入って中国人に南京事件真相議論しましょう

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12月10日 南京攻撃部隊の整理

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/07/30 14:55 投稿番号: [922 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   198〜201p


《 この日、前述した第 16 師団の紫金山、第 9 師団の光華門進出につづいて、
第 6 師団が雨花台にせまった。

雨花台は、南京城・中華門外の高地であるが、
紫金山とともに南京城外の本防護地である。

深い地隙がいりくんだ波状の台地には、対戦車壕、鉄条網、掩蓋   (えんがい)   銃座、
ベトン製トーチカがちりばめられ、その北側には高さ二十メートルの城壁がそびえている。

一歩ふみこめば、たちまち八方からの十字砲火をあび、
そのうえに城壁上からの瞰射   (かんしゃ)   も加わる。



第 6 師団は、第 13 連隊を右、第 47 連隊を左にして雨花台を攻撃したが、
前進は   「至難」   であった。

地形、防禦陣地の稠密   (ちょうみつ)、 とくに第 47 連隊正面の安徳門東南
約五百メートルの高地からの側射などのほかに、

ようやく南京にたどりついた安堵感がかきたてる疲労、
さらには中国側の旺盛な戦意が、苦戦の主因である。



とくに、中国兵の戦意は、これまでにも随所で視認した
「臨陣   退却者   斬首」   の布告にも表明されていたが、

雨花台のトーチカ陣地には鉄鎖をまき、施錠してあるものが少くなかった。

第 6 師団第 11 旅団長坂井徳太郎少将は、これも死闘を強制する中国軍の
督戦方式であるとみなし、 「人道上許シ得ナイ暴状」   だ、と批判している。
・・・


師団長谷中将は、夕刻、戦況を判断して攻撃部署を整理することにして、
次のように指示した。

①   11旅団   (第 13、第 47 連隊)   は右翼隊となり、
   中華門から城壁西南突角を攻撃する。

②   36 旅団   (第 23、第 45 連隊)   は左翼を担任し、西北にすすんで水西門、
   漢西門さらにその西方を攻撃する。

③   砲兵第6連隊の主力は右翼隊、一部は左翼隊に協力する。

④   45 連隊第 1 大隊は、予備とする。



つまりは、南京城の主攻は第 11 旅団にまかす、というのである。
南京一番乗り   −   が、いまや中支那方面軍全部隊の〝合言葉〟になっている。

その願いが成就できなくて・・・は、はるばる上海、杭州湾から空腹と疲労に耐え、
途中で倒れた上官、戦友、部下の〝仇討ち〟をちかって進撃してきたかいがない。

・・・・
第 36 旅団は、南京城壁を目前にしながら、その城壁の外側を運動せよ、
といわれるにひとしい……。



旅団長牛島満少将が、そんな将兵の気持ちを代弁する形で、谷中将に意見具申した。

「ぜひ当旅団を、せめて旅団の一部でもよいから、
西南城壁の攻撃を担当させていただきたい」

中将は、第 36 旅団の第 45 連隊を城壁西方に進出させ、第 23 連隊に
西南角の攻撃をおこなわせることにした。

第 13 連隊は中華門、第 47 連隊は中華門と西南角の中間を目標にし、
野砲兵第 6 連隊は第 23 連隊支援を重点にする指示も、下達された。



第 114 師団長末松中将も、午後六時、第 128 旅団を右翼として雨花台、
中華門とその東側城壁、第 127 旅団は左翼に位置して東南角城壁と共和門を

攻略するよう、命令した。

「師団ハ……速 (すみやか) ニ   待望ノ   南京攻略ヲ   決行セントス」

他の師団でも、同様の命令が下され、いよいよ南京総攻撃が開始されることになった。

12月10日 唐生智 「開城勧告」 を無視

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/07/29 18:38 投稿番号: [921 / 2250]
《早瀬利之著   『将軍の真実   南京事件   松井石根人物伝』   127p

武藤章参謀副長と中山寧人情報参謀、公平匡武高級参謀、岡田尚の四人は、
午前三時、一台の車で蘇州の司令部を発った。

南京の中山門外に着いたのは、八時間四十分後の午前十一時四十分。
四人は、十二時五分、十分をすぎても、その場で待ちつづけた。

しかし、待てど暮らせど、軍使は姿を見せなかった。武藤章参謀副長が、

「やっぱり駄目だったか。さあ帰ろう」   と、ため息をついた。

がっかりしたことと、眠っていなかったためか、武藤ら三人の参謀は、
帰りの車の中でぐっすり眠った。

ただ一人岡田は、翻訳のできが悪かったからではないか、と責任を感じ、
眠れぬまま八時間先の蘇州の司令部へ引きかえした。》


*   中山門外で中国軍軍使を待っていた人に、武藤章参謀副長とあるが、
   これは早瀬氏の間違いで、塚田攻参謀長が本当らしい。

   中山寧人氏の東京裁判証言では塚田攻参謀長となっている。
    (富士信夫著   『「南京大虐殺」   はこうして作られた』   154p)



児島襄著   『日中戦争4』   198p

《 司令官唐生智は、「大日本陸軍総司令官」 松井大将の投降勧告は無視し、
回答期限の正午がきても、軍使を派遣することはなかった。

   −   その正午、

中支那方面軍参謀長塚田攻少将は、南京・中山路東方の前線で
中国側軍使の到来を待っていたが、城門がひらかれる気配はなかった。

方面軍司令官松井大将は、午後一時、下令した。

「支那軍ハ、我勧告ヲ容レズシテ   依然抵抗ヲ続ケツツアリ。   上海派遣軍

  並 (ならび) ニ第十軍ハ、南京城ノ攻略ヲ続行シ   城内ヲ掃蕩スベシ」》



戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   428p

《 九日、方面軍司令官は、敵軍にたいし開城を勧告し、十日正午までに軍使をもって
回答するよう要求したが、これに応じなかったので、方面軍司令官は十日十三時、

両軍に、攻撃を続行し城内を掃蕩すべしと命じた。》



西岡香織著   『報道戦線から見た   「日中戦争」』   96p

《 唐生智は、この勧告文を無視して頑強な抵抗を続けたので、
十日午後一時から日本軍は総攻撃を開始した。》


* ラーベは日本が   「開城勧告」   をしている事を知らずに、
   「三日間の停戦と中国軍の撤退」   を日中両方に出した。

   しかし蒋介石は拒否した。そうなると、唐生智も   「開城勧告」   を受諾できない。
   彼らは、ラーベの希望とは、逆の事ばかりやっている。

   むしろ、日本の行動の方が、ラーベの希望に近かった。

12月10日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/07/28 18:33 投稿番号: [920 / 2250]
十二月十日

《 不穏な夜だった。きのうの夜八時から明け方の四時ごろまで、大砲、機関銃、
小銃の音がやまなかった。きのう   (?今日の間違いでは)   の朝早く、

すんでのところで日本軍に占領されるところだったという話だ。
日本軍は光華門まで迫っていたのだ。中国側はほとんど無防備だったという。

交代するはずの部隊が現れなかったのに、中隊をいくつか残しただけで、
予定通り持ち場を離れてしまったのだ。

この瞬間に日本軍が現れた。あわやというところで交代部隊がたどりつき、
かろうじて敵軍を撃退することができたという。

今朝早くわかったのだが、日本軍は昨夜、給水施設のあたりから揚子江まで
迫ってきていたらしい。遅くとも今夜、南京は日本軍の手に落ちるだろう、

だれもがそう思っている。
・・・


それはそうと、日本政府と蒋介石はなんといってくるだろう。一同、固唾を
のんで待っている。なにしろ、この町の運命と二十万の人の命がかかっているのだ。

安全区の道路は、避難する人たちでごったがえしている。

道路で寝ている人がまだ大ぜいいる。それから   −   軍人もだ。
龍上校、周上校の両人と最終的に次のような取り決めをした。


一、唐司令長官は、安全区の南西の境界線を全面的に承認する。

二、龍上校は、五台山の公営給食所がこれ以上兵隊たちに荒らされないよう、責任を持つ。

三、軍司令部の代表三名は、委員会の三人と共に安全区を視察し、
  見つけ次第兵士を追い出す。


  また、唐司令長官の代理として、この指示をその場で命令、実行させる権限をもつ。



下関で兵士たちが我々の米を燃やそうとしている、と韓が知らせにきた。
日本軍が身を隠せないようにしようというのだろう。

それを聞いた龍はやめさせると約束した。私は軍事パスを受け取り、
下関に通じる門を通れるようにしてもらった。

東部では、決戦の準備が始まったらしい。大型の大砲の音がする。同時に空襲も。
このままでは、安全区も爆撃されてしまう。ということは、血の海になるということだ。

道路は人であふれかえっているのだから。
ああ、日本からの返事さえ、日本軍の承諾さえあれば!



欧州の記者たちが報道規制されているのが、残念無念だ!
中国軍のやつら、あいつらの首をしめあげてやりたい。

軍隊を立ち退かせるという約束はいったいどうなったんだ?
いまだに果たされてないじゃないか!


ああ、なんということだろう!
たった今、漢口のジョンソン・アメリカ大使から連絡があった。

大使は、蒋介石にあてた我々委員会の電報を転送しただけでなく、
個人的にも同意し、支持した旨伝えてきた。



だが、それとは別に極秘電報がきた。
そこに、外交部で口頭で伝えられたという正式決定が記されていたのだ。

それによると、三日間の停戦と中国軍の撤退に唐将軍が同意したというのは誤りだ
とのこと。しかも蒋介石は   「そのような申し出には応じられない」   といったという。


しかし、われわれはぜったいに思い違いなどしていない。

いまここでそれをもう一度確認した。龍と林は電報を打つときに居合わせたが、
二人とも、たしかに唐将軍は同意したと口をそろえている。

そう簡単にひきさがらないぞ!   われわれは蒋介石にもう一度電報を打った。
同時に私はドイツ大使トラウトマンにも電報を打って、支援を頼んだ。》


つづく

12月10日 光華門城壁上に日章旗

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/07/27 18:34 投稿番号: [919 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   196〜198p


《 夜おそく、難攻していた第六、第百十四師団の突撃が成功し、
牛首山に布陣していた中国軍第五十八師主力は、退却した。

第六師団長谷中将は、十二月十日午前三時すぎ、牛首山東麓に進出したが、
おりから山を下ってきた第十三、第四十五連隊が路上にあふれて混雑し、

司令部は約三十分間もたち往生した。
・・・


第六師団は、第十三連隊を先頭にして鉄心橋から雨花台方向にすすみ、
第百十四師団も第百二十七旅団   ( 第六十六、第百二連隊)   を雨花台に、

第百二十八旅団   (第百十五、第百五十連隊)   をその右側に進撃させた。

第九師団は、右翼の第六旅団のうち、第七連隊が中山門東方的五百メートルの水濠に
到達したが、濠の幅は七十メートルを超え、突破に難渋せざるを得なかった。

同旅団の第三十五連隊は、右側の紫金山で苦戦する第十六師団第三十三連隊の
応援にむかい、左翼の第十九連隊は雨花台東端を攻撃した。



光華門に肉迫していた第三十六連隊は、工兵隊が城壁を爆破して破孔をひらくと、
すかさず伊藤善光少佐指揮の第一大隊を突入させた。

伊藤少佐は、軍刀ふりかざして先頭に立ち、城壁に日章旗をかかげた。
南京城一番乗り   ―   である。

だが、敵城にかかげた国旗にたいする敬礼も、バンザイの歓呼をあげる余裕も、
第一大隊にはなかった。



城門守備は第七十一軍第八十七師   (沈発藻)   であったが、沈師長は反撃を
下令し、第三十六連隊第一大隊は集中する銃砲弾の渦の中にまきこまれた。

「敵軍小部隊突入城内、但被我殲滅」

中国側の   「抗日戦史」   は、そう記述している。

実際には、第一大隊長伊藤少佐は頭部に銃弾をうけて戦死したが、
大隊は   「城門を死守せよ」   という少佐の遺命にしたがい、

そのご三日間、第三十六連隊主力が光華門を占領するまで、城壁上に滞陣しつづけた。



南京の首都衛戍司令官唐生智は、光華門に第一五五師、その後方に第一五六師、
そして中山門に第一〇三師を増派し、紫金山の教導総隊、雨花台の第八十八師に

現位置の死守を命じ、さらに全軍に布告した。

「核心陣地   為   固守南京   之最後戦線、 各部隊   応以與陣地   共存亡之決心、

尽力固守、決不許軽棄寸土」》


この漢文を翻訳すると、多分

「南京これ最後の戦線、固く守って陣地の核心と為せ、各部隊   陣地と共に
存亡の決心で以て応え、固守に力を尽くし、決して寸土も軽く棄てるを許さず。」

だろう。



宋希濂の回想録   『鷹犬将軍』   より

《十日、敵軍の一部は光華門外郭に突入したが、教導総隊と八十七師
(沈発藻黄埔二期生の必死の反撃で、やっと失地を回復した。》

(鈴木明著   『「南京大虐殺」   のまぼろし』   258p)

