美しい国日本
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Re: 美しい国日本 あげ
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/10/12 18:48 投稿番号: [365 / 402]
あげ
これは メッセージ 1 (hendazo04 さん)への返信です.
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朝鮮通信使29
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/10/10 06:59 投稿番号: [364 / 402]
「対馬藩が通信使来聘のたびに沿道の各地からの贈与品で裕福となるとの記述は、莫大な支出を余儀なくされる通信使来聘は、拝借金にもみられるように、とても裕福になるようなことではなく、間違った見方である」引用本
著者も、さすがに朝鮮人のヒガ目に呆れているようだ。
『聞見録』総論
「筑前州は火井があって日が照ると煙と焔が天に立ち上り、水が沸いてあふれて凝結して硫黄になる。薩摩州は琉球国に近く、風俗が荒々しく兵力が甚だ強く、蛇のごとく毒々しく死を恐れぬ者たちであるので、日本人は薩摩人の三字をきけばみな恐れた。
摂津州には繁華な大阪がある。北に山城州、南に播磨州、東は海で一国の中央に位置し、四方の物貨が幅湊し、利益を狙う輩が座して諸侯なみの富を享有している。繁華で富盛なことは諸島の中で第一である。このため秀吉がここを都邑として国中に号令した。
家康が関白になると、東方の反乱を憂慮して江戸に都邑を移し、摂津州の三分の二を天領として町奉行を置き、城には大阪城代を置いて守護させた。年ごとに徴収する金と絹が倉庫に満ちた。」
兵
「弓矢はわが国の弓に似ており、矢も短小で強くない。大砲・小銃・火縄銃の諸具は見るからに精鋭である。
みな刀の一振りや二振りは身に帯びており、私闘であっても一歩退いた者は主君や郷里から捨て去られ、子供とともに餓死することになる。この習性が強力な軍事力の基となる。」
兵船の制度は、
「平生の荷船が荷をおろして戦場に赴けばみな兵船となる。日本人は操船の技術に優れ、櫓数は多くとも、一人の手で漕ぐように揃い、飛ぶように進んでいく。わが国の船夫とは比較にならない。」
刑罰
「重罪は斬首、自刃、配流または鉄片で頭を焼き入れ墨、軽罪は弓矢を納めて贖罪する。人を切っても殺人罪はなく、よく人を殺すことを気節ある者とし、斬罪者が出ると先を争って試し切りをし、子供たちにも見物させて習わせようとする。盗みをする者あれば村中の者が総出で殺すので、国内には無頼漢や盗賊の心配はない。」
食事
「囲炉裏で作り、飯は漆塗りの器で食べ残すことなく二、三合食べる。刺身はたいへん大きく、汁物は少し食べられるが、醤油は甘く臭いので気分が悪くなる。飯は赤米で炊くが、撫子のような形をしていて食べられない。」
物産
「陸奥から金、石見・佐渡・但馬から銀、播磨・備中から銅、豊前・豊後から鉄を産出する。
良馬は甲斐、黒牛は長門、硯は赤間関、紙は美濃、壱岐からは麻織物、加賀から絹織物、錦は摂津のものが一番であり、真綿は筑前が有名である。
長槍や刀は備前と尾張名古屋・大和奈良が第一である。
米は筑前・河内が多く産出し、良酒は三原、博多から、海産物は数えきれない。
果物の類はなんでも甘く滑らかである。
日本で産出しないものは虎・豹・鷹・鶯・かささぎ、などと、松の実・胡椒・蜂蜜も産さない。」
人民
「兵・農・工・商・僧の五階級あるが、兵民が最も平安で衣食も余裕があり、商民は富裕だが税法が重く、工民はすべての技術に巧みであるが収入が少なく、もっとも苦しいのは農民である。苦労した収穫物はみな徴収され芋粥で命をつないでいる。平和で戦争の苦しみはないが、生活の苦しさから逃れられない。」
医者
「前人の日記には、医術・ハリ法・売卜など具備されざるはなしとあるが、今回見聞きしたところでは若干はそのような者もいたが、みな医術も知らず、占いも論ずるに足るものはない。朝鮮の人参がすべての病に薬効があると信じている。」
人品
「軽率で悪毒。礼法が厳しく高位の前では恭しく、少しでも失策があれば死に至る。他人の言を軽く信じ、喜怒の情が急であり、骨肉の者も愛さず、父子の間の賃借も厳しい。
女子は容貌が優れ明るいが天性が淫蕩である。 近親の間でも姦通してなんら恥じることもなく、婚礼の礼説もなく恥を知らぬ国である。」
文学
「国に科挙制度がなく、聡明で才能があっても、立身出世の道はない。文学と律詩で傑出した者は新井白石と伊東仁斎くらいに過ぎぬ。」
紀律
「音律と度量衡は整然としている。畑はきちっと開墾され、一畝も曲がることなく、村には糞とか汚物も見あたらない。これらの規律の元をなしたのは、徐福が日本に渡り、商君の法を行って富国強兵の元を作ったのであろう。」
「日本は海で囲まれ、他国から侵入の憂いがない。蛇・虎・豹がおらず、腫瘍や咳嗽の病もなく、肥沃の平野が千里も広がり、男子は耕作し、女子は一年に三度蚕を飼う。山海の水産物、鉱物を採って金銀が土くれのように積まれ、楽土・楽園といえる」終わり。
つづく
これは メッセージ 1 (hendazo04 さん)への返信です.
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Re: 美しい国日本 あげ
投稿者: ioiorururu910 投稿日時: 2009/10/09 08:46 投稿番号: [363 / 402]
上げておきます
これは メッセージ 362 (hendazo04 さん)への返信です.
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Re: 美しい国日本 あげ
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/10/07 06:06 投稿番号: [362 / 402]
あげ
これは メッセージ 1 (hendazo04 さん)への返信です.
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朝鮮通信使 28
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/10/03 09:01 投稿番号: [361 / 402]
秀吉の時代の倭寇は今の特ア人が組織したものがほとんどであったが、日本にとっても海賊は迷惑な存在だし、したがって日本の都合で倭寇の息の根を止めたのだが、それによって中韓が莫大な恩恵を受けたこともまた事実なのだ。日本人が言う『お陰さま』で、感謝の対象になる。
そもそもいつの世も民族間に真の友好関係などというものは存在しない。60余年前までは、隙あれば他国の領土を侵略略奪し、または民族全体を奴隷状態に陥としいれても不審に思われない時代だったのだ。恐しや、そういうせめぎ合いが人類発祥以来、日本が西欧植民地主義国に立ち向かった第二次世界大戦の終結まで続いていたのだ。
日本にすれば、当時の情勢から仕方なく朝鮮併合を引き受けてしまったといえるし、米欧も東亜安定のためそれを願った。韓国側の抵抗は当然あったが、それはゲリラ戦を展開するというレベルまではいかなく、ごく散発的なテロで終わっている。
しかし併合の結果として30年後、新たな世界秩序の礎となった大東亜戦争に朝鮮人も参加することになった。暴虐きわまる白人の世界支配を終了させた東洋の小国日本の偉業に、実は朝鮮人も関わって功があったといえるのだ。千載一遇、現在の彼らが渇してやまない「民族の誇り」の時代を、しかし彼らは「日帝強占」と否定して見せる。いつでもどこでもピントが外れている。
次は対馬。
対馬島はわが日本の国作り神話でいう、イザナギとイザナミが産み落とした大八州の一つであり、日本民族発祥以来の故地である。
ウォン高のとき、常識はずれな韓国人観光客が島内を跋扈し、それは民度の差と大目に見るとしても、‘対馬の経済はわが国が支えている‘と、舞い上がったあげく、対馬島は朝鮮の領土だった、日本に奪われたと吹聴しはじめ、韓国の国花とされるムクゲを公園など島内のあちこちに植樹した。
呼応して韓国の与野党国会議員50人による、‘日本の対馬も韓国の領土だ‘とする「対馬返還要求決議案」が昨夏[08年]発議された。(上程されたかどうかは寡聞にして不明)
ああ、なんでもありの朝鮮民族。
思い起こせば十数年前、ホノルルの英語学校やゴルフ場には韓国人留学生があふれていた、が、アジア通貨危機に入ってすぐに姿が消えた。全く煙のように消えてしまったのだ。彼らの怪気炎はひっきょうフトコロ次第なのだ。金を待たなければ持つ者をひがんで恨み悪さをし、持てば持たない者をさげすみ侮辱し暴力的に扱う。
閑話休題。
「島内には産物もなく他州のように豊かでないが、信使を護衛して江戸を一度往復すれば、幕府の援助の上に沿道各地の贈与品が入り、かなり富裕になるようだ。」
「島内は瘦地ばかりで米を産する地はなく、わが国が毎年届ける下賜米と人参の購入によって島民は暮らしを支えている。」
この文には説明が必要だ。
倭寇の元祖は対馬島や九州北岸に居住する島嶼人が主体だった。その跳躍を控えてもらうために領米を捧げ対馬藩による半島=シナとの独占貿易を朝鮮王国は認めざるを得なかったのだ。倭寇の被害はシナ・朝鮮にとってそれほど甚大なものだった。そして倭寇とは、元寇や応永の外寇で高麗兵に無残な略奪・凌辱の目に遭った者たちが中核となり、因果応報であろうか、結果的に朝鮮への報復組織として発達したものだ。
したがって『下賜米』といっても毟り取られるようなもので、恐喝されたのに恵んでやったとうそぶくような悲しい見栄にすぎない。
「人参は対馬で一斤の値が江戸では千金にもなるが、最近では密貿易や清国商人の進出もあって対馬が独占できず利益がなくし、以前とは様子が変わっている。
対馬人は口を開けば島内の貧しさと疲弊をいい、江戸道中も信使と沿道の各藩の間に立って巧みに欺いて金を得ていた。
またわが国の倭館にいる対馬人も朝鮮人の人情につけこみ、賄賂を贈って朝廷の消息をぬすみ、役人を脅迫して禁制を犯し、罪を役人に科す振る舞いがある。このような功悪な状態は朝廷が善処して後の防備としなければならない。」
『朝鮮人の人情につけこみ』
『朝鮮人の人情につけこみ』・・・??
