南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行の嘘

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Re: 『聖戦』であったのなら

投稿者: mario_porco_rosso 投稿日時: 2011/10/16 23:16 投稿番号: [37080 / 41162]
>事実は、何らかの痕跡を残してその実態を伝えているものさ。

だから、気取った言い方をしないで、その「痕跡」とやらを示してください(苦笑)


>戦争は、外交の末の結果であり時には手段だ。

ただし、戦争そのものは結局「外交」の一部であるにすぎません。国家のコントロールのもとでの武力の行使です。

外交の結果、先の戦争に至ったというなら、それは国家が「戦争」という「外交手段」を選択したことに他なりません。

そして戦争を有利に進めるために、兵站は最も重要な戦略課題の一つですね。ところが日本軍はまともな兵站ができずに、数多の兵士を餓死させています。

戦争を「外交」の手段だというなら、日本は誠にお粗末な外交を展開したことになりますね。

Re: 侵略戦争

投稿者: maximirion 投稿日時: 2011/10/16 23:08 投稿番号: [37079 / 41162]
<mario_porco_rosso>
>追撃しないで上海に留まっていたら、
>上海で3ヶ月戦ったことが無意味になる

そこで追撃したから、戦線が拡大、泥沼化し、ついには対米開戦へと向かうことになったのですね。

上海で守備に徹していれば、まだ「自衛戦争」という主張が通ったのではありませんか?


言い訳のために現実を無視すれば、被害は拡大する。
それは、今回の原発騒動や震災後の政府対応を見れば、よほどの馬鹿や白痴でない限り分かることだ。


それ以前に、当時の概況も知らない後世の無知な者による結果論以下の”後付け”なタラレバ話でしかない。

Re: 中国儲備銀行>unhoo

投稿者: maximirion 投稿日時: 2011/10/16 23:04 投稿番号: [37078 / 41162]
<mario_porco_rosso>
>汪精衛政府は政府として機能していたから

仮に機能していたとすれば、それは日本軍の武力の後ろ盾があればこそ、でしょうね。


事実に基づかない憶測をいくら言い募っても価値はない。



<mario_porco_rosso>
>精衛政府の行政地区には関東軍の兵士、将校は一人もいなかった。

仮にそうだったとしても、中国大陸には百万の単位の日本軍が配置されていましたので。


同じ大陸のどこかに日本軍がいたことが「日本軍の武力の後ろ盾があればこそ」の根拠にはならない。
同時に、「日本軍のために作った銀行」であることの証明にもならない。


<mario_porco_rosso>
>そのために中国儲備銀行を設立し、紙幣を発行した。

紙幣発行のための裏づけとなる資本がないにもかかわらず、紙幣を発行したのです。だからインフレを引き起こしたのですね。


勝手に結論付けているが、精衛政府に「紙幣発行のための裏づけとなる資本がない」と断定した根拠はあるのかね?
あるなら、示し給え。

Re: 『聖戦』であったのなら

投稿者: maximirion 投稿日時: 2011/10/16 22:58 投稿番号: [37077 / 41162]
<mario_porco_rosso>
>兵隊たちの性問題について公明正大であったのは日本軍だけであって、

軍部が介入して兵士の性欲処理の面倒まで見た軍隊が他にあったとは思えませんが?


mario_porco_rosso という無知な一個人の範疇では知られてないことの方が、世間の事実に於いては確実に多い。
mario_porco_rosso がどう思うかなど、歴史の事実とは何の関係もないことだ。
事実は、何らかの痕跡を残してその実態を伝えているものさ。


<mario_porco_rosso>
>計画的に戦争を始めた国なら始めから戦争目的を掲げることができる。

つまり、先の大戦において、日本はまことに無計画に戦争を始めた、ということになりますね。

なるほどそれなら、南洋の戦線で数多の餓死者を出したずさんな兵站も理解できます。



実際には理解できていないから、こういう自己満足な錯誤で納得できる。
                 ↓
「無計画に戦争を始めた」⇒「南洋の戦線で数多の餓死者を出したずさんな兵站」⇒理解できた

戦争は、外交の末の結果であり時には手段だ。
外交段階からある程度戦争状態になったときの想定をしながら、外交上と軍事上の戦略を立てているものだ。
それは、日本とて例外ではなかったのだよ。

だから、富国強兵の動機自体が以下のことで一貫していた。
1.我が国の植民地化を阻止し、そのために西洋近代化を逸早く果たして列強と肩を並べる。
2.隣国及び周辺アジア諸国などと協調して欧米の侵略と植民地支配二対抗する。
3.植民地とされている近隣及びアジア諸国を欧米支配から開放し、日本が働きかけて協調による一大勢力を形成する。
4.協調関係にあるアジア諸国で資源供給と生産及び物資供給と技術を保管し遭う経済と軍事の共栄圏を構築して対抗する。。

これらは、構想であり目標だ。
その中の1.が目的を兼ねている。

動機や目標二得に問題があったわけではないが、それに対して具体的にどういう手段をとるのか、執れたのかが命運を分けたのだよ。


支那地域を巡る各国の外交と戦争による当初の目的を達成した政府は、中華民国政府と中国共産党政府の二つしかない。
他のどの国家も当初の目的は達成できていない。
それは、第二次世界多支援と呼ばれる戦争に於いても同じと云える。

歴史の事実として、勝者は中華民国政府と中国共産党政府だけだ。

当初の目的は達成できなかったが、東アジアに待望の足場を築けたという点ではアメリカ政府は一定の成果を揚げた。
同様に、ソ連政府は停戦協定中のどさくさに紛れて太平洋へ通じる海峡と不凍港を手に入れ、その周辺の海洋権益を獲得するという一定の成果を得た。

そういう意味では、この二カ国は敗者にはならなかった。


歴史としての第二次大戦及び東亜戦争と太平洋戦争の齎した結果は、日本が参戦していたことによって被植民地国の独立解放を促し、欧米列強の他地域での搾取支配の終焉させた。
そして、戦後の大三世界と国際社会を形成し、同時に民族紛争や宗教紛争を生み出した。

この間いたるところで頻繁に発生した侵攻や破壊簒奪行為と一般民間人に対する暴力や虐待は、枚挙に暇がない。
その中の日本軍に纏わる話を捏造や改竄によってまで言い募って「反省しろ」と云ったところで、何の価値もない。
戦争などの歴史から学ぶに値するのは、「歴史の中にある事実」だけなのだよ。

自分達の歴史を戦勝国の都合で改竄捏造した歴史の下に胡坐を掻く屁垂れな横着者に、歴史に関する国家的及び個人的行為に対して物言う資格などない。

Re: 『聖戦』であったのなら

投稿者: mario_porco_rosso 投稿日時: 2011/10/16 22:38 投稿番号: [37076 / 41162]
>当時の日本政府が「西欧列強の植民地支配からの開放」と
>「民族及び人種間の国際差別の解消」を掲げて外交活動を展開し、
>掲げたまま戦争に至った

それが本当に当時の日本の政策であったなら、なぜ真っ先に併合した韓国を独立国に戻さなかったんですか?

また、武力で制圧した南洋諸島を「帝国領土ト決シ」た御前会議は、どう説明できるのですか?


>軍事で他国からの供給を獲得する帝国主義の先進技術は、
>国力そのものが国家防衛を支える軍事力の兵站であったのだよ

字義矛盾ですね。

「帝国主義」とは、乱暴に言えば武力で植民地を拡大するやり方です。
「植民地の解放」とは正反対の方向ですね。

当時の日本は「帝国主義」であったのか、なかったのか、どちらなのですか?

Re: 『聖戦』であったのなら

投稿者: maximirion 投稿日時: 2011/10/16 22:13 投稿番号: [37075 / 41162]
<mario_porco_rosso>
つまり、当時の日本政府が掲げた「植民地解放」は、しょせん後付けの理由であった、ということですね?(苦笑)


言葉を知らんやつだな。(笑)
「後付けの理由」というのは、mario_porco_rosso や wadatumi_voice21 が口にするようなものを云うのだよ。

当時の日本政府が「西欧列強の植民地支配からの開放」と「民族及び人種間の国際差別の解消」を掲げて外交活動を展開し、掲げたまま戦争に至った。
その事実からすれば、これは外交や戦争に於いて予め掲げた「大義名分」であって、”後付け”などではない。

その大義名分を揚げて外交を展開し戦争に至った背景にあるのは、自国が植民地化されないために近隣及び周辺アジア諸国の開放独立が不可欠であることと、これらの国が日本意に沿った強調をして欧米列強の帝国主義に対抗することを必要したからだ。
そのためには、先ず近隣アジア諸国にとって共通の脅威であるロシアの南下拡大を防いで見せる必要があったのだよ。

だから、掲げた「大義名分」にあるのは目標であって目的ではない。
目的は、維新以前から終始一貫して「欧米列強からの侵略に対抗できる国際的地位を獲得して自存する富国強兵国家になり、これを維持し続けること。」にあったのだよ。

