「植民地解放戦争」という虚言について②
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/10/15 21:03 投稿番号: [37051 / 41162]
日本が突きつけた
21か条要求に対し、中国大総統の袁世凱は
「日本は、ヨーロッパ諸国が戦争で、東洋のことを かえりみる
いとまがないのを 絶好の機会にし、この要求をして、わが国を
制圧しようとしている。 特に第5号は中国を 朝鮮と同じように
扱うものである」 と強く非難し、日本軍の幹部に対して
「なぜ豚や犬のごとく扱おうとするのか」 と怒りを表したという。
袁世凱は、日本の要求内容を、積極的に国内外に 発表した。
日本は、あらかじめ要求内容を イギリス・ロシア・フランス・
アメリカに示し、その了解を取りつけていたが、しかし、実は
第5号だけは隠していた。 袁世凱は、この第5号を積極的に
宣伝し、これにより列強が介入してくれることを期待した。
その期待どおり、イギリス政府が、日本に問い合わせてきた。
アメリカも同様に 日本に第5号の有無を問い合わせてきた。
これに対し、日本政府は、これは希望条項で、他の条項とは
別である、と苦しい言い訳をした。
イギリスは、日本が一部の条項を明らかにしなかったことに
遺憾を表したが、他の要求条項については承認の意を表した。
アメリカは、第5号の公示を要求し、その内容を 批判した。
一方、フランスやロシアは、明確な意思を 表明しなかった。
各国ともヨーロッパの大戦に忙しく、自国の植民地における
権利が侵されないかぎり、中国のことなど構っていられない
という状況だった。 中国政府は、国内の世論を背景にして
激しく抵抗したが、日本は、山東・漢口・満州等の駐留軍を
増強するなど軍事的圧力を加えながら要求受け入れを迫った。
こうした中、大隈内閣は 1915年5月4日に閣議を開き、
中国に対して「最後通牒」を出すことを決定したが、一方で
国際社会の反発を恐れて、第5条を削除することに決めた。
そして6日の御前会議で最終決定し、7日に「最後通牒」を
中国に突きつけた。 喉元に銃口を向ける行為に 等しい。
軍事力を背景とした脅迫に、中国は 屈するほかなかった。
日本人顧問を採用する条項等は除かれたものの、日本は要求の
大部分を認めさせた。 これを知った中国の民衆は、この日を
国恥記念日とし、激しい反日感情を喚起するものとなった。
そして 各地で排日運動が起こり、中国の民族主義運動が
いっそう高まったのは、至極当然のことだった。
他国の主権を蹂躙する政策は、後々 日本の汚名となった。
日本帝国が、いったい いつ、何をきっかけとして 他民族の
主権を尊重して“脱植民地主義” を掲げるようになったのか、
まったく 不明なのだが、靖国教団が宣伝する 「植民地解放」
のために起ち上がった という定義が 仮に 本当だとするなら、
血なまぐさい戦争などを 始める前に、こうした 軍事的圧力や
他国の主権侵害につながる政策を きっぱりと 改めていたはずだ。
脱植民地化の潮流は、早くも18世紀末から 始まっていた。
アメリカ大陸から始まった その動きは、20世紀初頭には
ヨーロッパや アジア、オセアニアにも 拡大しつつあった。
その世界的潮流に 最も反抗し続けていたのは、ほかならぬ
日本だった。それは、中国の半植民地化や朝鮮の独立運動を
徹底弾圧し続けた事実だけを見ても、明白だと言えるだろう。
「日本は、ヨーロッパ諸国が戦争で、東洋のことを かえりみる
いとまがないのを 絶好の機会にし、この要求をして、わが国を
制圧しようとしている。 特に第5号は中国を 朝鮮と同じように
扱うものである」 と強く非難し、日本軍の幹部に対して
「なぜ豚や犬のごとく扱おうとするのか」 と怒りを表したという。
袁世凱は、日本の要求内容を、積極的に国内外に 発表した。
日本は、あらかじめ要求内容を イギリス・ロシア・フランス・
アメリカに示し、その了解を取りつけていたが、しかし、実は
第5号だけは隠していた。 袁世凱は、この第5号を積極的に
宣伝し、これにより列強が介入してくれることを期待した。
その期待どおり、イギリス政府が、日本に問い合わせてきた。
アメリカも同様に 日本に第5号の有無を問い合わせてきた。
これに対し、日本政府は、これは希望条項で、他の条項とは
別である、と苦しい言い訳をした。
イギリスは、日本が一部の条項を明らかにしなかったことに
遺憾を表したが、他の要求条項については承認の意を表した。
アメリカは、第5号の公示を要求し、その内容を 批判した。
一方、フランスやロシアは、明確な意思を 表明しなかった。
各国ともヨーロッパの大戦に忙しく、自国の植民地における
権利が侵されないかぎり、中国のことなど構っていられない
という状況だった。 中国政府は、国内の世論を背景にして
激しく抵抗したが、日本は、山東・漢口・満州等の駐留軍を
増強するなど軍事的圧力を加えながら要求受け入れを迫った。
こうした中、大隈内閣は 1915年5月4日に閣議を開き、
中国に対して「最後通牒」を出すことを決定したが、一方で
国際社会の反発を恐れて、第5条を削除することに決めた。
そして6日の御前会議で最終決定し、7日に「最後通牒」を
中国に突きつけた。 喉元に銃口を向ける行為に 等しい。
軍事力を背景とした脅迫に、中国は 屈するほかなかった。
日本人顧問を採用する条項等は除かれたものの、日本は要求の
大部分を認めさせた。 これを知った中国の民衆は、この日を
国恥記念日とし、激しい反日感情を喚起するものとなった。
そして 各地で排日運動が起こり、中国の民族主義運動が
いっそう高まったのは、至極当然のことだった。
他国の主権を蹂躙する政策は、後々 日本の汚名となった。
日本帝国が、いったい いつ、何をきっかけとして 他民族の
主権を尊重して“脱植民地主義” を掲げるようになったのか、
まったく 不明なのだが、靖国教団が宣伝する 「植民地解放」
のために起ち上がった という定義が 仮に 本当だとするなら、
血なまぐさい戦争などを 始める前に、こうした 軍事的圧力や
他国の主権侵害につながる政策を きっぱりと 改めていたはずだ。
脱植民地化の潮流は、早くも18世紀末から 始まっていた。
アメリカ大陸から始まった その動きは、20世紀初頭には
ヨーロッパや アジア、オセアニアにも 拡大しつつあった。
その世界的潮流に 最も反抗し続けていたのは、ほかならぬ
日本だった。それは、中国の半植民地化や朝鮮の独立運動を
徹底弾圧し続けた事実だけを見ても、明白だと言えるだろう。
これは メッセージ 37050 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.