むむ、キッカイなり。自己評価というものはこれほど自在なものなのか。
とまれ、ものを解釈する視線はひとえに見る人間の価値観にかかわるが、対馬人を語る朝鮮人の疑心には、人の性を善とみる日本人にはうかがい知れないホルホル回路があるようだ。このような民族とどう関わりあうかというと、小鳥鳴き花咲く丘に住んでいる者たちが、臭気が漂う薄暗い袋小路に踏み入ることはないと、つい思ってしまう。
つづく
追伸・このときの通信使は対馬でさつま芋の栽培を知り、種芋をもらいうけ半島での栽培に成功している。
これは メッセージ 1 (hendazo04 さん)への返信です.
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Re: 美しい国日本 あげ
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/09/27 04:31 投稿番号: [360 / 402]
あげ
これは メッセージ 1 (hendazo04 さん)への返信です.
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朝鮮通信使27
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/09/25 06:45 投稿番号: [359 / 402]
一行は釜山で暫時休憩したのち、夏の終わりの8月30日に漢城に到着した。
彼らの旅は昨年11月の末に漢城を出発してから、半島内も含め丸九ヶ月にも及んだ。オレも一週間に一回、文字制限の1800内外のペースで「日本見聞録に見る朝鮮通信使
西村毬子著」を紹介してきたが、始まったのはいつだったろう。ハードカバー4百余ページのこの本も残り数枚になった。人情であろう、彼らの行動につぶさに付き合ってみると情もわいてくる。何人かの死者を出した災禍はあったが、まあ、任務を全うできて帰還でき、よかったなと自然に感じてしまうのだ。
さて、三使は朝廷に上がり英祖に復命する。要約は、
1−江戸については、江戸城は城壁や濠をめぐらし堅固であり、市街地は規制によって整然とし、殷賑さは中国に過ぎること。
2−軍事については、『軍法を以て立国』であり、法令が厳然として行き渡っており、諸侯が参府中で自領を留守にしていても統治がなされていること。
3−文化については、民衆は詩文などを尊ばず、僧徒のみが文字を解して使臣(通信使)との提唱を望むこと。
4−通信使に関しては、信使の渡来を幕府は諸侯に『朝鮮入貢』として知らせていること。いままでの使行はこれを知りながら紛争を恐れて知らぬ態度をとっていたこと。(近世日朝関係史の研究)三宅英利著
更に観察の詳細を従事官が『聞見総録』として、倭京、江戸、対馬島、総論に分けて記述している。
「一、倭京
倭京すなわち西京のことで京都を指す。山河の堅固な要塞はないが、壮麗で宏大で帝王の都邑に相応しい。関白が国権を握って以来、倭皇は年号制定と官職任命の権限しかない。
巷間に豪傑の士はあるが、官職が世襲なので用いられることがなく、軍を起こそうとしても叶えられない。しかし、国中の大名が関白に腹をたて立ち上がれば、国内の変はないとは限らない。
倭京の大仏寺に朝鮮人耳塚がある。秀吉の朝鮮侵略のおり、耳と鼻を切って埋め仏寺を建てたところである。享保度のとき、この寺での関白の饗応を謝絶したが、御行した対馬藩士が秘史を見せて、寺の建立は秀吉ではなく家光であるとしたので饗応を受けたが、『三才図』を見ると明らかに秀吉の建立であり、対馬藩士に偽られたのである。しかしこのたびは対馬藩が面倒な争いを避けるため、講定説目に大仏寺饗応のことを削除したのは幸いなことであった。
一、 江戸
南方は大海に臨みまわりは山に囲まれ防備がよい。江戸城の構造は、家康が城濠を改築して三重に作り、東西南北に各々千余町があり一町は百戸である。
第一城内には家臣が住み、第二第三城内には市民が暮らしている。
大きな州と都会地は関白の親族や私人を派遣して大名とし、肥沃な地は天領としている。
海水を煮て塩を作り、山を掘って金を作り公私ともに裕福であり、国内は平和で戦争を知らない。
国政は執政に委任し、執政は家老に、各州の大名も政を奉行に委任して各自が奢侈華麗な暮らしをし、礼節が乱れている。
前関白吉宗は精悍で度量・才能に恵まれ勇気があり、猟を好み、天性倹約化で木綿の衣服を着用し、質実な政務をおこない、みなから信頼された。三人の息子があり、長男が現関白であるが、その任に耐えないとして次男に譲ろうとした。しかし家重の息子家治が生まれ、彼が聡明であるのを愛で、家治が少しでも早く関白につけるよう自分は隠退して家重に譲った。人々は家重の代は10年内であろうといっている。
納税は、関西では金で納め、関東では穀物で納める。田地は四公六民である。
関白が就位しても、倭皇にはただ黄金と絹10駄を送って礼物とし、毎月若干の貢物を献上して安否を尋ねるだけである。
吉宗のときから倉庫は充溢しており、今回の使行のために使用した公私の回礼銀は、みな江戸の倉庫から搬出され、いかに銀貨が充満しているかが知れる。
また、ある日本人が賊秀吉について『豊臣の朝鮮侵略は朝鮮に怨恨をもたらしたが、もし豊臣が日本統一をしなければ沿海諸島の日本人の倭寇は収まらなかったろう。豊臣は莫大な恩恵を与えたのだ』という。日本人がこのような言辞をなすのは奇異とするほどのことではない」引用本
いまのところ、なかなかの洞察と言えるだろう。無駄な9ヶ月間ではなかったようだが、秀吉の『倭寇退治』の日本人の言い分には首肯できないようだ。
つづく
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朝鮮通信使26
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/09/19 08:27 投稿番号: [358 / 402]
七月二十三日
晴
「夜明けに順風の報せを受け、直ちに先行の使者が旅立った。
上々官三人が対馬守の屋敷を訪れ最後の別れのあいさつをする。」
七月二十四日
晴
南風のち西風また北風
「早朝に乗船した。しばらくは順風にのって進んだが、風向きが変わり少しも前進できず、少し戻って芦浦港にはいる。早朝に出発していたら西泊浦まで行けたのにと残念がっているが、西泊浦は対馬島の東南端であり、現在地の芦浦は府中との中間に位置する。少しでも故国に近づきたかったのだろう、船中泊となった。」引用本
緊急避難で入った港では上陸しても一行を世話する設備がない。波枕で長い船中泊となる。予定では府中―西泊浦―釜山と、帰国まで一泊二日の行程であったが、玄界灘の魔女は底意地が悪い。
七月二十五日
晴夜雨
「天気は良いが、遅くなって風が強まり雨も降って出港できず、船を港内の奥に入れて繋船した。昨日は西泊浦まで進めなかったことを悔やんでいたが、いま考えると、西泊浦から今日釜山に向け出港していたら外洋でこの悪天候に遭い、どうなっていたかわからない。芦浦に引き返して幸いだったと述懐し、先行させた使者の事を心配している。」引用本
七月二十六日
晴
「一日中東風が吹き、対馬の漁夫がこの風が吹き出すと一カ月は止まないという。江戸からずっと順調に来て、特に陸路は一日も停滞することもなく十六日で大阪まで行き、海路も十二日で対馬島の府中に着き、神の御加護があったのだと対馬の人はいう。往路は三カ月以上かかっていることからみると、快適の旅であった。」「
」内は引用本
七月二七日
晴
「風が少し収まったので、ばらばらに停泊していた船を正使船の近くに寄せた。下々の者が上陸し、岸近くに幕をはって昼間の休息所を拵えた。厨房も岸近くに移し、海中に潜って海鼠や鮑をとってたべた。」
七月二十八日
晴
「みな上陸して島を散策した。桃がたわわに実っており、もぎ取って食べたり、樵に逢って斧・鎌を故国のものと比べたりして憂さを晴らした。岸辺では副使・従事官・書記などが集まって詩の唱酬したり、漁網で小魚をとって刺身にして食べたり、また別の一団は小舟に楽器を積んであたりを漕ぎ廻ったりして一時を楽しんだ。
晴れてはいるが、順風が吹かずなかなか出港できない。」
(略)八月八日
晴
「今日は船が出せるかと信使らは望みを抱いていたが、護行の日本人が、八月の初申と初酉の二日は経験上海が大荒れとなるので、明日と明後日は出船できないという。(地元の人の言う通り)午後から港外は大変な荒れ模様となる。」
(略)八月十一日
晴
東南風夕方西風
結局この日まで十六日間、かれらは芦浦港内の船中で暮らすことになった。
大声で叫べば届くような距離まできて、総勢数百人、全く無為に日を重ねることになった。都市伝説かもしれないが、刑務所からの脱走者は出所が近付いた受刑者に多いという。渇するものが手に入る距離に近づいたとき、それが現実感となって辛抱できなくなるという心理分析だが、信使一行の焦燥イライラは察して余りあるものがある。
しかし日本では『待てば海路の日和かな』という人生訓がある。彼らにも当てはまらないわけがない。
「やっと東風が収まり、陽が昇ってから六船が一斉に出港した。だが風が弱く帆走できず曳き船で引っ張って進んだ。数十日も東風が吹いた後なので波濤も荒々しい。巳の刻(午前一〇時)に初めて帆をかけて進み、夜がふけるころ(対馬島東北端の)西泊浦に入港し、そのまま船中で泊まった。」
8月12日
晴
北風後東北風
「風向きが変わりいよいよ出港となる。対馬海峡を横切ればそこは朝鮮半島だ。対馬の護衛船が太鼓を叩くと、諸船が次々と港外に出る。岩礁をさけるための航路のとり方で少しもめたが、現在地の西泊浦から真っすぐの航路をとり、岩礁の間を抜けて帆走する。潮合いも風もよく船足は快調である。
そして対馬の島影が遠退き、朝鮮の山々が見えてきた。鯨2頭が巨体を揺るがし潮を吹いて通りすぎる。
釜山から5Kmあたりで朝鮮の曳き船4−5艘が出迎えた。日暮れ時になるとさらに曳き船10艘が合流した。ここで彼らから、七月二十三日先行した軍官たちの船が二十五日大海で風雨に遭い、沈没寸前のところを切り抜け、二十八日釜山に着いたと聞き安堵した。
太鼓を叩き、笛を吹いて港内に入っていくと、沿岸の村では火を掲げ、波止場に入ると信使の親族の歓声が沸き上がり、懐かしさでいっぱいになる。
着岸し、みな無事の帰国を祝し、釜山館に入ったのは夜も更けた三更(午前〇時)であった。」
おつかれさまですた。
つづく。
これは メッセージ 1 (hendazo04 さん)への返信です.