12月9日 海軍の掃海 雄基丸触雷沈没2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/07/26 18:26 投稿番号: [918 / 2250]
戦史叢書   『中国方面海軍作戦1 』   464〜465p


《 田村一掃司令の率いる一掃   (掃一、掃三欠)   及び   「勢多、江風、比良」   は

八日同様の隊形で   07:30   天申橋の仮泊地発、両岸の敵を制圧しつつ上江し

11:00   ごろ、三江営下流六粁に到着し一時仮泊した。



田村司令は更に三江営、亀山砲台偵察のため司令艇   (掃六号)   を率い

三江営陣前に進出、交戦しつつ突進して亀山砲台四粁付近まで進出した。

しかし亀山砲台の位置を確認できず、かつ同砲台が沈黙していたので、

まず三江営陣地を攻撃するに決し、仮泊地の指揮下兵力を部署し、

「掃五、掃六号、勢多」   を上流に、 「掃二、掃四号、江風、比良」   を下流に

配して三江営砲撃を開始した。



神川丸機もこれに協力爆撃した。 三江営陣地の敵は野砲一〜二門及び小銃、

機銃をもって我を反撃した。

激戦約一時間、 12:30   ほぼ同陣地を制圧したので、 「掃二、掃四号」   をもって

13:00   から同陣地の上下流約六軒にわたる間の清掃を実施した。

この間   「勢多」   は再び亀山砲台の偵察を実施、同砲台の二粁付近に達したとき、

同砲台   (十五糎砲四門)   から突如砲撃を受け、直ちにこれに応戦した。



約九〇発の敵弾を浴び、前檣   (しょう)、煙突などに各一発命中弾を受けたが、

死傷者はなかった。

「勢多」   は一時避退したが飛弾は   「掃五、掃六号」   付近にも盛んに落下した。

同夜、各艇は三江営の下流六粁付近に警泊、北岸の敵から二回猛射を受けた。

我が方はその都度照射砲撃を加えた。



第三掃海隊   (五日、第二掃海隊と共に第一警戒部隊に編入)   は午後、江陰に到着した。

二掃及び特別掃海隊は十日   10:00   までに江陰に集合せよと下令されたので、

福姜沙北水道の掃海は一時中止の格好となった。

「安宅」   は   「掃一、掃三号」   の合同待ち及び雄基丸触雷により

上江を中止し、九日は江陰に警泊した。》

12月9日 海軍の掃海 雄基丸触雷沈没 1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/07/25 18:45 投稿番号: [917 / 2250]
戦史叢書 『中国方面海軍作戦1   』 463〜464p


《 九日の経過   (雄基丸触雷沈没)    陸軍部隊は鎮江、南京に肉迫していたが、

亀山砲台及び三江営陣地はもちろん、周辺一帯はなお敵手に存した。

近藤指揮官は九日の作業について、次のように命令した。



一   第一警戒部隊ハ   速ニ   南京ニ向ヒ   水路ヲ   警戒前進   セントス

二   九日   当隊各艇ハ   次ニヨリ   行動スベシ   本職   安宅ヲ率ヰ   三江営ニ進出ス

   前路警戒隊   指揮官ハ   第二十四駆逐隊ノ   二隻   (山風、海風)、 保津、及

   一掃ノ第三小隊   (掃一、掃三)   ヲ   指揮シテ   嚮導警戒ニ   任ズヘシ

   掃海部隊指揮官   (二掃司令)   ハ   堅田ト協力   速カニ   北水道ノ   清掃ヲ行ヒ

   同水路ヨリ   閉塞線閘門   間ニ至ル   水路ノ啓開ニ   任ズヘシ


   熱海、二見ハ   速カニ   安宅附近ニ   進出命ヲ待テ   下流警戒隊指揮官ハ

   蓮ヲシテ   江陰附近ニ   アリテ   鳥羽艦長ノ   指揮ヲ承ケ   陸軍トノ   協同作戦ニ

   協力セシムベシ   爾余ノ各隊艦ハ   前日ノ作業ヲ   続行スベシ

   神川丸機ハ   遡江部隊ニ協力   主トシテ   三江営攻撃ニ任ズ



二掃の間宮九、天塩丸、雄基丸の三隻は、

八日掃海した北方水面の掃海を   08:30   再開した。



ところが   05:15、雄基丸は巫山の三三〇度四、二〇〇米付近で触雷、

前後部マストを露出して沈没した。

他の二隻は直ちに北岸の敵トーチカを攻撃、かつ   「堅田」   と共に乗員の救助に任じた。

江陰方面で陸軍作戦に協力中であった   「鳥羽、蓮」   及び

ビッグツリー方面の   「栗」   も救援のため現場に急行した。



14:10   特別掃海隊が来着し、クロッシング南水路 − 北口水路間の水路を掃海した。

「堅田、鳥羽、蓮」   は夕刻、北岸の敵陣地を攻撃し、

二掃、特別掃海隊と共にビッグツリー付近に警泊した。

これより先、二掃司令は   「雄基丸沈没位置以東の北水道に浮流機雷らしきもの多数あり、

銃撃処分三個」   と報じ、12:10   近藤指揮官は二掃司令に掃海の一時中止を命じた。》


つづく

12月9日 中支那方面軍の指令と注意

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/07/24 15:23 投稿番号: [916 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   193〜194p


《 中支那方面軍司令官松井石根大将は、十二月九日午前零時三十分、

次のような   「中方作命第三十一号」   を下令した。


「一、中支部方面軍ハ、 中華民国首都南京城ヲ   攻略セントス。

  二、上海派遣軍及第十軍ハ、 南京城攻略要領ニ準拠シ、南京城ヲ攻略

   セシムル予定。   但シ攻略   実施ノ時機ハ別命ス」


この命令は、三日前に示達された   「南京城攻略要領」   に即応するもので、

同要領には、攻略を降伏勧告による 〝平和入城〟 と、勧降を拒否された場合の

強襲とにわけていた。



また、 「皇軍ノ外国ノ首都ニ   入城スルハ有史以来ノ盛事」   であり、

かつ 「世界ノ斉 (ひと) シク注目シアル大事件」   なので、

友軍相撃、外国権益の損壊、掠奪、放火または失火などの不祥事の発生を

防止するよう、厳重な   「注意」   もつけ加えられた。


だが、戦況は、中国側の投降をさそうのに十分なほどの進展を示している、

と判断され、司令官松井大将は、以上の命令を発出したのである。

命令下達の約四時間後、第三十六連隊を先頭にして西進した第九師団は、

第六旅団は第三十五、第七連隊が南京東部の中山門東南、

第十八旅団の第三十六連隊は光華門、第十九連隊は武定門にせまった。



南の第六師団は第四十五連隊を右、第十三連隊を左に配置して将軍山西側の

牛首山を力攻し、第百十四師団も第六師団の右側で前面の敵を攻撃した。

第百十四師団第六十六連隊長山田常太中佐は、各隊に訓示した。


「戦闘ノ推移    (やや) 困難ナル場合、直チニ 悲観的態度ニ出デ 又ハ

報告スルモノアリ。 支那軍ニ対シテ   斯クノ如キ 態度ニテハ、 列強国ヲ

相手トシテ 戦闘スル場合、寒心ニ堪ヘザルベシ」


第六十六連隊は、他の部隊と同様に、食うや食わずの日をかさね、

将兵は疲労している。

その意味では、連隊長山田中佐の訓示は 〝苛酷〟 ともみなされるが、

訓示にたいする反応は、本当の戦さはこれからだ、という隊長たちの叫びと、

戦意をあらわにした兵たちの双眼の輝きだけであった。》

つづく

12月9日 中国軍から見た戦い

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/07/23 18:30 投稿番号: [915 / 2250]
宋希濂の回想録   『鷹犬将軍』   より

《 十二月九日、南京防衛総司令官   (唐生智)   は、次のような命令を行った。


①   敵軍は既に南京城周辺に迫ってきた。
   現在わが軍が守っている城廓陣地は、最後の砦である。

   各部隊の将兵は、陣地とともに死を覚悟してこれを死守してほしい。
   寸土たりとも、放棄は許されない。

   もしこの命令に従わず、勝手に後退する者は、
   司令官の厳命によって、連座制をとり、これを厳罰に処する。


②   各部隊が保有しているすべての船は、これを本部運輸司令部に移管し、
   司令部が責任を持って保有する。

   第七十八軍長宋希濂は、長江沿岸警備を担当し、
   他の部隊、将兵などの勝手な乗船、渡河を厳禁する。

   もしこの命令に背くものがあれば、即時逮捕し、厳罰に処する。

   なお、敢えてその命令に背き、抵抗する者があれば、
  (宋希濂部隊に)   武力を以てその行動を制止させるようにする。



同じ十二月九日、敵の包囲陣はさらに城廓に接近した。
わが七十四軍   (兪済時)   は大勝関と牛首山を結ぶ前線を突破されて

次第に後退、遂に水西門に移って守備につくことを余儀なくされたが、
敵はそれに迫ってきた。

そして、水西門外の上河鎮一帯が激戦区となった   (水西門から上河鎮は、
現在の   「南京大虐殺記念館」   のある場所の付近に当る)。



棲霞山が敵に占領されると、わが四十八師   (徐源泉 ・ 徐継武の第二軍)   は
和尚橋まで退いて、四十一師と合流した   (長江を数百メートル上流に逃げた)。

浄化鎮にいた敵軍は、高橋門   (門の名があるが、城門ではない)、
七瓮   (シチオン)   橋   (現在は七橋瓮と呼ばれている)   を落して、

公路に沿って光華門   (南京城の南東部にあり、日本軍は最初に
この門上を占領した)   に向って進んだ。



別の一隊は通済門   (南京城の南門、中華門と光華門の中間にある)   外の
兵営を占領し、通済門を攻めた。

国道に沿って、湯山   (南京城の真東、紫金山の南の山麓方面)   から
南京に向った敵軍は、九日、わが教導総隊   (桂永清)   が守っていた老虎洞、

体育場、馬群、孝陵など西南一帯の高地に向って進撃を開始、
わが守備軍は、峰麟閣寺西山の主陣地に移った


(ここにトーチカがあり、九日夕方から十日正午まで、日本軍は   「投降ビラ」   を
撒いて唐生智に無血開城を勧告し、戦闘を中止したが、唐生智はそれに応じなかった)。》

(鈴木明著   『新   「南京大虐殺」   のまぼろし』   257〜258p)

12月9日 ラーベの日記2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/07/22 18:29 投稿番号: [914 / 2250]
《 そうこうしている間に、思い切った手を打ってみようということになった。
といっても私自身はあまり当てにしているわけではないのだが。

つまり、もう一度唐将軍に接触して、防衛を諦めるよう説得しようというのだ。
ところが、なんと唐は承知したのだ。

そちらが蒋介石委員長の許可をとりつけるなら、といって。



(そのためラーベはアメリカ人と中国人をそれぞれ二人つれてアメリカの砲艦パナイに
赴いた。彼らは二通の電報を打った。

一通は漢口の蒋介石に、もう一通は上海の日本の軍当局にあてたものである。
アメリカ大使に仲介を頼んだ蒋介石あての電報で、ラーベはつぎのように記している。

国際委員会は、安全区が設置された城壁内には攻撃をしかけないとの
日本軍当局による確約を望んでいる。

もしこれが得られれば、委員会は、人道的な理由により、
城壁内では軍事行動を起こさないよう中国当局に願いでるつもりである。

委員会は南京近郊のすべての軍隊に対して三日間の休戦を提案する。

その間、日本軍は現地にとどまり、中国軍は城壁内から撤退する
― これらの電報には署名がある「代表   ジョン・ラーベ」)



