秀吉とスペインとの関係2
投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/07/04 23:45 投稿番号: [943 / 1329]
>高橋弘一郎氏の著書『キリシタン時代の研究』には、
秀吉の朝鮮出兵に直接繋がるとも受け取られる重大な事実が出てくる。
それはアレッサンドロ・ブァリニャーノが、1590年の10月14日に、長崎から送った書簡の中に出てくる、バードレ神父コエリヨと秀吉との確執である。
1590年と言えば、秀吉が朝鮮出兵の命令を発する僅か1年前の事である。
1578年の6月、
当時九州征伐で博多に滞在していた秀吉は、
イエズス会の日本の準管区長コエリヨを引見した。
この2年前の1585年にも
秀吉は大坂城でコエリヨに会い、
大型船2隻を船員付きで売却して欲しいと頼んでいた。
ときあたかもマニラではスペインによる中国への出兵計画が煮詰まりつつあった頃である。
平戸の松浦隆信や、少し遅れて小西行長らのキリシタン大名がマニラの総督府に対して、
シャムにでも明にでも兵を送ると、秘かに申し出ていた事実も、前後の手紙を読むと解る。
また当時のスペイン人が明征服のために、日本との同盟を本気で考えていた事は、
天正の少年使節と共に来日した司祭ペドロ・デ・ラ・クルスの別の書簡にも書かれている。
しかし、コエリヨは秀吉の依頼に従う振りをして、
実は外洋航海には役立たないフスタ船に重装備を施して、
その軍艦の威力を誇示するかのようにして、博多に滞在中の秀吉の前に現れた。
これはコエリヨの愚行でなければ常軌を逸した振る舞いであって、
高山右近や小西行長らはキリスト教会全体に災難が降りかかるのを恐れて、
そのフスタ船を秀吉に与えてしまうようにコエリヨに薦めた。
しかし、彼はその説得に応じなかったと、ヴァリニャーノは書いている。
実際、秀吉はコエリヨの行動に激怒した。
それは、この事件直後にキリシタン禁止令を出している、のでよく解る
しかし、ここで我々が考えるべき事は、
スペインと日本が同盟して明を攻めるという案が破綻した事。
秀吉がただちにキリシタンを禁制にした事。
さらには外洋船を持たない秀吉が、単独で陸路の朝鮮を経由して明に行こうとした事との関係であろう。
村松氏によると、秀吉は本気でスペインとの同盟を考えていた。
しかし、同時に、明が西欧によって支配されれば、
将来それは必ず元寇以上の日本の脅威になるとも予測していた。
したがって同盟が不可能ならば、
近い将来、明がスペインに攻略される前に、
独力で明を攻めて、これを日本の支配下に置くほか無いと考えたのが、
いかにも唐突な秀吉の朝鮮出兵の動機だったのではないか?というのである。
もし、これが真相ならば、秀吉は当時すでに、
近代国家・日本の朝鮮経営や満州経営に使いアジア戦略を持っていた事になる。
当時のスペイン人が中国を、中南米と同様に
支配しようとした発想への対抗措置であったと考えれば、
秀吉の明征服の動機を合理的に説明できる。
日本とスペインのこの同盟に盲点があるとしたなら、それは両者の思惑の違いであろう。
秀吉は、明を支配するのは自分だと考えていて、
同盟の代償としては、明でのキリシタン布教の自由をスペインに与えれば充分だと思っていた。
しかし、一方のスペイン側は、明の支配権は彼らにあり、
秀吉がキリシタン大名に命じて、スペインに与える日本からの援軍は、
シャムにおける日本の傭兵のようなものだとしか考えられていなかった。
だから遅かれ早かれ、両者の同盟は破綻する運命にあったと考えられよう。
秀吉の朝鮮出兵に直接繋がるとも受け取られる重大な事実が出てくる。
それはアレッサンドロ・ブァリニャーノが、1590年の10月14日に、長崎から送った書簡の中に出てくる、バードレ神父コエリヨと秀吉との確執である。
1590年と言えば、秀吉が朝鮮出兵の命令を発する僅か1年前の事である。
1578年の6月、
当時九州征伐で博多に滞在していた秀吉は、
イエズス会の日本の準管区長コエリヨを引見した。
この2年前の1585年にも
秀吉は大坂城でコエリヨに会い、
大型船2隻を船員付きで売却して欲しいと頼んでいた。
ときあたかもマニラではスペインによる中国への出兵計画が煮詰まりつつあった頃である。
平戸の松浦隆信や、少し遅れて小西行長らのキリシタン大名がマニラの総督府に対して、
シャムにでも明にでも兵を送ると、秘かに申し出ていた事実も、前後の手紙を読むと解る。
また当時のスペイン人が明征服のために、日本との同盟を本気で考えていた事は、
天正の少年使節と共に来日した司祭ペドロ・デ・ラ・クルスの別の書簡にも書かれている。
しかし、コエリヨは秀吉の依頼に従う振りをして、
実は外洋航海には役立たないフスタ船に重装備を施して、
その軍艦の威力を誇示するかのようにして、博多に滞在中の秀吉の前に現れた。
これはコエリヨの愚行でなければ常軌を逸した振る舞いであって、
高山右近や小西行長らはキリスト教会全体に災難が降りかかるのを恐れて、
そのフスタ船を秀吉に与えてしまうようにコエリヨに薦めた。
しかし、彼はその説得に応じなかったと、ヴァリニャーノは書いている。
実際、秀吉はコエリヨの行動に激怒した。
それは、この事件直後にキリシタン禁止令を出している、のでよく解る
しかし、ここで我々が考えるべき事は、
スペインと日本が同盟して明を攻めるという案が破綻した事。
秀吉がただちにキリシタンを禁制にした事。
さらには外洋船を持たない秀吉が、単独で陸路の朝鮮を経由して明に行こうとした事との関係であろう。
村松氏によると、秀吉は本気でスペインとの同盟を考えていた。
しかし、同時に、明が西欧によって支配されれば、
将来それは必ず元寇以上の日本の脅威になるとも予測していた。
したがって同盟が不可能ならば、
近い将来、明がスペインに攻略される前に、
独力で明を攻めて、これを日本の支配下に置くほか無いと考えたのが、
いかにも唐突な秀吉の朝鮮出兵の動機だったのではないか?というのである。
もし、これが真相ならば、秀吉は当時すでに、
近代国家・日本の朝鮮経営や満州経営に使いアジア戦略を持っていた事になる。
当時のスペイン人が中国を、中南米と同様に
支配しようとした発想への対抗措置であったと考えれば、
秀吉の明征服の動機を合理的に説明できる。
日本とスペインのこの同盟に盲点があるとしたなら、それは両者の思惑の違いであろう。
秀吉は、明を支配するのは自分だと考えていて、
同盟の代償としては、明でのキリシタン布教の自由をスペインに与えれば充分だと思っていた。
しかし、一方のスペイン側は、明の支配権は彼らにあり、
秀吉がキリシタン大名に命じて、スペインに与える日本からの援軍は、
シャムにおける日本の傭兵のようなものだとしか考えられていなかった。
だから遅かれ早かれ、両者の同盟は破綻する運命にあったと考えられよう。
これは メッセージ 942 (aki_kaze_u_ru_ru さん)への返信です.
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