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Re: 美しい国日本 age
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/09/17 15:27 投稿番号: [357 / 402]
あげ
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ああ、モンテンルパの夜は更けて♪
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/09/13 10:53 投稿番号: [356 / 402]
薬師丸ひろ子が、まん丸い顔にアイラインを強く引いてオバン雰囲気たっぷりで頑張っていたな。最後に彼女自身の声で歌うが、美声だった。
渡辺はま子さんなんて聞いたことあるかないかの名前で、モンテンルパなる地名も夕べ初めて聞いた。
あんな話があったんだ。知らなかった。世の中にはえらい人がいるもんだ。
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朝鮮通信使25
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/09/11 05:48 投稿番号: [355 / 402]
七月十二日
晴
西風
卯ノ刻(午前六時)、(広島県)蒲刈に着船。往路でも天候が悪く三日留まったところだ。対馬藩より、船夫たちが徹夜で疲れているので満潮を待って出船すると通告があった。
結局日暮れ時に出発したが潮合が悪くなり子ノ刻(午後十一時)安芸の蔵橋島で風除けして繋船。
船中泊
七月十三日
晴
西南風
やはり午前六時に出発して午後五時(山口県)上関に着船。夜更けに副使船の厨房から出火。幸い発見が早く何とか消し止められた。
グーグルアースでみるとよくわかるが、瀬戸内海は大小の島々が群れていて、特に広島から山口にかけてはそれらが航路をふさぐように蝟集している。船舶は今も隘路を縫うように慎重に操舵しなければならない。
周防上関船中泊
七月一四日
晴
東南東
往路で預けた船具を積んで、そのため巳ノ刻(午前10時)に出帆。午後十時ごろ西日浦に停泊。
周防西日浦船中泊
七月十五日
晴
東風
夜明けに出発、午後2時ごろ赤間関(現下関)に着き上陸する。
明日は往路も遭難しかかった難所関門海峡を通る。このあたりをグーグルアースで見ると、瀬戸内海と玄界灘をつなぐ海路は大きく広げたV字型をしているのがわかる。本州南端の先っぽが九州島の陸塊に食い込み、それから少し抜き出したときできたような隙間が海峡となっている。もともと一体の本州と九州の地峡が海面上昇でそうなったものであろうか。為にこの海峡は、特に干満の時は流れを変え複雑に蛇行する。これは壇の浦の戦いで日本人の知るところである。
地中海の奥にあるスエズ航路は狭い紅海を航行して外洋を望むが、でなければアフリカ大陸を沿岸周航しなければならない。同じく関門海峡がなければ船舶は日本海に抜けるのに九州島を廻り込まなくてはならない。両地域の地峡はよく似た意味合いを持つ。
長門赤間関泊
七月十六日
晴
東南風
「湯麺の呈上があってそれを食べてから出船した。(ちょうどV字の底に当たる)小倉を過ぎるころから海が荒れ、転覆するかと思われるほどで、みな青い顔をして嘔吐して臥していた。巳の刻(午後二時)に藍島に着き、小舟に移り上陸して客館に入った。」引用本
筑前藍島泊
七月十七日
晴
東風
「未明に乗船した。小舟で見物に来た者が大勢おり、遠方の村人か、舟の中で飯を炊いて食べている者もいる。
風が吹き荒れ白涛が激しく押し寄せ恐ろしい有様だったが、午後二時ごろ無事壱岐島に着いた。
壱岐島勝本泊
七月十八日
晴
東風
「夜明けに、対馬守の舟人からまもなく順風の東南風が吹くとの報せがあり、信使らは出発の太鼓にあわてて乗船した。しかし港外に出ると(こんどは)風が弱くて帆走できず、曳き船に引っ張られて進んだが、(無風でも)波が荒く船は不安定に揺れ動く。外洋に出れば波風が激しく、ひとつ間違えばどこに漂流するかわからないとみな恐れていたが、陽が暮れるころになると無風状態となり、船は進まない。すでに舟手も力尽きてしまい、眼前に対馬島があるのになすすべもなく浮かんでいるだけである。
しかし、夜も更けてくるとにわかに東風が起こり、流れるように船が進み始めた。ようやく対馬島の府中港に繋船できたがすでに3更(午前零時)になっていた。上陸し客館に入ると信使一行は集まって喜びの声をあげ、故国を目前にして心は故郷に帰ったようであると、嬉しさを隠さない。」引用本
対馬府中泊
一行はようよう最後の日本領である対馬島に着いた。城下町府中は島の南部にあるが、北方対岸は朝鮮半島である。一行の心はすでに故国の地を踏んでいるかのように踊っただろう。しかし、旅程(物事一般)は九分を以て半ばとする、という。まして玄界灘は朝鮮人にとって魔女のように性悪だ。弘安の役では多くの高麗兵を水底に沈め、今また故国を前にして信使一行を焦燥のどん底でのたうち回す。
まず、先行の使者の船がまだ準備されていないのと、随行する対馬藩士の旅装が整わないとの理由で出発日は明示されず一行の不満を助長した。
この日より七月二三日まで対馬府中泊
七月十九日
晴
七月二〇日
晴一時小雨
「二十四日に出航することに決まったと、対馬守より知らせがある。一日も早い帰国を望んでいる信使らは、出発日が決まって喜んだ。」引用本
七月二十一日
晴
七月二十二日
曇
対馬守の館で饗応される。上々官玄徳淵がひらかなで『あすはまた
たれなかしらんもしらぬみに
ともあるきょうのひこそおしけれ』と書して残す。うむ、分かり易い。
つづく
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Re: 美しい国日本 age
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/09/09 02:20 投稿番号: [354 / 402]
age
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Re: 美しい国日本
投稿者: konoyo_anoyo 投稿日時: 2009/09/05 23:01 投稿番号: [353 / 402]
朝鮮通信使の歴史を教えて頂き有難う〜。
如何に、朝鮮通信使が尊大で振舞って居たのかも理解できます。
ま、当時の江戸時代を見て、江戸時代の繁栄を蔑んだ朝鮮通信使は今でも日本国に残っているんですね〜。
これは メッセージ 1 (hendazo04 さん)への返信です.
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朝鮮通信使 24
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/09/05 19:10 投稿番号: [352 / 402]
七月三日
晴一時雨
「明日出発が決まり、信使船は水深の深い場所に移され待機した。」
七月四日
晴
「河船で河口の本船まで行くのだが、船着き場あたりは見物人の熱気でむんむんしている。みな見物の座所の借り料を払っているが、この料金は江戸が一番高く、京、大阪の順で安くなるという」奉使録
「船上から大阪の景色に名残を惜しみ、人々に別れを告げながら川を下った。やがて河口に出て本船に移乗しようとしたが、風波が激しく船は翻弄され、移乗をあきらめて川船泊となった」引用本
七月五日
曇り一時雨
風が止まず今日も本船に乗り移ることもできない。しかし凪いできたので明日には出発できると対馬守から連絡が入る。でも帰りを急ぐ半島人は素直には考えない。「連日逆風で出船できないといって出発をおくらせたが、大阪で自分たちの貿易の商売が忙しいのが本当の原因で、やっと仕事が終わったので出発する気になったのだろう」奉使録
と、また勘繰っているが、そのため滞船したのかどうかは分からない。しかし対馬藩が帰り船に朝鮮に売る交易品をしこたま買い込んでいったことは想像に難くない。
彼らはこの日一日も川船で過ごすことになったので退屈だったのだろうか。川岸に「海運」について高札が掲げられていたので、それを翻訳して奉使録に残している。興味深いので逆翻訳されたものを以下に載せてみる。
一、 本国の船および他国の船が往来するときに、もし強風に逢い沈没して壊れることがあれば格別に救済し、傍らにあって救けざる者は軽重に随って論罪する。もし人命を救助し、積載した品物を一つ一つ探し出した者には、その品物の十分の一を賞として与え、そのほか水に泳いで沈没した品物を取り出した者には十分の二を賞として与え、これよりもさらに大きな功がある者には職を与える。もしひそかに船の物貨および沈没した品物を略奪する者は殺人の罪と同様に処罰する。
一、 どこから来たかわからぬ船が来て停泊して順風があるのに動かぬ場合は、船を見張る者たちが調査して告げること。
一、 公儀御船が往来するときには泛視することなく、遠路で格別に護衛して敗傷することなからしめよ。
(このほか2項、海運と関係のないことが掲載されているが略す)
七月六日
晴一時雨
「対馬守が今日遅くには必ず風雨があるので出発できぬと告げ、今停泊している場所は海門の先頭で危険であるから、港の中に船を引き入れるようにと言い含めた。信使らは明日夜明けに必ず出発するのなら、わざわざ船を引き入れることはないときかなかった。明日は七夕である。」引用本
七月七日
晴
風向き一定せず
陽が高く上がってから対馬守船の太鼓の合図で出発し、河口に出て本船に移乗した。信使一行はわが家に帰ったように喜んで騒いでいる。辰の刻(午前八時)、三日遅れではあったが帆を上げて出帆である。
陽が落ちてくると逆風になり、櫓を漕ぐ者も必死に漕いだ。正使の船が遅れ停泊地の兵庫に着いたのは一二時間後の午後八時だった。
摂津兵庫泊
七月八日
晴
風向き一定せず
「信使らは夜明けに乗船したが、荒れを心配した対馬守船が出発の太鼓を打ったのは陽が昇ってからであった。順風ではなかったが、帆を張ったままで夕方室津港に入った。」
摂津室津泊
七月九日
晴
風向き一定せず
「潮が満ちるのを待って出帆した。未の刻(午後二時)牛窓に着くが、三使から風も北東風で順風だし陽もまだ高いので先に進みたいと申し出があり、即座に出帆することになった。途中潮の具合や風向きを見ながら夜通し前進した。」
船中泊
七月十日
晴
東南風
夜をかけて走り、日の出のころ備前日比村に繋船。さらに下津井を経て申ノ刻(午後四時)ごろ、鞆の浦に到着。上陸して、往路に寄らなかった福禅寺を訪ねる。