燃えさかる下関を通り抜けての帰り道はなんともすさまじく、
この世のものとも思われない。安全区に関する記者会見が終わる直前、

夜の七時にたどりつき、どうにか顔だけは出せた。
・・・

暗闇のなかを負傷者が足を引きずるようにして歩いているのが見える。
看護する人はいない。医者も看護士も衛生隊も、もうここにはいないのだ。

鼓楼病院だけが、使命感に燃えるアメリカ人医師たちによってどうにか持ちこたえている。
安全区の通りは大きな包みを背負った難民であふれかえっている。

旧交通部   (兵器局)   は難民のために開放され、たちまちはちきれそうになった。
われわれは部屋を二つ立ち入り禁止にした。

兵器と弾薬を見つけたからだ。難民の中には脱走兵がいて、
軍服と兵器を差し出した。》



*   文中の ( ) 内の文は本にあるもの、たぶん訳者の註でしょう。

*   唐生智が日本の勧告を受け入れて無血開城すれば、
   ラーベの心配など必要なくなるのですが、唐はそうしません。

   自分で責任をとりたくないからラーベに電報させたのでしょう。


つづく

12月9日降伏勧告文投下と戦闘

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/07/21 18:32 投稿番号: [913 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   195〜196p


《   ―   午後四時、

南京上空に松本雄幸曹長と粉川宗三伍長が操縦する九七式重爆撃機が飛来し、

大量のビラを投下した。


ビラは、風にのって第六、第百十四師団の前線にも舞い下りた。

「日軍百萬既ニ江南ヲ席巻セリ。南京城ハ既ニ包囲ノ中ニアリ……」

との冒頭の文言ではじまる投降勧告文であり、翌日十日正午を回答期限にしていた。

あて名は   「南京防衛司令官唐生智」、発信者は   「大日本陸軍総司令官松井石根」。

勧告文は、南京城を   「和平裡ニ開放」   することをもとめ、

期限までに回答がないときは   「南京城攻略ヲ開始」   する、と述べていた。



しかし、回答がくるまでは攻撃を停止するとは、いっていない。

第九師団も、第六、第百十四師団も、さらには第九師団の北側を紫金山に

とりついている第十六師団も、第六師団の西方を北進している第十八師団も、

だから、攻撃の手をゆるめることはなかった。

いや、むしろ、投降勧告の効果を増大させるべく、日本側は、この夜はとくに

全線にわたって攻勢を強化し、それにたいする中国側の応戦も激化した。



「砲撃戦はますます激しくなり、砲火が交錯する戦場は恰   (あたか)   も

不夜城を見る思いであった」

とは、第九師団の戦況描写であるが、事情はどの師団の戦いにも共通していた。


夜襲がくり返され、中国側の逆襲もくり返され、

そのたびに彼我の死傷者は増え、夜の戦場に血が流れた。

夜おそく、難攻していた第六、第百十四師団の突撃が成功し、

牛首山に布陣していた中国軍第五十八師主力は、退却した。》


つづく

12月9日 ラーベの日記1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/07/20 18:27 投稿番号: [912 / 2250]
《十二月九日

いまだに米を運ぶ作業が終わらない。そのうえ、作業中のトラックが一台

やられてしまった。苦力がひとり、片目をなくして病院へ運ばれた。

・・・

ドイツ大使館のシャルフェンベルク、ヒュルター、ローゼンら三人も船に乗っているが、

もし状況が落ち着けば、今晩会議のために上陸するつもりでいる。

・・・


午後二時、ベイツ、シュペアリング、ミルズ、龍、参謀本部の大佐、私、の

メンバーで、安全区の境界を見回る。唐将軍が文句をいってきたからだ。



南西の境の丘から、炎と煙に包まれている町のまわり一帯が見える。

作戦上火をつけたのだ。町じゅうが煙の帯に取り巻かれている。

安全区の南西側に高射砲台がずらっと並んでいるのに気がついた。




そのとき、日本の爆撃機が三機、姿をあらわし、約十メートル前の砲兵隊に

猛烈に砲撃された。われわれはいっせいに地面に身を伏せた。

そのままの姿勢で顔をあげると、高射砲の弾がはっきりみえた。

残念ながらいつも外れていた。

いや、幸運にもいつもそれた、というべきか。とにかく日本は同盟国なのだから。

今にも爆弾が落ちてくるだろうと覚悟していたが、運よく無事だった。



大佐は安全区を縮小しろといってきかないので、私は辞任するといって脅かし、

唐将軍が約束を破ったために難民区が作れなかったと

ヒトラー総統に電報を打つといってやった。

大佐と龍は考えこみ、家へ帰った。》



*   中国は焦土作戦をやっている。

*   ラーベが見た爆撃機は勧告ビラを撒きに来た飛行機かも知れない。

   時間的に近い。


つづく

12月8日 和平案検討会議

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/07/19 18:43 投稿番号: [911 / 2250]
前日のディルクセン独逸大使よりの和平仲介の話を受けて、
和平条件についての検討会議が行われました。


戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』

460p

《 陸軍では、八日、大臣官邸で参謀次長を加えて会議を開いたが

「蒋ハ   反省ノ色   見エサルモノト認ム、

将来反省シ   来レハ兎ニ角、   現在ノ様ナ   態度ニテハ   応セラレス、

併 (しか) シ   独逸大使迄ニハ   新情勢ニ応スル   態度条件ヲ   一応渡シテ置ク必要アリ、

大臣ハ海相、 首相ト会見シ 、一応拒絶シ   蒋ノ反省ヲ促シ

時ヲオキテ   独大使ニ   当方ノ考ヘアル   条件ヲ提示スル」


ことに決めた。

  注   七〜九日の連日開かれた四相会議の結果、
   ドイツの仲介を受諾して話を進めることを申し合わせ、

   次いで新たにディルクセン大使に内示する和平条件を、
   陸海外三省事務当局で協議することになったようである。》



462p
《 十二月一日に、参謀本部案から、陸軍省の同意を得て大本営陸軍部案となった、
「和平交渉条件の改訂案」   は十二月八日、陸軍省が部外との折衝のために、

「多少ノ衣ヲ着セ」    「支那事変処理要綱案」   と称した。
・・・・

八日、省部関係者は、先に大本営陸軍部案とした
「支那事変解決処理方針」   案を再検討し、


九日、これを軍司令部に内示して意見を求めた。

軍令部は   「修正ヲ要スル点   無キニ非サルモ   大綱ニ於テ
之ヲ基礎トシ   差支へナキ   モノト認ム」   という見解であった。》



*   九日のところで、最初に   「軍司令部」   とあり、次に   「軍令部」   とありますが、
   これは原文がそうなっているのであって、私の間違いではありません。

   たぶん   「軍司令部」   は   「軍令部」   の間違いではと思いますが、
   一応原文のままにしておきます。

12月8日 海軍の揚子江啓開作戦

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/07/18 14:47 投稿番号: [909 / 2250]
戦史叢書   『中国方面海軍作戦1』   462〜463p

《 長谷川長官水路啓開を督励

八日   05:30、 「保津、勢多、比良、鳥羽」   は配備に就き、
陸軍部隊は予定どおり   07:00   渡河作戦を終了した。

09:22、 長谷川長官は近藤指揮官に   「第一警戒部隊ハ   速(すみや) カニ

南京ニ至ル   水路ヲ啓開スベシ」   と命令した。



各隊の掃海状況(八日)

第二掃海隊はクーパーバンク西方から更に西方の水路を掃海した。

10:50   スリーツリー北方設標中の天塩丸は前方江上に管制機雷の爆発二条を
認めたので、敵トーチカ   (龍潭港南西岸と推定)   を砲撃した。

同隊は   19:00   まで北水道南方水路を掃海し、
巫山弧山の連結線以東の福姜沙北岸水路の掃海を完了した。



江陰下流の閉塞線は一部啓開されていたとはいえ清掃未済であったので、
第一掃海隊はまず閘門を掃海突破後、

その上流付近の主隊泊地を掃海すべき旨命ぜられた。
同隊は天明時行動を開始した。

閘門江底に障幸物多数あり、掃海索を切断すること四回に及び、
ようやく閘門上流入口までの掃海を完了した。

10:00   から同隊は旗艦安宅の前路を掃海して嚮導   (きょうどう)   し、
10:50   終了、引続き前命令による泊地掃海を実施し、 14:15   ころこれを終了した。



田村一掃司令は   「泊地附近一帯ノ   掃海終了後、 一掃、江風、比良、勢多ヲ指揮シ
江陰ヨリ   三江営迄ノ   水路啓開ニ任ズベシ」   との命令を受け

勢多を前衛兼嚮導艦、江風、比良を後衛兼機雷処分艦として、
それぞれ前方八〇〇米及び後方一、二〇〇米に占位させ、

16:08   八掃海具を投入、進撃を開始し、同時に神川丸艦長に、
飛行機による警戒を依頼した。



頭? (土+于) 港、九? (土+于) 港、青龍港、連成洲北岸敵陣地及び密集部隊から
射撃を受けたが、その都度これを反撃撃破し進撃を続行、 18:28   天申橋下流に警泊した。》


注    嚮導 :   キョウドウ     道案内すること。

12月8日 海軍 上海派遣軍の渡河に協力

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/07/17 15:47 投稿番号: [908 / 2250]
戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   424p

上海派遣軍

《 第十三師団の沼田支隊は、八日、揚子江を渡河して靖江を占領し、

じ後一部を残置して、主力は師団主力に追及した。

天谷支隊は、丹陽を経て鎮江に向かい前進し、鎮江南方の陣地を奪取して、

八日、鎮江に進入し、付近砲台を占領した。》



海軍の作戦    陸軍の渡河作戦協力

戦史叢書   『中国方面海軍作戦1』   462p

《 江陰を占領した陸軍部隊   (第十三師団歩兵第二十六旅団)   は八日未明、

江陰西方地区から八? (土+于) 港鎮東方地区に渡河上陸し、主力は   13:00   ごろ

靖江鎮に突入、一部は天生港鎮付近の砲台を攻撃するに決した。

そこで近藤指揮官は陸軍部隊に対する協力計画を次のように定めた。



一   本職安宅、 保津、 比良、 鳥羽、 勢多ヲ率 (ひき) ヰ   陸軍ノ渡河作戦ニ   協力ス

    安宅ハ機宜行動ス   保津艦長ハ保津、 比良、 鳥羽、 勢多ヲ指揮シ

    陸軍部隊揚陸後   速 (すみやか) ニ   揚陸点上流ニ進出シ

    陸軍部隊翼側ノ   掩護ニ任ズべシ   右終了後   何分ノ令アル迄

    八? (土+于) 港 及   江陰桟橋附近ニ   一艦宛ヲ配シ   通信連絡ニ任ゼシムベシ


二   航空部隊ハ   神川丸艦長ノ   定ムル所ニ依リ   左ノ如ク行動スベシ

   「陸軍揚陸部隊ト   略時ヲ同ジウシテ   天生港鎮   南方江岸ノ   敵陣地ヲ爆撃、

    主力部隊   靖江突入前   同地南側   敵陣地ヲ   徹底的爆撃ヲ   ソレゾレ加フベシ」


三   二十四駆逐隊司令ハ   一掃   ヲシテ   06:45   発進   泊地附近ヨリ

    上流ノ清掃ニ   任ゼシムベシ


四   特別掃海隊ハ   掃海部隊   指揮揮官ノ   定ムル所ニ   依リ   行動

12月8日 中国側資料から見た戦争

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/07/16 14:01 投稿番号: [907 / 2250]
宋希濂の回想録   『鷹犬将軍』   より

《 「十二月八日、第六十六軍   (葉肇 (ようちょう) ・ 広東軍)   と

第八十三軍   (鄭 (とう)   竜光 ・ 広東軍)   の部隊は、湯水鎮の東西を結ぶ線

(南京市の東。そのまま公路を行けば、東の城門である中山門にぶつかる)

