南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行の嘘

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Re: 『聖戦』であったのなら

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2011/10/17 20:07 投稿番号: [37121 / 41162]
>それが本当に当時の日本の政策であったなら、なぜ真っ先に併合した韓国を独立国に戻さなかったんですか?

また、武力で制圧した南洋諸島を「帝国領土ト決シ」た御前会議は、どう説明できるのですか?

↑併合して日本国民と同じ取扱をすることによって、朝鮮人の殆どは満足していた。
しかし日本共産党の配下にあった、朝鮮共産党がテロなどの行為を行った。

>「帝国主義」とは、乱暴に言えば武力で植民地を拡大するやり方です。
「植民地の解放」とは正反対の方向ですね。

↑帝国とは政府の名称であり主義主張を表すものではない。

Re: 『聖戦』であったのなら

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2011/10/17 20:04 投稿番号: [37120 / 41162]
軍が介入するのは、世界共通です。

何故なら性病は戦力を落とすからです。

無計画な戦争を始めたのは、欧米諸国です、

日本は早期に支那事変解決を訴えていました。

応じなかったのは中国蒋介石政府です。

又此の日本の意図を曲解したのは欧米諸国でした。


「第一次世界大戦時の軍隊と性
  西部の戦争舞台では、アミアン、アベヴィーユ、アーヴル、ルーアンその他、前線の背後のすべてのフランス都市には連合国軍部隊のための特に設備がよくて繁昌した兵站娼家があった。将校用娼家の目印は青い軒燈で、兵隊用娼家のそれは赤い軒燈であった。娼婦はたいていフランス女で、前からその町に住んでいるものか、ドイツ軍に占領された地方から逃げてきたものであった。・・・・・このフランスの兵站娼家は、予防法のことをほとんど知らぬイギリスの兵隊たちにとっては特に、まさに性病の孵化場であった。
  ドイツの側にも、兵站地域の大きな町には必ず兵隊用娼家と将校用娼家とがあった。
略)
  兵隊用娼家はどこでも、門前に長蛇の列をつくっている兵隊たちによって、あまり見栄えのしない光景を呈していた。
  (ヒルシュフェルト「戦争と性」世界性学全集第五巻、河出書房刊   p125〜6)」

残虐行為の多発と慰安所増設の関係④

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/10/17 19:49 投稿番号: [37119 / 41162]
売春は、本来   公序良俗に反する「醜業」   であり、少なくとも
近代国家が   自ら推奨・普及できるような   生業では   なかった。
しかし、中国との戦争が   本格化するや、その関係は   一変する。
いまや   出征将兵の“性欲処理労働”に   従事する女性たちが
軍紀と衛生の維持のため   必須の存在と目され、性的労働力は
広義の軍要員(あるいは「軍需品」と言うべきもの)   となった。

それを軍に供給する売春業者は   軍の御用商人   となった。
国家が   民間で行われている   性産業・風俗営業を   公認し、
これを警察的に規制することと、国家自らが、皇軍兵士のために
性欲処理施設を設置し、それを   業者に委託経営させることとは、
国家と性産業との関係において   まったく   別の事柄なのだ。

軍慰安所とは   将兵の性欲を処理させるために   軍が設置した
「兵站付属施設」   であったことは、すでに記述したとおりだ。
この事実を   裏付けるものとして、1937年9月29日制定の
陸達第48号「野戦酒保規程改正」   という   陸軍の規則がある。
これは、戦時の野戦軍に設けられる酒保(物品販売所)についての
規程であり、その第1条は、次のとおり   定めている。

   第一条   野戦酒保ハ戦地又ハ事変地ニ於テ軍人軍属其ノ他特ニ
   従軍ヲ許サレタル者ニ必要ナル日用品飲食物等ヲ正確且廉価ニ
   販売スルヲ目的トス
   野戦酒保ニ於テ前項ノ外必要ナル慰安施設ヲナスコトヲ得

規程の但し書きに、「慰安施設」   とある。
じつは、この規程は   改正されたものであり、改正前の規程には
「第一条   野戦酒保ハ戦地ニ於テ軍人軍属ニ必要ノ需用ヲ正確
且廉価ニ販売スルヲ目的トス」   という   規定しかなかった。
1937年の改正により、酒保において   物品販売だけでなく、
「慰安施設」を   付属させることが可能になった   ということだ。

慰安所は、「野戦酒保に付設された」施設だった   と断定できる。
酒保そのものは、明治時代から   軍隊内務書に   規定されている
れっきとした   軍の組織であり、野戦酒保も   軍制令規によって
規定されている   軍の後方施設に   まちがいない。
当然、それに付設される   「慰安施設」も、軍の   後方施設だ。

もちろん、上記の野戦酒保規程では「慰安施設」とあるだけで、
軍慰安所のような性欲処理施設を   直接には   指していない。
しかし、占領地で   軍慰安所が   軍の手によって設置された時、
当事者は   それを   「慰安施設」   と見なしていたことが、
別の史料で   確認できる。
先に引用した上海派遣軍司令部参謀の日記を   念のために再掲する。

  海派遣軍参謀長飯沼守少将の陣中日記(『南京戦史資料集I』)
   「慰安施設の件方面軍より書類来り、実施を取計ふ」
   「迅速に女郎屋を設ける件に就き長中佐に依頼す」
   (37年12月11日、同19日)
  同参謀副長上村利通陸軍大佐の陣中日記(『南京戦史資料集II』)
   「南京慰安所の開設に就て第二課案を審議す」(同28日)  

これらの記述から、上海派遣軍に設置された   「慰安施設」は、
「女郎屋」であり、「南京慰安所」   と呼ばれたことがわかる。
上海派遣軍第101師団の一兵士の陣中日記(荻島静夫陣中日記)
に記述された下記の言葉の意味も、より   納得できるだろう。
「1月8日   夜隊長より慰安所開設の話を聞く。喜ぶ者多し――」

残虐行為の多発と慰安所増設の関係③

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/10/17 19:48 投稿番号: [37118 / 41162]
すでに記述したとおり、慰安所が   軍の関与によって、各地に
設置された理由は「強盗、強姦等   極メテ悪質ナルモノ多発シ」
たことで、中国人の敵愾心をかきたてることが懸念されたこと、
さらに   戦力低下が懸念されるほど性病患者が増加したことで
「慰安ノ諸施設ニ留意スルヲ必要トス」   という観点にあった。

「性的慰安所ヨリ受クル   兵ノ精神的影響ハ   最モ率直深刻
ニシテ、之ガ   指導監督ノ適否ハ   志気ノ振興、軍紀ノ維持、
犯罪及性病ノ予防ニ影響スル所大ナルヲ   思ハザルベカラズ」
兵士の強姦などの犯罪行為や性病拡大を防ぐ   唯一の方策が、
「性的慰安所」増設なのだから、近代軍としては   お粗末だ。

仮に、百歩譲って   慰安婦調達に   軍は関与しなかったとして、
民間業者が   かってに「従事者」を   募集したのだ   としても
慰安所施設の運営・管理にあたっては、「之ガ指導監督ノ適否」
の重要性にかんがみて、軍が   直接関与していたはずであり、
それは、当時の軍医や憲兵などの記録からも証明されている。

運営・管理という点で、とくに問題なのは   慰安婦の年齢だ。
軍と契約関係にあった   ある業者による   募集の年齢要件は
16才から30才   というものだった。
この条件は、「18歳未満は娼妓たることを得ず」   と定めた
娼妓取締規則に違反し、また満17才未満の娼妓稼業を禁じた
朝鮮や台湾の   貸座敷娼妓取締規則にも   抵触していた。

さらに、満21才未満の女性に   売春をさせることを禁じた
「婦人及児童の売買禁止に関する国際条約」(1925年批准)
とも   まったく   相容れないものだった。
慰安婦の募集活動は、当時の法律でも   明らかに   違法だった。

この契約条件が、軍において   承認されたものなのか   どうか、
残念ながら、明確に判断できる資料は   まだ確認できていない。
しかし、こうした状況からも   分かるとおり、軍の慰安所政策は
一般の売春や娼妓稼業とも異なり、違法性が高く、女性の人権を
軽視した制度であったことは   まちがいない。

戦前の公娼制度を引き合いに出して、従軍慰安婦問題を適正な
ものであったとする論も   散見されるが、それは   正しくない。
たしかに   当時、公娼制度のもと、国は   売春業を容認したが、
それは   建て前としては、あくまでも   陋習になずむ無知なる
人民を哀れんでのことであり、売春は   道徳的に恥ずべき行為
=「醜業」であり、娼婦は   「醜業婦」   にすぎなかった。

国家にとっては   営業を容認するかわりに、風紀を乱さぬよう
厳重な規制を施し、そこから税金を取り立てるべき生業だった。
しかし、1937年末頃からとられた   軍・警察の措置により、
国家と性の関係に   一つの転換が   生じた。
軍が   軍隊における「性欲処理施設」を制度化したことにより、
政府自らが「醜業」   とよんで憚らなかった、公序良俗に反し、
人道にもとる行為に、直接   手を染めることになったからだ。

残虐行為の多発と慰安所増設の関係②

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/10/17 19:47 投稿番号: [37117 / 41162]
慰安所設置に   日本軍が直接関与したことを示す資料は数多い。
そのすべてを   書き出すことは困難であり、その   ごく一部を
抜粋して   引用しかないことを、理解してほしい。

【上村利通上海派遣軍参謀副長の日記】
  1937年12月28日
  「南京慰安所の開設に就て第二課案を審議す」
【在上海総領事館警察の報告書】
  1937年12月末の職業統計に   「陸軍慰安所」の項目あり
【常州駐屯独立攻城重砲兵第2大隊長の報告書】  
  1938年1月20日付
  「慰安施設は兵站の経営するもの及び軍直部隊の経営するもの
  二カ所あり」

また、元陸軍軍医   麻生徹男の手記によれば、1938年2月
の時点には、上海郊外の楊家宅に『兵站司令部』が『管轄』する
『軍経営の陸軍慰安所』が   開設されていた、と記録している。
また、同年1月に   軍の命令を受け、奥地へ進出する   女性
(朝鮮人80名、日本人20名余)の梅毒検査を上海で実施した
という記録も   残されている。

さらに、在上海総領事館警察署発、長崎県水上警察署宛の
「皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件」
(1937年12月21日付) という資料が   残されている。
それには、次のように   記述されている。

   本件ニ関シ前線各地ニ於ケル   皇軍ノ進展ニ伴ヒ之カ将兵ノ
   慰安方ニ付関係諸機関ニ於テ考究中処頃日来当館陸軍武官室
   憲兵隊合議ノ結果施設ノ一端トシテ   前線各地ニ   軍慰安所
   (事実上ノ貸座敷)ヲ左記要領ニ依リ設置スルコトトナレリ
        
