入って中国人に南京事件真相議論しましょう

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中国の対日戦準備

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/22 18:52 投稿番号: [1474 / 2250]
児島襄著 『日中戦争3』 文春文庫
379〜381p


《 日本は戦争を望んでいないと判断され、

その判断は、川越声明で裏書きされたといえる。

蒋介石は、六月三十日、これまでの措置が 「皆有相当之成就也」 と

満足の意を日誌に記述し、翌日、七月一日には、


「中国応具必戦之決心而後可以免戦、必如是乃得達成不戦而収復失地之目的」


と、こんごの方針を定めた。

戦争の決意と準備をしてこそ、戦争も回避できるし、

戦わずに失地回復の目的も達成できる、といった趣意である。

日本に 「戦意」 がないと見定め、逆に中国側の 「戦意」 と武備の誇示によって

日本の譲歩をさそおうとする方策でもあろうか……。



では、蒋介石は、いつまでに対日戦備をととのえようとするのか。

既述したように、蒋介石は二月には   「三年ないし五年」   を予定し、

ソ連の五カ年計画、ドイツの四カ年計画の研究も指示している。

日本の参謀本部が   「一九四〇年」   をメドに対ソ戦備の充実を企図している如く、

蒋介石もほぼ同時期を対日戦備の完成期に想定していたのであろうか。



いやもっと早く、日本側の 「戦意」 と戦備不足に乗じて対日宣戦をする   ―

と推理したのが、米大使館参事官W・ペックであった。

参事官ペックは、蒋介石が   「必戦之決心」   方針をさだめた七月一日、

外交部長王寵恵と会談した。



王部長は、ソ連との経済交渉が頓挫している旨を語り、

対日関係についても率直に次のように述べた。

「日本政府は、当分、新たな侵略行動には出ないと思う。

その間に、中国政府は、国益を守るには武力に依存せねばならぬことを考え、

自衛力の増強のために全力をあげる。



とくに十一月十二日の国民大会までは、(日本との)武力衝突がないことを願っている。

陝西省北部の共産軍の一部は、すでに提案を受諾しているが、

政府は、有事のさいの 『有力な武器』 としての共産軍の維持につとめている」

参事官ペックは、この王部長の発言から、

中国は、日本側の準備未熟の機会をとらえて、

「おそらく十一月の国民大会で対日宣戦をする」   ものと、予測したのである。



蒋介石は、訪米中の財政部長孔祥煕にたいして   「十年以上」   の延払いで建設機材、

発電機械および   「煉鋼廠」「人工煉油廠」「機関車頭製造廠」「造船廠」

「飛機製造廠」   などのプラント輸出、また軌道千キロ分、機関車百輌の売却を

米政府にもとめるよう指示したが、七月二日、綏遠省主席傳作義に次のように急電している。

「指示関於綏東綏北各区工事、務於八月十五日以前全部完成、

切望厳督各部、星夜カン築、勿誤」



なぜ、なにがなんでも 「八月十五日」 までに完工させねばならないのか。

この日付けで連想できるのは、いわゆる 「廬山会議」 である。》


つづく

2月6日 ラーベの日記2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/22 18:40 投稿番号: [1473 / 2250]
《 ドイツ大使館南京分館からのローゼンの報告
のつづき