で大きな圧迫を受けたので、陣地を放棄し、

紫金山東北   (中山陵、明の孝陵がある)   まで退却した。



同じ日、七十四軍   (蒋介石の母の甥に当る兪済時が軍長)   は

淳化鎮一帯から後退、大勝関   (南京市南東部)   東北で引続き交戦、

四十八師   (後退してきた第二師徐源泉軍の師長徐継武)   は

棲霞山   (江岸下流地帯)   で敵と対峙していた。」》


(鈴木明著   『新「南京大虐殺」   のまぼろし』   257p)

12月8日 日本陸軍と中国の動き

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/07/15 18:27 投稿番号: [906 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   192〜193p

《 この日、日本軍は、北東から第十六師団、東から第九師団、

南から第百十四、第六師団が南京にせまり、さらに北に第十三師団、
南西に国崎支隊と第十八師団がすすんで、包囲をいそいでいた。


南京の首都衛戍司令官唐生智は、第六十六軍   (第一五九師、第一六〇師)、
第百三師、第百十二師を南京城内に呼びもどし、

第九師団正面に第七十一軍   (第八十七師)   を増強するなどの措置をとったが、
同時に、正午すぎからは舟行を禁止した。

将兵の逃散をふせぐためと、日本軍が蕪湖方面から揚子江沿いに北進して
いるので、上流への航行が危険とみなされたからである。
・・・・


日本軍のうち、第十軍の第百十四師団   ( 末松茂治中将)   と第六師団   (谷寿夫中将) は、
南京の南方約十キロにせまり、東の第九師団   (古住良輔中将)   は攻めあぐんでいた

淳化鎮に総攻撃を準備した。

第百十四師団と第六師団が対峠した中国軍は、第七十四軍第五十八師   (馮聖法)
であったが、両師団の進路にあたる将軍山、牛首山を守って抵抗した。



第六師団は、第百十四師団と協力して突破をはかり、独立軽装甲車第四中隊を
先行させ、そのあとを第十三連隊、第四十五連隊をすすませることにした。

だが、軽装甲車は、通称は   『豆戦車』   ではあるが、二人乗り、三・五トン、
装甲十二ミリ、武装は7・7ミリ機銃一挺にとどまる。

右側に布陣した第百十四師団第六十六連隊の将兵が手をふり、
「ガンバレ」 と声援してその進撃をみていると、

敵陣の約五百メートルほどに近づいたとたんに迫撃砲の集中射をうけ、
たちまち二輌が炎上し、二輌が転覆した。

しかも、中国兵の一群が捕獲しようとして周囲にむらがり、中には、
砲塔のハッチをハンマーでたたいて、「来々」(出て来い)、とわめく者もいた。

日本側が援護射撃して装甲車乗員を救出したものの、
中国側は威勢を強めて反撃し、日本側は苦戦した。



第百十四師団と第六師団は、夜襲をくり返し、ようやく、夜半になって将軍山を奪取した。
中国軍第五十八師の一部は、「官兵傷亡八百余人」   の損害をだして、西方の板橋鎮に逃走した。

この夜は、淳化鎮を攻める第九師団も、守備する中国軍第五十八師第三〇一団に
「傷亡一千四百余」   という全滅的打撃をあたえて、戦線を突破した。

進撃隊である第三十六連隊は、まっしぐらに西進し、
しばしば退却する中国兵とならんで 〝徒競走〟 する場面を体験した。

西の上方鎮には、第五十八師第三〇五団が布陣していたが、
第三十六連隊は味方と思って近づく相手をひきつけて突撃し、一気に撃退した。》


つづく

12月8日ラーベの日記と外国人の移動

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/07/14 18:30 投稿番号: [905 / 2250]
十二月八日

《 二年ほど前、トラウトマン大使が北戴河で開かれたティーパーティーの席で
私にこういって挨拶したことがあった。

「やあ、南京の市長が来たー」   そのころ私は党の地方支部長代理をして
いたのだが、いくらか気を悪くした。ところが、いま瓢箪から駒が出た。

といったからといって、
ヨーロッパ人が中国の町の市長になどなれないのはわかりきっている。

しかし、このところずっと行動をともにしてきた馬市長が昨日いなくなり、
われわれ委員会が難民区の行政上の問題や業務をなにからなにまで

やらざるをえなくなったいま、私は事実上の   「市長代理」   のようなもの
になったわけだ。まったくなんてことだ!



何千人もの難民が四方八方から安全区へ詰めかけ、通りはかつての平和な時よりも
活気を帯びている。貧しい人たちが街をさまよう様子を見ていると泣けてくる。

まだ泊まるところが見つからない家族が、日が暮れていくなか、
この寒空に、家の陰や路上で横になっている。

われわれは全力を挙げて安全区を拡張しているが、
何度も何度も中国軍がくちばしをいれてくる。



いまだに引き揚げないだけではない。それを急いでいるようにもみえないのだ。
城壁の外はぐるりと焼きはらわれ、焼け出された人たちがつぎつぎと送られてくる。

われわれはさぞまぬけに思われていることだろう。
なぜなら、大々的に救援活動をしていながら、少しも実が挙がらないからだ。

外国人のなかにはこういうことをいう人もいる。中国人の抵抗はどうせただのポーズだ、
面子を失わないよう、形ばかり戦うだけだろう、と。だが私はそうは思わない。

南京防衛軍をひきいる唐が、無分別にも、兵士はおろか一般市民も
犠牲にするのではないかと不安でしかたがない。



両替屋を開くことにした。小銭が足りなくなる。
政府の役人に友人が二人いるので、助けてくれるだろう。



われわれはみなおたがい絶望しかけている。中国軍の司令部にはほとほと手を焼く。
せっかく掲げた安全区の旗をまたもやぜんぶ持っていかれてしまった。

安全区は縮小されることになったというのだ。
大砲や堡塁 (ほうるい) のために予備の場所がいるからだという。どうするんだ?

そうなったら、なにもかも水の泡になってしまうかもしれないじゃないか。
日本にかぎつけられたらおしまいだ。おかまいなしに爆撃するだろう。

そうなったら、安全区どころか場合によっては大変な危険区になってしまう。
明日の朝早く、境界をもう一度調べてみなければ。

こんな汚い手をつかわれるとは……。予想もしていなかった。
すでに十一月二十二日に、ここは国民政府から正式に認められているというのに。



一九三七年十二月八日夕方、中国の新聞のある報告より

一週間前、すなわち一九三七年十二月一日、市長の馬氏は、
南京安全区国際委員会に対して、安全区の管理全責任を負うようにと要求した。

   苦力(低賃金労働者)とトラック運転手若干名を除き、委員およびその
   関係者は、任務を自発的にかつ無償で果たしている。》



石田勇治   編集・翻訳   『資料ドイツ外交官の見た南京事件』   5p

《一九三七年一二月八日、ヨーロッパ人は南京を離れてジャーディン社のハルク
〔Hulk老朽船のこと〕   へ向かった。南京城内に残ったヨーロッパ人は総勢わずか二二人》

12月8日 開城勧告文 の作成

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/07/13 18:37 投稿番号: [904 / 2250]
早瀬利之著   『将軍の真実   南京事件   松井石根人物伝』   125〜126pより


《 松井は十二月七日から十五日まで、蘇州の方面軍司令部にいた。
八日、方面軍の幕僚会議の席上、南京政府に対して

「降伏勧告文」 を撒布 (さんぷ) することを、中山寧人参謀に指示する。
これを受けて中山は、原文を書き、松井に見せたあと、中国語に翻訳させることにした。


しかし、翻訳担当の藤木通訳官は上海留守司令部にいるため、
翻訳の仕事は岡田尚に回された。 岡田はすぐに翻訳にとりかかった。

翻訳すると、松井石根方面軍司令官に見せ、検閲を受けた。
了解が出ると、すぐに印刷にかかった。

岡田の記憶では、 「何千枚か、兵により印刷された」   とある。
それを、句容の飛行場から運び、軍用機から南京市内の上空をひと回りして撒布した。


岡田が中国語に翻訳した主文は十六行の短いもので、
最後に   「昭和十二年十二月、大日本陸軍総司令官、松井石根」   としめた。

彼が翻訳した日本文は、こうである。



「日軍百万すでに江南を席捲せり。南京城はまさに包囲の中にあり。
戦局の大勢よりみれば、今後の交戦はただ百害あって一利なし。

惟 (おも) うに江寧の地は中国の旧都にして民国の首府なり。   明の孝陵、
中山陵など古蹟、名勝蝟集 (いしゅう) し、さながら東亜文化の精髄の感あり。

日軍は抵抗者に対してはきわめて峻烈にして寛恕せざるも、
無辜の民衆および敵意なき中国軍隊に対しては寛大をもってし、

これを犯さず、東亜文化に至りては 〔力をつくして〕 これを保護保存するの意あり。
しかして貴軍にして交戦を継続せんとするならば、

南京は勢いかならずや戦禍をまぬかれがたし。
しかして千載の文化を灰燼に帰し、十年の経営はまったく泡末とならん。

よって本司令官は、日本軍を代表して貴軍に勧告す。
すなわち南京城を和平裡に開放し、しかして左記の処置に出でよ。

   昭和十二年十二月
                    大日本陸軍総司令官   松井石根」》



なお、この勧告文の文章は   『報道戦線』   では次のようになっています。


《「   勧   告   文

日軍百万江南を席巻 (せっけん) し南京城は方 (まさ) に包囲の中に在り。
戦局の大勢既に定まり向後の交戦は百害ありとするも一利の伴うなし。

惟うに江寧の地は之れ中国の旧都、民国の首都にして、明の孝陵、中山陵始め
幾多 (いくた) の名勝旧跡蝟集し、宛然 (えんぜん) 東亜文化の粋をここに観るの概あり。

日軍は抗敵に対しては峻烈苛 (いやしくも) も仮借せずと雖 (いえど) も、
無辜 (むこ) の民は固 (もと) より敵意なき民国軍隊に対しては

秋毫 (しゅうごう) も犯さず、況んや東亜の文化は努めてこれを
保護保存するの熱意を有す。

然れども貴軍にして抗戦を継続するに於ては南京は忽ち戦禍の坩堝 (るつぼ) と
化して、千年の文華十年の経営も一朝にして廃墟に帰すべし。

依 (よっ) て予は爰 (ここ) に日軍を代表し、
貴軍が速に南京城を平和裡に開城せらるべきを勧告す。

    昭和十二年十二月九日         大日本陸軍総司令官   松井石根」》

(西岡香織著 『報道戦線から見た 「日中戦争」』 96p)


注   寛恕   カンジョ    ひろい心でゆるす。

   無辜   ムコ      罪がないこと。

   千載   センザイ    千年

12月7日 南京入城ニ関スル注意2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/07/12 18:33 投稿番号: [903 / 2250]
1のつづき

戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   427〜428p


《 六   南京入城後ノ処置

   (一)   各兵団ニ   地域ヲ指定シテ   警備ニ任セシメ   主力ハ 城外適宜ノ地点ニ   集結ス

   (二)   入城式、 合同慰霊祭、 防空部隊ノ推進、 南京警備部隊ノ配備等ノ件   〔略〕


七    南京城ノ攻略   及   入城ニ関スル   注意事項

   (一)   皇軍カ   外国ノ首都ニ   入城スルハ   有史以来ノ   盛事ニシテ

    永ク竹帛 (ちくはく)   ニ垂ルヘキ   事績タルト   世界ノ斉 (ひと) シク

    注目シアル 大事件ナルニ   鑑ミ   正々堂々   将来ノ模範タルヘキ   心組ヲ以テ

    各部隊ノ乱入、友軍ノ相撃、不法行為等 絶対ニ   無カラシムルヲ   要ス


   (二)   部隊ノ 軍紀風紀ヲ   特ニ厳粛ニシ   支那軍民ヲシテ   皇軍ノ威武ニ

    敬仰帰服セシメ   苟 (いやしく) モ名誉ヲ   毀損スルカ如キ   行為ノ

    絶無ヲ期スルヲ   要ス



   (三)   別ニ示ス要図ニ基キ   外国権益特ニ   外交機関ニハ   絶対ニ 接近セサルハ

    固 (もと) ヨリ   外交団カ   設定ヲ提議シ   我軍ニ 拒否セラレタル

    中立地帯ニハ   必要ノ外立入ヲ禁シ   所要ノ地点ニ 歩哨ヲ配置ス

    又   城外ニ於ケル   中山陵其他革命ノ志士ノ墓   及   明孝陵ニハ

    立入ルコトヲ禁ス


   (四)   入城部隊ハ   師団長カ   特ニ選抜セルモノニシテ   予メ注意事項特ニ

    城内外国権益ノ位置等ヲ   徹底セシメ   絶対ニ過誤ナキヲ期シ   要スレハ

    歩哨ヲ配置ス


   (五)   掠奪行為ヲナシ   又   不注意ト雖 (いえども)   火ヲ失スルモノハ

    厳罰ニ処ス   軍隊ト同時ニ   多数ノ憲兵、補助憲兵ヲ   入城セシメ

    不法行為ヲ   摘発セシム 》



*   ここでは、入城は選抜された一部の部隊のみで、他は城外に集結とあります。
   なお、 「略奪や不注意による失火といえども厳罰に処す」   と言っております。

