侵略国日本は国際社会の前科者
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中国政府はすべてをでっち上げる
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/14 22:49 投稿番号: [8155 / 8458]
中国政府は自分たちが自国民を6500万人殺しておきながら、その大半を日本軍がやったことにしている。
南京で30万人虐殺を日本軍がやったとでっち上げる。
上海事変で自分たちが上海を空爆しておきながら日本軍がやったことにしている。
おまけに本多勝一は彼の著書「中国の旅」に通州事件の虐殺写真を載せて日本軍が南京大虐殺をやったと説いてまわった。
この本多勝一は「南京大虐殺のでっち上げ」に貢献したとして、中国政府から表彰されている。
その通州事件の虐殺写真とは以下の写真のことである。
「守備隊の東門を出ると、数間ごとに居留民男女の死体が横たわっていた。某飲食店では、一家ことごとく首と両手を切断され、婦人は十四、五歳以上は全部強姦されていた。旭軒という飲食店に入ると、七、八名の女が全部裸体にされ、強姦射刺殺され、陰部に箒を押し込んである者、口中に砂を入れてある者、腹部を縦に断ち割ってある者など見るに堪えなかった。東門の近くの池では、首を電線で縛り、両手を合わせて、それに八番線を通し、一家六名数珠つなぎにして引き廻した形跡歴然たる死体が浮かんで居り、池の水は真っ赤になっていた。夜半まで生存者の収容に当たり、『日本人はいないか』と叫んで各戸ごとに調査すると、鼻に牛の如く針金を通された子供、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦などが、そこそこの塵箱の中やら塀の陰から出て来た」(朝日新聞法廷記者団『東京裁判』昭和三十八年・中巻30ページ)
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Re: 侵略国日本は国際社会の前科者
投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/03/14 22:49 投稿番号: [8154 / 8458]
東日本大震災:石原知事「津波は天罰」
東京都の石原慎太郎知事は14日、東日本大震災に関連し「この津波をうまく利用してだね(日本人の)『我欲』を一回洗い落とす必要がある。積年たまった日本人の心のあかをね。これはやっぱり天罰だと思う」と発言した。蓮舫節電啓発担当相から節電への協力要請を東京都内で受けた後、記者団に語った。
その発言直後に石原氏は「被災者の方々、かわいそうですよ」と付け加えたが、「天罰」と表現したことが被災者や国民の神経を逆なでするのは確実だ。
石原氏は「天罰」発言の前段として「去年1番ショックだったのは、おじいさんが30年前に死んだのを隠して年金詐取する、こんな国民は世界中に日本人しかいない」と述べていた。【青木純】
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中国共産党は自国民6500万人を殺した
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/14 21:30 投稿番号: [8153 / 8458]
世界最大の殺人者毛沢東を神として崇め奉る異常な国。
世界で唯一の人食い文化を持つ巨大な人食い人種の国。
平成9年(1997)にフランスで刊行された「共産主義黒書」は、共産主義の犯罪を厳しく検証しています。編者ステファン・クルトワによると、共産主義による犠牲者は、8,000万人から1億人にのぼるとされます。この数字は、ヒトラー・ナチズムによる犠牲者数とされる2,500万人を軽く上回ります。本書は、恵雅堂出版から今年中には翻訳が刊行される予定と聞きます。
クルトワは同書において、共産主義体制により殺害された犠牲者数の国・地域別の一覧を提示しています。それによると、
ソ連
2,000万人
中国
6,500万人
ベトナム
100万人
北朝鮮
200万人
カンボジア
200万人
東欧
100万人
ラテンアメリカ
15万人
アフリカ
170万人
アフガニスタン
150万人
コミンテルンと権力を握っていない共産党約1万人
----------------------------------
総計
約1億人
となっています。
◆中国の場合
毛沢東は、1957年2月27日、「49年から54年までの間に80万人を処刑した」と自ら述べています。(ザ・ワールド・アルマナック1975年版)。周恩来は、同年6月、全国人民代表大会報告で、1949年以来「反革命」の罪で逮捕された者のうち、16%にあたる83万人を処刑したと報告しています。また、42%が労働改造所(労改、強制収容所)に送られ、32%が監視下に置かれたと述べています。
毛沢東は、その後もさまざまな権力闘争や失政を続けましたが、丁抒らの研究によると、大躍進運動と文化大革命によって、2,000万人が死に追いやられたとされています。
「共産主義黒書」では、ジャン・ルイ・マルゴランが、ほぼ信頼できる数値として、内戦期を除いた犠牲者の数を、次のように総括的に提示しています。
・体制によって暴力的に死に至らしめられた人
700万〜1,000万人(うち数十万人はチベット人)
・「反革命派」としてラーゲリに収容され、そこで死亡した人
約2,000万人
・1959〜61年の「大躍進期」に餓死した人
2,000ないし4,300万人
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Re: 侵略国日本は国際社会の前科者
投稿者: metamorphosis5 投稿日時: 2011/03/13 10:53 投稿番号: [8152 / 8458]
陸の方からなかなか近づけない沿岸部には海の方からが作業がはかどれる。
また大型空母には手術室をはじめ医療設備が整っているからな
CMLの馬鹿サヨども。
今は猫の手も借りたいんだからむしろ喜ぶべきだろうが!
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何度も言う「中国人は人食い人種である」
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/13 07:58 投稿番号: [8151 / 8458]
この記事は世界史上、最新の人食い記事である。
文革時代の食人について書かれた「食人宴席」には
「武宣県では、食人事件が流行にさえなった。街頭引き回しデモ闘争があるたびに、老婆たちはかごを下げて、糾弾大会の終わるのをじっと待っていた。人間が殺害されると死体に競って群がり、なるべくいい人肉を切り取って持っていく。遅れてきた者は人肉を切り取れないので、骨まで持っていく。人肉を食べた者は幹部の中でも少なくなかった。
略)
もっとも残虐な食人事件は、生きているままで腹を裂き、まだ息絶え絶えなのに肉一切れ一切れを削ぎ落とし、その人肉を油で揚げて食べるということだろう。」P六二〜六三
「陳は最初、腹を裂き、肝を取り出すことができなかった。どういうふうに手を下せばよいかを知らなかったのだが、そのとき、一人の年寄りが彼に人肉と肝を切り取る要領を教えたという。腹部に向かって『人』の字の形で切り、足で力強く下腹部を踏めば、心臓と肝臓がすぐとび出て来るということを教えたのだった。つまり、これは、腹を裂き、心臓をえぐり取る技術がすでに存在していたことがわかる。」P八〇
「一九六八年七月一日夜八時、
略
黄副校長の人肉は、人間の教育と人材を育成する場所で、すっかり削ぎ取って持ち去られ、最後は人骨しか残らなかったという。まことに恐ろしい光景が出現したのであった。
略)
やがて、人肉削ぎが始まり、だれが最初に切ったのか、諸説紛々いろんな説があるが、大多数の証言によると、当時、女子学生の紅衛兵・覃柳芳が最初に人肉を削いだようだ。彼女は、黄副校長の息子と恋愛関係にあり、彼女は自分の立場をはっきりさせるために、人肉を取る行動に走ったらしい。
彼女はもう一人の学生の名前を告白した。黄佩農である。彼は、最初に肝を切り取ったのだった。
略)
彼女の証言によると、自分と甘票英らが見たところでは、黄佩農は肝を下げて、近くの田んぼまで行って、水で洗い、その後、肝を炊事場まで持っていったようだという。また多くのクラスメートも同じく人肉を切り取って、食堂まで走っていったという。
略)
この日の桐嶺中学は、人肉料理をつくるのに忙しく、賑やかな光景が見られた。
厨房で人肉を煮たり、教員宿舎で人肉を煮たり、女子学生宿舎でも人肉料理をつくっている。教室の廊下で人肉を焼いたり、校内で人肉を焼いたり、臨時的につくられた二つのレンガの上に瓦をのせたかまど、自家制作の即席かまどで人肉を焼いているのが目撃されたのである。
政府側の資料でさえ、こう書いている。
『七月二日、桐嶺中学校の厨房のまわり、宿舎の縁の下など、人の肝、人の肉を焼く状況は、いたるところで見られた。いたるところが血だらけで、臭気が、なまぐさい匂いが漂い、煙がもうもうと出て、焦げた匂いが充満し、恐ろしい状況が人の度肝を抜いた』
略)
人肉を食うことができなかったのは、四人の黒いグループと言われた教師だけである。教師達は、たった二つの小さな竹かごに黄副校長の遺骨を入れ、牛の骨を担ぐように集めて埋葬した。
略)
・ ・・七月二日午後五時、われわれ四人が呼ばれ、遺骨収集に行った。黄副校長の遺骨は運動場近くのかわやの側に置いてあったので、二つの竹かごだけでそれを全部入れた。頭は殴られ、真っ黒にはれ上がり、大腿骨とすね、そして手の肉は全部、切り取られ、肝、心臓、性器もすべてとられ、胸部は空っぼで、はらわたも流れ出していた。」P一〇一〜一〇六
「文革期間に、武宣県で殺され、迫害によって死んだ人間は五二四人。そのうち、食われた者は百数十人。最終的に裁判で有罪判決となった者は三十四人。刑期がもっとも長かったのは十四年、最短二年。一般的には七〜十年の刑であった。
ただ民衆の不満を和らげることができなかったのは、たった一人の死刑者もでなかったことだし、無期懲役さえ一人も出なかったことだ。簡単に計算すると、一人の人間を殺しても、刑期はたった半年だけにすぎないことになる。
略)
さらに人肉を食べた人間は、ただの一人さえも法的制裁を受けたことがなかった。私は武宣県の文革収拾事務所の四百余人の食人者の名簿を握っている。」P一三一
以上、「食人宴席」(鄭羲 黄文雄訳 光文社 一九九三年)より引用。
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Re: 侵略国日本は国際社会の前科者
投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/03/12 13:08 投稿番号: [8150 / 8458]
原子力空母「ロナルド・レーガン」を三陸沖に向かわせているとのことです。救助を行う自衛隊のヘリコプターの被災者収容や給油の拠点とする目的です。この空母「ロナルド・レーガン」は米韓合同演習「フォール・イーグル」に参加しています。
一方で、米国務省は米国民に日本への渡航を自粛するように要請しています。「強い余震が数週間続く恐れが強い」としています。
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尾崎秀実という人物のつづき18
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/10 23:32 投稿番号: [8149 / 8458]
註2)ヤルタ秘密協定(一九四五年二月十一日)
三大国即ち「ソビエト」連邦、アメリカ合衆国及英国の指導者はドイツ国が降伏し且ヨーロッパに於ける戦争が終結したる後二月又は三月を経てソビエト連邦が左の条件に依り連合国に与して日本国に対する戦争に参加すべきことを協定せり。
一、外蒙古(蒙古人民共和国)の現状は維持せらるべし。
二、千九百四年の日本国の背信的攻撃に依り侵害せられたるロシア国の旧権利は左の如く回復せらるべし。
(甲)樺太の南部及之に隣接する一切の島嶼はソビエト連邦に返還せらるべし。
(乙)大連商港に於けるソビエト連邦の優先的利益は之を擁護し該港は国際化せらるべく又ソビエト社会主義共和国連邦の海軍基地としての旅順口の租借権は回復せらるべし。
(丙)東清鉄道及大連に出口を供与する南満州鉄道は中ソ合弁会社の設立に依り共同に運営せらるべし但しソビエト連邦の優先的利益は保障せられ又中華民国は満洲に於ける完全なる主権を保有するものとす。
三、千島列島はソビエト連邦に引渡さるべし。
前記の外蒙古竝に港湾及鉄道に関する協定は蒋介石総帥の同意を要するものとす大統領はスターリン元帥よりの通知に依り右同意を得る為措置を執るものとす。
三大国の首班はソビエト連邦の右要求が日本国の敗北したる後に於て確実に満足せしめらるべきことを協定せり。
ソビエト連邦は中華民国を日本国の覊絆より解放する目的を以て自己の軍隊に依り之に援助を与うる為ソビエト社会主義共和国連邦中華民国間友好同盟条約を中華民国国民政府と締結する用意あることを表明す。(J・スターリン、フランクリン・D・ルーズベルト、
ウィンストン・S・チャーチル)
(1)三田村【戦争と共産主義】五十二〜五十四頁。
(2)【ルーズベルト秘録下】参照。