この上海総領事館警察署の依頼状は、陸軍慰安所の設置に関して
上海の軍と   領事館が、深く   関与したことを   示す公文書だ。
文書から判るとおり、1937年の12月中旬に上海の総領事館
(総領事は岡本季正)と陸軍武官室、憲兵隊の   三者間において
協議がおこなわれ、その結果、前線に   慰安所を設置することが
決定されたこと、さらに   その運用に関して   三者間における
任務分担の協定が   結ばれたことが   明確に記されている。

軍幹部の日記や、こうした   公文書の記録などを   総合すれば、
1937年の   遅くとも   12月中旬には   華中の日本陸軍を
統括する中支那方面軍司令部レベルで   慰安所設置が決定され、
その指揮下にある各軍(上海派遣軍と第十軍)に   慰安所開設の
指示が出された   ということになる。

それを受けて   各軍で   慰安所の開設準備が進められるとともに、
関係諸機関が協議して   任務分担を定め、総領事館は   慰安所の
営業主(陸軍の委託により慰安所の経営をおこなう業者)   及び
そこで働く女性(慰安所従業婦すなわち慰安婦)   の身許確認と
営業許可、渡航上の便宜取り計らった   ということがわかる。

さらに、総領事館は   業務を円滑に行うため、内地・植民地の
関係諸機関との交渉にあたり、憲兵隊は   営業主と従業女性の
前線慰安所までの輸送手配と保護取締、   そして   特務機関が
慰安所用施設の確保・提供と慰安所の衛生検査及び従業女性の
性病検査の手配をすることが定められたことが   理解できる。

残虐行為の多発と慰安所増設の関係①

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/10/17 19:46 投稿番号: [37116 / 41162]
陸軍省が、開戦2年間の中国戦での事例をまとめて作成した
「軍紀振作対策」   では、次のように   記述されている。

   在郷軍人ニ対スル教育指導ニ就テ
   今次事変勃発後二ヶ年間ニ発生セル在支全軍ノ犯罪ヲ   役種別ニ
   就テ調査スルニ   予備役四六三   後備役六一四   補充兵役二八五
   現役三一二   ニシテ応召者ニ極メテ多ク又応召者ノ犯セシ罪質ハ
   軍成立ノ根元ニ触ルル対上官犯或ハ聖戦完遂ヲ妨害スベキ   掠奪、
   強盗、強姦等   極メテ悪質ナルモノ多発シアリ。
   此ニ依リテ観ルモ軍紀振作上   在郷軍人ノ教育指導ニハ格別ナル
   配慮ヲ要スルモノト思料セラル。
   (陸密第1955号「支那事変ノ経験ヨリ観タル軍紀振作対策」)

日本兵、特に   予備役や後備役の応召者に   犯罪行為が多く、
掠奪や強姦など「極めて悪質な」ものが多発しているとしている。
さらに、この陸軍省策定の   「軍紀振作対策」   には、
「主トシテ事変地ニ於テ   著意スベキ事項」   として、
次のような   慰安施設にかんする事項が、記述されている。

    事変地ニ於テハ環境ヲ整理シ慰安施設ニ関シ周到ナル注意ヲ
    払ヒ、殺伐ナル感情及劣情ヲ緩和抑制スルコトニ留意ヲ要ス
    環境ガ軍人ノ心理延イテハ軍紀ノ振作ニ影響アルハ   贅言ヲ
    要セザル所ナリ。   故ニ兵営ニ於ケル起居ノ設備ヲ適切ニシ、
    慰安ノ諸施設ニ留意スルヲ必要トス。
    特ニ性的慰安所ヨリ受クル   兵ノ精神的影響ハ最モ率直深刻
    ニシテ、之ガ指導監督ノ適否ハ志気ノ振興、軍紀ノ維持、
    犯罪及性病ノ予防ニ影響スル所大ナルヲ思ハザルベカラズ

性的慰安所に対する指導監督の適否が、志気の振興、軍紀の維持、
そして   犯罪及び性病の予防に   大きくかかわる、という指摘だ。

南京攻略にあたって、日本軍兵士による   中国人女性に対する
おびただしい数の   強姦、殺人が発生した事実は、日本軍自身が
認めており、これが   相手国の敵愾心をかきたてることを危惧し、
また、性病の大量発生が   戦力を低下させるほど増加したことで、
戦争遂行に有害である   と認識したのだ。

その対策が、慰安婦動員と   慰安施設整備、指導監督の強化だった。
このことに、当時の   日本軍の特質を   見ることができる。
翌年の武漢攻略戦のさいには、兵站の一部のような形で
慰安婦を同行させたと   軍司令官が語っている。
軍が組織的に慰安所を設けることは、たちまち全戦線に広がった。

そのため必要となった大量の慰安婦は、朝鮮、台湾などの植民地、
あるいは   占領地から、直接に「現地調達」   された。
その多くは、「婦人児童の売買禁止に関する国際条約」が禁止している
21歳以下の未成年であり、換言すれば   軍の管理統制下におかれた、
“組織的な強姦”に   ほかならなかった。

慰安所設置に   軍が直接関与したことを示す史料は   数多い。
たとえば、上海・南京方面での陸軍慰安所の設置に関するものは
次のようなものがある。   これは、もちろん資料の   ごく一部だ。
【飯沼守上海派遣軍参謀長の日記】
  1937年12月11日
  「慰安施設の件方面軍より書類来り、実施を取計ふ」
  同19日
  「迅速に女郎屋を設ける件に就き長中佐に依頼す」

Re: 侵略戦争

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2011/10/17 19:36 投稿番号: [37115 / 41162]
>そこで追撃したから、戦線が拡大、泥沼化し、ついには対米開戦へと向かうことになったのですね。

上海で守備に徹していれば、まだ「自衛戦争」という主張が通ったのではありませんか?

↑上海での日本軍虐殺を調べましょうね、あなたなら許せないでしょう。

Re: 『聖戦』であったのなら

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2011/10/17 19:34 投稿番号: [37114 / 41162]
日本軍の性病は蔓延していません、管理が徹底していたからです。

中国共産党の主張の鵜呑みは止めましょう。

風紀は世界で一番乱れていません。

欧米諸国と中国軍の風紀の乱れは尋常な人間では計り知れません。

特に中国共産党は、自由恋愛で親子兄弟でも許されました。

良く歴史を勉強しましょうね、歴史音痴と言われますよ。

Re: 侵略戦争

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2011/10/17 19:31 投稿番号: [37113 / 41162]
南京陥落と侵略とは繋がりません、南京陥落後中国の権益を総て放棄し、欧米諸国の権益をも放棄させました。

之が本当の中国の独立です。

自衛戦争ですよ、極東アジアの。

南京などで残虐行為が多発した背景⑤

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/10/17 19:30 投稿番号: [37112 / 41162]
歩兵第六十六聯隊第一大隊の   戦闘詳報には、さらに次のように
記録されている。

   九、右命令ニ基キ兵器ハ第一第四中隊ニ命ジ整理集積セシメ
    監視兵ヲ附ス
    午後三時三十分各中隊長ヲ集メ捕虜ノ処分ニ附意見ヲナシタル
    結果、各中隊ニ等分ニ分配シ監禁室ヨリ連連五十名宛レ出シ、
    第一中隊ハ路営地南方谷地   第三中隊ハ路営地西南方凹地
    第四中隊ハ露営地東南谷地ニ於テ   刺殺セシムルコトトセリ
    但シ監禁地ノ周囲ハ厳重ニ警戒兵ヲ配置シ連レ出ス際絶対ニ
    察知サレザル如ク注意ス
    各隊共ニ午後五時準備終リ刺殺ヲ開始シ概ネ午後七時三十分
    刺殺ヲ終リ聯隊ニ報告ス
    第一中隊ハ当初ノ予定ヲ変更シテ一気ニ監禁シ焼カントシテ
    失敗セリ捕虜ハ観念シ恐レズ軍刀ノ前ニ首ヲ差シ伸ブルモノ、
    銃剣ノ前ニ乗リ出シ   従容トシ居ルモノアリタルモ、中ニハ
    泣キ喚キ救助ヲ嘆願セルモノアリ特ニ隊長巡視ノ際ハ各所ニ
    其ノ声起レリ

武装を解除し、投降した捕虜全員を、ただちに   殺害することは、
国際法違反である以前に、人道に反する残虐行為に   ほかならない。
ひとつの部隊だけでも、上記のような   数日にもわたる   組織的な
大量殺害が   実行されたのだから、日本軍全体での   捕虜殺害は、
いったい   どれほどの規模だったのだろうか――   想像を絶する。

虐殺の背景として、まず   第1には、中国人への蔑視とともに、
国際世論を恐れて戦争の実態を「事変」   と得矮小化するために
戦時国際法を無視したことによる   人権感覚の喪失が挙げられる。
第2に、もともと補給を極端に軽視する   日本軍の欠陥体質があり、
予期せぬ大量の捕虜を収容し、処遇に窮する事態を招いたことだ。

そして、第3には、軍紀風紀の頽廃による規律喪失が無視できない。
急速な軍隊の拡大による   兵士の素質の低下、とくに後備兵の増加が
軍紀風紀の頽廃の原因となり、その結果が、兵士個人の犯罪である
掠奪、強姦などを   多出させた   と考えられる。
旧軍の軍紀風紀関係資料については、既に別の投降で引用したが、
「掠奪、強盗、強姦等極メテ悪質」犯罪の多発が記録されている。

日本の国土が   他国から   武力攻撃を受けているとか、侵略により
国家の独立が危機にたっている惨状を   目の当たりにして   自らの
愛国精神によって起ち上がった、等という状況では   まったくなく、
「事変」と称した他国への侵攻戦において、日本軍兵士の   多くは、
予期もせず   突然の令状で召集された   予後備兵か   補充兵だった。

もともと祖国防衛や民族解放などの崇高な理想に起った戦ではなく、
目的が不明確なうえに、各戦場では、予想を超えた   中国人たちの
はげしい抵抗に直面して、多くの戦友を失い、死の恐怖に苛まれた
日本兵士たちには、中国人民への憎悪と侮蔑感情だけが   かぎりなく
増幅し、理性と規律を   喪失していった。  
これは、数多くの史料や   証言によって   記録されている事実だ。

Re: 中国儲備銀行>unhoo

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2011/10/17 19:28 投稿番号: [37111 / 41162]
>そもそも「南京政府の中国儲備銀行」というのが、日本軍、とりわけ関東軍が独自に戦費を調達するためにつくった銀行でした。したがって「中国儲備銀行」の発行した紙幣は、最初から「軍票」と同じ性格を持っていたのです。

