李朝朝鮮

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Re: 丙子胡乱(1636年12月)と仁祖

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/07/03 01:22 投稿番号: [939 / 1329]
>解説が丁寧なので、貼り付けておきます。
(東亜さんからは突込みが入るかもしれませんが)

ここの時点ではあまりつっこみませんよ。(微笑)
補足説明に留めます。

>仁祖は国防を怠ってきたきたのにもかかわらず、
「親明排金」策を復活させて、全国に宣戦布告に当たる「宣戦教書」を発した。

3月1日に全国八道に教書を下しました。しかし、この教書のうち平安道・黄海道に下した教書は清人に奪われているんですよねぇ…

仁祖実録を見る限り、瀋陽でホンタイジを皇帝と認めようとしなかったためにしばかれた羅徳憲・李廓が帰国した1936年(仁祖14年)4月26日から、馬福塔率いる清軍が漢城の城下を奇襲する12月14日までの8ヶ月弱の間に、軍備に関する具体的な記事を拾うと以下のようになります。

  5月   5日:訓練を終えた騎兵100騎を漢城に配備する。平安道で募兵することを決定。
  7月   4日:領議政兼体察使(総理大臣兼総司令官)の金リュウ(流の下に玉)が各道の兵8万7千63人から精鋭を2万人選んで編制する。
  7月14日:兵曹が軍布4百余を義州に送り、また糧穀を購入して城に備蓄する。
  7月23日:平安道観察使の洪命キ(老の下に句)が義州の城郭の修理を申請するも否決される。
  8月   2日:平安道の学生から1300人を選んで弓砲の取扱いを練習させる。
  9月   9日:砲手4百人を訓練して平安道の守備に配属する。
11月12日:魚膠4百斤(弓の接着剤)、正筋2百斤(弓の弦)、雉羽5万個(矢の羽根)、箭竹7万個を義州に送る。
11月21日:漢城の軍器寺に貯蔵されている火薬4千斤を江都(江華島)に運ばせる。

>清は満人、モンゴル人、漢人で組織した10万人の大軍からなる朝鮮遠征軍を組織して、1636年12月9日、大宗自らが鴨緑江を渡り、侵入してきた。

12月1日に首都瀋陽(盛京)を出発ですね。9日に鴨緑江を渡り、10日、平安道観察使の洪命キ(老の下に句)が慈母山城に籠城しているのを見ると、そのまま義州を素通りしました。

>清軍は無人の野を行くように、短時間でソウル近郊に到達した。

仁祖の側近だった羅万甲の書いた『丙子録』によれば、都元帥(最高司令官)の金自点は、冬の間の来襲はありえないと決めつけ兵士や装備の補充を行なわず、さらに城郭を建設するさい、鞭で兵士を脅すなど、兵士をねぎらうことを知らず人心を得ていなかったと言います。
12月6日には、斥候の「清軍進攻中」の報告を聞いて「あり得ない!妄言をはいて軍中を惑わす気か!」と激怒して斥候を斬ろうとしました。斥候は「明日まで待ってください。明日になれば敵がここに来ます」と反駁します。そこに次の斥候が駆けつけ、清軍の来襲を確報として伝えたというグデグデっぷり。
結局、金自点の率いる主力軍はまともな動きもせぬまま、開城の北方の兎山で撃破され、戦力としては機能しないまま仁祖の降伏を迎えます。

清軍は、12日には郭山城付近で救援に駆けつけた定州の遊撃軍を打ち破り(定州軍司令官は自決し、郭山城は降伏)、翌13日には定州が、15日には安州が降伏しました。

>人祖王の朝廷は、金縛りにあったように動かなかった。
情報の判断は事実に基づくことなく、党派閥の利害によって決められた。
この時も、与党である西人派内部の主和派と斤和派の論争によって、左右された。

首脳陣の仲が悪く、対策もでたらめになりました。
『丙子録』によれば、緊急事態のさいの援軍を遠い慶尚道(朝鮮南東部。釜山・大邱がある)から招集することにしたり、せっかく定められている軍の鎮営地をむちゃくちゃに変更してしまい、そのため鎮営地間の距離は近いところでも3、40里(約12〜16キロ)、遠いところでは連絡ですら1、2日かかるような事態になったとのことです。

>宮廷は「ソウルに清軍がソウルに肉迫」
という報せによって、はじめて清軍来襲を認めて、緊急会議を開いた。

14日、清軍の馬福塔が率いる商人に変装した兵300と後続の兵1千が漢城城下への潜入に成功し、朝鮮軍の陣営に奇襲をかけました。

>同時に全国に檄文を飛ばして、百姓達に、清軍を撃退せよと命じた。

これは、私、史料で確認できておりません。

>人祖王は、百姓に抗戦するよう督促していて、百官を引率して江華島へ向かった。
しかし、江華島への道は、すでに清軍によって断たれていた。
仁祖王は、やむを得ず、世子と大君たちを伴って、南漢山城に急いでで避難した。

とりあえず、南漢山城に避難し、そこから江華島に向かおうとしたのですが、道路と通信を封鎖された為やむなく南漢山城に籠城するしかなかったわけです。
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