南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行の嘘

Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー

[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | [ メッセージ # オフセット ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Re: 中国人捕虜に対する取扱いを示す資料(

投稿者: konoyo_anoyo 投稿日時: 2011/11/14 21:36 投稿番号: [37403 / 41162]
日本人捕虜はどうなってたのかなぁ〜。

耳鼻そがれ、大事な男の一物は食われて、瀕死の状態で見つかる日本兵には当り前ってか〜。お前日本人か〜?日本人で有るならば共産党員の宣伝員か〜。

アカ罪君の主張

投稿者: nanja3231 投稿日時: 2011/11/14 20:59 投稿番号: [37402 / 41162]
死体があったら取り敢えず日本のせい
埋葬する暇はなかったけど怪しい埋葬記録は採用
事実かどうか疑わしい日記も検証せず全て採用
どんな魔女裁判?
北朝鮮や中国の裁判を日本に摘要せんでくれや。
日本は文明国家だからアカ罪君みたいな異端審問官はいらない♪

中国人捕虜に対する取扱いを示す資料(3)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/14 20:11 投稿番号: [37401 / 41162]
先に、第9師団歩兵第6旅団歩兵第7連隊の命令を引用した。
では、この連隊に所属した兵士は、どのような光景を目撃し、
どのように   感じたのだろうか。
同連隊の第2中隊に所属していた   兵士の日記を引用しよう。

  〔12月16日〕
   拾弐月も中を過ぎ去ってしまった。   金沢招集を受けて
   満三ヶ月に   なってしまった。   只無の世界の様である。
   午前拾時から残敵掃蕩に出かける。高射砲一門を捕獲す。
   午後又で出ける。若い奴を三百三十五名を捕らえて来る。
   避難民の中から   敗残兵らしき奴を皆連れ来るのである。
   全く此の中には家族も居るであろうに。
   全く此を連れ出すのに只々泣くので困る。
   手にすがる、体にすがる全く困った。
   (略)
   揚子江付近に此の敗残兵三百三十五名を連れて他の兵が
   射殺に行った。
   この寒月拾四日皎々と光る中に永久の旅に出ずる者そ
   何かの縁なのであろう。皇軍宣布の犠牲となりて行くのだ。
   日本軍司令部で二度と腰の立て得ない様にする為に
   若人は皆殺すのである。
   (略)

  〔12月22日〕
   (略)
   夕闇迫る午後五時大隊本部に集合して敗残兵を殺に行く
   のだと。   見れば   本部の庭に百六十一名の   支那人が
   神明にひかえている。
   後に死が近くのも知らず   我々の行動を眺めていた。
   百六十余名を連れて南京外人街を叱りつつ、古林時付近の
   要地帯に掩蓋銃座が   至る所に見る。   日はすでに西山に
   没してすでに人の変動が分かるのみである。家屋も転々と
   あるのみ、池のふちにつれ来、一軒家にぶちこめた。
   家屋から五人連れをつれてきて突くのである。
   うーと叫ぶ奴、ぶつぶつと言って歩く奴、泣く奴、
   全く最後を知るに及んでやはり落付を失っているを見る。
   戦にやぶれた兵の行先は日本軍人に殺されたのだ。
   針金で腕をしめる、首をつなぎ、棒でたたきたたき
   つれ行くのである。
   (略)
   中には   逃げる為に   屋根裏にしがみついてかくれて
   いる奴もいる。いくら呼べど降りてこぬ為ガソリンで
   家屋を焼く。   火達磨となって二・三人が飛んで出て
   来たのを突殺す。暗き中にエイエイと気合いをかけ突く、
   逃げ行く奴を突く、銃殺しパンパンと打、
   一時此の付近を   地獄の様にしてしまった。
   終わりて並べた死体の中にガソリンをかけ火をかけて、
   火の中にまだ生きている奴が動くのを又殺すのだ。
   (略)
   (第9師団第6旅団第7連隊第2中隊上等兵井家又一日記)

中国人捕虜に対する取扱いを示す資料(2)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/14 20:09 投稿番号: [37400 / 41162]
前に引用した   第9師団歩兵第6旅団歩兵第7連隊の命令に
捕虜に対する食料を「師団に請求すへし」とあることからも
分かるとおり、部隊レベルでは   当初、中国人捕虜を直ちに
殺害することは   想定していなかった   と考えられる。

このことは、別の関係資料からも   読み取ることができる。
以下、第114師団第66連隊第一大隊戦闘詳報を引用する。

  〔12月12夜〕
   捕虜は第四中隊警備地区内洋館内に収容し、周囲に警戒兵を      
   配備し、その食事は   捕虜二十名を使役し、徴発米を炊さん
   せしめて支給せり。   食事を支給せるは午後十時ごろにして、
   食に飢えたる彼らは   争って貪食せり。

  〔13日午後2時〕
   連隊長より左の命令を受く。   旅団命令により捕虜は全部
   殺すべし。その方法は十数名を捕縛し逐次銃殺しては如何。

  〔13日夕方〕
   各中隊長を集め捕虜の処分につき意見の交換をなさしめたる
   結果、各中隊に等分に分配し、監禁室より五十名宛連れだし、
   第一中隊は路営地南方谷地、第三中隊は路営地西南方凹地、
   第四中隊は路営地東南方谷地付近において刺殺せしむること
   とせり。  
   各隊ともに午後五時準備終わり   刺殺を開始し、
   おおむね   午後七時三十分刺殺を終わり、連隊に報告す。
   第一中隊は当初の予定を変更して一気に監禁し焼かんとして
   失敗せり。  
   捕虜は観念し恐れず軍刀の前に首をさし伸ぶるもの、銃剣の
   前に乗り出し従容としおるものありたるも、中には泣き喚き
   救助を嘆願せるものあり。
   特に隊長巡視のさいは各所にその声おこれり。

すくなくとも、12月12日までは、捕虜を   収容したうえで
食事も与えたことが記されているが、翌日午後には旅団からの
捕虜を全員殺せとの命令が   伝達されたことが   分かる。
そして、同日の午後5時から   7時30分にかけて、
中隊ごとに分担し、刺殺した様子が   記録されている。

つまり、一部の部隊が独断で捕虜を殺害したのではなく、
上部からの命令により、組織的に   大量に殺戮したのだ。
また、これらの記録からは、日が経つにつれ   より厳しい
処置の命令が   降されている実態が   読み取れる。

中国人捕虜に対する取扱いを示す資料(1)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/14 20:07 投稿番号: [37399 / 41162]
中国人捕虜に対する   日本軍の対応などを   示す資料として、
第9師団歩兵第6旅団   歩兵第7連隊の   作戦命令書がある。
以下に   引用しておこう。

   歩七作命甲第一〇七号   歩兵第七連隊命令
   十二月十四日午後一時四十分   於南京東部連隊本部
   一、各隊は其担任掃蕩地区内に兵力を集結し掃蕩を続行すへし
    尚ほ掃蕩地区内には   歩七(配属部隊を含む)外の部隊の
    勝手なる行動を絶対に禁止すへし
   二、各隊の俘虜は其掃蕩地区内の一カ所に収容すへし
    之に対する食料は師団に請求すへし

わざわざ   各部隊に対し、掃蕩地区内での   「勝手な行動」   を、
「絶対に禁止」するよう命じている。   上海以後の各戦線において
各部隊の   目に余る「勝手な行動」   が繰り返されていたからこそ
わざわざ   このように、厳しく   命令する必要が   あったのだ。

また、捕虜が出た場合は   食料を   師団に請求せよ、としている。
つまり、第7連隊としては   捕虜に対する食料を   確保していない
ということだ。   実際、前線部隊は   自軍兵士の給養にさえも窮し、
捕虜の食料確保など無理な話だった。   次の命令も   見てみよう。

   歩七作命甲第一一一号   歩兵第七連隊命令
   十二月十五日午後八時三〇分   於南京東部連隊本部
   一、本十五日迄捕獲したる俘虜を調査せし所に依れは殆と
    下士官兵のみにて将校は認められさる状況なり
    将校は便衣に更へ難民地区に滞在しあるか加し
   二、連隊は明十六日全力を難民地区に指向し徹底的に敗残兵を
    捕捉殲滅せんとす   憲兵隊は連隊に協力する筈
   三、各大隊は明十六日早朝より   其担当する掃蕩地区内の
    掃蕩   特に難民地区掃蕩を   続行すへし

捕虜のうち、取り調べたのは   軍事情報を握る下士官以上の幹部
のみであり、必要のない   一般兵士は   直ちに   殺害した。
それを裏付ける   史料としては、第十三師団司令部が出した
「戦闘に関する教示」(10月9日付)   があり、その中で
中国人捕虜の   扱いについて、次のように   指示している。

    捕虜中   将校ハ之ヲ射殺スルコトナク   武装解除ノ上、
    師団司令部ニ   護送スルヲ要ス   (中略)
    但シ少数人員ノ捕虜ハ所要ノ尋問ヲ為シタル上適宜処置スル
    モノトス
   (防衛研究所所蔵「第十三師団戦闘詳報別紙及附図」第一号)