↑これは中国共産党の主張の通りで、完全な間違い。

中国蒋介石政府の法貨は流通していましたが、インフレ率が高くて信用出来ないものでした。

其れを危惧した、日本政府と南京政府が作ったのが、儲備銀行の儲備券で円の裏付けがありましたので、蒋介石政府の法幣を駆逐しました。

ウイキペディアは当方で修正します。

南京などで残虐行為が多発した背景④

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/10/17 19:28 投稿番号: [37110 / 41162]
対中戦争を「事変」の鎮圧で済ませようとした   日本軍には
長期戦に必要な補給路確保、給養の備えは   不十分だった。
その日本軍に、大量の捕虜を収容し続ける手段は   なかった。
上海派遣軍右翼を進んだ独立攻城重砲兵第二大隊第一中隊の中尉は、
仙鶴門鎮付近で   大部隊を捕虜にした際の状況を   証言している。

    捕虜の数は約一万でしたが、早速軍司令部に報告したところ、
   「直ちに銃殺せよ」   と言ってきたので   拒否しましたら
   「では中山門まで連れて来い」   と命令されました。
   「それも不可能」   と断わったら、やっと
   「歩兵四コ中隊を増援するから連れて来い」ということになり、
   私も中山門近くまで同行しました。(中略)  
   「直ちに銃殺せよ」とは、一体誰が決定し、命令を下したのか。
   当時、私の胸が痛かった印象は、従軍中はもとより  
   今日に至るまで、私の脳裡から   離れません。  
   (畝本正巳「証言による『南京戦史』」)

師団副官が捕虜殺害を指示したという   歩兵第三十八聯隊副官の
次の証言もある。

    聯隊の第一線が、南京城一、二キロ近くまで近接して、
   彼我入り乱れて    混戦していた頃、師団副官の声で、
   師団命令として「支那兵の降伏を受け入れるな。処置せよ」
   と電話で伝えられた。(中略)
    部隊としては実に驚き、困却しましたが   命令やむを得ず、
   拡大隊に下達しましたが、拡大隊からは、その後何ひとつ
   報告は   ありませんでした。

師団が捕虜の処置を決めて指示した   という史料も   残されている。
第十三師団は、10月9日付師団司令部名「戦闘に関する教示」で
中国人捕虜の扱いについての方針を   次のように   示していた。

   (前略)捕虜中将校ハ之ヲ射殺スルコトナク武装解除ノ上、
    師団司令部ニ護送スルヲ要ス   (中略)
    但シ少数人員ノ捕虜ハ所要ノ尋問ヲ為シタル上適宜処置スル
    モノトス
   (防衛研究所所蔵「第十三師団戦闘詳報別紙及附図」第一号)

護送せずに、「適宜処置スル」とは、つまり   処刑を意味している。
武装解除した後の捕虜を、裁判もなしに   その場で処刑することは
当時の国際法上でも、明白な違反であったことは、言うまでもない。
しかし、「事変」と称した大量殺戮の場では   国際法は   適用されず、
道義的規範は   完全に   無視されたのだ。

第十軍   第百十四師団   歩兵第六十六聯隊第一大隊の   戦闘詳報が
残されており、12月10日から13日の間に捕虜1,657人を
捕らえたこと、そして、この捕虜を   旅団命令で14日に   すべて
殺した事実が、具体的に   記述されている。   その記録によると、
捕虜を、上部命令で   組織的に虐殺したことが明らかにされている。
以下に   13日の記事の一部を抜粋してみよう。

   八、午後二時零分聯隊長ヨリ左ノ命令ヲ受ク
   イ.旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スベシ  
     其ノ方法ハ十数名ヲ捕縛シ逐次銃殺シテハ如何
   ロ.兵器ハ集積ノ上別ニ指示スル迄監視ヲ附シテ置クベシ
   ハ.聯隊ハ旅団命令ニ依リ主力ヲ以テ城内ヲ掃蕩中ナリ
     貴大隊ノ任務ハ前通リ

南京などで残虐行為が多発した背景③

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/10/17 19:26 投稿番号: [37109 / 41162]
以下は、中国戦線に従軍した   一兵士の証言だ。

   徴発、掠奪をガタクルと言った・・・   掠奪はいかん、物品は必ず
   金円を支払って調達せよと空命令を出しても身も心も荒みきった
   兵隊に通じる筈もなかった。漢口を発つ時、どの部隊も糧秣等は
   現地調弁せよと命令され、調達物資は必ず相当金額を支払うこと、
   金円がない場合は後払い証を発行せよ   と言われた。

   こんな馬鹿げた命令をする奴は、第一線の状態が   どんな様相を
   呈しているのか承知していて、腹の中では   腕ずくでも、相手を
   殺してでも徴発すべしと言っているのだ。   日本軍の来襲を知り、
   いち早く避難し、姿をくらましてしまった住民と   どうやって
   売買を交渉し、金を払えというのか――
   (「湘南戦記」「十五年戦争史②日中戦争」青木書店より)

補給確保を軽視し、現地での   徴発(という名目の略奪)に頼り、
それでもなお   自軍兵士の食料確保にさえ   窮していた日本軍に、
大量の中国人捕虜を収容し、給養を確保する手段は   なかった。
方面軍司令は、南京での捕虜殺害について、次のように述べている。

   捕虜も相当出来たけれども捕虜に食はせる物もない。さういふ
   状態で戦闘しつつ捕虜が出来るから   始末することが出来ない。
   それでちよん斬つてしまうといふことになった。
   それで大したことではないのだが、南京の東南方の鎮江との
   間の所で一万余の捕虜があつたのだけれども、そんなのは無論
   追撃中だから戦闘中と見てもよろしい、又捕虜となつても逃亡
   する者もあるし、始末が付かぬものだから   シヤーシヤーと
   射つてしまつたのだ。
   その死骸が川に流れた。   それから問題になつたのだ。
   (吉田裕『南京事件と国際法』より)

食料が不足して捕虜の処遇に困った、それで「戦闘中」と見なして
捕虜を殺害した   という証言だ。   どうやら   日本軍の司令官は
中国軍捕虜を処分することを   犯罪とは考えていなかったようだ。
このほかにも、軍や師団が   捕虜の「処分」を命令または指示し、
組織的な殺害がおこなわれていたという史料が   数多く存在している。

派遣軍司令部の情報主任参謀で方面軍参謀を兼ねていた中佐が、
捕虜をどうするかという師団からの問い合わせに対して、
くりかえし「ヤツチマエ」と命令していた   という証言がある。
これは、当時少佐で方面軍司令の専属副官であった人物の証言だ。

おそらく、南京虐殺「まぼろし説」を振りかざす否定派などは、
こうした数々の証言を   すべて   捏造だ、ウソだ、などと決めつけ、
必死になって   否定しようとするだろう。
しかし、引用した陸軍次官通牒や戦闘詳報など   日本軍の記録には
これらの証言を裏付けるように、日本軍の   中国軍兵士への認識や
対処方針などが示されており、資料的価値は   非常に高いものだ。

南京などで残虐行為が多発した背景②

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/10/17 19:25 投稿番号: [37108 / 41162]
第2に、日本軍の   補給確保軽視という、戦略上の欠点が挙げられる。
この欠陥は後に、太平洋戦争でも   兵士の大量餓死発生の要因となる。
補給軽視の体質の上に、対中戦争を「事変」鎮圧で済ませようとした
日本軍には   長期的戦略はなく、給養の備えは   不十分だった。
物資補給は、もっぱら   「現地調達」   に頼るほかなく、必然的に
「徴発」という名目による   現地人民からの略奪、強盗頻発を招いた。

ハーグ陸戦法規には、徴発する場合は   その場で   現金を支払うか、
もしくは   「領収証」を発行し、「なるべく速やかに」   支払いを
履行しなければならない、と定められていた。
しかし   南京へ進撃していた日本軍は、兵士らが   勝手に略奪を
続けることを   放置していたに等しかった。   以下に引用する
兵士の証言は、当時の実情の   ごく一端を   あらわしている。

「米もカンパンも持ってなくての。特務隊が半煮えの、できそこないのご飯で作ったおにぎりなんかを、たまに届けてくれたの。だけども食料が来ないので、食べ物はほとんど徴発ですましてました。米とか味噌とか、鶏、豚なんかを徴発していました。夜、中国人の家ん中に入って、鍋を探す者、米探す者、菜っ葉探す者、とそれぞれ役目を決めて、探して来た物を分隊で分けて食べるのさ。」
「住民は皆逃げてしまっていなくなって、ほとんど何も残っていなかったこともあったけど、二ヶ月くらい徴発で食いつないだかの。米がない時もあったけど、菜っ葉なんか食べて食いつなぎました。ずっと物を盗ってすごしたな」
(社会評論社「南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて・元兵士102人の証言」P-350,351より)

日本軍兵士の証言だけでは足りない、と思われるかもしれないので、
南京安全区国際委員会委員長が残した記録を併せて引用しておこう。

「12月13日・・・日本軍は10人から20人のグループで行進し、略奪を続けた。それは実際にこの目で見なかったら、とうてい信じられないような光景だった。彼らは窓と店のドアをぶち破り、手当たり次第盗んだ。食料が不足していたからだろう。ドイツのパン屋、カフェ・キースリングもおそわれた。また、福昌飯店もこじ開けられた。中山賂と太平賂の店もほとんど全部。なかには、獲物を安全に持ち出すため、箱に入れて引きずったり、力車を押収したりする者もいた」
(ジョン・ラーベ著「南京の真実」P-110より)

防衛研究所などに収蔵されている   軍関係の資料を   調査すれば、
上記は、膨大な記録の   ごく   一部にすぎないことが理解できる。
こうした記録が   示すように、日本軍は   「徴発」という名目の
略奪に頼って、なんとか食いつないでいたというのが実情だった。
菓子や酒など嗜好品の類も「徴発」していた   という記録もある。

このように、現地で略奪に頼るほど、日本軍は補給に窮していた。
補給の途絶は、自軍兵士の給養欠乏という   深刻な事態とともに、
予想を超える多数の   中国人捕虜の収容を   困難にしてしまった。
日本軍の包囲戦により、南京城内及び周辺地域には   少なくとも
10万人程度の中国兵が   逃げ遅れ、投降した   と推定される。

これに対し、日本軍側には   捕虜収容の用意が   まったくなかった。
給養の点に窮乏し   困り果てた日本軍にとって   残された手段は、
捕らえた   中国人俘虜を   大量に   「処分」   することだった。
これを   裏付ける資料として、大量の捕虜の処置に窮し、
上級司令部が殺害を命じた   という記録が、いまも残されている。

