Re: >昭顕太子殺害
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2007/01/08 20:57 投稿番号: [603 / 1329]
>>>3人の王子は300人以上の官僚や、従者を伴って満州の瀋陽へ赴いた。(崔基鎬著「韓国・堕落の2000年史(9)」)
>>三男の麟坪大君はそこで清軍の捕虜になりましたが、三男の麟坪大君夫婦は三田渡の屈辱の後、送還されており、人質として清の首都瀋陽に赴いたのは昭顕太子夫婦と鳳林大君夫婦です。(仁祖実録 仁祖十五年(1637年)2月1日条)
何が事実でしょう?
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朝鮮の屈辱と 昭顯王子の疑問死
清は朝鮮を降伏させると、帰国の際に仁祖の長男の昭顯王子とその弟2人の合計3人の王子を人質として連れて帰ります。その中で三男の麟坪大君は翌年に帰国しますが、 昭顯世子と鳳林大君は8年後の1645年にようやく帰国が許されます。そしてその2ヵ月後、34歳の健康な青年だった 昭顯世子が急死します。仁祖実録はその死をこのように記録しています。「王子は本国に帰ってきて間もなく病気にかかり、病気にかかって数日で亡くなったが、全身の皮膚が真っ黒になり、口、耳など体中の穴から鮮血が流れだした。」 王子の死が毒物による他殺の可能性があることを示唆している記録です。彼の死を毒殺だと見る根拠としては父の仁祖が王子に対して怒りを抱き、帰国に際しても王子としての待遇をせずに、迫害していたと言う点、病の床についてわずか4日で死亡し、死因も解明せずにあわてて埋葬してしまったという点、宮廷女官など彼の死を間近で見ていた人々も皆殺されてしまった点、 などがあげられています。
では8年ぶりに帰ってきた王子をなぜ仁祖は迫害したのでしょうか。仁祖は8年前の屈辱を決して忘れることができませんでした。父と一緒に屈辱を味わった王子でしたから、彼も清に対する憎悪が無いわけではありませんでした。しかし8年間の人質生活の中で王子の考えはだんだん変わっていったのです。まず、 あんなにも蔑視していた清が明を滅亡させるのをその目でしっかりと見たことです。また西洋の宣教師を通じて清に入ってきた新しい科学技術にも驚きを禁じえませんでした。特に天文学に造詣の深かったドイツ人神父であり科学者のアダム・シャールとの交流を通じて、 昭顯世子は西洋文物に目を向けることになります。このドイツ人の神父は王子に天主教、つまりカトリックと西洋の科学を紹介し、望遠鏡や目覚まし時計などの品々を贈ります。自分の全く知らなかった世界が地球の反対側にあるという事実を知った王子は、朝鮮の支配層もこの新しい世界を知る必要があると考えました。そしてこのような王子の考えが仁祖と支配層の気にさわったのです。
人質になって故国を離れてから8年目に 昭顯世子は帰国しましたが、父の仁祖は全く喜びませんでした。 王子の持ち帰った品々はすべて国の倉庫に入れられてしまいます。そして2ヵ月後に王子は疑問の死を遂げるのです。昭顯王子が死んで3ヵ月後、弟の鳳林大君が跡継ぎに指名され、王子の妻と息子たちもすべて殺されてしまいます。
仁祖がクーデターを起こして光海君を倒した名分は明への事大主義でした。そのため、それを捨てることは自分の王位を否定することも同然だったのです。それで仁祖は 昭顯王子を許すことができなかったのです。
http://world.kbs.co.kr/japanese/korea/korea_click_detail.htm?No=1022
>>三男の麟坪大君はそこで清軍の捕虜になりましたが、三男の麟坪大君夫婦は三田渡の屈辱の後、送還されており、人質として清の首都瀋陽に赴いたのは昭顕太子夫婦と鳳林大君夫婦です。(仁祖実録 仁祖十五年(1637年)2月1日条)
何が事実でしょう?
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朝鮮の屈辱と 昭顯王子の疑問死
清は朝鮮を降伏させると、帰国の際に仁祖の長男の昭顯王子とその弟2人の合計3人の王子を人質として連れて帰ります。その中で三男の麟坪大君は翌年に帰国しますが、 昭顯世子と鳳林大君は8年後の1645年にようやく帰国が許されます。そしてその2ヵ月後、34歳の健康な青年だった 昭顯世子が急死します。仁祖実録はその死をこのように記録しています。「王子は本国に帰ってきて間もなく病気にかかり、病気にかかって数日で亡くなったが、全身の皮膚が真っ黒になり、口、耳など体中の穴から鮮血が流れだした。」 王子の死が毒物による他殺の可能性があることを示唆している記録です。彼の死を毒殺だと見る根拠としては父の仁祖が王子に対して怒りを抱き、帰国に際しても王子としての待遇をせずに、迫害していたと言う点、病の床についてわずか4日で死亡し、死因も解明せずにあわてて埋葬してしまったという点、宮廷女官など彼の死を間近で見ていた人々も皆殺されてしまった点、 などがあげられています。
では8年ぶりに帰ってきた王子をなぜ仁祖は迫害したのでしょうか。仁祖は8年前の屈辱を決して忘れることができませんでした。父と一緒に屈辱を味わった王子でしたから、彼も清に対する憎悪が無いわけではありませんでした。しかし8年間の人質生活の中で王子の考えはだんだん変わっていったのです。まず、 あんなにも蔑視していた清が明を滅亡させるのをその目でしっかりと見たことです。また西洋の宣教師を通じて清に入ってきた新しい科学技術にも驚きを禁じえませんでした。特に天文学に造詣の深かったドイツ人神父であり科学者のアダム・シャールとの交流を通じて、 昭顯世子は西洋文物に目を向けることになります。このドイツ人の神父は王子に天主教、つまりカトリックと西洋の科学を紹介し、望遠鏡や目覚まし時計などの品々を贈ります。自分の全く知らなかった世界が地球の反対側にあるという事実を知った王子は、朝鮮の支配層もこの新しい世界を知る必要があると考えました。そしてこのような王子の考えが仁祖と支配層の気にさわったのです。
人質になって故国を離れてから8年目に 昭顯世子は帰国しましたが、父の仁祖は全く喜びませんでした。 王子の持ち帰った品々はすべて国の倉庫に入れられてしまいます。そして2ヵ月後に王子は疑問の死を遂げるのです。昭顯王子が死んで3ヵ月後、弟の鳳林大君が跡継ぎに指名され、王子の妻と息子たちもすべて殺されてしまいます。
仁祖がクーデターを起こして光海君を倒した名分は明への事大主義でした。そのため、それを捨てることは自分の王位を否定することも同然だったのです。それで仁祖は 昭顯王子を許すことができなかったのです。
http://world.kbs.co.kr/japanese/korea/korea_click_detail.htm?No=1022
これは メッセージ 601 (aki_kaze_u_ru_ru さん)への返信です.
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