だから、支那地域への軍派遣駐屯は常に対ロシアへの関心と注意からのものだ。
国家の防衛線をどこへ設定するのかは、国境の所在地に沿ってというものでないのはどの国も同じだ。
脅威と目する相手の侵攻や拡大がどこまで及ぶと直接の被害が及ぶ危機の存在となるのかを想定してきめるのだよ。

清国と李氏朝鮮がその点でしっかりしているのであれば、日本があれほど勇んで半島や大陸へ派兵駐屯に熱心にならなかったであろう。
日本が、アジアに新に求めたものは支配ではない。
交易によって不足しがちな資源と耕す耕地や食料を調達できる経済軍事両面での協力国を必要としたのだ。

だが、実際には国家主権を持つ近隣国家はロシアを除いてないに等しく、アジア周辺を見渡してもタイ国以外には見当たらないのが現実であったのだね。

当時の日本の状態と云うのは、他国を侵略拡大する技術力と民衆支配に長けた政治体制で先進する欧米諸国のノウハウを学び習得し初めて、これから熟成しようと云う状態であったのだ。
その一方で、侵略と被侵略国への殖民による簒奪を前提とする欧米の先端技術を導入して対抗せざる得なかったことで、他国からの資源及び食料供給に依存した富国強兵を余儀なくされる状況になっていたのだよ。

軍事で他国からの供給を獲得する帝国主義の先進技術は、国力そのものが国家防衛を支える軍事力の兵站であったのだよ。
この兵站を調達するために軍事力をより強化して、これを背景に外交力を高めて自国への有利な供給を約束させるという、矛盾を孕んだ手段が平和理な手段とされていたのさ。

この矛盾を自覚した上で立ちまわるのが外交上手であって、その意味では日本は支那人には及ばなかったし、欧米人にも勝てていなかった。
だから、何度も道を違えた挙句に道に迷って支那地域で漢人が起こす内向きの覇権争いに利用されて、大陸を転戦する羽目に陥っただけではなく、ロシアの南下を抑止する役目を一身に背負わされたのだよ。

南京自体が、漢人のテロ集団が立ち揚げた一軍閥政府の占拠によって宣言され、一部の外国が承認する暫定国家の首都でしかなかった。
その程度の国家は、当時の実態として品の各地に点在した。
これらの多数を自身の影響下に置くことで名目上の領土を拡大していったのが南京政府であるが、統治の実態がなく地域内での盟主としてもその地位も立場も確立できてはいなかった。

なぜ、この南京政府と日本との間で紛争状態が起きて軍事衝突に発展し、南京陥落=重慶遷都という自体に至ったのかということが、南京陥落に関してもっとも重要なのだよ。

横レスで質問>konoyo_anoyo

投稿者: mario_porco_rosso 投稿日時: 2011/10/16 22:02 投稿番号: [37074 / 41162]
>そもそも、この戦争を導いたのは米国だろうが〜。

あなたのいう「この戦争」とは、「どの」戦争ですか?


満州事変に端を発する日本と中国との間の戦争ですか?

それとも、真珠湾攻撃から始まる、日本と米国との間の戦争ですか?

Re: 『聖戦』であったのなら①

投稿者: konoyo_anoyo 投稿日時: 2011/10/16 20:56 投稿番号: [37073 / 41162]
ん〜、敗戦により日本悪かったと言う精神のオンパレードの我が罪ってか。

戦死した日本兵には何の感情も湧かないってか。

そもそも、この戦争を導いたのは米国だろうが〜。欧米の価値観には何の反論も出来ず、日本悪かったってのが今の民主党の政権そのものだ。

こんな世界に無知な政治屋の片棒担いでいる反日サヨ、滅べ!

Re: 中国儲備銀行>unhoo

投稿者: mario_porco_rosso 投稿日時: 2011/10/16 16:17 投稿番号: [37072 / 41162]
>汪精衛政府は政府として機能していたから

仮に機能していたとすれば、それは日本軍の武力の後ろ盾があればこそ、でしょうね。

>精衛政府の行政地区には関東軍の兵士、将校は一人もいなかった。

仮にそうだったとしても、中国大陸には百万の単位の日本軍が配置されていましたので。


>そのために中国儲備銀行を設立し、紙幣を発行した。

紙幣発行のための裏づけとなる資本がないにもかかわらず、紙幣を発行したのです。だからインフレを引き起こしたのですね。

Re: 『聖戦』であったのなら

投稿者: mario_porco_rosso 投稿日時: 2011/10/16 16:14 投稿番号: [37071 / 41162]
>兵隊たちの性問題について公明正大であったのは日本軍だけであって、

軍部が介入して兵士の性欲処理の面倒まで見た軍隊が他にあったとは思えませんが?


>計画的に戦争を始めた国なら始めから戦争目的を掲げることができる。

つまり、先の大戦において、日本はまことに無計画に戦争を始めた、ということになりますね。

なるほどそれなら、南洋の戦線で数多の餓死者を出したずさんな兵站も理解できます。

Re: 侵略戦争

投稿者: mario_porco_rosso 投稿日時: 2011/10/16 16:07 投稿番号: [37070 / 41162]
>追撃しないで上海に留まっていたら、
>上海で3ヶ月戦ったことが無意味になる

そこで追撃したから、戦線が拡大、泥沼化し、ついには対米開戦へと向かうことになったのですね。

上海で守備に徹していれば、まだ「自衛戦争」という主張が通ったのではありませんか?

Re: 中国儲備銀行>unhoo

投稿者: unhoo 投稿日時: 2011/10/16 15:08 投稿番号: [37069 / 41162]
>そもそも「南京政府の中国儲備銀行」というのが、日本軍、とりわけ関東軍が独自に戦費を調達するためにつくった銀行でした。したがって「中国儲備銀行」の発行した紙幣は、最初から「軍票」と同じ性格を持っていたのです。

レス:   汪精衛政府は政府として機能していたから、税金を取り立て、その金を使う必要がある。そのために中国儲備銀行を設立し、紙幣を発行した。日本軍のために設立した銀行ではない。日本軍はその銀行を利用しただけだ。

汪精衛政府の行政地区には関東軍の兵士、将校は一人もいなかった。

戦争の終わりごろ、儲備銀行券がインフレを起こした。戦争中で物の生産ができなかったからだ。そして日本が敗戦すると汪精衛政府は自力で蒋介石政府と対抗することは不可能だから、政府の解散を声明した(汪精衛はその前に死去した)。蒋介石政府は、儲備銀行券の流通を禁止し、法幣と交換させた。法幣とは蒋介石政府の流通通貨である。ところが法幣が大インフレをおこし、蒋介石が共産軍と戦争を始めると、米英は今までとは打って変って、蒋介石に何の支援も与えなかった。蒋介石は敗戦し、台湾に逃げたので、支那大陸にあった法幣は紙屑になった。その前から台湾へ流れ込んでいた法幣は、台湾銀行券と交換された。

Re: 『聖戦』であったのなら

投稿者: unhoo 投稿日時: 2011/10/16 13:20 投稿番号: [37068 / 41162]
>それでは、先の大戦の日本軍と同じように、部隊内での性病の蔓延が問題視されたほど、兵士の風紀の乱れが知られていたのは、どこの国の軍隊でしょうか?

レス:   兵隊たちの性問題について公明正大であったのは日本軍だけであって、ほかの国は一切を機密に付したから知る方法がない。公開せずに機密のうちに処理すると、陰惨残酷な状況が発生することは常識である。

>つまり、当時の日本政府が掲げた「植民地解放」は、しょせん後付けの理由であった、ということですね?(苦笑)

レス:   計画的に戦争を始めた国なら始めから戦争目的を掲げることができる。たとえばアメリカがサダム・フセインのイラクを攻め滅ぼしたときの戦争では、イラクが大量殺人武器を持っているからというのが理由だった。イラクを滅ぼしたのちアメリカは、大量殺人武器は見つからなかったと白々しくもほざいた。

Re: 侵略戦争

投稿者: unhoo 投稿日時: 2011/10/16 12:53 投稿番号: [37067 / 41162]
上海1937年8月の戦争は蒋介石が引き起こした。このことは蒋介石の死後トリマキたちが公表した。戦争を北支に局限すると、北支の支那軍(蒋介石軍とは別系統)は日本軍に勝てない。「蒋介石総統が上海に戦線を拡大して全面戦争にしたから、中国は日本を負かすことができたのである。蒋介石総統は中国史上最も偉大なる戦略家である」というのだ。

蒋介石は数年前から上海の日本商人集中地区を包囲する陣地を構築していたが、それが1937年に完成したばかり。陣地の構築と包囲軍の訓練はドイツ軍事顧問団の指導のもとに行われた。包囲軍はドイツの最新式武器で装備された。

8月14日(?)の大山大尉と部下の軍曹の虐殺は、蒋介石の直命で、わたしがやったと、包囲軍の司令官は二次大戦後戦後言明した。

日本軍は上海の日本人商人を全部撤退させるか、それとも上海に大軍を派遣して権益(合法的に得られたものである)を武力で守るか、どちらかにきめなければならなかった。

上海の戦闘は日本軍も大損害をこうむった。蒋介石の包囲陣地はついに動揺した。このときドイツ軍事顧問団の将校は責任を感じて、第一線で銃を執って日本軍と戦った。

上海包囲軍が総崩れになると、日本軍は追撃した。追撃しないで上海に留まっていたら、上海で3ヶ月戦ったことが無意味になる。

蒋介石の精鋭軍が総退却したとき、米英は蒋介石に支持を約束したから、日支の戦争は長期戦になった。

南京陥落後、日独外交関係が強化され、ヒットラーは日本の要求でドイツ軍事顧問団に帰国を命じた。

Re: 『聖戦』であったのなら

投稿者: mario_porco_rosso 投稿日時: 2011/10/16 12:27 投稿番号: [37066 / 41162]
>日本の兵隊も他国の兵隊と同じくらいに性欲があったからである。

それでは、先の大戦の日本軍と同じように、部隊内での性病の蔓延が問題視されたほど、兵士の風紀の乱れが知られていたのは、どこの国の軍隊でしょうか?


