李朝朝鮮

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Re: れRe: 秀吉とスペインとの関係2

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/07/17 00:06 投稿番号: [960 / 1329]
ありがとうございます。でもやっぱ読みにく〜いっ!

>結局、朝鮮は相手にされてなかったんですね。

そうなのかな。
まぁ、ヨーロッパ人がすっごく欲しいものを産出する国ではなかったことに加え、大国と思ってた明・清の付属と見なしてたから、手を出さなかったのではと、思ってますが。

でも、現代韓国が属国だったことを否定していたら、宗主国が傘になってくれらから・・・の話はできませんね。

朝鮮に本格的にちょっかい出してきたのが、アヘン戦争あたりなので、きっとそうなんじゃと。

Re: 秀吉のバテレン禁止令から鎖国まで

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/07/16 23:50 投稿番号: [959 / 1329]
宣教師達は自分たちの出身地のヨーロッパの支配者のように、異国の宣教師である自分達をすぐに殺して片付けるだろうと思い、互いに死ぬ前の告白を行い、死の準備をしていましたが、その心配がないことが「バテレン追放令」で明確になり、出発する船がないという口実で6ヶ月の猶予を願い出、秀吉はそれを聞き入れました。
宣教師達はその後、様子を見ながら時を稼ぎ、憎むべき異端宗教である神社の破壊活動は見合わせ、日本人キリシタンの間に匿われながら布教を続けました。
イエズス会の記録によると、220人の会士が日本に在住し、そのうち3人は京都に潜伏、後は主として、九州のドン・プロダジオ(有馬晴信)の領内にいました。

京都の中央政府はこれら外人宣教師の数も居場所も知らず、その動きを調べて登録する必要さえ感じず、追放令を追行するための具体的手段も何らこうじていませんでした。

秀吉が高槻のキリシタン大名・高山右近の領地を点検すると、神社の破壊と領民の強制キリシタン化に驚きました。そして、秀吉は高山右近に大名の地位か信仰かどちらか捨てるように命じました。右近は信仰を取り、加賀の前田家を頼って追放の身となったのです。

秀吉のバテレン禁止令は日本のキリシタンに大きな動揺を与え、頑なに信仰を守る者と、即時に捨てる者の両極端に分かれました。また今まで神社仏閣を破壊されて怒りを抑えていた日本人達がバテレンの教会を放火などで破壊され、バレテンの作った学校も閉鎖になりました。
イエズス会の記録でその当時の九州には、12万余りのキリシタンがいたと書かれてますが、信仰を強制されてた人々は急速に離れていきました。

日本政府から大迫害を受け、信仰の自由をもぎとられ、困難と危険にされられているとバレテン達はヨーロッパに報告し続けましたが、ヨーロッパ的な残酷きわまる迫害はまだどこにも起こっていませんでした。1人の宣教師も投獄されず、殺されず、外出禁止令さえ言い渡されておらず、破壊焼却したおぎただしい数の神社仏閣・仏像神体についての責任も問われませんでした。

イエズス会の報告によると、秀吉の発令の動機は、彼が九州でキリシタンの美少女達を手に入れようとした時、彼女達が貞節を守って拒絶したために憤怒し、自分の都合に悪い怪しからん教えを広めたバテレンを追い払うことにしたと伝えています。
情欲を欲しいままにできなかった酋長のとっぴな怒りとして扱う以外、秀吉の指令に明白な追放原因を分析し、対応するだけの真面目さがなかったのでした。
改宗しなければならない自分達より幾段も下の異教徒と見てる以上、その酋長の言うことなど本気で取り扱いませんでした。

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/nihonchristokyoshico/tuihorei.htm

Re: 秀吉とスペインとの関係2

投稿者: kohshien21c 投稿日時: 2007/07/16 23:29 投稿番号: [958 / 1329]
>台湾(もしくはその一部でも)がヨーロッパの植民地になった
ことなんてありましたか?

台湾は無主の地で台湾の呼称であるフオルモサというのはポルトガル人が名づけたものです。

オランダやスペインも蚕食しています。

元々中国の土地でもありません。政争で逃れた中国人が一部西南部に住んでいただけですし(その一人が鄭成功)、清朝も台南市だけに官僚を置いただけで全島を統治したわけではありません。

明治期に日本の漁民が台湾の蛮族に殺され、明治政府は清国に賠償を含め抗議したところ、清国は化外の地として賠償に応じず。明治政府は、その言をもとに台湾の蛮族攻撃の兵を送った経緯かあります。

台湾の曖昧な存在に対し、日清戦争で明確にしたものです。台湾への殖民は日本の侵略ではありません。正式に日本の領土となったのです。

http://www.bekkoame.ne.jp/i/funyara9/asia/taiwan/rekisi01.htm

Re: 秀吉とスペインとの関係2

投稿者: imp_mania_jk 投稿日時: 2007/07/16 23:24 投稿番号: [957 / 1329]
>台湾(もしくはその一部でも)がヨーロッパの植民地になった
>ことなんてありましたか?

台湾の歴史
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

Re: 秀吉とスペインとの関係2

投稿者: kidoufighter99 投稿日時: 2007/07/16 22:44 投稿番号: [956 / 1329]
>ヨーロッパ人がフィリピンや台湾を植民地にいていたのに
フィリピンはスペイン領、後にアメリカ領でしたね

台湾(もしくはその一部でも)がヨーロッパの植民地になった
ことなんてありましたか?
もしなっていたら日清戦争の結果、清から日本への割譲なんて
できないと思うのですが?
香港もしくはマカオの間違いでは?

れRe: 秀吉とスペインとの関係2

投稿者: red_mangou 投稿日時: 2007/07/16 02:43 投稿番号: [955 / 1329]
>この議論は朝鮮でされてるのでしょうか。
>もしされてたとしたら、宗主国明・清の存在はスルーされて、
>当時の朝鮮にそれだけの国力があったからということになっているのでしょうか?
↓欧州と朝鮮について、ざっと見回したところ↓しか見つかりませんでした。
http://kin.naver.com/db/detail.php?d1id=11&dir_id=110101&eid=SB21dO8aTXmBrfjMRVeJyFKQv7LURJiQ &qb=wK+3tLD6IMG2vLEgxKe3qw ==

訳)朝鮮後期   西洋勢力の侵略に対して

百年前ヘイグの鬱憤
百年前 6月 15日オランダヘイグで44ヶ国代表が参加した第2回万国平和会議が
開かれた.大韓帝国高宗皇帝がヘイグで秘密裡に送った異常説,李ウィゾン,李ジュン
などが '招待にあずからない弱小国特使'の鬱憤をのまなければならなかった会議だ.
この会議の世界史的背景と意味を検討する国際学術大会が開かれる.
主題は '1907年ヘイグ平和会議と大韓帝国,そして列強' である.百年前アメリカ
イギリス、ロシアなど列強の役目が特別に再び光をあてる予定だ.'第二次ヘイグ
平和会議とアメリカの世界平和案'と言うのは文書で当時アメリカが提示した世界
平和案が韓半島運命に及んだ影響を分析した.
アメリカは 2次平和会議の最初提案国であるだけでなく,必ず参加させなければ
ならない国家と参加させてはいけない国家の基準を確実に持っていた.
必ず参加させなければならない国家は国際警察の役目が果たせる国々であり,参加
させてはいけない国は弱い国家で分類された.不幸にもアメリカの基準の中で日本は
前者に,大韓帝国は後者に属した.もうイギリスを含めたヨーロッパ国々が日本の
韓国支配を容認した状況で,アメリカの世界平和案は韓半島運命と   関連(←たぶん
タイプミス)してヨーロッパと違うところはなくなったのだ.

※基本は翻訳機で、明らかにおかしいトコだけ原文を見て直したので、正確では
ないかもしれません。(すんげぇ読みづらい)

↓これが引っ張ってきた元、一覧です。
http://search.naver.com/search.naver?where=nexearch&query=%C0%AF%B7%B4%B0%FA+%C1%B6%BC%B1+%C4%A7%B7%AB&sm=tab_hty&x=15&y=15

結局、朝鮮は相手にされてなかったんですね。あとは「日本侵略」ばっかです。

秀吉のバテレン禁止令から鎖国まで

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/07/16 02:20 投稿番号: [954 / 1329]
李朝の(明・清以外)日本の鎖国にも似た引きこもり状態を理解する前に、
バテレン禁止令から江戸時代の鎖国に至るまでに至る過程を投稿していくつもりです。

Re: 秀吉とスペインとの関係2

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/07/16 01:46 投稿番号: [953 / 1329]
ヨーロッパ人がフィリピンや台湾を植民地にいていたのに、
脆弱な朝鮮はなぜヨーロッパ人に狙われなかったのか。。。

この議論は朝鮮でされてるのでしょうか。
もしされてたとしたら、宗主国明・清の存在はスルーされて、
当時の朝鮮にそれだけの国力があったからということになっているのでしょうか?

