丙子胡乱(1636年12月)と仁祖の狼
投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/07/03 00:16 投稿番号: [936 / 1329]
わかる方にはわかる内容だと思いますが、
解説が丁寧なので、貼り付けておきます。
(東亜さんからは突込みが入るかもしれませんが)
堕落の2000年史 崔基鎬より
http://toron.pepper.jp/jp/middle/syndr/horan.html
1633年に、後金は李王朝に、難題を持ちかけた。
後金は朝鮮に軍糧米と兵船を提供することを要求しただけでなく、
6年前に合意した「兄弟の関係」を、「君臣の義」に改めるように求めた。
1636年には、後金は国号を「清」と改めて、
清の大宗に対して「皇帝」の称号をもって呼称する事を朝鮮に要求した。
合わせて、歳幣の増額も要求してきた。
仁祖王の朝廷は、ここに至って、これまでになく排清熱を昂揚させた。
朝鮮は明を宗主国として崇めていたし、皇帝と言えば地上に明の皇帝一人しかいなかった。
明の皇帝こそ、中国の皇帝であり、
皇帝という称号は明の皇帝以外には、絶対に用いてはならなかった。
仁祖は斤和論を採択し、清の使節と面会することすら拒んで、追い返してしまった。
仁祖は国防を怠ってきたきたのにもかかわらず、
「親明排金」策を復活させて、全国に宣戦布告に当たる「宣戦教書」を発した。
このように清に対する敵意を明らかにしたために、
清は満人、モンゴル人、漢人で組織した10万人の大軍からなる朝鮮遠征軍を組織して、
1636年12月9日、大宗自らが鴨緑江を渡り、侵入してきた。
清軍は無人の野を行くように、短時間でソウル近郊に到達した。
人祖王の朝廷は、金縛りにあったように動かなかった。
情報の判断は事実に基づくことなく、党派閥の利害によって決められた。
この時も、与党である西人派内部の主和派と斤和派の論争によって、左右された。
いつもの事とは言え、李朝の暗愚な専制王は、
危機に陥れば、ただ狼狽して、どこかへ避難し、後は野となれ山となれだった。
百姓が皆殺しにされようが、餓死しようが、構ったことではなかった。
王は派閥に従順でありさえすれば、
天上唯一王であり続けられ、幸福が保障されていたからである。
宮廷は「ソウルに清軍がソウルに肉迫」
という報せによって、はじめて清軍来襲を認めて、緊急会議を開いた。
廟義は、主和派の崔鳴吉を、敵陣に派遣することを決定した。
そして、謀略によって、敵のソウル侵入を遅らせながら、江華島へ避難する時間を稼ごうとした。
その一方で、朝廷は、
明軍に援軍の来援に全てを託していたから、
明に援軍の派遣を要請する急使を送ることになった。
同時に全国に檄文を飛ばして、百姓達に、清軍を撃退せよと命じた。
朝廷は、狂気に駆られていたとしか言いようがなかった。
愚かにも外国に自国の安全を全て委ね、外国には外国の事情があることを考えなかった。
この時、明は既に風前の灯火で滅亡する寸前であった。
東林党と非東林党の抗争と、宦官の専横によって
朽ち木のように倒れようとしていて、到底、仁祖の援軍要請に応じられるような状況ではなかった。
明の朝廷は、李氏朝鮮の朝廷によく似ていたのだった。
李氏朝鮮は、まさに明のクローンのようなものだった。
人祖王は、百姓に抗戦するよう督促していて、百官を引率して江華島へ向かった。
しかし、江華島への道は、すでに清軍によって断たれていた。
仁祖王は、やむを得ず、世子と大君たちを伴って、南漢山城に急いでで避難した。
しかし、清軍は一週間そこそこで南漢山城を包囲した。
1636年12月16日の頃であった。
この時の清軍による朝鮮再侵攻は、朝鮮史では「丙子胡乱」として知られている。
解説が丁寧なので、貼り付けておきます。
(東亜さんからは突込みが入るかもしれませんが)
堕落の2000年史 崔基鎬より
http://toron.pepper.jp/jp/middle/syndr/horan.html
1633年に、後金は李王朝に、難題を持ちかけた。
後金は朝鮮に軍糧米と兵船を提供することを要求しただけでなく、
6年前に合意した「兄弟の関係」を、「君臣の義」に改めるように求めた。
1636年には、後金は国号を「清」と改めて、
清の大宗に対して「皇帝」の称号をもって呼称する事を朝鮮に要求した。
合わせて、歳幣の増額も要求してきた。
仁祖王の朝廷は、ここに至って、これまでになく排清熱を昂揚させた。
朝鮮は明を宗主国として崇めていたし、皇帝と言えば地上に明の皇帝一人しかいなかった。
明の皇帝こそ、中国の皇帝であり、
皇帝という称号は明の皇帝以外には、絶対に用いてはならなかった。
仁祖は斤和論を採択し、清の使節と面会することすら拒んで、追い返してしまった。
仁祖は国防を怠ってきたきたのにもかかわらず、
「親明排金」策を復活させて、全国に宣戦布告に当たる「宣戦教書」を発した。
このように清に対する敵意を明らかにしたために、
清は満人、モンゴル人、漢人で組織した10万人の大軍からなる朝鮮遠征軍を組織して、
1636年12月9日、大宗自らが鴨緑江を渡り、侵入してきた。
清軍は無人の野を行くように、短時間でソウル近郊に到達した。
人祖王の朝廷は、金縛りにあったように動かなかった。
情報の判断は事実に基づくことなく、党派閥の利害によって決められた。
この時も、与党である西人派内部の主和派と斤和派の論争によって、左右された。
いつもの事とは言え、李朝の暗愚な専制王は、
危機に陥れば、ただ狼狽して、どこかへ避難し、後は野となれ山となれだった。
百姓が皆殺しにされようが、餓死しようが、構ったことではなかった。
王は派閥に従順でありさえすれば、
天上唯一王であり続けられ、幸福が保障されていたからである。
宮廷は「ソウルに清軍がソウルに肉迫」
という報せによって、はじめて清軍来襲を認めて、緊急会議を開いた。
廟義は、主和派の崔鳴吉を、敵陣に派遣することを決定した。
そして、謀略によって、敵のソウル侵入を遅らせながら、江華島へ避難する時間を稼ごうとした。
その一方で、朝廷は、
明軍に援軍の来援に全てを託していたから、
明に援軍の派遣を要請する急使を送ることになった。
同時に全国に檄文を飛ばして、百姓達に、清軍を撃退せよと命じた。
朝廷は、狂気に駆られていたとしか言いようがなかった。
愚かにも外国に自国の安全を全て委ね、外国には外国の事情があることを考えなかった。
この時、明は既に風前の灯火で滅亡する寸前であった。
東林党と非東林党の抗争と、宦官の専横によって
朽ち木のように倒れようとしていて、到底、仁祖の援軍要請に応じられるような状況ではなかった。
明の朝廷は、李氏朝鮮の朝廷によく似ていたのだった。
李氏朝鮮は、まさに明のクローンのようなものだった。
人祖王は、百姓に抗戦するよう督促していて、百官を引率して江華島へ向かった。
しかし、江華島への道は、すでに清軍によって断たれていた。
仁祖王は、やむを得ず、世子と大君たちを伴って、南漢山城に急いでで避難した。
しかし、清軍は一週間そこそこで南漢山城を包囲した。
1636年12月16日の頃であった。
この時の清軍による朝鮮再侵攻は、朝鮮史では「丙子胡乱」として知られている。
これは メッセージ 935 (aki_kaze_u_ru_ru さん)への返信です.
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