   つまり、略奪や放火は厳禁だったのです。

12月7日 南京入城ニ関スル注意 1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/07/11 18:40 投稿番号: [902 / 2250]
《 12月7日、中支那方面軍は、南京攻略及び入城に関して

「皇軍が外国の首都に入城するのは有史以来の事で   永く歴史に刻まれる事であり、
世界が注目する事であるから   将来の模範として、不法行為など絶対にしないように」

と注意を出しました。


戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   427p

方面軍は、七日   「南京城攻略要領」   を示達したが、その抜粋は次のとおりである。


一   南京守城司令官   若 (もし) クハ   市政府当局   尚 残置シアル場合ニハ

   開城ヲ勧告シテ   平和裡 (り) ニ入城   スルコトヲ図ル   此際 (このさい) 各師団ハ

   各々   選抜セル   歩兵一大隊   〔九日、三大隊に訂正〕   ヲ基幹トスル   部隊ヲ

   先ツ   入城セシメ   城内ヲ   地域ヲ分 (わか) チテ   掃蕩 (そうとう) ス


二   敵ノ残兵   尚   城壁ニ拠 (よ) リ   抵抗ヲ行フ場合ニハ   戦場ニ到着シアル全砲兵ヲ

   展開シテ砲撃シ   城壁ヲ奪取シ   各師団ハ歩兵一聯隊ヲ   基幹トスル部隊ヲ

   以テ   城内ヲ掃蕩ス

    右以外ノ主力ハ 城外適宜ノ地点ニ 集結ス


三   城内掃蕩戦ニ於テハ   作戦地域ヲ指定シ   之ヲ厳ニ確守セシメ   以テ

   友軍相撃ヲ防キ   且   不法行為ニ   対スル責任ヲ   明カナラシム


四   城内ニ於ケル   両軍ノ作戦地境

    共和門   −   公園路   −   中正街   −   中正路   −   漢中路


五   各軍ニ対スル配当城門

    派遣軍    中山門、 大平門、 和平門

    第十軍    共和門、 中華門、 水西門


つづく


*   最初に   「皇軍が外国の首都に入城するのは有史以来の事で」   と訓示してあるが、

   これは勘違いしている。   義和団事件のとき、既に、北京に入城しているから。

12月7日 松井大将 蘇州へ移動

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/07/10 15:34 投稿番号: [901 / 2250]
早瀬利之著   『将軍の真実   南京事件   松井石根人物伝』   122〜123p

《 松井は蘇州に着いたが、

敵将の蒋介石が同じ十二月七日、南京を発ち南昌に向かったことは知らない。
松井は、蘇州に向かう汽車の中から沿道のようすを細かく観察していた。

中国人たちの姿、駅前のようすから、日本と蒋介石軍の戦さのとばっちりを
受けた中国人たちを見ていると、気の毒でならなかった。



上海はようやく活気を取りもどしていたが、
蘇州に近づくにつれて町は破壊され、人の姿はまばらである。

しかし蘇州に着き、沿道に住民の姿を見ると、ほっとするものがあった。

とくに避難していた貧しい農民が農村にもどっている姿に触れたとき、
松井は思わず涙で眼がうるんだ。そして、

「あゝ、欣 (よろこ) ぶべし。欣ぶべし」

と大きくうなずき、励していた。

蘇州には、原田らの働きかけですでに自治委員会が設立されていた。
副領事も六日、蘇州に移り、治安工作と宣撫 (政治工作) にあたっている。



この日も、松井は高熱と寒けに苦しんだ。すでに蘇州では朝晩、氷が張る冷たさである。

以前にかかったマラリアが原因だと思って治療を受けたが、病状は悪く、
軍医は肺炎併発の恐れがあるといって、休養を求めた。

しかし、責任感がひと一倍強い松井は、それでも幕僚たちを引きつれて、
戦況を見に高台へ上がり、武藤章参謀副長に手渡された双眼鏡で前線を見まもった。

この日も、オーバーコートに身をつつみ、病いをおかして視察して、報告を受けている。

松井がどれほど重態であったかを物語るものに、松井日記がある。
几帳面に記録をとどめる松井だが、七日と九日の日記は、

四行から五行の短いもので終わっている。
八日の日付けの日記は、病いに伏して一行も書けなかった。》



*   松井大将は、 「蘇州に近づくにつれて町は破壊され」   ていたことに
   心を痛めていますが、この破壊は中国軍がやったのだから、

   本来、松井大将が心を痛める筋合いのものではないのですが、
   心優しい人だから、民衆の事を心配されたのです。

   中国人がやったという根拠は、既に、   「854   敗走中国兵による略奪・放火」

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=552022058&tid=ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfb faj5doc0a47a4dea47a4ga4a6&sid=552022058&mid=854

で紹介しています。

12月7日 海軍の揚子江啓開作

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/07/09 16:03 投稿番号: [900 / 2250]
戦史叢書   『中国方面海軍作戦1』   461〜462p

《 七日、陸軍部隊の先頭は既に南京前方二〇粁   (キロ)   に進出しあり、
揚子江水路の啓開は急を要した。

そして、七日の作業を次のように下命した。

前路警戒隊は第二掃海隊と協力し北水道拘束機雷の処分及び前路の清掃
「保津、勢多」、特別掃海隊   (林少佐掃揮の曳船六隻)   は保津艦長指揮の下に

閉塞線 − 江陰間水路の南側一帯の清掃、 「比良、鳥羽」   は江陰付近に進出
江陰下流の清掃をそれぞれ実施せよ。

「安宅」   は本職これを率い   10:00   泊地発、江陰に進出の予定。



各隊の作業状況は次のとおりであった。

林少佐指揮の特別掃海隊は   「勢多」   の掩護下江陰桟   (さん)   橋まで
掃海し、 18:00   清掃を終了した。

この間、閉塞線啓開水路の南側において障害物を拘束処分した。
作業終了後   「勢多」   は粛山沖に引返し警泊した。

前路警戒隊は内火艇四隻をもって   08:30   機雷礁の小掃海を開始、
前日拘束した未処分機雷四個の外更に四個拘束、計八個爆破処分し、

本機雷礁の清掃完了と認めた。

第二掃海隊はクロッシング燈船 − クーパーバンク北方間水路の清掃を  
18:30   完了した。



特別作業隊及び第二十四駆連隊派遣陸戦隊は南岸の管制機雷を探査した。

粛山に管制機雷を認めず、粛山の管制機雷の爆破処分を試みたが誘爆せず、
南岸からの管制機雷に対する危険はないものと判断された。

旗艦安宅はこの日   11:00、閉塞線下流に、 「保津、比良、鳥羽」   は
江陰にそれぞれ進出したが、夕刻粛山沖に下航、警泊した。

第一掃海隊   (第三小隊欠)   は   09:30   呉淞沖発、急航し
16:30   ごろ江陰閉塞線下流で主隊に合同した。》

トラウトマンの和平工作 つづき

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/07/08 18:41 投稿番号: [899 / 2250]
12月2日のトラウトマン ・ 蒋介石の話
を受けて、12月7日、ドイツが日本に和平仲介の話を持って来ました。


《 児島襄著   『日中戦争4』   189〜190p

12月7日、駐日ドイツ大使ディルクセンが広田外相に面会して、
外相ノイラートの指示による和平仲介の覚書を提出した。

大使ディルクセンは、すでに参謀本部の意向も承知している。
蒋介石側も交渉希望も明らかであり、戦況も講和に適していると判断されるので、

日本側の   「色良い」   返事を期待した。
だが、   広田外相の口から出たのは、予想に反する言葉であった。



「最近の偉大な軍事的成功により、一か月前に起草された基礎の上で交渉が
行えるかどうか疑問である。 陸海軍の意見も得て検討したのち返答する」

大使ディルクセンは、日本側の見解がいつかわったのか、と、質問した。

「ここ数週間の戦果が情勢を変化させた」

大使ディルクセンは、日本側は拡大した新要求を用意していると感得し、
広田外相に強調した。

「蒋介石と和平するのが、日本にとって最善の解決になる。 蒋介石の失脚、あるいは
過大な要求をして和平を拒否させるのは、かえって日本の不為になりましょう」

貴国ならびに貴大使の好意に深謝する、というのが広田外相の反応だった。》



*   参謀本部はすでに、12月1日に、和平交渉条件の改訂案を作成していたから、
   前のままでというわけにはいかないでしょう。

   即座に返答はできませんから、会議にかける事になります。



戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   460p

《 早速、首陸海外四相会議を開き、日本側のとるべき態度について検討した。》


つづく

12月7日 第十軍の動き

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/07/07 18:33 投稿番号: [898 / 2250]
戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   424〜425p

《第十軍

第百十四師団の先遣隊は、七日、秣陵関を占領。

第十八師団主力は、七日   ネイ国を占領。



十二月七日、次のような大陸命第二十四号が下命された。

一   中支那方面軍司令官ハ   南京攻略後   海軍ト協同シテ   概ネ   杭州、

   ネイ国   (宜城)、 蕪湖ヲ含ム以北   揚子江右岸地域内   諸要地ノ確保

   安定ニ任スルト   共ニ   航空部隊ヲ以テ   右地域外   敵国要地ノ   攻撃ヲ

   続行スヘシ


二   状況ノ推移ニ伴ヒ   逐次兵力ヲ集結控置シ   大本営ノ使用ニ   便ナラシムヘシ

その他海軍との現地協定等の件が指示された。》

日本人諸君!別冊正論15号只今発売中

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/07/07 01:16 投稿番号: [897 / 2250]
只今発売中の『別冊正論』15号(「中国共産党   野望と謀略の90年」)をすべての日本人に読んでもらいたい。

ここに実証主義に基づいた本当の日中間の歴史が書いてある。
いわゆる中国側の一方的な「ウソとデタラメで塗り固められた日中の歴史」ではない、最新の重要資料と証拠に基づいた日中間の歴史の真実が解き明かされている。

この別冊正論15号(産経新聞社)を読めば、すべての日本人の中国に対する歴史観が変わるはずである。

12月7日 中国の焦土作戦

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/07/06 18:36 投稿番号: [896 / 2250]
東中野修道著   『南京大虐殺の徹底検証』   45〜46p

〈 蒋介石は焼き払い (清野) 作戦を徹底的に遂行した。
南京の東の鎮江はかつて人口二十万人を数えた江蘇省の旧省都であった。

しかし日本軍の迫るや、鎮江は支那軍の放火により、炎と包まれた。
十二月八日付の   『ニューヨーク・タイムズ』   は鎮江が   「廃墟」   となったと記す。

この自暴自棄的な清野作戦を、十二月八日南京発のダーディンの特電は
次のように伝えた。


《 防衛地帯内の障碍   (しょうがい)   物が支那軍に焼かれ続けた。
昨夕焼かれたものの一つに中山陵園地区内の支那高官の高級住宅があった。

南京の周りは立ちのぼる黒煙に包まれた。
半径一六キロ以内の建物や障碍物もまた昨日支那軍に焼かれ続けたからだ。

車で前線に行くと、中山門外、中山陵東南の谷全体が燃えているのを、本紙特派員は見た。
中山陵沿いの幹線道路を走って孝陵衛に行くと、そこの村は焼け落ちて、

燻   (くすぶ)   る廃墟であった。この数日間に避難しなかったそこの住民たちが、
哀れにも僅   (わず)   かばかりの物を持って、ぞろぞろ南京へと歩いていた。

