李朝朝鮮

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康熙帝の勅諭

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2007/01/11 09:42 投稿番号: [608 / 1329]
やっとコンテンツ「三田渡への道」ができたー!ってことで、その中からネタを一つ。

ウィキで「丙子胡乱」を見ますと、

朝鮮がこの戦いに敗れるまで、歴代の朝鮮王が明朝皇帝に対する臣節を全うしたことを清側も高く評価し、後の康熙帝がこれを賞賛する勅諭を出している。[要出典]

という一文があります。「要出典」とありますが、私の見たところ、これは陳舜臣『中国の歴史   6』(講談社)の、

  満洲に服属していた諸部族のなかで、ホンタイジが清の皇帝として即位することを、最後まで認めようとしなかったのは朝鮮だけでした。そのために太宗の親征がおこなわれたのです。けれども、朝鮮の「節操」には、清も大いに敬意をもち、高く評価していました。太宗の孫にあたる康熙帝は勅諭のなかで、

  ――外藩は唯だ朝鮮のみ文物を声明して中国に近し。太宗文皇帝、其の国を親征せし時、八道の諸島の軍到らざる無く、其の国亡びて而して復存す。国人、碑を文皇帝駐軍の地に樹て、頌徳、今に至る。其の尤も嘉すべきは明の末造に当り、臣節を固守し、始終未だ嘗て弐あらず。・・・・・・

  弐あらずというのは二心のない忠誠のことを意味します。それを康熙帝は称讃しているのです。この勅諭は康熙四十五年(一七〇六)のもので、太宗の朝鮮親征から、ちょうど七十年たっています。七十年たって評価が変わったのではなく、おそらく親征当時から、朝鮮の心意気に、満洲政権の人たちは敬服していたのでしょう。

が元ネタでしょう。ですが、『清史稿』にはこの文章そのものは載っていません(もっとも陳氏は出典を明記していないため、別の史書が典拠かもしれませんが)。かわりに、康熙帝の勅諭として、こういうくだりがありました。

四十五年十月、諭大学士曰「朝鮮国王奉事我朝、小心敬慎。其国聞有八道、北道接瓦爾喀地方土門江、東道接倭子国、西道接我鳳凰城、南道接海外、尚有数小島。太宗平定朝鮮、国人樹碑於駐軍之地、頌紱至今。当明之末年、彼始終服事、未嘗叛離、実属重礼義之邦、尤為可取」

ほぼ意味は同じでしょう。
これを見ると康熙帝は確かに誉めているように見えますが、陳氏の

七十年たって評価が変わったのではなく、おそらく親征当時から、朝鮮の心意気に、満洲政権の人たちは敬服していたのでしょう。

ということについては推測でしかありません。と言いますのも、清史稿・仁祖実録をみたところ、根拠に該当しそうな箇所がないですし、丁卯・丙子胡乱での朝鮮の不誠実な態度(口先だけ勇ましくて現実の防備はなんの対策もしない、パチモンの王弟を人質に出そうとする、その場しのぎの降伏だけで、ちょっと経ったら講和条件を反故にしようとする)は、それに敵対した当事者の清人たちが敬服できるものだったのでしょうか?
むしろ、不信感と軽蔑の念をもったほうが自然ではないかと。私はそう思いました。

で、康熙帝は、朝鮮の明への『節操』と、三田渡碑を立ててホンタイジを『頌紱』していることを並べて、皮肉って『まことに礼儀を重んじる邦に属す』なんて言ったんちゃうん?なんてとこまで思ってしまいました。

それに、康熙帝が誉めたのは「忠節を固守」「服事」したことです。つまり「属国」「臣下」としての姿勢を嘉しているわけですね。
もし、この史料を『朝鮮は高評価されていた』証拠に出したりなんかしたら・・・・・・(苦笑)
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