倭賊船捕虜の唐人を朝鮮人が送還
投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/07/04 00:41 投稿番号: [941 / 1329]
捕虜つながりで、
こんな話が・・・
http://toron.pepper.jp/jp/middle/wakou/chitsujo.html
______________________________
>1559年、黄海道で拿捕された倭賊船からから、
被虜の中国人が250名も保護され、朝鮮は彼らを明へ送還する事になった。
黄海道で捕らえた所の倭賊船に虜せられた唐人の応(まさに)解送すべき者、前後250余名あり。
冬至使の行に帯同して去らしむ。
原(もと)より帯する人物の卜駄の外、
加うるに唐人を以てせば、則ち抄発する車子、まさに50余輌を下らざるべし。
中原の沿路館鋪の人馬、尽く達子のために槍殺され、また飢饉により流散す。
駅路凋残して満目蕭然足り。
但(ただ)に趁時(ちんじ)発車するを得ざるを憂うべきと為すのみならず、
被虜人中の中原叛民、自ら必死なるを知り、日ごとに逃躱(とうだ)を謀る者これあり。
過関以後、監禁厳ししくしなければ、死を逃れて路に逸すること、その必無を保ち難い。
既にこれを中路にて棄てて先に去くべからず。
冬至の節日、亦及ばざるべからず。
(明宗14−7辛未)
北京に上って、冬至の賀を述べる使者=冬至使に帯同させて送還する事になった。
しかし、本来の人員に唐人が加わるので、必要な車輌が50両をくだらない。
ところが、沿線の遼東の各駅では、
人馬が「達子」に槍殺されたり、駅路に人影が無く、見渡してもシーンとしている。
そんなわけで、予定通りに出発出来ない恐れがあるだけでなく、
被虜の唐人の中の「中原叛民」は、帰っても死が待っているだけなので隙さえあれば逃亡を謀る。
国境を過ぎてからも、監禁を厳しくしないと、逃亡者が出ない保証はない。
逃亡者を棄てて先に進むわけにもいかない。
さりとて冬至の節日に遅れるわけにもいかない。
、、、、。
被柵封国の正式の使者が
「中原叛民」を帯同して入国しようとしているというのに、
中華の盟主・大明帝国が通路の安全すら保証できない。
その中華を君に戴く朝鮮の困惑は深かった。
この「達子」は、野人と同じ女真族だが、
野人より西方の満州地方を本拠地とする「建州女真」である。
後に後金=清に繋がっていく。
このような状況は、三浦の乱の頃から朝鮮の西北境で聞こえ始めていた。
1511年、「達子が、もし乱を起こせば、明は朝鮮に出兵を請うだろう。(中宗6−12乙未)
1544年には、中国人が国境を越えて平安道義州に至り、
「達子が遼東の海辺で賊を働いている」、、、と告げた(中宗39−4丁亥)
「中原叛民」とは、上の文章の続きに、
中原ビン浙(福建・浙江)等の処の辺氓(へんぼう)、
賊倭と交通し、叛いて倭国に入り、広く聚楽を占む。
王号を竊み(ぬすみ)、島夷を響道し、反(かえ)りて、中国を噛むに至る。
焚蕩槍掠して、久しく天朝腹心の虞(おそれ)と為る。
とあるから、
「中原叛民」とは倭寇に身を投じた江南辺境の人民である。
「王号ぬすんだ」というのは、
王直が「徽王(きおう)」を自称した事をさすのであろう。
1557年に王直が謀略によって捕らえられたのを境にして、倭寇の活動は下り坂になる。
しかし、それと前後して明は、ポルトガル人にマカオ定住と通商の許可を与える。
1567年には、日本渡航と禁制品の持ち出しを除いて、海禁を解除した。
対外交通の国家管理の柱が維持できなくなった事が、中華の権威を大きく揺るがせたのである。
倭寇と女真の動きが相乗して、明の辺境の安全を脅かし、
中華の権威を引きずりおろしてゆく様子が読みとれる。
だが16世紀には、
このような反国家的ないし非国家的な動きと絡みながら、
軍事力の高度な集中による、新たな国家形成の動きも生まれてくる。
まず、日本では戦国動乱がそれである