捕虜のうち、将校は射殺せず   師団司令部まで   護送すること、
その他の捕虜については、所要の尋問を   したうえで  
「適宜処置」   するように   と、指示していたことがわかる。
とくに   将校など上級幹部は、貴重な情報を得るうえで   必要が
あったため、難民地区での   「敗残兵狩り」が   徹底されたのだ。

難民区は   国際委員会の管理区域であり、武装解除して収容した
中国兵を   「徹底的に捕捉殲滅」   するというのは   残虐行為だ。
(ちなみに、『殲滅』を広辞林で引くと、『すっかり滅ぼすこと』
『皆殺しにすること』の意とある)   そこまでの   熾烈な掃蕩を
強行した理由は、「16日全力」で   と命じたことが示すように
翌日の「宮様」   も参加する   入城式が   念頭にあったからだ。

南京虐殺事件に関する国際常識・補足(2)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/14 12:56 投稿番号: [37398 / 41162]
前述した   慈善団体などによる   遺体の   収容・埋葬に関して
とくに   多数の埋葬作業にあたった団体としては、「紅卍会」と
「崇善堂」   があり、1937年12月から   38年3月までに
両者で   15万5000体以上を   埋葬している。
東京裁判でも   南京虐殺事件の最大の証拠とされたのが、これら
慈善団体などによる作業報告だった。

南京虐殺マボロシ派は、こうした数字は   ウソだ   と決め付ける。
特に、崇善堂などは民間の葬儀屋なので、多額の報酬を得るため
数を水増ししているのだ、という説を唱えるものも   少なくない。
たしかに、崇善堂は   日本軍の依頼にもとづき業務にあたったと
されている。   軍が依頼し   報酬を支払った   のであれば、当然
その費用は公金であり、最低限の実績確認・検査は行ったはずだ。

水増しがあった   と仮定しても、日本の役人の目を   欺くのにも
限度というものが   あっただろう。   なお、通常   戦場の掃除は
自軍兵士や   捕虜が実行する。   軍が民間人に   委嘱したことは、
大量に捕虜を殺害したため労働力不足であるうえに、軍だけでは
処理しきれないほどの遺体が存在していた証拠ではないだろうか。

紅卍会と   崇善堂による遺体収容は、南京行政区の中だけであり、
周辺地域や   南京沿いを除く   揚子江などは   含まれていない。
さらに、遺体埋葬を行ったのは   この2つの組織だけではなく、
紅十字会(赤十字)など   複数の機関も   別途実施した。
したがって、南京周辺だけに限っても   約20万以上の   遺体が
あったということは、間違いない事実だ   と考えられる。

大量の遺体が遺棄されていたという事実は、日本軍の関係者も
記録している。   たとえば、第16師団の佐々木到一支隊長は
日記に   次のように   記している。

  「この日、わが支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は1万数千に
  上り   その外、装甲車が江上に撃滅したもの   ならびに各部隊の
  俘虜を合算すれば、我が支隊のみにて2万以上の敵は解決されて
  いる筈である。(中略)   午後2時ごろ、概して掃蕩を終わって
  背後を安全にし、部隊を纏めつつ前進、和平門にいたる。」
  「その後俘虜続々投降し来たり数千に達す、激昂せる兵は上官の
  制止を肯かばこそ、片はしより   殺戮する。   多数戦友の流血と
  十日間の辛酸を顧みれば   兵隊ならずとも『皆やってしまえ』と
  言いたくなる。」
  「白米は   もはや一粒もなし、城内には   有るだろうが、俘虜に
  食わせるものの   持ち合わせなんか   我が軍には無い筈だった。」
  (佐々木到一少将私記「南京戦史資料集」南京戦史編集委員会編、
  偕行社、1989年より引用)

佐々木少将が   「大ウソ」つき   でなければ、支隊のみで2万以上の
敵兵を「解決」   したこと、俘虜だと認識しながら   殺戮したこと、
食料も底をつき   俘虜の給養は   不可能であった状況   などが判る。
このほかにも   数千あるいは数万の単位で捕虜を処断した事実を
記録している軍関係の資料が   残されている。

食糧を与え、俘虜を調査していた

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2011/11/14 12:56 投稿番号: [37397 / 41162]
第9師団   歩兵第6旅団   歩兵第7連隊
歩七作命甲第一〇七号
歩兵第七連隊命令

十二月十四日午後一時四十分
於   南京東部連隊本部
一、各隊は其担任掃蕩地区内に兵力を集結し掃蕩を続行すへし尚ほ掃蕩地区内には歩七(配属部隊を含む)外の部隊の勝手なる行動を絶対に禁止すへし
二、各隊の俘虜は其掃蕩地区内の一カ所に収容すへし之に対する食料は師団に請求すへし


第9師団   歩兵第6旅団   歩兵第7連隊
歩七作命甲第一一一号
歩兵第七連隊命令

十二月十五日午後八時三〇分
於   南京東部連隊本部
一、本十五日迄捕獲したる俘虜を調査せし所に依れは殆と下士官兵のみにて将校は認められさる状況なり
   将校は便衣に更へ難民地区に滞在しあるか加し
二、連隊は明十六日全力を難民地区に指向し徹底的に敗残兵を捕捉殲滅せんとす
    憲兵隊は連隊に協力する筈
三、各大隊は明十六日早朝より其担当する掃蕩地区内の掃蕩特に難民地区掃蕩を続行すへし
   第三大隊は部下各中隊より各一小隊を出し第一大隊長の区署を受けしむへし
四、戦車第一中隊及軽装甲車第七中隊は待機すへし
五、予は十六日午後以降最高法院西方約一粁赤壁路連隊本部に在り
連隊長   伊佐大佐
下達法   命令受領者に印刷交付す

南京虐殺事件に関する国際常識・補足(1)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/14 12:55 投稿番号: [37396 / 41162]
>死体をどうやって処理したかを調査したらどうだ。

調査結果については、すでに   説明したはずだが。
もしかしたら、日本語が   分からないのかも知れないので、
念のため、はじめに   言葉の意味を   説明しておこう。
まず   「遺体の収容」=   これは、各地に遺棄されている死体を
搬送し、一旦   何箇所かの   安置所などに   集めてくること。
次に   「埋葬」=   これは、遺体を   地中に埋めて弔うことだ。
だいたい、中学生程度の国語力があれば、理解できる   と思う。
これを   踏まえてもらったうえで、もういちど   説明しよう。

当方は、犠牲者数を   30万と断定したつもりはないが、
夥しい数の遺体が   日本軍によって   遺棄されたことは   事実だ。
これらは、   長い日数を費やして   収容され、埋葬された。
一度も   現地を視察した経験がなければ   知らないだろうが、
南京城内外には、数多くの   集団埋葬地が   存在している。  
たとえば、郊外に位置する   北極山などには   至る所に
遺体叢葬の記念碑があり、その数は   じつに   二千を超える。
 
資料によると、犠牲者の遺体は   次の5つのルートで   埋葬、
処理された   と考えられる。

①   国際委員会によるもの
  同委員会のメンバーであるベイツは、戦後の東京裁判で証言し、
  南京陥落後   72時間以内に、国際委員会が雇った   労働者が
  埋葬した軍人・市民の遺体は「3万体に達した」と語っている。
②   慈善団体や宗教団体等によるもの
  南京城内外に放置された   遺体の埋葬作業にあたった   団体で、
  紅卍会   43,123体、   崇善堂   112,267体、
  中国赤十字社   22,683体、合計   約178,000体の
  埋葬記録がある。さらに   同善堂という団体が7,000体余
  を埋葬したとされる。
③   市民の埋葬によるもの
  市民の手で   合計36,000体あまりを収容・埋葬している。
  湖南の木材商   盛世征、昌開運が出資して行った   水西門外の
  遺体収容が28,730体、城南市民の   張瀉儒、楊広才らが
  難民を組織して   中華門外の   7,000体あまりを   収容、
  また、回教徒の埋葬隊が収容・埋葬した遺体は   約400体。
④   汪兆銘政権政権によるもの
  日本軍の傀儡政権、汪兆銘政権(南京政府)   の市、区の
  両級機関の   共同組織が   7,400体を   収容・埋葬した。
  うち、第一区役場が   1938年2月に   同区の所轄内で
  1,233体を収容。下関区役場が37年12月15日から
  38年1月までに、3,240体を収容。   南京市政公署の
  監督官高冠吾が   38年12月から   39年の   春にかけて、
  衛生局に命じ、中山門外の霊谷寺、馬群一帯の3,000体
  あまりを   収容している。
⑤   南京進駐日本軍によるもの
  日本軍は   部隊を動員して   合計15万体を焼却・処理した。
  うち、南京停泊場の司令部の   足立少佐と   大田寿男が率いた
  部隊は、10万体を   長江に投げ捨てたり、江北に運んで焼却・
  土中に埋めたとされている。   南京に侵攻した部隊が処理した
  ものは、5万体。  

上述した   遺体収容・埋葬処理の記録を   単純に加算すると
40万体にのぼる。   ただし、収容・処理された   遺体には
重複して集計されたものも   含まれている可能性がある。
また、捕虜や市民ではなく、交戦中に戦死した中国軍兵士の
遺体も相当数   含まれている   と考えるべきだろう。

