朝鮮通信使 18
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/07/26 08:16 投稿番号: [336 / 402]
「身は青黒色の絹の道袍をまとい、顔色は瘠せて黒くて狭くて長くて、あたかも燃え差しの古木の切り株のようである」(今回通信使の奉使録)
これは通信使が現将軍家重を描写したものだが、家重に限らず日本人を評するに、彼らの描写、解釈は大体このようなものである。比べると、いかに吉宗が別格に見られているかがわかる。
たとえば、家康が秀忠に将軍職を継がせたからといって、存命する限り万人の目は大御所に注がれる。外国人が儀礼的な謁見を願うのは秀忠ではなく家康であろう。通信使たちも国へ帰ってからの報告に、酒席の話題に、大いに吉宗を語りたかったと思う。しかし、
「西の丸では大御所吉宗と大納言家治が会見のはずであったが、吉宗は御不予のため欠礼し、・・・
吉宗の御不予はこの拝礼に原因があるとの説もある」
と、引用本の著者もいうように、西の丸で吉宗に四拝して欲しいとの幕府の要求を、前例にないことと峻拒したことに対する、これは吉宗の鼻パッチンであろう。でも日本は本物の「礼儀の那」である。通信使が「昨日西の丸で大御所にお目にかかれずこのまま帰国するのは残念」と、再度の会見に水を向けるも、
「大御所は病をおしても会うと言われたが、家来が病気の悪化を憂慮して取りやめました」と返答をはぐらかす。結局彼らは大御所の尊顔を仰ぐことなく帰国することになる。
ついでに日本の邦楽を彼らはこう描写する。なかなか面白い。
「小さい太鼓に短い鼓・・漆笛は短小で音節がつづかず胡弓、琵琶にいたっても弦が三、四の外はなく一層音にならぬが、ただ作り方が精巧なだけである。本を持ったもの七、八人が順次に並んで座っているが、いわゆる歌人である。本を広げて合唱するが、最初には老僧が念仏するようだが、さらに盲人が経を唱える声のようであるが、次第に咆哮する如き声をだし音声を一際高めて声を出し、顔を真っ赤に染めて咽筋が飛び出て、頭を振り動かして口を動かす奇怪なる形状はみな記すことはできない」
はっはっは。まあ、この辺は悪口とはいえないようだ。
起源はともかく、江戸時代までに用いられていた和楽器は琴、三味線、太鼓、鼓、尺八、琵琶、笛などが思いつき、日本人ならそれぞれの音声にそれぞれの情緒を感じるが、これらの合奏はどうもいただけないような気がする。
オーケストラの語源はギリシャというように、音楽は楽器とも西洋が突出していたようだ。中国なんか銅鑼が前面に出て耐えにくい喧騒でしかない。で、李氏朝鮮のころはどのような音楽や楽器があったのだろうか。
さてさて旧暦の六月一日、いよいよ朝鮮通信使節団の死命である国書呈上の儀が江戸城本丸で執り行われる。前夜には日本側から奉行や裁判たちが来て綿密なリハーサルが行われている。通信使一行の高揚感と緊張はいやが上にも高まった。
「三使は金冠朝服を、上役の者らは黒団領を、軍官らは戎服に弓矢袋を背負った総勢三四八人が列を組んで江戸城へ向った」(引用本)
緊張の余り歩き方を間違えて左右の手足を同時に進める奴もいただろう。もつれて転ぶ者もいたかも知れない。
四ツ時(午前一〇時)に東本願寺を出発、―東仲町―観音雷神門前―駒形町―御蔵前通−浅草橋御門―横山町通―本町通ー常盤橋御門―松平兵部太夫屋敷前―小笠原右近将監屋敷―定御小屋前―大手御門と辿る。
明治以来の道路整備や御門の移動で、今のグーグルアースでは大手門への進入口の正確な状態を知ることはできなく、引用本でもいきなり「内堀の大手御門の橋の前に下馬札が立っており、上官以下は下馬して武器をすべて預けて入り、下官らはここで待つ」(引用本)とある。
この場所には現在高麗門が堂々と迎えているが引用本には描写がない。後年移されたものだろうか。そこから直線で西に200メートルほどのところに「本丸跡」という広場が見える。ここには400畳の大広間があって、国書呈上の儀は諸大名の居並ぶ中、ここで執り行われた。
さすが国と国との儀礼である。儀式は厳かに大げさに、神道的形式美を以って進行する。引用本には出席者の名前や席順から式次第の細部にいたるまで書かれているが、煩雑に過ぎるので割愛する。また儀式終了後饗応となるが、その献立に「犬皮焼」というのがあってぎょっとさせられた。通信使用に支度したのかと思ったが内容は「上白糖に卵を加え混ぜ小麦粉を加え、こねて丸める。小麦粉の手粉でこれを包み弱火で焼く」と説明されている。