『前の使臣らは洞庭湖の岳陽楼に比べているが、過ぎたる言ではない。雲が通りすぎ月が上がると甚だ広い蒼浪が絹を広げたようで、千百隻の帆掛け舟が岸の下に停泊し点々と灯火を掲げて下界の星のようで、飄々として神仙となって天に上る心地がする』奉使録
と、またもや感嘆している。
備中鞆
船中泊
いちいち書き加えないが、信使らが上陸したらその宿舎へ、船中泊の時は船まで漕ぎ寄せて、各地の世話役が食物や土産物を届けている。
七月十一日
晴
東風のち西風
卯ノ上刻(午前五時)鞆を出船。昼ごろより潮の様子がおかしくなり、繋船する。しかし黒雲が天を覆い日差しも暗く、稲妻が光り強風が吹いた。対馬守はあえて、この場所は留め置くに悪し、と出帆、船を動かし夜通し進んで、夜が明けるころに蒲刈沖に着いた。
蒲刈沖船中泊
つづく
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朝鮮通信使 23
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/08/31 21:10 投稿番号: [351 / 402]
訂正
前投稿で6月17日の泊まりを駿河藤枝としたが当日は『駿河江尻』泊でした。
6月18日
続き
「駿河の人は他州に比べ俊秀で忠厚で、信使に対する態度も恭遜であると言っている」引用本
往路と帰路に通りすがっただけなのに、駿河衆が「他州に比べ俊秀で忠厚」だなんてわかるはずがない。要は『信使に対する態度・・』、つまり他州より『下手』に接したということか。
面白い文章がある。「備中守が呈上した食料品の中に林檎があり、初めて賞味した」
エデンの園に生っていたのだから林檎はかなり古い食べ物だと漠然と思っていた。事実八千年前の炭化したリンゴがトルコで発見されているそうだ。日本には鎌倉中期にシナから伝わったとあるが、なんでもかんでも半島から日本に『伝へてあげた』はずの朝鮮人が『初めて賞味した』とは、なんか通りが悪いような気がする。ま、小さなことだが。
駿河藤枝泊
六月十九日
晴れおそく曇
「日の出前に出発した。大井川に至り輦台で渡った。往路は雨で川止めになり三日も滞在を余儀なくされたが、帰路は順調でみな大いに喜びあった」オレも一緒に喜びたい気分だ。
遠江掛川泊
六月二十日
晴
遠江浜松泊
二十一日
三河吉田泊
六月二十二日
晴
「夜明けに提灯を灯して出発した。連日の暑さのなか、少しでも涼しいうちにとの思いと、帰心がはやるのだろうか、みな元気である。しかし、対馬守は早起きができず、信使たちにもう少し出発時刻を遅らせてほしいと頼んだ。往路は常に先行していた対馬守も、江戸での大任を果たし疲れが出たらしい。信使側は前回の使行日記を参考に「或先或後」と答えた。必ずしも対馬守の行列とともに行かなくても、先になったり後になったりしてもよいのではないかとの意にとれる。道中の信使の行列はかなりばらばらで、大きな町に入る時だけ行列を組んだようだ。」
先を急ぐ彼らの気持ちが伝わってくる。
三河岡崎泊
二十三日
晴
「早暁に出発した。岡崎城を通ったが、その城の楼台と城濠の宏麗さは比べるものもなく、樹木は日傘や幔幕のように刈り込んで普通の形ものが一つもないと感心している」引用本
さて、屋敷内の樹木を刈り込むという趣味がいつからどこから始まったものか調べようもない。このようなものは自然発生的だと考えるしかないが、少なくとも日本には平安末期に唐から『盆景』が到来している。盆栽の源とされているが、樹木を思うように刈り込み楽しむ風習は、日本においては千年来であると言っていいだろう。しかし朝鮮ではそのような趣向がないことが上記の文章からうかがえる。なのに、
「2009年6月17日、韓国の中央日報は、盆栽の起源は韓国であるとの記事を掲載した。」
こんなことを言い募る。
だが、
「しかし記事中に紹介された「四季盆景図
四幅屏風」に描かれた刺繍絵は、14世紀の盆景の絵であった。盆景は中国の唐時代を起源とする文化であり、中央日報の、盆栽の起源は韓国の盆景である旨の主張は的外れなことは明らかである。」ウィキ
と、一発喝破されている(笑)
この夜尾張名古屋泊
六月二十四日
晴
美濃大垣泊
二十五日
晴
近江彦根泊
二十六日
晴
近江森山泊
二十七日
晴午後俄雨
山城京都泊
そして六月二八日、行列の本陣が京都淀浦に着いた。ここから川船で大阪湾に出る。
「陸路が終わりいよいよ船旅の始まりである。船着き場には、川御座船や、すでに多くの荷物を積んだ荷船も待っていた。三使らは極暑のなか、江戸から長途の旅をともにしていた駕籠を下り、川御座船に乗り移った。水面を渡る風にほっとしてくつろぐが、前途の船旅の危険を思うと気分が重くなると、曹命采はいっている。」
「正午に出発した。淀川は増水しており、船足は速い。両岸の見物人は往路よりやや減ったが、それでもかなりの人々が群がっていた。」
船は枚方に着いた。ここで彼らの持ち船に乗り換える。
摂津大坂泊
六月二九日
晴
陸路だけ言うと、往路に比べて三日早く淀に着いた。出発に万全を期さなければならないし、途中の寄港地の準備もある、幕府は数日後の出発を信使に告げる。
七月一日
晴
「帰心にはやる信使一行は、一日も早く大阪を出発することを対馬守に申し出たが、当地での滞在日数が決まっており、遠路での下向の品も定められた時期があるので、勝手に出発できないとの返事であった。」引用本
七月二日
曇りのち晴
「対馬守から、四日に出発が決まったと信使に知らせがあった。」
七月三日
晴一時雨
以上摂津大坂泊
つづく
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Re: 美しい国日本 age
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/08/27 18:49 投稿番号: [350 / 402]
age
これは メッセージ 1 (hendazo04 さん)への返信です.
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朝鮮通信使 22
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/08/23 09:32 投稿番号: [349 / 402]
帰路、彼らは憑きものが落ちたように良い顔をみせる。極暑の候である、「暑気あたりで倒れるものがかなり出て、薬を飲ませみな回復したとある。・・途中の道々では、老人たちが信使たちに向かい『サラバサラバ』といって合掌したり、乗り物に乗った見物人が蜜柑をくれたり、村人がマクワ瓜などを渡したり、あちこちで庶民との交換風景がみられた。」引用本
意外と悪いやつらではないという気もするのだが・・。
六月十五日
晴、「日の出とともに大磯を発つ。・・田園の案山子をみて、人形が弓を引いて鳥を追い払うのは朝鮮と同じであるという。また高麗という名の村を通り興味を持って名の由来を尋ねさせると、村人は裏山が高麗山というからと答えたという。昭和10年刊行の『武蔵高麗神社説』によると、新羅が朝鮮半島を統一した後、日本に亡命した高麗人によって、大磯村の一地区に高麗郡がおかれたとある。」
半島由来の地名は高麗・新羅・百済など各地で散見できるし、佐賀の知り合いに百済(しゃくさいと読む)という人がいる。彼らなんかは明確に亡命人の子孫だろうな。現在の韓国人も、日本国内における半島由来の命名に上気しホルホルするが、このときの通信使達も同じ心持だったろう。
逆に半島内における日本由来の地名、いや、それどころが歴史的遺物まで徹底して捏造、抹殺、日本の半島における文化的影響はゼロであると強弁する朝鮮人、・・やはり良い人たちではないようだ。
相模小田原泊。
六月十六日
晴、「畑宿の民家でやすんだ。ここの庭は、裏庭からの流れが小瀑布となり、落ちた水が石の階段を巡り、怪石が入り混じって聳え、花竹が生い茂り、それらと対座していると気宇壮大になり旅路の苦しさを忘れさせる」奉使録
「来たときと同じようにまた苦しい箱根越えをして、休息所に入る。芦ノ湖に船を浮かべ、すばらしい景色を眺めていっとき遊んだ。往路とちがって帰路は大任を果たした安心感からか、景色を楽しむ余裕もでき、のびのびと旅をしている様子がうかがわれる」引用本
伊豆三島泊
六月十七日
曇りのち晴
よほど心がはやるのだろう。今日も夜明けに出発し昼には吉原に着く。道行きにつれ富士山が見えてくる。流麗な描写力をお楽しみあれ。
「・・傍らの峯を遠く退けて一人立って天を支えるが如く、また霞や雲が頂上を覆うことができずその半腰を取り巻いているにすぎない。時に海に立ち籠めた濃い霧が全体を覆って姿が見えなくなっても、一陣の風が吹くと丸みがかった山頂の雪の光が忽然と天上に浮かび、通り過ぎながら望見する視線を暫時も
離させない。頂上には大きな池があり雪が四季絶えず残っているという・・いま仰ぐ富士山は往路のときの真っ白とは異なり、山頂の白はなく所々に絹の織物地のようの残っているだけである・・(略)」奉使録
通信使行列のフィバーは帰路も盛んだったようだ。
「道中日本人が、絹の掛け軸や紙を板に貼ったものを携え、硯と筆を持って道端に並んで、頭を下げて揮毫を乞うたり、子供が紙で作った冠や陣笠または朝鮮人の軍服などを着け、草の葉で喇叭の形をしたものを作って吹いて遊んでいるという。このようなことが大人の間にも流行り、仮装したり、行列の真似事をしたことが、祭りの行事として各地に伝わったのであろう」引用本
それを幕府は快く思わなかった。
「近頃町々に於いて朝鮮人の衣装を写し
鳴り物等交え
夜に入って町々にて辻踊り致し候
若批以後右躰の儀有之は召捕
当主名主まで急度咎可申し付け候」という触れが幕府より出る。「朝鮮人の様子を真似て踊る辻踊りが咎められたのだが、町の人びとがいかに通信使の行列に魅せられ、それを真似た装束や楽器で町中に繰り出し踊りを楽しんでいたことが窺える」引用本
朝鮮人の真似をしたら本人が召捕られるばかりか名主まで咎が及ぶというのだから、かなり厳しい規制だ。
幕府の意図はなんだったのだろう。日本古来の習俗が異国文化に侵されるのを嫌ったのだろうか。この点日本の多くの年間行事の起点がシナであり、それを少しも厭わなかったことと較べると面妖である。
駿河藤枝泊
六月十八日
晴
「・・出発し、安倍川を輦台で渡り、宇津谷峠を越えて岡部宿の茶屋で休憩した。茶屋には人物画の軸がたくさん掛けてあったが、その中に加藤清正の画像をみつけ、凶賊清正と罵っている。150年を経ても秀吉や清正を憎む気持ちは少しも消えていない」引用本
「午後八時ごろ藤枝の客館に着いた。厳しい暑さで異常に喉を渇かす者が多く、前途はまだ遠いのにと三使は案じている』引用本
つづく
これは メッセージ 346 (hendazo04 さん)への返信です.