Re: あいつら李氏朝鮮を認めてなかったのか

投稿者: honkytonk_2002_x 投稿日時: 2007/07/09 22:00 投稿番号: [952 / 1329]
まあ連中の言い分は、「朝鮮」というのは「古朝鮮」(箕子朝鮮と衛氏朝鮮。衛氏の方は、朝鮮じゃ創始者の姓名を取って「衛満朝鮮」と呼んでますな)「朝鮮王朝」だけなのに、「李氏朝鮮」というと、まるで他のすべての王朝も「朝鮮」であるかのような印象を受ける、というわけですね。

日本は、地名として南も北も、そして民族名も「朝鮮」と呼んでるでしょう。

あれで、ニテーイ時代の「ヤーイ、ちょーせんじーん!!」を思い出すようなんですな。

しっかし、支那も昔から、「大韓民国」の民族名は「朝鮮」で、言語は「朝鮮語」と、支那版アトラスに記載してありますからねえ。つまり、ニテーイのしわざというのは、被害妄想もいいところです。

あいつら李氏朝鮮を認めてなかったのか

投稿者: imp_mania_jk 投稿日時: 2007/07/09 20:12 投稿番号: [951 / 1329]
いちいちカリカリする性格だと大変だな。
むしろよく紹介されてる方だと思うが?

>朝鮮王朝を'李氏朝鮮'と表現して日本帝国主義者たちが朝鮮の格を落とすために作り出した用語をそのまま使って国史を侮辱

何処が侮辱なのかさっぱり。

李氏朝鮮の建国者が、中国にお願いして朝鮮という国名と年号を授かって自ら属国化したんだよな?
李氏朝鮮は妥当な呼び名じゃないの?
ウソがウソを呼び、もう後戻り出来なくなった感じだな。
つじつまが合えば何でもありなくせに歴史とか言うなよ。

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韓国紹介中国ポータルに`淫乱動画`

百度(バイド)や捜狐(ソウフ;www.sohu.com)など中国主要ポータルサイトが韓国について説明する情報が、事実を歪曲したり侮辱していることが明らかになった。

「中国のGoogle」と呼ばれる最大検索エンジン百度は6日、百科事典で韓国の歴史を説明しながら「古代韓国は百済と新羅、伽揶など3ヶ国が形成されたのが始まり」と主張している。これは我が国の三国時代で高句麗を除いたことで、高句麗史を韓国の歴史とは無関係な中国史の一部と見ている中国の歴史観を反映しながら、高句麗史を歪曲しているのだ。

百度はまた朝鮮王朝を'李氏朝鮮'と表現して日本帝国主義者たちが朝鮮の格を落とすために作り出した用語をそのまま使って国史を侮辱していることが明かされた。これと共に大韓民国臨時政府樹立の年度も1919年ではなく1912年と間違って記載していることはもちろん、自然地理を説明しながら東海を日本海と表示するなどいちめん間違いだらけだった。

これ以外に百度は韓国の政治を紹介する項目で大統領任期を「4年で重任が可能だ」と記載して国務総理と国会議長の名前も全くアップデートされていない。中国の代表的な地元ポータルサイトである捜狐ドットコムは韓国を紹介するページに対して2003年以後アップデートを中断しており、一部のハッカーが最初から淫乱動画をリンクさせている。

ネチズンらは「百度サイトは一日訪問人員が1億人を越える」「韓国政府がこれらを対象に正しい国家広報をすることはできないとはいえ、間違いを捨ておいてはいけない」と指摘した。彼らは「特に我が国を紹介するサイトが淫乱動画サイトとリンクされているということは、到底座視することができない」「広報も重要だが歪曲是正がもっと至急だ」と言った。

naver/聨合ニュース(韓国語)
ttp://news.joins.com/article/2784002.html?ctg =- 1

韓国でシャーマニズムが復活

投稿者: imp_mania_jk 投稿日時: 2007/07/08 16:55 投稿番号: [950 / 1329]
後退してるって話かと思ったら、日本の悪口いったついでに伝統復活して素晴らしいニダ、ってオオニシ記事だな。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
韓国でシャーマニズムが復活

米紙・ニューヨークタイムズは7日(現地時間)「世界で最も進歩した情報技術社会を建設した韓国で、長い間迫害されてきたシャーマニズムが復活している」と報じた。

同紙は、シャーマニズム関連団体の統計として、韓国内の巫俗人(巫女など)は約30万人にのぼり、日本による植民支配時代(1910〜45年)と軍事政権のもとで冷遇されたものの、こんにちにはシャーマニズムを迷信に思う人々も、伝統文化の一つの重要な部門として認めている、と伝えた。

また、大統領選を控えて政治家らが絶えず巫民人のところを訪ねている、と紹介した。続いて、巫俗人が行なう賽神儀式「巫祭」が無形文化財に保護されており、韓国が宗教的に世界で最も多元的な国家になったのも、シャーマニズムの影響が大きい、と指摘した。1万以上の神を祭る韓国のシャーマニズムはいかなるものも受け入れ、他の宗教と社会的な変化と絶えず妥協しており、こうした折衝主義が韓国人の宗教観に影響を与えた、とのこと。

ttp://japanese.joins.com/article/article.php?aid=89104&servcode=400&sectcode=400

Re: 倭賊船捕虜の唐人を朝鮮人が送還

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/07/06 19:23 投稿番号: [949 / 1329]
>拿捕した倭賊船に拉致されていた明国人は明国に送り返すのが当然としても、捕縛した賊が明国人であると朝鮮国内で処罰できず本国に送還なんですか。あとに問題が起きると面倒なので明国人はさっさと送りかえした?これは明国との取り決めがあったんでしょうか。

明の海禁を犯した不逞の叛民ってことで、明に裁判権があるんでしょうかねぇ。その辺は明とどういう取り決めがあったのか?
ちょっと調べておきましょうかね。

Re: 倭賊船捕虜の唐人を朝鮮人が送還

投稿者: nanairokamen03 投稿日時: 2007/07/06 02:57 投稿番号: [948 / 1329]
拿捕した倭賊船に拉致されていた明国人は明国に送り返すのが当然としても、捕縛した賊が明国人であると朝鮮国内で処罰できず本国に送還なんですか。あとに問題が起きると面倒なので明国人はさっさと送りかえした?これは明国との取り決めがあったんでしょうか。

Re: >トロンさんのところですね。

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/07/06 01:16 投稿番号: [947 / 1329]
>なるほど、それで

>>>被虜の唐人の中の「中原叛民」は、帰っても死が待っているだけなので隙さえあれば逃亡を謀る。

>>>国境を過ぎてからも、監禁を厳しくしないと、逃亡者が出ない保証はない。

>なのですね。

当時の明朝は海禁政策をとっていましたから、たとえ本意ではなくとも海に出てしまったということで罪とされる可能性が無いわけじゃないんですが、王直のような巨魁も存在した時代ですし、倭寇として海上にいた連中も雑じっていたと考えるほうが自然かなぁ、と。

>はじめて知る名前です。
何かわかることがあればご投稿お願いします。

別件調査の片手間になる可能性が高いのですが、最低限、当該箇所に引用されている書物は確認しておきます。

>トロンさんのところですね。

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/07/06 00:57 投稿番号: [946 / 1329]
韓国語でHPを作ろうと考えたことがあったり、
積極的な方ですね。倭寇に強い興味がおありみたいなので、
また参考にさせていただくつもりです。

>押送される明人の中には、倭寇の捕虜となっていた者だけでなく、倭寇そのものもいたと解釈したほうがよさそうですね。

なるほど、それで

>>被虜の唐人の中の「中原叛民」は、帰っても死が待っているだけなので隙さえあれば逃亡を謀る。

>>国境を過ぎてからも、監禁を厳しくしないと、逃亡者が出ない保証はない。

なのですね。


>この文章の元ネタは村井章介となっていますね。
腑に落ちない点もあるのでネタ元にじかにあたってみたいと思います…ちょっと前から、村井の言説については少し疑義というか疑問みたいなものを持っているもんですし…

はじめて知る名前です。
何かわかることがあればご投稿お願いします。

Re: 倭賊船捕虜の唐人を朝鮮人が送還

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/07/05 16:24 投稿番号: [945 / 1329]
ああ、トロンさんのところですね。よくお世話になっているところです。
原文は明宗実録の明宗14年(1559)7月2日条です。