(3)H・クレア、J・H・ヘインズ、F・I・フィルソフ【アメリカ共産党とコミンテルン-地下活動の記録】一〇四〜一〇八頁、「アグネススメドレー、コミンテルンの工作員」
(4)【東京裁判却下未提出弁護側資料3】七五二〜七五四頁。
本来なら国民の知る権利の奉仕しなければならないマスコミの歴史ドキュメンタリー番組が以上の内容を報道すべきなのでしょうが、それをやると我が国の左翼勢力が壊滅してしまうから、NHKは小田晋や加藤周一といった戦後日本に言論の害毒を垂れ流してきた進歩的公害人を追悼する番組を報道しても、決してVenona資料の公開には言及しようとしません。だから我が国では第二次世界大戦の真実の更新と周知は遅々として進みません。本当に困ったことです。
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尾崎秀実という人物のつづき17
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/10 23:29 投稿番号: [8148 / 8458]
ソ連はこの種の資料の存在自体を認めていなかったが、ソ連の崩壊後、ロシア現代史文書保存・研究センターは膨大なコミンテルンの機密文書を公開した。H・クレア、J・H・ヘインズ、F・I・フィルソフは一九九一年から、センターの文書係が作成した検索手段を使って有力候補を絞り込み、数千ページの文書を収録したコミンテルンとアメリカ合衆国共産党のファイルを千点以上調査し、重要な機密文書九十二点を「アメリカ共産党とコミンテルン−地下活動の記録」に掲載した。
読者に反論の余地を与えない生々しい機密資料が暴露した歴史の真実は、アメリカ共産党の秘密組織がアメリカの情報活動および秘密諜報活動を統括していた戦略事務局(OSS、CIAの前身)をはじめアメリカ政府内部に深く浸透し、コミンテルン、ソ連秘密警察NKVD(KGBの前身)、ソ連軍参謀本部情報部(GRU)と密接に連携しながら、ソ連の諜報活動に奉仕していたことである。それと渾然一体となったアメリカ共産党の地下活動は、労働運動への浸透から、ゾルゲ機関の結成(宮城与徳の日本への帰国)、アグネス・スメドレーへの支援、日本共産党の再建への協力、在米邦人協力者の獲得、スペイン内戦に参戦したコミミンテルン国際旅団のアメリカ人義勇軍三千三百人(約八十パーセントが共産主義者)の移送、トロツキーの殺害、独ソ戦勃発後におけるアメリカ合衆国のソ連への援助とヨーロッパ戦線へ軍事介入、原爆情報の盗取にまで及んでいた。
しかも以上はソ連の対米諜報謀略活動のほんの氷山の一角に過ぎない。依然としてソ連秘密警察とソ連軍参謀本部情報部の保管していた膨大な機密記録文書がロシア政府によって封印されているからである。
もしIPR第六回太平洋会議議事抄録が東京裁判で徹底的に審議されたならば、西園寺やラティモアが喚問され、日米支に張り巡らされたソ連の諜報謀略網の実態がもっと早期により詳細に判明し、大東亜戦争の真実が白日の下に曝されたに違いない。以上の事を隠蔽する為、占領軍関係者―おそらくソ連人もしくはGHQ内部に潜入していたアメリカ共産主義者―は、第六回太平洋会議議事抄録の法廷への提出を許さず、東京裁判昭和二十二年六月六日第二三二回公判に提出された「ソルゲ、スパイ事件の詳細発表/ニッポン・タイムス一九四五年十二月二十四日」、「ゾルゲ、スパイ事件/オットー・D・トリスチヤス東京報告一九四三年レイノルーヒッチコック出版」を却下し(4)、さらに尾崎秀実らゾルゲ機関の暗躍を赤裸々に描き出した「戦争と共産主義―昭和政治史秘録」(三田村武夫著/民主制度普及会、昭和二十五年刊行)を発禁処分にしたのであろう(昭和六十二年、遠山景久氏の御尽力により自由選書から「大東亜戦争とスターリンの謀略―戦争と共産主義」として復刊された)。
GHQの対日占領作戦とは、ポツダム宣言、戦時国際法、帝国憲法、マッカーサー占領憲法、自由デモクラシーを蹂躙する明白な戦争犯罪であったばかりでなく、有史以来最悪の途方もない大錯誤であり、全く無実の日本人を公職から追放し或いは処刑し、第二次世界大戦の真実を隠蔽した「歴史に対する犯罪」である!。
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尾崎秀実という人物のつづき16
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/10 23:19 投稿番号: [8147 / 8458]
その結果、下院非米活動委員会に喚問されたホワイトはジギタリスを大量服用し不可解な死を遂げ、同じくカリーはコロンビアへ逃亡、新聞にゾルゲ機関への関与を報道されたスメドレーはロンドンに亡命し、下院非米活動委員会に召還された日の夕方に急逝した。そしてアメリカ国務省を代表してヤルタ会談に出席し、重病のルーズベルト(一九四五年四月十二日死亡)を補佐してソ連に日支の主権を譲渡したヤルタ秘密協定(註2)に深く関与したアルジャー・ヒス(一九九五年に公開されたソ連暗号電文解読作戦Venona資料ではAlesという隠名を持っていた赤軍第四部のスパイ)は投獄され、アメリカ国内に反共のマッカーシズムの嵐が吹き荒れた(2)。
これに対してアメリカの容共的な歴史学者は、ベントレーやチェンバースの証言に信憑性を認めず、またアグネス・スメドレーの猛烈な抗議に恐れをなした陸軍長官ケネス・ローマルの素早い謝罪談話(一九四九年二月二十七日)等を挙げてマッカーサーおよびウィロビーを非難し、スメドレーを擁護してきた。第二次世界大戦後の歴史学会は米ソ冷戦の縮図であり、反共派の研究者と容共派の学者が数十年に亘り不毛な論争を続けてきたが、遂に歴史の神は反共派に軍配を上げた。ソ連崩壊後に公開された次のコミンテルンの機密文書が暴露したスメドレーの正体は、やはりコミンテルンの工作員であった(3)。
「親愛なる同志ディミトロフ
われわれは同志岡野(註、日本共産党の野坂参三)、東洋書記局、プロフィンテルン(註、赤色労働組合インターナショナル、コミンテルンの労働組合部門)とともに、日本共産党への支援計画とも連動させつつ汎太平洋労働組合書記局の計画を練ってきた。全員がその計画に賛同し、同志ブラッドフォード(現在、プロフィンテルンの仕事でヨーロッパ滞在中)をアメリカに送りその計画を指揮させるという重要なポイントも含めて同意した。もし貴兄がこの計画に同意するなら、残る問題は形式上の決定と資金の手配だけである。
目下、上海にいるアグネス・スメドレーが現地で反帝国主義の英字紙を発行するのを援助するという提案は、最終決定されるべきである。情勢はますます好転しており、そのような新聞が出れば大きな影響力を発揮するだろうと、彼女は手紙に書いている。アメリカ合衆国共産党は政治的にも技術的にも優れた助手を彼女に提供することができる。中国人同志たちも同意している。ただしこれら上海の同志たちがもし中国共産党と接触した場合には、その活動が危険に晒されるから、それを避けるために彼らには中国共産党と接触させないという条件つきである。このプロジェクトの価値は明白だ。承認の形式的手続きと必要な資金の準備が待たれる。
最後に、今大会とその成果について私の深い満足と、この大会がアメリカ合衆国共産党および全世界の党を新しい高次の体験に導くだろうという私の見解とを表明しておきたい。アメリカ共産党がこの目的のために貢献し得るどんなことであれ、貴兄からの要請を私は喜んで受け入れる。
友愛の熱い挨拶をもって
アール・プラウダー
モスクワ、1935年9月2日」
一九三五年にスメドレーは、アール・プラウダーが書記長を務めるアメリカ共産党の人的支援と、コミンテルン第七回大会において反ファッショ人民戦線戦術を発表したゲオルギー・ディミトロフ(ブルガリア人の共産主義者)が議長を務めるコミンテルンの資金援助を得て「中国の声」を創刊していたのである。
アメリカ共産党党首のアール・ブラウダーは、共産主義者に対するソ連秘密警察の監視役を務め、いわば日本共産党の指導者である野坂参三と同じ役回りを演じていた人物である。アメリカ共産党は党本部のあるニューヨークからNKVDを経由してモスクワに多くの暗号電文を発していた。ソ連およびコミンテルンに忠誠を誓ったアメリカ共産党の活発な注進がアメリカ陸軍保安局(国家保安局NSAの前身)に、それらの暗号電文を傍受し解読する作戦(コードネームVenona)を実施する機会を与えていたのである。
コミンテルンが解散した一九四三年、モスクワから七百五十マイル東のウーファという町の近くにある外国人共産主義者のためのコミンテルンの学校に入っていたドイツ人青年ウルフガング・レオンハルトは特殊な任務を与えられた。コミンテルンの文書保管所は、ナチス軍がモスクワに迫った時にウーファに移されており、レオンハルトは混乱した資料を整理し直す学生の一人だった。彼に与えられた任務とは、アメリカ共産党の記録の整理であった。
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尾崎秀実という人物のつづき15
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/10 23:10 投稿番号: [8146 / 8458]
42、歴史に対する罪
ポツダム宣言の正式調印後、占領軍の情報参謀部は我が国の司法省刑事局の『ゾルゲ事件資料』を押収し、直ちに事件の調査を開始、ワシントンに「ゾルゲ諜報団−極東における国際諜報の実例研究」を送付した。情報参謀部長のチャールズ・ウィロビー少将は、ソ連および国際共産主義勢力の諜報謀略網が占領軍総司令部(GHQ)にも及んでいることを察知し、占領軍最高司令官と参謀長に「総司令部への左翼主義者の浸透状況」(一九四七年四月二十三日)を提出、「共産主義に対するアジアの防壁としての日本の育成はいまや危機に瀕している」と警告し、民政局長のホイットニー准将を激怒させた。日本国憲法案を起草した民政局(GS)と経済科学局(ESS)はニューディーラー(アメリカの容共主義者)の巣窟であり、明らかに左翼思想に基づく日本の「民主化」を遂行しようとしていたからである。
米ソ関係は連合国の敵である日本国の降伏を契機に親交から対立へ変化し、支那大陸では蒋介石の国民党と毛沢東の共産党との間に激烈な内戦が勃発し、GHQ内部では反共派が親ソ容共勢力を排除し始めたのである。それらの情勢変化は直ちにアメリカ本国を揺り動かした。
一九四八年二月号の「カソリック・ダイジェスト」に「アメリカを蝕むもの、モスクワの指令下に米国上層部に喰入るソ連秘密警察」と題する記事が掲載された。筆者は一九三三〜三五年まで農業金融局に、三五〜四〇年まで財務省に勤務したエドナ・ロニガンであり、彼女は次のように述べている(1)。
「国会は今、ソ連の秘密警察のアメリカに於ける目的と活動は何か?という実際問題を検討している。ソ連の秘密警察は、米国の政策をして自ら墓穴を掘らしめるため、その手先の者をアメリカの重要な地位につける仕事にたずさわらせているのだ。
ソ連秘密警察は一九三三年以来、連邦政府に浸透しようと努力して来た。その最初の細胞は明らかに農務省に設立されたのである。要員は大学の細胞から出た。スターリンは、一九二九年という遙か以前から、即ち不景気が危篤期に入ったと気づいたとき、彼は党員に命じてアメリカの大学にもぐりこませたのである。このことはニューヨーク州議会のラブ・コーダート委員会報告書に証明されている。各々の細胞は分裂して、他の細胞を生み出した。ソ連秘密警察の指導者達は、連邦政府内部の『機構図表』を持って居り、党員を次から次と重要な地位に移したのである。網状組織によって地位につけられた人々のうち、ある者は『純真』な人々であり、ある者は、夢想的な革命論者であった。しかし、大抵は、網状組織に好意を持たれれば速やかに昇進出来ることに気づいている小利口な、悪がしこい人々であった。
有能なソビエトの手先がなすべき事は、スパイではなく、政治指導者の信頼を博することであった。彼等の仕事は、高官や、その夫人達と親しくなることであり、友好的に、魅力的に、敏捷に、理知的に、同情的になることであり、昼夜にわたって、一層大きな責任を引きうける用意をすることであったのだ。そして、やがて、そのような責任ある地位が彼等に与えられたのである。
斯くの如くして、網状組織は毎年仲間達をだんだんと高い地位に移して行った。戦争が始まったとき、八年間陰謀で鍛えた古強者達は、最高政策をあやつる地位に到達していたのである。この網状組織によって選ばれた人々は、意見が分かれているあらゆる問題においてアメリカの政策を指導し始めた。ファーレィ(民主党領袖)が落伍した後、彼等は重要産業地方の投票を得る仕事を引き継ぎ、その報酬として戦争の指導権をにぎったのである。連戦連勝の米軍は、スターリンの希望通りの処で停止した。彼等は満洲と北朝鮮を共産党に与えた。」
同年夏アメリカ下院非米活動委員会において、E・ベントレーとW・チェンバース(いずれも元アメリカ共産党員)は、アメリカ共産党やイクサ・アフメーロフ、ボリス・バイコフ大佐(ソ連赤軍第四部)が、アメリカ政府内に構築したソ連の諜報謀略網の全容を告発した。また一九四九年二月十日にはアメリカ陸軍省がゾルゲ事件を新聞に公表し爆発的な反響を呼び起こした。
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尾崎秀実という人物のつづき14