なお、日本軍の   記録によれば、揚子江に   投げ込んだり、
城外において   密かに埋めた遺体も   数多い   と思われる。
収容できなかったものは記録されず、正確な数を把握する
ことは、ほぼ   不可能である   と言える。   したがって、
公式には、東京裁判が   認定した   南京大虐殺の犠牲者数
「30万人以上」   としか   言えないのだ。

↓↓ シナ人確定 konoyo_anoyo ▼▼▼

投稿者: kovdousuru009 投稿日時: 2011/11/14 01:14 投稿番号: [37395 / 41162]
「この世あの世」こと朴カツヒコ
       ↓
http://www.youtube.com/watch?v=XM7vZgqPYdc&feature=related


0:10にkonoyo_anoyo登場!
       ↓
http://www.youtube.com/watch?v=Bemb_iED5KU&feature=related

↓↓ シナ人確定 konoyo_anoyo ▼▼▼

投稿者: kovdousuru009 投稿日時: 2011/11/13 20:38 投稿番号: [37394 / 41162]
「この世あの世」こと朴カツヒコ
       ↓
http://www.youtube.com/watch?v=XM7vZgqPYdc&feature=related


0:10にkonoyo_anoyo登場!
       ↓
http://www.youtube.com/watch?v=Bemb_iED5KU&feature=related

Re: 南京虐殺事件にみられる戦争の実相(1

投稿者: konoyo_anoyo 投稿日時: 2011/11/12 22:23 投稿番号: [37393 / 41162]
何で、蒋介石の罪を認めないのだろう〜。

そもそも、唐生智と言う司令官は自分だけ逃げ出し、後は「各隊各個に包囲を突破せよ」って事は自分勝手。これは部下を平気で見捨てたシナ人そのもの。
もとよりシナ人は人命は塵芥の扱いだ〜。日本人と同じ価値観だと思うのが不思議だな〜。文化大革命での何の罪も無い特権階級を殺戮した事は、悪辣なるシナ人の性格なんだろうな〜。

未だに北朝鮮を収容所国家として存続させている蛮人が、当時のシナ人そのものと同じと思うのみ〜。ハヨ滅べ〜!シナ大陸。

それに同調する反日野郎〜!

Re: 南京虐殺事件にみられる戦争の実相(1

投稿者: rugaruga12 投稿日時: 2011/11/12 21:21 投稿番号: [37392 / 41162]
>軍服を脱いで便衣(中国人の平服)に着替えて

それをどこから用意したのか、というお話なんだがな。「軍隊としての   戦闘能力は完全に消滅していた」ところが用意していなければ強盗犯でありそれを処断するのは占領行政上当然の行為だが

>完全に   四散して   軍隊としての   戦闘能力は完全に消滅していた。

そういう軍隊が市民に対して略奪や虐殺を働くことは別段珍しくないし、そういうのを取り締まるのが占領軍の役目だが

>何万人もの   無抵抗の中国人が、短期間に   殺されたことが分かる。

で、補給を軽視しており食糧すら略奪頼みに軍隊に何万人もの数を虐殺する物資はどこにあるのですか?

ちなみに南京事件の一因として補給不足をあげたがそれだけの人数を短期間で殺せるほど物資があれば補給は十分であるか、そもそも必要性がなかった=虐殺の動機がないと言う話になるのだが。

Re: 南京虐殺事件にみられる戦争の実相(1

投稿者: unhoo 投稿日時: 2011/11/12 19:20 投稿番号: [37391 / 41162]
>何万人もの   無抵抗の中国人が、短期間に   殺されたことが分かる。

↑そういう主張を完結するために、死体をどうやって処理したかを調査した
らどうだ。

Re: 「英霊」の大半が餓死という侵略軍の実

投稿者: unhoo 投稿日時: 2011/11/12 18:28 投稿番号: [37390 / 41162]
>日本軍兵士の   戦地栄養失調症を含む広い意味での餓死者は、
合計で127万6240名に達し、全体の戦没者212万の
約60%   という割合になる。

レス:   南方戦線に日本軍の食糧補給が失敗したのは、敵米の潜水艦作戦の
の成功により、似方の輸送船が片っ端から撃沈されたためである。

潜水艦という物が発明されたとき、日本海軍の最高実権者の東郷元帥の頭脳
はもはや現実に追いつけず、潜水艦の役目を「来撃する敵艦隊の主力艦を撃
沈すべし」と規定したのだ。日米戦争で日本の潜水艦は、最後までこの役目
を負わされた。ドイツ海軍が見かねて「潜水艦では敵の大型艦を攻撃できな
い。潜水艦の用途は敵の商船と輸送船を撃沈するにある」と強くアドバイス
したが、日本海軍の中に張り付いていた東郷元帥の遺訓を覆すことはできな
かった。

アメリカ海軍太平洋艦隊司令長官ミニッツは潜水艦畑の出身者だから、潜水
艦を正しく商船、輸送船撃沈に使い、1年で日本の輸送能力をゼロにした。
物資の輸送船だけでなく、兵員を満載した輸送船も撃沈されて、兵員を溺死
させた。

南京虐殺事件にみられる戦争の実相(9)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/12 14:50 投稿番号: [37389 / 41162]
南京大虐殺のような蛮行を、なぜ   日本軍が起こしたのだろうか。
日本人が   もともと残酷で、人殺しは   その本性だ   などとは
とても   考えられない。   むしろ、歴史が示すように   日本人は
本来温和で、生命や   自然を寿ぎ、愛する   民族だったはずだ。
それが、このような   残虐事件の   主役になったのには、相当の
背景と   原因が   あったはずだ。

元来   軍隊とは暴力組織であり、明白な自律意識が保たれなければ
残虐行為に走るのは当然だ、と言ってしまえば   それまでであるし、
満州事変での   平頂事件や   ベトナム戦争でのソンミ事件のように、
内外に   いくつも   同様の例を見出すことは   できる。
しかし、南京事件は、あまりにも大規模で   組織的な行為だった。
それを行なった   旧日本軍=「皇軍」の性質に、
事件を誘発する原因があったのだ   と考えられる。

第1に、近代の   日本軍の特徴は、世界にも稀なほど厳しい規律と、
兵士に対する服従の強制があり、兵士の自主性を尊重することなく、
がんじがらめの規則と厳しい罰則とで、軍隊の秩序を維持していた。
兵士の人権は極度に制限され、苛酷なまでの絶対服従が強要された。
古参兵が新兵に対してふるった私的制裁としての暴力などは有名だ。
自軍の中でも、人権と自由を   尊重しないのだから、敵軍の捕虜や
民衆にたいする処遇に、人権の尊重を求めるのは   無理な話だ。

第2に、皇軍の特徴には、非合理な精神主義の   強調があった。
明治の建軍にあたって、日本軍の幹部は   すべて士族、つまり
もとの武士だった。   近代軍でありながら、封建時代の武士道が
そのまま持ち込まれた。   このことにより   戦場の死こそ名誉だ
という   武士の価値観が、天皇のために死ぬことが軍人の最高の
美徳だという位置づけとなり、やがて   玉砕や特攻   などという
およそ近代軍にあるまじき作戦の立案・実行に   行き着いたのだ。
いさぎよく死を選べ、生きて虜囚の恥はさらすな、という思想が
兵士   一人ひとりに   徹底して   刷り込まれた。   自軍の捕虜を
認めないぐらいだから、相手国の捕虜の処遇も非道なものとなった。

日本人が、日本人らしさを   失っていた   軍国時代に起きた悲劇。
その現実に向き合わなければ、未来に責任を持つことはできない。
歴史を   真摯に省みることは   自虐でもなければ   恥でもない。
恥だとすれば、自国にのみ   都合よく   歴史を   歪曲することだ。

そうした   恥ずべき歴史の改ざんに   躍起になりながら、
国際社会が進展している現代にあっても、いまだに
他国の人々を   侮蔑しようとする   傲慢な日本人もいる。
しかし、かつて   他国民衆への侮蔑的感情が、
違法な残虐行為の要因になった歴史を   忘れてはならない。
 
 
 

南京虐殺事件にみられる戦争の実相(8)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/12 14:29 投稿番号: [37388 / 41162]
南京事件否定派は、被害者数を   できるだけ少なく見積もろうと
必死になるが、極端なものでは、市民の殺害は   47人だけ
(藤岡信勝「『南京大虐殺三十万』のウソ」)   などという
呆れるほかない   非現実的な   主張まである。
しかし、当時の日本軍側の公式記録でさえも、日本兵の殺人や
強姦の多さを   証明している。

第十軍は、南京攻略直後に   きびすを返して   杭州攻略に
むかうことになった。   そのさいに、第十軍   参謀長は、
12月20日付で次のような通牒を所属諸部隊に発している。

   掠奪婦女暴行放火等ノ厳禁ニ関シテハ□次訓示セラレタル所
   ナルモ、本次南京攻略ノ実績ニ徴スルニ婦女暴行ノミニテモ
   百余件ニ上ル忌ムベキ事態ヲ発生セルヲ以テ、
   重複ヲモ顧ミズ注意スル所アラントス