南京などで残虐行為が多発した背景①

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/10/17 19:24 投稿番号: [37107 / 41162]
日本軍が起こした   戦争を、『植民地解放を目指した聖戦』   として
美化したい者にとって、日本軍が   中国大陸や   東南アジアの各地で
行った残虐行為の事実は、非常に   都合の悪いものだろう。   彼らが、
必死で「ウソ」、「捏造」と否定し、日本の歴史を汚す主張だなどと、
証拠に基づく議論を放棄し、悪罵を   吐き散らすのは、当然のことだ。

しかし、人が殺し合い、破壊し合う戦争を起せば、日本軍に限らず
戦場や占領地において   残虐な行為が発生することは   必然なのだ。
したがって、過去の事実を   真摯に受け止め、原因と経緯を究明し、
教訓とすること自体が、日本の歴史を汚すとか、恥をさらすという
ことではないし、実際、そのような目的で   論じているのではない。

南京事件や慰安婦問題などの   歴史の事実に向き合うことを恐れ、
記録や証言などの資料を   すべて「ウソ」、「デタラメ」   と否定し、
「聖戦」の大義名分だけを   拠所にして   戦争を美化することが、
真に国を愛する者の言動である   とは、到底、言えない   と思う。

問題にすべきは、なぜ   規律に厳しかったはずの日本軍でさえも
残虐行為を   組織的に、かつ   広範囲にわたって   発生させ、
それを防げなかったか、ということであり、いま行うべきことは
客観的資料に基づく   徹底した検証作業なのだ   と思う。
この視点から、日中戦争の実相を   あらためて   論じてみたい。

日中戦争が   全面化し始めたとき、日本軍部は、これを   「事変」
であるから、「戦時国際法は適用しなくてもよい」   と決定していた。
支那駐屯軍が   華北で総攻撃を開始した   直後の   1937年、
8月5日付陸支密第198号   支那駐屯軍参謀長宛   陸軍次官通牒
「交戦法規ノ適用ニ関スル件」には、次のように   示されている。

   一、現下ノ情勢ニ於テ帝国ハ対支全面戦争ヲ為シアラザルヲ以テ
    「陸戦ノ法規ニ関スル条約其ノ他交戦法規ニ関スル諸条約」ノ
    具体的事項ヲ   悉ク適用シテ行動スルコトハ   適当ナラズ

戦線が、華北のみならず   中国全土に拡大し、各方面で   日中両軍が
総力戦に突入して   全面戦争となった   にもかかわらず、日本軍部は
国際社会からの非難と制裁を恐れ、戦争とは呼ばず「事変」と称した。
「戦争」でないのだから、当然、戦時法は   適用できないことになる。

さらに、「日支全面戦ヲ相手側ニ先ンジテ決心セリト見ラルル如キ言動、
例ヘバ   戦利品、俘虜等ヘノ名称ノ使用」などは   「つとめて避けよ」
と指示している。   国際社会の批判を恐れ、先に戦争を仕掛けたのが
日本だと悟られないよう、戦利品や俘虜という戦時用語は   使用するな
と   自軍の兵士に命じたのだ。

こうした軍中央部の方針は、ただちに   現地軍に伝えられた。
投降した多数の中国人捕虜に対して、国際法に基づいた処遇は不要。
収監したり   護送したりするなどの   面倒な手間も   要らなかった。
日本軍から   国際法に基づく人道的扱いなどが消えたのは   当然だった。
虐殺の背景として、まず   第1には、このような   中国人への蔑視と
国際法を無視したことによる   人権感覚の喪失があった   と言える。

Re: 事実の把握>deliciousicecoffee

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2011/10/17 19:23 投稿番号: [37106 / 41162]
君は指摘されても調べないんだね自分に都合悪いと。

第二.在中邦人に付いては左の取扱による

  一.在留邦人の持ち帰り金に付いては一千円とす

  二.軍票携行に代え総領事に於いて預かり証を発行す

  三.預かり証の様式は左記に依る
    (イ)発行番号
    (ロ)金額(但し軍票建てとする)
    (ハ)発行年月日
    (ニ)終結地名、総領事名
    (ホ)預託者名、帰還先住所

  四.預かり証は正副二通作成し正を預託者に交付し副を総領事保管す

君も調べないとね、馬鹿と言われるよ。

立派に慰安婦は在留邦人ですからね。

Re: 事実の把握>deliciousicecoffee

投稿者: nyankotyanndamon 投稿日時: 2011/10/17 19:08 投稿番号: [37105 / 41162]
>残念ながら、軍票はその多くが裏付けのないまま発行されたため、軍票の乱発により日本軍の占領地域ではインフレが悪化しています。

↑大蔵省の許可がないと発行出来ませんでした。

「36 臨時派遺部隊軍資全支@順序(大正三年九月三日決定) 第一軍資全ノ全種並其用途 第一条 臨時派遺部隊軍資金ニ使用スヘキタ金種数、兌換券補助貨(以下兌換券、補助貨ヲ金ト称ス)円形銀塊及軍用手票(以下円形銀地鬼ヲ円銀軍用手票ヲ軍票ト称シ又円銀、軍票ヲ銀ト称ス)トス金ノ使用ハ軍族ノ俸給、給与等個人ノ給與ニ限ルモノトス 第二章 軍票ノ発行 第二条 軍費支私ノ便ニスル為予算ノ範困内ニ於テ第二条 軍費支払ノ便ニ供スル為予算ノ範困内ニ於テ軍票ヲ発行ス其ノ種類リ円銀十銭、二十銭、五十銭 一円、五円、十円ノ六種トス 第三条 大蔵省財局長ハ大蔵大臣ノ決裁ヲ経テ金庫出納役ヘ交付スヘキ軍票ノ種類及枚数ヲ定メ其ノ製」

君の様な居根拠が無い話しは駄目ですよ。

>しかし、サンフランシスコ講和条約により、日本は軍票に対する支払いを免除されていますね。終戦後もそうした軍票を持っていた人々にとっては、まったく「紙切れ」です。

↑連合国側の判断ですから、日本政府は関係ありません。

Re: mario_porco_rosso の宿題

投稿者: mario_porco_rosso 投稿日時: 2011/10/17 15:57 投稿番号: [37104 / 41162]
>敗戦で日本が台湾と朝鮮半島を放棄させられたとき、
>朝鮮民族は怒りを覚えなかった。

日本に併合される前、朝鮮の人々は自前の「国」を持っていたからです。
日本の敗戦は、自らの開放を意味するから、むしろ喜んだでしょう。


>逆に台湾人は見捨てられたと心底怒った。

日清戦争により日本の領土となる前の台湾の歴史を見れば、台湾が大陸の政権に対して帰属意識を持つのは難しかったと理解できますね。

日本の敗戦は、彼らにとって大陸の政権に飲み込まれることを意味しました。

Re: 『聖戦』であったのなら

投稿者: mario_porco_rosso 投稿日時: 2011/10/17 15:53 投稿番号: [37103 / 41162]
>帝国主義の植民地支配者を排除するには、
>当時の先進技術である帝国主義の技術を以ってするしか
>なかっただけの事だ

「帝国主義の技術」とは、つまりは帝国主義国家のやり方を踏襲する、ということでしょう?(苦笑)

そのような帝国主義的なやり方をする国家のことを、通常は「帝国主義国家」と呼ぶのでしょう。


>植民政策で、資源物資調達と自国の国益に寄与する協調関係を
>築かせようという施策から始めると

武力で獲得した南洋諸島を、御前会議で「帝国領土ト決シ」たのが、あなたの言う「協調関係」ですか?

仏印への進出も「協調関係」を築くための方策で、「侵略」ではない、ということになるのですか?

Re: 『聖戦』であったのなら

投稿者: mario_porco_rosso 投稿日時: 2011/10/17 13:11 投稿番号: [37101 / 41162]
>「外交の末の結果」が示すことは、
>外交交渉で解決できないと判断して
>武力行使での解決を図ったということだ

武力の行使も国家の外交上の「選択肢」の一つにすぎませんよ。

戦争は、国家の意思を実現するための手段です。

もし、将来の見通しもなく戦争に巻き込まれたというなら、

「当時の日本の外交政策は大変お粗末であった」

ということになります。

Re: mario_porco_rosso の宿題

投稿者: unhoo 投稿日時: 2011/10/17 12:57 投稿番号: [37100 / 41162]
>逆に台湾人は見捨てられたと心底怒った。

↑台湾人は拱手傍観していた。日本が徹底的に負けたことを知っているから、日本が台湾を保有することなど期待した台湾人はいない。内地人(在台日本人)が日本へ送り返されるのを見て、別れを惜しんだ台湾人は多かった。

日本が独立を回復(連合国軍による占領終結)し、田中角栄総理が中共と国交を開くため台湾の蒋介石政権と絶交したとき、台湾人は「ざまあ見ろ、蒋政権」という気持ちでむしろ痛快がった。

ところがその後日本政府は中共のご機嫌を取る手段として、台湾には徹底的にそっぽを向くという政策を取った。外務省歴代の次官級人物が、台湾無視の態度を露骨にすることが、中共のご機嫌を取る最良の方法であると明言した。このときになって台湾人は初めて日本に怒りを覚え、日本人への尊敬が消失した。現在の台湾老人の胸の中にはその怒りがまだ小さくくすぶっている。

日本帝国に植民地解放の志向は無かった⑥

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/10/17 07:18 投稿番号: [37099 / 41162]
一部から   「植民地解放戦争」   だと賛美される   太平洋戦争。
しかし、その戦争は   泥沼化した日中戦争の   延長上にあった。
ナチス・ドイツは、39年に   ポーランドに侵攻。翌40年6月には
フランスが降伏した。   この電撃的な侵攻は、世界を震撼させた。
当時、中国との戦争が泥沼に陥っていた日本は、ドイツの欧州での
戦争を、日中戦争打開の好機   ととらえた。

フランス降伏の翌月、日本は、大本営政府連絡会議で「世界情勢の
推移に伴ふ時局処理要綱」で   アジアに対する武力行使方針を決定。
さらに「皇国の大東亜新秩序建設のための生存圏について」を決定、
ドイツとの戦争で弱っているイギリス、フランス、オランダが持つ
アジア太平洋の植民地を、武力行使により支配下におこうとした。

「独伊との交渉において、皇国の大東亜新秩序建設のための生存圏
として考慮すべき範囲は、日満支を根幹とし、旧独領委任統治諸島、
仏領インド及び同太平洋島嶼、タイ国、英領マレー、英領ボルネオ、
蘭領東インド、ビルマ、豪州、ニュージーランドならびにインド等
とす」とした。日本は、ドイツと組んで世界戦争に参戦することで
世界秩序を一変させ、日中戦争の打開を   はかろうとしたのだ。
イギリス、フランスなどのアジアの植民地を『生存圏』としたのは、
その世界戦争のための   資源を獲得するために   ほかならなかった。