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Re: 美しい国日本 age
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/08/20 19:26 投稿番号: [348 / 402]
age
これは メッセージ 1 (hendazo04 さん)への返信です.
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Re: 朝鮮通信使 21
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/08/17 06:13 投稿番号: [347 / 402]
番号間違えた。
朝鮮通信使13じゃなくて21。
これは メッセージ 346 (hendazo04 さん)への返信です.
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朝鮮通信使 13
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/08/17 04:52 投稿番号: [346 / 402]
この日、六月十日は朝鮮人武者の弓技が上野東叡山で披露された。歩射と騎射に分かれ、歩射は百三十歩の距離から立ち居で的を射るもので、七人が各五本の矢を放った。成績は五本全部当たったのが三名、三本が三名、二本は一人だった。
騎射とは流鏑馬のことで八人が参加、馬を疾走させながら藁人形を射る。「・・の三人が三本当て、後の五人はみな五本全部当て、見物の人びとはみな驚嘆したと信使側は自画自賛している。司馬遼太郎氏によると、朝鮮北境守備隊の兵隊クラスの中から、弓の名人を通信使として連れてきたとのことである。」引用本
こういった華やかな行事とは別に将軍家重の「署名問題」は継続した。
「『この上は速やかにご帰国されるように』との対馬藩の願いにもかかわらず、朴上々官は聞き入れず先ず書翰を改めてきますといって帰った。そして夜も更け明け方に今度は洪上々官が書き改めた書簡を持参した。そしてこのままでは明日の饗応は三使とも受けられないといい、いろいろ話し合うが承引せず、暁になり対馬守はお暇の登城が控えており差し支えるので、明日返答することにして洪上々官は帰った。」引用本。
六月十一日、「昨夜の三使からの書翰に対する返事を用人に持たせ東本願寺へ届けさせた。しかし信使側は納得せず、話し合いが延々と続いた。最後に三使は、このことが解決せねば帰国して申し開きができないが、対馬守が公儀に決して取り次がないとのことであれば、いままで隔意なく海陸諸事介添え下さったのに疎意になっては困るので、書翰のやり取りはこれで終わり、いままで往復した書翰はお互い交わさなかったことにしたいという。」引用本
なんのことはない、双方が受け取った書翰をお互いに返し、今までのことはなかったことにしてくれというのだ。改選がなければ帰国できないんじゃないの?と嫌味を言いたくなるが、事実署名問題は帰国後なんら詮議にならなかったことだし、相手の立場迷惑を考慮せず体力の限りを尽くして粘着したのも、我のことは大げさに騒ぎ立てる大陸人固有の権利意識のなせる技だろうか。ほとほと疲れる民族ではある。
先日対馬で船もろとも焼失した荷物の何回目かの補給品が届く。そのなかに一行の衣類もあった。彼らの着替えのほとんども焼けて、いままで幕府から借りていたのだ。さらにこの日幕府は「副使駕船焼失に付き、晒し布三百疋」その他を通信使に届けるが信使側は、「焼失した入用の品々は朝鮮より取り寄せたので、拝領物はお断りいたしますという。」対馬藩は「将軍の下され物を断るとは無礼であろう」と咎め、目録を受け取らせて「今晩本丸の老中方にお礼に回るようにという。」信使は従い、陽が落ちてから酒井雅楽頭・本多伯耆守・松平右近将監・堀田相模守の屋敷をお礼に回った。
これが彼らの最後の抵抗であったようで、その後のツッパリは引用本に書かれていない。
また、通信使は駄々をこねながらもやることだけはやっている。奉使録に、「副使付の軍官にオランダ製の火砲と日本の陣法図を密かに求めさせたが、火砲一基と城池陣法図が手に入り、どちらもかなり良好なものであると記されており、探情使の役目を果たしている。」引用本
しかしこの件はちょっと疑問を感じる。火砲(大砲)は大阪の陣で家康が使用しているが、日本国内においてメジャーな武器ではない。国内の基数も多寡が知れているだろうし、図体もでかい。幕府に内密に調達運搬できるものではないと思うが、この点について引用本はなにも触れていない。
一日置いて六月十三日、五百名近くの通信使がいよいよ帰郷の途につく日だ。国書呈上の日から20日ほど、大役は終えたというものの江戸滞在はいわば敵国の懐に抱かれたようなもの、気の休まるものではなかったろう。「昨日までの雨もあがって、信使一行は欣喜雀躍した」奉使録
帰路のほとんども日本国内の旅程となるが、前途には渇するが如き麗しき故郷がある。思えば故地を出てから半年あまり、そこには妻が居、子どもが居、恋人や親兄弟が待っている。東海道の上りの第一歩は解放への一歩でもあった。彼らの足はレレレのおじさん見たく空回りしたことだろう。
「信使一行は、来た時と同じように大勢の見物人に見送られ、炎暑のなか海岸通りにかかると海風が心地よい。三使は滞在中、公式儀式意外には外出していないので、心身の爽快さは籠から放たれた鳥以上であるといい、市場の店には赤い紙に「清道」と書いた旗や、行列の様子を書いたものが売られており、子どもたちが先を争って買っているなど町の様子を観察している。」引用本
つづく
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終戦記念日
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/08/15 19:13 投稿番号: [345 / 402]
終戦記念日か。悔しかったろうな、この日を迎えた日本人は。その後紆余曲折は今もあるが、われわれは世界一安定した裕福な国の国民として安全な生活を享受している。だがその代償は英霊を深く憂いさせるものだ。経済の繁栄と引き換えに失った『大和心』は、しかし死滅したとは思いたくない。悪辣で下品な連合国の術中にどっぷりはまった現状を何とかしたいと思う人が確実に増えていることを信じたい。
下記はいつものように週刊新潮に連載されている高山正之氏の『変見自在』からのもの。2−3週間前の記事だが今日にふさわしいだろう。
「米国人ほど話術の才に長けた国民はいない。
東部13州だけだったこの国はインディアンを殺し、メキシコ人をだまし討ちして国を広げていった。
普通はそれを侵略というが、彼らはフロンティア精神とさもよさそうに言い換えた。その精神で海も越えハワイも取った。
スペイン領フィリッピンでは民族派のアギナルドに独立の約束を与えて蜂起させ、頃を見計らって米国の植民地にしてしまった。
アギナルドが約束違反を怒ると司令官のアーサー・マッカーサーは彼らを「治安を乱すゲリラ」と呼んで退治し始めた。言い換えはここでも自由だった。
あるときサマール島で島民を殺しまくる米兵が逆に殺された。マッカーサーは報復にこの島と隣のレイテ島の住民を皆殺しにした。
彼は20万人を殺して制圧したが、あまりの惨忍さゆえに陸軍参謀総長のポストを逃がしてしまった。
ただ彼のおかげでフィリッピン人は「マッカーサー」と聞くだけで恐怖して従順になった。それで息子ダグラスがフィリッピンの新司令官として赴任した。
この男は閉所恐怖症で臆病という特質を除けば父譲りの惨忍さと嘘のうまさと金銭欲を合わせ持った典型的なアメリカ人だった。
フィリッピンは日本を抑える軍事拠点として確保された。だから日本が動けば即応できるようB17など250機を配備していた。
しかしマッカーサーは真珠湾攻撃の朝、ただうろたえるだけだった。何の下命もできないうちに190機の日本機が飛んできてクラーク基地は壊滅した。
彼は「7対3の空軍力の差だった」と報告した。嘘を恥じない男だった。
日本軍が上陸すると彼は打って出る使命を捨ててさっさとコレヒドール要塞に逃げ込んだ。伴ったのは妻子と米国が置いた傀儡政権大統領のケソンだった。
ケソンは「これは日本と米国の戦争だ。日米両国がフィリピンの中立化を承認してここでの戦争を終結してほしい」(M・シャラー『マッカーサーの時代』)とルーズベルトに言った。
ルーズベルトはせせら笑ってマッカーサーが脱出するときいっしょにこの傀儡も連れ出せと命じた。
マッカーサーは脱出の前にケソンに面倒を見てやった報奨金50万ドルを支払う旨の証文を書かせた。証文はフィリッピン政府の口座のある米チェース・ナショナル銀行に送られ、そこからケミカル・ナショナル銀行のマッカーサーの個人口座に50万ドルが入金された。
彼はコレヒドールから逃げ出して2年後にレイテ島に戻ってきた。『島民は歓喜して出迎えた』と自伝に書いているが、ここは彼の父が皆殺しにした島だ。島民はそっぽを向いていた。
彼は日本軍が上陸したリンガエン湾でも海から上陸して見せた。日本軍への報復の起点のつもりだが、だれも相手にしない。写真も撮ってくれなかった。
それで1ヵ月後にやってきた報道写真家カール・マイダンスに頼んで部下を集め、上陸を再現した写真を撮ってもらった。
マイダンスは朝鮮動乱の現場でニコンのよさを世界に知らせた人だが、このやらせ写真について『彼の見栄を撮った』と後に話してくれた。
マッカーサーがルーズベルトから与えられた使命は『日本人を四つの島に閉じ込めて滅ぼす』(C・ソーン『米英にとっての太平洋戦争』)ことだった。
つまり何をやってもよかった。彼は『1984年』の専制支配者ビック・ブラザーと同じに振舞い、焚書と検閲で歴史を改ざんし、滅ぼすのに自衛はいらないと憲法まで改変した。
工業国から農業国に交代させる実験もやった。
そんな非道をやってもそこは侵略をフロンティア精神と言い換える国民性だ。
彼は彼自身を民主主義の伝道者と言い換えて朝日新聞にそう書かせた。
臆病な彼は居所の米大使館から竹島桟橋までの脱出道路を要求していた。
時を越えてその道路が都心に開通する。彼の名でなくブック・ブラザー通りと名付けたい。」
これは メッセージ 1 (hendazo04 さん)への返信です.