《 また少将が   「ある国家」   にアメリカをも含めたとしても事情は変わりません。

アメリカ人はドイツ人とともに密接に提携して共に行動してきました。

ドイツ人がしたことはすべてアメリカ人も加わり、無条件に承認したのです。

ドイツ人とアメリカ人が敢然と間に立つことがなかったら、

日本軍の殺戮は著しく増加していたと思われます。

ですから、日本は外国人に心から感謝して当然なのです。



日本側が腹を立てるのはわからぬわけではありません。

国内でふだんこっそりやれていたことが、

当地では細かな点まであらいざらい明るみに出てしまったのですから。


ところがこれはつぎのような論理で片づけられてしまいました。

すなわち、日本が無秩序な中国に光明と秩序をもたらしたため、

国民は喜びのあまりじっとしていられないのだ、と。



しかし事実はこうです。我々外国人の予想に反して、

日々繰り返される空襲や市街戦に苦しめられながらも、

中国人民は非の打ち所のない規律を示し、



比較的重要でないことがらをのぞけば外国の国旗を尊重したのです。

一方日本軍のほうは、南京がとっくに平穏な兵站基地になったあとも、

人を殺し、強姦し、街を焼きはらい、あらゆるものを、

ドイツ人はじめほかの外国人の所有物をも襲ったのです。



ラジオのニュースによりますと、ドイツの外交政策の転換により、

日本は自国の中国政策が追認されるのではないかと大きな望みをかけている模様です。

けれどもその際、日本はあることを見逃しております。

つまり、ほかならぬ防共協定の創案者   (ヒトラーのこと)   が、

日本によるこの高尚な理念の濫用に対して若干もの申すかもしれないということを。



漢口との郵便連絡がうまくいきません。よって、この報告書を外務省に直接提出します。

                                     ローゼン



*   《 日本側が腹を立てるのはわからぬわけではありません。

   国内でふだんこっそりやれていたことが、当地では細かな点まで

   あらいざらい明るみに出てしまったのですから。》


   妄想も、ここまで来るとどうしようもありません。

   日本国内では、略奪も虐殺もないのですけど。

   小規模な、犯罪ならありますが。



*   《 日々繰り返される空襲や市街戦に苦しめられながらも、

   中国人民は非の打ち所のない規律を示し、》


   地震の時の市民の動きを見比べれば一目瞭然。

   日本人の方がはるかに非の打ち所のない規律を示しています。

   無理して、中国人を美化しようと努めていますね。



*   《 比較的重要でないことがらをのぞけば外国の国旗を尊重したのです。》


   大正2年の第一次南京事件の時は、

   日本国旗を掲げているにもかかわらず、日本人が殺されました。

   上海戦では、中国軍が外国旗を掲げて、日本軍を攻撃しました。

   どこが尊重なのでしょう?



*   《 ほかならぬ防共協定の創案者   (ヒトラーのこと)   が、日本による

   この高尚な理念の濫用に対して若干もの申すかもしれないということを。》


   ローゼンはヒトラーを美化して見ていますね。

   六日後の12日には、オーストリア併合へ向けて動き出すのに。

   かつヒトラーは、ユダヤ人虐殺をし始めるから、ユダヤ人のローゼンは

   ドイツに帰るとガス室送りになるかもしれないのに。

事件を企む怪しい学生達

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/21 18:47 投稿番号: [1472 / 2250]
児島襄著   『日中戦争3』   文春文庫   376〜378p


