撃されるのだ。
盧溝橋事件の時も、引き上げようとしたら、攻撃された。
停戦協定結んで、安心していると攻撃された。
だから、戦争が終わらないのだ。
英米が日本の手の届かないビルマなどから、軍事物資を送る為、中国は戦争を止めない。
日本としては、中国に戦争を止めさせるには、援蒋ルートを断つしかない。
そこで、北部仏印に進駐すると米国は、屑鉄の輸出をとめ、
中国に資金を送り、飛行機やパイロットを送り、義勇軍を編成させた。
日本が南部仏印に進駐すると、石油を止め、ABCD包囲網を敷き、
ハワイに艦隊を終結させ、カムラン湾にオトリ船を游弋させ、
経済交渉ではハルノートを突き付けて、日本からの一撃を待った。
こういう連中の書く事が公平か。
戦後の日本の言論界は、東京裁判史観に洗脳されている。
最初は本当の戦争を知る者がいたが、その人たちが亡くなっていくにつれ、
虚構の歴史が幅を利かせるようになった。
ただそれだけだよ。
これは メッセージ 1284 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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第二次南京事件1 領事館襲撃2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/07 18:52 投稿番号: [1292 / 2250]
児島襄著
『日中戦争1』
文春文庫
63〜65p
《 暴兵と暴民は、荒れ狂った。
事務所、職員宿舎、使用人室、物置きその他、館内の隅々まで先きをあらそって
走りこみ、トランクをあけ、戸棚をこわして物品を略奪した。
男女の別なく、衣服を奪われ、財布、時計、指環は例外なく奪取されたほか、
次々に服をぬがされて身体検査までされた。
女性の場合は、帯、タビはむろんのこと下着までぬがされて
「忍ブベカラザル」
検査さえ、実施された。
「強姦ノ事実ナシ。尤モ、二
(ふたり)
ノ婦人ニシテ
強姦予備行為トモ 思ハルベキ所作ヲ 受ケタルモノアリ」
とは、後日の森岡領事の報告であるが、かりに
「強姦ノ事実」
はなくても、
女性たちは、一人の暴兵が去ればまた次の暴兵……と、
くり返してハダカにされては
「検査」
されるのである。
女性の叫喚、悲鳴、子供の泣き声が暴兵の罵声と掠奪の騒音をさいてひびき、
日本人男性たちの胸をついた。
荒木大尉と水兵たちも、あまりの無念さに気失寸前の状態となったが、
ともかくも館内にいる邦人のうち五十二人が子供であり、
うち十二人が乳児なので、その安全のために我慢をつづけた。
暴兵と暴民は、その子供たちからもオモチャを奪い、靴をむしりとり、
フトン、家具、調度品などとともに馬車、トラックではこび出した。
領事森岡正平の病室にも暴兵が乱入し、室内の品を奪ったあと、
領事のフトン、寝間着もはいで行った。
一人の暴兵が領事めがけて威嚇射撃をおこない、居あわせた邦人数人が逃げ、
領事のほかに夫人、木村三畩署長、根本博少佐の三人が残った。
「外ニ出ヨウ」
領事がベランダに出たとたんに、一人の暴兵が走りこんできて、
木村署長は左胸を銃剣で刺されて階下に逃げ、根本少佐は後続した二人の暴兵に
左腹部、左臀部を刺され、ベランダの下の貯水槽に転落した。
暴兵たちは、ひとわたり館内を荒らしまわると、事務所の大金庫に関心を集中した。
銃床でたたいたり、鉄棒でこじあけようとするが、あかない。
発砲してもダメなので、館員、邦人の誰れ彼れとなく鍵の所在を質問したが、
成果は得られず、次第に興奮度を高めた。
領事夫妻は、ベランダにいたが、裏庭に避難した邦人たちが、
暴兵が車庫からガソリンを持ちだして放火しようとしている旨を告げた。
領事は夫人にたすけられて階下におり、館員の一人が秘匿していた大金庫の鍵を
炊事場の煙突の破口に投げこんで、一同と合流した。
根本少佐ら負傷者は流血のまま横たわり、文字どおりに身ぐるみはがれた男女が、
ただ子供たちを抱きしめて恐怖する様子は、悲惨であった。
暴兵は、なおも一同にせまり、交互に銃剣をつきつけては大金庫の鍵を要求しつづけた。
午前十時半ごろ、ようやく一人の中国軍将校があらわれ、
暴兵を叱咤し殴打して、暴行を制止した。》
69p
《「…金物という金物はドアのハンドルにいたるまで取り外し、窓枠の木材、ガラス、
床板すべてが持ち去られ…」
とは4月末に領事館を訪ねた佐々木到一中佐の記録》
*
女性に対する
「身体検査」
とは強姦の事実を隠す “外交辞令” で、
実際には27人に輪姦された婦人もいたとの話もあります。
これは メッセージ 1291 (kireigotowadame さん)への返信です.
