朝鮮通信使 15
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/07/02 08:39 投稿番号: [326 / 402]
品川で一泊するといよいよ江戸入りである。空は小雨模様だが後には晴れた。
「午前十時、上級信使らは鳥紗帽に紅団領を着け、そのほかの信使一行も礼服に身をかため、いよいよ江戸市中に向け宿舎を出発した。
行程は、芝車町大木戸―芝口橋(新橋)―京橋―日本橋―大伝馬町―旅籠町―油町―塩町―浅草御門前町―瓦町―鳥越橋―御蔵前通りー黒船町―駒形町―雷神門前通りー東仲町―田原町―報恩寺前―そして目的地の浅草東本願寺であった。この道筋は、当時一番の繁華な通りであり、百人組頭・与力・同心らが道固めをした。
この町々の名前、それぞれに由来が分かるようで楽しい。品川から新橋―京橋―日本橋という道筋は今の銀座中央通りを北上したのだろうか。さらに日本橋を渡り進路をやや東に向け隅田川に沿って下町を練り歩いた。下町にはこのほか人形町、馬喰町、御徒町など、江戸時代劇でおなじみの名前が並ぶ。まさに江戸市民の息吹が充満する中を、通信使一行は、このときばかりは威儀を整え乱れることなく歩を進める。
「道筋に当たる商店に桟敷を作り、お得意さんを招待して見物させ、庶民は道の両側に立錐の余地もなく立って見ている。」引用本
道路だけではない、「五つ六つの太鼓橋を通り過ぎると、橋の下には見物人が船を連ねて陸地をなしていた」(朝鮮側『奉使録』)
水面も見えないほど見物の船が蝟集していたのだ。
http://pragmatism.blog2.fc2.com/blog-entry-469.html
この異常な人気ぶりは現代の韓流などといった怪しげなものではない。言ってみれば生き返ったマイケル・ジャクソンがキグレサーカスを先導に銀座中央通りをパレードするような騒ぎだ。
そもそも五百名もの異装の外国人がガンガラガンガラ銅鑼をたたきながら市中を練り歩くのである。大衆の耳目が楽しめないはずがない。当時の庶民の人工的な娯楽といえば河原芸見物は多少高価で辻系・門付け系がせいぜいであって、後は自然を愛でるか祭りや正月などの年間行事だ。そんな行事は年に一回必ずめぐって来るが、異国のパレードは徳川将軍の代が変わったときだけで、生涯2度見学できれば上々なのである。そんなわけで回を追うごとに通信使の娯楽性が高まり、この年の四月に幕府はついに、「通信使の見物は、惣体美々しくしてはいけない。祭礼のときのような衣類や、伊達な衣服は不埒である」と触れを出す。
このときに合わせて衣服を新調するのも一つの風潮となっていた。幕府は天下に徳川家の威信を示すという目的とは違った効果に戸惑い、その効果が見過ごせないレベルまで昂じてこのような触れが出るまでにいたったのだ。なんにしても、日本の庶民の朝鮮人通信使パレードの受け止め方がこうであった。
さて、彼らはゆるゆると4時間かけて品川から浅草東本願寺に到着する。ここで帰国の途につく6月13日まで23日間滞在することになるのだ。
さてこの年の旧暦と現在の新暦とのズレは26日間である。つまり江戸滞在期間は新暦に直せば6月16日から7月12日であった。まさに今の時期、梅雨の真っ最中である。ここで下官たちのあいだに変なうわさが流れる。「衣服を選択するのは他国において貧困を表すことになるので、この禁を犯すものは重罪になる」というもので、折からの長雨もあってかれらは着の身着のままで過ごす。下官たちの宿舎は東本願寺の境内に仮小屋を建てて住まわせていたが、数百人にも上る人数である。梅雨の暑さに蒸された悪臭はあたりに漂い、近隣の庶民はその異臭の出所は分かるとしても何から発しているものか見当もつかず、鼻を曲げて我慢するほかなかった。
さすがに気がついた通信使の上司が驚いて流言を取り鎮めたとあるが、なにか松本市サリン事件を思い出して不謹慎だが頬がゆるむ。あの事件の元凶麻原彰晃も日本人の血が一滴も流れていない風呂嫌いな朝鮮人だった。
さて、彼らが晴れの江戸城登城日は二十七日にすると幕府より通達がある。しかし彼らは出立直後の対馬で副使船を献納物もろとも焼失し、その補充品が到着するまで登城を延ばしてほしいという。
幕府側(対馬藩)は、延期はできない、未到着の品は空櫃だけの目録として、後日届ければいい、と説得したが朝鮮側は納得せず、世話役の対馬藩としてはもう一度幕府に図らなければならなくなった。
一刻後、恒例のとおり、林大学頭が息子の図所頭と中村深蔵(3人とも引用本に所属役職は不記載)を伴って通信使に謁見を乞う。通信使側は何かの駆け引きのつもりなのか、前例にないからと随員の中村深蔵のみ同席を拒む。しかしここは対馬藩に「将軍から命を受けてきた者であるぞ」と威儀を正して睨まれ、即座に撤回して謁見を許す。