《   −   六月二十三日、

通州方面から中国服姿の若者が三々五々といった形で、次々に北京市内にはいってきた。

似たような雰囲気の青年たちで、どうやら二、三百人のグループであるらしい。

巡警が数人に不審訊問をこころみると、いずれも大学生だとこたえた。

ただし、大学はそれぞれにちがい、

燕京大学、清華大学、東北大学、輔仁大学などの名をあげた。



そして、その主張どおりに、青年たちは以上の大学付近にむかい、

民家にはいったり、街をぶらついたりしていた。

どうも、おかしい   −   というので、報告をうけた北京市長秦徳純は、

公安局長陳継淹に調査を命じた。

公安局長が二、三人を連行して取調べすると、その一人が不穏な計画を自供した。



「われわれは大学生だが、共産主義者ということになっている」

六月二十六、二十七、二十八日のうち、風向きの良い夜をえらび、

西直門付近で放火、暴動を起し、 「打倒宋哲元」 「歓迎紅軍北上」   を

市民に呼びかける計画だ、という。



当人が自白したアジトを捜索すると、拳銃、機関銃、赤旗、宣伝ビラ

その他の証拠品が発見された。

公安局は、ただちに   「不穏青年」   たちの検挙を開始し、

北京市内に潜入した大部を捕え、一部は逃亡した。



以上   −   は、中国紙   『港報』   がつたえる事件の概要である。
・・・
暴動計画の実行日とみられる六月二十六日から、

北京市内には夜間特別警戒が施行された。

事件は極秘にされ、特別警戒の理由も公表されなかったので、

かえって流言と蜚語の勢いを増した。

だが、 「青年学生的便衣隊」   のほとんどが事前に逮捕されたためか、

暴発の予定日と告白された二十六、二十七、二十八日は、いずれも無事にすぎた。



その翌日、六月二十九日、駐支大使川越茂が帰任し、上海で記者会見をおこない、

日中両国の親善を強調したが、とくに次のように言明した。

「日本の発展と中国の発展とにより、あるいは摩擦を生ずることも考えられるが、

日本は戦争を欲しておらず、中国もまた同じであろうと信ずる」

日本は戦争を欲せず   ―   という、この川越声明は、中国側に歓迎され、

蒋介石にも安堵感をあたえた。



蒋介石は、それまでに、あるいはドイツにたいして

「軽戦車百二十輌、十五センチ加農   (カノン)   砲八門」   の追加注文をおこない、

米国に経済援助をもとめ、さらには山東省主席韓復腧と青島市長沈鴻烈に

防備を促進するよう指示していた。》


つづく

2月6日 ラーベの日記1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/21 18:39 投稿番号: [1471 / 2250]
《 ドイツ大使館南京分館からのローゼンの報告


今月の五日に、日本大使館におきましてティーパーティーが催されました。

新しく任命された日本の駐屯部隊司令官天谷直次郎少将が、

当地の在外公館のメンバーを招待したのです。

かなり長いこと待たされた後、我々は席に着くようすすめられました。

少将は長ったらしいスピーチを読み上げ、

それを福田書記官がつっかえながら英語に訳しました。


(内容省略)


天谷少将の挨拶に話を戻しますと、

さしあたってつぎのような結論が引き出されましょう。



つまり、中国軍の抵抗により日本軍はかなり動揺したということです。

ある民族が、積年の苦しみと絶え間ない屈辱の果てに、

ついに侵入者に反旗を翻すということぐらい、

愛国心の強い日本人には自明の理だと思うのですが。



ところが、際限なくのぼせ上がった日本人は

けっしてこの事実に目を向けようとはしませんでした。

およそ二年前、満州国の外交部次長であり、

日中戦争の最高責任者の一人である大橋忠一氏は豪語したものです。

中国の主力軍など、日本の二師団もあればわけなくおさえられるだろう、と。



将校、いやそれどころか参謀本部についても

天谷少将が不安を感じたという事実は、中国進軍について、

日本がまったく別のイメージを抱いていたことを如実に物語っています。



南京住民が日本人を受け入れなかった理由を

外国人のせいにしようとする天谷少将の試みは的はずれとしか申せません。

なにより、南京に残っている外国人が、リーダーとして同盟国であるドイツの人間、

しかもナチ党員であるジョン・ラーベ氏をすえたことを考えれば、それは明らかです。》


報告はまだつづく



*   「ある民族が、積年の苦しみと絶え間ない屈辱の果てに、

   ついに侵入者に反旗を翻すということぐらい、・・・自明の理だと思うのですが」


   この言葉、今の中国人に言って欲しいけど、言っても蛙の面に小便。

   中国人以外の誰にも理解できない理屈でもって

   チベットやウイグルへの侵略を正当化しています。


*   日中戦争の最高責任者の一人である大橋忠一氏は豪語したものです。


   彼が、日中戦争の最高責任者の一人とは、聞いたことがない。

   今のところ、大事な場面には出てきていない。


*   中国の主力軍など、日本の二師団もあればわけなくおさえられるだろう、と


   大橋氏がどう思ったか知らないが、参謀本部の石原第一部長も、

   上海派遣軍の松井軍司令官も、そうはそう思っていなかった。


   単なる、部外者の妄言をとりあげているに過ぎない。

戦争を望む中国と望まない日本2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/20 18:56 投稿番号: [1470 / 2250]
戦争を望まない日本