注意を繰り返している   にもかかわらず、同軍だけで
強姦が   百余件も   発生した、と述べているのだ。
南京攻略に際し、一般市民への残虐行為が多発したという認識は、
軍上層部にも   存在していた。
翌38年8月に、武漢攻略戦のために   第十一軍司令官として
赴任した中将は、その回想録に   次のように書いている。

   上海に上陸して一、二日の間、先遣の参謀、中支那派遣軍
   特務部長、杭州特務機関長等から聴取したところを総合すれば、
   次のとおりであった。
   一、南京攻略時、数万の市民にたいする掠奪強姦等の大暴行が
     あったことは事実である。
   一、第一線部隊は給養を名として俘虜を殺してしまう弊がある。
    (「岡村寧次大将資料(上)」原書房、1970年)

数万の市民への“大暴行”があったことを、軍の高級幹部も
認めざるを得なかった。   一般市民への残虐行為には、加害者、
第3者、被害者の   それぞれが   証言や史料を   残している。
市民の犠牲者が   たったの47人以下だ   などという暴論は、
日本人の見識を地に落とす、恥の上塗り行為というほかはない。
 
 
 
 
 
   

南京虐殺事件にみられる戦争の実相(7)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/12 14:28 投稿番号: [37387 / 41162]
ドイツ本国に送られた   大使館の   報告によれば、
直接ドイツ人が見聞した   日本兵の   殺人や強姦の例が
多数あげられている。   たとえば   ドイツ大使館にまで、
女性を渡せと   日本兵が   侵入してきたことまで報告し、
37年12月24日には、「日本兵による民間人にたいする
行為の   もっとも忌まわしい事実が   あきらかになった」
「それは   ドイツの政策目標である   共産主義拡大防止に
明白に対立するものだ」   としている。

38年1月15日の報告では、「日本軍が   占領してから
1ヶ月以上も   たっているのに、女性や少女の連行と、暴行も
同じく続いている。   この観点から言えば、日本軍はここ南京
において   自らの恥辱の記念碑をうちたてた」   と言っている。

さらに同年2月10日の報告には、
米国人マギー神父が撮影した   映像フィルムを   同封するとし、
このフィルムは   残虐行為を雄弁に   ものがたっているから、
「総統にも   ぜひ、映画をご覧いただきたいと願う」としている。

このとき同封された解説文は   ベルリンに残されているが、
フィルムは   発見されていない。   また、ヒトラーが   実際に、
この映画を   見たかどうかは   今となっては   知るすべがない。
当該フィルムは、米国で発見された『マギーの遺言』と題する
映画と、おそらく   同じものであった   と考えられる。

当時、南京の国際員会委員長は、ドイツ人のジョン・ラーべだった。
彼は、38年2月に帰国して   報告書を作成している。
この報告書には、日本軍が捕虜を   数千単位で処刑したり、
集団で   略奪や強姦を繰り返したと   記録されている。

そして、非戦闘員で殺された者については「5万から6万人ぐらい」
だと述べている。   ラーベが記した非戦闘員犠牲者の数は、彼が居た
安全区内   もしくは周辺市街だけのものだ。   一般住民の被害は、
市内よりも   周辺農村部のほうが   はるかに多かったのであるし、
調査が十分に行われたわけではない。   数字は最低限のものだろう。

否定派の中には、その数が   きわめて少ないから大虐殺ではない
と主張している者もいる。
しかし   それは、スマイス調査はじめ第3者のあげる数字も、
まして   被害者側のなまなましい証言も   すべて無視するものであり、
まったく根拠に欠けるものだ。
たしかに、被害者数を   正確に数えることは   困難なことだ。
問題は、日本軍による   無抵抗な捕虜や   一般市民への残虐行為
とくに殺人、強姦が多出した   という   「事実」   なのだ。

 

南京虐殺事件にみられる戦争の実相(6)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/12 14:27 投稿番号: [37386 / 41162]
加害者である日本軍は   まとまった   公式記録を   残していない。
記録があったとしても、敗戦時に   多くの機密書類が焼却された。
残っているのは、一部の部隊や個人が残した   断片的記録だけだ。
このため、市民への残虐行為、特に   どれだけの人が殺されたかを
推定するためには、第三者の記録に   たよるほかはない。

一般市民の被害を、そのとき調査した第三者の記録としては、
金陵大学社会学教授   ルイス・S・C・スマイス博士が   行った
「南京地区における戦争被害1937年12月−1938年3月
都市および農村調査」   がある。

この調査は、日本軍の占領下で   行動が制限されているという
困難な状況下で、南京の市部と、南京市の行政区にふくまれる
周辺6県について行われた   サンプル調査だ。
市部の中でも   調査員の立ち入りが困難な地区もあり、
周辺部についても   県城を除外した   純農村だけが対象なので、
その数字は   総数を   あらわしているものではない。

調査によると、市部(城内及び城門外の下関と中華門外を含む)で
死傷者6,750名、拉致された者4,200名   となっている。
死者は3,400名で、うち兵士の暴行によるもの2,400名、
爆撃や砲撃   その他によるもの1,000名   となっている。
域内の   農村部では、5県の   県城をのぞく   純農村で、
死者30,905名、そのうち   殺されたもの26,870名、
また「村に帰って来ない」もの133,230名   となっている。

「拉致された者」や   「帰って来ない者」   の大多数も殺された
可能性は   高いが、これをのぞいても、この調査で   日本兵の
暴行による死者、または   殺された者として計上されているのは、
29,270名にも   のぼっている。
これに、調査で除外されている県城での被害をたせば、この数は
もっと増えるはずで、犠牲者総数は、はるかに多いことが分かる。

南京虐殺否定派は、英米人は日本に敵意をもっていたはずだから
その証言や調査は   信用できない、と言うかも知れない。
しかし、日本と同盟を結んでいた友好国ドイツの在中国大使館の
報告でも、日本軍の残虐行為を   くわしく   報告している。
この報告は、ベルリンの旧東ドイツ国立公文書館に残されており、
ドイツ統一後に公開されている。
(0102在大使館報告「2208日中紛争203〜205」)

 
   
   

南京虐殺事件にみられる戦争の実相(5)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/12 14:27 投稿番号: [37385 / 41162]
11月11日付の   第三師団歩兵第六聯隊第二大隊の攻撃計画は、
大隊長から将兵に対して   次のように   命じるものとなっていた。
「一般ノ領民ハ総テ城内ニ避難シアルヲ以テ城外ニ在ル一切ノ者ハ
敵意ヲ有スルモノト認メ之ヲ殲滅ス」   とし、さらに   次の項では
「掃蕩ニ方リテハ家屋ヲ焼却スルヲ便トスルヲ以テ之ガ材料ヲ
準備スルコト」   と示していた。
つまり、城外にいる一切の人間を殺し、家屋を焼き払うことを
自軍兵士に   命じていたのだ。

それでなくとも   日本兵は、中国軍の   予想以上に頑強な
抵抗により   苦戦を強いられ、味方に多くの犠牲者がでたことで
中国人への憎悪と   敵愾心に   あふれていた。
さらに   後方補給のないまま   強引な物資の「現地徴発」を重ね
追撃していったのだ。   事実上の略奪行為は   理性を喪失させた。

そのうえに、「支那住民ハ老人、女、子供ト雖モ敵ノ間諜ヲ勤メ」
ているのだと刷り込まれ、一切の区別なく   敵と見なし、村落も
焼き払え   と命じられれば、極限状態にあった   兵隊たちが  
どのような行動をとったかは、想像するに難くない。

その第一線部隊の   後方にも、大量の軍隊が   進軍していった。
道路や橋が破壊されていたため、馬や車両をもつ部隊の前進は
とどこおり、行李や輜重、砲兵や通信隊などの特科部隊は、
後方から   第一線を   追いかけることになったのだ。

また、上海戦での損害も大きかったので、各隊には   次々と
補充員が送られた。   この補充員たちが、各隊ごとに先任者の
引率で   第一線を追いかけるので、これも後方の混乱を招いた。

こうして   上海から南京への江南の平地は、日本軍の第一線の
通過したあとも、雑多な日本軍部隊が   長期間、広範囲にわたり、
まるで   イナゴの大群のように「現地徴発」   を繰り返しながら
進んでいった。

第一線部隊が通りすぎ、避難していた住民が家に戻ったあとに、
三三五五と   またやって来た日本兵に   略奪され、殺されたり
強姦されたりした例が多いという中国側被害者の証言があるのは、
このためであった   と考えられる。

一般市民の被害の状況を全体として明らかにすることは   困難だ。
兵士の日記や証言などに、個々の掠奪や   殺害の記録があるが、
加害者である日本軍が   まとまった記録を残しているわけがない。
したがって   一般市民への残虐行為、特に   どれだけの人が
殺されたかは、概数を   第三者の記録に   たよるほかはない。
 
 

南京虐殺事件にみられる戦争の実相(4)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/12 14:26 投稿番号: [37384 / 41162]
国際法にも   人道にも反する   大量の捕虜殺害が
組織的に行われた   という事実は、日本軍の公式記録でも
あきらかであり、外国人の捏造だなどと   否定できない。
そこで   南京虐殺否定派は、戦闘継続中のゲリラ掃討だから
違法行為ではない   などと   主張しているものもいる。

