朝鮮通信使25
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/09/11 05:48 投稿番号: [355 / 402]
七月十二日
晴
西風
卯ノ刻(午前六時)、(広島県)蒲刈に着船。往路でも天候が悪く三日留まったところだ。対馬藩より、船夫たちが徹夜で疲れているので満潮を待って出船すると通告があった。
結局日暮れ時に出発したが潮合が悪くなり子ノ刻(午後十一時)安芸の蔵橋島で風除けして繋船。 船中泊
七月十三日 晴 西南風
やはり午前六時に出発して午後五時(山口県)上関に着船。夜更けに副使船の厨房から出火。幸い発見が早く何とか消し止められた。
グーグルアースでみるとよくわかるが、瀬戸内海は大小の島々が群れていて、特に広島から山口にかけてはそれらが航路をふさぐように蝟集している。船舶は今も隘路を縫うように慎重に操舵しなければならない。 周防上関船中泊
七月一四日 晴 東南東
往路で預けた船具を積んで、そのため巳ノ刻(午前10時)に出帆。午後十時ごろ西日浦に停泊。 周防西日浦船中泊
七月十五日 晴 東風
夜明けに出発、午後2時ごろ赤間関(現下関)に着き上陸する。
明日は往路も遭難しかかった難所関門海峡を通る。このあたりをグーグルアースで見ると、瀬戸内海と玄界灘をつなぐ海路は大きく広げたV字型をしているのがわかる。本州南端の先っぽが九州島の陸塊に食い込み、それから少し抜き出したときできたような隙間が海峡となっている。もともと一体の本州と九州の地峡が海面上昇でそうなったものであろうか。為にこの海峡は、特に干満の時は流れを変え複雑に蛇行する。これは壇の浦の戦いで日本人の知るところである。
地中海の奥にあるスエズ航路は狭い紅海を航行して外洋を望むが、でなければアフリカ大陸を沿岸周航しなければならない。同じく関門海峡がなければ船舶は日本海に抜けるのに九州島を廻り込まなくてはならない。両地域の地峡はよく似た意味合いを持つ。 長門赤間関泊
七月十六日 晴 東南風
「湯麺の呈上があってそれを食べてから出船した。(ちょうどV字の底に当たる)小倉を過ぎるころから海が荒れ、転覆するかと思われるほどで、みな青い顔をして嘔吐して臥していた。巳の刻(午後二時)に藍島に着き、小舟に移り上陸して客館に入った。」引用本 筑前藍島泊
七月十七日 晴 東風
「未明に乗船した。小舟で見物に来た者が大勢おり、遠方の村人か、舟の中で飯を炊いて食べている者もいる。
風が吹き荒れ白涛が激しく押し寄せ恐ろしい有様だったが、午後二時ごろ無事壱岐島に着いた。 壱岐島勝本泊
七月十八日 晴 東風
「夜明けに、対馬守の舟人からまもなく順風の東南風が吹くとの報せがあり、信使らは出発の太鼓にあわてて乗船した。しかし港外に出ると(こんどは)風が弱くて帆走できず、曳き船に引っ張られて進んだが、(無風でも)波が荒く船は不安定に揺れ動く。外洋に出れば波風が激しく、ひとつ間違えばどこに漂流するかわからないとみな恐れていたが、陽が暮れるころになると無風状態となり、船は進まない。すでに舟手も力尽きてしまい、眼前に対馬島があるのになすすべもなく浮かんでいるだけである。
しかし、夜も更けてくるとにわかに東風が起こり、流れるように船が進み始めた。ようやく対馬島の府中港に繋船できたがすでに3更(午前零時)になっていた。上陸し客館に入ると信使一行は集まって喜びの声をあげ、故国を目前にして心は故郷に帰ったようであると、嬉しさを隠さない。」引用本 対馬府中泊
一行はようよう最後の日本領である対馬島に着いた。城下町府中は島の南部にあるが、北方対岸は朝鮮半島である。一行の心はすでに故国の地を踏んでいるかのように踊っただろう。しかし、旅程(物事一般)は九分を以て半ばとする、という。まして玄界灘は朝鮮人にとって魔女のように性悪だ。弘安の役では多くの高麗兵を水底に沈め、今また故国を前にして信使一行を焦燥のどん底でのたうち回す。
まず、先行の使者の船がまだ準備されていないのと、随行する対馬藩士の旅装が整わないとの理由で出発日は明示されず一行の不満を助長した。
この日より七月二三日まで対馬府中泊
七月十九日 晴
七月二〇日 晴一時小雨
「二十四日に出航することに決まったと、対馬守より知らせがある。一日も早い帰国を望んでいる信使らは、出発日が決まって喜んだ。」引用本
七月二十一日 晴
七月二十二日 曇
対馬守の館で饗応される。上々官玄徳淵がひらかなで『あすはまた たれなかしらんもしらぬみに ともあるきょうのひこそおしけれ』と書して残す。うむ、分かり易い。