これらの方針の   どこにも   植民地解放の理念は   示されていない。
40年9月、日独伊三国同盟を結ぶのと   ほぼ同時に、日本軍は
フランス領北部インドシナに進駐。   41年7月の御前会議では、
さらなる「南方進出」   方針を打ち出し、「対英米戦を辞せず」と
決定(「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」)した。
続いてフランス領南部インドシナへの   武力侵略を   開始した。

南方進出方針を承認した   昭和天皇でさえ、この手法について
「相手方の弱りたるに乗じ要求を為すが如き所謂火事場泥棒式」
と   語っていた(『木戸幸一日記』)。  
天皇も「火事場泥棒」のようだと評した   日本の南方進出に対して
国際社会が   石油の禁輸措置など制裁策をとったのは、当然のこと
であった   と言えるだろう。

1943年5月の大本営政府連絡会議では、占領した南方諸地域に
対する方針   「大東亜政略指導大綱」   を決定した。
方針には、「マライ、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベス」は
「帝国領土と決定」   する、と   明記されている。
その他の地域についても、「満州国」   並みの政府を作らせて
「独立」   の形をとるが、日本の支配権は確保する   とした。

どこにも   列強支配からの諸国民独立を目指す志向は見出せない。
アジアを   日本の支配下に置く   という方針は   一貫していたのだ。
これが、靖国教団が流布する大本営発表=「アジア解放の聖戦」の
実相であり、歴史の真実だ。

日本帝国に植民地解放の志向は無かった⑤

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/10/17 07:04 投稿番号: [37098 / 41162]
前述したとおり、軍部の記録資料にも   日本軍兵士による残虐行為、
風紀紊乱による   犯罪・非行の増加が   示され、結果、性病蔓延や
ひいては   戦力低下、士気低下が深刻化していた事実が示されていた。
また、その対策として   慰安所とくに性的慰安所の確保と管理に関し
軍が   直接関与していた記録も   提示した。

これら、軍の規律低下、風紀の頽廃の原因の一つも、この戦争には
大義がなかったことを論証したところだが、なお補足しておきたい。
1937年の開戦から   1939年までの   性病入院患者は、
戦地に設けられた   わずか3箇所の特設病院に限った患者数だけでも
1万6千人を超えていた   という驚くべき実態が   記録されている。
(防衛研究所『支那事変ノ経験ニ基ク無形戦力・軍紀風紀資料』第5号)

これで明確に判ることは、感染機会が   内地からの帯患者よりも
戦地での感染者の方が   圧倒的に多くなっている   という事実だ。
急速な軍隊の拡大による幹部と兵の素質の低下、とくに後備兵の増加が
軍紀風紀の頽廃の原因となり、その結果が、兵士個人の犯罪である
掠奪、強姦などを多出させたことが   軍部の資料からも読み取れる。

前述したように、戦場に送られた   兵士の大部分は、
突然の令状で召集された   予後備兵か   補充兵だった。
彼らは   予期しないときに、急遽   戦場に駆り出された。
その彼らに、祖国の危機に馳せ参じた   志願兵にみるような、
愛国の熱情を   期待するのは   土台から   無理なことだった。

国民の愛国心に訴えるような   大儀名分が、この「事変」には
存在しなかった。   日中戦争は、かつての   どの戦争よりも大規模で
深刻な戦争となったにも関わらず、宣戦の詔書も   だされなかった。
宣戦の詔勅のかわりに出されたものが   政府声明だったが、そこでは
「暴戻支那ノ膺懲」、略して「暴支膺懲」が   戦争目的だとしている。

とくに   日本の国土が侵略の危機に   さらされているわけではなく、
相手が言うことを聞かないから懲らしめてやる、というだけでは
国民を奮起させるのに十分な   スローガンとは   言えなかった。
しかも   兵士の大部分が、予備や後備の召集兵で、すでに一般社会の
生活に馴染み、家族も多く、後顧の憂いを抱えた人々だった。
これでは、とても   志気旺盛とは   いえないのが実情だったのだ。
このような状況が犯罪行為の増加に結びついた証拠が以下の資料だ。

   応召者ニ極メテ多ク又応召者ノ犯セシ罪質ハ軍成立ノ根元ニ触ルル
   対上官犯或ハ   聖戦完遂ヲ妨害スベキ   掠奪、強盗、強姦等
   極メテ悪質ナルモノ多発シアリ。   此ニ依リテ観ルモ軍紀振作上
   在郷軍人ノ教育指導ニハ格別ナル配慮ヲ要スルモノト思料セラル。
  (陸密第1955号「支那事変ノ経験ヨリ観タル軍紀振作対策」陸軍省)

とくに応召者に   掠奪や強姦など「きわめて悪質」な犯罪が   多発し
深刻だとして、注意を喚起し、在郷軍人の指導に配慮が必要である  
と指摘している。
日中戦争初期の2年間に限っても、すでに   軍紀上の犯罪が多発し、
傾向としては   やはり予備役、後備役など   召集された兵隊に多く、
それは   「聖戦完遂ヲ妨害スル」   ほど悪質なものであるということを
軍部当局においても   認識されていた   ということだ。

わだつみさあ。

投稿者: singodama 投稿日時: 2011/10/17 06:56 投稿番号: [37097 / 41162]
おまえ、まともに反論さへ出来てないのにね。
恥ずかしいな。

日本帝国に植民地解放の志向は無かった④

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/10/17 06:36 投稿番号: [37096 / 41162]
当時の   日本帝国に、本当に   植民地解放の志向が   あったのなら、
血なまぐさい戦争を引き起こすよりも   以前に、国際社会に対して
真剣に   民族自主権の回復、植民地諸国の独立を訴えていたはずだ。
そして、誰よりも   率先して   自らの植民地支配を解消すると共に、
他民族の主権を尊重し、他国領土への軍事的干渉を中止したはずだ。

しかし、実際には   日本が取り続けた政策は、植民地での独立運動を
徹底して武力弾圧することや、海外への派兵、近隣諸国に対する
軍事的圧力の強化だった。   国際社会からの批判や経済制裁を招き、
国内の反戦論や   植民地解放運動への弾圧を   顕著化させた事実は、
当時の日本に平和を希求する意志など存在しなかったことの表れだ。

苦し紛れに、日本が   第一次大戦後の国際会議において提案した
「人種的差別撤廃提案」を   持ち出す   愚か者も   いるらしいが、
同提案は、欧米列強に対して   日本の国際的地位の向上や、当時
問題となっていた日系移民への差別を解決することを目指すもの
であり、植民地の独立を促すものではないのだから   的はずれだ。

また、仮に   百歩譲って、日本が提起した人種的差別撤廃提案に
植民地独立の願意も含まれていたかもしれないと仮定してみても、
この提案は   1919(大正8)年のものであり、「大東亜戦争」
突入までの期間、はたして   何度、再提案された   というのか。
事実に照らして見れば、戦争に突入するほどの根拠にはならない。

靖国神社などが、「植民地解放」目的であった   と美化する戦争。
その実相を記録するものの一つが、シンガポールの公園内に立つ
四本の柱からなる   「血債の塔」と呼ばれる   祈念碑だ。
正式名称は、「日本占領時期死難人民記念碑」   という。

1941年12月8日、日本軍は   真珠湾攻撃の数時間前から
マレー半島への上陸作戦と並行して   シンガポールを空爆し、
翌42年2月15日に   シンガポールを占領。   直後に山下奉文
司令官名の「布告」をだし、中国系住民を指定地へ集合させた。

日本軍は「良民登録」のため   と説明したが、実際には現場を
封鎖して   虐殺対象者を選別し、氏名を英語で書いた者や
眼鏡をかけた者は   「知識人」で   「抗日」だろうといった
いい加減な基準で、集めた人々を、トラックで人気のない
海岸などに運び、まとめて   殺害したのだ。

「華僑粛清」と称した   この作戦は、マレー半島でも行なわれ、
多くの住民が   虐殺されたのだ。   1961年12月には、
イーストコーストの工事現場から、白骨が続々と発掘された。
その記憶を留める「血債の塔」は、67年に   完成したものだ。
虐殺は   5万人にのぼった、というのが   シンガポールでは
「共通の認識」となっている。

犠牲者数をめぐっては、元日本軍政当局幹部が   「5千人」と
著書で書いたり、日本政府が   教科書検定で「2万人」という
記述を「6千人以上」に書き換えさせ問題が起きたこともある。
例え   5千人だとしても、非戦闘員を大量に虐殺したのは事実。
それで、アジア解放を目指した聖戦だった   と強弁するのは、
あまりにも   厚顔無恥だ   といえるだろう。

日本帝国に植民地解放の志向は無かった③

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/10/17 06:35 投稿番号: [37095 / 41162]
戦前・戦中、思想弾圧に   威力を振るったのは   治安維持法だ。
公式記録では   送検者75,681人、起訴5,162人となっているが、
明治期制定の警察犯処罰令など一連の治安法規も含めた逮捕者は
じつに   数10万人に達したとされる。また、記録には残されて
いないが   拷問・虐待による   多数の死者が出たといわれている。

国内の反戦論や植民地の解放運動に対し、弾圧を強化した事実は、
当時の日本に   平和を希求する意識や   植民地解放のなど志向が
なかった事実をあらわしている。
治安維持法は、日本国内の反戦平和の主張を抹殺するだけでなく、
朝鮮の独立運動の弾圧に猛威をふるい、多くの人命を   うばった。

同法適用の最初は日本本土では1926年1月の京都学連事件だが、
朝鮮では   それより前年の   25年11月で、66人が検挙された。
朝鮮半島における   治安維持法を使った   弾圧の残酷さは、
本国ではなかった死刑が   実行されたことにも   あらわれている。

「朝鮮ノ独立ヲ達成セムトスルハ   我帝国領土ノ一部ヲ   僣窃シテ
其ノ統治権ノ内容ヲ実質的ニ縮小シ之ヲ侵害セムトスルニ外ナラサレハ
即チ治安維持法ニ所謂国体ノ変革ヲ企図スルモノト解スルヲ妥当トス」
これは、新幹会鉄山支部設置に対する   治安維持法違反事件における
30年7月21日付、朝鮮総督府   高等法務院の判決だ。

つまり、朝鮮が独立することは、日本帝国の一部を奪うことになる、
という理屈で、植民地における独立運動も   治安維持法違反だとし、
死刑をもって   これに臨んだのだ。   この事実   一つを取って見ても
当時の日本帝国の   どこにも、植民地の解放や独立、民族主権の尊重
などという志向は、一欠片も   存在していなかったことが判る。

