李朝朝鮮

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あげを兼ねてバテレン禁止について2

投稿者: aki_kaze_u_ru_ru 投稿日時: 2007/06/24 02:34 投稿番号: [925 / 1329]
歴史書は語る
天正15年(1587年)、豊臣秀吉は大坂城へポルトガル人宣教師ガスパール・コエリョを呼び、日本人奴隷の売買を止め海外のすべての日本人を帰国させることなどを命じる。



コエリョはスペイン艦隊を呼び威嚇したが、バテレン追放令発布、高山右近の失脚、長崎の拠点接収で未遂に終わる。



天正15年(1587年)6月19日、豊臣秀吉はバテレン追放令を発布。10条で日本人奴隷の売買が禁止される。
慶長元年(1596年)、宣教師側でも奴隷の売買が禁止される。


バテレン追放令(伴天連追放令)は1587年6月19日に豊臣秀吉によって発令されたキリスト教弾圧の為の命令。



松浦文書(九州   平戸)に、こんな内容の史料がある。
「ガスパール・コエリョ(Gaspar Coelho、1530年-1590年5月7日)はポルトガル出身の戦国時代に活動していた宣教師。イエズス会日本支部の初代準管区長」は

1587年、豊臣秀吉に、

大名に対しキリシタンになるよう洗脳した事」
日本人を奴隷として海外へ売った事」
九州の寺院焼き討ちを奨励した事」
「九州の僧を迫害している事」
「牛食を広めている事」

これら五カ条に及ぶ詰問状を突きつけられる。


そこでコエリョは、九州統一を終え博多に滞在していた秀吉に対し、巨大な武装船に乗り提督の扮装で出迎え、威圧をかける。

しかし、これが逆に秀吉の逆鱗に触れる事となり、ついに同年6月バテレン追放令が発令される

コエリョは有馬晴信らキリシタン大名や、スペイン艦隊などに秀吉討伐の兵を起こすよう要請したが、結局かなわなかった。」 と



徳川家康の時代になっても彼らキリシタンの狂信的な信仰は変わらず、
慶長19年(1614)高山右近らがマニラに追放されたとき、
これに抗議して長崎でキリシタン各派が行列を行った。

この記録はキリシタン側にもある。

それを見るとライ病人の足を洗って接吻をし、麻の衣をまとい、首には縄をかけ、頭から灰をかぶり、十字架を担った(フランシスコ派)



五旬節(ペンテコステ)の月曜日には2千人の女子が白服をまとい、黒いベールをつけ、いばらの冠を戴き、手には十字架か聖書を持ち、8千人の男がこれに続き、列の中央を歩くものはろうそくを持ち、行列の終わりには黒布をかけた大きな十字架をかかげた(ドミニコ派)

俵をまとい、十字架を肩にし、手枷をはめ、もろ肌を脱いでぼろをまとう(アウグスチの派)

その中には大友義統(よしむね)の娘ルチアもいたと記されている

いわばこれは無抵抗で殉教も辞せずという意思表示を示したものである

『長崎港草』に「鬼利支丹行列」と記されており、普通の日本人には「百鬼夜行」のように見えたに違いがない                                         「日本人とは何か」山本七平著P466〜468



キリシタン布教創世記のころは、彼ら宣教師の手で多くの日本人が世界の津々浦々まで奴隷として売られ、スペイン王とローマ教皇がタイアップしての領土拡張政策の尖兵として、東南アジアを征服。



ついで日本に牙を向けたが秀吉、家康という賢明な統率者が日本を治めていたために、我が日本は西欧の植民地にならずにすんだといえる。
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