つづく
卯ノ刻(午前六時)、(広島県)蒲刈に着船。往路でも天候が悪く三日留まったところだ。対馬藩より、船夫たちが徹夜で疲れているので満潮を待って出船すると通告があった。
結局日暮れ時に出発したが潮合が悪くなり子ノ刻(午後十一時)安芸の蔵橋島で風除けして繋船。 船中泊
七月十三日 晴 西南風
やはり午前六時に出発して午後五時(山口県)上関に着船。夜更けに副使船の厨房から出火。幸い発見が早く何とか消し止められた。
グーグルアースでみるとよくわかるが、瀬戸内海は大小の島々が群れていて、特に広島から山口にかけてはそれらが航路をふさぐように蝟集している。船舶は今も隘路を縫うように慎重に操舵しなければならない。 周防上関船中泊
七月一四日 晴 東南東
往路で預けた船具を積んで、そのため巳ノ刻(午前10時)に出帆。午後十時ごろ西日浦に停泊。 周防西日浦船中泊
七月十五日 晴 東風
夜明けに出発、午後2時ごろ赤間関(現下関)に着き上陸する。
明日は往路も遭難しかかった難所関門海峡を通る。このあたりをグーグルアースで見ると、瀬戸内海と玄界灘をつなぐ海路は大きく広げたV字型をしているのがわかる。本州南端の先っぽが九州島の陸塊に食い込み、それから少し抜き出したときできたような隙間が海峡となっている。もともと一体の本州と九州の地峡が海面上昇でそうなったものであろうか。為にこの海峡は、特に干満の時は流れを変え複雑に蛇行する。これは壇の浦の戦いで日本人の知るところである。
地中海の奥にあるスエズ航路は狭い紅海を航行して外洋を望むが、でなければアフリカ大陸を沿岸周航しなければならない。同じく関門海峡がなければ船舶は日本海に抜けるのに九州島を廻り込まなくてはならない。両地域の地峡はよく似た意味合いを持つ。 長門赤間関泊
七月十六日 晴 東南風
「湯麺の呈上があってそれを食べてから出船した。(ちょうどV字の底に当たる)小倉を過ぎるころから海が荒れ、転覆するかと思われるほどで、みな青い顔をして嘔吐して臥していた。巳の刻(午後二時)に藍島に着き、小舟に移り上陸して客館に入った。」引用本 筑前藍島泊
七月十七日 晴 東風
「未明に乗船した。小舟で見物に来た者が大勢おり、遠方の村人か、舟の中で飯を炊いて食べている者もいる。
風が吹き荒れ白涛が激しく押し寄せ恐ろしい有様だったが、午後二時ごろ無事壱岐島に着いた。 壱岐島勝本泊
七月十八日 晴 東風
「夜明けに、対馬守の舟人からまもなく順風の東南風が吹くとの報せがあり、信使らは出発の太鼓にあわてて乗船した。しかし港外に出ると(こんどは)風が弱くて帆走できず、曳き船に引っ張られて進んだが、(無風でも)波が荒く船は不安定に揺れ動く。外洋に出れば波風が激しく、ひとつ間違えばどこに漂流するかわからないとみな恐れていたが、陽が暮れるころになると無風状態となり、船は進まない。すでに舟手も力尽きてしまい、眼前に対馬島があるのになすすべもなく浮かんでいるだけである。
しかし、夜も更けてくるとにわかに東風が起こり、流れるように船が進み始めた。ようやく対馬島の府中港に繋船できたがすでに3更(午前零時)になっていた。上陸し客館に入ると信使一行は集まって喜びの声をあげ、故国を目前にして心は故郷に帰ったようであると、嬉しさを隠さない。」引用本 対馬府中泊
一行はようよう最後の日本領である対馬島に着いた。城下町府中は島の南部にあるが、北方対岸は朝鮮半島である。一行の心はすでに故国の地を踏んでいるかのように踊っただろう。しかし、旅程(物事一般)は九分を以て半ばとする、という。まして玄界灘は朝鮮人にとって魔女のように性悪だ。弘安の役では多くの高麗兵を水底に沈め、今また故国を前にして信使一行を焦燥のどん底でのたうち回す。
まず、先行の使者の船がまだ準備されていないのと、随行する対馬藩士の旅装が整わないとの理由で出発日は明示されず一行の不満を助長した。
この日より七月二三日まで対馬府中泊
七月十九日 晴
七月二〇日 晴一時小雨
「二十四日に出航することに決まったと、対馬守より知らせがある。一日も早い帰国を望んでいる信使らは、出発日が決まって喜んだ。」引用本
七月二十一日 晴
七月二十二日 曇
対馬守の館で饗応される。上々官玄徳淵がひらかなで『あすはまた たれなかしらんもしらぬみに ともあるきょうのひこそおしけれ』と書して残す。うむ、分かり易い。
つづく
これは メッセージ 1 (hendazo04 さん)への返信です.
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