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/10 20:59 投稿番号: [8145 / 8458]
尾崎秀実と同じく支那問題の権威でありコミンテルン影響下の共産主義者であったラティモアは、一九三四年よりIPR機関誌「パシフィック・アフェアーズ」編集長となり同誌に親ソ親支那の政治的立場を十字軍的に唱道する論文と反日プロパガンダを満載し、五〇年、ジョセフ・マッカーシー上院議員から「ソ連スパイ網のトップエージェント」だとして告発されたが、何と彼が三六〜三九年まで編集助手として使っていた陳翰笙なる支那人は、かつてゾルゲ機関に所属していたのである(4)。
一九二五年に党籍をドイツ共産党からソ連共産党に移し、ソ連市民権を得てコミンテルン諜報員となりヨーロッパを舞台に活動していたリヒャルト・ゾルゲは、四年後、ソ連赤軍第四部(情報部)の長であり実質的な創設者であったイワン・アントーノヴィチ・ベルジン将軍に見出され、極東におけるコミンテルンの思想策源地であった混沌渦巻く東洋の魔都上海に確固たる情報網を構築する任務を与えられた。
三〇年一月、上海に到着したゾルゲは、アメリカ人女性ジャーナリストのアグネス・スメドレーを訪ね、支那人協力者を選ぶ為の援助を求めた。当時の彼女は「中国共産党こそが貧しい農民を助けられる」と考え、多くの左翼系知識人と接触しており、ゾルゲが支那で唯一頼りにしていた人物であった。
スメドレーはゾルゲに対し、中国共産党と密接な関係を有していた在上海日本人左翼運動の指導的地位にあった朝日新聞上海特派員尾崎秀実と、そして陳翰笙を紹介した。陳は二六年北京大学農業経済教授を務めていた時にコミンテルン工作員となり、それ以降、中国共産党員であるとともにソ連の為に情報活動を行い、二八年から上海に滞在し、スメドレーの知遇を得た。
陳は尾崎以上にスメドレーやゾルゲと親しく、三三年九月にドイツ人ジャーナリストとして来日したゾルゲを補佐し尾崎との連絡を受け持った。だが三五年にモスクワから来日した連絡員が逮捕され、身の危険を感じた陳は東京からモスクワへ脱出し、ソ連共産党の指示を受け、次はラティモアの補佐としてニューヨークに派遣され、太平洋問題調査会の常任書記を務め、ヨセミテ会議で尾崎と会合したのであった。
ソ連の諜報謀略網は、太平洋を跨いで日米支の国家中枢に対し、我々の想像をはるかに超えて根深く有機的に浸透していたのである。
独ソ戦が勃発する直前の一九四一年五月末、ソ連からアメリカに潜入したビタリーパブロフ(GPUの後身、ソ連人民委員部所属)はアメリカ非公然組織長のイクサ・アフメーロフ(ソ連人民委員部所属、対日謀略「雪作戦」の提唱者)と相談した上で、アメリカ財務次官補ハリーデクスターホワイトに接触、「日本のソ連侵攻を困難にすること」を依頼し(5)、ホワイトは、六月六日、彼自身がまとめた対日提案「日本との緊張を除去しドイツを確実に敗北させる課題へのアプローチ」を財務長官モーゲンソーに手渡した。そして七月八日、ラティモアは、彼やホワイトと親しい関係にあった大統領補佐官ロクリン・カリー(ソ連のスパイ)の推薦を受けた大統領フランクリン・ルーズベルトによって重慶に派遣され、蒋介石の政治顧問に就任した。尾崎秀実は、大陸新報昭和十六年八月一〜二日「東亜外交の新段階」の中で、
「この程蒋介石政府の顧問として、オーウェン・ラチモアが重慶に赴いたという報道は生真面目でいかにも学究的な同氏を知る我々には一種奇異にさえ感じられたのである。アメリカ政府とどれだけの直接関係において行ったのであるか判らないが、現下の重慶に立つ国際情勢下において多分に政治的な使命を帯びるものでなくてはならない」
と観測したが(6)、特に注目すべきことは、ラティモアが、三八年から中国共産党の勢力拡大に伴い相剋を深めていた国共両党の調整に乗り出しただけでなく、四一年十一月二十五日、重慶からカリーに対して、日本にとって過酷なホワイト・モーゲンソー案をルーズベルトに採択させるよう打電し、カリーと共に、日米和平交渉をまとめる可能性を秘めたハル暫定案(九十日の停戦を骨子とし、日本は南部仏印より撤退する一方、アメリカは日本に民間用の石油、食糧、医薬や月額六十万ドルまでの綿花を輸出し、且つ日支和平交渉を斡旋することを内容とする、ハル国務長官によって作成された日米妥協案)阻止に狂奔していたことである(7)。
即ち我が国外交史上、永久の痛恨事たる汪兆銘工作とハル・ノートによる対日挑発はいずれもスターリンの謀略であり、ソ連の支配下にあった日米共産主義者によって実行されたのである。
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Re: 侵略国日本は国際社会の前科者
投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/03/10 20:55 投稿番号: [8144 / 8458]
春暁は争いのない中国側が管轄する海域に位置するとし、生産活動を行っても問題はない
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尾崎秀実という人物のつづき13
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/10 20:52 投稿番号: [8143 / 8458]
41、ソ連の諜報謀略網
尾崎秀実は、
「今夏ヨセミテで開かれた太平洋会議には太平洋に関係ある各国の知名の学者、政治家、評論家など多数参集し、この人里離れた国立公園に時ならぬ賑いを呈せしめた。
注目に値すると思われたのは会議の指導機関である太平洋問題調査会事務局の空気であった。ここにはいかにも秀才といった感じの若手の学者や評論家がいてその傾向は頗る進歩的であった」
という紀行文を新聞に寄稿しており(1)、筆者が推測するにIPR第六回ヨセミテ会議の正体は、
「資本主義国である日本の外交、政治、経済、軍事等一切の情報や資料を探知蒐集して之をソ連に通報漏泄し日本の経済力外交政策の軍事に関する作戦、軍事力等を事前に知らせて置き日ソ戦が勃発した場合ソ連が有利な地位に立って日本の弱点につけ込んで日本を敗戦に導き或は疲弊せしめ、更にソ連が米英と結託して之等の国をして日本を牽制動肘せしめ、或は又支那満洲国等に働きかけ殊に中国共産党や中国の共産軍等を使嗾して対日長期抗戦をやらせる事に依り一面に於いては共産主義の国ソ連を防衛し他面に於いて日本を敗戦又は疲弊せしめて革命へ導く」
ソ連独自の世界革命という世界政策を推進援助する(2)日米共産共同謀議だったのではないか。
IPRは、太平洋に接する国々の協議会で構成され、各国の政治社会経済技術についての情報を交換、議論する学術団体としてニューヨークに本部を置き、「太平洋会議」という名を冠せられた、太平洋諸国の抱える問題を協議する国際会合を開催していたが、昭和研究会や企画院と同様、「コミンテルン第七回大会」において採択された「合法場面を極度に利用して活動すべし」という反ファッショ人民戦線戦術を信奉する共産主義者によって潜入され占領された組織であり、第二次世界大戦において、盛んに反日論を展開しアメリカ政府(国務省)の反日外交を主導し、日本の敗戦後には、トーマス・ビッソンやアンドリュー・グラジャンツェフといった左翼分子をGHQ民政局に送り込み、GHQの対日占領作戦にまで大きな影響力を及ぼし、治安と防諜を担当するGHQ情報参謀部(G2)の調査対象になった。
情報参謀部長のチャールズ・ウィロビー少将に提出された調査報告書は、太平洋問題調査会の支配的位置にいる八人の幹部のうち最も活動的で強い発言力を持つ四人−エドワード・C・カーター、フレデリック・V・フィールズ、オーウェン・ラティモア夫妻−は共産党員とそのシンパであると分析し、彼らの人物像を次のように解説している(3)。
「エドワード・C・カーター(1925年の創立以来の所員)は、これらの支配的連中のうちでも、もっとも影響力がある。その公然たる共産主義的傾向にもかかわらず、彼はIPRの基金を集めることにかけては稀なる才能を発揮し、またオルグとしても腕のさえを見せている。カーターはアメリカにある親ソ的、ならびに共産党のフロント組織にすべて加入している。これには『今日のソビエト・ロシア』、『アメリカ・ソ連協会』をはじめ、二十にものぼるソ連戦争救済団体などが含まれる。彼はオリエント地方を広範に旅行し、ロシアにも何度か行っている。彼は自分でもシンパであると公然といっており、アメリカ共産党と緊密な関係にあるものと推測される。カーターは優秀な左翼的著者を見つけ出すことに尽力し、これを教育し、将来、政府部内の極東専門家やライターとして戦略的地位を世話する。このような教育や就職斡旋は、IPR所員に対する研究員としての立場から行われる。
オーウェン・ラチモア−これら四人のうちで疑いなくもっとも有名な人物である。アメリカ政府の高度の政策決定レベルの部門に、共産主義者が浸透しているもっとも著しい例である。ラチモアとその妻のエレアノール・ラチモアの考え方や論文は、一貫して親ソ的・親共産主義的なのである。」
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尾崎秀実という人物のつづき12
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/09 10:42 投稿番号: [8142 / 8458]
■10.「東亜における新秩序」の人柱
尾崎が「中央公論」昭和14年1月号に発表した「『東亜共
同体』の理念とその成立の客観的基礎」では、近衛の「東亜新
秩序」声明を引用して、「『東亜共同体』は事変解決の方策の
不可欠な重点となった」と述べつつ、こう言い切った。
一身を擲(なげう)つて国家の犠牲となつた人々は絶対
に何等かの代償を要求して尊い血を流したのではないと我
々は確信するのである。東亜に終局的な平和を齎(もた
ら)すべき「東亜における新秩序」の人柱となることは、
この人々の望むところであるに違ひないのである。
確かに日華事変に出征した将兵の間には、この戦争が来るべ
き日中和平の礎になると考えて、一身を擲った人々も少なくな
かったであろう。茅野老に和平工作を依頼した上海派遣軍司令
官・松井石根大将もその一人であった。松井大将は孫文の大ア
ジア主義に共鳴して「大亜細亜協会」会長にもなっていた。
[b]
しかし尾崎の狙う「東亜共同体」とは、日本と蒋介石政権が
共倒れして、両国で共産主義革命が実現した後に成立するはず
のソ連・日本・中国による「赤い東亜共同体」であった。共産
主義社会になれば、絶対的な平和が訪れる、そう信ずる尾崎に
とって、確かに日華事変での犠牲者は「東亜に終局的な平和を
齎すべき『東亜における新秩序』の人柱」なのであった。
共産主義革命後の「終局的な平和」の為なら、国民を欺いて
日中戦争に駆り立てて「人柱」にすることも許されると尾崎は
信じていた。尾崎は「帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらし
め」、「戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること」と命
じたコミンテルンの忠実な使徒であった。
(文責:伊勢雅臣)
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尾崎秀実という人物のつづき11
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/09 10:39 投稿番号: [8141 / 8458]
■7.茅野老の日中和平工作■
尾崎のグループは国内世論を誘導するだけでなく、実際に国
民党政権との和平の動きを妨害した。孫文の中国革命に協力し、
蒋介石以下の国民党首脳部とも親しい間柄にあった茅野長知は、
上海派遣軍司令官・松井石根(いわね)大将の依頼により、昭
和12年10月頃から、日中和平に乗り出した。
茅野老は国民政府からも信頼されており、翌13年4月には
即時停戦、日本の撤兵声明発表などの合意に至った。茅野老が
帰国してこの案を説明すると、近衛首相も板垣陸相も承認して、
この線で和平実現に努力することになった。茅野老は早速、上
海から香港へ渡って、国民党政府と接触し、5人の代表を東京
に派遣する事となった。
しかし、茅野老が再び帰国して、交渉の結果を報告すると、
板垣陸相の態度は全く変わっていて「中国側に全然戦意なし、
この儘(まま)で押せば漢口陥落と同時に国民政府は無条件で
手を挙げる。日本側から停戦声明を出したり、撤兵を約束する
必要はなくなった」という。
■8.天才的な謀略■
茅野老が「それはとんでもない話だ。国民政府は長期抗戦の
用意が出来ている。そんな情報はどこから来たのか」と問いつ
めると、板垣陸相は、同盟通信の上海支局長をしていた松本重
治が連れてきた国民政府の外交部司長・高宋武から直接、聞い
たという。
茅野老が香港に行く途中の上海で、松本と会って、交渉の過
程を話したのだが、この松本重治は尾崎の年来の友人であり、
共に「朝飯会」のメンバーとして近衛首相のブレーンともなっ
た人物である。後に茅野老は松本との会談を「運命の日」だっ
たと述懐している。
松本が連れてきた高宋武は、日本側に「国民政府はもうすぐ
無条件降伏する」と伝える一方、蒋介石にも「中国があくまで
抗戦を継続すれば、日本側は無条件で停戦、撤兵する」という
