朝鮮通信使27
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/09/25 06:45 投稿番号: [359 / 402]
一行は釜山で暫時休憩したのち、夏の終わりの8月30日に漢城に到着した。
彼らの旅は昨年11月の末に漢城を出発してから、半島内も含め丸九ヶ月にも及んだ。オレも一週間に一回、文字制限の1800内外のペースで「日本見聞録に見る朝鮮通信使 西村毬子著」を紹介してきたが、始まったのはいつだったろう。ハードカバー4百余ページのこの本も残り数枚になった。人情であろう、彼らの行動につぶさに付き合ってみると情もわいてくる。何人かの死者を出した災禍はあったが、まあ、任務を全うできて帰還でき、よかったなと自然に感じてしまうのだ。
さて、三使は朝廷に上がり英祖に復命する。要約は、
1−江戸については、江戸城は城壁や濠をめぐらし堅固であり、市街地は規制によって整然とし、殷賑さは中国に過ぎること。
2−軍事については、『軍法を以て立国』であり、法令が厳然として行き渡っており、諸侯が参府中で自領を留守にしていても統治がなされていること。
3−文化については、民衆は詩文などを尊ばず、僧徒のみが文字を解して使臣(通信使)との提唱を望むこと。
4−通信使に関しては、信使の渡来を幕府は諸侯に『朝鮮入貢』として知らせていること。いままでの使行はこれを知りながら紛争を恐れて知らぬ態度をとっていたこと。(近世日朝関係史の研究)三宅英利著
更に観察の詳細を従事官が『聞見総録』として、倭京、江戸、対馬島、総論に分けて記述している。
「一、倭京
倭京すなわち西京のことで京都を指す。山河の堅固な要塞はないが、壮麗で宏大で帝王の都邑に相応しい。関白が国権を握って以来、倭皇は年号制定と官職任命の権限しかない。
巷間に豪傑の士はあるが、官職が世襲なので用いられることがなく、軍を起こそうとしても叶えられない。しかし、国中の大名が関白に腹をたて立ち上がれば、国内の変はないとは限らない。
倭京の大仏寺に朝鮮人耳塚がある。秀吉の朝鮮侵略のおり、耳と鼻を切って埋め仏寺を建てたところである。享保度のとき、この寺での関白の饗応を謝絶したが、御行した対馬藩士が秘史を見せて、寺の建立は秀吉ではなく家光であるとしたので饗応を受けたが、『三才図』を見ると明らかに秀吉の建立であり、対馬藩士に偽られたのである。しかしこのたびは対馬藩が面倒な争いを避けるため、講定説目に大仏寺饗応のことを削除したのは幸いなことであった。
一、 江戸
南方は大海に臨みまわりは山に囲まれ防備がよい。江戸城の構造は、家康が城濠を改築して三重に作り、東西南北に各々千余町があり一町は百戸である。
第一城内には家臣が住み、第二第三城内には市民が暮らしている。
大きな州と都会地は関白の親族や私人を派遣して大名とし、肥沃な地は天領としている。
海水を煮て塩を作り、山を掘って金を作り公私ともに裕福であり、国内は平和で戦争を知らない。
国政は執政に委任し、執政は家老に、各州の大名も政を奉行に委任して各自が奢侈華麗な暮らしをし、礼節が乱れている。
前関白吉宗は精悍で度量・才能に恵まれ勇気があり、猟を好み、天性倹約化で木綿の衣服を着用し、質実な政務をおこない、みなから信頼された。三人の息子があり、長男が現関白であるが、その任に耐えないとして次男に譲ろうとした。しかし家重の息子家治が生まれ、彼が聡明であるのを愛で、家治が少しでも早く関白につけるよう自分は隠退して家重に譲った。人々は家重の代は10年内であろうといっている。
納税は、関西では金で納め、関東では穀物で納める。田地は四公六民である。
関白が就位しても、倭皇にはただ黄金と絹10駄を送って礼物とし、毎月若干の貢物を献上して安否を尋ねるだけである。
吉宗のときから倉庫は充溢しており、今回の使行のために使用した公私の回礼銀は、みな江戸の倉庫から搬出され、いかに銀貨が充満しているかが知れる。
また、ある日本人が賊秀吉について『豊臣の朝鮮侵略は朝鮮に怨恨をもたらしたが、もし豊臣が日本統一をしなければ沿海諸島の日本人の倭寇は収まらなかったろう。豊臣は莫大な恩恵を与えたのだ』という。日本人がこのような言辞をなすのは奇異とするほどのことではない」引用本
いまのところ、なかなかの洞察と言えるだろう。無駄な9ヶ月間ではなかったようだが、秀吉の『倭寇退治』の日本人の言い分には首肯できないようだ。