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8月15日・・・・
投稿者: oi_tyon 投稿日時: 2009/08/15 01:19 投稿番号: [344 / 402]
靖国に眠る英霊に黙祷・・・(-∧-)
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Re: 美しい国日本 age
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/08/14 18:04 投稿番号: [343 / 402]
age
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Re: 美しい国日本 age
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/08/11 05:54 投稿番号: [342 / 402]
age
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朝鮮通信使 20
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/08/08 15:08 投稿番号: [341 / 402]
「世子の目録に姓名を書かないのは何故か。国王は将軍と対等な礼であるが、世子は臣下に当たるのではないか。」と、「信使側は承引せず、大納言の目録は受け取らず、対客の間に置いたままで、三使はこのような大事な時に心安らかに部屋には居られないと、軍官の居所に設けられた食堂に屏風を立て留った。」
これをビジュアル化するとどうなるのだろう。現場は通信使の宿舎としてあてがわれた東本願寺だ。「軍官の居所」はその内部で軍官は身内だろう。そこに食堂も設けられていたというが、そんな身内ばかりのところで立て篭もって何になるのだろう。そりゃーいくらかの世話係(対馬藩士)が常駐していたと思うが、彼らに見せるつもりだったのか。それとも‘これだけ頑張った‘という身内に対するアリバイか。やるんなら対馬藩宿舎の門前で座りこんだほうがすっきりすると思うのだが・・。ともあれ、屏風で囲った狭い空間に大の男3人が、一様にこぶしを握りしめ、肩をいからせ、言葉を発することもなく向かい合って座りこんでいるのである。親に叱られ、部屋にたてこもってハンガーストライキをやる小娘なら可愛いところもあるのだが、なんともトホホな絵面であろう。
次の日、六月八日、通信使に対する返書を対馬藩の使者が持参し、上々官三人を呼び出し手渡す。
「印鑑のことは昨日答えたとおりであり、姓名のことは、日本では将軍の御子といえども将軍同様に尊敬しており、老少を以て尊卑を分けることはない。若君が将軍と同等でないなどと、公儀に申し上げることはできない。国々によって風俗も違うことであるからこのまま納めて、早々に帰国してください。」と認めてあった。
もう、用事は済んだんだし、ごちゃごちゃ言わずにおとなしく帰ってくれよ、という対馬藩の本音がのぞけて楽しい。
しかし信使は、印鑑のことは承認するにしても姓名が書かれていないのは許されない、それならば老中に直接書状をしたためお願いすると言い出す。
対馬藩は「老中への取り次ぎをするのが当藩の役目であり、直接書翰を出しても老中は受け取らない」というと、「では今晩老中に書簡を認め持参するからよろしく頼む」という分けのわからない返事が返ってくる。対馬藩使者は、『勝手次第にせよ』と突き放す。
少しあって、「それならば、将軍と大御所のご返翰と目録は三使の間に今晩安置するが、大納言の目録はそちらで保管してほしい」と言ってきた。署名のない大納言の目録受け取りはできない、と突っ張る。が、対馬藩は『もってのほかである』信使はそれなら『当方より番人をつけるが、そちらからも番人を出してほしい』と大納言目録の共同保管を求めてきた。対馬藩『それは決してならぬ』と断り、藩の通史にも申し含め帰る。
しかし暮れ方信使は対馬藩屋敷を訪れ『先ほどの対馬守よりの書翰拝見し、ほかのことはともかく、大納言の姓名の不記は何としても請けがたく、ご改撰下されるよう大納言付老中秋元但馬守様への書翰一本と対馬守様への添書翰を持参した』と受け取りを求める。対馬藩は「例がない」として受け取りを拒み、2通とも持って帰す。
六月九日。「今日も上々官が対馬守の屋敷に来て、三使の口上として、『昨夜仰せられたことを承知いたしました。但馬守様への書翰も手前に差し止めておきますので、このうえながらご周旋よろしくお願いいたします、委細は書翰に申し述べました』と書翰を差し出した。対馬側は受け取って、返事は書翰を見たうえ遣わすといって帰す。」引用本
六月十日。対馬藩では昨夜の書翰の返答を使者に持たせ信使の宿舎に届ける。返事はもちろん変わらない。
それを見た信使は「私どもの願いを今度はお聞き届けくださるかと心頼もしく存じておりましたが成らずとのこと、私どもまた書簡を以て申し上げます」と粘着する。
「夜に入って、朴上々官は書翰を持ってきて、先刻ご返事いただきましたが、御改選成らずとのこと、それでは私ども帰国もなりがたくどうかお願いをお聞き届けくださるよう書翰を認めてきましたと差し出した。文中に、『貴国大君於我国如此往復之事有事降等或は噂礼又必随当然之則若不然而貴国今日之規則
貴国薦紳大夫之知礼者将以為如何耶』
(貴国の将軍と我が国の往復がこのようにあるとき、世子と将軍では降等・対等と格の違いがあるのは当然の規則である。貴国がこの規則を用いないというのは、帰国の礼を知るおえらい方々は何と心得ておられるのか)と無礼の文句があり、対馬藩家老杉村大蔵が出てきて厳重に咎めた。そして『公儀に申し出ても改選がかなうものではなく、このうえは速やかにご帰国されるように』と上々官を帰す。」引用本
つづく
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Re: 美しい国日本オワタ
投稿者: konoyo_anoyo 投稿日時: 2009/08/05 10:53 投稿番号: [340 / 402]
美しい国、チョン国って無いもんなあ〜。
惨めな朝鮮半島の歴史しか無いもんなあ〜。
これは メッセージ 339 (i_hate_fussy_japs さん)への返信です.
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美しい国日本オワタ
投稿者: i_hate_fussy_japs 投稿日時: 2009/08/05 10:32 投稿番号: [339 / 402]
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朝鮮通信使 19
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/08/02 13:05 投稿番号: [338 / 402]
国書呈上の儀式は四時に終わった。通信使一行にとって超緊張の数時間であったろう。今日は献杯の儀も饗応もなく、見送られ江戸城を出るときは強い雨が降っていた。近いこともあって全員雨にぬれそぼりながら宿舎に着いたときは日暮れ前の六時になっていた。
「三使は国書を奉じて故国を出て、八か月にして漸く大任を果たしほっとした反面、大切に棒持していた国書を渡してしまい、空手となって何かを失った気分だと感想を述べている」引用本。
うむ、その気持ちは良くわかる。そういうものだ。彼らは強い虚脱感に襲われたであろう。ただ記さなければならないのは、通信使出航地の釜山まで迎えに出て、以来同じ八カ月あまり、百数十人の家臣が一行の世話を焼き続けた対馬藩の労苦に思いを致さなければ、いささか浅薄な考証となろう。相手は言葉のまったく通じない五百名にも上る外国人である。かれらの道中のすべての斡旋を対馬藩が受け持ったのだ。しかも通信使一行の上司は、いじけるは突っ張るは、下士は無法な奴らが多く、決して楽な客人ではなかった。数限りないトラブルの一切を対馬藩が処理したのだ。藩主、宗対馬守は儀式後寝込んでしまった。その心労察して余りあるではないか。ごくろうさま。でもこれで終わるわけではなかった。この後六月十三日まで江戸滞在となる。その間次の日の六月二日は通信使が手分けして幕閣へのあいさつ回りに費やされた。
三日は江戸城内で通信使が連れてきた二名による「馬上才」(曲馬)が催された。
ちなみに供された曲馬とは、馬上立(扇を持って馬の背に立つ)、左右七歩(?)、馬上倒立(馬の背で逆立ち)、馬上仰臥(横乗り)、鎧裡蔵身(忍び隠れ)、馬上横施(かん貫通し?)双騎馬(並べ馬)とある。
大したことはやってないようだ。
四日、御三家へのあいさつ回りや筆談で文化交流。五日、特になし。六日、元気を回復した対馬守が三使を饗応。そして七日、最後の「ツッパリ」が幕府方を煩わせる。
この日、信使の帰国が近付いてきたので、将軍家重、大御所吉宗、大納言家治がそれぞれ使いを出し、一行にご進物を渡す。もちろん菓子折りのようなものではない。これにも式次第があり、続々と長持ちが東本願寺に運び込まれ、警護の士が寝ずの番に当たる。
さて、幕府側用人が帰った後三使は目録をひも解く。
引用本「上使が帰った後、三使が一通り進物を点検してから目録を開けてみると、大御所吉宗の印鑑は「源」の一字で、これは旧例であるが、将軍家重は「源表正」、大納言家治は「源寛祐」とあり、この二つの印鑑は先規と異なっている。まして家治は姓名も書かず、印鑑だけが押印している。朝鮮国王が西の丸に送った別幅は、大御所は格別であるから国王姓名を書き載せ押印し、大納言は将軍の世子であるから国王と対等の立場でないと、目録には姓名を記さず押印だけであった。それをそのまま踏襲して目録に姓名を記さず押印だけとは失礼であると、・・・」
解説すると、先に朝鮮国王が将軍家に送った書簡には差出人として、吉宗に対し自らの姓名を書き押印した。しかし大納言に対しては押印だけで済ませた。それは朝鮮国王と大納言とでは同格ではないので当然である。しかるに今回大納言からの目録に、朝鮮国王が為したと同じ押印だけにして姓名を書かないのは無礼だ、と言っているのだ。加えてその印も、前回と違う印鑑を使用しているのは奇怪なりと。
引用本「すぐに対馬守を呼び寄せようとしたが登城中であったので、目録の書き直しを願う書簡を認め、上々官に持たせたが、追って返答するとのことであった。一方、林大学頭の息子信言に上々官を送って印鑑のことを尋ねさせた。[朝鮮国では玉璽はみな一つの規例であるのに、日本では前例と異なるが何故か]。答えは[日本の印章には元来一定した規例がない。(前例を言えば)明暦度は「源忠徳」、天和度は「源忠直」、生徳度は「文明四方」、享保度は「源」の一字である。これら印鑑の改変は、みな幸福を祈る気持ちとして用いてある]といい、「また世子の目録に姓名を書かないのはなぜか、国王は将軍と対等の礼であるが、世子は臣下に当たるのではないか」との問いには、「天和度の前例に姓名を書かなかったので、それに従っただけである」と答えた。信使側は承引せず、大納言の目録は受け取らず、対客の間に置いたままで、三使はこのような大事な時に心安らかに部屋には居れないと、軍官の居所に設けられた食堂に屏風を立て留った。」