>黄海道で捕らえた所の倭賊船に虜せられた唐人の応(まさに)解送すべき者、前後250余名あり。

>被虜人中の中原叛民、自ら必死なるを知り、日ごとに逃躱(とうだ)を謀る者これあり。

押送される明人の中には、倭寇の捕虜となっていた者だけでなく、倭寇そのものもいたと解釈したほうがよさそうですね。

>この「達子」は、野人と同じ女真族だが、
野人より西方の満州地方を本拠地とする「建州女真」である。
後に後金=清に繋がっていく。

満韃子(マンダーツ)ってやつですね。

この文章の元ネタは村井章介となっていますね。
腑に落ちない点もあるのでネタ元にじかにあたってみたいと思います…ちょっと前から、村井の言説については少し疑義というか疑問みたいなものを持っているもんですし…

Re: 秀吉とスペインとの関係2

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/07/05 00:05 投稿番号: [944 / 1329]
http://toron.pepper.jp/jp/middle/wakou/shiwaku.html
スペインを消耗させた無敵艦隊・「アルマダの戦い」と、その影響

--------------------------------------------------------------------------------
>逆説の日本史   朝鮮出兵と秀吉の謎   井沢元彦著より

>秀吉が「唐入り」という「無謀な計画」を実行する直前の1588年(天正16年)、
スペイン国王フェリーペ二世は次のような「無謀」な計画を実行に移した。

イングランド占領作戦。。。すなわち「英入り」である。


しかし、スペイン艦隊は上陸前の海上決戦に敗れ、フェリーペ二世の野望は潰えた。

スペイン無敵艦隊(アルマダ)の敗北である。
世界史上、最も重大な事件の一つだ。
これ以後、すぐにではないが、世界帝国の座はスペインからイギリスへと移る。

「もしも、アルマダが上陸していたなら」
イギリスもカトリック国としてスペインの支配下に入り、世界史は大きく変わっていただろう。

秀吉の唐突な「朝鮮出兵」の原因として、スペインとの同盟が成立しなかったこと。
スペイン海軍の協力が得られなかった事は前に述べた。

だが、イエズス会の強硬派が盛んに主張し、
フェリーペ二世にも進言していたとおり、スペインが独自で明を攻める事も可能性としてあり得た。


では、何故それが潰えたか?

その理由が、この「アルマダの敗北」なのである。
世界に誇るスペイン海軍が一大決戦に敗れ、
海軍力が急速に衰えたからこそ、その力を東洋にまで割く事が不可能になった。

逆に、このイングランド占領計画が成功していたなら、
返す刀で、スペインは明に侵攻していたかも知れない。

秀吉とスペインとの関係2

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/07/04 23:45 投稿番号: [943 / 1329]
>高橋弘一郎氏の著書『キリシタン時代の研究』には、
秀吉の朝鮮出兵に直接繋がるとも受け取られる重大な事実が出てくる。

それはアレッサンドロ・ブァリニャーノが、1590年の10月14日に、長崎から送った書簡の中に出てくる、バードレ神父コエリヨと秀吉との確執である。

1590年と言えば、秀吉が朝鮮出兵の命令を発する僅か1年前の事である。

1578年の6月、
当時九州征伐で博多に滞在していた秀吉は、
イエズス会の日本の準管区長コエリヨを引見した。

この2年前の1585年にも
秀吉は大坂城でコエリヨに会い、
大型船2隻を船員付きで売却して欲しいと頼んでいた。

ときあたかもマニラではスペインによる中国への出兵計画が煮詰まりつつあった頃である。

平戸の松浦隆信や、少し遅れて小西行長らのキリシタン大名がマニラの総督府に対して、
シャムにでも明にでも兵を送ると、秘かに申し出ていた事実も、前後の手紙を読むと解る。

また当時のスペイン人が明征服のために、日本との同盟を本気で考えていた事は、
天正の少年使節と共に来日した司祭ペドロ・デ・ラ・クルスの別の書簡にも書かれている。

しかし、コエリヨは秀吉の依頼に従う振りをして、
実は外洋航海には役立たないフスタ船に重装備を施して、
その軍艦の威力を誇示するかのようにして、博多に滞在中の秀吉の前に現れた。

これはコエリヨの愚行でなければ常軌を逸した振る舞いであって、
高山右近や小西行長らはキリスト教会全体に災難が降りかかるのを恐れて、
そのフスタ船を秀吉に与えてしまうようにコエリヨに薦めた。

しかし、彼はその説得に応じなかったと、ヴァリニャーノは書いている。


実際、秀吉はコエリヨの行動に激怒した。
それは、この事件直後にキリシタン禁止令を出している、のでよく解る


しかし、ここで我々が考えるべき事は、
スペインと日本が同盟して明を攻めるという案が破綻した事。
秀吉がただちにキリシタンを禁制にした事。
さらには外洋船を持たない秀吉が、単独で陸路の朝鮮を経由して明に行こうとした事との関係であろう。

村松氏によると、秀吉は本気でスペインとの同盟を考えていた。
しかし、同時に、明が西欧によって支配されれば、
将来それは必ず元寇以上の日本の脅威になるとも予測していた。

したがって同盟が不可能ならば、
近い将来、明がスペインに攻略される前に、
独力で明を攻めて、これを日本の支配下に置くほか無いと考えたのが、
いかにも唐突な秀吉の朝鮮出兵の動機だったのではないか?というのである。



もし、これが真相ならば、秀吉は当時すでに、
近代国家・日本の朝鮮経営や満州経営に使いアジア戦略を持っていた事になる。

当時のスペイン人が中国を、中南米と同様に
支配しようとした発想への対抗措置であったと考えれば、
秀吉の明征服の動機を合理的に説明できる。


日本とスペインのこの同盟に盲点があるとしたなら、それは両者の思惑の違いであろう。

秀吉は、明を支配するのは自分だと考えていて、
同盟の代償としては、明でのキリシタン布教の自由をスペインに与えれば充分だと思っていた。

しかし、一方のスペイン側は、明の支配権は彼らにあり、
秀吉がキリシタン大名に命じて、スペインに与える日本からの援軍は、
シャムにおける日本の傭兵のようなものだとしか考えられていなかった。

だから遅かれ早かれ、両者の同盟は破綻する運命にあったと考えられよう。

秀吉とスペインとの関係

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/07/04 23:45 投稿番号: [942 / 1329]
このサイトはなかなか良い資料サイトですね。
TORON(徒論)
http://toron.pepper.jp/homej.html

その中のひとつをご紹介________________________________
http://toron.pepper.jp/jp/middle/wakou/shiwaku.html
中国の征服を企むスペインと秀吉の関係
秀吉とスペインとの関係と、同盟についての思惑のずれ

>地球日本史   西尾幹二   著より

>秀吉の世界認識を知る手掛かりを与えてくれたのは、高橋弘一郎氏の『キリシタン時代の研究』に収められた「キリシタン宣教師の軍事計画」という論文であり、この論文に基づいて、故・村松剛氏が「歴史に学ぶ」や「醒めた炎」などで展開した考えである

高瀬氏の著書は、
ローマのイエズス会の文書館などの史料に基づいたもので、
秀吉が生きていた時代に東アジアに滞在していた、
スペインやポルトガルの宣教師達の世界観が復元されている。

それを一口に言うと、
中国をキリスト教国にするためには、武力を使うのを躊躇するな!、と言う提言である。

彼らは何度も本国に、この提案を繰り返している。、

実は、秀吉も明の征服を極めて簡単だと考えていて、
それは従来、秀吉の意気盛んなところと考えられていたに過ぎない。
しかし、それは、むしろ、
スペイン・ポルトガル情報によるものと考えた方が、筋が通るのではないだろうか?

中国の征服を提言している宣教師の中には、秀吉が天下を取る直前の34歳から45歳までの期間、
日本布教長の地位にあったフランシスコ・カブラルだとか、同じ時期に巡察師として日本に滞在していたアレッサンドロ・ヴァリニャーノといった人々が含まれている。

当然、日本の武力制圧も話題に上がっているが、
日本は武勇の国だから征服は困難であると同時に、
征服しても中国ほどの利益にはならないと言うのが、彼らの一般的な考えだったようだ。


秀吉は、後に断固としてキリシタン禁制に踏みきるまでは、
キリシタンに概して好意的で、宣教師達と親しく交際していた期間が長い。
したがって、こういう軍事計画も、何らかの形で秀吉の耳に入っていて当然であろう。
そして仮に秀吉が、
中国がスペインに簡単に征服される可能性を考えた時に、
彼としては何を為すべきだろう、、、と考えたかが問題である。

宣教師達は、
中国の武力制圧に当たって、
日本と同盟することが有利だとしていて、
具体的に協力すべき武将として、小西行長の名前なども挙がっている。

また秀吉への言及もあり、
秀吉が日本を平定した後で中国を征服する際には、
ポルトガル船(この時期スペイン王がポルトガル王を兼ねていた)を提供して、支援すべきだとも考えている。

だから秀吉の世界認識は、
中国風の華夷秩序でもなく、日本風の島国的な発想でもなく、
どちらかと言えば、当時の西欧の世界観に近かったのではないだろううか?