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第二次南京事件1 領事館襲撃1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/07 18:43 投稿番号: [1291 / 2250]
昭和元年 (1926年) 蒋介石は、他の軍閥を倒して中国を統一する為、
北伐を開始しました。そして昭和2年3月24日、国民党軍は南京に入ります。
ここで、暴虐事件が発生しました。
児島襄著
『日中戦争1』
文春文庫
61〜63p
《 領事森岡正平は、国民革命軍が入城した以上は
「十中八九危険ハ去リタ」
と判断し
・・・中国側を刺激しないようにすべきだ、と考え、荒木大尉に〝武装〟 撤去を求めた。
大尉は承知して、土のう、機銃を撤去して、正門も開いた。
午前七時ごろ、約三十人の国民革命軍兵士が訪ね、敗兵の所在を訊ねたが、
不在という返事をきくと黙って退去した。
日本人一同がますます安心していると、
約三十分後、こんどは五十人ほどの兵士が
「疾風ノ如ク」
領事館事務所に乱入して、
警察署長木村三畩の所持品を奪い、左腕に貫通銃創をおわせた。
同時に、居合せた陸軍武官根本博少佐も腰を銃床でなぐられ、
署長と少佐は領事の病室に避難した。
二人が逃げると呼笛が吹き鳴らされ、すかさず平服の女性と青年を先頭にした
兵士約二百人が、喚声をあげて領事館内になだれこんだ。
掠奪品運搬のためか、トラック、馬車、人力車までが続行した。
乱入者は、意味のない叫声やかけ声のほかに、スローガンも唱えていた。
「日英帝国主義打倒!」
「華俄(中ソ)一家!」
あるいは、中国人から奪った日本人の財産をとりもどせ、という意味の声もきこえた。
もっとも、それらスローガンの叫びは、少数の指導者のものらしく、乱入者の大部は、
金をだせ、かくすと殺すぞ、といった表現をくり返しては、館内をわれがちに物色した。
領事森岡正平は、荒木大尉を自室に呼んで頼んだ。
「気ノ毒乍ラ
各兵ノ階級章
及帽子ノ如キ標識ヲ
一時取り去ラレ度」
領事の報告によれば、荒木海軍大尉と水兵十人は官邸北側の
「ボーイ」
室に
退避していたが、館内の避難邦人の間から、大尉たちの軍装が中国側を
刺戟
(しげき)
する恐れがある、との意見が出たので、
領事も
「右ハ不得己
(やむをえざ)
ル要求」
と判断して、大尉に要請した、という。
荒木大尉は、血相を変えた。
国家と国民を外敵から守るのが、軍人の本務である。
いまや、準日本領土である領事館と日本国民がおそわれている。
それなのに、戦うな、というだけでなく、軍装も解け、と領事は、いう。
軍人が軍装を解かれるのは、退官の場合を除けば、 「敵ノ軍門ニ下ル」
か、
犯罪行為により軍籍を剥奪されるとき以外にはない。
一戦もこころみずにそのような
「恭順」
姿勢を示すのは、
軍人としてはあまりにも不名誉である。
いや、その種の
「度ヲ過ゴシタル無抵抗主義」
は、相手の自制心をさそうどころか、
かえって増長心を刺戟して暴行を激化させるのではないか……。
荒木大尉は、しかし、 「在留民ノ生命ガ
風前ノ灯火ニモ
比スベキ時」
だから、と
病床に深々と頭をたれる領事を凝視すると、とっさに承知した。》
つづく
これは メッセージ 1278 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月2日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/07 18:36 投稿番号: [1290 / 2250]
一月二日
《本部の隣の家に日本兵が何人も押し入り、
女の人たちが塀を越えてわれわれのところへ逃げてきた。
クレーガーは、防空壕の上からひらりと塀をとび越えた。
塀はひじょうに高いのだが、警官がひとり手伝ってくれたので、
私もあとを追おうとした。ところが二人ともバランスを崩して落ちてしまった。
さいわいかなり太い竹の上だったので、竹が折れただけで、けがをせずにすんだ。
その間にクレーガーは兵たちをとっつかまえた。やつらはあわてふためいて
逃げていった。ただちょっと様子を見にきただけだというのだ!
十日前、銃剣でのどを突かれた近所の奥さんを鼓楼病院に運んだが、
今日ようやく退院が許された。入院費は一日当たり八十セント。
お金がないというので、私がかわりに払った。
日本軍の略奪につぐ略奪で、中国人は貧乏のどん底だ。
自治委員会の集会がきのう、鼓楼病院で開かれた。演説者が協力ということばを
口にしているそばから、病院の左右両側で家が数軒焼けた。軍の放火だ。
自治委員会の代表でありかつ紅卍字会のメンバー、孫氏がもったいぶって私にいった。
「ある重要な件につき、近いうちにお話ししたいのですが」
どうぞどうぞ!