>戦争が発生したから国として戦争の目的を掲げなければならず

つまり、当時の日本政府が掲げた「植民地解放」は、しょせん後付けの理由であった、ということですね?(苦笑)

Re: 『聖戦』であったのなら

投稿者: unhoo 投稿日時: 2011/10/16 11:40 投稿番号: [37065 / 41162]
>部隊内での性病の蔓延を当の軍幹部が嘆くほど、兵士たちは風紀を乱してしまったのは何故でしょうか?


>どなたか、納得できる説明をお願いしたい。

レス:   納得の行く説明。日本の兵隊も他国の兵隊と同じくらいに性欲があったからである。

なお、戦争が発生したから国として戦争の目的を掲げなければならず、当時の日本政府が植民地解放の聖戦という目的を掲げたのであって、兵隊さちの関知すぅるところではない。

侵略戦争

投稿者: mario_porco_rosso 投稿日時: 2011/10/16 11:35 投稿番号: [37064 / 41162]
>南京大虐殺は嘘っぱちです!

「虐殺」が「嘘っぱち」であったとしても、1937年に日本軍が南京を陥落させたことは疑いない事実です。

「自衛戦争」「解放戦争」と称しながら、実際に当時の日本が権益を有していた北東部からはるかに南下した日本軍は、南京陥落後も戦線の更なる拡大を続けています。

これを「自衛戦争」と呼ぶのは、もはや強弁とも呼べないまやかしです。

Re: もうご存知の資料かもしれませんが、

投稿者: neonanashinogonbei 投稿日時: 2011/10/16 07:51 投稿番号: [37063 / 41162]
http://blog.goo.ne.jp/sumomo_218/c/4913e94c0ee48c5b818a2dc5a1670bf6

動画も含まれています!

嘘っぱちは信じてはなりません!

南京大虐殺は嘘っぱちです!

Re: 『聖戦』であったのなら⑤

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/10/16 07:05 投稿番号: [37062 / 41162]
当時の日本軍には、人権の無視、人命軽視   という性格が存在し、
さらに   兵器や装備の不足を精神でおぎなうのだという精神主義が
強まって、捕虜を軽蔑し   否定するようになっていた。
さらに   アジア諸国にたいする   差別意識、侮蔑的観念を育てて
欧米人に対するのと中国人に対する対応が違うという二重の基準を
もつことになり、これが   中国人捕虜の大量虐殺を招いた。

さらに   日中戦争は、国民に明示する戦争目的を   見出せないまま、
予期せぬ規模に拡大し、いまだ経験したことのない規模の   大軍を
広大な大陸の各戦場に   送らねばならなくなった。
日本軍は、それを年齢の高い予後備兵に頼らざるを得なかった。

また   この時期の軍幹部は、特種エリート教育で偏狭な武断主義に
凝り固まり、国際知識も   人権感覚も欠いた   独断、積極主義者が
中核となっていた。   それが   南京攻略戦における   捕虜の処刑、
敗残兵と疑われた人々の   大量殺戮を招いた。

また   大軍の動員により   応召兵が主体となったこと、
幹部の不足と素質の低下、幕僚層の独善は、軍紀の紊乱と低下を招き、
それに加えて   中国軍のはげしい抵抗は、戦争目的があいまいなまま
突然召集されて   損害多出の戦場に投入された兵隊たちを
自暴自棄の行動に   かりたてることに   なってしまった。
これらが   軍紀風紀の頽廃、志気の低下を招いて、
大規模な残虐行為を   ひきおこすことになったのだ。

日中戦争から   すでに70年以上が   経過している。
しかし   戦争と   そこで行なわれた   残虐行為の全貌と、
その責任が   すべて明らかに   されているわけではない。
その原因の一つは、敗戦の時点で   軍も政府も   戦争責任の追及を恐れ
証拠湮滅のために   多くの関係書類を   焼却したことによる。

また   戦後の日本で、戦争の原因や責任の究明が   きちんと行われず、
戦争を美化し   戦争犯罪を隠蔽しようとする勢力が温存されたことも
関係している。
だが、事件の存在そのものは、動かしがたい   歴史の事実だ。
かりに   被害者数については   議論の余地があるとしても、
捕虜を組織的に処分したこと、「敗残兵」を不法に処刑したこと、
慰安婦の調達を含めて、大規模な残虐行為が行われたことは   事実だ。

その事実を、いっそう正確に 解明することと、
なぜ   そのようなことが行われたのか、という原因を究明することが、
現在の 残された課題だろう   と思う。

どんな忌まわしい過去であっても、歴史の真実を直視し、
そこから 真摯に教訓を 学びとり、
二度と過ちをくり返さないように しなければならない。
そうすることこそが、先に戦争で   命を失った   内外の人々、
その数多の犠牲に報い得る   唯一の道である、と思う。

Re: 『聖戦』であったのなら④

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/10/16 06:53 投稿番号: [37061 / 41162]
「極メテ悪質ナルモノ多発シアリ」   として   軍自身が認識していた
犯罪の中でも、とりわけ   多発した強姦は、軍にとって   深刻だった。
相手国民に与える影響も   大きく、日本への憎悪と   敵愾心を
かきたてるものだ   ということは、自覚されていた。

その   唯一の対策が、軍が管理統制する   「慰安施設」   の設置だけ
というのは、近代軍としては、次元が低かった   と言わざるを得ない。

前述した   陸軍の「軍紀振作対策」   には、
「主トシテ事変地ニ於テ   著意スベキ事項」   として、
次のような   慰安施設に関する事項が   掲げられている。

     事変地ニ於テハ環境ヲ整理シ慰安施設ニ関シ周到ナル注意ヲ
    払ヒ、殺伐ナル感情及劣情ヲ緩和抑制スルコトニ留意ヲ要ス
     環境ガ軍人ノ心理延イテハ軍紀ノ振作ニ影響アルハ贅言ヲ
    要セザル所ナリ。故ニ兵営ニ於ケル起居ノ設備ヲ適切ニシ、
    慰安ノ諸施設ニ留意スルヲ必要トス。
     特ニ性的慰安所ヨリ受クル兵ノ精神的影響ハ最モ率直深刻ニ
    シテ、之ガ指導監督ノ適否ハ志気ノ振興、軍紀ノ維持、犯罪及
    性病ノ予防ニ影響スル所大ナルヲ思ハザルベカラズ

性的慰安所に対する指導監督の適否が、志気の振興、軍紀の維持、
そして   犯罪及び性病の予防に   大きくかかわる   という指摘だ。

南京攻略にあたって、日本軍将兵による   中国人女性にたいする
おびただしい数の強姦、強姦殺人が発生したことは、前述したとおり
日本軍自身が認めており、当然のことながら   被害を受けた中国、
さらには   世界中に   知られることとなった。

軍中央は、このことが   相手国の敵愾心を   かきたてることを危惧し、
また、性病の大量発生が   戦力を低下させるほどに   増加したことで、
戦争遂行に有害である   と認識したのだ。

その対策が、慰安婦動員と   慰安施設整備、指導監督の強化だった。
このことに、当時の   日本軍の特質を   見ることができる。
翌年の   武漢攻略戦のさいには、兵站の一部のような形で  
慰安婦を同行させた   と軍司令官が   語っている。

軍が組織的に   慰安所を設けることは、たちまち   全戦線に広がった。
そのため   必要となった大量の慰安婦は、朝鮮、台湾などの   植民地、
あるいは   占領地から   直接に調達された。
その多くは、「婦人児童の売買禁止に関する国際条約」が禁止している
21歳以下の未成年であり、換言すれば   軍の管理統制下におかれた、
違法な   “組織的な強姦”に   ほかならなかった。

Re: 『聖戦』であったのなら③

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/10/16 06:46 投稿番号: [37060 / 41162]
志気が衰退した状況のうえに   上海の戦場では、予想を超えた
中国防衛軍の   はげしい抵抗に   直面し、死傷者が続出した。
戦死者の多くが   家族をかかえた   既婚者だった。
軍の志気が沈滞しただけでなく、傷病を負って帰還する兵などを通じ、
戦争の実情が知られるようになると国内にも重苦しい空気が広がった。