偽りの電報を打っていた。こうした謀略によって、茅野老の和
平工作はあと一歩という所で水泡に帰し、その後、高宋武、松
本重治、尾崎秀實らによる汪兆銘政権樹立の動きとなっていく。
汪兆銘は国民党の副総裁であり、あくまで党を分裂させずに、
蒋介石にコミンテルンの謀略に乗った抗日戦争を止めさせるよ
う願っていたのだが[a]、その汪兆銘を担ぎ出して親日政権を
作らせ、それを以て日本と国民政府の戦いを続けさせようとい
う尾崎らの謀略はまさに天才的としか言いようがない。
■9.操られていた近衛内閣■
近衛首相は、事変が始まった後、早期停戦を目指してドイツ
を仲介国とする交渉を行ってきたが、昭和13年1月には新た
な親日政権の成立を期待して、「今後国民党政府を相手にせ
ず」という第一次近衛声明を発表していた。茅野老の和平工作
はこの後に何とか蒋介石政権との和平を確立しようとしたもの
であった。
しかし、その望みも消えて、同年11月、近衛は日本・満
洲・支那3国の連帯を目指した「東亜新秩序」建設に関する第
二次声明を発表。これは尾崎らの「東亜共同体」構想そのもの
である。この声明の中で「国民政府といえども従来の指導政策
を一擲(いってき、投げ打って)し、その人的構成を改替して
更生の実を挙げ、新秩序建設に来たり参ずるに於ては、敢へて
これを拒否するものにあらず」と汪兆銘の動きに期待した。
まさに「見えない力にあやつられてゐたような気がする」と
いう近衛の述懐通り、近衛内閣は尾崎の描いた筋書きに乗せら
れていたのである。こうして日華事変は泥沼化していった。
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尾崎秀実という人物のつづき10
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/09 10:36 投稿番号: [8140 / 8458]
■4.国共合作へのコミンテルン指示■
1935(昭和10)年のコミンテルン第7回大会では、各国の国情
に即した戦略戦術を採用することという方針のもとに、中国共
産党に対しては、日本帝国主義打倒のための民族解放闘争をス
ローガンとして抗日人民戦線運動を巻き起こすことを命じ、そ
れに従って中国共産党は8月1日付けで「抗日救国宣言」を発
した。一切の国内闘争を即刻停止して、全面的な抗日闘争を展
開しようというのである。
翌36(昭和11)年12月に突如として起こったのが、西安事件
であった。共産軍掃討を続けていた蒋介石が、「抗日救国宣
言」に動かされた腹心・張学良に西安で監禁されたのだった。
周恩来ら中国共産党幹部が西安にやってきて、蒋介石との交渉
を行った。その内容は謎であるが、以後、蒋介石は共産軍との
10年に及ぶ戦いを止め、蒋介石の国民党と共産党による国共
合作が実現した。
この時、日本に帰っていた尾崎は、監禁された蒋介石の安否
が不明の段階から、「中央公論」誌に「蒋介石が今後の国共合
作を条件に、無事釈放されるだろう」と予測する論文を発表し
た。この予測が見事に的中して、尾崎は中国問題専門家として
の地位を固めた。尾崎は国共合作というコミンテルンの指示を
知っていたものと思われる。
■5.近衛内閣のブレーンとなる■
この昭和12年の4月頃から尾崎は昭和研究会に入り、支那
問題研究部会の中心メンバーとして活躍していた。この研究会
は軍部とも密接な関係を持って、近衛新体制生みの親となり、
大政翼賛会創設を推進して、一国一党の軍部官僚独裁体制を作
り上げた中心機関である。
翌13年4月には尾崎は朝日新聞社を退社して、近衛内閣の
嘱託となり、月2回ほどの「朝飯会」で近衛のブレーンとして
意見を言える立場についた。首相官邸の地階の一室にデスクを
構え、秘書官室や書記官室に自由に出入りできるようになった。
この頃、ゾルゲはナチス党員に化けて、在日ドイツ大使の私
設情報官となっており、尾崎とも緊密な連携をとって、日独の
機密情報をソ連に流していた。二人は後に逮捕され、死刑に処
されているが、このテーマについては別稿に譲ろう。
■6.「東亜共同体」の謀略■
昭和12年7月、蘆溝橋事件(北京郊外での日中両軍衝突、
日本軍と国民党軍を戦わせるための中共軍の謀略との説が有力
[2],p394)を機に、上海、南京と、日華事変が拡大した。
これを機に、昭和研究会のメンバーは日本、満洲、支那によ
る「東亜共同体」の構想をさかんに提唱していった。「改造」
昭和13年11月号の東大政治学の権威・蝋山政道による「東
亜共同体の理論」、「中央公論」14年1月号の尾崎秀實によ
る「『東亜共同体』の理念とその成立の客観的基礎」などであ
る。これに呼応して、陸軍省報道部長・佐藤賢了大佐も、蝋山
論文の翌月、「日本評論」12月号に「東亜共同体の結成」を
発表する。近衛の言う「無知単純なる軍人これに踊らされた
り」とは、まさにこの事か。
尾崎は「中央公論」14年5月号での「事変処理と欧州大
戦」と題した座談会のまとめとして次のような発言をしている。
僕の考へでは、支那の現地に於て奥地の抗日政権(漢口
から重慶へと移転した蒋介石政権)に対抗し得る政権を造
り上げること、・・・さういふ風な一種の対峙状態といふ
ものを現地に造り上げて、日本自身がそれに依って消耗す
る面を少なくしていく・・・さういう風な条件の中から新
しい
--
-それこそ僕等の考へている東亜共同体
--
-本当の意
味での新秩序をその中から纏(まと)めて行くといふこと
以外にないのじゃないか。
尾崎の言う「東亜共同体」とは、中国に親日政権を作り、そ
れをくさびとして、あくまで日本と蒋介石を戦わせようとする
謀略であった。中国共産党は蒋介石を抱き込み、尾崎グループ
は親日政権を作らせて、日本と国民党政権をあくまで戦わせ、
共倒れにさせて、日中両国で共産革命を実現しようとしていた
のである。
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尾崎秀実という人物のつづき9
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/09 10:29 投稿番号: [8139 / 8458]
尾崎秀實
〜 日中和平を妨げたソ連の魔手
日本と蒋介石政権が日中戦争で共倒れになれば、
ソ・中・日の「赤い東亜共同体」が実現する!
■1.近衛文麿を操った「見えない力」■
昭和18(1943)年4月、衆議院議員・三田村武夫は近衛文麿
を訪れて、戦局、時局の問題について懇談した際、
この戦争は必ず負ける。そして敗戦の次ぎに来るものは
共産革命だ。日本をこんな状態に追い込んできた公爵の責
任は重大だ!
と言った所、近衛はしみじみとした調子で、第1次、第2次近
衛内閣当時のことを回想してこう述懐した。
なにもかも自分の考えてゐたことと逆な結果になつてし
まつた。ことこゝに至って静かに考へてみると、何者か眼
に見えない力にあやつられてゐたような気がする。[1]
近衛の第一次組閣は昭和12(1937)年6月。この1ヶ月後の
蘆溝橋事件をきっかけに日華事変が勃発し、また国内では翌年
3月に国家総動員法が成立した。その後の平沼、阿倍、米内内
閣はドイツとの距離をとり、第2次大戦にも不介入の姿勢を保
っていたが、近衛が第2次組閣をした昭和15(1940)年7月以
降、日独伊の三国同盟締結、仏領インドシナ進駐と日米対決へ
の決定的な道を歩み始めた。
こうして見ると、近衛内閣の登場のたびに、政局は大きく戦
争へと進んでいる。三田村議員の言う通り、まさに近衛公爵の
責任は重大であった。その近衛はその当時を振り返って、「見
えない力にあやつられてゐたような気がする」と言っているの
である。その見えない力とは何だったのか?
■2.軍人を踊らせた左翼分子の暗躍■
近衛はこの「見えない力」について、もう戦局も押しつまっ
た昭和20(1945)年2月14日、天皇にこう上奏した。
翻って国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件具備
せられゆく観有之(これあり)候、すなはち生活の窮乏、
労働者発言度の増大、英米に対する敵愾心の昂揚の反面た
る親ソ気分、軍部内一味の革新運動、これに便乗する新官
僚の運動、およびこれを背後より操りつゝある左翼分子の
暗躍に御座候。
満洲事変、日華事変、そして遂には大東亜戦争にまで我が国
を引きずり込んで来たのは、軍部の組織的計画であるが、
これを取り巻く一部官僚及民間有志は(これを右翼とい
ふも可、左翼といふも可なり、所謂(いわゆる)右翼は国
体の衣を着けた共産主義者なり)意識的に共産革命まで引
きずらんとする意図を包蔵しおり、無知単純なる軍人これ
に踊らされたりと見て大過なしと存候。
■3.尾崎秀實の「赤い東亜共同体」構想■
日本を共産革命にまで引きずり込もうとした「民間有志」の
中心人物が尾崎秀實(ほつみ)であった。尾崎は昭和3(1928)
年11月、朝日新聞社の特派員として上海に駐在して、そこで
多くの左翼文学者たちと交わり、半植民地化された中国の現状
から、マルクス主義への傾斜を深めていった。
さらに尾崎はアメリカ人左翼ジャーナリスト、アグネス・ス
メドレーを通じて、リヒャルト・ゾルゲを紹介された。ゾルゲ
はドイツ人の父とロシア人の母を持ち、ドイツ共産党を通じて、
モスクワの国際共産主義団体コミンテルンに所属していた。
ちょうどこの年に開かれたコミンテルン第6回大会では、
「帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめ」、「戦争を通じ
てプロレタリア革命を遂行すること」と決議していた。日独と
米英の間での「帝国主義戦争」が始まれば、共産主義者の祖国
ソ連は無事であり、また敗戦国ではその混乱に乗じて、共産主
義革命を進めることができる、という戦略である。
これを中国に適用して、尾崎は日本帝国主義と蒋介石軍閥政
権を噛み合わせて、両者共倒れにさせて、日本と中国における
共産主義革命を実現させ、そこからソ連、中国、日本を中核と
した東アジア諸民族の共同体を目指そうと考えた。まさに「赤
い東亜共同体」構想である。
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尾崎秀実という人物のつづき8
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/08 17:50 投稿番号: [8138 / 8458]
関係は先の方々が説明していますので、影響だけ説明します。
(以下は全て朝日新聞退社し首相嘱託になった後のことですが)
まず、中央公論に中国国民党との徹底抗戦を説いて、世論を煽ります。
これの影響で、陸軍にまで同じ論を述べる陸軍報道部長まで出て、シンパが増えていきます。
更に、内閣、陸軍共に中国国民党との和平を合意していたにもかかわらず、直前で板垣陸相にでたらめを吹き込み、中国国民党と和平をする直前にひっくり返して、日中戦争を泥沼に引きずり込みました。
この当時、国民党と共産党は戦力比60:1ですが、この後の戦争でほぼ互角になるまで国民党は摩耗し、戦後共産国家である今の中国ができる下地を作りました。
また、尾崎とゾルゲが日中戦争の布陣と対ソ戦をせずに南下する方針をすっぱ抜いてスターリンに伝えることで、極東の戦車隊を全て対ドイツ戦へつぎ込み、結果としてドイツに勝利します。
つまり、第二次世界大戦の日独の敗北に大きく影響したと言えます。
勿論、敗北は尾崎たちだけのせいではありませんが、尾崎らの行動がなければ全く違う戦後になっていたでしょう。
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尾崎秀実という人物のつづき7
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/08 17:41 投稿番号: [8137 / 8458]
あるブログより引用。
あまり詳しくはないのですが。少し事実関係は違います。尾崎秀実は朝日新聞上海特派員であった。昭和12年7月シナ事変の勃発よりコミンテルン(ソ連共産党中央委員会)極東支局の指令で上海にあらわれたドイツ人リヒャルト・ゾルゲに日本の作戦プランを内通。尾崎は近衛内閣の嘱託として、また外務省や参謀本部の機関の東亜研究所の嘱託として、多数の情報・資料を入手できる地位にあった。それらは政界の最上層部の口から、またドイツ大使の下にあった日本の軍事機密、政治プランがゾルゲを通じてコミンテルンに筒抜けであった。近代日本の存亡の岐路の時期のシナ事変から大東亜戦争の最高国家機密がすべてソ連に筒抜けであった。日本政府はシナ事変以降不拡大を方針を採ったが、南京攻略の折、国民党蒋介石と交渉。不成功で「国民政府を相手とせず」の声明。尾崎は「南方諸民族解放」を唱え、シナ事変を日米戦争へ拡大せんとするコミンテルンの謀略を行っていた。近衛内閣の「東亜新秩序建設」というスローガンは「共産主義的秩序」であった。日本政府と重慶国民党政府の和平を成立させないために南京に汪兆銘の新政権樹立させ蒋介石と対抗させた。日本は完全にコミンテルンに躍らされていたわけ。シナ事変の泥沼化から日米戦争へ拡大した裏には尾崎・ゾルゲの裏工作が働いていた。(資料:「抹殺された大東亜戦争」勝岡寛次、明成社)
これは メッセージ 1 (keisatsufushouji さん)への返信です.