とっくに心づもりはできている。お宅たちがなにを狙ってるのかなんざ、お見通しだよ!
安全区の通りは、あいかわらず見渡すかぎりの人の海だ。
何千というおびただしい人々が道ばたにたたずんでいる。
値段の交渉をしている人もある。
道路の両側には行商人が鈴なりになって、食料品、タバコ、古い衣服を売っている。
だれもが日本の腕章や国旗をつけてとび回っている。
横町や道路の間の空き地には、藁小屋が所せましと建ち並び、難民村ができている。
わが家と同じ光景だ。うちの庭には、もはや草一本生えていない。
美しかった生け垣もあっという間に踏みつぶされ、見る影もなくなった。
なにしろ大人数だ、しかたあるまい。なによりまず生きることが先決なのだ!
昨夜、またしても日本兵の乱暴があいついだ。
スマイスが書きとめ、いつものように抗議書として日本大使館に提出した。
我々がひそかにおそれていたことがついに起こった。中国の爆撃機がやってきたのだ。
といったからといって、けっして友人としてではない。敵としてだ!
かつての日本軍のように、時間どおりに爆弾を落としていく。
だが、いままでのところ、幸いなことにたいていは同じ場所、
つまり南の飛行場かその近くに限られている。
日本の防空部隊が姿を現したが、人数も少なく、いとも手薄だった。
空襲がこのまま安全区の外にとどまるかどうかは、あとになってみないとわからない。
だが、そうであってほしい。
さもないと、いままでよりもっと悲惨なことになるかもしれないのだ。
いまの安全区の混み具合ときたら、日中は上海よりすごい。
そんなところに一発爆弾が落ちたが最後、ものすごい数の人命が失われるのだ。
そう思っただけでぞっとする。》
*
「日本軍の略奪につぐ略奪」・・・「軍の放火だ。」・・・「道路の両側には
行商人が鈴なりになって、食料品、タバコ、古い衣服を売っている。」
とラーベは言っているが、おかしいと思わないのだろうか。
その商人はどこから品物を仕入れたのか?実は、彼らこそが略奪の犯人で
証拠隠滅のために放火しているとは考えられないのか?
これは メッセージ 1273 (kireigotowadame さん)への返信です.
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◆虐殺事件が否定される当然の理由⑤
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/07 00:44 投稿番号: [1289 / 2250]
当時の国民党や八路軍の連中がどれだけ酷いことをしてきたか。
ニューヨーク・タイムズのダーディン記者が、当時の様子を「支那軍による焼き払いの狂宴」と題して次のようにレポートしています。
「昭和12(1937)年12月7日、日本軍が句容を越えて進撃し始めたことが支那軍による焼き払いの狂宴の合図となった。
南京に向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。
村ぐるみ焼き払われたのである。
農業研究書、警察学校その他多数の施設が灰塵に帰した。
火の手は南門周辺地区と下関(シャーカン)にも向けられた。
支那軍による焼き払いの損害は優に3000万ドルにも及ぶ。
これは日本軍の何ヶ月にもわたって行われた空襲による損害よりも大きい。」
そしてこの12月7日に、蒋介石や馬超俊市長は、自分たちだけさっさと飛行機で逃亡しているのです。
つまり、蒋介石や馬超俊市長は、それまで南京を国民党の本拠地としていながら、日本軍が近づいたと知るや否や、20万の市民と約5万の敗残兵を置き去りにして、そくさくと逃亡している。
あまりにも無責任です。
一方、南京攻略をした松井軍司令官は、攻城戦に際して、南京市内の安全区に対する砲爆撃を厳禁し、占領翌日の14日には、安全区の出入り口全てに歩哨を立てて許可のない者の入区を禁止して庇護してもいます。
実際、14日に安全区の視察のため入区しようと思ったが、歩哨に峻拒(しゅんきょ)されて果たせなかったという東京裁判の供述もある。それほど厳しく安全区内への出入りを管理していたのです。
金陵大学病院医師マッカラム氏は、東京裁判に提出した日記の中で次のように述べている。
「(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。
若干のたいへん愉快な日本兵がいました。
私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました」
日本人を憎悪していたマギー牧師でさえ
「安全区は難民の“天国”だったかも知れない」とさえ述べている。
安全区国際委員会の書記長スマイス博士(米)も、その調査報告書の中で「住民のほとんどはここに集まっていた。難民区内は一件の火災もなく平穏であった」と述べている。
それほどまでに日本軍は、市街地の統制をきちんと取り計らっていたのです。