そのため   陸軍省は、38年2月19日に
「帰還部隊ノ軍紀風紀及防諜上ノ指導取締ニ関スル件」という通牒を
出しているが、その中で帰還兵の「言動ニ関スル事項」として、
次のように戒めている。

    今次事変ニ於ケル派遣将兵竝傷病帰還者ノ言動通信等ニ依ルニ
    故意ニ上官ニ対シ誹謗的言動ヲ為シ軍紀上注意ヲ要スルモノ、
    或ハ第一線ノ苦戦、損害ノ状況、支那兵ノ戦闘力等ヲ   誇大ニ
    伝ヘ為ニ一般ノ志気ニ悪影響ヲ及ボス虞アルモノ、或ハ我軍
    将兵ノ行動ニ関シ殊更ニ其ノ非行ヲ誇称シ軍ノ威信ヲ失墜スル
    虞アルモノ等一局部又ハ特種ナル事象ヲ捉ヘテ誇称スル等
    言動上注意ヲ要スルモノアリ。

戦線の志気の沈滞が、国内にも波及することを   危惧していたのだ。
戦争目的の   不明確さからくる   軍隊の志気の低下が、
軍紀風紀の紊乱の理由の一つだったのだが、とりわけ   兵の大部分が
生活をかかえ、家郷に心残りの大きい予後備の召集兵であったことも
軍紀風紀の頽廃と   志気の沈滞に   つながっていった。

陸軍省が、開戦2年間の中国の戦場における事例をまとめて作成した
「支那事変ノ経験ヨリ観タル軍紀振作対策」は、この点について
次のように述べている。

     在郷軍人ニ対スル教育指導ニ就テ
    今次事変勃発後二ヶ年間ニ発生セル在支全軍ノ犯罪ヲ役種別ニ
   就テ調査スルニ
     予備役    四六三
     後備役    六一四
     補充兵役   二八五
     現役     三一二
   ニシテ応召者ニ極メテ多ク又応召者ノ犯セシ罪質ハ軍成立ノ根元
   ニ触ルル対上官犯或ハ聖戦完遂ヲ妨害スベキ掠奪、強盗、強姦等
   極メテ悪質ナルモノ多発シアリ。   此ニ依リテ観ルモ軍紀振作上
   在郷軍人ノ教育指導ニハ格別ナル配慮ヲ要スルモノト思料セラル。
(陸密第1955号「支那事変ノ経験ヨリ観タル軍紀振作対策」陸軍省)

とくに応召者に   掠奪や強姦など悪質な犯罪が   多発しているとして
注意を喚起し、在郷軍人の指導に配慮が必要である   と指摘している。
日中戦争初期の2年間に限っても、すでに   軍紀上の犯罪が多発し、
傾向としては   やはり予備役、後備役など   召集された兵隊に多く、
それは   「聖戦完遂ヲ妨害スル」   ほど悪質なものであるということを
軍部当局においても   認識されていた   ということだ。

Re: 『聖戦』であったのなら②

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/10/16 06:43 投稿番号: [37059 / 41162]
中国戦線の日本軍について、さらに   注意すべきことは、
軍隊の志気が   衰退していた   という事実にある。
このことは、軍紀風紀頽廃の   原因の一つになり、
犯罪や非行の背景ともなっていることから、見逃せない問題だ。

前述したように、戦場に送られた   兵士の大部分は、
突然の令状で召集された   予後備兵か   補充兵だった。
彼らは   予期しないときに、急遽   戦場に駆り出された。
その彼らに、祖国の危機に馳せ参じた   志願兵にみるような、
愛国の熱情を   期待するのは   土台から   無理なことだった。

そもそも   国民の愛国心に訴えるような   戦争目的、
つまり   大儀名分が、この「事変」には   存在しなかった。
近代日本が   それまでに経験した3つの戦争、日清・日露・日独の
いずれも、戦争目的は   天皇の宣戦の詔書で   明示された。
しかし   支那事変と称した日中戦争では、かつての   どの戦争よりも
大規模   かつ深刻な戦争となったにも関わらず、宣戦布告はなされず、
したがって   宣戦の詔書も   だされなかった。

宣戦の詔勅に   かわるものとして   発表されたのが、
上海への   陸軍派兵を決めた際の   政府声明だった。
この声明では、「支那軍ノ暴戻ヲ膺懲シ以テ南京政府ノ反省ヲ
促ス為今ヤ断乎タル措置ヲトルノ已ムナキニ至レリ」   として、
「暴戻支那ノ膺懲」、略して「暴支膺懲」が   戦争目的だとしている。
とくに   日本の国土が侵略の危機に   さらされているわけではなく、
国家存亡の危機などではないため、「自存自衛」の名目は成り立たない。

そこで「暴支膺懲」を   国家的な合言葉に   したわけだが、
相手が言うことを聞かないから懲らしめてやる、というだけでは
国民を奮起させるのに十分な   スローガンとは   言えなかった。
国民にとって   戦争目的が明確でなかった   ばかりでなく、
軍隊の幹部でさえ   それをはっきり理解できないのが実情だった。
一例をあげれば、第十六師団の歩兵第二十聯隊長大野宣明大佐が、
部下の将校にあたえた訓辞でも、次のような苦しい表現をしている。

   出征ノ目的理解ニ就テ
    今次事変ノ原因一ニシテ足ラズト雖、要ハ蒋介石政権ノ長期ニ
   亘ル排日侮日ニ由来スルモノニシテ、之ヲ膺懲シ抜本塞源ノ道ヲ
   講ズルハ実ニ我ガ皇軍ノ使命ニシテ天業恢弘ノ一過程ナリ。
    諸官ハ克ク今次出師ノ目的ヲ部下軍隊ニ徹底セシメ、忠勇ナル
   下級幹部以下ニ対シ確乎不動ノ信念ヲ培養セシムルヲ要ス。
(防衛研究所所蔵、第十六師団関係資料綴「出征ニ方リ将校ニ与フル辞」)

将校に対してさえ   こういう訓示をしなければならなかったほどだから
下士官以下の兵隊に   戦争目的を理解させ、志気を奮い立たせることは
容易ではなかった。
しかも   兵士の大部分が、年齢の高い予備や後備の召集兵で、すでに
一般社会の生活に馴染み、家族も多く、後顧の憂いを抱えた人々だった。
これでは、とても   志気旺盛とは   いえないのが実情だったのだ。

Re: 『聖戦』であったのなら①

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/10/16 06:40 投稿番号: [37058 / 41162]
>『聖戦』を戦った誇り高き日本軍兵士が、あれほどに慰安婦による性的な慰安を必要としたのは何故でしょう?

>部隊内での性病の蔓延を当の軍幹部が嘆くほど、兵士たちは風紀を乱してしまったのは何故でしょうか?

防衛研究所収蔵資料の中に、旧軍の   軍紀風紀関係資料がある。
「支那事変ニ於ケル軍紀風紀ノ見地ヨリ観察セル性病ニ就テ」
これは   大本営陸軍部研究班によって   作成されたもので、
その内容は   日中戦争時における兵士の性病に関する調査結果だ。

資料によると、   天津・杭州・蘇州の   3箇所の特設病院で、
1937年の開戦から   1939年までの   性病入院患者は、
1万6千人を超えていた   という驚くべき実態を   記録している。
また、この記録を見ると、患者を   兵科別、役種別、階級別、年齢別、
感染機会別に分けた調査と、患者の   もとの職業別、教育程度別、
さらに、相手女性国籍別に分けた調査が   行われていたことが解る。

その結果は、兵科別では   輜重兵   砲兵に比較的多く、
役種別では   予後備役、補充兵役に多く、
階級別では   准士官下士官に比較的多く、
年齢別では   26歳〜30歳に多いことが示されている。

そして   明確に判ることは、感染機会が   内地からの帯患者よりも
戦地での感染者の方が   圧倒的に多くなっている   という事実だ。
また   感染地と相手女性の調査では、備考として
「朝鮮女ノ活躍ハ他ヲ圧倒シアリ将来戦ノ参考タリ得ベシ」と
じつに   意味深長な文章が   書かれている。
ちなみに   役種別の患者数の調査結果は   以下のとおり。

   現役     1,156
   予備役    3,795
   後備役    4,363
   補充兵役   1,774
   軍属       809

これを見ると、予備役や後備役兵に   感染者が多いことが判る。
限られた期間の、しかも3箇所の病院だけの調査ではあるが、
日本軍に   性病患者が   いかに増加していたか、
それも   戦地での感染者が圧倒的多数であったかが   示されている。
(引用資料:「支那事変ニ於ケル軍紀風紀ノ見地ヨリ観察セル性病ニ就テ」
防衛研究所所蔵『支那事変ノ経験ニ基ク無形戦力・軍紀風紀資料第5号』)

急速な軍隊の拡大による幹部と兵の素質の低下、とくに後備兵の増加が
軍紀風紀の頽廃の原因となり、その結果が、兵士個人の犯罪である
掠奪、強姦などを多出させたことが   こうした資料からも読み取れる。
その対策の一つが、組織的な慰安婦の動員、慰安施設の導入となり、
軍みずからが   管理と統制に   乗りだすことになったのだ。

『聖戦』であったのなら

投稿者: mario_porco_rosso 投稿日時: 2011/10/16 00:07 投稿番号: [37057 / 41162]
本当に

>日本軍が引き起こした太平洋戦争は
>アジア解放のための『聖戦』であった

とするならば、

その『聖戦』を戦った誇り高き日本軍兵士が、あれほどに慰安婦による性的な慰安を必要としたのは何故でしょう?