つづく。
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Re: 美しい国日本 age
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/07/30 23:53 投稿番号: [337 / 402]
age
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朝鮮通信使 18
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/07/26 08:16 投稿番号: [336 / 402]
「身は青黒色の絹の道袍をまとい、顔色は瘠せて黒くて狭くて長くて、あたかも燃え差しの古木の切り株のようである」(今回通信使の奉使録)
これは通信使が現将軍家重を描写したものだが、家重に限らず日本人を評するに、彼らの描写、解釈は大体このようなものである。比べると、いかに吉宗が別格に見られているかがわかる。
たとえば、家康が秀忠に将軍職を継がせたからといって、存命する限り万人の目は大御所に注がれる。外国人が儀礼的な謁見を願うのは秀忠ではなく家康であろう。通信使たちも国へ帰ってからの報告に、酒席の話題に、大いに吉宗を語りたかったと思う。しかし、
「西の丸では大御所吉宗と大納言家治が会見のはずであったが、吉宗は御不予のため欠礼し、・・・
吉宗の御不予はこの拝礼に原因があるとの説もある」
と、引用本の著者もいうように、西の丸で吉宗に四拝して欲しいとの幕府の要求を、前例にないことと峻拒したことに対する、これは吉宗の鼻パッチンであろう。でも日本は本物の「礼儀の那」である。通信使が「昨日西の丸で大御所にお目にかかれずこのまま帰国するのは残念」と、再度の会見に水を向けるも、
「大御所は病をおしても会うと言われたが、家来が病気の悪化を憂慮して取りやめました」と返答をはぐらかす。結局彼らは大御所の尊顔を仰ぐことなく帰国することになる。
ついでに日本の邦楽を彼らはこう描写する。なかなか面白い。
「小さい太鼓に短い鼓・・漆笛は短小で音節がつづかず胡弓、琵琶にいたっても弦が三、四の外はなく一層音にならぬが、ただ作り方が精巧なだけである。本を持ったもの七、八人が順次に並んで座っているが、いわゆる歌人である。本を広げて合唱するが、最初には老僧が念仏するようだが、さらに盲人が経を唱える声のようであるが、次第に咆哮する如き声をだし音声を一際高めて声を出し、顔を真っ赤に染めて咽筋が飛び出て、頭を振り動かして口を動かす奇怪なる形状はみな記すことはできない」
はっはっは。まあ、この辺は悪口とはいえないようだ。
起源はともかく、江戸時代までに用いられていた和楽器は琴、三味線、太鼓、鼓、尺八、琵琶、笛などが思いつき、日本人ならそれぞれの音声にそれぞれの情緒を感じるが、これらの合奏はどうもいただけないような気がする。
オーケストラの語源はギリシャというように、音楽は楽器とも西洋が突出していたようだ。中国なんか銅鑼が前面に出て耐えにくい喧騒でしかない。で、李氏朝鮮のころはどのような音楽や楽器があったのだろうか。
さてさて旧暦の六月一日、いよいよ朝鮮通信使節団の死命である国書呈上の儀が江戸城本丸で執り行われる。前夜には日本側から奉行や裁判たちが来て綿密なリハーサルが行われている。通信使一行の高揚感と緊張はいやが上にも高まった。
「三使は金冠朝服を、上役の者らは黒団領を、軍官らは戎服に弓矢袋を背負った総勢三四八人が列を組んで江戸城へ向った」(引用本)
緊張の余り歩き方を間違えて左右の手足を同時に進める奴もいただろう。もつれて転ぶ者もいたかも知れない。
四ツ時(午前一〇時)に東本願寺を出発、―東仲町―観音雷神門前―駒形町―御蔵前通−浅草橋御門―横山町通―本町通ー常盤橋御門―松平兵部太夫屋敷前―小笠原右近将監屋敷―定御小屋前―大手御門と辿る。
明治以来の道路整備や御門の移動で、今のグーグルアースでは大手門への進入口の正確な状態を知ることはできなく、引用本でもいきなり「内堀の大手御門の橋の前に下馬札が立っており、上官以下は下馬して武器をすべて預けて入り、下官らはここで待つ」(引用本)とある。
この場所には現在高麗門が堂々と迎えているが引用本には描写がない。後年移されたものだろうか。そこから直線で西に200メートルほどのところに「本丸跡」という広場が見える。ここには400畳の大広間があって、国書呈上の儀は諸大名の居並ぶ中、ここで執り行われた。
さすが国と国との儀礼である。儀式は厳かに大げさに、神道的形式美を以って進行する。引用本には出席者の名前や席順から式次第の細部にいたるまで書かれているが、煩雑に過ぎるので割愛する。また儀式終了後饗応となるが、その献立に「犬皮焼」というのがあってぎょっとさせられた。通信使用に支度したのかと思ったが内容は「上白糖に卵を加え混ぜ小麦粉を加え、こねて丸める。小麦粉の手粉でこれを包み弱火で焼く」と説明されている。
いますぐにでも作れる料理だが、これが「犬の皮」に模されるというのだろうか。
つづく
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Re: 美しい国日本 age
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/07/24 13:52 投稿番号: [335 / 402]
age
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朝鮮通信使17
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/07/19 14:41 投稿番号: [334 / 402]
前回は臭いの件で朝鮮人をあげつらったが、正確に言えば、庶民レベルの不潔度においては李氏朝鮮だけが特別なものではない。
ヨーロッパ諸国の城内のそれは想像を絶するものがあった。城と言っても、町ごと頑丈な壁で囲ったもので、庶民の生活もこの中で営まれる。戦の際、城にこもるのは基本的に武士だけという、日本の城下町機構とはまるでちがうものだ。
城門は門限によって朝晩開閉される。庶民は帰りに遅れると締め出され、かといって場外で安全は確保できなかった。だから近隣の百姓が彼らの財産である家畜とともに次々城内に居住するようになる。市場や工場が各所にでき、それとともに生活空間は圧縮され続けた。
それらの家畜が生み出す糞尿や敷き藁は道路か広場に出される。いちおう為政者によるごみ収集のシステムがあるが、数的問題で機能しない。
それら積まれた汚物はしばしば道路をふさぎ、牛馬はおろか人の通行さえ困難になるほどで、広場には積み上げられた汚物が小丘をなしていた。加えて人の糞尿は、室内の容器で用を足し、その中身を窓から道路にぶちまけるだけというのが普通だ。
雨が降れば城内中の道々が、これらがミックスされた汚泥でぬかるにぬかり、さらに雨が上がり太陽が顔を出すと、熱せられた汚泥から生じる異臭は城内全域からもうもうと立ち上る。岩倉使節団がロンドン、パリを訪れたときも、城内に近付くにつれ漂う異臭に鼻をしかめている。
先進文化を誇る西洋諸国や中国がそういう状況であったのに、それより相当低文化の朝鮮ではおして知るべし、であろう。
人の迷惑を顧みない韓国人の大量キムチ食いも、異臭を異臭としない大陸文化の一端に所属する民族ゆえのものであろうか。
五月二十六日、通信使の希望通り国書呈上の儀は六月一日に延期された。後四日のうちに本国より再送された献上物が届かなければ何のための延期か分からなくなる。三使はあせったが、二日後の二十八日に急ぎに急がせた供物が届き安堵することができた。
かれらが、秀吉派兵の恨みも生々しい日本を訪れ、半年もの旅程に耐え江戸に向ったのは、一重に朝鮮国王から徳川将軍家に対する慶祝の書「国書呈上」の儀を執り行うことである。非友好国とはいえ、なにもややこしい政治的な談合も交渉もない。まったくの儀礼だけである。しかし、現代でもそうであるように、こと、国同士の交わりに儀礼は欠かせない重要なセレモニーだ。式次第は着るものからして厳重な「常識」がある。常識を守り、慣例外を容易に認めないのは、前例までに確立している国同士の軽重を変更することになりかねないからだ。
登城を前にして通信使一行はまたもや「けじめ」を要求する。この日奉行が訪れ、六月一日の登城日、本丸の前面に位置する西の丸で、大御所と大納言に対する拝礼を四拝にするようにと告げる。これに三使は異を唱える。前例までは四拝は本丸での儀礼で、(いわば玄関先の西の丸で)そのようなことはできない、と突っぱねる。
奉行側は戻って重臣と協議することになった。
幕府からの回答はぎりぎり登城前日の三十日に届いた。西の丸の拝礼は二拝でよいという返事だ。通信使の「筋」が通ったようだ。しかしこのしっぺ返しは大御所の不出席という形で報いられる。
時の将軍は九代家重である。大御所とは名君の誉れの高い八代将軍吉宗である。たしかに隠居の身分ではあるが、その存在感は日本全国に圧倒的である。かの家康と秀忠の関係を想起すればいいだろう。吉宗の名声は朝鮮にも届いているらしく、前回通信使が「海遊録」で謁見した吉宗をこう評す。「ひととなりが精悍にして俊哲、今年三十五歳である。気性が魁傑にして、かつ局量あり、武を好んで文を喜ばず、倹を崇んで華美を斥ける。・・・その政治をなすに、必ず敦朴を先んじ、救民を撫恤し、租税の未納を削減し、死罪を犯したる人は、あるいは鼻を削いでその死に代える。国人あげて讃頌せざるものはない。ただ勇力が人に過ぎ、性が狩猟を喜び、よく三十斤の鉄杖をもって山坂を歩いて登る」「精悍にして痩勁、座貌は秀でて高く、顔色は白いが豊碩には欠けているようだ」
と記録している。
朝鮮人が日本人をよく書かないのは当時もいまも同じで、容貌についても好意的な書かれ方はしない。今回の「奉使録」にも現将軍家重のことを、「奉使録」にこう残す。
つづく
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Re: 美しい国日本 age
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/07/17 18:14 投稿番号: [333 / 402]
age
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Re: 美しい国日本 あげ
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/07/13 12:08 投稿番号: [332 / 402]
あげ
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こんなところに湧いていたか
投稿者: shinacyonnashi 投稿日時: 2009/07/10 19:34 投稿番号: [331 / 402]
チョウセン人マルチハンがあちこちで駆除をされて、逃げ込んだ先がこのトピっだとはねえ
他トピで問題外の質の低さで一蹴されたチョウセン人どもが、一人ここで吼えているなんて、なんて見苦しい…