そう考えると彼の考えがよく解ると思う。

倭賊船捕虜の唐人を朝鮮人が送還

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/07/04 00:41 投稿番号: [941 / 1329]
捕虜つながりで、

こんな話が・・・

http://toron.pepper.jp/jp/middle/wakou/chitsujo.html

______________________________

>1559年、黄海道で拿捕された倭賊船からから、
被虜の中国人が250名も保護され、朝鮮は彼らを明へ送還する事になった。

黄海道で捕らえた所の倭賊船に虜せられた唐人の応(まさに)解送すべき者、前後250余名あり。
冬至使の行に帯同して去らしむ。
原(もと)より帯する人物の卜駄の外、
加うるに唐人を以てせば、則ち抄発する車子、まさに50余輌を下らざるべし。

中原の沿路館鋪の人馬、尽く達子のために槍殺され、また飢饉により流散す。
駅路凋残して満目蕭然足り。
但(ただ)に趁時(ちんじ)発車するを得ざるを憂うべきと為すのみならず、
被虜人中の中原叛民、自ら必死なるを知り、日ごとに逃躱(とうだ)を謀る者これあり。
過関以後、監禁厳ししくしなければ、死を逃れて路に逸すること、その必無を保ち難い。
既にこれを中路にて棄てて先に去くべからず。
冬至の節日、亦及ばざるべからず。
(明宗14−7辛未)


北京に上って、冬至の賀を述べる使者=冬至使に帯同させて送還する事になった。
しかし、本来の人員に唐人が加わるので、必要な車輌が50両をくだらない。
ところが、沿線の遼東の各駅では、
人馬が「達子」に槍殺されたり、駅路に人影が無く、見渡してもシーンとしている。

そんなわけで、予定通りに出発出来ない恐れがあるだけでなく、
被虜の唐人の中の「中原叛民」は、帰っても死が待っているだけなので隙さえあれば逃亡を謀る。

国境を過ぎてからも、監禁を厳しくしないと、逃亡者が出ない保証はない。
逃亡者を棄てて先に進むわけにもいかない。
さりとて冬至の節日に遅れるわけにもいかない。
、、、、。


被柵封国の正式の使者が
「中原叛民」を帯同して入国しようとしているというのに、
中華の盟主・大明帝国が通路の安全すら保証できない。

その中華を君に戴く朝鮮の困惑は深かった。

この「達子」は、野人と同じ女真族だが、
野人より西方の満州地方を本拠地とする「建州女真」である。
後に後金=清に繋がっていく。


このような状況は、三浦の乱の頃から朝鮮の西北境で聞こえ始めていた。

1511年、「達子が、もし乱を起こせば、明は朝鮮に出兵を請うだろう。(中宗6−12乙未)
1544年には、中国人が国境を越えて平安道義州に至り、
「達子が遼東の海辺で賊を働いている」、、、と告げた(中宗39−4丁亥)




「中原叛民」とは、上の文章の続きに、
中原ビン浙(福建・浙江)等の処の辺氓(へんぼう)、
賊倭と交通し、叛いて倭国に入り、広く聚楽を占む。
王号を竊み(ぬすみ)、島夷を響道し、反(かえ)りて、中国を噛むに至る。
焚蕩槍掠して、久しく天朝腹心の虞(おそれ)と為る。

とあるから、
「中原叛民」とは倭寇に身を投じた江南辺境の人民である。
「王号ぬすんだ」というのは、
王直が「徽王(きおう)」を自称した事をさすのであろう。

1557年に王直が謀略によって捕らえられたのを境にして、倭寇の活動は下り坂になる。
しかし、それと前後して明は、ポルトガル人にマカオ定住と通商の許可を与える。

1567年には、日本渡航と禁制品の持ち出しを除いて、海禁を解除した。

対外交通の国家管理の柱が維持できなくなった事が、中華の権威を大きく揺るがせたのである。

倭寇と女真の動きが相乗して、明の辺境の安全を脅かし、
中華の権威を引きずりおろしてゆく様子が読みとれる。

だが16世紀には、
このような反国家的ないし非国家的な動きと絡みながら、
軍事力の高度な集中による、新たな国家形成の動きも生まれてくる。

まず、日本では戦国動乱がそれである

Re: 捕虜の償還(2)

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/07/04 00:24 投稿番号: [940 / 1329]
現代のイスラム圏もそうですが、処女性を重んじる社会では、建前が大概こんな感じですね。
(以前、紛争があった地域の話で読んだような。)

>実際に貞節を失ったかという事実の有無が問題ではなく、捕虜になった時点で貞節を失ったこととイコールになってしまうという、非常に厳しい解釈でした。

領議政(首席大臣)の崔鳴吉の主張は叶わなくとも、
人間らしい血の通った道理で、
当時そういう人もいたんだと思うとほっとしますね。

現代の慰安婦おばあさんも、こんな感じの社会で、
売春しなければいけなかった身の不幸を全て擦りつけずにいられなかったのかもしれません。

Re: 丙子胡乱(1636年12月)と仁祖

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/07/03 01:22 投稿番号: [939 / 1329]
>解説が丁寧なので、貼り付けておきます。
(東亜さんからは突込みが入るかもしれませんが)

ここの時点ではあまりつっこみませんよ。(微笑)
補足説明に留めます。

>仁祖は国防を怠ってきたきたのにもかかわらず、
「親明排金」策を復活させて、全国に宣戦布告に当たる「宣戦教書」を発した。

3月1日に全国八道に教書を下しました。しかし、この教書のうち平安道・黄海道に下した教書は清人に奪われているんですよねぇ…

仁祖実録を見る限り、瀋陽でホンタイジを皇帝と認めようとしなかったためにしばかれた羅徳憲・李廓が帰国した1936年(仁祖14年)4月26日から、馬福塔率いる清軍が漢城の城下を奇襲する12月14日までの8ヶ月弱の間に、軍備に関する具体的な記事を拾うと以下のようになります。

  5月   5日:訓練を終えた騎兵100騎を漢城に配備する。平安道で募兵することを決定。
  7月   4日:領議政兼体察使(総理大臣兼総司令官)の金リュウ(流の下に玉)が各道の兵8万7千63人から精鋭を2万人選んで編制する。
  7月14日:兵曹が軍布4百余を義州に送り、また糧穀を購入して城に備蓄する。
  7月23日:平安道観察使の洪命キ(老の下に句)が義州の城郭の修理を申請するも否決される。
  8月   2日:平安道の学生から1300人を選んで弓砲の取扱いを練習させる。
  9月   9日:砲手4百人を訓練して平安道の守備に配属する。
11月12日:魚膠4百斤(弓の接着剤)、正筋2百斤(弓の弦)、雉羽5万個(矢の羽根)、箭竹7万個を義州に送る。
11月21日:漢城の軍器寺に貯蔵されている火薬4千斤を江都(江華島)に運ばせる。

>清は満人、モンゴル人、漢人で組織した10万人の大軍からなる朝鮮遠征軍を組織して、1636年12月9日、大宗自らが鴨緑江を渡り、侵入してきた。

12月1日に首都瀋陽(盛京)を出発ですね。9日に鴨緑江を渡り、10日、平安道観察使の洪命キ(老の下に句)が慈母山城に籠城しているのを見ると、そのまま義州を素通りしました。

>清軍は無人の野を行くように、短時間でソウル近郊に到達した。

仁祖の側近だった羅万甲の書いた『丙子録』によれば、都元帥(最高司令官)の金自点は、冬の間の来襲はありえないと決めつけ兵士や装備の補充を行なわず、さらに城郭を建設するさい、鞭で兵士を脅すなど、兵士をねぎらうことを知らず人心を得ていなかったと言います。
12月6日には、斥候の「清軍進攻中」の報告を聞いて「あり得ない!妄言をはいて軍中を惑わす気か!」と激怒して斥候を斬ろうとしました。斥候は「明日まで待ってください。明日になれば敵がここに来ます」と反駁します。そこに次の斥候が駆けつけ、清軍の来襲を確報として伝えたというグデグデっぷり。
結局、金自点の率いる主力軍はまともな動きもせぬまま、開城の北方の兎山で撃破され、戦力としては機能しないまま仁祖の降伏を迎えます。