部隊内での性病の蔓延を当の軍幹部が嘆くほど、兵士たちは風紀を乱してしまったのは何故でしょうか?


どなたか、納得できる説明をお願いしたい。

「植民地解放戦争」という虚言について⑦

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/10/15 21:24 投稿番号: [37056 / 41162]
靖国教団信者が   「植民地解放戦争」と賛美する   太平洋戦争。
しかし、その戦争は   泥沼化した日中戦争の   延長上にあった。

ナチス・ドイツは、39年に   ポーランドに侵攻。翌40年6月には
フランスが降伏した。   この電撃的な侵攻は、世界を震撼させた。
当時、中国との戦争が泥沼に陥っていた日本は、ドイツの欧州での
戦争を、日中戦争打開の好機   ととらえた。
ドイツとの戦争で弱っているイギリス、フランス、オランダが持つ
アジア太平洋の植民地を、武力行使により支配下におこうとした。

フランス降伏の翌月、日本は、大本営政府連絡会議で「世界情勢の
推移に伴ふ時局処理要綱」で   アジアに対する武力行使方針を決定。
さらに「皇国の大東亜新秩序建設のための生存圏について」を決定、
「独伊との交渉において、皇国の大東亜新秩序建設のための生存圏
として考慮すべき範囲は、日満支を根幹とし、旧独領委任統治諸島、
仏領インド及び同太平洋島嶼、タイ国、英領マレー、英領ボルネオ、
蘭領東インド、ビルマ、豪州、ニュージーランドならびにインド等
とす」とした。

これらの方針の   どこにも   植民地解放の理念は   示されていない。
日本は、ドイツと組んで   世界戦争に参戦することで、
世界秩序を一変させ、日中戦争の打開を   はかろうとしたのだ。
イギリス、フランスなどのアジアの植民地を『生存圏』としたのは、
その世界戦争のための   資源を獲得するために   ほかならなかった。

40年9月、日独伊三国同盟を結ぶのと   ほぼ同時に、日本軍は
フランス領北部インドシナに進駐。   41年7月の御前会議では、
さらなる「南方進出」   方針を打ち出し、「対英米戦を辞せず」と
決定(「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」)した。
続いてフランス領南部インドシナへの   武力侵略を   開始した。
もちろん、そこに   「民族解放」目的など存在していなかった。

南方進出方針を承認した   昭和天皇でさえ、この手法について
「相手方の弱りたるに乗じ要求を為すが如き所謂火事場泥棒式」
と   語っていた(『木戸幸一日記』)。  
天皇も「火事場泥棒」のようだと評した   日本の南方進出に対して
国際社会が   石油の禁輸措置など制裁策をとったのは、当然のこと
であった   と言えるだろう。

「大東亜戦争」の最中、1943年5月の大本営政府連絡会議では、
占領した南方諸地域に対する方針   「大東亜政略指導大綱」を決定。
そこでは、東南アジアの   扱いについて、
「マライ、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスは   帝国領土と
決定」   する、と明記されている。
その他の地域についても、「満州国」   並みの政府を作らせて
「独立」   の形をとるが、日本の支配権は確保する   とした。

「帝国領土」と   傀儡政府づくりとの   この仕分けそのものは、
情勢の変動とともに変化するが、各地域に   どちらの支配形態を
割り当てようと、東南アジアを   日本の支配下に置く   という方針は
終始一貫していたのだ。
これが、靖国教団が流布する大本営発表=「アジア解放の聖戦」の
実相であり、歴史の真実だ。  

近代国家として発展する途上の段階においては、いかなる国家、
いかなる民族にも   “負の歴史”は、存在している。
日本も例外ではない。   したがって、過去の行為そのものが  
日本という国や   日本民族の名誉を   汚すものではない。  
歴史の真実に向き合おうとしない   卑劣な態度が   恥なのだ。

「植民地解放戦争」という虚言について⑥

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/10/15 21:23 投稿番号: [37055 / 41162]
日本帝国が、どれほど熱心に   国際社会に対し   民族解放を求め、
植民地の独立を   何度   繰り返して   訴えていたというのか。
「アジア解放のための正義の戦争」であったという宣伝文句を
臆面もなく   垂れ流すのならば、その事実を提示すべきであるし、
自国の植民地を   最後まで解放しなかった理由を   明確にすべきだ。

内外の植民地解放運動を   武力によって   徹底的に弾圧した事実
のみならず、他国への派兵による   軍事行動の拡大という事実が、
当時の日本帝国には   民族主権の尊重や   植民地解放の志向など
まったくもって   存在していなかったことを   証明している。
他国の主権を尊重する意志が   少しでもあったならば、軍事力を
背景とした威嚇、挑発などは、厳に   慎むべきものだったはずだ。

日本軍は   中国大陸に   大軍を長期にわたって   派兵し続けた。
日中戦争の発端となった1937年の盧溝橋事件は、日本の領土でも
また、日中の国境地帯でもなく、中国の首都・北京の近郊で起きた。
事件勃発の前年、日本は支那駐屯軍を、1800人から   3倍以上の
5800人に   大幅に増強し、中国政府からの強い抗議を無視して、
増強部隊を   北京近郊の豊台に   駐屯させていた。

盧溝橋事件に関して、どちらが先に発砲したかを論じる者もいる。
しかし、問題は   そのようなことではない。想像してみるがいい。
当事国の許諾もないまま   その首都の近郊に   他国の大兵力が
強引に居座っている状況は、武力挑発以外の   何ものでもなく、
他国の主権を   蹂躙する暴挙であり、事実上の宣戦布告に等しい。  

当時   陸軍参謀本部にいた   石原莞爾は   次のように証言している。
「豊台に兵を置くことになりましたが、之が遂に本事変の直接動機に
なつたと思ひます」   (「石原莞爾中将回想応答録」参謀本部作成)

列強各国は   義和団事件に関する最終議定書で中国への“駐兵権”を
有していた。   日本軍は、この権利をたてにして   「駐留」したが、
「最終議定書」に記された駐兵目的は、公使館を守る(第七条)、
北京・海浜間の「自由交通を維持」(第九条)に限定されていた。
この権利を   侵略拡大の足場にした国は、日本以外にはなかった。

日本軍の増強部隊が駐屯した豊台は   北京の守備の要であり、
すでに   中国軍が配備されていた場所だった。
互いの兵営の距離は   わずかに   300メートルだったという。
その駐屯部隊が、同じく   北京の守りの要であった   盧溝橋で、
中国側に通告しないまま、夜間演習を実施。事件はその時起きた。
戦闘にならないほうが不思議といえる状況を作ったのは日本軍だ。

歴史に無知な靖国信徒などによると   日本軍の駐屯・兵力増強は
反日行動からの邦人居留民の保護   という口実も   あるらしいが、
そもそも   中国人民に反日機運を醸成し、さらに   軍事的緊張を
極限まで高める要因を作った責任は誰にあったかを考えるべきだ。
他国を不平等条約のもとで半植民地化に等しい状況に置きながら、
軍事的圧力をかけ続けて   挑発し、戦争に追い込んだのは誰かを
客観的視点にたって   考えてみるべきだ。

太平洋戦争の原因についても、米英などによる経済封鎖によって
日本が追い詰められた結果、自衛のため   やむなく起ち上がった
という口実が、靖国宣伝部によって   垂れ流されることがある。
その原因を作ったのも日本の軍事行動、他国への侵略行為であり
国際社会からの経済制裁を招いた責任は   自らにあったものだ。
戦争の原因を作った側が、「自衛」を口実にするのは、厚顔無恥だ。
 

「植民地解放戦争」という虚言について⑤

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/10/15 21:22 投稿番号: [37054 / 41162]
1919年3月1日に起きた朝鮮民衆による「3・1独立運動」は、
中国の   学生や文化人たちにも、大きな影響を   与えた。
同年   5月4日、北京市内で   大学生たちが   反日デモを実施した。
当初は   5月7日の国恥記念日の予定だったが、日曜日のこの日に
変更した。   天安門広場には、約3,000人の学生が   集まった。

プラカードには   「21か条を取り消せ」、「山東半島を返せ」、
「青島を返還せよ」   などと書かれていた。
日本は、ドイツ軍を破って   山東を占領したとき、中国や世界に
「山東は中国に返す」   と約束していたが、占領を継続したうえ
この年1月に   パリで開かれた第一次大戦の   講和会議において
日本は、山東半島の領有権を要求し、列強に   認めさせていた。