つづく
彼らの旅は昨年11月の末に漢城を出発してから、半島内も含め丸九ヶ月にも及んだ。オレも一週間に一回、文字制限の1800内外のペースで「日本見聞録に見る朝鮮通信使 西村毬子著」を紹介してきたが、始まったのはいつだったろう。ハードカバー4百余ページのこの本も残り数枚になった。人情であろう、彼らの行動につぶさに付き合ってみると情もわいてくる。何人かの死者を出した災禍はあったが、まあ、任務を全うできて帰還でき、よかったなと自然に感じてしまうのだ。
さて、三使は朝廷に上がり英祖に復命する。要約は、
1−江戸については、江戸城は城壁や濠をめぐらし堅固であり、市街地は規制によって整然とし、殷賑さは中国に過ぎること。
2−軍事については、『軍法を以て立国』であり、法令が厳然として行き渡っており、諸侯が参府中で自領を留守にしていても統治がなされていること。
3−文化については、民衆は詩文などを尊ばず、僧徒のみが文字を解して使臣(通信使)との提唱を望むこと。
4−通信使に関しては、信使の渡来を幕府は諸侯に『朝鮮入貢』として知らせていること。いままでの使行はこれを知りながら紛争を恐れて知らぬ態度をとっていたこと。(近世日朝関係史の研究)三宅英利著
更に観察の詳細を従事官が『聞見総録』として、倭京、江戸、対馬島、総論に分けて記述している。
「一、倭京
倭京すなわち西京のことで京都を指す。山河の堅固な要塞はないが、壮麗で宏大で帝王の都邑に相応しい。関白が国権を握って以来、倭皇は年号制定と官職任命の権限しかない。
巷間に豪傑の士はあるが、官職が世襲なので用いられることがなく、軍を起こそうとしても叶えられない。しかし、国中の大名が関白に腹をたて立ち上がれば、国内の変はないとは限らない。
倭京の大仏寺に朝鮮人耳塚がある。秀吉の朝鮮侵略のおり、耳と鼻を切って埋め仏寺を建てたところである。享保度のとき、この寺での関白の饗応を謝絶したが、御行した対馬藩士が秘史を見せて、寺の建立は秀吉ではなく家光であるとしたので饗応を受けたが、『三才図』を見ると明らかに秀吉の建立であり、対馬藩士に偽られたのである。しかしこのたびは対馬藩が面倒な争いを避けるため、講定説目に大仏寺饗応のことを削除したのは幸いなことであった。
一、 江戸
南方は大海に臨みまわりは山に囲まれ防備がよい。江戸城の構造は、家康が城濠を改築して三重に作り、東西南北に各々千余町があり一町は百戸である。
第一城内には家臣が住み、第二第三城内には市民が暮らしている。
大きな州と都会地は関白の親族や私人を派遣して大名とし、肥沃な地は天領としている。
海水を煮て塩を作り、山を掘って金を作り公私ともに裕福であり、国内は平和で戦争を知らない。
国政は執政に委任し、執政は家老に、各州の大名も政を奉行に委任して各自が奢侈華麗な暮らしをし、礼節が乱れている。
前関白吉宗は精悍で度量・才能に恵まれ勇気があり、猟を好み、天性倹約化で木綿の衣服を着用し、質実な政務をおこない、みなから信頼された。三人の息子があり、長男が現関白であるが、その任に耐えないとして次男に譲ろうとした。しかし家重の息子家治が生まれ、彼が聡明であるのを愛で、家治が少しでも早く関白につけるよう自分は隠退して家重に譲った。人々は家重の代は10年内であろうといっている。
納税は、関西では金で納め、関東では穀物で納める。田地は四公六民である。
関白が就位しても、倭皇にはただ黄金と絹10駄を送って礼物とし、毎月若干の貢物を献上して安否を尋ねるだけである。
吉宗のときから倉庫は充溢しており、今回の使行のために使用した公私の回礼銀は、みな江戸の倉庫から搬出され、いかに銀貨が充満しているかが知れる。
また、ある日本人が賊秀吉について『豊臣の朝鮮侵略は朝鮮に怨恨をもたらしたが、もし豊臣が日本統一をしなければ沿海諸島の日本人の倭寇は収まらなかったろう。豊臣は莫大な恩恵を与えたのだ』という。日本人がこのような言辞をなすのは奇異とするほどのことではない」引用本
いまのところ、なかなかの洞察と言えるだろう。無駄な9ヶ月間ではなかったようだが、秀吉の『倭寇退治』の日本人の言い分には首肯できないようだ。
つづく
これは メッセージ 1 (hendazo04 さん)への返信です.
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