つづく
「午前十時、上級信使らは鳥紗帽に紅団領を着け、そのほかの信使一行も礼服に身をかため、いよいよ江戸市中に向け宿舎を出発した。
行程は、芝車町大木戸―芝口橋(新橋)―京橋―日本橋―大伝馬町―旅籠町―油町―塩町―浅草御門前町―瓦町―鳥越橋―御蔵前通りー黒船町―駒形町―雷神門前通りー東仲町―田原町―報恩寺前―そして目的地の浅草東本願寺であった。この道筋は、当時一番の繁華な通りであり、百人組頭・与力・同心らが道固めをした。
この町々の名前、それぞれに由来が分かるようで楽しい。品川から新橋―京橋―日本橋という道筋は今の銀座中央通りを北上したのだろうか。さらに日本橋を渡り進路をやや東に向け隅田川に沿って下町を練り歩いた。下町にはこのほか人形町、馬喰町、御徒町など、江戸時代劇でおなじみの名前が並ぶ。まさに江戸市民の息吹が充満する中を、通信使一行は、このときばかりは威儀を整え乱れることなく歩を進める。
「道筋に当たる商店に桟敷を作り、お得意さんを招待して見物させ、庶民は道の両側に立錐の余地もなく立って見ている。」引用本
道路だけではない、「五つ六つの太鼓橋を通り過ぎると、橋の下には見物人が船を連ねて陸地をなしていた」(朝鮮側『奉使録』)
水面も見えないほど見物の船が蝟集していたのだ。
http://pragmatism.blog2.fc2.com/blog-entry-469.html
この異常な人気ぶりは現代の韓流などといった怪しげなものではない。言ってみれば生き返ったマイケル・ジャクソンがキグレサーカスを先導に銀座中央通りをパレードするような騒ぎだ。
そもそも五百名もの異装の外国人がガンガラガンガラ銅鑼をたたきながら市中を練り歩くのである。大衆の耳目が楽しめないはずがない。当時の庶民の人工的な娯楽といえば河原芸見物は多少高価で辻系・門付け系がせいぜいであって、後は自然を愛でるか祭りや正月などの年間行事だ。そんな行事は年に一回必ずめぐって来るが、異国のパレードは徳川将軍の代が変わったときだけで、生涯2度見学できれば上々なのである。そんなわけで回を追うごとに通信使の娯楽性が高まり、この年の四月に幕府はついに、「通信使の見物は、惣体美々しくしてはいけない。祭礼のときのような衣類や、伊達な衣服は不埒である」と触れを出す。
このときに合わせて衣服を新調するのも一つの風潮となっていた。幕府は天下に徳川家の威信を示すという目的とは違った効果に戸惑い、その効果が見過ごせないレベルまで昂じてこのような触れが出るまでにいたったのだ。なんにしても、日本の庶民の朝鮮人通信使パレードの受け止め方がこうであった。
さて、彼らはゆるゆると4時間かけて品川から浅草東本願寺に到着する。ここで帰国の途につく6月13日まで23日間滞在することになるのだ。
さてこの年の旧暦と現在の新暦とのズレは26日間である。つまり江戸滞在期間は新暦に直せば6月16日から7月12日であった。まさに今の時期、梅雨の真っ最中である。ここで下官たちのあいだに変なうわさが流れる。「衣服を選択するのは他国において貧困を表すことになるので、この禁を犯すものは重罪になる」というもので、折からの長雨もあってかれらは着の身着のままで過ごす。下官たちの宿舎は東本願寺の境内に仮小屋を建てて住まわせていたが、数百人にも上る人数である。梅雨の暑さに蒸された悪臭はあたりに漂い、近隣の庶民はその異臭の出所は分かるとしても何から発しているものか見当もつかず、鼻を曲げて我慢するほかなかった。
さすがに気がついた通信使の上司が驚いて流言を取り鎮めたとあるが、なにか松本市サリン事件を思い出して不謹慎だが頬がゆるむ。あの事件の元凶麻原彰晃も日本人の血が一滴も流れていない風呂嫌いな朝鮮人だった。
さて、彼らが晴れの江戸城登城日は二十七日にすると幕府より通達がある。しかし彼らは出立直後の対馬で副使船を献納物もろとも焼失し、その補充品が到着するまで登城を延ばしてほしいという。
幕府側(対馬藩)は、延期はできない、未到着の品は空櫃だけの目録として、後日届ければいい、と説得したが朝鮮側は納得せず、世話役の対馬藩としてはもう一度幕府に図らなければならなくなった。
一刻後、恒例のとおり、林大学頭が息子の図所頭と中村深蔵(3人とも引用本に所属役職は不記載)を伴って通信使に謁見を乞う。通信使側は何かの駆け引きのつもりなのか、前例にないからと随員の中村深蔵のみ同席を拒む。しかしここは対馬藩に「将軍から命を受けてきた者であるぞ」と威儀を正して睨まれ、即座に撤回して謁見を許す。
つづく
これは メッセージ 1 (hendazo04 さん)への返信です.
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