もちろん、中国政府は   反発し、講和会議での調印を拒否した。
中国国民は   こうした   いきさつから、日本に対する   怒りを
募らせていたのだ。   学生たちは、市民に   ビラを配りながら
まず、日本公使館へ抗議しに行こうとしたが   警察に阻まれた。
逮捕者も出たが、多くの市民が   学生たちに同調し、やがて
日本商品のボイコット運動など   排日運動が続くことになる。

石橋湛山は、1921年7月21日付   『東洋経済』社説で
「一切を棄つるの覚悟」と題し、次のように   主張している。

  我が国の総ての禍根は、小欲に囚われていることだ。(中略)
  もし政府と国民に、総てを棄てて掛かるの覚悟があるならば、
  必ず我に有利に導きえるに相違ない。例えば、満州を棄てる、
  山東を棄てる、支那が我が国から受けつつありと考えうる
  一切の圧迫を棄てる。   また朝鮮に、台湾に   自由を許す。

  その結果はどうなるか。   英国にせよ、米国にせよ、非常の
  苦境に陥るだろう。何となれば、彼らは日本にのみかくの如き
  自由主義を採られては、世界における   その道徳的地位を
  保つ得ぬに至るからである。そのときには、世界の小弱国は
  一斉に   我が国に向かって   信頼の頭を下ぐるであろう。

  インド、エジプト、ペルシャ、ハイチ、その他の列強属領地は、
  一斉に   日本の台湾・朝鮮に自由を許した如く、我にもまた
  自由を許せと   騒ぎ起つだろう。(後略)

武力による他国への圧迫を止め、自ら進んで   植民地支配を止める。
そうすれば、日本の道徳的権威が高まるのみならず、世界列強による
植民地政策さえも転換せざるを得なくなる――   石橋の主張は明解だ。
残念ながら   当時の日本は、石橋が言う「小欲」に   囚われ続けた。
満州や山東半島の権益を捨てず、朝鮮や台湾に自由を許さなかった。
そして、道徳的権威を   投げ捨て、自ら血なまぐさい戦争に走った。

その結果、日本の国土は焦土と化し、惨めにも   敗北するに至った。  
アジア諸国の解放・独立は、そうした   欲にとらわれた日本帝国の
完全敗北・崩壊によって   もたらされた   「結果」   にすぎない。
歴史的事実にてらせば、日本帝国に   民族独立・植民地解放の志向など
存在なかったことは明白だ。   にもかかわらず、「結果」を根拠にして
いまさら、植民地解放戦争だった   などと、虚言を吐くのは恥知らずだ。
 

「植民地解放戦争」という虚言について④

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/10/15 21:22 投稿番号: [37053 / 41162]
1919年に朝鮮全土で起きた民衆運動「3・1独立運動」では、
当初、日本軍は、ただちに市民集会やデモを解散させようとした。
しかし、独立を叫ぶ運動は   朝鮮全土に広がる一方となった。
当時の原敬首相は   ことの重大性に驚愕し、ただちに3月11日、
朝鮮総督に対し   至急報で   次のように命令を出した。

  「今回の騒擾事件は、内外に対し表面上には極めて軽微なる問題
  とみなすを必要とす。   しかれども、裏面においては、厳重なる
  処置をとり、将来再発なきよう期せられたし。ただし、その処置
  については、外国人の最も注目する問題なるにより、いやしくも
  残酷苛察の批評を招かざることに、十分   注意されたし」

表面上では   朝鮮人民の独立運動を「軽い問題」   として扱い、
その裏では   厳重に対処して再発しないよう抑え込め。ただし、
その対処の仕方は   外国から批判されないよう注意せよ――
これが   日本政府の態度であり、どこにも   朝鮮民族の自主権
尊重や植民地解放・独立を促そうという志向は、一欠片もない。

命令どおり、現地では「厳重な処置」がとられ、警察だけでなく
軍まで出動。   弾圧で多数の死傷者、投獄者を出す事態となった。
一方で「内外に対し表面的には」軽微なるもの、つまり   一部の
「不逞鮮人」が起こした「暴動」   に過ぎない、と   宣伝された。
このため   その実態を、日本国民は   正確に知り得なかった。
植民地支配からの独立を求める民衆運動   という本質は隠された。

日本の国内世論は、圧倒的に   3・1運動を   「暴動」とみなす
論調が強かったが、ごく一部には   運動に同情を寄せる識者もいた。
たとえば   大正デモクラシーの主導者のひとり   吉野作造は、
『中央公論』などに   朝鮮総督府の失政を糾弾し、朝鮮の人々に
政治的自由を与え、同化政策を放棄せよとの主張を   発表した。

また   孫文との交友で知られる宮崎滔天は、朝鮮の独立運動を
「見上げたる行動」と評価し、朝鮮の人々の自由と権利を尊重し、
独立を承認すべきである   と述べている。
このほか、石橋湛山なども   運動への理解を   表明している。
しかし、そうした主張は   少数派であり、ほとんど無視された。

朝鮮民衆の独立運動は、日本軍の鎮圧により押さえ込まれた。
しかし、日本政府は   朝鮮民衆の抵抗の根強さと、ひそかに
海外に脱出した朝鮮人が、日本軍の残虐な武力弾圧の数々を
世界に公表したことによる   国際世論の攻撃を恐れ、従来の
統治方針を   改めざるを得なくなった。

原内閣は、習慣を破り   陸軍出身に代えて   海軍関係者を
朝鮮総督に   任命し、憲兵警察に代わって   普通警察とし、
官吏や教員も帯剣をやめた。   同時に、統治に有害でない
という条件つきで   『朝鮮日報』や   『東亜日報』などの
朝鮮文字の新聞発行も   検閲付きながら認めることになった。
3・1運動による、数少ない   「成果」   であった   と言える。

「植民地解放戦争」という虚言について③

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/10/15 21:04 投稿番号: [37052 / 41162]
当時の日本帝国に、本当に   植民地解放の志向が   あったのなら、
世界に先駆けて   解放・独立を求める   植民地の人々の声に応え、
率先して   実行していたはずだ。   しかし、現実は   反対だった。
例えば   朝鮮では、自主権回復・独立を求める運動が繰り返され、
その都度   徹底した弾圧が   続けられていた。
有名な事例では、朝鮮の「3・1独立運動」が   あげられる。

第一次世界大戦後、脱植民地化が   歴史の潮流として   広がり、
民族運動が   世界的な高まりを示すなかで、1919年2月8日、
在日留学生が東京で「独立宣言」を起草し、ひそかに   印刷した
宣言書が、日本の警察の目をくぐって   宗教者や学生達によって
全国に運ばれた。   当時の日本で、朝鮮独立などと主張するのは、
命を捨てる覚悟がなければ、できなかった。

3月1日、運動は、ソウル、平壌、開城などの都市で始められた。
ソウルでは   パゴダ公園に集まった学生たちが正午の鐘を合図に、
「独立万歳」を叫んで行進、たちまち   数万の群衆デモとなった。
3月中旬には、朝鮮全土に独立運動が   拡大していった。
以下に、ウィキペディアの解説の一部を   抜粋して引用する。
  【三・一運動】
  1919年3月1日に   日本統治時代の朝鮮で起こった運動。
  (中略)   中心となったのは   天道教やキリスト教、そして
  仏教の指導者たちである。彼等は会合を重ね大衆化・一元化・
  非暴力の三原則を取り決めた。(中略)   独立宣言は、以下の
  一文から始まっている。

  「我らはここに、我が朝鮮が独立国であり朝鮮人が自由民である
  事を宣言する。   これを以て世界万邦に告げ   人類平等の大義を
  克明にし、これを以て子孫万代に告げ   民族自存の正当な権利を
  永久に所有せしむるとする。」

  タイトルに、そして冒頭の一文に明確に述べられているように、
  この宣言書は   何よりも朝鮮が独立した国家であること、及び
  国民である朝鮮人民が自由であることに重きを置いたものであり
  そしてそれは   「人類平等の大義」と   「民族自存」という原理に
  基づくものとして   捉えられている。   (中略)

  パゴダ公園には   数千人規模の学生が集まり、その後市内を
  デモ行進した。   道々「独立万歳」と叫ぶデモには、次々に
  市民が参加し、数万人規模となったという。   (中略)
  朝鮮半島全体に広がり、数ヶ月に渡って示威行動が展開された。
  朝鮮総督府は   警察に加え軍隊も投入して治安維持に当たった。

以上、ウィキの解説から   一部引用したものだ。
独立運動は、日本の   徹底した武力弾圧によって鎮圧されたが、
この運動の影響は大きく、同年4月の   インドの非暴力運動や
同年5月に起きた   中国の五・四運動などの   先駆けとなった。  
そして、支配国である日本帝国自身にも   大きな衝撃を与えた。  

ただし、日本国内では、この独立運動は   詳しく   報じられず、
朝鮮人に共感を寄せたのは、白樺派の柳宗悦ら少数にとどまった。
もとより   当時の日本に   植民地解放の意志などは   微塵もなく、
独立という   朝鮮民族の悲願は、結局のところ   日本帝国の敗戦、
「皇軍」の崩壊を   待たなければ、実現されなかった。