まあ、チョウセンってだけで既に見苦しいんだけどね
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朝鮮通信使 16
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/07/10 17:03 投稿番号: [330 / 402]
昨日はアゲなくてはと思っていたが、忘れてしまった。アゲてもらってどうも。
訂正
誤>あの事件の元凶麻原彰晃も日本人の血が一滴も流れていない風呂嫌いな朝鮮人だった。
正=あの事件の元凶麻原彰晃の父親も・・。
でした。
動物にとって視覚・聴覚・嗅覚は脳に直結し、外部の情報を収集し判断する非常に重要な感覚だ。だから種々それぞれに生存に必用な感覚を磨き上げ特化してきた。猫の聴力範囲は人間の6倍、また上空から獲物を狙う鷹は保護色で守られた野ネズミを見逃さない視力を持つ。しかし人間は脳を巨大化させることによって原始的な能力は必要性を減じ、現在のカテゴリーに至った。
臭覚をいえば、犬は麻薬を嗅ぎ分け、スカンクの噴出するガスは人間を昏倒させるほどの威力を持つ。しかし犬が麻薬に溺れたりスカンクが自分の屁で悶絶することはない。
いわば慣れなのであろうが、人種間にも臭いのカテゴリーは存在するようだ。
たとえば韓国人が死ぬほど食べるキムチだが、日本の朝餉にあれほどふさわしくない匂いはない。日本の和朝食は、台所から漂う味噌汁の匂いがいわば国民臭だが、そこにキムチが一鉢加わっただけで大和の国の静謐はぶち壊される。経験を言えば、エレベーターの中や混雑している機内で韓国人に遭遇したとき悲劇が起きる。キムチを食べていないか、食べていても韓国人ほど大量でない人は即座に目が乾き、後に血走り、舌はのどに巻き上がり気道をふさぐ。脂汗は背中を伝い精神状態は乱れ自暴自棄になる。やがて失見当識に至り一度認めた浮気も否定し借金も返したくなくなるのだ。しかし韓国人は平気だ。ニコニコと話しかけてきたりもする。
江戸時代は特に、日本の町々の清潔度は世界の大都市の中で群を抜いていた。ただ庶民のあいだに皮膚病が蔓延していたことが、たとえばシェリーマンの紀行文にみられることも記さなければ公平ではないだろう。たぶん細菌性の流行り病だったのだろう。
それでも江戸時代にし尿も生ごみも栽培食物に還元することで自己完結を果たしていたことは驚異的である。し尿は、時には金を払っても百姓が引き取って肥溜めで発酵させ良質の肥料とした。生ごみは農地に鋤き、藁をかぶせて地温を上げ、バクテリアに分解された残飯は地力を回復した。ちなみに欧州の同じころは3年に1度は田畑を休耕させなければならなかった。
このように都市の汚れを合理的に処理した例は世界中にない。見事な庶民の知恵である。
その江戸を(前回)通信使はこう記す。
「左側には家が連なり、右側には海が広がっている。
山は全く見えず、肥沃な土地が無限に広がっている。
楼閣や屋敷の贅沢さ、人々の賑わい、男女の華やかさ、城壁の美しさ、橋や船…。
全てが大阪や京都より三倍は優っている。
この素晴らしさを文章で表現する事は、私の才能では不可能だ。
女性の美しさと華やかさは名古屋と同じだ。」
朝鮮通信使の驚きは江戸で頂点に達したようだが、自国はどんな状態だったのか、かの国の清潔度や臭気耐性を計るに、これより百数十年も後に日本の役人がソウルを訪れて印象を残したものがあるが、併記してみよう。
宮本小一外務大丞、朝鮮国京城に行く
途中の各官庁には風呂というものが無かったが、ここ清水館では日本人のために風呂場が新たに作ってあった。
その広さ10坪ほど。湯を汲み入れて使うが、頗る爽快であった。
また、便所も数箇所仮設してあった。これも日本人のために作ったと言う。しかし粗末な藁葺きで不潔であった。
途中の宿には敷地の一隅に便所が設けられていたが、頗る不潔で堪え難かった。また、部屋に銅製の蓋付きの缶があり、通常はこれで用足しをするという。
普通、朝鮮人民の家には便所がないとも言う。そのためか、いたる所で糞尿の臭気が甚だしく数万の蒼蝿が舞い、部屋にも満ちて煩わしく、耐えられない位である。雨が降る日だけ臭気が治まった。
ここでは蚊および蚤はまれであった。しかし、浅間艦から士官3人が連絡のために仁川から来たときに民家に宿泊したが、夥しい蚊と蚤のために、ついに一睡も出来なかったと言う。
日本人のためにこのように浴房を設け、数箇所の便所を作ってあるが、これは京城近傍では奇なる風景だと言う。 」
汚物は臭いの元凶だ。糞尿も生ごみも路上に投げ放題の大陸城塞都市はとてつもなく不潔で悪臭に満ちていた。もちろん入浴の習慣もない。
一方、江戸時代の銭湯はローマ風呂のように庶民に根付いていた。
つづく
これは メッセージ 1 (hendazo04 さん)への返信です.
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下痢ピー安倍や酔っ払いの中川
投稿者: japanpoors 投稿日時: 2009/07/09 12:33 投稿番号: [329 / 402]
美しい政治家であった。
これは メッセージ 1 (hendazo04 さん)への返信です.
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上げます
投稿者: ioiorururu910 投稿日時: 2009/07/08 13:19 投稿番号: [328 / 402]
トピ淘汰が始まったようですので
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Re: 朝鮮通信使 15 ちょっと訂正
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/07/02 08:44 投稿番号: [327 / 402]
麻原彰晃の父親が朝鮮人。母親は不明。
ところで、あの汚らしい男、まだ吊るされていないのかな。
これは メッセージ 326 (hendazo04 さん)への返信です.
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朝鮮通信使 15
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/07/02 08:39 投稿番号: [326 / 402]
品川で一泊するといよいよ江戸入りである。空は小雨模様だが後には晴れた。
「午前十時、上級信使らは鳥紗帽に紅団領を着け、そのほかの信使一行も礼服に身をかため、いよいよ江戸市中に向け宿舎を出発した。
行程は、芝車町大木戸―芝口橋(新橋)―京橋―日本橋―大伝馬町―旅籠町―油町―塩町―浅草御門前町―瓦町―鳥越橋―御蔵前通りー黒船町―駒形町―雷神門前通りー東仲町―田原町―報恩寺前―そして目的地の浅草東本願寺であった。この道筋は、当時一番の繁華な通りであり、百人組頭・与力・同心らが道固めをした。
この町々の名前、それぞれに由来が分かるようで楽しい。品川から新橋―京橋―日本橋という道筋は今の銀座中央通りを北上したのだろうか。さらに日本橋を渡り進路をやや東に向け隅田川に沿って下町を練り歩いた。下町にはこのほか人形町、馬喰町、御徒町など、江戸時代劇でおなじみの名前が並ぶ。まさに江戸市民の息吹が充満する中を、通信使一行は、このときばかりは威儀を整え乱れることなく歩を進める。
「道筋に当たる商店に桟敷を作り、お得意さんを招待して見物させ、庶民は道の両側に立錐の余地もなく立って見ている。」引用本
道路だけではない、「五つ六つの太鼓橋を通り過ぎると、橋の下には見物人が船を連ねて陸地をなしていた」(朝鮮側『奉使録』)
水面も見えないほど見物の船が蝟集していたのだ。
http://pragmatism.blog2.fc2.com/blog-entry-469.htmlこの異常な人気ぶりは現代の韓流などといった怪しげなものではない。言ってみれば生き返ったマイケル・ジャクソンがキグレサーカスを先導に銀座中央通りをパレードするような騒ぎだ。
そもそも五百名もの異装の外国人がガンガラガンガラ銅鑼をたたきながら市中を練り歩くのである。大衆の耳目が楽しめないはずがない。当時の庶民の人工的な娯楽といえば河原芸見物は多少高価で辻系・門付け系がせいぜいであって、後は自然を愛でるか祭りや正月などの年間行事だ。そんな行事は年に一回必ずめぐって来るが、異国のパレードは徳川将軍の代が変わったときだけで、生涯2度見学できれば上々なのである。そんなわけで回を追うごとに通信使の娯楽性が高まり、この年の四月に幕府はついに、「通信使の見物は、惣体美々しくしてはいけない。祭礼のときのような衣類や、伊達な衣服は不埒である」と触れを出す。
このときに合わせて衣服を新調するのも一つの風潮となっていた。幕府は天下に徳川家の威信を示すという目的とは違った効果に戸惑い、その効果が見過ごせないレベルまで昂じてこのような触れが出るまでにいたったのだ。なんにしても、日本の庶民の朝鮮人通信使パレードの受け止め方がこうであった。
さて、彼らはゆるゆると4時間かけて品川から浅草東本願寺に到着する。ここで帰国の途につく6月13日まで23日間滞在することになるのだ。
さてこの年の旧暦と現在の新暦とのズレは26日間である。つまり江戸滞在期間は新暦に直せば6月16日から7月12日であった。まさに今の時期、梅雨の真っ最中である。ここで下官たちのあいだに変なうわさが流れる。「衣服を選択するのは他国において貧困を表すことになるので、この禁を犯すものは重罪になる」というもので、折からの長雨もあってかれらは着の身着のままで過ごす。下官たちの宿舎は東本願寺の境内に仮小屋を建てて住まわせていたが、数百人にも上る人数である。梅雨の暑さに蒸された悪臭はあたりに漂い、近隣の庶民はその異臭の出所は分かるとしても何から発しているものか見当もつかず、鼻を曲げて我慢するほかなかった。
さすがに気がついた通信使の上司が驚いて流言を取り鎮めたとあるが、なにか松本市サリン事件を思い出して不謹慎だが頬がゆるむ。あの事件の元凶麻原彰晃も日本人の血が一滴も流れていない風呂嫌いな朝鮮人だった。
さて、彼らが晴れの江戸城登城日は二十七日にすると幕府より通達がある。しかし彼らは出立直後の対馬で副使船を献納物もろとも焼失し、その補充品が到着するまで登城を延ばしてほしいという。
幕府側(対馬藩)は、延期はできない、未到着の品は空櫃だけの目録として、後日届ければいい、と説得したが朝鮮側は納得せず、世話役の対馬藩としてはもう一度幕府に図らなければならなくなった。
一刻後、恒例のとおり、林大学頭が息子の図所頭と中村深蔵(3人とも引用本に所属役職は不記載)を伴って通信使に謁見を乞う。通信使側は何かの駆け引きのつもりなのか、前例にないからと随員の中村深蔵のみ同席を拒む。しかしここは対馬藩に「将軍から命を受けてきた者であるぞ」と威儀を正して睨まれ、即座に撤回して謁見を許す。
つづく
これは メッセージ 1 (hendazo04 さん)への返信です.
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