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尾崎秀実という人物のつづき6
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/08 17:13 投稿番号: [8136 / 8458]
日本は南方への進撃に於ては必ず英米の軍事勢力を一応打破し得るではありませうがその後の持久戦により消耗が軈(やが)て致命的なものとなつて現はれ来るであらうと想像したのであります。
而も斯る場合に於て日本社会を破局から救つて方向転換乃至原体制的再建を行ふ力は日本の支配階級には残されて居らないと確信してゐるのであります。
◆ここに於て私の大雑把な対処方式を述べますと、日本はその破局によつて不必要な犠牲を払はされることなく立直るためにも、又英米から一時的に圧倒せられないためにも行くべき唯一の方向はソ連と提携し、これが援助を受けて、日本社会経済の根本的立て直しを行ひ、社会主義国家としての日本を確乎として築き上げることでなければならないのであります。日本自体のプロレタリアートの政治的力量も経験も残念ながら浅く、而も充分な自らの党的組織を持たないことのためにソ連の力に待つ点は極めて多いと考へられるのであります。
八、現下の世界情勢に対する見解について
◆しかしながら帝国主義国家の意図するところは正に以上の如きものであり、世界の再分割こそ一切の目的あつたとしても、この第二次世界大戦がそれらの主観的意図とはまったく別個の客観的な経過と結果を示すであらうことは、私たちのひそかに確信したところでありました。
◆以上の如き予想に基いた現実の形態と更にこれに対処する方式として私がしきりに描いたところは、次の如きものでありました。第一に、日本は独伊と提携するであらうこと。第二に、日本は結局英米と相戦ふに至るであらうこと。第三に、最後は我々はソ連の力を籍り、先づ支那の社会主義国家への転換を図り、これとの関連に於て日本自体の社会主義国家への転換を図ることでありました。
◆一応の南方進出体制を確立し得た六ヶ月以後には却つて日本に取つて不利な諸状勢が発展し始めるのではないか、その一は船舶の不足等に加重せられて戦時必需物資たる石油、鉄、その他食糧などの不足が問題となり来り、国内人心にもまた動揺が現はれるのではないかと考へ、更に、さなきだに脆弱なる日本の貨幣面に悪性インフレが見舞ふ可能性が軈て増大し繰るであらうと考へたのであります。
日本自身は私の以上の如き考へ方からすれば、頗る敗退の可能性を多く含んだ国といふことになるのであります。
◆私の立場から言へば、日本なり、ドイツなりが簡単に崩れ去つて英米の全勝に終るのでは甚だ好しくないのであります。万一かかる場合になつた時に英米の全勝に終らしめないためにも、日本は社会的体制の転換を以てソ連、支那と結び別の角度から英米に対抗する姿勢を採るべきであると考へました。
此の意味に於て、日本は戦争の始めから、米英に抑圧せられつつある南方諸民族の解放をスローガンとして進むことは大いに意味があると考へたのでありまして、私は従来とても南方諸民族の自己解放を「東亜新秩序」創建の絶対要件であるといふことをしきりに主張して居りましたのはかかる含みを籠めてのことであります。この点は日本の国粋的南進主義者の主張とも殆んど矛盾するところなく主張される点であります。
十、今事件を中心とする現在の心境について
◆勿論、私の行つてゐる如きことが猛烈な反国家的な犯罪であることは云ふまでもありません。従つて理論的には、その行動を是認しつつも時に具体的行動の後ろめたさを感じたことも否定出来ません。
私は常に露見、逮捕と云ふ如き場合の結果を自分の一個の死と結びつけて考へて居りました。「要するに死ねばいいのだろう」と云ふ点に一つの覚悟の基礎を置いて居たわけであります。
〜終わり〜
尾崎秀実は、1944年11月7日、ロシア革命記念日に処刑された。
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尾崎秀実という人物のつづき5
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/08 17:06 投稿番号: [8135 / 8458]
尾崎秀実「検事訊問調書」1941年
(筑摩書房『現代日本思想体系』第9巻「アジア主義」1963所収)
コミンテルンのスパイとして、近衛内閣の中枢で工作活動をしていた尾崎秀美は、1941年、真珠湾攻撃の直前に逮捕された。
戦果に日本中が沸き立っていた開戦2ヵ月後の1942年2月に、検事の訊問に答えた形式の「獄中供述書」は、その後の見通しをあまりにも正確に予測している。
日本がこの通りに敗戦するように、十年以上も身分を隠して工作してきたので、当然だろう。「大東亜戦争とスターリンの謀略」と同様、重要部分のみ抜粋した。
一、コミンテルン並に日本共産党に対する認識について
◆コミンテルンは此の目的実現の為革命の戦術戦略を規定し常に其の支部たる各国共産党を指揮統制してゐるのでありまして現に其の日本支部たる日本共産党に対しても昭和二年の所謂二七年「テーゼ」、昭和七年の所謂三二年「テーゼ」等其の他を以て日本に到来すべき革命の性質を規定し日本に来るべき革命はブルジョア民主主義革命で其の革命は急速にプロレタリア革命に転化するものとし或は革命の性質は急速にプロレタリア革命に成長するブルジョア民主主義革命なりとして、天皇制の打倒をスローガンとすることを規定して居ります。
従つてコミンテルンは世界革命の一環として我国に於ても共産主義革命を遂行して我国体を変革し、私有財産制度を廃止しプロレタリア独裁を樹立し此の過程を通じて共産主義社会を実現せんとするものであることは勿論であります。
三、ゾルゲ諜報団の本質及目的任務について
◆吾々のグループの目的任務はゾルゲから聞いた訳ではありませぬが私の理解する所では広義にコミンテルンの目指す世界共産主義革命遂行の為日本に於ける革命情勢の進展と之に対する反革命の勢力関係の現実を正確に把握し得る種類の情報並びに之に関する正確なる意見をモスコーに諜報する事にあり、狭義には世界共産主義革命遂行上最も重要にして其の支柱たるソ連を日本帝国主義より防衛する為日本の国内情勢殊に政治経済外交軍事等の諸情勢を正確且つ迅速に報道し且つ意見を申し送つて、ソ連防衛の資料たらしめるに在るのであります。
従て此の目的の為には凡ゆる国家の秘密をも探知しなければならないのでありまして、政治外交等に関する国家の重大な秘密を探り出す事は最も重要な任務として課せられて居るのであります。
七、第二次世界戦争から世界共産主義革命への見通しについて
◆私はこの第二次世界戦争の過程を通じて、世界共産主義革命が完全に成就しない迄も決定的な段階に達することを確信するものであります。
その理由は、第一に世界帝国主義相互間の闘争は結局相互の極端なる破壊を惹起し、彼等自体の現存社会経済体制を崩壊せしめるに至るであろうと云ふことであります。
(中略)敗戦国家に於ては第一次世界大戦の場合と同様プロレタリア革命に移行する可能性が最も多く、又仮令一方が残つた場合でも戦勝国は内部的な疲弊と敵対国の社会変革の影響とに依つて社会革命勃発の可能性無しとしないのであります。
◆第二には、共産主義国家たる強大なソ連邦の存在してゐる事実であります。私はソ連は飽くまで帝国主義諸国家間の混戦に超然たるべきものであると考へ、その意味に於てソ連の平和政策は成功であると考へてゐたのであります。
対ソ連攻撃の危険性の最も多い日本及ドイツが前者は日支戦争により、後者は欧州戦争により、現実の攻撃可能性を失つたと見られた時、私は以上の見通が益々確実なものとなつたことを感じたのであります。
◆然らば日本に於ける革命情勢の進展を如何に予想したかと云ふ点について述べると、由来日本は帝国主義国家として最も特徴ある強力なる国家の一つではありますが、その資本主義経済の体制は決して充実した強力なものとは云ひ得ず、寧ろ甚しく不均衡であり、全体としては脆弱性を持つてゐると云ふことが出来るのであります。(中略)
私の秘かに予想した所では、第二次世界戦争はその過程の裡に於て社会経済的に脆弱なる国家程最も早く社会的変革に遭遇すべきものであるから、日本も亦比較的速に斯る経過をとるであらうと考へたのであります。
◆これを最近の段階の現実に照応せしめて説くならば、日本は結局に於て英米との全面的衝突に立到ることは不可避であらうことを夙に予想し得たのであります。
勿論日本はその際枢軸側の一員として立つことも既定の事実でありました。此の場合日本の勝敗は単に日本対英米の勝敗によつて決するのではなく枢軸全体として決せられることとなるであらうと思ひます。
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尾崎秀実という人物のつづき4
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/08 16:41 投稿番号: [8134 / 8458]
戦後、石原は満州事変を引き起こして日本を国際的に孤立させ、大東亜戦争(支那事変と太平洋戦争)へ導いたという史観が常識になった感がありますが、これは大きな間違いです。リットン調査団、国際連盟は満州事変について批判しつつも多分に同情を示し、日本を侵略国とは認定せず、いかなる対日制裁も実行しなかったし、対日最強硬派のアメリカ国務長官スチムソンすら日本に九カ国条約と不戦条約に基づく警告を行っただけで、アメリカは満州事変に干渉しないことを宣言しました。支那大陸に権益を持つ欧米は、支那が無秩序状態にあり、邦人居留民の生命財産が著しく脅かされていた事を知悉していたからです。
日本は国際連盟から脱退する必要などまるでなかったのです。また日本の国際連盟脱退後、英米では満州国の大発展を目の当たりにして満州国を承認すべきであるという声が挙がったし、蒋介石は、昭和11年北支を視察した石原に彼の東亜連盟構想に賛同することを表明し、昭和13年春の孔祥煕工作において日本の満蒙に関する要求を原則的に承認することを日本側に伝え、日中は全面和平の仮合意にまで達しています。満州事変、満州国建国は日本を国際的に孤立させてはいないどころか、日本の国策として大正解でした。なぜなら之により、日本は地理的戦力の欠陥(縦深と資源の欠如)を克服し得るだけでなく、満州を重工業化し興安嶺黒竜江沿いに防衛線を構築し、満州朝鮮日本樺太より、ウラジオストーク(東方を征服せよ)を含む沿海州を包囲し、ソ連の極東攻略を完全に撃滅し得るからです。だからこそ、満州事変直後の1932年4月、コミンテルン(ソ連共産党国際部)はソ連の防衛と拡大を図るべく、尾崎秀美リヒャルトゾルゲからなる諜報謀略部隊を日本に潜入させたのです。満州事変〜大東亜戦争の正体は日ソ戦であり、日本史上屈指の天才、石原莞爾と尾崎秀美の戦いだったのです。石原は東亜連盟を構想し、対支英米戦に猛反対し、最終戦争による世界恒久平和をめざし、尾崎は東亜新秩序を構想し、支那事変解決を執拗に妨害し日本を対英米戦へ誘導し世界新秩序による世界恒久平和を夢想した。通州事件の直後、石原が主張した南京首脳会談開催を拒否した内閣書記長、風見章(戦後社会党左派に所属し、スターリンが創設したソ連のフロント組織世界平和評議委員会委員や日ソ協会副会長を務めた狂信的共産主義者)は尾崎の大親友で尾崎同様ソ連の工作員だった可能性が濃厚です。そして涙を流して日中全面和平を訴えた多田駿参謀次長の猛反対を押し切って和平交渉を打ち切り独断で「爾後、蒋介石を対手とせず」という第一次近衛声明を出し、参謀本部の早期和平方針を粉砕した近衛文麿自身もおそらく・・・。いずれその証拠を紹介しよう。
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尾崎秀実という人物のつづき3
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/08 16:23 投稿番号: [8133 / 8458]
評論家としては、中国問題に関して『朝日新聞』『中央公論』『改造』で論陣を張った。 1937年(昭和12年)年7月に盧溝橋事件が起こると、『中央公論』9月号で「南京政府論」を発表し、蒋介石の国民政府は「半植民地的・半封建的支那の支配層、国民ブルジョワ政権」であり、「軍閥政治」であるとして酷評し、これにこだわるべきでないと主張した。また、9月23日付の『改造』臨時増刊号でも、局地的解決も不拡大方針もまったく意味をなさないとして講和・不拡大方針に反対、日中戦争拡大方針を主張した。11月号では「敗北支那の進路」を発表、「支那に於ける統一は非資本主義的な発展の方向と結びつく」として中国の共産化を予見した。
こうした主張は、翌1938年(昭和13年)1月16日の第一次近衛声明に影響を与えた。同年『改造』5月号で「長期抗戦の行方」を発表し、日本国民が与えられている唯一の道は戦いに勝つということだけ、他の方法は絶対に考えられない、日本が中国と始めたこの民族戦争の結末をつけるためには、軍事的能力を発揮して、敵指導部の中枢を殲滅するほかないと主張、また『中央公論』6月号で発表した「長期戦下の諸問題」でも中国との提携が絶対に必要だとの意見に反対し、敵対勢力が存在する限り、これを完全に打倒するしかない、と主張して、講和条約の締結に反対、長期戦もやむをえずとして徹底抗戦を説いた。
第1次近衛内閣が成立すると、近衛文麿の側近として軍の首脳部とも緊密な関係を保ち[2]、支那事変の長期化問題、国内の政治・経済体制の方向付けに決定的な発言と指導的な役割を担っていた(近衛は尾崎の正体を知った際に驚愕し、「全く不明の致すところにして何とも申訳無之深く責任を感ずる次第に御座候」と天皇に謝罪している)[3]。尾崎を中心とした昭和研究会は国策の理念的裏づけを行い、大政翼賛会結成を推進して日本の政治形態を一国一党の軍部・官僚による独裁組織に誘導しているが、昭和研究会のメンバーは尾崎ら共産主義者と企画院グループの「革新官僚」によって構成され、理念的裏づけはことごとくマルクス主義を基にしていた[4]。
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尾崎秀実という人物のつづき
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/08 12:09 投稿番号: [8132 / 8458]
そして、1937年6月30日の朝飯会。
幹事役の尾崎秀実がこう切り出した。
「内閣発足間もない時局重大な折からこのような情報をお伝えしなければならないのは誠に遺憾であります。東亜問題研究会の情報によれば、来る七月上旬、北京周辺に置いて我が軍に対して不穏な動きをなす分子の活動が予測されております。これが発火点となって日支間の戦争へ発展、さらに長期化する恐れさえ報告されています」
これを聞いた近衛首相はこの情報を陸軍や参謀本部に極秘で流した。
この直後に尾崎はゾルゲにこのように言われた。
「劉少奇同志筋からの伝言だから間違いない。実際には宋哲元の二十九軍に北京や天津の大学生党員とシンパをたくさん潜入させている。彼らは変装して第二十九軍に紛れ込み、抗日を叫んで日本軍を挑発し、かく乱する最前線に立つ。これであなたの予想や読みが当たることになってとてもやりやすくなるでしょう。私への情報は宮城与徳からだから信頼は大丈夫だ」
この後、1937年7月7日、予想通り盧溝橋事件が起きました。
7月8日、
尾崎秀実は支那情報の正確さを買われて首相秘書官の牛場友彦と岸道三を通じて風見章が朝日新聞社を退社させて、内閣嘱託として官邸内に入ることになりました。
尾崎は手記でこの頃のことをこう書いています。