清軍は、12日には郭山城付近で救援に駆けつけた定州の遊撃軍を打ち破り(定州軍司令官は自決し、郭山城は降伏)、翌13日には定州が、15日には安州が降伏しました。

>人祖王の朝廷は、金縛りにあったように動かなかった。
情報の判断は事実に基づくことなく、党派閥の利害によって決められた。
この時も、与党である西人派内部の主和派と斤和派の論争によって、左右された。

首脳陣の仲が悪く、対策もでたらめになりました。
『丙子録』によれば、緊急事態のさいの援軍を遠い慶尚道(朝鮮南東部。釜山・大邱がある)から招集することにしたり、せっかく定められている軍の鎮営地をむちゃくちゃに変更してしまい、そのため鎮営地間の距離は近いところでも3、40里(約12〜16キロ)、遠いところでは連絡ですら1、2日かかるような事態になったとのことです。

>宮廷は「ソウルに清軍がソウルに肉迫」
という報せによって、はじめて清軍来襲を認めて、緊急会議を開いた。

14日、清軍の馬福塔が率いる商人に変装した兵300と後続の兵1千が漢城城下への潜入に成功し、朝鮮軍の陣営に奇襲をかけました。

>同時に全国に檄文を飛ばして、百姓達に、清軍を撃退せよと命じた。

これは、私、史料で確認できておりません。

>人祖王は、百姓に抗戦するよう督促していて、百官を引率して江華島へ向かった。
しかし、江華島への道は、すでに清軍によって断たれていた。
仁祖王は、やむを得ず、世子と大君たちを伴って、南漢山城に急いでで避難した。

とりあえず、南漢山城に避難し、そこから江華島に向かおうとしたのですが、道路と通信を封鎖された為やむなく南漢山城に籠城するしかなかったわけです。

捕虜の償還(2)

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/07/03 00:42 投稿番号: [938 / 1329]
>大概は現地で奴隷のような生を終えるけれども、
紆余曲折あげく帰って来たいわゆるファンヒャングニョ(還郷女)たちは
“多分身を汚したこと”という理由で家で追い出されるなどさげすみを受けた。

>見るに耐えない賃金人造が
‘戦争による不可避な状況’であることを入って、
指定した小川(洪提川)で身を洗えば過去を問わないという苦肉本まで用意した。

>しかし大部分は斜眼と冷待を耐えることができずに
首を結ぶとか惨めな生を引き続かなければならなかった。

これについては、仁祖実録の仁祖16年3月11日条に記録があります。

前の承旨である韓履謙の娘は、清軍に捕らわれた後、身代金を払って返還されたのだが、その婿が離縁を望んで訴えを起こした。捕虜となったことで貞操を失ったとされたのであるが、実際に貞節を失ったかという事実の有無が問題ではなく、捕虜になった時点で貞節を失ったこととイコールになってしまうという、非常に厳しい解釈でした。刑曹の役人は「良家の婦女で捕虜になり返還された者は多い。事情をよく斟酌しなくてはならない。これは重大な話なので、うちだけでは判断できない。大臣がたに協議をお願いします」としました。

で、領議政(首席大臣)の崔鳴吉は
「壬辰倭乱の後にもこのようなことがあったそうですが、ある王族が離婚をしようとしたのを宣祖はお許しになりませんでした。またある廷臣が妻を実家に送還して他の女と再婚したのですが、宣祖は後妻を妾の待遇として、前妻が死ぬまで正妻扱いさせませんでした。このほかにもこういう例は多かったようです。
  私が瀋陽に行ったさい、返還された婦女を多く連れ帰りましたが、彼女たちとその夫は再会したとき泣いて抱き合い、それを見て泣かない者はいませんでした。もし、離縁されるというのであれば、返還を願う者はいなくなり、多くの婦女が異郷で死ぬことでしょう。
  清人の誘惑をはねつけて返還されたものの、帰国途中で断食して死んだ女性や、交渉成立後に清人が違約して返還額をさらに吊り上げたため返還されず、ついに自刃した処女の話も聞きました。もし、彼女たちが無事帰国していれば自殺することはなかったでしょうか?貞節を守れていたとしても誰が証明できるのでしょう?宣祖のご処置を鑑みますに、戦乱という非常時のことを以て貞節がどうとか論じるべきではありません」
と言いました。

しかし、この後、捕虜になった夫人をもつ両班の家では、みな離縁し、復縁したものはなかったといいます。(然是後、士夫家子弟皆改娶、無復合者)

でこの条の最後には「史臣曰」として、「捕虜の身になった女性は、本心はどうあっても変事に臨んで自決できなかったことで貞節を失ったというべきだ。それを復縁させるというのは士大夫の家風を汚すものである。崔鳴吉がみだりに宣祖の故事を引いて発言したことは誤りである。(中略)100年の国俗を破壊し、朝鮮を野蛮にしたのは崔鳴吉である。なんと痛ましいことか!」とつけ加えられています。

忠臣不事二君、烈女不更二夫、此節義之所以有関於人国家、而棟梁乎宇宙者也。被リョ(手偏に虜)之女、雖曰非其本心、臨変而不能死、則其可謂之不失其節哉。既失其節、則与夫家、義已絶、決不可勒令復合、以汚士大夫之家風也。崔鳴吉既以執拗之見、妄引先朝之事、其於献議之辞、備陳難絶之意、甚矣、鳴吉之誤也。当時伝教、不載国乗之中、已無可拠。設有是教、亦非可法之規、則其可イ(言偏に委)以先朝之所行者、而復行於今日乎。先正有言曰以失節者配、是已失節也。復取失節之婦、事父母而奉宗祀、生子孫而継家世、寧有是理。噫、壊百年之国俗、挙三韓而夷之者鳴吉也、可勝痛哉。


ま、例によって自サイトの使いまわしなんですけどね。

捕虜の償還(1)

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/07/03 00:35 投稿番号: [937 / 1329]
>純粋に王命で自国民を救済しようと思わないのは、
自分も貧窮してるかなのか、集団帰属意識がないからなのか、
そこらへんは図りかねます。

いや、両班階層の捕虜の償還だけでなく、庶民の捕虜の償還にも着手はしているんです。

仁祖実録   仁祖15年(1637年)2月13日条
都承旨李景ソク(大の両脇に百)啓曰被リョ(手偏に虜)之人、貧不能贖還、而凡民、異於貴族、価亦不多。今若捐百余両銀、分授通官、使之贖還、則所得雖不多、豈不足以感民心哉。答曰殊甚矜惻。令該曹優給価銀、多数贖還。

意訳します(自サイトの流用ですが)。

李景ソクは「捕虜になった人のうち、貧しくて身代金を払えないから返還してもらえないのはほとんどが民衆です。上流階級にとってはその価格は高くはないのですが。今、もし銀100両余りを支出して、役所を通じて分け与えて、民衆の身代金にあてて返還してもらえば、多くの民衆を取りもどすまでには至らないけれども、民心を感じさせるにはじゅうぶんではないでしょうか?」と言った。仁祖は
「それはまことに憐れなことだ。そのとおりにして多くの民衆を返還してもらえ」と答えた。

>しかし、相当の人数が連れ去られたのですね。

>↓の>清に引かれて行った朝鮮婦女子は 50万人が超えたと言う。

>は誇張なのでしょうか?多すぎやしませんか?