こんな話が・・・
http://toron.pepper.jp/jp/middle/wakou/chitsujo.html
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>1559年、黄海道で拿捕された倭賊船からから、
被虜の中国人が250名も保護され、朝鮮は彼らを明へ送還する事になった。
黄海道で捕らえた所の倭賊船に虜せられた唐人の応(まさに)解送すべき者、前後250余名あり。
冬至使の行に帯同して去らしむ。
原(もと)より帯する人物の卜駄の外、
加うるに唐人を以てせば、則ち抄発する車子、まさに50余輌を下らざるべし。
中原の沿路館鋪の人馬、尽く達子のために槍殺され、また飢饉により流散す。
駅路凋残して満目蕭然足り。
但(ただ)に趁時(ちんじ)発車するを得ざるを憂うべきと為すのみならず、
被虜人中の中原叛民、自ら必死なるを知り、日ごとに逃躱(とうだ)を謀る者これあり。
過関以後、監禁厳ししくしなければ、死を逃れて路に逸すること、その必無を保ち難い。
既にこれを中路にて棄てて先に去くべからず。
冬至の節日、亦及ばざるべからず。
(明宗14−7辛未)
北京に上って、冬至の賀を述べる使者=冬至使に帯同させて送還する事になった。
しかし、本来の人員に唐人が加わるので、必要な車輌が50両をくだらない。
ところが、沿線の遼東の各駅では、
人馬が「達子」に槍殺されたり、駅路に人影が無く、見渡してもシーンとしている。
そんなわけで、予定通りに出発出来ない恐れがあるだけでなく、
被虜の唐人の中の「中原叛民」は、帰っても死が待っているだけなので隙さえあれば逃亡を謀る。
国境を過ぎてからも、監禁を厳しくしないと、逃亡者が出ない保証はない。
逃亡者を棄てて先に進むわけにもいかない。
さりとて冬至の節日に遅れるわけにもいかない。
、、、、。
被柵封国の正式の使者が
「中原叛民」を帯同して入国しようとしているというのに、
中華の盟主・大明帝国が通路の安全すら保証できない。
その中華を君に戴く朝鮮の困惑は深かった。
この「達子」は、野人と同じ女真族だが、
野人より西方の満州地方を本拠地とする「建州女真」である。
後に後金=清に繋がっていく。
このような状況は、三浦の乱の頃から朝鮮の西北境で聞こえ始めていた。
1511年、「達子が、もし乱を起こせば、明は朝鮮に出兵を請うだろう。(中宗6−12乙未)
1544年には、中国人が国境を越えて平安道義州に至り、
「達子が遼東の海辺で賊を働いている」、、、と告げた(中宗39−4丁亥)
「中原叛民」とは、上の文章の続きに、
中原ビン浙(福建・浙江)等の処の辺氓(へんぼう)、
賊倭と交通し、叛いて倭国に入り、広く聚楽を占む。
王号を竊み(ぬすみ)、島夷を響道し、反(かえ)りて、中国を噛むに至る。
焚蕩槍掠して、久しく天朝腹心の虞(おそれ)と為る。
とあるから、
「中原叛民」とは倭寇に身を投じた江南辺境の人民である。
「王号ぬすんだ」というのは、
王直が「徽王(きおう)」を自称した事をさすのであろう。
1557年に王直が謀略によって捕らえられたのを境にして、倭寇の活動は下り坂になる。
しかし、それと前後して明は、ポルトガル人にマカオ定住と通商の許可を与える。
1567年には、日本渡航と禁制品の持ち出しを除いて、海禁を解除した。
対外交通の国家管理の柱が維持できなくなった事が、中華の権威を大きく揺るがせたのである。
倭寇と女真の動きが相乗して、明の辺境の安全を脅かし、
中華の権威を引きずりおろしてゆく様子が読みとれる。
だが16世紀には、
このような反国家的ないし非国家的な動きと絡みながら、
軍事力の高度な集中による、新たな国家形成の動きも生まれてくる。
まず、日本では戦国動乱がそれである
これは メッセージ 940 (aki_kaze_u_ru_ru さん)への返信です.
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