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◆虐殺事件が否定される当然の理由④
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/07 00:44 投稿番号: [1288 / 2250]
南京に従軍した村田和志郎氏(第18師団歩124歩兵伍長)の日記に、こんな記載がある。
<引用>
湖州は浙江省の首都、呉興県政府の所在地。
城壁をはいると家屋は焼けて一面の焼け野原となり、殆ど瓦礫の巷と化していた。
とくに商店街は影も形もなく、処々に多数の支那兵の死骸が生々しい姿で倒れ転がっていた。誠に見るも無残な有様であった。
街には人影がみられない。
それでもどこからか若い女が三人でてきた。
我々の姿を見ると、彼女らは我々をぽつんと残った唯一の焼け残りの小屋へ招きいれ、いち早くズボンを脱ぐと、進んで下半身を丸出しにした。
助けてくれと一心にわれわれを拝んだ。
我々は三名で巡察の途中で思いかけぬ出来事に遭遇してしまった。
一人は娘、残る二人は人妻らしい体つきだった。
自分達は彼女らをそっとして置いてやった。
それでも恐怖に怯え、彼女ら三人はおののいて、脱いだ紺色のズボンを容易に身につけようとしなかった。
体を提供しても生命さえ助けてもらえれば、これに越したことはないと観念していたかに見えた。
また、ある民家では中年の女性が寝てうめいており、下半身を露出して指さして示し、何かわからぬ言葉を喋っていた。
支那兵は逃亡の際、この女性に迫り、拒絶されると腹を立て、銃剣を一突きにそこに突き刺したに違いなかった。
夥しい出血で苦しんで訴えている。
すぐに治安維持会(既に結成されていた中国人の自治組織)に連絡して看護員を連れてきた。さて助かったかどうか。
このようにして略奪と暴行のあとを見せつけられた。
<引用終わり>
当時の支那には、政府がありません。
清が滅びて、地方軍閥による内乱状態にあった。
内乱状態の中で、被害を受けるのは、決まって武器を持たない一般市民です。
そして武器を持った支那の軍閥の代表格が国民党だった。
彼らは、支那の都市を襲い、市民に対して好き放題の乱暴狼藉を働いていた。
日本は行きがかり上、やむなく、彼らを追い払っていたのです。そしてそのひとつが、南京だった。
南京市は、乱暴狼藉軍団である国民党が、勝手に乱入して本拠地にしていたから、日本は叩いたのです。
そして市民の生活に平安を取り戻した。
なかには、市民にまぎれて、日本軍に悪さをしかける国民党のスパイや、共産党のスパイがいた。
こうした連中は、市民の協力を得て、日本軍は逮捕し、国際法上適法な範囲で軍紀に照らして処罰した。そういう連中は治安維持のために殺害した。これは当然のことです。
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◆虐殺事件が否定される当然の理由③
投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/07 00:43 投稿番号: [1287 / 2250]
だいたい、戦いの最中にドンパチやりながら、「使用弾薬何発。残り弾薬数何発」と、何度も伝令を出して司令部に報告を入れなければならないのが日本の軍隊です。
それだけ日本軍は物資に乏しかった。
そのあたり、使っている武器にも、その性格がよく出ています。
日本軍の主力銃は、三八指揮歩兵銃です。
この銃は、いわゆる元込め式の単発銃です。
弾を一発一発込めて、装填してから撃つ。
いわゆる「乱射」や「集団虐殺」のようなこと自体、なじまないのです。
ハナからそういうことを想定した銃ではない。
だいたい単発銃で、30万人をいったいどうやって殺すのか。
30万人に、1発ずつ銃弾を撃ち込んで殺すとしても、それには30万発の弾薬がいります。
そんな弾薬、日本軍は持っていません。
機関銃で殺したに違いない?!
バカなことを!
当時の日本軍の機関銃は、米国製の1秒間に何発という高性能機関銃ではない。
パン・・・パン・・・パン・・・と断続的に撃つのが精いっぱい。1分間に打てる弾はおおむね40発。しかも5分も撃ったら過熱して、砲身を冷やさないと、焼き付いた。
お暇な方は計算してみてください。それで30万人殺すには、いったい何日かかるのか。
かつてそのことを指摘した人がいます。
そしたら支那いわく「日本兵は日本刀で、何万人も斬り殺した」
バカをいっちゃぁいけません。日本刀はたしかに切れ味鋭いけれど、3人も斬ったら、脂にまみれて斬れなくなる。人間の体というのは、脂にまみれて斬れなくなった刀でも通せるほどヤワじゃないです。
加えて、当時のシナ人の便服というのは、めちゃめちゃ生地が厚い。銃剣で突き刺そうとしても、素人では刃が立たなかったというのも、有名な話です。
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