おそらく誇張でしょう。江華島陥落時や漢城都城陥落時に、官僚官吏兵士らの妻子など、多くの婦女子が捕虜になったと考えることができますが、それでも10万は超しますまい。

丙子胡乱(1636年12月)と仁祖の狼

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/07/03 00:16 投稿番号: [936 / 1329]
わかる方にはわかる内容だと思いますが、

解説が丁寧なので、貼り付けておきます。
(東亜さんからは突込みが入るかもしれませんが)

堕落の2000年史   崔基鎬より
http://toron.pepper.jp/jp/middle/syndr/horan.html


1633年に、後金は李王朝に、難題を持ちかけた。

後金は朝鮮に軍糧米と兵船を提供することを要求しただけでなく、
6年前に合意した「兄弟の関係」を、「君臣の義」に改めるように求めた。

1636年には、後金は国号を「清」と改めて、
清の大宗に対して「皇帝」の称号をもって呼称する事を朝鮮に要求した。
合わせて、歳幣の増額も要求してきた。

仁祖王の朝廷は、ここに至って、これまでになく排清熱を昂揚させた。
朝鮮は明を宗主国として崇めていたし、皇帝と言えば地上に明の皇帝一人しかいなかった。
明の皇帝こそ、中国の皇帝であり、
皇帝という称号は明の皇帝以外には、絶対に用いてはならなかった。

仁祖は斤和論を採択し、清の使節と面会することすら拒んで、追い返してしまった。

仁祖は国防を怠ってきたきたのにもかかわらず、
「親明排金」策を復活させて、全国に宣戦布告に当たる「宣戦教書」を発した。
このように清に対する敵意を明らかにしたために、
清は満人、モンゴル人、漢人で組織した10万人の大軍からなる朝鮮遠征軍を組織して、
1636年12月9日、大宗自らが鴨緑江を渡り、侵入してきた。

清軍は無人の野を行くように、短時間でソウル近郊に到達した。

人祖王の朝廷は、金縛りにあったように動かなかった。
情報の判断は事実に基づくことなく、党派閥の利害によって決められた。
この時も、与党である西人派内部の主和派と斤和派の論争によって、左右された。

いつもの事とは言え、李朝の暗愚な専制王は、
危機に陥れば、ただ狼狽して、どこかへ避難し、後は野となれ山となれだった。

百姓が皆殺しにされようが、餓死しようが、構ったことではなかった。
王は派閥に従順でありさえすれば、
天上唯一王であり続けられ、幸福が保障されていたからである。


宮廷は「ソウルに清軍がソウルに肉迫」
という報せによって、はじめて清軍来襲を認めて、緊急会議を開いた。

廟義は、主和派の崔鳴吉を、敵陣に派遣することを決定した。
そして、謀略によって、敵のソウル侵入を遅らせながら、江華島へ避難する時間を稼ごうとした。
その一方で、朝廷は、
明軍に援軍の来援に全てを託していたから、
明に援軍の派遣を要請する急使を送ることになった。

同時に全国に檄文を飛ばして、百姓達に、清軍を撃退せよと命じた。
朝廷は、狂気に駆られていたとしか言いようがなかった。
愚かにも外国に自国の安全を全て委ね、外国には外国の事情があることを考えなかった。


この時、明は既に風前の灯火で滅亡する寸前であった。

東林党と非東林党の抗争と、宦官の専横によって
朽ち木のように倒れようとしていて、到底、仁祖の援軍要請に応じられるような状況ではなかった。
明の朝廷は、李氏朝鮮の朝廷によく似ていたのだった。
李氏朝鮮は、まさに明のクローンのようなものだった。

人祖王は、百姓に抗戦するよう督促していて、百官を引率して江華島へ向かった。
しかし、江華島への道は、すでに清軍によって断たれていた。
仁祖王は、やむを得ず、世子と大君たちを伴って、南漢山城に急いでで避難した。
しかし、清軍は一週間そこそこで南漢山城を包囲した。


1636年12月16日の頃であった。
この時の清軍による朝鮮再侵攻は、朝鮮史では「丙子胡乱」として知られている。

Re: 朝鮮人の商売

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/07/02 23:21 投稿番号: [935 / 1329]
>上げを兼てのムダ話です。

いえいえ、おもしろいお話ですね。
純粋に王命で自国民を救済しようと思わないのは、
自分も貧窮してるかなのか、集団帰属意識がないからなのか、
そこらへんは図りかねます。
しかし、相当の人数が連れ去られたのですね。


↓の>清に引かれて行った朝鮮婦女子は 50万人が超えたと言う。

は誇張なのでしょうか?多すぎやしませんか?

___________________________________

>丙子胡乱後、宗主国・清に50万人の女性を献上

--------------------------------------------------------------------------------

韓国メディアから

http://news.hankooki.com/
lpage/opinion/200602/h2006021017421624440.htm

[地平線] 韓国人の自負心?
<李ジュンヒ>

丙子胡乱の惨敗後、
清に引かれて行った朝鮮婦女子は 50万人が超えたと言う。

事大付加の否認や娘も多かった。

大概は現地で奴隷のような生を終えるけれども、
紆余曲折あげく帰って来たいわゆるファンヒャングニョ(還郷女)たちは
“多分身を汚したこと”という理由で家で追い出されるなどさげすみを受けた。

見るに耐えない賃金人造が
‘戦争による不可避な状況’であることを入って、
指定した小川(洪提川)で身を洗えば過去を問わないという苦肉本まで用意した。

しかし大部分は斜眼と冷待を耐えることができずに
首を結ぶとか惨めな生を引き続かなければならなかった。

Re: (トピずれ)ハプスブルク家、マンセー

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/07/02 23:04 投稿番号: [934 / 1329]
歴史の話に関して、正確さを要求されるのに慣れてないのかもしれません。

なんとなく、そんな感じでの発言が、あの国の感覚なんでしょうね。

一番初めの仏教伝来が百済からだったし、朝鮮からの渡来人もいたから、
もう、あの時代からの日本の文化はウリナラ発祥ニダ
・・・としてしまえるのも、この適当さがあってのものなのかも。

朝鮮人の商売

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/07/01 00:53 投稿番号: [933 / 1329]
上げを兼てのムダ話です。

1637年1月、朝鮮は清の属国となりました(丙子胡乱)。その戦役時に清は多くの捕虜を得て首都瀋陽に連れ帰ったのですが、朝鮮は何度となく、多額の身代金を払うことで捕虜を返還してもらおうとします。
そんな動きが行なわれていた時期の話です。仁祖実録から。

仁祖16年(1638)1月16日条より引用
景蘅曰聞前後使行之入瀋也、従往之人、称以贖還、而実皆商賈之輩、回来之際、多有売其馬於彼人者云、極可痛也。上曰厳禁之可也。

瀋陽へ使者として行く申景蘅が出発前に仁祖に言いました。
「聞くところでは、瀋陽に使者が行くさい、身代金を持って捕虜の返還に行くと称してついてゆく者は、じつは商人であり、帰ってくるときに返還された捕虜に馬を売りつける者が多いそうです。痛ましいことです」
んで、仁祖は禁止しろと。
返還され帰国の途上にある捕虜に馬を売るんですか。需要を見込んでのみごとな商売ですねぇ。

もう一つ、仁祖実録から。

仁祖18年(1640)8月12日より引用
憲府啓曰両湖沿海列邑貢物作米、始俑於昏朝政乱之時、而経費不足、因循苟存、為今民■(病だれに莫)久矣。当初作米、挙其概而言之。一束紙定価三匹、一張弓定価六匹、而毎匹折米十斗、他物皆然。自古賦役之重、未有如此之甚者。況今凶歉、沿海最酷、尤宜変通。請令廟堂、商量処置。答曰令廟堂議処。備局戸曹皆言可罷、命只減斗数。又啓曰自古奉使出疆之臣、必択文武備才而与倶。今国綱解弛、廉恥都喪、前後使臣往来瀋中者、多率市井牟利之徒、貽辱国家、非止一再、可勝痛哉。自今使行軍官、必以武臣正職者、極択帯行、如有違犯、則使臣及隨往者、竝置重律。上従之。

使者が瀋陽へ行くとき、市井の利を求める者つまり商売人を連れていっていると。名分に拘らず「実利」を求める立派な姿勢ですねぇ。

Re: (トピずれ)ハプスブルク家、マンセー

投稿者: samurai_06_japan 投稿日時: 2007/06/26 02:49 投稿番号: [932 / 1329]
>>ハプスブルク王家とは16世紀、マクシミリアン1世が神聖ローマ帝国の皇帝に即位した以来、フランスを除いて事実上、欧州全域を統治してきた欧州王家の本家だ。

>①同家出身の皇帝としては、ルドルフ1世から含めたらどうかとも思うけど、まあいいか。(笑)

「王家」としてなら、1273年にハプスブルク伯ルドルフが、ドイツ王(皇帝に戴冠していない神聖ローマ帝国の君主)に選出されたのを嚆矢としますな・・・
「皇帝家」としてなら、マクシミリアン1世は「自称」ですので(ローマ教皇からの戴冠は無し)、実に曖昧なのですが・・・
(なし崩し的に世襲していく)

>②ハプスブルク家が、継続的に「欧州全域」を統治した事なんて、あったか?

無いです(笑)
現在の領域で言えば、最大公約数的にいっても。

<オーストリア・ハンガリー・アウグスブルグ以前>
・ドイツ北部
・オーストリア
・イタリア北部の一部(トスカーナ)
・イタリア南部、シチリア島、サルディニア島(ナポリ王国)
・ネーデルランド(オランダ、ベルギーの一部、ルクセンブルク)
・アルザス・ロレーヌ地方
・イベリア半島
(スペイン系アブスブルゴ(ハプスブルク)家、オーストリア系ハプスブルク家含む)

<オーストリア・ハンガリー・アウグスブルグ以降>
・オーストリア
・ハンガリー
・スロヴァキア
・ルーマニアの一部
・スロヴェニア
・クロアチア
・セルビア
・ポーランドの一部(南部)
・ボスニア=ヘルツェゴビナ

フランス、イングランドは当然の事ながら。
スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、イタリア北部・・・

「欧州全域」?(笑)

Re: あげを兼ねて...

