Re: 『聖戦』であったのなら
投稿者: maximirion 投稿日時: 2011/10/16 22:13 投稿番号: [37075 / 41162]
<mario_porco_rosso>
つまり、当時の日本政府が掲げた「植民地解放」は、しょせん後付けの理由であった、ということですね?(苦笑)
言葉を知らんやつだな。(笑)
「後付けの理由」というのは、mario_porco_rosso や wadatumi_voice21 が口にするようなものを云うのだよ。
当時の日本政府が「西欧列強の植民地支配からの開放」と「民族及び人種間の国際差別の解消」を掲げて外交活動を展開し、掲げたまま戦争に至った。
その事実からすれば、これは外交や戦争に於いて予め掲げた「大義名分」であって、”後付け”などではない。
その大義名分を揚げて外交を展開し戦争に至った背景にあるのは、自国が植民地化されないために近隣及び周辺アジア諸国の開放独立が不可欠であることと、これらの国が日本意に沿った強調をして欧米列強の帝国主義に対抗することを必要したからだ。
そのためには、先ず近隣アジア諸国にとって共通の脅威であるロシアの南下拡大を防いで見せる必要があったのだよ。
だから、掲げた「大義名分」にあるのは目標であって目的ではない。
目的は、維新以前から終始一貫して「欧米列強からの侵略に対抗できる国際的地位を獲得して自存する富国強兵国家になり、これを維持し続けること。」にあったのだよ。
だから、支那地域への軍派遣駐屯は常に対ロシアへの関心と注意からのものだ。
国家の防衛線をどこへ設定するのかは、国境の所在地に沿ってというものでないのはどの国も同じだ。
脅威と目する相手の侵攻や拡大がどこまで及ぶと直接の被害が及ぶ危機の存在となるのかを想定してきめるのだよ。
清国と李氏朝鮮がその点でしっかりしているのであれば、日本があれほど勇んで半島や大陸へ派兵駐屯に熱心にならなかったであろう。
日本が、アジアに新に求めたものは支配ではない。
交易によって不足しがちな資源と耕す耕地や食料を調達できる経済軍事両面での協力国を必要としたのだ。
だが、実際には国家主権を持つ近隣国家はロシアを除いてないに等しく、アジア周辺を見渡してもタイ国以外には見当たらないのが現実であったのだね。
当時の日本の状態と云うのは、他国を侵略拡大する技術力と民衆支配に長けた政治体制で先進する欧米諸国のノウハウを学び習得し初めて、これから熟成しようと云う状態であったのだ。
その一方で、侵略と被侵略国への殖民による簒奪を前提とする欧米の先端技術を導入して対抗せざる得なかったことで、他国からの資源及び食料供給に依存した富国強兵を余儀なくされる状況になっていたのだよ。
軍事で他国からの供給を獲得する帝国主義の先進技術は、国力そのものが国家防衛を支える軍事力の兵站であったのだよ。
この兵站を調達するために軍事力をより強化して、これを背景に外交力を高めて自国への有利な供給を約束させるという、矛盾を孕んだ手段が平和理な手段とされていたのさ。
この矛盾を自覚した上で立ちまわるのが外交上手であって、その意味では日本は支那人には及ばなかったし、欧米人にも勝てていなかった。
だから、何度も道を違えた挙句に道に迷って支那地域で漢人が起こす内向きの覇権争いに利用されて、大陸を転戦する羽目に陥っただけではなく、ロシアの南下を抑止する役目を一身に背負わされたのだよ。
南京自体が、漢人のテロ集団が立ち揚げた一軍閥政府の占拠によって宣言され、一部の外国が承認する暫定国家の首都でしかなかった。
その程度の国家は、当時の実態として品の各地に点在した。
これらの多数を自身の影響下に置くことで名目上の領土を拡大していったのが南京政府であるが、統治の実態がなく地域内での盟主としてもその地位も立場も確立できてはいなかった。
なぜ、この南京政府と日本との間で紛争状態が起きて軍事衝突に発展し、南京陥落=重慶遷都という自体に至ったのかということが、南京陥落に関してもっとも重要なのだよ。