しかし、どの記録や   証言をみても、難民区を含む地域での
「敗残兵の剔出」   あるいは   自ら投降してきた   捕虜たちを
収容せず「処断」したのであって、戦闘によるものではない。

仮に、敗残兵の中に   戦闘継続を図る者がいたというのであれば、
入城後において   日本軍側に   どれほどの犠牲者が出たか、
記録があれば   示すべきだ。

中国軍捕虜および敗残兵と見なされた中国人の大量殺害とともに、
南京大虐殺の核心というべきは、非戦闘員への残虐行為、
とりわけ   婦女に対する   強姦殺人だろう。
なぜ、このような残虐な行為を   防げなかったのだろうか。

南京攻略よりも以前、すでに日本軍は   退却する中国軍を
追撃するなかで   一般民衆と接触する機会が頻繁となっていた。
第十軍は、杭州湾上陸に先立つ10月21日、将兵に対し
「軍参謀長の注意事項」を   通達したが、その中の
「支那住民ニ対スル注意」では   住民に対する「断乎たる処置」を
求めているが、その保護については   いっさい   触れていない。

   北支殊ニ上海方面ノ戦場ニ於テハ一般ノ支那住民ハ老人、女、
   子供ト雖モ敵ノ間諜ヲ勤メ、或ハ日本軍ノ位置ヲ敵ニ知ラシメ
   或ハ敵ヲ誘導シテ日本軍ヲ襲撃セシメ、或ハ日本軍ノ単独兵ニ
   危害ヲ加フル等寔ニ油断ナリ難キ実例多キヲ以テ、特ニ注意ヲ
   必要トス、殊ニ後方部隊ニ於テ然リトス、
   斯ノ如キ行為ヲ認メシ場合ニ於テ些モ仮借スルコトナク
   断乎タル処置ヲ執ルベシ
   (防衛研究所図書館所蔵「昭和12年陸支密大日記」)

中国一般住民は老人、女性、子供であっても敵に通じ、
日本軍に危害を与える   油断できない存在であるから
油断をせず、怪しい者は   断固として処置せよ――
という指示であり、どこにも   一般市民は保護すべきという
考え方は   示されていない。

むしろ、すべての民衆を   敵とみなせという命令さえ下していた。
その具体的例としては、上海南方地域の掃蕩にあたった第三師団
歩兵第六聯隊第二大隊の   11月11日付の大隊長命令による
攻撃計画などがある。
 
 
 

南京虐殺事件にみられる戦争の実相(3)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/12 14:09 投稿番号: [37383 / 41162]
難民区での「掃蕩」   については、多くの国際委員会関係者の
証言が   残されているだけでなく、日本軍側の聯隊長や兵士の
証言なども残されており、それらは   いずれも一級資料であり、
前述した   歩兵第七聯隊の戦闘詳報の   裏づけとなっている。

大虐殺否定論者は、この掃蕩は   戦闘行為の継続なのだから、
不法行為ではない、などと主張してみせる。
だが、実際は   前述したとおり   きわめて曖昧な基準で
「便衣兵」   を選び出して   一方的に   殺害したのだ。

また、たとえ   兵士であったとしても、裁判にもかけず
いきなり   処刑するのは   違法であり、非人道的な行為だ。
日本も批准公布していた   ハーグ会議での陸戦法規条約は
「武器を捨て又は自衛の手段尽きて降を乞える敵を殺傷すること」
を禁じている。

武器を捨て、軍服を脱ぎ、ひたすら死を逃れようとしていた者を、
それが兵士であったとしても、すぐに殺していいということはない。
それは不法殺害であり、虐殺という部類に   当然入るものだ。
一個聯隊だけの   市内掃蕩で   6,000名以上の「敗残兵」   に、
国際法に背く   虐殺が実行されたことは、公式に記録され、
証言でも   裏づけられている。

大虐殺否定派は   苦し紛れに、便衣兵はゲリラ活動する者だから
国際法の捕虜としての資格はない   などと主張している者もいる。
しかし、少なくとも   当時の南京の場合、便衣兵が   ゲリラとして
意図的・組織的に   軍事行動を   とっていた   事実はない。

前述のとおり、12日以前に   中国軍は退却命令を出し、敗走した。
敗残兵は   文字通り   逃げ遅れて戦闘能力を完全に消失したものだ。
降伏して捕虜になっても、日本軍の場合「捕虜ニセヌ方針」のもと
その場で「処刑」と称して殺害されるため、軍服を脱いで隠れるほか
身を守る方法はなかったのだ。

いずれも   殺されるのを怖れて   平服に着替え、隠れていた
戦意を失った兵士や、兵士の疑いのある市民が   殺害されたのだ。
しかも   その舞台の一部が、国際安全区だったのだ。
したがって   これは、戦闘行為の継続でもなければ、ゲリラの掃討
でもなく、一方的な   大量殺戮というのが   実態だったのだ。

南京虐殺事件にみられる戦争の実相(2)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/12 14:08 投稿番号: [37382 / 41162]
日本軍の市内掃蕩で   多くの中国人が   殺されたが、
一部は   国際委員会が管理する   難民区内に逃げ込んだ。
国際委員会は、彼らを   武装解除して   収容したうえで
その保護要請を、日本軍に   提出した。   これを受けて
中支那方面軍は、兵士に   難民区には入らないように指示した。

しかし、この指示は   まったく   守られなかった。
入城直後から   日本兵が難民区に侵入し、掠奪や強姦を繰り返した。
このことについては、委員会関係者や   おびただしい数の外国人の
証言があり、さらに   第九師団歩兵第七聯隊の戦闘詳報や従軍者の
日記にも   日本軍が難民地区にまで侵入し、徹底的に敗残兵の
捕捉殲滅作戦が   行なわれていたことが   記録されている。

国際委員会の要請を   無視して行なわれた   難民区での
日本軍による「掃蕩作戦」   は、凄惨をきわめた。
第九師団   第七歩兵聯隊長の   日記では
「三日間ニ亘ル   掃蕩ニテ   約六千五百ヲ   厳重処分ス」、
また、戦闘詳報には   「刺射殺数(敗残兵)六六七〇」
(資料集「南京城内掃蕩成果表」)との記録が残されている。

この市内掃蕩は、国際委員会が難民保護にあたっていた
「安全区」を   主な舞台として   行なわれたことから、
当時から   世界に   広く知られることになった。

そのやり方は、青壮年を狩り集め、額に日焼けの線がある者、
靴ずれのある者、姿勢のよい者、眼つきの鋭い者   などの
いい加減な基準で   「兵士」   を選び出し、処刑の対象にした。
殺したのは「兵士」   だけだったと言い切ることは   到底でない。

南京虐殺事件にみられる戦争の実相(1)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/12 14:07 投稿番号: [37381 / 41162]
南京大虐殺として   事件が国際的に知られるようになったのは、
難民区をふくむ市内での   「敗残兵の掃蕩」、「便衣兵の剔出」
による   集団処刑が   外国人の眼にふれたことによってだった。

中国軍の   南京防衛軍司令官唐生智恵は、12月12日夕刻
「各隊各個に包囲を突破せよ」   と命令し、ひそかに揚子江を
渡って   脱出した。

このため   中国軍は   一挙に崩壊し、脱出するもの、投降するもの、
武器を捨て   軍服を脱いで便衣(中国人の平服)に着替えて市内に
潜伏するものなど、完全に   四散して   軍隊としての   戦闘能力は
完全に消滅していた。

これに対し   日本軍は、市内の「中国軍」   の徹底的な「殲滅」を
命令し、市内の掃蕩を行なった。
この掃蕩は、皇族の朝香宮も参加する17日の「入城式」   の前に、
市内に潜む   「中国兵」狩りを   目的としたものだった。

つまり、すでに「中国軍」として   組織的軍事行動が消滅した中で
敗残兵と見なした中国人民を狩りたて、まともな取り調べもせずに
当然、軍法会議にかけることもなく、現場で次々と殺害したのだ。
また、自ら投降してきたものも   陸戦協定に基づく   処遇をせずに
ただちに殺害した。
 
“宮様”も参加する入城式を成功させるために、数日間にわたって
すでに戦闘能力を失った敵に対し、徹底した掃蕩作戦が展開された。
12月13日に   第十軍が発令した   南京城内攻撃作戦命令では、
「各兵団は城内に対し   砲撃はもとよりあらゆる手段を尽くして
敵を殲滅すべし」   「これが為要すれば城内を焼却し特に敗残兵の
欺瞞行為に乗ぜられざるを要す」   と示していた。

仮に、民間人の中に   中国の敗残兵が潜んでいたとしても、
非戦闘員である市民の居住区、さらに外国人も残留している
城内に対して、砲撃や   焼き払いなどを行なうというのは、
まさに   無差別攻撃であり、大量破壊行為にほかならない。

さらに   驚くべき命令が出る。   第十六師団の歩兵第三十旅団が
12月14日午前に下達した   城内掃蕩の命令では、
「各隊ハ   師団ノ指示アル迄捕虜ヲ受付クルヲ許サズ」とある。
すでに   城内の各所で   掃討作戦が行なわれている   この時点で、
「敵を捕虜にするな」   とは、何を意味するのか。
「掃討」は、文字通り   見つけ次第に命を討ち取る行為となった。