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/06/26 01:15 投稿番号: [931 / 1329]
>釣りといえばこの時期は解禁になったアユ釣りです。清流と山の緑で心身の健康にはもってこいであります。

いいですね。でも難しいらしいですね。
うちの近くも解禁になりました。

Re: (トピずれ)ハプスブルク家、マンセー

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/06/26 01:12 投稿番号: [930 / 1329]
おっぉ・・?何故ハプスブルク家と思ったら、韓国でハプスブルク王家が収集した芸術品の展示があるからなんですね。

>(トピずれ、申し訳ありませんm(__)m どこに投稿するか迷ったので。)


ええ、李朝時代の欧州の話ですし、このトピは許容度が大きいですからOKですよ(笑)

バテレン禁止令の続きと関連しますが・・・

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E3%82%AC%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%A3
_________________________________

戯曲「気丈な貴婦人」
ガラシャをモデルにした戯曲「気丈な貴婦人」(グラーシャ)の初演は
神聖ローマ帝国のエレオノーレ・マグダレーナ皇后の聖名祝日(7月26日)の祝いとして、
1698年7月31日にイエスズ会の劇場でオペラとして発表された。

ガラシャの死はヨーロッパでは殉教死と考えられた(「武士道」と言う観念、武家社会の礼法が理解されない為)。
その戯曲の中でのガラシャは、夫である野蛮な君主の非道に耐えながらも信仰を貫き、
最後は命をとして暴君を改心さるという解釈になっている。

この戯曲はオーストリア・ハプスブルク家の姫君達に特に好まれたとされ、彼女達は政治的な理由で他国に嫁がされるガラシャを自分達の身の上に重ね、それでも自らの信仰を貫いた気高さに感銘を受けたと言う。
エレオノーレ・マグダレーナ、。マリア・テレジア、マリー・アントワネット、エリーザベト皇后などの生き方にも影響を与えたと言われる。

Re: (トピずれ)ハプスブルク家、マンセー

投稿者: honkytonk_2002_x 投稿日時: 2007/06/25 09:41 投稿番号: [929 / 1329]
追記。

たぶん、「カイゼリン」が、「女帝」にも「皇后」にも使われる肩書きだから、欧州でもマリア・テレジアが「女帝」だったと勘違いされる事があるのでしょうね。

英語の「クイーン」は、「女王」にも「王妃」にも使われる肩書きというのと同じで。(同じく英語の「エンプレス」は「女帝」、「皇后」。)

(トピずれ)ハプスブルク家、マンセー♪

投稿者: honkytonk_2002_x 投稿日時: 2007/06/25 09:29 投稿番号: [928 / 1329]
(トピずれ、申し訳ありませんm(__)m どこに投稿するか迷ったので。)

>ハプスブルク王家とは16世紀、マクシミリアン1世が神聖ローマ帝国の皇帝に即位した以来、フランスを除いて事実上、欧州全域を統治してきた欧州王家の本家だ。

①同家出身の皇帝としては、ルドルフ1世から含めたらどうかとも思うけど、まあいいか。(笑)
②ハプスブルク家が、継続的に「欧州全域」を統治した事なんて、あったか? まあカール5世がドイツ国王兼スペイン国王とか、そういう肩書きを重ねて実質統治権を持っていた事はあったけど。(スケールは小さいが、足利将軍が、「○○守」などの受領官職を兼務していたのに近いと言えば近いか?) ただ、同家がほぼ世襲的に神聖ローマ皇帝に推戴されたのも、「欧州全域」を支配するほど強大ではなかったからでもあるんだけどさ。

>大公ペルディナント2世

パーペクト。(笑)
「フェルディナント」と書こうよ。

>マリア・テレジア女帝

うーん。日本でも間違って教えられているけど、マリア・テレジアは女帝ではなかったんだけど。
ダンナであるフランツ1世が、飾り物の「神聖ローマ皇帝」だったんであって。(ここで一応、同家は男系としては変わるので、以降は「ハプスブルク・ロートリンゲン朝」と呼ばれる。)父親の皇帝カール6世も、同家の領地を娘に譲るべく、ルールを変えたわけだけど、さすがに皇帝(カイザー)の位だけは無理だったし。ゆえに正式な彼女の肩書きは、「神聖ローマ帝国皇后(カイゼリン) 兼 オーストリア大公 兼 ベーメン(ボヘミア)女王 兼 ハンガリー女王」。⇒ダンナは「トスカナ大公」に「神聖ローマ皇帝」の冠をかぶせただけだから、実質的に妻であり、家付き娘であるマリア・テレジアがハプスブルク家の支配権の「継承者」であったのは間違いないけど。

ちょっとケチを付けるようで悪いんだけどサ。(笑)

ところで、日本の天皇・皇后もドイツ語では「カイザー、カイゼリン」ですな。

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各国の王たちが招待した欧州美術への旅行



JUNE 25, 2007 05:28


1891年に開館したウィーン美術史博物館は、フランスのルーブル博物館やスペインのプラド美術館とともに欧州の3大博物館として知られており、ハプスブルク王家が収集した芸術品を展示している。ハプスブルク王家とは16世紀、マクシミリアン1世が神聖ローマ帝国の皇帝に即位した以来、フランスを除いて事実上、欧州全域を統治してきた欧州王家の本家だ。

韓国での展示の特徴は、大公ペルディナント2世からルドルフ2世、マリア・テレジア女帝にいたるまで、全盛期を享受した王たちが収集した作品を集めたことだ。そのため、展示作品とともに、ヨーロッパの政治や社会史も一緒に理解できる。それで、作品も歴史への理解を手助けするためにコレクター(王や大公)ごとに配列した。


展示作品のうちレンブラントが息子を描いた「本を読む画家と息子のティトゥス・パン・レイン」は、とりわけ目を引く作品の一つだ。暗くて内密な雰囲気と、息子の額に漂う光が対照をなし、敬けんな感じすら伝わる。


スペインの宮廷画家ベラスケスの「白衣の幼い皇女、マルガリータ・テレサ」も傑作だ。テレサ姫の小さい時の肖像画で、婚約者だった神聖ローマ帝国の皇帝であるレオポルト1世に、成長の記録物として送られた絵だ。


ボッカチオの「デカメロン」を素材にしたルーベンスの大作「シモンとエピゲニア」も目を引く作品。赤い頬や肉感的な白い肌の女性など、ルーベンスの作品の特徴が一目で分かる作品だ。


今回の展示ではブルゴーニュ地方の洗練美を誇る「マリ・ドゥ・ブルゴーニュ」(ニコラスライザー)、皇帝の欠点すらあらわにした肖像画「皇帝ルドルフ2世」(ハンス・フォン・アヘン)、16世紀のベニス最高の画家であるティチアーノが78歳に描いた「キリストの埋蔵」なども披露される。


入場料は小学生が7000ウォン、青少年が9000ウォン、大人が1万2000ウォン。問い合わせ先は、02−2022−0600まで。

ttp://japanese.donga.com/srv/service.php3?biid=2007062584448

Re: あげを兼ねて...

投稿者: nanairokamen03 投稿日時: 2007/06/25 08:02 投稿番号: [927 / 1329]
このしょうもない釣りにまじレスするべ。

>西洋諸国の奴隷貿易を批判せず

日本は奴隷貿易を批判するとかではなく奴隷を解放した実績があるのです。
明治5年7月、マカオから清国人奴隷200余人を積んだペルー船マリア・ルス号がしけにあって横浜に緊急避難し、その時脱走した清国人が停泊中の英国軍艦に助けをもとめます。英国軍艦からの通報を受けた日本政府は同船の出港を停止、船長を奴隷貿易の疑いで裁判にかけます。世界の注目を浴びる中、県令大江卓の下に開かれた裁判によって清国人は本国に送還されます。断髪令もまだ出ていない時期にやった明治政府の快挙であります。

釣りといえばこの時期は解禁になったアユ釣りです。清流と山の緑で心身の健康にはもってこいであります。

Re: あげを兼ねて...

投稿者: kim_jonniruu 投稿日時: 2007/06/24 13:49 投稿番号: [926 / 1329]
日本国政府が西洋諸国の奴隷貿易を批判せず我が共和国の拉致を言うのはダブルスタンダードだニダ!!