「内閣嘱託たる地位にあった関係から、この重大な転換期における国の政治の重要な動向を知り得たと同時にその時々の政治情報等も容易に察知し得たのであります。これらの情報はもちろんゾルゲに報告すると共に、政治動向に関する私の意見も述べているのであります」
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尾崎秀実という人物
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/08 12:01 投稿番号: [8131 / 8458]
東京裁判によって盧溝橋事件は日本軍が起こしたもの、とされました。
学校でもそう教えています。
しかし、今ではこれは中国共産党の仕業であったことが判明しており、
学校で教えなくてもそこは理解している人は増えてきました。
しかし、この事件は日本と支那を戦争に引きずり込むだけに起きたことなのでしょうか・・・
これを利用して日本の政府の中に深く入り込んで、近衛首相陣営、政府や軍部と密接な関係となり、支那事変処理の方向や国内政治経済体制に決定的な発言と指導的役割をしていた人物がいました。
それが尾崎秀実です。
尾崎秀実。
台湾育ちの尾崎は東京帝大時代にマルクスボーイの「新人会」に入り、
ペンネームを白川次郎と名乗っていました。
この東大の時に「共産主義を信奉するに到った」と尾崎は手記に書いています。
その後、朝日新聞社に入社すると社内の同志と「レーニン主義の諸問題」の研究会を行い、ペンネームを草野源吾として日本労働組合評議会に加入します。1928年、朝日新聞上海支局勤務となると中国共産党と関係が出来て抗日運動に加わります。
この時にコミンテルンのアメリカ人ジャーナリストのアグネス・スメドレーに出会い、日本から上海支局に送られてくる情報をスメドレーに提供していました。この時スメドレーは愛人であったゾルゲを尾崎に紹介しました。
尾崎は上海から日本の朝日新聞社に戻り、宮城与徳を通してゾルゲに再会し、ゾルゲと共にソ連のための諜報活動をすることになります。
当時、尾崎のことを日本の言論界では「進歩的愛国者」「支那問題の権威者」「優れた政治評論家」と呼んでいました。
しかし、尾崎は自分がソ連のスパイで共産主義者であることを、十数年連れ添った妻にも知らせてはいなかったのです。・・・
1934年頃、近衛が渡米した時に蠟山政道とともに牛場友彦も随行した関係で近衛と親しくなり、牛場は第一次近衛内閣の首相秘書官に起用されました。
牛場と尾崎は高校、大学を通じての同級生でした。
近衛内閣成立間もなく牛場友彦首相秘書官と岸道三は政治経済に明るい者の意見や情報を得るため近衛首相のブレーンたちと夕食の懇談をやっていました。メンバーは蠟山政道、平貞蔵、佐々弘雄、笠信太郎、西園寺公一、尾崎秀実、そして風見章書記官長もたまに顔を出したと尾崎は手記に書いています。
その後、尾崎は岸や牛場と相談して夕食の懇談を時間の融通のきく朝八時に開催する「朝飯会」にして、政治についての意見や希望を述べて近衛内閣を助けていくことにしました。しかし、助けるというのはあくまで名目でした。
「毎月二回位宛招集して、朝食を共にしながら政治外交、経済を初め
色々な時事問題につき相互に意見の交換を行って来ました」(尾崎手記)
「朝飯会は相当長期間にわたる会合ではあり、そのメンバーには近衛公の側近者である岸道三、牛場友彦、西園寺公一、松本重治、がおり、又牛場、西園寺、松本、犬養健等の如く外交に関連を持ったものがあったので、これ等の人達から日本の政治外交等に関する価値の多い情報を入手し得たのでありまして、この会合は私の諜報活動の上に相当の成果を挙げさせて来たものということが出来ます」(尾崎手記)
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腐れテレビ局NHKのつづき5
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/08 10:45 投稿番号: [8130 / 8458]
番組では結構な時間を使って近衛首相をコケにしていたNHK。
近衛は陛下やマッカーサーに鋭く左翼や共産主義者の脅威を指摘していたため 、GHQや左翼に目をつけられていました。
それが戦後、近衛の評価がよくない一因でもあります。
それに比べて番組で出てきた内大臣の木戸幸一。
木戸のしてきたことは一切触れなかったのでここで触れておきます。
東條を首相にしたのは木戸でしたが、この木戸のやってきたことはひどいものでした。
陛下に上奏するために参内する者は全て内大臣の木戸を通さねば出来なかったため、陛下への情報が偏っていました。
その木戸幸一の弟は和田小六で、和田の娘の夫が都留重人でした。
自宅が空襲に遭っていた木戸幸一は都留や和田と同居していました。
都留重人は学生の時に反帝同盟というコミンテルン組織に入り、治安維持法で逮捕され、日本の大学には進学出来なくなりハーバード大学に留学しました。当時のハーバードはコミンテルンの巣のようなところで、コミンテルンのハーバード・ノーマンと知り合いアメリカ共産党に入りました。都留はコミンテルンであるスメドレーの親友の石垣綾子らと米国各地で反日活動を行っていました。
戦後、ノーマンが日本の専門家としてマッカーサーと共に日本にやって来て、ノーマンがまずやったことは「マッカーサー指令」により16名の共産党員を府中刑務所から釈放し、それから近衛と木戸の戦争責任の意見書を作ることでした。この時、ノーマンは都留と再会し、都留の情報で近衛の「戦争責任に関する覚書」を作成します。近衛を貶めたのはこの「ノーマン覚書」でした。
木戸のことは「内大臣の役割は軽く、陛下の御前に出るのも月一回くらいである」と、木戸の責任は故意に小さくし、木戸も自分のことを権限が軽かったと主張していました。
しかし、実際は木戸になってから内大臣の権限は大きくなり、戦時中の首相選定にまで口を出し、東條内閣の時には木戸が重臣たちと陛下の拝謁を妨げてきました。五摂家の近衛でさえも陛下と3年間拝謁できない状況でした。
岩淵辰雄は雑誌「新生」で次のように書いています。
「戦争という国家の大事が、わずかに総理大臣としての東條と、内大臣としての木戸と、この二人の専断によって推し進められ決定されていたという結論を生みだす。木戸内大臣は何等の責任も負うべきものがないと考えているのだろうか」
ハーバード大学で都留と同僚でコミンテルン人脈であったポール・バランは、占領軍を代表して誰を戦犯とするかという「戦犯調書」を取った人物で、近衛を東京湾の軍艦に連れ込んで「お前は絶対死刑になる」と脅して自殺に追い込みました。その後、近衛は自殺して、木戸は天寿を全うしたのです。
・・・
番組の最後に松平キャスターはこう締めくくりました。
「大事なことは多くの皆さん方が、戦争というものは愚かなものだということに気づいていながら、しかし、戦争の道をとってしまったという事実の重さでございます。いや、あれはあの一時期の狂気のせいだ、ということだけで片付けてしまうわけにはいきません。日本の内外におびただしい数の犠牲者が出ました。この多くの犠牲者になった方々のことを思う時に私達は少なくとも、なぜ私達はあの戦争への道を選んだのかというとこを考えることを止めてはいかんのだ、というふうに思います」
本当にそう思うならばNHKは肝心なことに触れないフィクションのような番組作りはやめるべきでしょう。
その巨大組織NHKはどうだろう。
NHKは不祥事を起こした職員を関連会社などで採用したり、受信料を職員が着服して使っていたり退職者の企業年金の一部に補填していたこともありました。報道の内容も自虐史観に基づいた反日報道で、公共放送としてふさわしくありません。このようなNHKを放送法で保護する必要があるのでしょうか。また福地茂雄会長の任期満了による前代未聞のドタバタ劇でNHK次期会長を受諾していた安西氏は「一貫した姿勢を全く持たない経営委では会長に就任してもNHKをよくするのは困難だ」と言い切りました。
NHKのリーダーたちは腐敗したNHKを本気で建て直す気があるのでしょうか。
国民から受信料を払わせているのですから先送りは許されません。
現実を無視して偏向に突き進んだNHKの改革は、少しは進んでいると思っていました。しかし事態はもっと複雑のようです。・・
これは メッセージ 1 (keisatsufushouji さん)への返信です.
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腐れテレビ局NHKのつづき4
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/08 10:30 投稿番号: [8129 / 8458]
「本音では戦争を避けたいリーダーたち。しかし多くの恨みを買うその決断を誰が言い出すのか・・・」
と松平定知キャスターは言う。さらにこのようにも言いました。
「日本の緊急時、非常時に当たってリーダーたちは何一つ具体的な方策を決められないでいました。ああいう意見がある、こういう意見がある、そういう意見もある。いっぱいある意見を一つに一本化出来ずに様子を見ているうちに全面禁油が現実のものになっていったのでございます。
日本に残された石油の備蓄は2年あるかないか。国家の機能が停止するのは時間の問題です。・・・事ここに至ってですね、リーダーたちは選択肢は二つしかありませんでした。
一つは中国からの撤兵をのむ「対米譲歩」、もうひとつは南方の資源を「独自調達」する。
この二つしかなかった。
しかし前者は国内、後者は英米の反発が必至である。まさに進退極まれりと言うところです。
もうこれまでのように結論をぼやかしたり先送りしたりすることは許されません。
今度こそ国家の大局に立って決断を思いきらなければならない。
しかし皆さん、リーダーにとって決断はさらに困難さを増していくのでございます」・・・
三田村武夫氏は「戦争と共産主義」でこのように書いています。
昭和18年4月のある日、筆者が荻外荘に近衛公を訪ね、戦局、政局の諸問題に尽き率直な意見を述べて懇談した際、「この戦争は必ず負ける。そして敗戦の次に来るものは共産主義革命だ。日本をこんな状態に追い込んできた公爵の責任は重大だ」と言ったところ、彼はめずらしくしみじみとした調子で、第一次、第二次近衛内閣当時のことを回想して、「なにもかも自分の考えていたことと逆な結果になってしまった。ことここに至って静かに考えてみると、何者か目に見えない力にあやつられていたような気がする」と述懐したことがある。
彼はこの経験と反省を昭和20年2月14日、天皇陛下に提出した上奏文の中で
「・・・満州事変、日華事変を起こし、これを拡大してついに大東亜戦争にまで導き来れるはこれ等軍部内の意識的計画なりしこと、いまや明瞭なりと存じ候。・・・不肖はこの間、二度までも組閣の大命を拝したるが、国内の相剋、摩擦を避けんがため、出来るだけこれら革新論者の主張を容れて挙国一致の実を挙げんと焦慮せるの結果、彼らの背後に潜める意図を十分に看取する能はざりしは、全く不明の致すところにして何としても申し訳なくこれ深く責任を感じる次第に御座候」と言っている。
つまり近衛は過去十年間、日本政治の最高責任者として、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面にわたって交友を持ってきた自分が、静かに反省して到達した結論は、「軍部、官僚の共産主義的革新論とこれを背後よりあやつった左翼分子の暗躍によって、日本は今や共産革命に向かって急速度に進行しつあり、この軍部、官僚の革新論の背後に潜める共産主義革命への意図を十分看取することのできなかったのは自分の不明の致すところだ」と言うのである。
NHKが思っているほど、首相も閣僚も軍人も国民も誰もが戦争はしたくないに決まっています。
しかし、ユダヤの日支闘争計画、コミンテルン会議、ヨセミテの太平洋問題調査会国際会議などで日本の戦争は仕組まれていたのです。
資源のない日本の選択肢は戦うか、戦わずして資源を枯渇されて植民地にされるかでした。
さらにこの状況で的確に判断しようとしても内閣の中に、官僚に、軍部に、マスコミにコミンテルンの手先が日本を戦争させるために様々な工作を行っていました。
こういうことをNHKは言わない。
つづく
これは メッセージ 1 (keisatsufushouji さん)への返信です.
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腐れテレビ局NHKのつづき3
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/08 10:17 投稿番号: [8128 / 8458]
あるブログより引用。
NHKスペシャル「日本はなぜ戦争へと向かったのか」の4回シリーズの最終回、“開戦・リーダーたちの迷走”をやっていました。
1941年に焦点を充てて日本の決断できない結果が開戦となった、というものです。・・・
番組はこう切り出しました。
「今から70年前の1941年、日本はアメリカとの破局的な戦争「太平洋戦争」へと向かいました。
当時のリーダーはアメリカとの圧倒的に国力差という現実を無視して開戦に突き進んだと考えられてきました。しかし事態はもっと複雑でた。・・・」
「現実を無視した」と思っていたら「事態はもっと複雑でした」というNHK.。
「日本は好戦的で、戦争こそ命」とでも本気で思っていたようです。
どれほど馬鹿でも「現実を無視して開戦に突き進む」わけがあるまい。
「国家の指導者たちはなぜ不利と承知の戦争を避けられなかったのか、これは開戦前半年前の衝撃的な記録です。・・・・今回、取材をしてみてわかったことは、この段階で日本はアメリカと戦争をしなくてはいけないんだ、というふうに本気で思っていたリーダーたちはいなかったということです。では皆さん、なぜ、日本は戦争へと向かっていってしまったのでしょうか。・・・」
その後、番組で強調したのは、「日本が大東亜戦争に突入したのは首相や閣僚たちが迷走して決断できないからだ」ということでした。そのために番組で繰り返し使う言葉は「先送り」でした。
1941年7月2日、
「南進、北進、どれかに絞ることなく全て進めるというその場的プランでした。しかも具体的なことは状況を見て別に定める、つまり何も決めず準備だけするという実質様子見、先送りでした」
これは6月24日の大本営が策定した「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」の、
「支那事変処理に邁進し、自存自衛のために南進し、独ソ戦が帝国に有利となれば武力で北辺の安定を期す」という三面作戦を打ち立てたもので、
これを元に7月2日に御前会議で「独ソ開戦に伴う新情勢に対応する国策決定」としたものです。南部仏印進駐し、北方は日本に有利となるまで待つことでした。
9月3日、
陸・海軍の共同提案を議する連絡会議で「帝国国策遂行要領」を決定しましたが、「外交交渉で10月上旬にも我が要求のめどなき場合にはただちに対米開戦を決意し、10月下旬に戦争準備を完成する」としたこれも「先送り」だと言いました。
また、近衛首相から東條首相となって、陛下から「国策の大本を決定するには9月6日の御前会議にとらわれることなく内外情勢を検討して慎重に」という「白紙還元の御諚」を伝達されて、日本が譲れる最後の線として12月1日まで外交交渉すると決めたことも「またも先送り」したと言う。
戦争を避けるため最後の最後まで外交交渉をしようと期限を決めたことを「先送り」というNHK。
NHKは外交交渉で先送りせずに「戦争はしない」と決断すればいいと言わんばかりでした。
つづく
これは メッセージ 1 (keisatsufushouji さん)への返信です.