いますぐにでも作れる料理だが、これが「犬の皮」に模されるというのだろうか。
つづく
これは通信使が現将軍家重を描写したものだが、家重に限らず日本人を評するに、彼らの描写、解釈は大体このようなものである。比べると、いかに吉宗が別格に見られているかがわかる。
たとえば、家康が秀忠に将軍職を継がせたからといって、存命する限り万人の目は大御所に注がれる。外国人が儀礼的な謁見を願うのは秀忠ではなく家康であろう。通信使たちも国へ帰ってからの報告に、酒席の話題に、大いに吉宗を語りたかったと思う。しかし、
「西の丸では大御所吉宗と大納言家治が会見のはずであったが、吉宗は御不予のため欠礼し、・・・
吉宗の御不予はこの拝礼に原因があるとの説もある」
と、引用本の著者もいうように、西の丸で吉宗に四拝して欲しいとの幕府の要求を、前例にないことと峻拒したことに対する、これは吉宗の鼻パッチンであろう。でも日本は本物の「礼儀の那」である。通信使が「昨日西の丸で大御所にお目にかかれずこのまま帰国するのは残念」と、再度の会見に水を向けるも、
「大御所は病をおしても会うと言われたが、家来が病気の悪化を憂慮して取りやめました」と返答をはぐらかす。結局彼らは大御所の尊顔を仰ぐことなく帰国することになる。
ついでに日本の邦楽を彼らはこう描写する。なかなか面白い。
「小さい太鼓に短い鼓・・漆笛は短小で音節がつづかず胡弓、琵琶にいたっても弦が三、四の外はなく一層音にならぬが、ただ作り方が精巧なだけである。本を持ったもの七、八人が順次に並んで座っているが、いわゆる歌人である。本を広げて合唱するが、最初には老僧が念仏するようだが、さらに盲人が経を唱える声のようであるが、次第に咆哮する如き声をだし音声を一際高めて声を出し、顔を真っ赤に染めて咽筋が飛び出て、頭を振り動かして口を動かす奇怪なる形状はみな記すことはできない」
はっはっは。まあ、この辺は悪口とはいえないようだ。
起源はともかく、江戸時代までに用いられていた和楽器は琴、三味線、太鼓、鼓、尺八、琵琶、笛などが思いつき、日本人ならそれぞれの音声にそれぞれの情緒を感じるが、これらの合奏はどうもいただけないような気がする。
オーケストラの語源はギリシャというように、音楽は楽器とも西洋が突出していたようだ。中国なんか銅鑼が前面に出て耐えにくい喧騒でしかない。で、李氏朝鮮のころはどのような音楽や楽器があったのだろうか。
さてさて旧暦の六月一日、いよいよ朝鮮通信使節団の死命である国書呈上の儀が江戸城本丸で執り行われる。前夜には日本側から奉行や裁判たちが来て綿密なリハーサルが行われている。通信使一行の高揚感と緊張はいやが上にも高まった。
「三使は金冠朝服を、上役の者らは黒団領を、軍官らは戎服に弓矢袋を背負った総勢三四八人が列を組んで江戸城へ向った」(引用本)
緊張の余り歩き方を間違えて左右の手足を同時に進める奴もいただろう。もつれて転ぶ者もいたかも知れない。
四ツ時(午前一〇時)に東本願寺を出発、―東仲町―観音雷神門前―駒形町―御蔵前通−浅草橋御門―横山町通―本町通ー常盤橋御門―松平兵部太夫屋敷前―小笠原右近将監屋敷―定御小屋前―大手御門と辿る。
明治以来の道路整備や御門の移動で、今のグーグルアースでは大手門への進入口の正確な状態を知ることはできなく、引用本でもいきなり「内堀の大手御門の橋の前に下馬札が立っており、上官以下は下馬して武器をすべて預けて入り、下官らはここで待つ」(引用本)とある。
この場所には現在高麗門が堂々と迎えているが引用本には描写がない。後年移されたものだろうか。そこから直線で西に200メートルほどのところに「本丸跡」という広場が見える。ここには400畳の大広間があって、国書呈上の儀は諸大名の居並ぶ中、ここで執り行われた。
さすが国と国との儀礼である。儀式は厳かに大げさに、神道的形式美を以って進行する。引用本には出席者の名前や席順から式次第の細部にいたるまで書かれているが、煩雑に過ぎるので割愛する。また儀式終了後饗応となるが、その献立に「犬皮焼」というのがあってぎょっとさせられた。通信使用に支度したのかと思ったが内容は「上白糖に卵を加え混ぜ小麦粉を加え、こねて丸める。小麦粉の手粉でこれを包み弱火で焼く」と説明されている。
いますぐにでも作れる料理だが、これが「犬の皮」に模されるというのだろうか。
つづく
これは メッセージ 1 (hendazo04 さん)への返信です.
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