あげを兼ねてバテレン禁止について2

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/06/24 02:34 投稿番号: [925 / 1329]
歴史書は語る
天正15年(1587年)、豊臣秀吉は大坂城へポルトガル人宣教師ガスパール・コエリョを呼び、日本人奴隷の売買を止め海外のすべての日本人を帰国させることなどを命じる。



コエリョはスペイン艦隊を呼び威嚇したが、バテレン追放令発布、高山右近の失脚、長崎の拠点接収で未遂に終わる。



天正15年(1587年)6月19日、豊臣秀吉はバテレン追放令を発布。10条で日本人奴隷の売買が禁止される。
慶長元年(1596年)、宣教師側でも奴隷の売買が禁止される。


バテレン追放令(伴天連追放令)は1587年6月19日に豊臣秀吉によって発令されたキリスト教弾圧の為の命令。



松浦文書(九州   平戸)に、こんな内容の史料がある。
「ガスパール・コエリョ(Gaspar Coelho、1530年-1590年5月7日)はポルトガル出身の戦国時代に活動していた宣教師。イエズス会日本支部の初代準管区長」は

1587年、豊臣秀吉に、

大名に対しキリシタンになるよう洗脳した事」
日本人を奴隷として海外へ売った事」
九州の寺院焼き討ちを奨励した事」
「九州の僧を迫害している事」
「牛食を広めている事」

これら五カ条に及ぶ詰問状を突きつけられる。


そこでコエリョは、九州統一を終え博多に滞在していた秀吉に対し、巨大な武装船に乗り提督の扮装で出迎え、威圧をかける。

しかし、これが逆に秀吉の逆鱗に触れる事となり、ついに同年6月バテレン追放令が発令される

コエリョは有馬晴信らキリシタン大名や、スペイン艦隊などに秀吉討伐の兵を起こすよう要請したが、結局かなわなかった。」 と



徳川家康の時代になっても彼らキリシタンの狂信的な信仰は変わらず、
慶長19年(1614)高山右近らがマニラに追放されたとき、
これに抗議して長崎でキリシタン各派が行列を行った。

この記録はキリシタン側にもある。

それを見るとライ病人の足を洗って接吻をし、麻の衣をまとい、首には縄をかけ、頭から灰をかぶり、十字架を担った(フランシスコ派)



五旬節(ペンテコステ)の月曜日には2千人の女子が白服をまとい、黒いベールをつけ、いばらの冠を戴き、手には十字架か聖書を持ち、8千人の男がこれに続き、列の中央を歩くものはろうそくを持ち、行列の終わりには黒布をかけた大きな十字架をかかげた(ドミニコ派)

俵をまとい、十字架を肩にし、手枷をはめ、もろ肌を脱いでぼろをまとう(アウグスチの派)

その中には大友義統(よしむね)の娘ルチアもいたと記されている

いわばこれは無抵抗で殉教も辞せずという意思表示を示したものである

『長崎港草』に「鬼利支丹行列」と記されており、普通の日本人には「百鬼夜行」のように見えたに違いがない                                         「日本人とは何か」山本七平著P466〜468



キリシタン布教創世記のころは、彼ら宣教師の手で多くの日本人が世界の津々浦々まで奴隷として売られ、スペイン王とローマ教皇がタイアップしての領土拡張政策の尖兵として、東南アジアを征服。



ついで日本に牙を向けたが秀吉、家康という賢明な統率者が日本を治めていたために、我が日本は西欧の植民地にならずにすんだといえる。

あげを兼ねてバテレン禁止について

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/06/24 02:11 投稿番号: [924 / 1329]
深夜に起きてしまった。あげを兼ねてですが・・・提示したサイトの文章を掲載しておきます。
http://blog.livedoor.jp/wildhorse38/archives/50765013.html
______________________________

>「宣教師たちによる日本人奴隷の貿易」

天文11年(1543年)の鉄砲伝来の後、1540年代後半から始まったと考えられている。

16世紀後半にはポルトガルや南米アルゼンチンなどへ送られていた。

天正10年(1582年)にローマへ派遣された天正遣欧少年使節の一行が、各地で日本人奴隷を目撃し、自国人と白人両方への憤りを報告書に記している。


『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。
ヨーロッパ各地で50万という。
肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。

鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、
白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。
ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。

この出来事によって棄教した使節の一員もおり、皮肉な結果となったとある。

以前に天草の“隠れキリシタンの信仰”について現地で見ることができたが、彼らのキリストに対する信心の凄まじさを目の当たりにして、当時の為政者は驚愕したであろうと感じた。



彼ら宣教師はキリスト教という(当時   日本にとってはカルト教団)思想戦を仕掛けながら、
南蛮貿易の莫大な利益で諸大名の目を眩ませ、日本人を取り込んでいった。


それが当時のキリシタン大名である有馬晴信、高山右近、大友宗麟等であり、
彼らは宣教師に領土を寄進し、バテレンの指導で神社仏閣を打ち壊し、

僧侶神官を惨殺、戦国大名同士の戦いで相手を打ち負かした戦利品として女・子供・武士・町人を奴隷として宣教師に売り渡した。



奴隷となった日本人は朝鮮、中国・マレー半島、南米、ヨーロッパ、アフリカの果てまで、売りさばかれたという。

朝鮮史のセントラルドグマ

投稿者: melancholy_night 投稿日時: 2007/06/20 19:27 投稿番号: [923 / 1329]
日本は朝鮮の奴隷国であり朝鮮民族は日本を好き勝手に料理する権利があるということ。これが古代からの一貫したセントラルドグマで、ドグマゆえに根拠不要です。


>続報では起源を主張して、返還要求とかしそうな悪寒。
最終的に日本は主権を韓国に委譲せよというところまでいかない限り収まりません。つまり韓日併合ですね。

(トピズレ)百済文化ブームニダ

投稿者: imp_mania_jk 投稿日時: 2007/06/19 03:21 投稿番号: [922 / 1329]
ブームと称して、韓国文化財になりそうな物を探してるんじゃ・・・
続報では起源を主張して、返還要求とかしそうな悪寒。

1.古代 日本の歴史は 新羅人らによって始まりました.
2.古代日本の歴史は 加耶人によって始まりました.
3.古代日本の歴史は 百済人によって始まりました.
ttp://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=64287

朝鮮のニュースならこういう理論で書いてくるはず。

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忠清南道と奈良県、文化交流協力の意向書交換

【大田13日聯合】忠清南道は13日、日本を訪問しているの李完九(イ・ワング)知事と奈良県の荒井正吾知事が文化交流協力に向けた意向書を交わしたと明らかにした。この意向書は、文化研究機関や博物館、図書館など専門機関の学術交流と共同研究を進め、文化、観光、体育イベントの広報から参加まで支援するという内容を含む。
  道関係者によると、10月に開かれる百済文化祭には奈良県の公演団が参加するという。双方の文化・観光交流を発展させ、日本での百済文化ブームを盛り上げるため、活発な広報活動に努める考えだ。

Re: サド王子の病状

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/06/17 02:31 投稿番号: [921 / 1329]
>これは東亜さん担当かな。

お呼びにより参上しました。

>サド王子が英祖に殺された事件は、英祖の権威が即位期よりは強くなったものの、重臣たちの圧力を克服できる水準ではなかったことを物語っています。

思悼世子の父である英祖は、党争を抑える為「蕩平」と呼ばれる、各派閥から均等に大臣などの要職を登用する政策をとりました。最初のうちはうまくいっていたようにみえるのですが、次第に各党派の暗闘が激化し、英祖が思悼世子に公務執行権を譲ろうとしたときに、党派による内紛が激化し、そのあおりをくらってついに思悼世子は父英祖から忌避され、米櫃に幽閉されて死亡しました。あとはお決まりの党争の再開ですね。

この時代について、蕩平政策を国王の下に皆が平等な「民国」という概念の「萌芽」と見るのは、ご存知「李泰鎮」です♪

>気が変になりそうなほど親子といえども党派争いがひどくて、世子を親が殺さねばならない状況で、下の投稿にあるように、英祖の治世が、「18世紀、新たな発見が近代を開いた」時代だったのか、大いに疑問に思います。

近代なんか開いてもいません。(キッパリ)
パプワンさんがおっしゃったように、マニア的なものがあったとしても社会全体の発展には結びついていません。

そうそう、朝鮮通信使が対馬からサツマイモを輸入し、大坂・京都で見かけた水車を輸入しようとしたのもこの時代ですねぇ。
え?もちろん(?)、水車の導入には失敗しましたよ♪世宗時代に水車導入に失敗してから300年経っても水車すらつくれない連中に「新たな発見」ができて、「近代を開」くことができたのかと。
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