「植民地解放戦争」という虚言について②

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/10/15 21:03 投稿番号: [37051 / 41162]
日本が突きつけた   21か条要求に対し、中国大総統の袁世凱は
「日本は、ヨーロッパ諸国が戦争で、東洋のことを   かえりみる
いとまがないのを   絶好の機会にし、この要求をして、わが国を
制圧しようとしている。   特に第5号は中国を   朝鮮と同じように
扱うものである」   と強く非難し、日本軍の幹部に対して
「なぜ豚や犬のごとく扱おうとするのか」   と怒りを表したという。

袁世凱は、日本の要求内容を、積極的に国内外に   発表した。
日本は、あらかじめ要求内容を   イギリス・ロシア・フランス・
アメリカに示し、その了解を取りつけていたが、しかし、実は
第5号だけは隠していた。   袁世凱は、この第5号を積極的に
宣伝し、これにより列強が介入してくれることを期待した。
その期待どおり、イギリス政府が、日本に問い合わせてきた。

アメリカも同様に   日本に第5号の有無を問い合わせてきた。
これに対し、日本政府は、これは希望条項で、他の条項とは
別である、と苦しい言い訳をした。
イギリスは、日本が一部の条項を明らかにしなかったことに
遺憾を表したが、他の要求条項については承認の意を表した。
アメリカは、第5号の公示を要求し、その内容を   批判した。

一方、フランスやロシアは、明確な意思を   表明しなかった。
各国ともヨーロッパの大戦に忙しく、自国の植民地における
権利が侵されないかぎり、中国のことなど構っていられない
という状況だった。   中国政府は、国内の世論を背景にして
激しく抵抗したが、日本は、山東・漢口・満州等の駐留軍を
増強するなど軍事的圧力を加えながら要求受け入れを迫った。

こうした中、大隈内閣は   1915年5月4日に閣議を開き、
中国に対して「最後通牒」を出すことを決定したが、一方で
国際社会の反発を恐れて、第5条を削除することに決めた。
そして6日の御前会議で最終決定し、7日に「最後通牒」を
中国に突きつけた。   喉元に銃口を向ける行為に   等しい。
軍事力を背景とした脅迫に、中国は   屈するほかなかった。

日本人顧問を採用する条項等は除かれたものの、日本は要求の
大部分を認めさせた。   これを知った中国の民衆は、この日を
国恥記念日とし、激しい反日感情を喚起するものとなった。
そして   各地で排日運動が起こり、中国の民族主義運動が  
いっそう高まったのは、至極当然のことだった。  
他国の主権を蹂躙する政策は、後々   日本の汚名となった。

日本帝国が、いったい   いつ、何をきっかけとして   他民族の
主権を尊重して“脱植民地主義”   を掲げるようになったのか、
まったく   不明なのだが、靖国教団が宣伝する   「植民地解放」
のために起ち上がった   という定義が   仮に   本当だとするなら、
血なまぐさい戦争などを   始める前に、こうした   軍事的圧力や
他国の主権侵害につながる政策を   きっぱりと   改めていたはずだ。

脱植民地化の潮流は、早くも18世紀末から   始まっていた。
アメリカ大陸から始まった   その動きは、20世紀初頭には
ヨーロッパや   アジア、オセアニアにも   拡大しつつあった。
その世界的潮流に   最も反抗し続けていたのは、ほかならぬ
日本だった。それは、中国の半植民地化や朝鮮の独立運動を
徹底弾圧し続けた事実だけを見ても、明白だと言えるだろう。

「植民地解放戦争」という虚言について①

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/10/15 21:02 投稿番号: [37050 / 41162]
靖国教団の宣伝によれば、日本軍が引き起こした   太平洋戦争は
アジア解放のための   『聖戦』であった――   と定義している。
しかし、当時の日本帝国に、植民地解放の志向が   あったのなら、
血なまぐさい戦争を引き起こすよりも   以前に、国際社会に対し
繰り返し   「植民地の解放・独立」を   訴えていたはずだ。
そして、誰よりも率先して   自らの植民地支配を解消しただろう。

そもそも、他民族の主権を尊重するなら、他国への軍事的干渉や
主権を侵害するような   野蛮な行為は、厳に慎んだはずだ。
しかし実際に、日本帝国が取り続けた行動は、武力を背景として
植民地での独立運動を徹底的に弾圧することや、他国領土へ派兵、
軍事的圧力強化だった。そして国内で、一言でも植民地解放論や
反戦・平和論を唱える者は、危険思想の持ち主として弾圧された。

靖国教徒が   「アジア解放戦争」だったと宣伝する太平洋戦争は、
中国大陸への長年にわたる武力侵攻とその泥沼化の延長にあった。
「アジア解放戦争」より前から、中国への武力侵略は続いていた。
さかのぼって事実を記せば、まず   第一次世界大戦で国際社会が
混乱している最中、日本は   1914年にドイツから青島を奪う。

その直後、さらに   中国との協定を無視し、青島外にまで進出し、
山東鉄道を手中に収めた。   中国民衆は、この日本の軍事行動に
怒りを表明し、中国政府は、日本に軍を引き上げるよう求めた。
ところが、日本は   軍隊を引くどころか、山東半島でドイツが
持っていた権益を返す「代償」を、中国の人々に   突きつけた。
大陸で広範囲な利益を得ようとする「21か条の要求」がそれだ。

それは、まさに   中国という国家の主権を蹂躙する内容だった。
突きつけた要求内容は、大きく   5つに分けられている。
第1号は4か条あり、山東省のドイツ利権を   そっくり日本が
受け継ぐことを中国は承認せよという要求が中心になっていた。
第2号は7か条あり、旅順・大連の租借期限と、満鉄安奉線の
期限を、99か年   延長することを認めろ、と要求している。

また、吉長鉄道の管理運営を99か年にわたり日本に委任し、
日本人に、南満州および東部内蒙古における土地賃借権・鉱山
採掘権を認め、   同地方で   政治・経済・軍事の顧問・教官を
要するときは   日本と協議することなどを、要求している。
第3号では、漢陽の製鉄所、大治鉄山、炭鉱の経営を日中共同
とすることなどを   要求している。

第4号では、中国沿岸の港湾や島を   他国に貸すことを禁じ、
第5号では、日本人を中央政府の政治・財政・軍事の顧問とし、
さらに   重要な地方の警察を   日中合同とするか、中国警察に
多数の日本人警察官を雇うこと、中国軍の兵器の半数以上は、
日本から供給するか、日中合弁の兵器廠を設立し、日本から
技師や材料を供給することを義務づけることを要求している。

そのうえ、南昌を中心とする鉄道敷設権を   日本のものとし、
福建省の鉄道・港湾に関して   外国からの資金を必要とする
場合は、まず日本と相談すること   を義務づけるものだった。
親日派であった   インドのネルーでさえ、この要求内容を見て、
「あらゆる権利を、日本にわたすものだ。これを   認めるなら、
中国は事実上の植民地となるだろう」と   語ったほどだ。

Re: 中国儲備銀行>unhoo

投稿者: mario_porco_rosso 投稿日時: 2011/10/15 14:07 投稿番号: [37049 / 41162]
>軍票の所有者はみな銀行へ行って儲備銀行券に取り替えた。
>だから軍票が紙切れになったということは発生しなかった。

そもそも「南京政府の中国儲備銀行」というのが、日本軍、とりわけ関東軍が独自に戦費を調達するためにつくった銀行でした。したがって「中国儲備銀行」の発行した紙幣は、最初から「軍票」と同じ性格を持っていたのです。

中国儲備銀行については、ウィキペディアにも項がありますので、参照してください。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%81%AF%E5%90%88%E6%BA%96%E5%82%99%E9%8A%80%E8%A1%8C

軍票

投稿者: unhoo 投稿日時: 2011/10/15 13:14 投稿番号: [37048 / 41162]
>敗戦の時点で彼女らの持っていた軍票もまた紙切れになり、無価値になったはずです

レス:   わしは日米戦争の期間中上海に住んでいた。日米開戦後上海での唯一の通貨は日本軍の軍票だった。やがて汪精衛の南京政府の中国儲備銀行の紙幣を汪政権の行政範囲地区における唯一通貨にすることが日本軍と汪政権とで取り決められ、軍票の所有者はみな銀行へ行って儲備銀行券に取り替えた。だから軍票が紙切れになったということは発生しなかった。

Re: 事実の把握>maximirion

投稿者: mario_porco_rosso 投稿日時: 2011/10/14 12:38 投稿番号: [37047 / 41162]
>終戦まで軍票は流通貨幣と同様に流通しておりました。
>敗戦に至っても軍票が日本の銀行で換金できました。
>敗戦後とまったのは軍票による流通だけです。

では、慰安婦はどこで軍票を「換金」できたんですか?

日本から渡った日本人の慰安婦であれば、何とか帰国して換金できたでしょうし、また郵便口座から引き出すこともできたでしょう。

大陸や南洋に残された兵士の引き上げだけで大混乱をしていた時期に、慰安婦が無事に帰国できていれば、の話ですが。


ただ、それでは朝鮮半島出身者など、日本内地でないところから慰安婦として戦地に赴いた人たちは、どうなりますか?