13日から   14日にかけての   城内掃蕩によって、どれだけの
中国兵   もしくは敗残兵と見なされた   中国人が   殺されたのか  
明確ではないが、中山路以南の掃蕩を担当した   第九師団だけに
限っても   「7千余ノ敗残兵ヲ殲滅セリ」(第九師団作戦経過概要)
と記録していることから、他の師団を   合わせれば、
何万人もの   無抵抗の中国人が、短期間に   殺されたことが分かる。

Re: 731部隊の人体実験

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2011/11/12 09:15 投稿番号: [37380 / 41162]
National Declassification Center

http://www.archives.gov/declassification/

誰もまともに相手にしないfukagawatohei

投稿者: koudousuru009 投稿日時: 2011/11/11 21:24 投稿番号: [37379 / 41162]
コノトピはそうなっている。

それでいい、それでいい    (大笑

Re: 731部隊の人体実験

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2011/11/11 10:38 投稿番号: [37378 / 41162]
Secret US Human Biological Experimentation




1931 Dr. Cornelius Rhoads, under the auspices of the Rockefeller Institute for Medical Investigations, infects human subjects with cancer cells. He later goes on to establish the U.S. Army Biological Warfare facilities in Maryland, Utah, and Panama, and is named to the U.S. Atomic Energy Commission. While there, he begins a series of radiation exposure experiments on American soldiers and civilian hospital patients.

1932 The Tuskegee Syphilis Study begins. 200 black men diagnosed with syphilis are never told of their illness, are denied treatment, and instead are used as human guinea pigs in order to follow the progression and symptoms of the disease. They all subsequently die from syphilis, their families never told that they could have been treated.

1935 The Pellagra Incident. After millions of individuals die from Pellagra over a span of two decades, the U.S. Public Health Service finally acts to stem the disease. The director of the agency admits it had known for at least 20 years that Pellagra is caused by a niacin deficiency but failed to act since most of the deaths occured within poverty-striken black populations.

1940 Four hundred prisoners in Chicago are infected with Malaria in order to study the effects of new and experimental drugs to combat the disease. Nazi doctors later on trial at Nuremberg cite this American study to defend their own actions during the Holocaust.

1942 Chemical Warfare Services begins mustard gas experiments on approximately 4,000 servicemen. The experiments continue until 1945 and made use of Seventh Day Adventists who chose to become human guinea pigs rather than serve on active duty.

1943 In response to Japan's full-scale germ warfare program, the U.S. begins research on biological weapons at Fort Detrick, MD.

1944 U.S. Navy uses human subjects to test gas masks and clothing. Individuals were locked in a gas chamber and exposed to mustard gas and lewisite.

1945 Project Paperclip is initiated. The U.S. State Department, Army intelligence, and the CIA recruit Nazi scientists and offer them immunity and secret identities in exchange for work on top secret government projects in the United States.

1945 "Program F" is implemented by the U.S. Atomic Energy Commission (AEC). This is the most extensive U.S. study of the health effects of fluoride, which was the key chemical component in atomic bomb production. One of the most toxic chemicals known to man, fluoride, it is found, causes marked adverse effects to the central nervous system but much of the information is squelched in the name of national security because of fear that lawsuits would undermine full-scale production of atomic bombs.

↑エドウイン・V・ヒル博士は無知な博士だったんだね。

唐変木以上かもね、無知という点から見れば、嘘吐く君。

Re: 731部隊の人体実験

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2011/11/11 10:26 投稿番号: [37377 / 41162]
1   ペーパークリップ計画

ナチスドイツの科学者や技術者らを米国に移送した計画。1000人を超える、ドイツ人科学者が移送され、1980年代まで、アメリカのさまざまな計画に携わっていた。有名な科学者として、第二次世界大戦のドイツのV2ロケット計画を指導した、フォン・ブラウンがいるという。V2ロケット工場では、過酷な強制労働が行われており、死者は20000任と推定されている。フォン・ブラウンは、NASAの月面着陸ロケットの開発に携わった。数多くの医師もアメリカに移送された。ナチの航空ドクターは、高い上空で航空機から離脱したときの影響を確かめようとしていた。集中キャンプの収容者たちは、特別な部屋に入れられ、高度39260フィート並みの気圧降下にさらされた。気が狂ったり死んだものもいた。高度69000フィートレベルの実験では、髪が剥ぎ取られたり、顔が爪で裂かれたり、壁に激突するものもいた。生き残ったものも、脳の中の空気の残量を測るために、溺死させられた。精神科医やマインドコントロール専門家も、数多く移送されたという。CIAの前身、OSSは死のキャンプでの、マインドコントロールの手法に関心を持っていた。化学者テオドル・ワグナー・ジャオレグは、戦前ドイツのカイザー研究所に勤め、戦後CIAと陸軍の、LSD実験、マインドコントロールの研究に携わった。彼の父ジュリスは、梅毒の研究でノーベル賞を受けている。ペーパークリップ計画で、移送された精神科医の学術的調査はなされていない。しかしながら、人体実験計画の歴史に、本質的な役割を果たしたと考えられている。

Re: 731部隊の人体実験

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2011/11/11 10:23 投稿番号: [37376 / 41162]
1931年、コーネリアス・ローズ博士はロックフェラー協会後援の医学調査の為、癌細胞を人間の対象に感染させる。後に彼はユタ州メリーランド及びパナマに米国陸軍の細菌戦争施設を設立し続け、米国原子力委員会と命名される。そこで彼は、米兵と民間病院の患者の一連の放射線被曝実験を始める。
1932年、タスキギー梅毒調査を始める。梅毒と診断された200人の黒人男性は、病気の進行と兆候が続くのに病気について決して知らされず、処置は否定され、モルモットにされる。全員死亡、しかし梅毒実験は彼らの家族には決して知らされなかった。
1935年、ペラグラ事件。20年間で何百万人もがペラグラで死んだ後、米国公衆衛生総局は病気を食い止める為、米国の公衆衞生局は最終的に行動する。政府機関の指導官は、ペラグラがナイアシン欠乏によって引き起こされる事を少なくとも20年間知っていたが、死の大部分が黒人たち貧困層の中で起こったので行動しなかったのを認める。   ★ペラグラ…(Wikiより)ナイアシン欠乏症。ナイアシンは必須アミノ酸の1つであるトリプトファンから体内で生合成されるので、トリプトファンが欠乏することでもナイアシンが欠乏し、結果ペラグラを発症する。
1940年、シカゴの400人の囚人が、新しい薬剤実験の為にマラリアに感染させられる。
1940年代、米政府は冷戦時代の放射線実験の一部であることを知らせることなく、12人の実験台にウラン及びプルトニウムを注射した。学者達は人々は末期症状となり恐らく10年も生きられないと主張したが、彼らの幾人かは長期に渡って生存し、プルトニウムは尿路感染及び痛みの伴う骨粗鬆症、或いは骨が痩せる原因となると報告された。
1942年、化学兵器戦争サービスは約4千人のマスタードガスの実験を始める。実験は1945年まで続く。

↑最終報告を書いたエドウィン・V・ヒル博士は自分の国の「人体実験」を知らなかったんだね、嘘吐く君。

Re: 731部隊の人体実験

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2011/11/11 10:20 投稿番号: [37375 / 41162]
生物兵器攻撃や疾患のアウトブレイクが疑われたら速やかに疫学的検討が始められるべきである。研究方法はいずれにしてもそう変わるものではない。最初のステップはアウトブレイクが起こっていることの確認である。症例を定義することで、多くの例を診断しうるし発生率(発病率)も計算しうる。定義によって、異なる地域の研究者にも同じ基準でアウトブレイクの評価をする事が可能になる。疾患の定義をすすめる上で重要なことは客観的基準を用いることである。これによって正確な症例数を把握できるし、追加すべき症例や除外すべきものを決める事ができる。特に、ヒステリーなどの可能性のある例を取り違えないことが大切である。発生率を従来年の率と比較し、正常からの偏りを定める。

  発病率が確定すれば、アウトブレイクは、時間、空間、人ごとに記載できる。これらのデータはアウトブレイクの原因特定のための大切な情報を提供する。

  疫学曲線は時間軸にそった患者の発生数で計算できる。一点を源にしたアウトブレイクは生物戦やテロの可能性が高い。ピークは数日のこともあるし、数時間の事もある。曲線の後半を分析することで、疾患が人から人へと広がるかどうかを決められるので、効果的な疾患コントロール上非常に重要である。

  事件が起きる前から、公衆衛生当局はサーベイランスシステムを実施していなければならず、それによって、非特異的な症状を持つパターンが、生物兵器攻撃の初期兆候であるとみなすことも可能になる。システムは、経時的に行われ、敏感で、特異的で、現実的なものでなければならない。その疾患の発生が通常と異なると判断するためには、サーベイランスシステムが進行していることが必要で、どんな変化も適切に追跡され、変化に関わる事実の検索が系統的になされるべきである。

  重要なことは、生物兵器攻撃への準備や認識は、どんな疾患のアウトブレイクでも変わるものではないが、サーベイランスシステムや対応や他の情報源への要求は必ずしも一様ではないと言うことである。自然発生か否かに関わらず、強力な公衆衛生上のインフラ、例えば、疫学研究能力や実践的訓練計画、準備計画などが、アウトブレイクの防止や管理に重要である。

Re: 731部隊の人体実験

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2011/11/11 10:20 投稿番号: [37374 / 41162]
最終報告書に、どうして国家機密に該当することが書いてあるんだい?