つまり、当時の日本政府が掲げた「植民地解放」は、しょせん後付けの理由であった、ということですね?(苦笑)
言葉を知らんやつだな。(笑)
「後付けの理由」というのは、mario_porco_rosso や wadatumi_voice21 が口にするようなものを云うのだよ。
当時の日本政府が「西欧列強の植民地支配からの開放」と「民族及び人種間の国際差別の解消」を掲げて外交活動を展開し、掲げたまま戦争に至った。
その事実からすれば、これは外交や戦争に於いて予め掲げた「大義名分」であって、”後付け”などではない。
その大義名分を揚げて外交を展開し戦争に至った背景にあるのは、自国が植民地化されないために近隣及び周辺アジア諸国の開放独立が不可欠であることと、これらの国が日本意に沿った強調をして欧米列強の帝国主義に対抗することを必要したからだ。
そのためには、先ず近隣アジア諸国にとって共通の脅威であるロシアの南下拡大を防いで見せる必要があったのだよ。
だから、掲げた「大義名分」にあるのは目標であって目的ではない。
目的は、維新以前から終始一貫して「欧米列強からの侵略に対抗できる国際的地位を獲得して自存する富国強兵国家になり、これを維持し続けること。」にあったのだよ。
だから、支那地域への軍派遣駐屯は常に対ロシアへの関心と注意からのものだ。
国家の防衛線をどこへ設定するのかは、国境の所在地に沿ってというものでないのはどの国も同じだ。
脅威と目する相手の侵攻や拡大がどこまで及ぶと直接の被害が及ぶ危機の存在となるのかを想定してきめるのだよ。
清国と李氏朝鮮がその点でしっかりしているのであれば、日本があれほど勇んで半島や大陸へ派兵駐屯に熱心にならなかったであろう。
日本が、アジアに新に求めたものは支配ではない。
交易によって不足しがちな資源と耕す耕地や食料を調達できる経済軍事両面での協力国を必要としたのだ。
だが、実際には国家主権を持つ近隣国家はロシアを除いてないに等しく、アジア周辺を見渡してもタイ国以外には見当たらないのが現実であったのだね。
当時の日本の状態と云うのは、他国を侵略拡大する技術力と民衆支配に長けた政治体制で先進する欧米諸国のノウハウを学び習得し初めて、これから熟成しようと云う状態であったのだ。
その一方で、侵略と被侵略国への殖民による簒奪を前提とする欧米の先端技術を導入して対抗せざる得なかったことで、他国からの資源及び食料供給に依存した富国強兵を余儀なくされる状況になっていたのだよ。
軍事で他国からの供給を獲得する帝国主義の先進技術は、国力そのものが国家防衛を支える軍事力の兵站であったのだよ。
この兵站を調達するために軍事力をより強化して、これを背景に外交力を高めて自国への有利な供給を約束させるという、矛盾を孕んだ手段が平和理な手段とされていたのさ。
この矛盾を自覚した上で立ちまわるのが外交上手であって、その意味では日本は支那人には及ばなかったし、欧米人にも勝てていなかった。
だから、何度も道を違えた挙句に道に迷って支那地域で漢人が起こす内向きの覇権争いに利用されて、大陸を転戦する羽目に陥っただけではなく、ロシアの南下を抑止する役目を一身に背負わされたのだよ。
南京自体が、漢人のテロ集団が立ち揚げた一軍閥政府の占拠によって宣言され、一部の外国が承認する暫定国家の首都でしかなかった。
その程度の国家は、当時の実態として品の各地に点在した。
これらの多数を自身の影響下に置くことで名目上の領土を拡大していったのが南京政府であるが、統治の実態がなく地域内での盟主としてもその地位も立場も確立できてはいなかった。
なぜ、この南京政府と日本との間で紛争状態が起きて軍事衝突に発展し、南京陥落=重慶遷都という自体に至ったのかということが、南京陥落に関してもっとも重要なのだよ。
これは メッセージ 37066 (mario_porco_rosso さん)への返信です.