終戦後、軍票を換金してくれる「日本の銀行」は、日本列島以外のどこにありましたか?

海外にいる、すでに「外国人」となってしまった慰安婦たちが、日本の郵便口座から金を引き出せたと思いますか?



>特殊慰安婦への報酬額と支払い方法

敗戦の後、彼女らにどのような「支払保証」があったのか、報告書にはそこまで書いてありましたか?

Re: 事実の把握>deliciousicecoffee

投稿者: mario_porco_rosso 投稿日時: 2011/10/14 12:24 投稿番号: [37046 / 41162]
>第一   軍人、軍属の持ち帰り金等に付いて左の取扱による

慰安婦が「軍属」であるとは寡聞にして知りませんでした(苦笑)

であれば、慰安婦は立派に日本軍の一部であったことになりますが?

Re: 事実の把握>deliciousicecoffee

投稿者: mario_porco_rosso 投稿日時: 2011/10/14 12:22 投稿番号: [37045 / 41162]
>当時の軍票の価値は、国内円と等価です。

残念ながら、軍票はその多くが裏付けのないまま発行されたため、軍票の乱発により日本軍の占領地域ではインフレが悪化しています。

史料によれば、開戦当時の物価を100とした場合、東京の物価は終戦時で200〜300であったのに対し、上海では5,000をはるかに超え、ビルマでは何と200,000にもなったといいます。(以上、高木健一「香港軍票と戦後補償」P161より)

あなたの言うとおり、軍票が「国内円と等価」であるとしたなら、上海やビルマでは軍票の価値は敗戦前にすでに紙くず同然になっていたことになります。


>終戦時に軍票は回収されています、銀行を通じて。
>又軍票は占領軍によって接収されています。

しかし、サンフランシスコ講和条約により、日本は軍票に対する支払いを免除されていますね。終戦後もそうした軍票を持っていた人々にとっては、まったく「紙切れ」です。

Re: 事実の把握>deliciousicecoffee

投稿者: maximirion 投稿日時: 2011/10/14 10:15 投稿番号: [37044 / 41162]
<mario_porco_rosso>
大戦中の日本は国内での戦費調達が間に合わず、アジアでは多くの軍票が使われていました。兵士たちの給料のうち、現地で使う分は、やはり軍票で支給されていました。

当然、慰安婦への報酬がきちんと支払われていたとすれば、それも軍票での支払いだったはずです。


あなたが”慰安婦”と呼んでいる「特殊慰安婦」の報酬は、預金口座(今でいう郵貯口座)への積み立てと、業者を通して軍票により支払われていました。

従って、少なくとも敗戦まで慰安婦を続けていた女性達は、あなたのいう「適正金額」の報酬のかなりの部分を失ってしまった、と考えるのが妥当かと思いますが、いかがですか?


<mario_porco_rosso>
敗戦により日本軍が解体されるとともに、軍票もまた紙切れになりました。

敗戦の時点で彼女らの持っていた軍票もまた紙切れになり、無価値になったはずです。また銀行に預けてあったとしても、敗戦後の混乱の中で、残高が清算され、彼女らにきちんと、しかも軍票ではなく流通価値のある紙幣で支払われた、と想像するのは難しいですね。


終戦まで軍票は流通貨幣と同様に流通しておりました。
敗戦に至っても軍票が日本の銀行で換金できました。
敗戦後とまったのは軍票による流通だけです。

新札発行で、旧貨幣の効力が失われるあるいは交換率が決められ上限が設けられる、口座からの引き出し制限が為されるなどと平行して、軍票の換金レートが引き下げられたりはしたでしょうけど、紙屑にはならなかった。

特殊慰安婦だった人が、口座の通用を持って起こした裁判記録でも参照にしたらどうだい?


<mario_porco_rosso>
従って、少なくとも敗戦まで慰安婦を続けていた女性達は、あなたのいう「適正金額」の報酬のかなりの部分を失ってしまった、と考えるのが妥当かと思いますが、いかがですか?


敗戦早々手元の軍票は換金して手にしたであろうし、軍票での報酬は都度送金したり自分で使っていた場合が殆どだから、手元に残った換金すべき軍票がそんなに多かったわけではなかろう。

口座の預金に付いては、特殊慰安婦であった人それぞれがどう対応した科など分り得ません。
ただ、多くの日本人の高額預金者と同様に引き出し制限にあったことは間違いないでしょう。

それであっても、引き出せない預金残高を没収されたわけではないので、年月を経れば手にすることはできたのですよ。
まあ、そのころには戦後のハイパーインフレで実質価値が著しく下がってしまったでしょうが。

敗戦後いち早く引きおろして、外貨に換えていれば報酬の殆どは手元に残ったことでしょう。
彼女達は、情報を得られるだけの人生を送っていますから、一般庶民より人脈もあり機をみるに敏ですからね。


ウィキの軍票の項目を貼っているようだと、特殊慰安婦がなぜ軍票と口座振込みで報酬を支払われていたかなど分かっていそうにないね。

特殊慰安所と特殊慰安婦は、陸軍兵站部の管轄の発注でサービスを提供して報酬を得ていたので、当然のこととして直接の支払いは軍票で支払い、それ以外は逓信口座への振込みで行っていたのだよ。

※軍政は、民間金融機関口座へなど振り込まない。

特殊慰安婦への報酬額と支払い方法については、アジア女性基金の政府調査資料集の中に一事資料があるから、自分で検索して確認することだ。

Re: 事実の把握>deliciousicecoffee

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2011/10/14 09:18 投稿番号: [37043 / 41162]
昭和二十一年

第一   軍人、軍属の持ち帰り金等に付いて左の取扱による

  一持ち帰り金の限度
   将校(准士官を含む)    500円
   下士官           200円
   軍属           1000円
   とす

  二軍票の携帯に代え各庁(支庁)長に於いて交換証明書を発行す
   但し日銀券、台湾銀券、鮮銀券及び満銀券については之が携行を許す
   こととするも限度額所持者に対しては本証明書の交付を要せず限度額以下の所持者に対しては当該額に付交換証明書の金額を減額す
   交換証明書は各隊各庁出納官吏領収を証したる上各庁(支庁)長之に証明するものとす

↑この様な資料を調べないと、巷間言われている様なことは単なる噂でしか在りません。

Re: 事実の把握>deliciousicecoffee

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2011/10/14 08:58 投稿番号: [37042 / 41162]
当時の軍票の価値は、国内円と等価です。

終戦時に軍票は回収されています、銀行を通じて。

又軍票は占領軍によって接収されています。

紙切れには成っていません。

別紙第一 海南島ニ於ケル軍需ノ流通及被接収状況 第一、終戦後ニ於ケル軍需ノ流通状況 昭和二十年八月末ニ於ケル全島ノ軍需流通@〃 二〇七、七九八、〇〇〇図 ナリシガ終戦ト同時ニ軍需ノ回収ヲ図メニトノンタルニ特ニ貸出生産資金ノ返済、取引清算金ノ還流及家賊道具其ノ他不要物資嚢却代金等ノ銀行ヘノ預入等ノ還流現象活溌ト為リ銀行閉@店時迄ニ右リ如ケ回収ヲ見タリ 九月 中回収超過@ 三四、二〇三、一七尓 十月中回収超過@ 六一、四九四、五七七尓 計 九五、六九七、七五二尓 依而二十年十月末ニ於ケル流通@ ハ一一二、一〇〇、二四八 尓十リ 然ルニ右次外ニ焼却ニタルモノ及尓後中国側接収等ニスル変動ヲ掲記スレベ

Re: 事実の把握>deliciousicecoffee

投稿者: mario_porco_rosso 投稿日時: 2011/10/14 07:58 投稿番号: [37041 / 41162]
>事実に間違いがあれば、有り難く指摘して頂くが、
>俺の投稿には事実の間違いはないんだろ?

間違いではなくて、事実の追加をしたいのですが。

大戦中の日本は国内での戦費調達が間に合わず、アジアでは多くの軍票が使われていました。兵士たちの給料のうち、現地で使う分は、やはり軍票で支給されていました。

当然、慰安婦への報酬がきちんと支払われていたとすれば、それも軍票での支払いだったはずです。


敗戦により日本軍が解体されるとともに、軍票もまた紙切れになりました。

敗戦の時点で彼女らの持っていた軍票もまた紙切れになり、無価値になったはずです。また銀行に預けてあったとしても、敗戦後の混乱の中で、残高が清算され、彼女らにきちんと、しかも軍票ではなく流通価値のある紙幣で支払われた、と想像するのは難しいですね。


従って、少なくとも敗戦まで慰安婦を続けていた女性達は、あなたのいう「適正金額」の報酬のかなりの部分を失ってしまった、と考えるのが妥当かと思いますが、いかがですか?

「軍票」、正しくは「軍用手票」については下を参照してください。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E7%94%A8%E6%89%8B%E7%A5%A8
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