当時の   膨張志向を顕著化させていた   日本の帝国主義に対して、
石橋湛山は、1921年7月21日付の   『東洋経済』社説で  
「一切を棄つるの覚悟」と題し、次のように   主張している。

   我が国の総ての禍根は、小欲に囚われていることだ。(中略)
   もし政府と国民に、総てを棄てて掛かるの覚悟があるならば、
   必ず我に有利に導きえるに相違ない。例えば、満州を棄てる、
   山東を棄てる、支那が我が国から受けつつありと考えうる
   一切の圧迫を棄てる。   また朝鮮に、台湾に自由を許す。

   その結果はどうなるか。   英国にせよ、米国にせよ、非常の
   苦境に陥るだろう。何となれば、彼らは日本にのみかくの如き
   自由主義を採られては、世界におけるその道徳的地位を
   保つ得ぬに至るからである。そのときには、世界の小弱国は
   一斉に我が国に向かって信頼の頭を下ぐるであろう。

   インド、エジプト、ペルシャ、ハイチ、その他の列強属領地は、
   一斉に日本の台湾・朝鮮に自由を許した如く、我にもまた
   自由を許せと騒ぎ起つだろう。(後略)

残念ながら、当時の帝国政府は   石橋が言う小欲に囚われ続けた。
満州や山東半島の権益を捨てず、朝鮮や台湾に   自由を許さず、
道徳的権威を   投げ捨てて、血生臭い植民地獲得戦争に突入した。
結果、多くの人命を犠牲にして   惨めに   敗北するに至ったのだ。
いまさら、植民地解放戦争だったなどと、虚言を吐いたところで
戦場となった国々、牲者の傷痕は   決して   消去できない。
 

日本帝国に植民地解放の志向は無かった②

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/10/17 06:34 投稿番号: [37094 / 41162]
日本帝国が   無謀な対米戦争を引き起こす   直前の時期に限っても、
1931年から41年までの   10年間には、ニュージーランド、
カナダ、オーストラリア、南アフリカなどが   完全独立を実現し、
フィリピンは   自由連合州となって   独立は確定的となっていた。
さらに、中東のレバノンなども   独立を宣言するに   至っていた。

当時の   日本帝国に、本当に   植民地解放の志向が   あったのなら、
戦争を起こすよりも以前に、この脱植民地化の進展に歩調を合わせ
国際社会に対して、真剣に   植民地解放、独立を訴えていたはずだ。
そして、誰よりも   率先して   自らの植民地支配を解消すると共に、
他民族の主権を尊重し、他国領土への軍事的干渉を中止したはずだ。

しかし、実際には   日本が取り続けた政策は、植民地での独立運動を
武力で弾圧することや、海外への派兵継続、とくに近隣諸国に対する
軍事的圧力の強化という   露骨な主権侵害だった。
その姿勢が、国際社会からの不信、強い批判や   経済制裁を招き、
追い詰められた挙句、暴発した。   これが   「聖戦」の   実態だ。

本当に   民族自主権を尊重する意志があるなら、軍事力を用いた威嚇、
挑発などは、慎んだはずだが、しかし   実際には、日本は他国領土に
大軍を派兵し続けた。   他国の主権を脅かす挑発行為にほかならない。
たとえば日中戦争の発端となった盧溝橋事件は   日本国内でも、また
日中の国境地帯でもなく、中国の心臓部、北京近郊で   起きた。

事件勃発の前年に、日本は   「支那駐屯軍」を、1800人から
5800人に   大幅増強し、中国政府の強い抗議を無視して、
増強部隊を   北京近郊の豊台に   駐屯させていた。
一国の首都の近郊に、他国の大軍が   強引に   居座っている状況は、
まさに   露骨な武力挑発、無法な主権侵害以外の何ものでもない。

当時の陸軍参謀本部第一部長、石原莞爾は   次のように証言している。
「豊台に兵を置くことになりましたが、之が遂に本事変の直接動機に
なつたと思ひます」   (「石原莞爾中将回想応答録」参謀本部作成)
日本軍の増強部隊が駐屯した豊台は   北京の守備の要であり、
すでに   中国軍が配備されていた場所だった。
互いの兵営の距離は   わずかに   300メートルだったという。

その駐屯部隊が、同じく   北京の守りの要であった   盧溝橋で、
中国側に通告しないまま、夜間演習を実施。事件はその時起きた。
戦闘にならないほうが不思議といえる状況を作ったのは日本軍だ。
根本的問題は、どちらが先に発砲したか   などということでない。
戦争に至る原因を作った側が「自衛」を口実にするのは見苦しい。

また、本当に   民族解放や主権回復を国家の悲願としていたのなら、
まずは   自らが支配する民族の、主権・独立を求める   切実な声に
真摯に応えていたはずだ。   しかし、朝鮮半島で起きた独立運動は、
武力弾圧によって   多数の死傷者、投獄者を出す事態となった。

朝鮮での独立運動の様子は、情報統制により   日本国民には正確に
伝えられなかった。   が、それでも   少数ながら   日本の国内にも
朝鮮民族の運動に   共感を寄せ、支持を表明した人々が   存在した。
そうした者の多くは迫害の対象となった。「朝鮮独立支持」などと
主張するには、特高に検挙されることを   覚悟せねばならなかった。
 

日本帝国に植民地解放の志向は無かった

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/10/17 06:33 投稿番号: [37093 / 41162]
まず、基本的な   「議論の仕方」について   提案したい。
自分の主観だけで断定せず、まず客観的根拠を明確にすること。
「お前の言ってるのはウソだ」「他にも証拠がある」とだけ言い放ち、
その「他の証拠」を   きちんと示さないで、もっぱら相手を中傷する、
人格攻撃しかできない偏狭な者が少なくない。
もとより   そんな書き込みは   議論に値しないから   無視してよい。

状況証拠や記録資料に基づき、論理的に考えてみる必要がある。
過去の戦争が、『日本の独立を守るための“自衛”戦争だった』か、
あるいは   『植民地解放を   目指した   “聖戦”だった』   とか、  
『日本が戦わなければアジア諸国民は独立できなかった』   という
靖国神社などが   盛んに宣伝流布する戦争美化・正当化論について
客観的事実に基づいて   その実態を検証することが必要だ。

当時の日本帝国に、民族主権の尊重や   植民地独立促進の志向が
あったのか、また、多くの命を奪う悲惨な戦争を起こした   目的が、
本当に   そうした崇高なものであったのか、そして、日本が戦争を
しなければ、植民地解放・独立は   本当に達成できなかったのか、
さらに、戦争をしなければ日本帝国も他国の植民地にされたのかを
20世紀初頭における国際社会の情勢などに照らして考えるべきだ。

戦争は、夥しい血を流し、人権を蹂躙し、環境を破壊する蛮行だ。
それを正当化するために持ち出される「植民地解放」という麗句。
しかし、アジア諸国解放は、日本軍敗北の「結果」   にすぎない。
戦争目的だったと言える確たる証拠は、はたして   あるだろうか。
まず、当時の世界における   植民地政策の情勢に   着目すべきだ。

実際、すでに   日本軍が戦争を引き起こすよりも   はるか以前に
脱植民地化(Decolonization)   の潮流は、顕在化していた。
それは、早くも   18世紀末、アメリカ大陸において   始まった。
引き金は、アメリカ独立戦争における   英国への勝利だった。
これを皮切りに、南北アメリカ大陸で   脱植民地化が始まる。

まず、スペイン、ポルトガルなどの支配からの脱却が急速に進む。
1804年には、中米の   ハイチが   独立を宣言し、
ヨーロッパ列強の支配から脱却した   最初の非白人国家となった。
1808年、ポルトガル最大の植民地だったブラジルも独立する。
1813年には   パラグアイも   スペインからの独立を達成した。

その後   1900年代の   初頭までに、アルゼンチン、チリ、
ニカラグア、ホンジュラス、グアテマラ、エルサルバドル、
コスタリカ、ベネズエラ、メキシコ、エクアドル、ペルー、
ボリビア、ドミニカ、キューバなどが   次々と独立を宣言する。

そして   アジアや   ヨーロッパでも、モンゴル、アフガニスタン、
アイルランド、ネパールなどが自治権または完全独立を獲得し、
イラクの国際連盟委任統治が解除され、イギリスは租借港威海を
中国に返還し、アメリカが   フィリピンの独立を約束するなど、
東アジアにおいても   脱植民地化の動きは確定的となっていった。

当時の   日本帝国に、本当に   植民地解放の志向が   あったのなら、
血なまぐさい戦争を引き起こすよりも   以前に、国際社会に対して
この脱植民地化の潮流を   確固とするため、繰り返し   粘り強く、
植民地諸国民の   自主権の回復、独立を   訴えていたはずだ。
また、自ら率先して   それを実行し、世界に範を示していただろう。
 
 
 

mario_porco_rosso の宿題

投稿者: maximirion 投稿日時: 2011/10/17 02:49 投稿番号: [37092 / 41162]
<maximirion>
【設問2】
敗戦で日本が台湾と朝鮮半島を放棄させられたとき、朝鮮民族は怒りを覚えなかった。
逆に台湾人は見捨てられたと心底怒った。
この違いがどこから来るのか?

Re: 『聖戦』であったのなら 訂正

投稿者: maximirion 投稿日時: 2011/10/17 02:44 投稿番号: [37091 / 41162]
×だから、日本がその責務を全うする前に敗戦して現地を植民地支配者によって追われた後も現地の住民が放棄して自ら排除独立への道を選んで、多くが結果を出したのだよ。
                       ↓
○だから、日本がその責務を全うする前に敗戦して現地を植民地支配者によって追われた後も現地の住民が蜂起して自ら排除独立への道を選んで、多くが結果を出したのだよ。


×逆に、日本人は負けたことによって、他力で守られる立場をとることで早期の復興を達成することを目論み成功するが、自存独立殻は程遠い立場に立たされてしまったといえる。
                       ↓
○逆に、日本人は負けたことによって、他力で守られる立場をとることで早期の復興を達成することを目論み成功するが、自存独立からは程遠い立場に立たされてしまったといえる。

Re: 『聖戦』であったのなら

投稿者: maximirion 投稿日時: 2011/10/17 02:33 投稿番号: [37090 / 41162]
<mario_porco_rosso>
「帝国主義」とは、乱暴に言えば武力で植民地を拡大するやり方です。
「植民地の解放」とは正反対の方向ですね。

当時の日本は「帝国主義」であったのか、なかったのか、どちらなのですか?


