朝鮮通信使 22
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/08/23 09:32 投稿番号: [349 / 402]
帰路、彼らは憑きものが落ちたように良い顔をみせる。極暑の候である、「暑気あたりで倒れるものがかなり出て、薬を飲ませみな回復したとある。・・途中の道々では、老人たちが信使たちに向かい『サラバサラバ』といって合掌したり、乗り物に乗った見物人が蜜柑をくれたり、村人がマクワ瓜などを渡したり、あちこちで庶民との交換風景がみられた。」引用本
意外と悪いやつらではないという気もするのだが・・。
六月十五日 晴、「日の出とともに大磯を発つ。・・田園の案山子をみて、人形が弓を引いて鳥を追い払うのは朝鮮と同じであるという。また高麗という名の村を通り興味を持って名の由来を尋ねさせると、村人は裏山が高麗山というからと答えたという。昭和10年刊行の『武蔵高麗神社説』によると、新羅が朝鮮半島を統一した後、日本に亡命した高麗人によって、大磯村の一地区に高麗郡がおかれたとある。」
半島由来の地名は高麗・新羅・百済など各地で散見できるし、佐賀の知り合いに百済(しゃくさいと読む)という人がいる。彼らなんかは明確に亡命人の子孫だろうな。現在の韓国人も、日本国内における半島由来の命名に上気しホルホルするが、このときの通信使達も同じ心持だったろう。
逆に半島内における日本由来の地名、いや、それどころが歴史的遺物まで徹底して捏造、抹殺、日本の半島における文化的影響はゼロであると強弁する朝鮮人、・・やはり良い人たちではないようだ。 相模小田原泊。
六月十六日 晴、「畑宿の民家でやすんだ。ここの庭は、裏庭からの流れが小瀑布となり、落ちた水が石の階段を巡り、怪石が入り混じって聳え、花竹が生い茂り、それらと対座していると気宇壮大になり旅路の苦しさを忘れさせる」奉使録
「来たときと同じようにまた苦しい箱根越えをして、休息所に入る。芦ノ湖に船を浮かべ、すばらしい景色を眺めていっとき遊んだ。往路とちがって帰路は大任を果たした安心感からか、景色を楽しむ余裕もでき、のびのびと旅をしている様子がうかがわれる」引用本 伊豆三島泊
六月十七日 曇りのち晴
よほど心がはやるのだろう。今日も夜明けに出発し昼には吉原に着く。道行きにつれ富士山が見えてくる。流麗な描写力をお楽しみあれ。
「・・傍らの峯を遠く退けて一人立って天を支えるが如く、また霞や雲が頂上を覆うことができずその半腰を取り巻いているにすぎない。時に海に立ち籠めた濃い霧が全体を覆って姿が見えなくなっても、一陣の風が吹くと丸みがかった山頂の雪の光が忽然と天上に浮かび、通り過ぎながら望見する視線を暫時も
離させない。頂上には大きな池があり雪が四季絶えず残っているという・・いま仰ぐ富士山は往路のときの真っ白とは異なり、山頂の白はなく所々に絹の織物地のようの残っているだけである・・(略)」奉使録
通信使行列のフィバーは帰路も盛んだったようだ。
「道中日本人が、絹の掛け軸や紙を板に貼ったものを携え、硯と筆を持って道端に並んで、頭を下げて揮毫を乞うたり、子供が紙で作った冠や陣笠または朝鮮人の軍服などを着け、草の葉で喇叭の形をしたものを作って吹いて遊んでいるという。このようなことが大人の間にも流行り、仮装したり、行列の真似事をしたことが、祭りの行事として各地に伝わったのであろう」引用本
それを幕府は快く思わなかった。
「近頃町々に於いて朝鮮人の衣装を写し 鳴り物等交え 夜に入って町々にて辻踊り致し候 若批以後右躰の儀有之は召捕 当主名主まで急度咎可申し付け候」という触れが幕府より出る。「朝鮮人の様子を真似て踊る辻踊りが咎められたのだが、町の人びとがいかに通信使の行列に魅せられ、それを真似た装束や楽器で町中に繰り出し踊りを楽しんでいたことが窺える」引用本
朝鮮人の真似をしたら本人が召捕られるばかりか名主まで咎が及ぶというのだから、かなり厳しい規制だ。
幕府の意図はなんだったのだろう。日本古来の習俗が異国文化に侵されるのを嫌ったのだろうか。この点日本の多くの年間行事の起点がシナであり、それを少しも厭わなかったことと較べると面妖である。 駿河藤枝泊
六月十八日 晴
「・・出発し、安倍川を輦台で渡り、宇津谷峠を越えて岡部宿の茶屋で休憩した。茶屋には人物画の軸がたくさん掛けてあったが、その中に加藤清正の画像をみつけ、凶賊清正と罵っている。150年を経ても秀吉や清正を憎む気持ちは少しも消えていない」引用本