更に、米国が細菌兵器を開発していた事実はあるよね。

米国陸軍感染症研究所

生物兵器被害者医療管理ハンドブック(抄訳)

USAMRIID’s Medical Management of Biological Casualties Handbook

【   序   】

  生物兵器やテロへの医療対策は、平時にはほとんどの医療関係者にとってなじみの薄い分野である。湾岸戦争後、生物兵器による攻撃は現実性を帯び、国内でのテロの増加や炭疸菌騒動などによって、この問題は身近なものとなってきた。また、かつてのソ連による高度化された生物戦計画の発覚によって、医療関係者による生物兵器被害者対策や予防についての訓練や教育の必要性が増してきている。

  対策は、国レベルから州、地域レベルに及び、軍事レベルだけでなく民間レベルでも教育努力が進められている。この教育によって、対策への理解が進み、医学的な防護装備が計られる。

  全世界の生物戦への脅威は深刻であり、10カ国以上で、生物兵器が開発されているが、適切な対策によって、犠牲を最小限に押さえることが可能となる。

【   生物戦の歴史   】

  生物兵器の使用は古くから記載されてきた。BC6世紀には、アッシリアの軍隊が井戸に麦角を投げ込んだり、クリッサ朝時代には下剤性の薬草の使用が記されている。1346年にはタルタルの軍隊でペストが発生し、この死体を敵の陣中に投げ入れてペストの流行を引き起こし、城の攻撃に成功したという例も見られる。このときの感染者が後のヨーロッパの黒死病の流行の引き金になったとも言われている。ロシアの軍隊も1710年にスエーデンで同様の戦術を用いている。

  また、天然痘も生物兵器に用いられた。ピサロは15世紀に天然痘に汚染された衣服を南アメリカ住民に贈って流行を引き起こしたと言われている。英国も1754年から1767年の仏印戦争当時に天然痘に汚染された毛布をインドに贈って同様の戦術を行った。

  1943年、米国も生物戦兵器の研究を始めた。この仕事はドイツ軍や日本軍の研究に対抗して行われたものである。これは、キャンプデトリック(現フォートデトリック)で行われ、1969年ニクソンが生物化学兵器の使用や生産を禁止するまで続けられた。1971年から72年に生物兵器のストックは関係者の監視下において廃棄された。その中には、炭疸菌、ボツリヌス、野兎病、脳炎ウィルス、ブルセラ、ブドウ球菌毒素などが含まれる。米国は、医学的防衛計画を1957年にはじめ、それは今日USAMRIIDでの研究につながっている。

Re: 731部隊の人体実験

投稿者: fukagawatohei 投稿日時: 2011/11/11 09:56 投稿番号: [37373 / 41162]
>国家機密を何で君が知っているの?

おれが知ってるわけがないでしょう。
この人が知ってるんだよ。



- QUOTE -

最終報告を書いたエドウィン・V・ヒル博士は「こうした情報は人体実験に対するためらいがある(人権を尊重する)我々(アメリカ)の研究室では入手できない。

- UNQUOTE -

Re: 731部隊の人体実験

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2011/11/11 09:37 投稿番号: [37372 / 41162]
国家機密を何で君が知っているの?

理由を聞かせて頂戴ね、嘘吐く君。

Re: 731部隊の人体実験

投稿者: fukagawatohei 投稿日時: 2011/11/11 09:20 投稿番号: [37371 / 41162]
>証拠を示して頂戴な

ニャンコチャンばか?
どこの国でも国家機密(classified)ってあるでしょうが。

一般人に外国の機密文書が手に入るわけがないでしょう。
しかし、政治家には特権があるんですよ。

ニャンコチャンがもっている資料などカミクズなんですよ。
なぁ〜んの価値もありません。

日本政府が南京大虐殺や慰安婦問題の存在を認めているのは
さまざまな証拠や証言を検証した結果でしょう。

日本政府の言うことがウソだと言い張るバカウヨって、本当に
日本人なんでしょうか。それこそ反日でしょう。

Re: 731部隊の人体実験

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2011/11/11 09:02 投稿番号: [37370 / 41162]
証拠を示して頂戴な、君の好きな言葉だよ、嘘吐く君。

毎回同じだね。

Re: 731部隊の人体実験

投稿者: fukagawatohei 投稿日時: 2011/11/11 08:47 投稿番号: [37369 / 41162]
>米軍が資料を買い取った事実はありません

ハイハイ、毎度おなじみ、ニャンコチャンのちょろまかし作戦。

- QUOTE -

石井は再度のGHQの尋問に対し、人体実験の資料はなくなったと主張。さらに、アメリカの担当者ノーバート・フェル博士に文書での戦犯免責を求めると共に、「私を研究者として雇わないか」と持ちかけた。近年アメリカで公開された資料によると神奈川県鎌倉での交渉で731部隊関係者側が戦犯免責等9か条の要求をしていたことが判明。

「日本人研究者は戦犯の訴追から絶対的な保護を受けることになる」、「報告はロシア人には全く秘密にされアメリカ人にのみ提供される」等と書かれており、731部隊の幹部たちは戦犯免責と引き換えに人体実験の資料をアメリカに引き渡した。

最終報告を書いたエドウィン・V・ヒル博士は「こうした情報は人体実験に対するためらいがある(人権を尊重する)我々(アメリカ)の研究室では入手できない。

これらのデータを入手するため今日までかかった費用は総額25万円(当時)である。これらの研究の価値と比べれば、はした金に過ぎない」と書いている。

- UNQUOTE -

アカ罪君、藤原彰って

投稿者: nanja3231 投稿日時: 2011/11/11 05:22 投稿番号: [37368 / 41162]
アカ日新聞で、煙のようにモクモク上がる日本の毒ガス戦証拠写真を掲載したアホでしょ♪
周りから「無色のはずの毒ガスがなんで見えるの?」とか、「空気より重い毒ガスが上にモクモクあがる訳ないだろ」とか突っ込まれた(大爆笑)
しかも肩書きは、「元日本軍士官」(大爆笑)
素人にすら突っ込まれ、しかも生涯間違いを認めなかったおっさん
いや、間違いを指摘されても同じコピペを張り続けるアカ罪君に通じるものがあるね♪
アカ罪君、アカってこんな人ばっかりだね♪

植民地独立 総理大臣説明

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2011/11/11 01:56 投稿番号: [37367 / 41162]
一.対満華方策
(イ)対満方策
満州国は其の建国の精神に於いて帝国と一徳一心の関係にあるのでありまして、建国以来十年を経て異常なる発展を遂げて居るのであります。
大東亜戦争以後は直接之に参戦は致しませぬが分身両国に亘り全力を挙げて帝国に協力しつつあるのであります。
特に戦争勃発時に於ける詔書にも又私が満州国訪問の当時拝謁を許されたる時の陛下の御言葉にもこの御思召を拝察し得るのでありまして感激措く能わざる次第であります。
要するに満州国は帝国の視るに親邦を以て日満の関係は既に同盟以上の関係でありまして間然する所のない状態であります。
(ロ)対華方策
曩に御決定を仰ぎましたる「大東亜戦争完遂の為の対支処理根本方針」には国民政府の充実強化竝に其の他伊に地協力の具現等に照応し適時日華基本条約に所要の修正を加うることを考慮すべき旨定められて居るのであります。
国民政府は参戦以来各般に亘り自彊の途を講じておりますると共によく帝国の真意を解して、「対支処理根本方針」を更に徹底具現せしむる為右に即応する如く別に定る所に拠りまして日華基本条約を改訂し日華同盟条約を締結せんとするものであります。
又対支処理根本方針には「帝国は重慶に対支之を対手とする一切の和平工作を行わず情勢変化し和平工作を行わんとする場合は別に之を決定す国民政府も亦帝国の態度に順応せしむ」る如く定められたのでありますが爾後対支処理根本方針竝に之に基づく諸施策の結果は逐次浸透し、重慶側にも相当の動揺を与えて居る状況でありまして過般&#40848;炳勳(パン ビン シュン)の国民政府参加者も其の一証左と観察せられるのであります。
一方重慶側は経済的にも益々困窮を加えつつありますので前述の対華諸方策等の進展に照応致しまして適時国民政府をして対重慶政治工作実施せしむる如く指導することと致しました。然しながら重慶交戦陣営の中枢が国民政府の政治工作に今遽に応じ来ることは尚望みがたく且其の時期を誤るときは寧ろ之に依る害が少ないのであります。依って其の時期に関しましては政府と統帥部との間に於いて協議決定することと致します。
二.対泰方策
泰国に対しましては其の独立国たるの体面を保持せしめつつ之をして大東亜戦争の遂行に衷心協力し帝国の施策に積極的に協調せしむる如く指導しつつありますが、国民一般は戦争による生活の不自由を動もすれば「ビブン」政権の親日対策及び日本軍の駐屯に由来するが如き考えを抱き敵性諸国の日泰離間策、反政府分子の策動と相俟ち一般の対日空気は必ずしも満足すべき状態にありとは言い難いのであります。
帝国としては「ビブン」政権の困難なる立場と対国民の心理的動向とに鑑み、日泰同盟条約附属秘密了解事項第一條に基づき日本軍占領地帯たる「マライ」の失地回復せしむると共に経済協力を一層強化することが肝要であります。
又「シャン」地方の一部も之を泰国領に編入するものとし之が実施に関しては「ビルマ」に与うる影響をも較量の上其の時期及び地域等を決定するを要するのであります。
三.対仏印方策
仏印に対しては帝国の大東亜戦争遂行に実質的に利用すると共に其の動静を保持し、敵側の策謀を封殺し、帝国に対する各般の協力を一層積極的ならしむる如く施策中でありまして今日迄の所仏印当局の対日協力には相当見るべきものがあるのでありますが世界情勢を反映し且つ米英重慶側の執拗なる宣伝等諸般の事情に因り仏印側の同調的態度未だ十分には徹底する域に達しておりませんので益々前述の方針を強化することが肝要であります。但し仏印を本国より離脱せしむる如き極端なる施策は大東亜戦争の現段階に於いては之を避くるを要するのであります。
四.対緬方策
対緬方策に就きましては昭和十八年三月十日大本営政府連絡会議決定「緬甸独立指導要綱」に基づき施策中でありまして、五月八日独立準備委員会を結成し六月末準備完了を期し準備促進中であります。
五.対比方策
比島に於いては第八十一回帝国議会に於ける比島独立の再確認に関する帝国政府の声明に依り俄然(がぜん)対日信頼の度を強め行政府長官以下帝国の真意を解し、治安の粛正行政の浸透に鋭意努力中でありまして大東亜共栄圏の一環として更生しつつあり其の一端は過般現地に参りました私も目の当たりに之を見たのであります。
依って帝国は&#