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腐れテレビ局NHKのつづき
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/08 05:18 投稿番号: [8127 / 8458]
「『昭和12年12月13日、敵の首都 南京を攻略せり・・・』
首都・南京の陥落が伝わると国民は熱狂しました。
デパートでは南京陥落セールが行われ、東京では戦勝祝賀のちょうちん行列に40万人が参加しました。
(ここで画面は昭和13年1月のアメリカ・ニュース映画「南京占領」を流します)
一方、海外では日本軍による南京での非戦闘員への殺害などが伝えられ非難が起こります。日本国民にはこうした状況が知らされず、日本世論と世界の認識が離れていきます。しかし、首都が陥落しても日中戦争は終わらず長期戦に突入。国民の戦意を保つためにラジオの戦争放送は熱狂を作り続けます・・・」
NHKはいわゆる「南京大虐殺」はあったとして放送しました。
海外では虐殺を報道しているのに、日本のメディアはそのことを日本国民に知らせずにいた。
だから戦後まで日本人は知らなかったのだ、つまり軍やメディアに騙されていたのだ、ということを言いたいのでしょう。
しかし、ありもしない非戦闘員の虐殺をあったように放送するそのNHKのやり方こそ国を誤った方向へ向けていくものです。
この南京大虐殺20万人説を最初に流布したのはアグネス・スメドレーです。
彼女は米英の機密文書でコミンテルンスパイということが確定しています。
このスメドレーの仲間がゾルゲであり尾崎であります。
「しかし国民の間には不満が生まれてきます。報道では日本は連戦連勝なのに、なぜ中国は屈しないのか。戦争は長引き経済は悪化の一途だ」
支那事変が長期化するのはコミンテルン会議の予定通りであり、そうなるようにしていったのがメディアに多くいたのは説明したとおりです。
1938年、コミンテルンのスメドレーの親友の石垣綾子らは米国で「反日」活動や支那事変反戦集会とともに「日本に石油を売るな」「日本を孤立させよ」という集会をアメリカ各地で開催していました。
これが1939年の日米通商航海条約破棄へとつながる要因ともなるのです。
こうしてみても日本人の中には数多くのコミンテルンの手先が存在し、第七回コミンテルン会議の指令に沿って日本を戦争に巻き込んでいったのです。
しかし、NHKはこの核心には一切触れなかった。
・・・番組はさらにこう続く・・
「作られた国民の熱狂とともに日本は太平洋戦争への道に大きく踏み出すことになりました」(画面は紀元二千六百年式典となり)
式典を指して「熱狂はピークになった」
とNHKは解説しました。
ここで次のようなラジオ放送を流します。
「皆様もこの時、電波に伝わる首相の発声に和して、声高く万歳を
お叫び下さい」「天皇陛下万歳、万歳、万歳」
(ここで画面は、式典で皇居に集まった多くの国民たちが一斉に万歳をする)
天皇皇后両陛下行幸啓の下で行われた「紀元二千六百年式典」と戦争は全く関係ないことです。番組ではこの関係ない二つを結びつけて「熱狂」を演出するNHK。これではまるで天皇陛下を中心に日本は戦争に熱狂していったといわんばかりです。これは陛下と国民をNHKの偏向番組に利用するものではないか。・・・
そして最後を迎えて、NHKの松平定知キャスターはこう語った。
「日本のかじ取りを任された指導者たちは、自分たちの行動に自信がないために世論を利用しようと思った。世論の動向に一喜一憂したわけですけれど、しかしその世論はメディアによって熱狂と化しておりました。
そしてその熱狂は最後の段階で日本人を戦争に向かわせる一つの要因となりました。
本来ジャーナリズムの役割というのは世の中に起きているいろんな事象を
的確に把握してチェックして国民が冷静な判断を下せるよう提供することでありました。
しかし、こうして戦争を迎える時代のメディアのありようを見て思うことは、メディアがおかしくなれば国家はすぐにおかしくなるということです。
本当にわずかな時間、期間の中で国家の運命が狂わされてしまう。
そういう力をメディアは持っている。そのことを改めて突き付けられた思いでございます」
ありもしない南京大虐殺をあったように報道するNHK。
偏向報道のために「紀元二千六百年式典」をも利用するNHK。
多くの共産主義者たちが戦争を長引かせ戦争に駆り立てた核心部分には触れず軍とメディアこそが悪と決めつけて番組を制作するNHK。
「メディアがおかしくなれば国家はすぐにおかしくなるということです・・・」
この言葉は誰に言っている言葉か、言わずと知れたことです。
これは メッセージ 1 (keisatsufushouji さん)への返信です.
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腐れテレビ局、NHK・受信料返せ!
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/08 05:01 投稿番号: [8126 / 8458]
あるブログより引用。
NHKスペシャル「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」の第3回“熱狂”はこうして作られた、をやっていました。
「軍に批判的な新聞には言論弾圧が忍び寄りました。
そのひとつ、信濃毎日新聞、きっかけは「関東防空大演習を嗤(わら)う」と題する記事でした。
これまでも軍部に批判的記事を書いてきた、主筆 桐生悠々(きりゅう ゆうゆう)は、木造家屋が密集する日本は空襲されたら終わりであり、防空演習は役に立たないと論じました。
この記事が軍部の目にとまり信濃毎日新聞は言論機関としての岐路に立たされます。
<1933年9月
長野市 信濃毎日新聞本社>
9月の暑い日、信濃毎日新聞常務
小坂武雄のもとに信州郷軍同志会と名乗る団体が突然訪れた。
「我々は会員八万を代表して、主筆桐生と、編集局長三沢の退社、並びに貴殿による謝罪文掲載を要求する」自分たちの主張にそぐわない新聞には不買運動を持って圧力を掛けました。・・・」
左翼新聞の信濃毎日新聞。
桐生悠々は乃木大将が明治天皇に殉死したのを悪い習慣であると「陋習打破論」を書いた。
また、朝日新聞から信濃毎日新聞に来たマルキストの風見章は、信濃毎日新聞でマルクスの「共産党宣言」の記事を書いたり、1927年の「女工哀史」問題の岡谷製糸の労働争議の女工たちのストの先頭に立って共産主義の主張を新聞の社説で書いていました。
風見章は信濃毎日新聞社を退社後に第一次近衛内閣の内閣書記官長になります。この時に尾崎秀実を内閣嘱託に入れました。
尾崎は内閣に入り込んで日本政府の重要情報をゾルゲを通してモスクワに流し、ソ連を防衛するために日本を戦争に巻き込んでいきました。
風見は戦後、社会党左派指導者として伊藤武雄、細川嘉六、西園寺公一などと日中国交回復と称して台湾と断交させて、日本をチャイナに売り渡すような知識人やマスコミ勢力をつくりました。
また、近衛首相が1938年1月16日に「帝国政府は爾後国民政府を相手にせず・・」とした一・一六声明に対し、1月19日の読売新聞夕刊で三木清は「長期戦の覚悟」を書きます。
そこには、「いよいよ長期戦の覚悟を固めねばならぬ場合となった。
それはもちろん新しいことではなく事変当初からすでに予想されていたことである。・・・これに処して行くには強靭な精神が必要である」
これは国民に支那事変の長期化を覚悟せよということです。
三木清も共産主義者であり、1942年に治安維持法違反で検挙され獄中で悲惨な死を遂げました。しかし戦後、三木清は「戦争に反対したがゆえに軍閥政治の犠牲となって獄死した」と伝えられたが、反戦どころかコミンテルンの指示通り読売新聞で真っ先に長期戦を訴えたのです。
また、朝日新聞論説委員の佐々弘雄は尾崎秀実の友人であり、笠信太郎も尾崎秀実の朝日新聞での同僚でありコムミニストであった。
さらに同盟通信編集局長の松本重治もコムミニストであり、彼は支那事変の最中に、まとまりかけた日本と支那の和平交渉をぶち壊し、コミンテルンの指示通り支那事変を長期戦にさせるために汪兆銘の傀儡政府をつくっていったひとりでした。
日本には1923年の関東大震災の時に各国の救援団が入り込み、その中にはコミンテルンの国際労働者救援会もいました。
1926年にはコミンテルン秘密宣伝部が日本の新聞や雑誌の19のメディアをコントロール下においたと実際に工作したアーサー・ケストラーが告白しています。
このように、当時の新聞社や言論界には多くのコミンテルンの手先がいて、
モスクワでの第7回コミンテルン会議の方針通り、支那事変を長期化させ、日本を戦争に導くために国民世論を煽っていったのです。こうしてみると、国民を戦争に煽ったのはコミンテルンの手先であったといえます。
・・・番組はこのように続く・・
ラジオが新聞とともに日本を戦争に駆り立てた。
そのラジオを独占していた日本放送協会総裁は戦後まで近衛文麿であった。
近衛が首相になると直後に支那事変が起き、世論を味方につけるために7月11日、メディアの代表40人を首相官邸に集めました。近衛は政府への全面協力を要請する。同盟通信の社長が代表して協力を約束した。政府とメディアの挙国一致報道の始まりだった。そして、ラジオ放送として近衛首相の演説を流した・・
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戦争と共産主義
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/07 21:54 投稿番号: [8125 / 8458]
三田村武氏の著書「戦争と共産主義」に岸信介氏がこのように書いています。「読むほどに、私は、思わず、ウーンと唸ることしばしばであった。
支那事変を長期化させ、日支和平の芽をつぶし、日本をして対ソ戦略から対米英仏蘭の南進戦略に転換させて、遂に大東亜戦争を引き起こさせた張本人はソ連のスターリンが指導するコミンテルンであり、日本国内で巧妙にこれを誘導したのが、共産主義者尾崎秀実であった、ということが実に赤裸々に描写されているではないか。
近衛文麿、東條英機の両首相をはじめ、この私まで含めて、支那事変から大東亜戦争を指導した我々は、言うなればスターリンと尾崎に踊らされた操り人形だったということになる。私は東京裁判でA級戦犯として戦争責任を追及されたが、今思うに、東京裁判の被告席に座るべき真の戦争犯罪人はスターリンでなければならない。しかるに、このスターリンの部下が東京裁判の検事となり判事を務めたのだから、まことに茶番というほかない。・・・」
1926年12月に第二次日本共産党が結成されました。
27年テーゼによって、「ブルジョア政府を倒してプリレタリア共産党政権を樹立せよ」と労農革命戦術を行います。
労働農民党、日本労働組合評議会、全日本無産青年同盟の三団体は破壊と非合法の暴力革命闘争を行い、資本主義崩壊と天皇制打倒の革命闘争を行います。
当時の社会情勢は、まさに経済恐慌であり、世界は不景気となり、
日本も年々不景気となっていきました。
米価は下がり、農家の負債がどんどん増え続け、ついに農家は田畑を売り、首をつるもの、親子心中する者などが多くなっていきました。
また、都市でも倒産者が相次ぎ、失業者があふれ、
資本家は労働者の首切りや工場閉鎖を強行していきました。
これに対抗するため、労働者の組織的闘争が急激に増えはじめ、
「資本主義制度はもはや末期症状だ」
と言われはじめ、社会主義運動に拍車がかかっていきました。
1928年3月15日、
内務省は共産党関係を一斉検挙しました。
これにより530人が収容され、5000人以上が取り調べを受けました。
労働農民党、日本労働組合評議会、全日本無産青年同盟の三団体は
内務大臣より結社禁止処分を受けました。
これが、いわゆる三・一五事件であります。
この三・一五事件があった同じ年、
モスクワで「第六回コミンテルン会議」が開催されました。
その中で資本主義国家同士の戦争に反対するのではなく、奨励推進し、
しかもその国の政府の敗北を助成し、
ブルジョア政府とその軍隊を自己崩壊に導き、戦争を通じてプロレタリアート革命を遂行する。
「資本主義戦争を敗戦革命へ」の戦略コースを巧妙に実践せよという、
レーニンとコミンテルンの敗戦革命への戦略戦術論が日本の軍部と政府に巧妙に適用されました。
これはどういうことかというと、コミンテルンの究極目標は全世界で共産主義革命を完成させることでした。そのために資本主義の支柱である米・英・日・独の強大国を倒さねばならない。倒すにはその国の共産勢力を強化して革命を起こし内部から崩壊させること、外部から武力で叩きつぶすことでした。
しかし、これらの国では共産党の力が弱く革命は成功しない。
また外部武力で叩きつぶす力がコミンテルンにはなかった。
ならば資本主義国家同士二つの陣営に分かれて大戦争をやればどちらかが負け、戦時中の消耗で経済も弱まり資本主義体制が弱体する。
このための第二次世界大戦が好ましい。
まずヨーロッパではドイツが邪魔でありました。
ドイツと英・仏を対立させ米国を戦争に引き込む。
ドイツとイギリスのどちらが負けても欧州の地図は一変し混乱するはずである。
また、極東で邪魔なのは日本と米・英をバックにした蒋介石である。
そこで日本と蒋介石を戦わせる。
すると背後にある米・英は必ず乗り出してくる。
そうすれば支那と南方植民地を舞台に戦いが起き、
日本が敗北する寸前に我がソ連が兵を進めてその止めを刺す。
日本と蒋介石が崩壊し後には中国共産党が残る。・・・
1928年の段階でこのような方針で謀略を立てていきました。
日本と支那を戦わせることは1918年のユダヤ人による日支闘争計画にもありました。
そして、実際に支那事変が起きたのは1937年、大東亜戦争は1941年です。
これは メッセージ 1 (keisatsufushouji さん)への返信です.