「午後八時ごろ藤枝の客館に着いた。厳しい暑さで異常に喉を渇かす者が多く、前途はまだ遠いのにと三使は案じている』引用本
つづく
六月十五日 晴、「日の出とともに大磯を発つ。・・田園の案山子をみて、人形が弓を引いて鳥を追い払うのは朝鮮と同じであるという。また高麗という名の村を通り興味を持って名の由来を尋ねさせると、村人は裏山が高麗山というからと答えたという。昭和10年刊行の『武蔵高麗神社説』によると、新羅が朝鮮半島を統一した後、日本に亡命した高麗人によって、大磯村の一地区に高麗郡がおかれたとある。」
半島由来の地名は高麗・新羅・百済など各地で散見できるし、佐賀の知り合いに百済(しゃくさいと読む)という人がいる。彼らなんかは明確に亡命人の子孫だろうな。現在の韓国人も、日本国内における半島由来の命名に上気しホルホルするが、このときの通信使達も同じ心持だったろう。
逆に半島内における日本由来の地名、いや、それどころが歴史的遺物まで徹底して捏造、抹殺、日本の半島における文化的影響はゼロであると強弁する朝鮮人、・・やはり良い人たちではないようだ。 相模小田原泊。
六月十六日 晴、「畑宿の民家でやすんだ。ここの庭は、裏庭からの流れが小瀑布となり、落ちた水が石の階段を巡り、怪石が入り混じって聳え、花竹が生い茂り、それらと対座していると気宇壮大になり旅路の苦しさを忘れさせる」奉使録
「来たときと同じようにまた苦しい箱根越えをして、休息所に入る。芦ノ湖に船を浮かべ、すばらしい景色を眺めていっとき遊んだ。往路とちがって帰路は大任を果たした安心感からか、景色を楽しむ余裕もでき、のびのびと旅をしている様子がうかがわれる」引用本 伊豆三島泊
六月十七日 曇りのち晴
よほど心がはやるのだろう。今日も夜明けに出発し昼には吉原に着く。道行きにつれ富士山が見えてくる。流麗な描写力をお楽しみあれ。
「・・傍らの峯を遠く退けて一人立って天を支えるが如く、また霞や雲が頂上を覆うことができずその半腰を取り巻いているにすぎない。時に海に立ち籠めた濃い霧が全体を覆って姿が見えなくなっても、一陣の風が吹くと丸みがかった山頂の雪の光が忽然と天上に浮かび、通り過ぎながら望見する視線を暫時も
離させない。頂上には大きな池があり雪が四季絶えず残っているという・・いま仰ぐ富士山は往路のときの真っ白とは異なり、山頂の白はなく所々に絹の織物地のようの残っているだけである・・(略)」奉使録
通信使行列のフィバーは帰路も盛んだったようだ。
「道中日本人が、絹の掛け軸や紙を板に貼ったものを携え、硯と筆を持って道端に並んで、頭を下げて揮毫を乞うたり、子供が紙で作った冠や陣笠または朝鮮人の軍服などを着け、草の葉で喇叭の形をしたものを作って吹いて遊んでいるという。このようなことが大人の間にも流行り、仮装したり、行列の真似事をしたことが、祭りの行事として各地に伝わったのであろう」引用本
それを幕府は快く思わなかった。
「近頃町々に於いて朝鮮人の衣装を写し 鳴り物等交え 夜に入って町々にて辻踊り致し候 若批以後右躰の儀有之は召捕 当主名主まで急度咎可申し付け候」という触れが幕府より出る。「朝鮮人の様子を真似て踊る辻踊りが咎められたのだが、町の人びとがいかに通信使の行列に魅せられ、それを真似た装束や楽器で町中に繰り出し踊りを楽しんでいたことが窺える」引用本
朝鮮人の真似をしたら本人が召捕られるばかりか名主まで咎が及ぶというのだから、かなり厳しい規制だ。
幕府の意図はなんだったのだろう。日本古来の習俗が異国文化に侵されるのを嫌ったのだろうか。この点日本の多くの年間行事の起点がシナであり、それを少しも厭わなかったことと較べると面妖である。 駿河藤枝泊
六月十八日 晴
「・・出発し、安倍川を輦台で渡り、宇津谷峠を越えて岡部宿の茶屋で休憩した。茶屋には人物画の軸がたくさん掛けてあったが、その中に加藤清正の画像をみつけ、凶賊清正と罵っている。150年を経ても秀吉や清正を憎む気持ちは少しも消えていない」引用本
「午後八時ごろ藤枝の客館に着いた。厳しい暑さで異常に喉を渇かす者が多く、前途はまだ遠いのにと三使は案じている』引用本
つづく
これは メッセージ 346 (hendazo04 さん)への返信です.
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