遊就館と対照的な東南アジアの戦争博物館

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/11 00:46 投稿番号: [37366 / 41162]
タイ国   カーンチャナブリーに   「JEATH博物館」がある。
この博物館は、太平洋戦争中に   日本軍の   指示によって
泰緬鉄道建設のために   強制労働に従事した   捕虜に関する
資料の保存・展示を   行っている。   博物館名は   日本(J)、
イギリス(E)、オーストラリア(A)と   アメリカ(A)、
タイ(T)、オランダ(H)   の頭文字を並べて付けられた。

JをDに変えると   「DEATH(死)」   が連想できる。
実際、最初は   DEATH   という案だったが、タイの
国民性に合わない   ということで   現在の名になったという。
なお、泰緬鉄道は   別名「死の鉄路」   とも呼ばれていた。
館内には、再現された   鉄道建設時の連合国軍捕虜収容所、
捕虜による絵画作品など   多数の資料が   展示されている。

泰緬鉄道はバンコクの西、ノンプラドック駅からビルマの
タンビュザヤまでの   延長415キロの   鉄道のことだ。
この鉄道を   一躍有名にしたのは、「クワイ川鉄橋」   だ。
捕虜虐待、過酷な強制労働の実体験に基づいて   書かれた
『戦場に架ける橋』という作品で   世界的に知られている。

泰緬鉄道の建設には   主に東南アジアの日本軍占領地から
動員された「ロームシャ」(中国、インドネシア、ビルマ、
マレーシア、インド、シンガポール、タイ)と連合軍捕虜
(米、英、オランダ、オーストラリア)   が投入された。
その数は、じつに40万人にも達した   と言われている。

ジャングル地帯での酷使と   コレラ、マラリアなど伝染病で
人員の半数近くが   未帰還だったとされている。泰緬鉄道が
現地で   「死の鉄路」   とも呼ばれているのは、このためだ。
日本軍は、ミッドウェー戦に敗北し、ビルマへの海上補給が
困難になったため、ビルマ経由の蒋介石政権への補給ルート
切断と、インパール作戦への戦略的補給路が「使命」だった。

しかし、インパール作戦の敗北で   所期の目的は   果たせず、
皮肉にも、日本軍がビルマから敗走するための経路になった。
手当ても受けられず、半死半生のまま   貨車で運ばれてくる
惨めな日本軍敗残兵の姿に、工事を生きのびた捕虜達ですら
哀れみ、食糧を与えたと   現地では語られている。
JEATH博物館は、その戦争の悲劇を   現代に伝えている。

展示資料の中に、連合軍の捕虜が   収容所内の生活を描いた
スケッチブックがある。空腹のあまり食べ物を盗んだ捕虜を
ロープで縛って吊るしたり、座らせた   足の間に棒を入れて
立てなくしている拷問の絵もある。映画『戦場に架ける橋』
には、捕虜を   炎天下に立たせたり、重営倉に閉じ込める
懲罰の場面があるが、現実に比べれば   まだ   生やさしい。

以前に訪れた   ヤスクニ神社の戦争博物館「遊就館」にも、
泰緬鉄道に関する   展示があった。   「短期間で建設した」
などと、“皇軍の優秀さ”を誇ってはいたが、
そこで強制労働の下で犠牲となった   数多の捕虜や労務者の
苦しみの実態については、一切   触れられていなかった。
戦争を美化し、歴史の真実から目を背けさせるものでしかない。

「英霊」の大半が餓死という侵略軍の実態

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/11 00:45 投稿番号: [37365 / 41162]
中国大陸に武力侵攻した   日本軍が、南京などで   捕虜にした
多数の中国軍兵士を   組織的に   大量殺害した事件の背景に
補給線確保の軽視という   日本軍の特質が要因の一つとして
あったと考えられる。   自軍の給養さえ   困難な状況のうえに
予想を超える   大量の捕虜が発生し、給養に窮し殺害に及んだ
という証言や   軍関係史料などが、それを   裏付けている。

日本軍の補給軽視の戦略的欠点は、捕虜の殺害だけではなく
占領地において   略奪行為などが   多発する事態をも招いた。
さらに、大戦の   全般を通じて   日本軍兵士の   戦死者のうち
直接の戦闘による死亡者数を   餓死者の数が   上回るという
およそ   近代軍とは   思えないような惨状を   招くものとなった。
なお、大量餓死の発生は、中国大陸においても   顕著だった。

太平洋の孤島や   南方の密林とは違って、多くの人々が住む
中国では、餓死者などはなかったと思われやすいが、敗戦前
2年間の中国戦場では   病死者は戦死者を   上回っていた。
歴史学者の藤原彰が『餓死した英霊たち』(青木書店・01年)
のなかで、1994年に刊行された長尾五一軍医中佐の遺著
『戦争と栄養』   などをもとに、その事実を   裏付けている。

中国戦線で   最後の作戦となった第二十軍のシ江作戦の場合、
45年4月〜6月の   3カ月間の死者数は   戦死が695人、
戦傷死322人、戦病死2184人、計3201人にのぼり、
「第二十軍の統帥発動以来終戦までの各種比率」については
「戦死、戦傷、戦病死   おおむね   4対5対91」   である。
(第二十軍軍医部の戦死・戦病死者別一覧表の注)

戦死、戦傷より「戦病死」が圧倒的だ。藤原はこの点について
「負傷した後に   包帯所や、野戦病院で死亡する者が多かった
ことは、患者の給養がきわめて悪かったことと無関係ではない。
これも広く餓死の分類に入る」   「病気の大部分が   長期間の
不十分な給養で、栄養失調状態にあって病気に対する抵抗力を
失っていたため、戦病死に至った」   と分析している。

中国戦線での   45万の戦没者の   過半数が   戦病死、しかも
給養不足に基づく   栄養失調や、それが原因での体力の消耗
による   広い意昧での   餓死であった   ということだ。
日本軍が、補給らしい補給もなしに   現地調達する方針は、
明治以来   一貫していた。   日清戦争でも朝鮮出兵軍からの
補給困難の訴えに対し、参謀本部は次のように訓令している。

「古昔、兵家の格言に因糧於敵(糧を敵に因る)の一句あり。
爾来   内外の用兵にこれを奉じて原則となすゆえんのものは
この理由に外ならず。…糧食すらなお且つ敵地に所弁すべし、
いわんや   これを運搬する人夫においてをや…」
(明治27年6月29日、参謀総長熾仁親王から混成旅団長
大島義昌あての訓令)

「因糧於敵」、これが   侵略軍としての   行為の根本にあった。
日本軍兵士の   戦地栄養失調症を含む広い意味での餓死者は、
合計で127万6240名に達し、全体の戦没者212万の
約60%   という割合になる。   靖国神社が「英霊」として
誉め讃える戦死者のうちの半数以上が、華々しい戦いの中に
散ったのではなく、惨めな餓死と   衰弱死に   追いやられたのだ。

Re: 731部隊アメリカの対応

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2011/11/11 00:27 投稿番号: [37364 / 41162]
http://www.archives.gov/iwg/japanese-war-crimes/select-documents.pdf

31頁を読みなさい。
[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | [ メッセージ # オフセット ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ

[検索ページ] (中東) (東亜) (捕鯨 / 捕鯨詳細)