中国では、下の者が対日戦争を要求していましたが、日本側は


寺平忠輔著   『日本の悲劇   盧溝橋事件』   読売新聞社刊
47p


「七夕様の晩に華北で第二の柳条満車件が起る」   という謡言は、

私はじめ現地で耳にした者はない。

それがどういうものか、遥か海を越えた東京三宅坂あたりに、

ある程度の迫真力をもって伝えられていったという事実がある。



これが参謀本部の作戦部長石原莞爾少将に考えさせるものがあった。

早速陸軍省軍務局長後宮   (うしろく)   淳   (じゅん)   少将とも相談し、

軍事課の高級課員岡本清福中佐を現地に派し、

華北の情勢を仔細に検討させることになった。



出発に当って石原少将は

「現地の若い連中が、何かエラく勢込んでいる風評がある。

とんでもない事だ。バカげた事件でも起すといかん。

至急現地に行って、それらの芽生えを摘み取って来てくれ」   といった。



岡本中佐は華北にとんだ。そして山海関   (さんかいかん)、 ラン州、

唐山、天津等現地部隊の情況を逐次打診した。

橋本参謀長と言い池田純久経済参謀と言い、

時局に対してはいたって冷静であり慎重である。

和知機関にせよ茂川機関にせよ極めて神妙であって、

軽挙妄動するような気配は微塵だにも感ぜられない。



引き続き北京を訪れた岡本中佐は、同期の木原義雄大隊長を交えて、

河辺旅団長のもとで懇談した。旅団長は語った。

「現地軍の思潮、これには何ら憂慮すべき点はない。ことに私の隷下部隊に関する限り、

厳に軽挙妄動を戒め、慎重の上にも慎重を期するよう徹底させてある。

この事は安心して内地に復命してくれ給え」》


つづく

2月5日 ラーベの日記2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/20 18:49 投稿番号: [1469 / 2250]
《 クリスティアン・クレーガーよりラーベへの手紙一九三八年一月二十八日   於上海


《 親愛なるラーベ先生!

ようやく人心地がつきました。 けっこうきつい旅でしたが、まず、

グログ酒   (ラム酒に砂糖を入れ、お湯で割ったもの)   を立て続けにひっかけ、

それから温かい湯につかって内と外の両側から暖まりました。

それから、今週はひさしぶりに人間とつきあいました。

きちんと服を着た、平和的な人々とです。   南京のように獣とではなく、ね。



・・・

常州   (武進)   までは、あたりの風景も荒涼たるものでしたが、

ここを過ぎると一変しました。畑にはお百姓の姿も見えました。

耕しているのです。さすがの   「掃討」   もここまでは及ばなかったようです。

けれども略奪のほうはどこでも同じように行われています。



途中の駅でも、兵士が大きな荷物をかかえて乗りこんできました。

将校さえ、ぶんどってきたものを部下にひっぱらせていました。

ほかにはあまり見るべきものはありませんでした。

道路はあまり安全ではなく、とくに夜は危険だという話です。

それでも、自分の車でくるほうがずっと良かったのですが。



今日、ラーベさんの奥さんにお目にかかりました。

とても心配なさってました。ラーベさんも、遅くとも一カ月後には

こちらにきてドイツへ向かわれた方がいいと思いますよ。

プロープスト氏ともゆっくり話しました。ぼくの話を熱心に聞いてくれました。

仕事の上でいまラーベさんが必要だというわけではないと思います。

そうではなく、交代させて休暇で里帰りさせようというのです。



その資格は十分すぎるほどなんですから。

交代に一人送るといってますが、むだだと思いますがね。

あそこじゃだれがいってもつとまらないでしょうし、

これから先、かなり長い間商売にならないですから。

というわけで、まず、おたくの難民を家に帰すことに精を出して下さい。

ひれ伏して助けを求めるでしょうが、それよりなにより、もう一度外気を吸わなければ。

奥さんのこと、それからラーベさん自身の健康を気づかう方が先決です。



もう一つ別の提案があります。ぼくの事務所にはクルップのディーゼル車が

あるんですが、これはカルロヴィッツ社のものです。

いずれ、ディーゼル車を運転できる人間はいなくなります。

どっちにしてもハッツはこの車で上海に来たがっていました。

ですからぼちぼち荷造りを始めて、ハッツに運んでもらってください。

三月半ばまでは大丈夫だと思います。



ラーベさんの気持ちもわかりますが、ここはひとつ、思いきって肚を決めてください。

奥さんのことも考えてあげないと。

さもないと、日本軍にくっついて、そちらまで押しかけかねませんよ。

ラーベさんのためなら、なんでもなさるんじゃないんでしょうか。

クレーガー》



*   「おたくの難民を家に帰すことに精を出して下さい。

   ひれ伏して助けを求めるでしょうが、」


   南京に居た時と違って、クレーガーの態度が変化していますね。

   全体の文面を見ても、日本軍に強制されて言わされているようには見えません。

   上海に行ってから、南京の不自然さに、気付いたのかも知れません。

戦争を望む中国と望まない日本1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/19 15:35 投稿番号: [1468 / 2250]
戦争を望む中国