そして時々立ち止まっては、かつての我が家を今一度見るため
悲しそうに振り返っていた。》


焼かれたのは南京の東だけではなかった。
南京は、西と北に揚子江が流れる。日本軍は上海から南京に向かっていた。

従って、南京の東と南で戦闘が起こるとは、衆目の一致するところであった。
そこで、住民の強制退去後に、南の人口密集区域の中華門   (南門)   周辺が焼かれた。〉



西岡香織著   『報道戦線から見た   「日中戦争」』   118〜119p

《 陥落前後の南京市の内外が大混乱に陥ったのである。
その模様を   『南京戦史』   収録の内外の新聞記事等で見ておきたい。


「首都陥落を前にして、支那軍は七日も南京市外十マイルの地域内にある全村落に
火を放ち、日本軍の進撃に便宜を与えるような物は全て焼払わんとしているため、

南京市は濛々   (もうもう)   たる黒煙に包まれてしまった。
記者   (ダーディン)   は自動車を駆って南京市東部の戦線へ視察に赴いたが、

中山門を出ると総理陵苑の彼方の低地は一面猛火の海と化しており、
焼け落ちた家々からは、今まで踏み止まっていた村民の群が、

僅かばかり家財道具を背負ったり小脇に抱えたりして、よろめきながら
城内指して逃げ込んで来る」   〔ニューヨーク特電・七日〕》



*   この焼け出された人たちは中国政府によって、
   焼け出されたのであって、日本軍のしわざではない。

   しかし、狡猾な連中はこういう場面の一部分を切り取って、
   いかにも日本軍が酷いことをしたかのように、すり替える。

12月7日のラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/07/05 18:49 投稿番号: [895 / 2250]
《 十二月七日

昨夜はさかんに車の音がしていた。そして今朝早く、だいたい五時ころ、
飛行機が何機もわが家の屋根すれすれに飛んでいった。

それが蒋介石委員長の別れの挨拶だった。
昨日の午後会った黄もいなくなった。しかも、委員長の命令で!

あとに残されたのは貧しい人たちだけ。それから、その人たちとともに
残ろうと心に決めた我々わずかなヨーロッパ人とアメリカ人だ。



そこらじゅうから、人々が家財道具や夜具をかかえて逃げこんでくる。
といってもこの人たちですら、最下層の貧民ではない。

いわば先発隊で、いくらか金があり、それと引き換えにここの
友人知人にかくまってもらえるような人たちなのだ。

これから文字通りの無一文の連中がやってくる。
そういう人たちのために、学校や大学を開放しなければならない。

みな共同宿舎で寝泊まりし、大きな公営給食所で食べ物をもらうことになるだろう。
約束の食糧のうち、ここに運び入れることができたのはたった四分の一だ。

なにしろ車がなかったので、いいように軍隊に徴発されてしまった。
今日の午前中に、軍にトラックを二台取り上げられた。



これまでに一台しか取り返していない。
もう一台、塩が二トン積んであったほうはいまだに返ってこない。

いまゆくえを探しているところだ。
最高司令部から、たったいま、さらに二万ドル、私のところに払いこまれた。

約束の十万ドルの代わりに、全部で四万ドル受け取ったことになる。
これで満足しなければならないのだろう。

献金の分割払いのことなど、おそらく蒋介石は知らないだろうから文句もいえまい。

明日、城門が閉められ、いままで残っていたアメリカ人も船に乗る。
今日ジーメンスに電報を打った。

満期になった生命保険料を保険会社からもらってくれるように頼んだのだ。



上海放送は、トラウトマン大使が、今日漢口に到着したと伝えていた。
彼の和平案が、蒋介石に拒否されたといっている。

ローゼンからの極秘情報によれば   (すでに書いたが)、
もうそれは蒋介石に受け入れられたということだが。

そのいっぽうで、目下最後の戦闘準備がすすめられている。
最後の一兵が倒れるまで戦う。兵士たちは口々にこういい張っている。




城門のちかくでは家が焼かれており、そこの住民は安全区に逃げるように
指示されている。安全区は、ひそかに人の認めるところになっていたのだ。

たったいま、クレーガーが中華門のちかくのシュメーリング家から帰ってきた。
こじ開けられ、ところどころ荒らされていたという。

現実家の彼は、とりあえず残っていた飲み物を失敬してきた。



十八時、記者会見。馬市長は欠席、外国人も半数くらいしか出席していなかった。
残りはもう発ったのだろう。



門の近くにある家は城壁の内側であっても焼き払われるという噂がひろまり、
中華門の近くに住む人たちはパニックに陥っている。

何百という家族が安全区に押しよせているが、こんなに暗くては
もう泊まるところが見つからない。

凍え、泣きながら、女の人や子どもたちがシーツの包みに腰かけて、
寝場所を探しに行った夫や父親の帰りを待っている。

今日、二千百十七袋、米を取ってきた。明日もまた門を通れるかどうかはわからない。》

蒋介石の焦りと南京脱出

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/07/04 18:35 投稿番号: [894 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   184〜185p

《蒋介石は、ドイツ大使トラウトマンの工作の成果があらわれないのを、憂慮した。

「倭寇対徳大使   所提調停弁法、以我不能屈服、彼己決絶乎?」

日本は、大使トラウトマンを通じての提案をみて、中国を屈服させ得ないと
悟って交渉を拒絶したのではないか……。

だが、当面の事態に対処するためには和平、
せめて和平交渉による時間稼ぎが必要である。



和平仲介は、ドイツでなくてもよいわけである。では、米国はどうか……。
蒋介石は、この夜、顧問 W・ドナルドを米大使館に派遣した。

大使N・ジョンソンは、各国大使とともにすでに漢口に移駐し、二等書記官
G・アチソン、海軍武官補佐官 J・マクヒュー大佐が顧問ドナルドをむかえた。

「中国は、いまや陸空軍を補強する軍需物資の輸入手段をうしなった」
顧問ドナルドは、まっさきにそう述べ、

中国が米英両国で買付けた飛行機、資材、さらにドイツが英国商社を通じて
送る武器も、日本海軍の沿岸封鎖のおかげで輸入できなくなった、と述べた。

ドイツの武器をフランス領インドシナ経由ではこぼうとしたが、
フランス政府は頑としてドイツ製兵器の通過を拒否している。



「必要な軍備が入手できなくなっては、和平交渉もやむをえなくなる」   顧問
ドナルドは、和平交渉についての蒋介石の考え方はきまっている、と、二人に告げた。

「大元帥は、自分では交渉にタッチせず、政府内の親日派グループにまかせるつもりだ」
日本側も、無期限に大規模戦争をつづける自信がないので和平をもとめている、

ソ連は日本が攻撃しない限り参戦しないだろう、と顧問ドナルドはつけ加え、
結語した。 「中国は絶望だ。独立国としての中国は、お仕舞いだ」

顧問ドナルドは、米国の和平仲介をもとめるとは、いわなかった。
だが、仲介をふくめての援助を米国に要請していることは、明白に感得できる。



二等書記官アチソンは、顧問ドナルドの発言の末尾に、次のような自身の判断を
書きそえて、ワシントンに中国の危急を報告した。

顧問ドナルドは、かねて蒋介石が四川、雲南、広西、貴州、江西、福建、
甘粛省にまたがる地域に『新中国』を建設する意図であることを述べていたが、

いまや南方からの軍需品輸入の道がとざされ、 『新中国』   の軍事的基礎を失った。
「彼   (蒋介石)   は、彼自身と彼の意図が絶望的状態にあることを認識している」



   −   その翌日、十二月七日、

蒋介石は夫人宋美齢とともに、午前六時、専用機で南京をはなれ、廬山にむかった。》



*   蒋介石は、ドイツ大使トラウトマンの工作の成果が現れないのを、
   憂慮しているが、   ドイツから日本には、まだ、話が行っていない。

   ディルクセン大使が広田外相に話を持って行くのは、翌7日。
   結果が現れなくて当然。

   まー、自分が、日本の善意を踏みにじって、和平を蹴っていたのだから、
   結果がどうなろうと、自分の責任、日本を恨む資格などない。

   顧問ドナルドは   「中国は絶望だ。独立国としての中国は、お仕舞いだ」
   と言ってるが、何を妄想しているのか。

   日本は中国を征服するつもりも、属国にするつもりもなかった。

   中国が戦争を仕掛けてやめないから、応じているだけで。
   中国が反省して戦争をやめれば、済む話。

第十軍と南京の動き

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/07/03 14:11 投稿番号: [893 / 2250]
戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   425p

第十軍

《 国崎支隊は、郎渓で水上機動の準備を行い、六日、同地を出発、

第十軍司令官は、杭州方面の敵にたいし、軍の左側背を掩護するため、

石湾鎮に歩兵半大隊、湖州に歩兵一大隊、下泗安に歩兵一中隊、

広徳に歩兵一中隊、ネイ国に歩兵半大隊を配備していたが、


六日、第一・第二後備歩兵団が湖州付近に到着したので、

右の警備をこれら兵団に移譲し、師団残置部隊を原所属に復帰させた。》



南京のようす

児島襄著   『日中戦争4』   183〜184p

《 南京市内は日本機の空襲による火煙でおおわれ、外周防備にあたっていた

第八十三軍、第七十一軍、第二軍団の敗兵が続々と市内に逃げこんできた。

首都衛戍司令官唐生智は、市内の外国人に退去を勧告するとともに、

夕刻、城門の閉鎖を命じた。》



*   「南京市内が日本機の空襲で火煙でおおわれ」   と言いながら、

   「外周防備にあたっていた兵が続々と市内に逃げこんできた」

   と言うのは不自然ではないのか?


   爆撃されている市内に、逃げたら、余計危ないだろう。

   爆撃されている場所は、飛行場のような、特定の場所に限られ、

   市民の居住区は比較的安全だったから、兵は逃げこんで来たのではないのか?

12月6日の揚子江啓開作戦

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/07/02 18:32 投稿番号: [892 / 2250]
戦史叢書   『中国方面海軍作戦1』   460〜461p

《 六日、第一警戒部隊は江陰水道の啓開作業を続行、
前路掃海隊は北水道の略掃、 保津隊は南水道の掃海を実施した。

夜半、第一掃海隊の第一、第二小隊は第一警戒部隊に編入された
(第三小隊は七日編入)。

これは第二、第三掃海隊が特設掃海隊で流れの強い江上の敵前掃海に不安があるため、
この際有力な掃海兵力を第一警戒部隊に編入し、遡江作戦を進ちょくさせようと

したものであった   〔第一掃海隊は第一小隊   (掃五、掃六)、 第二小隊   (掃二、掃四)、
第三小隊   (掃一、掃三)   の六隻から成る〕。


前路警戒隊は内火艇四隻をもって   08:00〜17:30   クーパーバンク南方機雷礁の
小掃海を実施し、機雷一二個を拘束、内八個を爆破処分し、残り四個に浮標を付した。



南水道の掃海   閉塞線に可航水路を啓開す
「保津」   艦長は福姜沙水道の清掃、同水道西口 − 閉塞線間南寄り江面の

探掃及び略掃、陸戦隊による江岸一帯の管制機雷の調査、
特別作業隊の作業協力などを命ぜられた。


またこの日から当分の間第二十四駆逐隊から准士官以上の指揮する掃海隊
(二対艇小掃海)   が   「保津」   に派遣され、

同艦長の指揮を受け、かつ宮里大佐指揮の特別作業隊から
機雷処分隊が同艦長に協力することとなった。



まず林少佐指揮の曳船四隻は閉塞線下流付近の再掃海を実施し、
また前路警戒隊から派遣の小掃海隊は閉塞線南端水路の掃海を   17:30   まで

実施したが、閉塞線上流の掃海には不適と認められ原隊に帰った。


「保津、勢多」   は閉塞線下流で右作業の支援に任じ、
かつ内火艇により閉塞線啓開水路の探査を実施したところ、

約四〇〇米の間に可航水路を発見した。
そこで曳船四隻がこの水路の掃海を実施、水道の両側に標識旗を立てた。


保津、第二十四駆逐隊の陸戦隊員は終日   粛山−黄山間江岸一帯の管制機雷衛所
などを捜索、粛山管制所で電纜による爆破を企てたが成功しなかった。

第二掃海隊は   16:00   旗艦安宅に合同した。》

12月6日 ラーベの日記2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/07/01 18:26 投稿番号: [891 / 2250]
《 きちんと準備するには、米や小麦粉、塩、燃料、医薬品、炊事道具、
あと、なんだかしらないがとにかくいるもの全部、

日本軍が攻めてくる前に用意しておかねばならない。 医者、救護員、汚物処理、
埋葬、警察、そうだ、場合によっては警察の代わりまでやる覚悟がいる。

軍隊と一緒に、十中八九警察もいなくなるだろう。そうなったら、治安が乱れる
おそれがある。こういうこともみなそのときになってからやれと言うのか?



