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12月9日 中国軍から見た戦い

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/07/23 18:30 投稿番号: [915 / 2250]
宋希濂の回想録   『鷹犬将軍』   より

《 十二月九日、南京防衛総司令官   (唐生智)   は、次のような命令を行った。


①   敵軍は既に南京城周辺に迫ってきた。
   現在わが軍が守っている城廓陣地は、最後の砦である。

   各部隊の将兵は、陣地とともに死を覚悟してこれを死守してほしい。
   寸土たりとも、放棄は許されない。

   もしこの命令に従わず、勝手に後退する者は、
   司令官の厳命によって、連座制をとり、これを厳罰に処する。


②   各部隊が保有しているすべての船は、これを本部運輸司令部に移管し、
   司令部が責任を持って保有する。

   第七十八軍長宋希濂は、長江沿岸警備を担当し、
   他の部隊、将兵などの勝手な乗船、渡河を厳禁する。

   もしこの命令に背くものがあれば、即時逮捕し、厳罰に処する。

   なお、敢えてその命令に背き、抵抗する者があれば、
  (宋希濂部隊に)   武力を以てその行動を制止させるようにする。



同じ十二月九日、敵の包囲陣はさらに城廓に接近した。
わが七十四軍   (兪済時)   は大勝関と牛首山を結ぶ前線を突破されて

次第に後退、遂に水西門に移って守備につくことを余儀なくされたが、
敵はそれに迫ってきた。

そして、水西門外の上河鎮一帯が激戦区となった   (水西門から上河鎮は、
現在の   「南京大虐殺記念館」   のある場所の付近に当る)。



棲霞山が敵に占領されると、わが四十八師   (徐源泉 ・ 徐継武の第二軍)   は
和尚橋まで退いて、四十一師と合流した   (長江を数百メートル上流に逃げた)。

浄化鎮にいた敵軍は、高橋門   (門の名があるが、城門ではない)、
七瓮   (シチオン)   橋   (現在は七橋瓮と呼ばれている)   を落して、

公路に沿って光華門   (南京城の南東部にあり、日本軍は最初に
この門上を占領した)   に向って進んだ。



別の一隊は通済門   (南京城の南門、中華門と光華門の中間にある)   外の
兵営を占領し、通済門を攻めた。

国道に沿って、湯山   (南京城の真東、紫金山の南の山麓方面)   から
南京に向った敵軍は、九日、わが教導総隊   (桂永清)   が守っていた老虎洞、

体育場、馬群、孝陵など西南一帯の高地に向って進撃を開始、
わが守備軍は、峰麟閣寺西山の主陣地に移った


(ここにトーチカがあり、九日夕方から十日正午まで、日本軍は   「投降ビラ」   を
撒いて唐生智に無血開城を勧告し、戦闘を中止したが、唐生智はそれに応じなかった)。》

(鈴木明著   『新   「南京大虐殺」   のまぼろし』   257〜258p)
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