寺平忠輔著   『日本の悲劇   盧溝橋事件』   読売新聞社刊
38p


《 四月三日の朝、北寧鉄道の沿線、落垈   (ラオファー)   の西方で、

日本の軍用電線が八間隔にわたって切断された。

この場所は私の着任前、一月十八日にも五間隔ばかり切断された前例もあり、

かたがた、軍参謀長は四月八日、河北省政府主席馮治安に対し、

犯人の逮捕、・・・、以上四項目を要求した。


彼は、これに対してなんらの回答もしてこない。

そのうち五月三日、落垈   (ラオファー)   の同一地点で、

またもや八間隔の切断事件が報告されてきた。

・・・


39p

六月五日黎明   (れいめい)、 またもや同一場所で五間隔が切断されたのである。

さすがに温厚な松井機関長も業を煮やした。


44p

  南苑の第三十八師・・・。

一日司令部で将校の兵棋戦術が統裁され、団を単位とする防禦戦闘が研究題目になった。

その時若い将校が一人、席を蹴って起ち上がった。

「統裁官、我々は防禦の研究はもう沢山です。

それよりもっと大切な、奇襲攻撃を指導して下さい。

・・・我々はすべからく、

こちらから逆九・一八を仕掛けるくらいの決意があってしかるべきです」



その意気当るべからざるものがあった。

統裁官はこれをなだめ   「意見はなるほどもっともである。

しかし今日の研究課題は防禦戦闘という事になっているのだから…‥」

「いや豊台を奇襲することは焦眉の急です。

今晩もし、日本側から奇襲を仕掛けて来たら我我はいったいどうなってしまいます」

「統裁官、私も豊台即時襲撃論に賛成です。逆九・一八をやらなくちゃだめです」


つづく

2月5日 ラーベの日記1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/19 15:27 投稿番号: [1467 / 2250]
二月五日

《 金陵大学付属中学からの手紙   (省略)