なんとか考えを変えるよう、黄を説得しようとしたが無駄だった。
要するにこいつは中国人なのだ。

こいつにとっちゃ、数十万という国民の命なんかどうでもいいんだ。
そうか。貧乏人は死ぬよりほか何の役にも立たないというわけか!



防衛についても話し合った。私は必死で弁じた。ファルケンハウゼン将軍はじめ、
ドイツ人顧問は口をそろえて防衛は絶望的だといっている。

もちろん、形だけでも防衛はしなければならないだろう。司令官にむかって、
むざむざ明け渡せなどといえないことくらい百も承知だ。面目を保ちたいのもわかる。

だが、南京を守ろうとする戦い、この町での戦闘はまったくばかげたことであって、
無慈悲な大量虐殺以外の何物でもない!

  ……だが、何の役にも立たなかった。私には説得力がないのだ!



黄はいった。   名誉とは、最後の血の一滴まで戦うことにある!
ほう!   お手並み拝見といこうじゃないか!

発電所の管理人の白さんと主任技術者陸さんは、発電所を動かすために、
命がけでがんばるとか言っていた。たしかに発電所は動いている。

はて。だれが動かしてるのかね。
白さんと陸さん、このお二人はとっくにいなくなったが。》


*   ラーベは   「南京を守ろうとする戦い、この町での戦闘はまったくばかげた
   ことであって、無慈悲な大量虐殺以外の何物でもない!」   と言っている。

   つまり、大虐殺があったとしても、それは、中国側の責任なのだ。


つづく

12月6日 ラーベの日記1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/06/30 18:40 投稿番号: [890 / 2250]
《十二月六日

ここに残っていたアメリカ人の半分以上は、今日アメリカの軍艦に乗りこんだ
残りの人々もいつでも乗りこめるよう準備している。われわれの仲間だけが拒否した。


これは絶対に内緒だが、といってローゼンが教えてくれたところによると、
トラウトマン大使の和平案が蒋介石に受け入れられたそうだ。

南京が占領される前に平和がくるといい、ローゼンはそういっていた。


黄上校との話し合いは忘れることができない。黄は安全区に大反対だ。
そんなものをつくったら、軍紀が乱れるというのだ。

「日本に征服された土地は、その土のひとかけらまでわれら中国人の血を
吸う定めなのだ。最後の一人が倒れるまで、防衛せねばならん。

いいですか、あなたがたが安全区を設けさえしなかったら、いまそこに逃げこもうと
している連中をわが兵士たちの役に立てることができたのですぞ!」



これほどまでに言語道断な台詞 (せりふ) があるだろうか。二の句がつげない!
しかもこいつは蒋介石委員長側近の高官ときている!

ここに残った人は、家族をつれて逃げたくても金がなかったのだ。おまえら軍人が
犯した過ちを、こういう一番気の毒な人民の命で償わせようというのか!

なぜ、金持ちを、約八十万人という恵まれた市民を逃がしたんだ?
首になわをつけても残せばよかったじゃないか?

どうしていつもいつも、一番貧しい人間だけが命を捧げなければならないんだ?


それから軍人や軍の施設を引き揚げる時期について聞いた。最後のぎりぎりの瞬間、
それよりも一分たりとも前ではない、というのがやつの返事だ。

要するに、土壇場まで、市街戦が繰り広げられるその瞬間までいすわろうという肚なんだ!


つづく

中国 清野 (焦土) 作戦の始まり

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/06/29 18:43 投稿番号: [889 / 2250]
鈴木明著   『「南京大虐殺」   のまぼろし』   173p

《 日本軍が句容を占領したのが合図となったように、
中国軍部隊による南京郊外の   「焼き払いの乱行」   がはじまった。

湯山   −   ここは中国のウェスト・ポイントの所在地で、各種兵学校及び蒋将軍の
臨時最高司令部があったが   − から田園地帯を十五マイル横切って、

南京に至るあらゆる建物に火が放たれた。 村落はすべて焼かれた。
ついで南門周辺や下関の諸設備にも火は放たれ、この財産破損額は、

内輪に見積っても二千万〜三千万ドルにものぼり、これは南京攻撃に先立って、
数カ月にわたって日本空軍が南京空爆によって与えた損害を上廻るものだった。

そして、日本の南京占領後、日本軍によって引き起された損害額に、
ほぼ等しいであろう。



中国軍指導部は、この焼却作戦を軍事上の要請と説明した。
日本軍に利用されそうなものは、樹木、竹やぶに至るまで一掃された。

中立国の連中は、これを

① 〝中国流〟 の大きなジェスチュア、

②   怒りとフラストレーションのあらわれ、

③   どうせ日本軍にやられるなら……

という気持、などと見ている。だが、中立国軍事監視団は、この焼き払いは、
実際上は軍事目的に殆ど役に立たなかったと見る点で一致している。》



東中野修道著   『南京大虐殺の徹底検証』   45p

〈 一九三七年   (昭和十二年)   十二月七日南京発の
『ニューヨーク・タイムズ』   のテイルマン・ダーディン記者の特電。


《 湯山と南京の間、公路沿いにだいたい一マイルおきに堡塁 (ほうるい) が
設けられている。首都に近づくと、中国軍に放たれた火が激しく燃え盛っていた。

敵軍が遮蔽物に使いうる農村の建物を清除しているのである。
ある谷では一村が丸々焼けていた。

(略)

湯山地区では少年雑役兵が数多くいた。 少年たちは年齢十歳から十二歳、
軍服姿の正規兵で、伝令、運搬、炊事といった仕事をしている。

ときには最前線で戦争をゲームのように楽しんでいるように見える。》


少年兵が軍服を着用している限り、それは戦時国際法違反ではなかった。

ただ、少年兵までが動員されたということは、
南京の若者はほとんど動員されたことを意味する。

ダーディン記者の回想によるまでもなく、蒋介石は   「戦えるものは誰でも
駆り集め」   て、南京の防衛にあたったことになる。〉


つづく

12月5日の揚子江啓開作戦

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/06/28 18:30 投稿番号: [888 / 2250]
戦史叢書   『中国方面海軍作戦1』   459〜460p

《 五日の経過、

江陰付近の南岸一帯は完全に我が手に帰し、北岸の残敵も少数となった模様であった。
クーパーバンク付近は四日の探掃で、機雷礁の存在が確実となった。


江陰北水道啓開

前路警戒隊は、クロッシング付近に集結して啓開作業の掩護態勢をとり、
舟艇をもって逐次北水道を略掃するよう命ぜられ、

第二十四駆遂隊の各艇内火艇一隻計四隻をもって五日 11:30〜18:30 掃海作業し、
その結果クーパーバンク・ビーコンの距岸一五〇米から南方約五〇米間隔に

機雷四個確認拘束、その南方約五〇米の機雷三個   (四日   「八重山、安宅」
小掃海隊発見)   と共に計七個の機雷に浮標を付けた。

そして六日朝から掃海を続行し、右機雷を処分するに決した。
また陸戦隊員を揚陸して機雷衛所を捜索したが、衛所及び敵兵を見なかった。



南水道の清掃

「保津、勢多」   及び掃海隊の曳船四隻は福姜沙水路の清掃を続行し、
南水道閉塞線での清掃を完了した。

宮里大佐指揮の特別作業隊は閉塞線上に可航水路を発見した。
「保津」   は午後、閉塞線下流近距離に転錨した。


四日〜五日の南岸偵察成果

四日   「保津」   から上陸した聯合陸戦隊は同日長山を占領し、
機雷管制所を捜索したが発見し得ず、五日朝撤退し帰艦した。

「保津」   艦長は五日午後、陸軍部隊と連絡を遂げ巫山山頂に陸戦隊員を
駐泊させ、陸軍との連絡に当たらせた。

南岸調査の結果、粛山電電学校に数種の機雷   (触発及び視発)   多数あり、
江岸に敷設準備中の視発機雷十数個があることを知った。

また管制用電纜   (でんらん:ケーブル)   らしいものが粛山江岸に一本、
長山江岸に二本あり、長山には電纜を引っ込んだ管制所らしいものを認めた。


第二、 第三掃海隊編入、 「八重山」除かる

五日付、第二、第三掃海隊が第一警戒部隊に編入された。

第二掃海隊は天塩丸、間宮丸、雄基丸、高砂丸、安宅丸及び 第一、第二、第三玉園丸の
計八隻、第三掃海隊は八幡丸及び第一、第二、第三、第六、第七博多丸の計六隻の

特設掃海艇で掃成されていた。
「八重山」   は第一警戒部隊から除かれた。》


つづく

句容攻略と百人斬り記事 第3号

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/06/27 18:33 投稿番号: [887 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   182p

《 蒋介石は、十二月五日、「守土責任」を放棄する官吏、軍人は例外なく
軍法会議で処断する旨を布告し、句容西方の湯山陣地を視察した。

ところが、蒋介石が守将の第六十六軍第一五九師長譚邃と対談している午前十一時ごろ、
はやくも前方に日本軍の出現が報告され、銃声もきこえた。

蒋介石は、「鎮静」   に、かつ、す早く丘をおりて南京に帰ったが、午後一時には
句容の陥落、午後四時には天王寺から北上してきた日本軍   (第九師団第三十六連隊)   が、

句容西方の淳化鎮に進出したとの報告をうけた。》



戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   424p

《 第十六師団の追撃隊は、五日、句容付近に陣地を占領した敵を突破し、
第九師団の追撃隊は、同日、南京第一線陣地である淳化鎮付近に進出した。》



百人斬り新聞記事    〔昭和12年12月7日   大阪毎日新聞朝刊   〕

《 百人斬り競争の二少尉/相変らず接戦の猛勇ぶり

丹陽にて【三日】句容にて【五日】浅海、光本本社特派員発

南京を目ざす「百人斬り競争」の二青年将校、片桐部隊向井敏明、野田毅両少尉は
句容入城にも最前線に立つて奮戦、入城直前までの成績は

向井少尉は八十九名、野田少尉は七十八名といふ接戦となつた

(両少尉の写真)

敗けず劣らずの野田少尉(右)と向井少尉(左)   (常州にて−佐藤本社特派員撮影)》



*   記者は、向井少尉が丹陽にて負傷し、入院していることを知らずに書いている。

   向井少尉は12月15日まで入院しているから、
   丹陽から句容の戦線はおろか南京戦にもいない。

安全区より中国軍追い出しを図るラーベ

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/06/26 15:28 投稿番号: [886 / 2250]
ラーベの日記
  十二月五日

《 やっとのことで車に乗りこんだとたん、今度は空襲警報だ。爆弾が落ちた。
だが今は許可証を持っているので、二度目のサイレンの後なら外に出られる。

それにあまりにやることが多くて、爆弾などかまっていられない。 こういうと
ひどく勇ましく聞こえるが、さいわい爆弾はいつもどこかよそに落ちている。



アメリカ大使館の仲介で、ついに、安全区についての東京からの公式回答を受け取った。
やや詳しかっただけで、ジャキノ神父によって先日電報で送られてきたものと

大筋は変わらない。つまり、日本政府はまた拒否してはきたものの、
できるだけ配慮しようと約束してくれたのだ。



ベイツ、シュペアリングといっしょに、唐司令長官を訪ねた。なんとしても、
軍人と軍の施設をすぐに安全区から残らず引き揚げる約束をとりつけなければならない。

それにしてもやつの返事を聞いたときのわれわれの驚きをいったいどう言えばいいのだろう!
「とうてい無理だ。どんなに早くても二週間後になる」   だと?