<maximirion>
それは、実態を考えないで後世から見たときの狭義の意味での「帝国主義」だな。
実態を踏まえて云えば、「帝国主義」とは武力による植民地拡大ではない。

殖民の意味を理解しているかどうかも疑わしいな。

帝国主義の植民地支配者を排除するには、当時の先進技術である帝国主義の技術を以ってするしかなかっただけの事だ。
だから、植民地支配者を排除した後の一定期間は植民地体制に準じた体制で統治と治安維持に責任を持って復興と教育に当たらねばならない。


<mario_porco_rosso>
当時の日本が「帝国」であったかどうかと、当時の日本の対外政策が「帝国主義」的であったかどうかとは、全く別の問題です(笑)


日本の外交政策は「帝国主義的」であったのか、なかったのか。

あなたの評価はまだ頂けていない、と理解します。むしろあなたは評価を避けている、とすら思えてしまうのですが。


maximirion
日本が、mario_porco_rosso の定義付けによる「帝国主義」であったことも「帝国主義的」であったこともない。

植民政策で、資源物資調達と自国の国益に寄与する協調関係を築かせようという施策から始めるという意味での「帝国主義」の手法をとっていたことを説明しておいた。
だが、己の定義付けの範疇でしかものを考えない mario_porco_rosso には、それが世間で語句一般的に捉える「帝国主義」手法だと気付かないらしい。

「殖民」の意味も「植民地政策」の定義も予想通り分かっていないのだろう。

Re: 『聖戦』であったのなら

投稿者: maximirion 投稿日時: 2011/10/17 02:33 投稿番号: [37089 / 41162]
<mario_porco_rosso>
もっとも、李氏朝鮮は清朝の冊封体制の下で幸せに暮らしていた独立国家であって、もともと植民地ではなかったわけですから、形ばかりの独立であれば、ちょうど満州国を設立したように、すぐにでも独立国家に戻すことはできたはずですよ?


maximirion
「北朝鮮はこの世の楽園」だといっていたのと変わらん認識だな。

李氏朝鮮で幸せに暮らせていたのは一握りの王族や貴族だけだ。
多くの民衆はその日を食うに精一杯で、衛生状態も劣悪な中、各土地で独特の風土病に多くの命が失われていた。
極端な身分制度もあって人口比ではかなりの割合が下層に属していたのだよ。
そんな彼らには氏姓の類はなかった。

そして、柵封国家といっても段階があるが、主権はない。
独立国家化といえば、そうではない。

柵封対象になる地域ということは、その土地の本来の領有権が柵封する側の朝廷に帰属するという前提からスタートしている。
王として封じられるても土地が与えられないという場合と、王に封じられて土地も与えられる場合とがある。
このときの土地の与奪とは所有ではなく領有を対象にした話だ。
一方で、土地を与えられても王に封じられずに任官を封じるという場合や冠位を封じられる場合もある。

朝鮮半島の柵封とは、王に封じて領土を与たものとされている。
それとは別に冠位や任官も封じてもらっていたのが歴史上多く見受けられる。
基本、独立国ではないのだよ。

朝貢国の場合は、独立を求めている国家間で臣下礼を示して朝貢することで軍事的な権原野利益の保障を得る同盟関係だ。
朝貢国と柵封国では全く立場が異なる。

Re: 『聖戦』であったのなら

投稿者: maximirion 投稿日時: 2011/10/17 02:33 投稿番号: [37088 / 41162]
<maximirion>
そもそも、日本が清国から戦勝の報酬として李氏朝鮮王朝の独立を勝ち取ったのはなぜなのかお勉強なさい。
それにもかかわらず、大韓帝国の併合が両国間政府の合意で為されたのは、当時の国王がロシアと内通して権益を売り渡していたからだ。

<mario_porco_rosso>
当然、併合によりその国王は廃位となりましたね。そもそも李氏朝鮮から韓国へと変わっているわけですから。


maximirion
李氏朝鮮の国王が大韓帝国の国王で、日清戦争の間ロシアに避難してロシア事大を画策しながら既に多くの利権を売り渡していたのだよ。
だが、日清戦争で独立認められたのに独立する気配もなく国王が国外逃亡したままなので暴動が起きていた。
仕方なく帰国した国王は独立を進めて国号も新しく改定して、大韓帝国となったのだよ。


<mario_porco_rosso>
「最終的には」などとあいまいなことは言わず、少なくとも例の「大東亜会議」開催の時点で独立させるか、そこまでいかずとも将来の独立を前提に韓国の代表者を参加させることもできたはずですね?


maximirion
先にも書いておいたが、併合前も併合後も中華事大主義とロシア事大主義の各派が暴動やテロ行為を起こしていたのだ。
そんな状態で独立などされたら、政情が不安定で仕方がない。

「大東亜会議」に出席しようものなら、暗殺の危機に晒される。
それに、独立の盟主となる朝鮮人がその辺から調達できるわけでもなかったのだよ。
将来の独立といっても何代か先かもしれないし次世代に独立を可能にする人材が台頭するかもしれない。
独立できる時期など朝鮮人時代だ。

勉学に励み、国際感覚と国際常識を踏まえた上で朝鮮民族の自主独立を導く指導者候補が何人も育ってこなければ国家経営などできないし、軍事的な実力を備える人物が出てこなければ軍事的な独立性も生まれない。

大韓帝国時代に、独立のための改革に失敗して国家破綻した挙句の日本事大に近い状態で併合調印だったことも知らんのかな。
だから、外交権を日本が代理する権利を国際承認してもらうことから始まって、国王が併合を受諾するに至ったのは国家経営を断念した故のことだ。

また、朝鮮に独立して協調する国家になってもらうには、ロシアに事大しようとする少数派の暴力革命主義による破壊と略奪を排除しておかねばならなかったということだ。

それと、併合であるが故に、朝鮮出身者が日本人として一定の国際的立場を得ていたことも知らんのかな。
李氏朝鮮時代から、朝鮮民族はロシア人からも漢民族からも見下されて酷く差別されていた。

ロシアが清朝から租借地を得て拡大させていく中、多くの朝鮮人がロシア人に狩られて連れ去られ、奴隷のように売られたり働かされていたのだよ。
だから、華北にはそうやって連れて行かれて終戦後も取り残されて代を重ねる朝鮮族が今でも存在し、朝鮮外を形成している。
※満州に現在もすむ朝鮮族は、日本人として入植して終戦後も住み着いている者達も多くいる。

一方で、日本と時代する中で独立を目指す者達は日本人としての権利を行使して勉学に励んで社会的立場を得る努力をして、多くのものが望んだのと近い立場に立った。

もう一方で、どこにも時代せずに自分達で独立を目指す者達もいたが、彼らも日本人の権利を利用して勉学に励んで敗戦後の独立国家建設に活躍したものも少なくない。


国家経営能力でいえば、満州人や白系ロシア人にも語族協和の中で満州に移住していた様々な民族の人たちの中にも人材がいたのだよ。
満州では、最初から主権独立国家としてスタートしているから、建国のインフラ建設と一定の経済状態を構築して植民地的色合いを消して租借地を変換し、日本企業や入植していた日本人も満州国の法と司法に従うよう法令によって申し渡している。

Re: 『聖戦』であったのなら

投稿者: maximirion 投稿日時: 2011/10/17 01:02 投稿番号: [37087 / 41162]
<mario_porco_rosso>
そして戦争を有利に進めるために、兵站は最も重要な戦略課題の一つですね。ところが日本軍はまともな兵站ができずに、数多の兵士を餓死させています。

戦争を「外交」の手段だというなら、日本は誠にお粗末な外交を展開したことになりますね。


読解できてないから、今さらのようにそんな返答をよこすのだろう。
外交が関係国の中でより拙かったと書いてあっただろう、節穴かい。(笑)

兵站が重要なのに、自国で兵站を賄えない状態で軍事行動をとらねばならない、欧米式の帝国主義の技術が矛盾を孕んでいると書いてあっただろう。

他国からの資源供給を前提にして兵站調達をしている状況で軍が国境を越える。
その目的が国民経済を豊かにして国力を強くするための資源と市場の調達にある。
兵站を豊富で確実に調達供給することが、兵力の強さだ。
兵站を豊富で確実に調達供給するには、国力が強くなくては適わない。

武力と外交力を駆使した殺戮及び搾取技術に先進して長けた国家が、圧倒的な優位さで他国を制圧し殖民してその国の国力を実効支配することで国力と兵站を好循環させて先進帝国主義国家は拡大していったのだよ。

だが、後発帝国主義国家はそうはならなかった。
短期に制圧して他国からの資源と生産供給を手中にしてこれを維持しなければ好循環を生み出せない。
矛盾の連鎖の如き帝国主の技術は、兵站形成する国力の強さが必要とする軍事力の強さを下回ると悪循環に陥り破綻する。

太平洋戦争に突入するときの直接の目的を読めば分かるが、太平洋戦争は既に悪循環に陥る閾値を下回っていたことに起因する。
だから、海軍が短期優位の戦局なら確保できるという言質にのって、緒戦の優位を拡大して一定の資源確保ラインを確保して短期講和に持ち込むという国家戦略を採択することで開戦に踏み切っている。

だが、所詮以来勝ち続けたことで軍部によくが生じて前線が伸びていく一方で兵站供給に必要な国力は疲弊し、国力を増大させる資源その他の調達は全く足りない状況が加速したのだ。
挙句に、兵站線が伸びたことで確実な供給もままならぬこととなって戦地では食料及び武器弾薬や増員など兵站全体で不足が深刻になる。

戦局どころか戦況も不利な状態が続いて抜き差しならない状況に反転して、気付いたときには講和のタイミングなどとうに逸していたのだね。

「日本軍はまともな兵站ができずに、数多の兵士を餓死させています。」
ではないのさ。
悪循環になる前に講和して国力のための資源調達先を確保するというハイリスクな賭けに出て失敗したのだよ。

それは、緒端の勝ちに溺れて引き時を見失ったから。
裏を返せば、緒戦の勝ちに乗じて真珠湾に上陸しておかなかった高い付けを後で払う羽目になったということ。
外交が拙かった当時の日本、維新数十年を経た時点の軍参謀に軍略や戦略に長けた武将は一握りしか存在しなかった。
そのうえ、その一握りは勝利している時期に最高司令官ではなかった。

攻めどころも、引き時も誤って迷走する中で悪循環を呼び込んで自滅していった。
だが、国民も将兵もそれを意識化では分かっていたが、できることを精一杯努力していつか終わる戦争の後の世に繋げようと命を捧げた。
捧げることができなかった者達が、国内で騒動を引き起こしたり戦地へ荒唐無稽な指令を発したりして自体をさらに悪化させていたのだよ。

Re: 『聖戦』であったのなら

投稿者: maximirion 投稿日時: 2011/10/17 01:01 投稿番号: [37086 / 41162]
<maximirion>
戦争は、外交の末の結果であり時には手段だ。