十四時十五分

またもや中国機が上空を飛んでいる。

とにかく飛行機に中国の印がついていることだけはたしかだ。

パイロットがどこの国の人間かはわからない。

ロシア人でないといいが。ロシア人だとすると、

ハーケンクロイツの旗を掲げてもあまり効きめはないだろうから。



収容所を二月八日に閉鎖するという新たな指令が出た。

大混乱になり、いっこうにおさまらない。これまでに、約三分の一が出ていった。

残ったのは大半が女の人だ。ここから出ていきたくないのだ。

今日、鼓楼病院から連絡があった。脚気の患者が二人運ばれてきたという。

米飯だけのかたよった食事ではふしぎはない。

上海に   「薬を送れ」   と電報を打つことにした。



*   「パイロットが・・・ロシア人でないといいが」


   ソ連は中国軍の上海攻撃の後、 「 中ソ不侵略条約 」   を結び、

   大量の飛行機やパイロットを中国に送りました。



田中正明著   『 東京裁判とは何か 』   267p


《 この時期ソ連は、

「 日華戦争開始後は、この戦争をできるだけ長引かせることに全力をつくした 」

とダリン   ( David J. Dallin )   はその著   『 ソ連と極東 』   の中で

次のように述べている。



「 ソ連の対華援助は、西安事件後の秘密条項を含む不可侵条約によって、

直ちに飛行機四、五百機と同数の操縦士および教官を送り、

ソ連士官が中国軍に配備された。

チェレバノフ将軍を長とする軍事使節団は、中国に滞在していた。

三八年から四〇年までの間に、ソ連は中国に三億ドルの借款を与えて、

戦車、飛行機その他の軍需品を中国に送った 」》



とあります。

そして戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   310〜311p にも



《 八月二十一日、南京で、ソ連のボゴモロフ駐支大使との間で、

「 中ソ不侵略条約 」   を締結調印・・・

注二

《・・・ソ連は三七年、三八年、三九年の三回にわたって総額二億五千万ドル

( 約九億円 )   のクレジットを中国に提供し、これにより購入された兵器は、

飛行機八〇〇機以上、弾薬、飛行機用兵器、無線通信機、給油装置などであった。

航空義勇兵約二〇〇人、軍事顧問は、最多時期において八一名が中国内で活躍した。

このほか中共軍に対する直接軍事援助も行われた。》



とあります。

ソ連も早くから、非公式に日本と戦争をしていたのです。

共産党の策動5 コミンテルンの指令2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/18 16:50 投稿番号: [1466 / 2250]
《 ソ連のコミンテルンは、日中全面戦争を仕掛けるためのプランを作成し、

その実行を、中国共産党に命じました。



  その内容は

一、あくまで局地解決を避け、日支の全面的衝突に導かねばならぬ。

二、右の目的を貫徹するため、あらゆる手段を利用すべく局地解決

  (例えば北支を分離せしめることに依って戦争を回避するの類)

   日本への譲歩に依って支那の解放運動を裏切ろうとする要人を抹殺してもよい。

三、下層民衆階級に工作し、これをして行動を起こさしめ、国民政府をして

   戦争開始のやむなきに立ち至らしめなければならぬ。



四、党は対日ボイコットを全支那的に拡大しなければならぬ。

   日本を援助せんとする第三国に対してはボイコットを以て威嚇する必要がある。

五、紅軍は国民政府軍と協力する一方、パルチザン的行動に出なければならぬ。

六、党は国民政府軍下級幹部、下士官、兵士並びに大衆を獲得し、

   国民党を凌駕する党勢に達しなければならぬ。


というものです。》

(「盧溝橋事件に関するコミンテルンの指令」   昭和14年10月興亜院政務部資料)



寺平忠輔著   『日本の悲劇   盧溝橋事件』   読売新聞社刊   40〜41p


《 西苑の兵営は、・・・、今では完全に侮日抗日の巣窟と化し、・・・

中共北方局の主任劉少奇あたりも、学生の軍事訓練に便乗してこの方面に

顔を出し、盛んに抗日をアジっていたという情報が入っている。》


46

《 このころ、京津の地には、随分様々な謡言が乱れとんでいた。


「日本軍は近く華北で事を起し、

これを機会に第二の満州国をデッチ上げる計画を持っている」

とか、

「日本軍は戦略要衝盧溝橋に基盤を築き、北寧   (ほくねい)、 京漢両鉄道を

支配下に置くべく、目下隠密裡に工作を進めている」

とか、こうした巧妙な謡言は、相当の知識人でさえ   「あるいは?」   と

考えさせられる深刻味と迫力を持っていた。



そこで我々としては、このような流言蜚語が、いったいどこから出て来たかを

探索したかった。北京憲兵分隊長赤藤   (しゃくどう)   庄次少佐は

「私共は今、極力それを探らせています。

しかし流言というやつは読んで字の通りで、

なかなかその実態が掴   (つか)   めるものじゃありません。



ここ一、二ケ月の間というもの、我々は毎日毎日、まるで流言に翻弄されてるみたいで、

全く搾   (しめ)   木にでもかけられているような、実にイヤな感じです。

ただ、いえる事は、流言を漂わす者は学生層に多いという事です。

また学生といえば、どうも西苑の軍事訓練あたりから出ているんじゃないかと

思われる節があることです。

そうなると延 (ひ) いて、共産の策動じゃないかとも考えられます。》



*   様々な謡言

   こんなものは、いま、この日本でも、渡来してきた工作員によって、

   あちこちの掲示板に書き込まれている。

   昔の日本人はまじめだから、騙され混乱させられただろうが、

   今の日本人には、簡単には撹乱されない者もいるだろう。

2月5日 日本 ドイツに抗議

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/18 16:31 投稿番号: [1465 / 2250]
中国軍の背後にドイツがいて、軍事指導をし、武器を与えていたので、