そんなばかなことがあるか!それでは、中国人兵士を入れないという条件が
満たせないではないか。

そうなったら当面、 「安全区」   の名をつけることなど考えられない。
せいぜい   「難民区」   だ。委員会のメンバーでとことん話し合った結果、

新聞にのせる文句を決めた。なにもかも水の泡にならないようにするためには、
本当のことを知らせるわけにはいかない……。



その間にも爆弾はひっきりなしに落ちてくる。音があまりに大きい時は、
椅子を少し窓から遠ざける。あらゆる防空壕のなかでいちばんりっぱなやつが

庭にあるのに。ただそれを使う時間がないのだ。



城門は壁土で塗りこめられる。三つの門のうち、開いているのはひとつだけだ。
といっても扉の半分だけだが。われわれは必死で米や小麦粉を運びこんだ。

安全区を示す旗や、外にいる人たちに安全区のことを知らせる貼り紙もできている。
だが、肝心の安全性については最低の保証すら与えられないのだ!



ローゼンはかんかんになっている。中国軍が安全区のなかに隠れているというのだ。
ドイツの旗がある空き家がたくさんあり、その近くにいる方がずっと安全だ

と思っているからだという。そのとおりだと言い切る自信はない。
しかし、今日、唐司令長官と会った家も安全区のなかだったというのはたしかである。》

「百人斬り」訴訟のつづき3

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/06/25 16:10 投稿番号: [885 / 2250]
なお、東京地裁は、原告側の「死者への敬愛追慕の情を侵害した」との主張や「死者や遺族の名誉を棄損した」との主張について、「死亡によって名誉などの人格権は消滅する」「記述は遺族の生活状況などについて言及していない」などとして退けたとのことである。しかし、「百人斬り」の話は、全国紙が書き、単行本も出版して、国民の大多数の知るところとなり、学校で教えるところもあり、さらには南京の記念館に展示までされて、国際的に大々的に知らされているような重大な問題である。一時的に、ローカルな範囲で報道されたような記事とは違う。
  控訴審では、このあたり原告側の弁護団は、どのような論理構成で臨むのか、頑張ってほしいと思う。


  冒頭に、「南京大屠殺記念館」の展示のことを書いた。無罪を主張して銃殺された野田・向井両少尉の巨大な写真が飾られ、日本軍の「残虐さ」が強調されているという。「百人斬り」事件の裁判は、両少尉の名誉がかかっているだけではない。日本人全体の名誉がかかっている。また、「南京大虐殺」という虚偽・捏造を打ち崩す、重要な機会でもあるのだ。

「百人斬り」訴訟のつづき2

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/06/25 16:08 投稿番号: [884 / 2250]
  平成17年8月24日の報道によると、東京地裁は「当時の記事内容が一見して、明白に虚偽であるとまでは認められない」として、遺族側の請求を棄却した。
  土肥章大裁判長は、判決で、「記事は二将校が東京日日の記者に百人斬り競争の話をしたことをきっかけに連載され、報道後に将校が百人斬りを認める発言を行っていたこともうかがわれる」と指摘。その上で「虚偽、誇張が含まれている可能性が全くないとは言えないが、何ら事実に基づかない新聞記者の創作とまで認めるのは困難」とし、「百人斬り」の真偽については、「さまざまな見解があり、歴史的事実としての評価は定まっていない」と判決理由を述べたという。
  遺族側は、判決を不服として、控訴する方針だという。是非、一審の結果に気を落とさずに、頑張っていただきたいと思う。

  裁判所は、この国際的にも重要な意味を持つ歴史的事件について、どこまで真剣に取り組んでいるのか。
  「百人斬り」の話が極めて疑わしいことは、多くの識者が指摘している。
  南京攻略戦は銃撃戦が主で、日本刀による殺人競争のできる状況ではない。野田毅少尉は大隊副官、向井敏明少尉は歩兵砲小隊長であり、日本刀による白兵戦に参加することはあり得ない。日本刀の性能から言って、連続して百人を斬ることは不可能である。記事を書いた記者自身が、「この記事は、自分が目撃したものではない」と明言している。目撃者・遺体などの証拠が全くない。
  それにもかかわらず、新聞記事を唯一の根拠として、両少尉は処刑された。
  このような新聞報道の過ちが訂正されず、死者に鞭打つような報道・出版がされ、遺族に多大な苦痛を与え続けている。

産経新聞は、判決に関する本多勝一氏の話として、「当然の結果。この歴史的事実がますます固められたというべきだ」というコメントを載せたが、氏のこの主張はおかしい。
  本件訴訟は民事裁判である。請求の適否を判断するために、「百人斬り」の記事が事実か虚偽かが審理されるわけだが、「百人斬り」の話が事実であるかどうか、どこまでが事実で、どの点が虚偽か等を、裁判所が決めるわけではない。裁判所が行うのは、あくまで原告の請求は、法に照らして理由があるかどうか、相当であるかどうかを判断することのみだと思う。
  朝日新聞の記事によると、裁判所は、表現行為が違法となるのは「一見して明白に虚偽」である場合」との基準を示し、問題の記事は「一見して明白に虚偽だとはいえない」と判断したにすぎない一見ではなく、しっかり読んでよく考えると、かなり誇張や創作が含まれているという解釈まで否定したわけではない。
  一審の裁判官は、何か先入観を持っていたか、事実と虚偽を見抜く見識や経験の不足があるのかも知れない。書いた記者やカメラマン、取材を受けた野田少尉が「創作」だと言っているのだから、すべて事実ではないと判断するのが常識だろう。別の裁判官が担当すれば、記事にはかなり誇張や創作が含まれているという理解を示す可能性が十分あると思う。
 
東京日日の記者は、両少尉を称賛しつつ戦意を発揚するという意図で記事を書いた。創作や誇張であっても、誹謗中傷の意図はない。しかし、その記事が原因となって、両少尉は敵国の軍事裁判で無罪を主張しながら処刑された。それによって、記事は英雄賛美から戦犯断罪へと効果を反転した。その反対効果を引き出したのは、南京軍事裁判所であって、東京日日ではない。死者の名誉は地に落ち、いまも貶められ続けている。また、遺族は戦犯の子として、多大な苦痛を受け、いまもなおこの記事に発する虚偽・誇張の報道・出版によって苦痛を受け続けている。
  こういうおそらく類例のない訴訟において、今後、控訴審で原告側がどのような主張をしていくか、注目したいと思う。

「百人斬り」訴訟

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/06/25 16:00 投稿番号: [883 / 2250]
■「百人斬り」訴訟の争点と展望
2005.9.9
細川一彦氏のオピニオンより

  南京にある「南京大屠殺記念館」は、入り口に30万という数字を掲げている。そして、展示内容の中で特に日本軍の「残虐さ」を強調しているのが、「百人斬り」の話であるという。

  「百人斬り」とは、昭和12年12月の南京攻略戦で、旧日本軍の二将校、野田毅、向井敏明両少尉が、日本刀でシナ人の「百人斬り」を行ったという話である。当時、東京日日新聞(現・毎日新聞)は、野田・向井両少尉が前線で中国兵を斬り倒し、「百人斬り」の競争をしているという記事を、4回にわたって掲載した。戦後、この記事を唯一の根拠として、両少尉は捕虜・住民虐殺の罪で起訴され、昭和22年11月南京軍事裁判所で即日死刑を言い渡され、同年12月銃殺された。

  私は最初、朝日新聞の本多勝一記者の著書『中国への旅』で知った。昭和40年代の終わりごろ、20歳前後のことである。当時の私はそれを真に受け、憤りを感じた。その後、山本七平氏が、自分の陸軍体験に基づく知識と、南京戦の実態、日本刀の性能等から、「百人斬りは虚構」と論じているのを読んだ。鈴木明氏が、著書『「南京大虐殺」のまぼろし』で克明な検証を行い、冤罪と断じたものも読んだ。他にもいろいろな人たちが書いている。
  それらを読めば、「百人斬り」の記事は、戦意高揚のために書かれた虚偽・誇張の記事である可能性が非常に高いことが、誰にもわかる。しかし、事の真偽は確かめようもなく、年月が打ちすぎた。

  「百人斬り」事件をめぐる新たな動きが現れたのは、平成12年のはじめだった。月刊「正論」に、向井少尉の次女・田所千恵子さんが、両少尉を死刑に処した判決文等の資料を公開した。60年以上たって真相の一端が、ようやく公になったわけだ。資料は、南京軍事裁判の不公正さを明らかにしていた。
  また、翌年、同じ「正論」に、野田少尉の手記が掲載された。手記は少尉の遺品の中から発見されたもので、話は東京日日新聞の浅海記者に持ちかけられた創作であったことが記されていた。
  平成12年の後半だったと記憶するが、都内で行われたある講演会で、向井少尉の娘・田所千恵子さんの訴えを聴いた。千恵子さんは、中学時代に「戦犯の子」と呼ばれて苦んだ。父の話は、いつかは忘れ去られるだろうと思って耐えていた。しかし、昭和46年、本多氏が朝日新聞に書いたことで世に知られるようになり、「百人斬り」を事実とする本が出版され、遺族の生活はすっかり変わってしまったという。涙ながらの訴えは、満場の人々の心を打った。

  平成15年4月、千恵子さんは、父と野田少尉の無念を晴らすために、訴訟に踏み切った。裁判は、東京地裁で行われた。

原告は、向井少尉遺族(娘の田所千恵子さん、エミコ・クーパーさん)、野田少尉遺族(妹の野田マサさん)。被告は、本多勝一氏、朝日新聞社、毎日新聞社(元東京日日新聞社)、柏書房。訴因は、東京日日新聞の浅海記者による記事、朝日新聞の本多記者による記事、本多氏の著書「南京への道」「南京大虐殺13のウソ」の中で、百人斬りに関する記述が、原告等遺族の名誉を毀損しているから、出版の差し止め、謝罪広告の掲載、損害賠償(計3600万円)を求めるという訴訟である。

12月4日 第十軍と蒋介石の動き

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/06/25 15:54 投稿番号: [882 / 2250]
戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   424 p

第十軍

《 このころ、蕪湖付近から揚子江を遡江する敵大部隊があり、
あるいはネイ国を経て南下退却する部隊があった。

よって軍司令官は、方面軍司令官の指示に基づき、敵の退路を遮断する目的をもって、
四日、第十八師団にたいし、進路を変更してネイ国−蕪湖−南京道を南京に向かい追撃

するよう命じ、次いで第百十四師団及び第六師団にたいし、南京に向かう追撃を命じた。
第百十四師団の先遣隊は、四日、リツ水に進入した 》



児島襄著   『日中戦争4』   182p

《 蒋介石は、句容東方、天王寺付近、リツ水付近に日本軍が出現した
との報告をうけると、「首都保衛戦」   発動を下令した。

進出した日本軍は、それぞれ第十六師団、第九師団、第百十四師団の先頭部隊である。

中支那方面軍司令官松井大将は、上海派遣軍と第十軍の進出状況をみて、
午後九時、 「中方作命第二十七号」   を発令した。


「中支那方面軍ハ、 南京郊外   既設陣地ヲ奪取シ、 南京城ノ攻略ヲ   準備セントス」


その準備線は、南京の北端の下関 (シャーカン) 東方的四キロの上元門、
中山門東方の小衛、光華門南東の高橋門、中華門南方の雨花台、

水西門西方の棉花地をむすぶ線とした。
いいかえれば、南京城を包囲して城壁の手前でいったんとまれ、というのである。》



戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   426 p

《 方面軍司令官は、南京郊外既設陣地を奪取し南京城の攻略を準備するに決し、
十二月四日、隷下両軍の南京攻撃準備線を、おおむね上元門、小衛、高橋門、

雨花臺、綿花地の線に統制した。》


つづく
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