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Re: 侵略国日本は国際社会の前科者
投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/03/07 21:18 投稿番号: [8124 / 8458]
中国が生産拠点であるというだけで品質を心配する奴はバカである。
日本なら三人で担当する工程でも中国なら六人かけられる。そのシステムをよく考えてみろ。
日本人は残業が当たり前の社会でこそ経済発展が出来た。今はもう無理。政治や不況のせいじゃない。
国民がバカなんだからどうしようもない。
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コミンテルンの罠
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/07 21:04 投稿番号: [8123 / 8458]
1935年の7〜8月、モスクワで第七回コミンテルン会議が開催されました。
この会議は日本の命運を決めるものでした。
ここで日本とドイツを敵国とし、
敵国日本を崩壊させるために思い切った戦略戦術の転換をはかります。
(日本とドイツはこの翌年に日独防共協定を結びます)
まず、支那では中国共産党と蒋介石の国民党を提携させて、
抗日の人民戦線を確立し、支那全民衆を抗日戦線に動員することとしました。
これは翌年1936年12月に西安事件に表われてきます。
ソ連は蒋介石の唯一の息子・蒋経国を1925年から留学を口実に事実上人質にしており、
蒋介石は何度か帰してもらうよう交渉していましたが帰されず、
この西安事件を機に帰されたことは、何を意味するものかわかろうというものです。
また、日本の官憲が最も神経をとがらせていた非合法の反国家運動や
天皇制打倒の革命闘争は犠牲ばかりが多いので、
天皇制打倒はしばらく隠して表面には出さず、
合法的に日本の体制を内部から切り崩していくこと、
そして従来から日本で行っていた「戦争反対」運動を引っ込め、
逆に軍部を操って戦争に追い込み、軍閥政権を自己崩壊させるとしました。
ここでは日本の軍部の中でも陸軍は特異であるという位置づけでした。
当時、日本は世界五大強国の一つであり、
その国力の中心は軍部、特に陸軍であると認識されていました。
その陸軍の兵士の多くは貧農、小市民、勤労階級で構成されており、
将校の多数は中産階級以下の出身でありました。
従ってその傾向は反ブルジョア的である、としたのです。
この時期の軍人は、資本主義はもう駄目だ、国家改造しなければ救われない、
という考えとともに、特に若い軍人たちには1923年に北一輝が上海で書き上げた著書
「日本改造法案大綱」が広く受け入れられていました。
この青年将校の国家改造運動が軍部政治への源泉であります。
彼ら軍人の思想には二つの面がありました。
一つは天皇陛下の軍隊である立場で国体への全面的信仰による反共産主義と、
もう一つは貧農生活を守る立場から反資本主義です。
つまり、青年将校が共産主義に対抗したのは、
共産主義が資本主義を打倒して全世界を共産主義化にしようという目的があったからではなく、
共産主義が反国体であったために反対したのです。
この資本主義擁護の立場でないことが共産主義から利用されることになりました。
軍人には天皇制を戴いた社会主義国家の建設を理想とさせ、
その建設がなされたときに天皇制を破滅させればよいとしたのです。
さらに具体的手段として、日本の軍閥に政治の実権を与えること、
官僚を軍部に同調させ権力専制政治を強行させること、
さらには支那事変を長期化させるため蒋介石との和平を遮断する楔として
日本の傀儡政府を支那に作ることとしました。
この傀儡政府は国民党のナンバーツーであった汪兆銘の南京政府となるのです。
日本でこの傀儡つくりに奔走したのが軍務課長であった影佐禎昭でした。
この影佐の孫が現自民党総裁・谷垣禎一です。
この大会でコミンテルン日本代表として参加したのは野坂参三でした。
野坂は戦時中は支那で抗日に協力し、戦後は帰国して日本共産党議長となった人物です。
さて、この大会で敵国とした日本とドイツに対して、
ソ連をナチスと日本軍の両面作戦に立たされないようにソ連防衛のための諜報と日本の力を弱めるために労農赤軍参謀本部第四局(GRU)のウリツキーからゾルゲに対して、尾崎秀実を日本でソ連のスパイとして使うこと、
そして、日本のドイツ大使館にて諜報するよう指令を受けたのです。
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NHKよ、国内だけの犯人探しは止めよ!
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/07 11:18 投稿番号: [8122 / 8458]
日本が先の大戦に突入したのは「○○のせい、○○の判断ミス、○○がこうすれば良かった」。NHKの解説者は偉そうに毎回こればかり言っている。
当時、自分が指導者だったら正しい判断ができたというのか。
日本は止むを得なく戦争を始めたのである。
いつも戦争を計画し、仕掛けたのは欧米の国々であり中国でありコミンテルンであった。日本は常に受身であった。
私はこのようなNHKに受信料を払っているのではない。
特に中国の顔色を伺うような番組を作るな!
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Re: 侵略国日本は国際社会の前科者
投稿者: sensouhouki6 投稿日時: 2011/03/06 16:44 投稿番号: [8121 / 8458]
日本はだめだ
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中国が仕掛けた日中戦争
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/05 03:57 投稿番号: [8120 / 8458]
この通州事件で約260人の日本人が虐殺された。一度に起きた虐殺事件としては当時最大かもしれない。
しかしこのような残虐な殺人事件は中国大陸のあちこちで頻繁に発生している。
日本人が満州に渡った頃からだとおそらく数百回を超えるだろう。
一度の殺人事件や暴動で殺された日本人の数は1人から数人と数が少ないのがほとんどであるので、中国はもちろんであるが日本の歴史書や教科書からこれらの殺人事件のほとんど全部が消されている。
通州事件や済南事件はかろうじて記録に残されている氷山の一角の事件なのである。
それではこれから中国側がよく言う「日本の侵略」の発端とされる「満州事変」「盧溝橋事件」「上海事変」とこれら数多くの日本人虐殺事件との関係を見て行こう。
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中国の歴史は殺戮と人食いの歴史
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/04 04:29 投稿番号: [8119 / 8458]
これはけして誇張ではない。
歴史的事実である。
それ故、中国人の頭の中は策略と陰謀に満ち溢れている。
「中国人は見かけほど善良で大人しい民族ではない」
戦前、大陸に渡った日本人は「自分が善良であれば、相手も善良に接してくれるだろう」と思い込んだために、そのほとんどが失敗しこのように虐殺された。
もう一度言う。「中国人は羊の仮面をかぶった狼である」
群集全体が狂気じみた段階:特徴は一言で概括できる。
人食い集団。
例えば、武宣市では、まるで伝染病が氾濫した時、死体を食べて目を赤くした犬の群れのようであった。
人々は人肉を食べる。気が狂ってしまったように食べまくる。何かするとすぐに人を 引っ張り出して「批判闘争」を行う。そして、批判闘争の後は必ず彼らを食べる。
一人が倒れれば、息を引き取ったかどうかも構わずに、大勢の人が群れをなして押し寄せる。
それぞれが事前に用意してきた包丁やナイフを倒れた人を目がけてどこの部分でも構わずに 人肉を切り取る。…ここまで来ると、一般の群集も人食いの流れに巻き込まれて行く。
ほんの僅か残された罪悪感と人間性も、「12級台風の階級闘争」によって、
綺麗さっぱり吹き飛ばされてしまう。人食いの疫病は武宣市を席巻した。
最頂点に達した時の形式は、「人肉宴席」と言っても、全く誇張ではなかった。
人の肉、心臓、腎臓、ひじ、関節、関節の筋を…蒸す、煮る、焼く、炒める、餡かけにする、 油で焼くなど、盛りだくさんの料理を作り出した。そして、酒を飲み、拳を打ち、 論功行賞を行う。まさに人食い最高の時期に達した。最高権力機構である「武宣県革命委員会」の食堂でさえ、人肉を調理したことがあるのだ!
これら人食い宴会は、決して民間での自発的な行為ではない。全体主義組織としての 中国共産党の社会に対する制御は、一つ一つの細胞まで浸透している。背後の中国共産党の 煽りと操縦がなければ、このようなことは決して起こりえない。
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中国人による芸術的「地獄絵図」のつづき
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/02 21:26 投稿番号: [8118 / 8458]
世界広しといえども、中国人にしかできない虐殺センスに満ち溢れたみごとな「地獄絵図」である。
「近水楼入口で女将らしき人の死体を見た。足を入口に向け、顔だけに新聞紙がかけてあった。本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥(は)がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、4つ5つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。陰部は刃物でえぐられたらしく、血痕が散乱していた。帳場や配膳室は足の踏み場もない程散乱し、略奪の跡をまざまざと示していた。女中部屋に女中らしき日本婦人の4つの死体があり、全部もがいて死んだようだった。折り重なって死んでいたが、1名だけは局部を露出し上向きになっていた。帳場配膳室では男1人、女2人が横倒れ、或(ある)いはうつ伏し或いは上向いて死んでおり、闘った跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のようだった。女2人はいずれも背部から銃剣を突き刺されていた。階下座敷に女の死体2つ、素っ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突の跡を見た。1年前に行ったことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素っ裸の死体があった。その裏の日本人の家では親子2人が惨殺されていた。子供は手の指を揃(そろ)えて切断されていた。南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の死体が路上に放置してあったが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた」
(東京裁判の証言より)
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中国人による芸術的「地獄絵図」を見よ!
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/02 21:03 投稿番号: [8117 / 8458]
ここで一服してコーヒーでも飲みながら、中国人のおこなった芸術的ともいえるような「地獄絵図」をじっくりと鑑賞しよう。
「守備隊の東門を出ると、数間ごとに居留民男女の死体が横たわっていた。某飲食店では、一家ことごとく首と両手を切断され、婦人は十四、五歳以上は全部強姦されていた。旭軒という飲食店に入ると、七、八名の女が全部裸体にされ、強姦射刺殺され、陰部に箒を押し込んである者、口中に砂を入れてある者、腹部を縦に断ち割ってある者など見るに堪えなかった。東門の近くの池では、首を電線で縛り、両手を合わせて、それに八番線を通し、一家六名数珠つなぎにして引き廻した形跡歴然たる死体が浮かんで居り、池の水は真っ赤になっていた。夜半まで生存者の収容に当たり、『日本人はいないか』と叫んで各戸ごとに調査すると、鼻に牛の如く針金を通された子供、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦などが、そこそこの塵箱の中やら塀の陰から出て来た」(朝日新聞法廷記者団『東京裁判』昭和三十八年・中巻30ページ)
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日露戦争の世界史的意義のつづき
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/03/02 02:25 投稿番号: [8116 / 8458]
当時、日本が提案した「人種差別撤廃条項」は、時代を先取りした極めて画期的なものでした。しかし、皆さんの中には、
あの提案は、米国内における日本人移民に対する不当な差別や排斥を撤廃させる為になされたもので、それ程、崇高な理念の為に提案されたものでは無かった。
と仰る方もおありでしょう。確かに、そう言った側面があった事は事実です。しかし、本当にそれだけだったのでしょうか? 例えば、根強い有色人種差別社会であった米国において、人種差別撤廃を求めて戦っていた全米黒人新聞協会は、当時、
我々黒人は、講和会議の席上で、人種問題について激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬意を払うものである。
全米1200万の黒人が息を呑んで、会議の成り行きを見守っている。
と論説し、日本提案の行方に対して、非常に大きな期待を寄せていました。又、欧米列強によって分割・植民地支配されていたアジア・アフリカ地域の民衆も、日露戦争の際、面積で60倍、国家予算・鉄鋼生産高・造船能力も約10倍であった「超大国」ロシアを破り、有色人種国家で唯一、「列強」(一等国)に数えられる事となった日本の提案に、有色人種の「民意」(人種差別撤廃・植民地解放)をダブらせて支持をしたのです。しかし、結果は前述の通り、米英のエゴによって、葬り去られてしまったのです。
日露戦争における日本の勝利は、白人による全世界のアパルトヘイト化が、白人のアメリカ到達の後400年にして挫折した、20世紀最大の重大事件であった。
白人の帝国主義に苦しむアジア始め世界の諸国を覚醒・奮起させ、民族独立への希望と勇気を与えた。アジアではベトナムのホーチミン、インドのネールも日露戦争で大きな感銘を受けている。
アジアは日本の勝利を跳び上がって喜んだ」(『日露戦争全史』ウォーナー)と言われるように、独立の気運は、フィリピン、ベトナム、ビルマ、インドネシアなど東南アジア全域に及びました。
「日本の情熱が私の情熱をかき立てた……民族主義的な思想が私の心を満たした。私はヨーロッパの束縛からインドとアジアの自由を取り戻すための瞑想にふけった」(ネール)というように、インドにも波及しました。
またあるイギリス人がインドを旅行した際には、「大きな興奮がインド全土をかけめぐった。片田舎の村でさえ、インド人たちは車座になって、また夜は水煙草の壺の周りに集まって日本の勝利について語り合っている」とも述べているようです。
結果的に、日露戦争以後、白人の植民地は一つも増えていない。
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