<mario_porco_rosso>
ただし、戦争そのものは結局「外交」の一部であるにすぎません。国家のコントロールのもとでの武力の行使です。

外交の結果、先の戦争に至ったというなら、それは国家が「戦争」という「外交手段」を選択したことに他なりません。


読解力がないことを証明する返答だな。

「外交の末の結果」が示すことは、外交交渉で解決できないと判断して武力行使での解決を図ったということだ。
「時には(外交の)手段」ということは、外交の一手段として武力行使で相手の意思を誘導するということだ。
何れも国家の外交選択であることは説明するまでもないことだ。

国家のコントロールかどうかなどという条件は付いていない。
国家や政府の属する軍の武力行使であれば、国家のコントロールが効いていなくても所属する国家にその責はある。

どこの政府にも国家にも属しない独立した軍組織との武力構想であれば、それは戦争とは看做されない。
私兵組織の武力蜂起と看做して何らかの政府あるいは国家との間で発生した事変の扱いになる。
無所属の独立した軍組織同士の武力衝突であれば、ただの武力闘争事件だ。

国家や政府所属の軍組織や治安組織に、無所属の軍組織側が殲滅あるいは武装解除させられれば、それは鎮圧という。
逆に、無所属の軍組織が武力衝突した相手を殲滅あるいは武装蜂起させれば、それは制圧という。

こういうものを通常は外交上の武力行使ではないから戦争とは呼ばない。
だが、独立した軍組織が政府を名乗り、これを承認する国家が存在するとき、名乗る側も承認する側も戦争と位置づける。


中華の二つの軍閥組織を政府承認した国家の思惑は、地域内紛でなく戦争扱いにすることで外交権を存在させようという意図によるものだ。
政府承認した勢力が勝てば、この政府の権利を追認して国歌承認することでその国との外国権を独占あるいは最優先で仕切ることができる。
その意味するところが分かっているのであれば、斯様な返答などできないものだ。

Re: 侵略戦争

投稿者: unhoo 投稿日時: 2011/10/17 00:23 投稿番号: [37085 / 41162]
>そこで追撃したから、戦線が拡大、泥沼化し、ついには対米開戦へと向かうことになったのですね。

レス:   米英が蒋介石に、われわれが支援するから日本の和平申し出を絶対に受け入れるなと申し渡した。米英の支援があったので蒋政権は戦争を継続できた。

また、第一次上海事変(1932年)では日本軍は支那軍を上海から追っ払っただけで、現地にに踏み止まったから、戦争の前と後とは同じ状態だった。

Re: 『聖戦』であったのなら

投稿者: mario_porco_rosso 投稿日時: 2011/10/17 00:08 投稿番号: [37084 / 41162]
>それにもかかわらず、大韓帝国の併合が両国間政府の合意で
>為されたのは、当時の国王がロシアと内通して権益を売り渡して
>いたからだ。

当然、併合によりその国王は廃位となりましたね。そもそも李氏朝鮮から韓国へと変わっているわけですから。

ならば、

>最終的には朝鮮自身の手で行政も治安も国防もできる体制になれば、
>再度の独立に帰すであろうことは
>当時の国家経営状況からすれば必然となっただろう。
>だが、戻せる状況にならないうちに日本は敗戦したんだよ。

「最終的には」などとあいまいなことは言わず、少なくとも例の「大東亜会議」開催の時点で独立させるか、そこまでいかずとも将来の独立を前提に韓国の代表者を参加させることもできたはずですね?

もっとも、李氏朝鮮は清朝の冊封体制の下で幸せに暮らしていた独立国家であって、もともと植民地ではなかったわけですから、形ばかりの独立であれば、ちょうど満州国を設立したように、すぐにでも独立国家に戻すことはできたはずですよ?


>字義矛盾などと机上の空論を下にほざいても
>現実には何も寄与しないということだ。

あなたの方こそ、意味のない空論を並べてばかりのように見えますが(苦笑)

当時の日本が「帝国」であったかどうかと、当時の日本の対外政策が「帝国主義」的であったかどうかとは、全く別の問題です(笑)


日本の外交政策は「帝国主義的」であったのか、なかったのか。

あなたの評価はまだ頂けていない、と理解します。むしろあなたは評価を避けている、とすら思えてしまうのですが。

Re: 中国儲備銀行>unhoo

投稿者: unhoo 投稿日時: 2011/10/16 23:59 投稿番号: [37083 / 41162]
> >汪精衛政府は政府として機能していたから

>仮に機能していたとすれば、それは日本軍の武力の後ろ盾があればこそ
でしょうね。

レス:   軍隊の後ろ盾のない政府はない。汪精衛政府は自分の軍隊で匪賊の活動を防止した。日本の軍隊があることで蒋介石の軍隊に「領土」を侵略されずにすんだ。政府として最も重要な機能、税金の徴収と、その金を使うことは実行していた。領土内での農業はおこなわれていた。

_______________________________


>紙幣発行のための裏づけとなる資本がないにもかかわらず、紙幣を発行したのです。だからインフレを引き起こしたのですね

レス:   儲備銀行券の裏づけは汪政府の税収である。インフレは1945年(日米戦で日本が敗北した年)年初からである。それまでは儲備券は安定していた。後に発生した法幣のインフレはもっとひどかった。

Re: 中国儲備銀行>unhoo

投稿者: mario_porco_rosso 投稿日時: 2011/10/16 23:56 投稿番号: [37082 / 41162]
>精衛政府に「紙幣発行のための裏づけとなる資本がない」と
>断定した根拠はあるのかね?

まず中国儲備銀行の儲備券発行額は、次の通りでした。

  1941年   7月(設立当初)     7600万円
       12月         2億4000万円
  1942年12月        34億8000万円
  1943年12月       191億5000万円
  1944年12月      1396億9000万円

  1945年   8月    2兆6923億円

上の数字は、駒澤大学・小林英夫教授の調査によるものです(明石書店『香港軍票と戦後補償』より引用)。

ちなみに、1945年度の大日本帝国の国家予算が2兆4500億円だそうです。

中国の一銀行に、日本の国家予算を超える額の紙幣を発行するだけの資本なり信用があったと、あなたは思われますか?


>同時に、「日本軍のために作った銀行」であることの証明にもならない。

そのあたりは、今年8月14日に放送された NHKスペシャルの「円の戦争」でかなり詳しく取り上げられていました。参考になりますので、再放送をご覧になるか、オンデマンドでご覧ください。

http://www.nhk.or.jp/special/onair/110814.html

Re: 『聖戦』であったのなら

投稿者: maximirion 投稿日時: 2011/10/16 23:49 投稿番号: [37081 / 41162]
<mario_porco_rosso>
>当時の日本政府が「西欧列強の植民地支配からの開放」と
>「民族及び人種間の国際差別の解消」を掲げて外交活動を展開し、
>掲げたまま戦争に至った

それが本当に当時の日本の政策であったなら、なぜ真っ先に併合した韓国を独立国に戻さなかったんですか?

また、武力で制圧した南洋諸島を「帝国領土ト決シ」た御前会議は、どう説明できるのですか?



そもそも、日本が清国から戦勝の報酬として李氏朝鮮王朝の独立を勝ち取ったのはなぜなのかお勉強なさい。
それにもかかわらず、大韓帝国の併合が両国間政府の合意で為されたのは、当時の国王がロシアと内通して権益を売り渡していたからだ。
併合以前も併合後も中華事大主義やロシア事大主義の反日テロ集団が破壊活動や暴力行動を繰り返していた。

自存独立を志した者達は、日本へ留学したり日本軍へ仕官して地位を高めて参謀本部付けを目指して実績も挙げている。
総督府付けの日本官僚や朝鮮の日本人官憲が自身の地位や立場の保身を優先したとしても、最終的には朝鮮自身の手で行政も治安も国防もできる体制になれば、再度の独立に帰すであろうことは当時の国家経営状況からすれば必然となっただろう。

日本語とハングルの普及を同時に勤めて施行していたのは、日本と共栄圏を形成する独立国になってほしかったからだ。
2、3世代経なければ実現しないことは、馬鹿か白痴でない限り分かることだ。
台湾への取り組みでも独立に向けての地道な施策や活動が為されていたのだよ。

戦後、韓国や北朝鮮で速やかに軍事政権が成り立ったのは、日本による教育でハングルが普及し、識字率が併合前と比べて格段に挙がっていたからだ。

だが、戻せる状況にならないうちに日本は敗戦したんだよ。
違うと云うなら、どのタイミングで戻してやれたと考えるのか、具体的に示しなさい。

敗戦で日本が台湾と朝鮮半島を放棄させられたとき、朝鮮民族は怒りを覚えなかった。
逆に台湾人は見捨てられたと心底怒った。
この違いがどこから来るのか、先ずはお勉強なさいな。


<mario_porco_rosso>
「帝国主義」とは、乱暴に言えば武力で植民地を拡大するやり方です。
「植民地の解放」とは正反対の方向ですね。


それは、実態を考えないで後世から見たときの狭義の意味での「帝国主義」だな。
実態を踏まえて云えば、「帝国主義」とは武力による植民地拡大ではない。

殖民の意味を理解しているかどうかも疑わしいな。

当時の日本は、自ら「帝国」と冠している。
それは東アジアの慣習に倣って国号の後に帝国を付けて、国際的な独立主権国家であることを示すためだ。

大国勢力の植民地である地域から植民地支配を排除した後に、その地域の状況を鑑みればその後も引き続きその地域の治安と防衛と自存自衛に至る道に意責任を負わねば、無責任極まりないことになるばかりか大日本帝国建国の志も放棄したことになる。

帝国主義の植民地支配者を排除するには、当時の先進技術である帝国主義の技術を以ってするしかなかっただけの事だ。
だから、植民地支配者を排除した後の一定期間は植民地体制に準じた体制で統治と治安維持に責任を持って復興と教育に当たらねばならない。

字義矛盾などと机上の空論を下にほざいても現実には何も寄与しないということだ。
字義が矛盾したように思おうが、実態が矛盾しなければ結果はでるのさ。
だから、日本がその責務を全うする前に敗戦して現地を植民地支配者によって追われた後も現地の住民が放棄して自ら排除独立への道を選んで、多くが結果を出したのだよ。

日本が負けたことで、植民地支配者からの守護者も擁護者も失くしたと感じた彼らは、自力で自らを守ることに目覚めて独立を得るに至る。
逆に、日本人は負けたことによって、他力で守られる立場をとることで早期の復興を達成することを目論み成功するが、自存独立殻は程遠い立場に立たされてしまったといえる。

字義がどうのと机上でほざいてる暇があったら、歴史の事実が示す現実を理解することだ。
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