いつまでたっても戦争が終わりません、

そこで日本は、ドイツに抗議し、武器輸出の停止を求めました。



阿羅健一著   『日中戦争はドイツが仕組んだ』   小学館
234


《 二月五日、広田外務大臣は改めてディルクセン駐日大使に武器輸出の停止を迫った。》

共産党の策動4 コミンテルンの指令1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/17 19:03 投稿番号: [1464 / 2250]
K・カール・カワカミ著   『シナ大陸の真相   1931〜1938』 (原題 Japan in China )
訳者   福井雄三    展転社   60〜62p


《一九三六年五月一六日、リャザノフスキーという名のコミンテルン天津代表が、

コミンテルン上海本部の出した次の指令を実行するために北京へ赴いた。



「一、天津のヤチェイカ   (共産党細胞)   は、共産主義者を通じて

   北京〜天津地域の学生たちの間に、

   日本軍の北支守備隊の増加と日本の密輸活動に関する暴露運動を行い、

   反日感情をかき立てなければならない。


二、夏休みの間に学生たちを動員して農村へ行かせ、

   農民たちの間に反日感情を広めるために講義   を行わせること。

三、反日運動とボイコットを同時に行うこと。

   ボイコットを実施するためには密輸問題を取り上げて、

   北支で出回っている日本製品は全て密輸品であると言わねばならない。

   こうすれば、日本製品に対する反感が広範囲にわたって引き起こされるだろう。

   同時に、日本製品を買う者に対して南京政府は罰則を用意している、という

   声明を出すことによって、日本製品の購入を阻止するよう努めること」



一九三六年三月、陝西省の省都の西安で蒋介石が張学良と揚虎城によって

捕らえられ投獄されると言う悲喜劇のニュースが世界を襲った。

ここで今一度思い起こしていただきたいのであるが、蒋介石を捕らえた側の

一人である張学良は、かつて反日的な満洲の支配者であった。

彼は満洲の日本企業を破壊しようと計画したために日本の激怒をかって、

一九三一年満洲から追放される羽目になってしまった。



その後彼はパリへ行ってそこで二年間歓楽の生活を送り、

かつて彼が支配していた人々から略奪した数百万ドルのお金を浪費した。

一九三四年、この放蕩息子は上海へ戻ってきた。

それから間もなく蒋介石総統は張学良を 「平定委員」 に任命した。

その任務は河南省と山西省の共産主義者を征服することであった。



日本が特殊権益を持っていた北支に向かって着実に進撃しつつあった共産党軍を

「平定」 する任務に、蒋介石がこの日本嫌いの男を選んだのは単なる偶然の一致で

あったのか?   あるいはまたそれは慎重に考え抜かれた上での計画であったのか?

この日本嫌いのかつての満洲支配者が   「平定司令官」   に任命されるや否や、

彼は共産主義者と接触し始め、彼らの真の敵は蒋介石ではなく日本なのだと説いて回った。

共産主義者と戦おうとしないで、張学良は

彼らを日本と対抗するための自分の野望の道具にしようとしたのである。



彼は何とかして日本に恨みを晴らそうと固く決心していた。

実際、張学良はヨーロッパ滞在中にモスクワと接触を持っていたことが分かっている。

中国へ帰国後、彼が中国にいるソ連の工作員と親密な関係にあったことは間違いない。

南京の蒋介石総統はこれを全て知っていたにもかかわらず、張学良をそのポストに任命した。

そしてそのことは張学良を中国人の共産主義者たちと直接接触させることになったのである。

彼らは自分たちの共産主義をカモフラージュする目的で、「日本打倒」 と

「 日本に対する戦争」 を自分たちのスローガンにしていた。》


つづく

2月2日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/17 18:54 投稿番号: [1463 / 2250]
  二月二日

《 韓の調べによると、うちの難民は総勢六百人、百三十五家族だという。

そのうち、二十四家族は家を焼かれ、帰るところがない。

昨日、泣きながら出ていった人もいた。

だれも日本軍を信頼していない。あたりまえだ。

ふたつの収容所の報告から、まだ安全でないことがよくわかった。



昨日、本間少将到着。

南京の混乱を鎮めるため、日本政府から全権をあたえられているそうだ。

ここには二日しかいないというが、それで足りるのだろうか。

ローゼンは、一月三十日付けの私の手紙をもとに、難民がどんなに因っているかを

詳しく説明した結果、あまり本間には期待できないだろうという意見だ。



今日、上海日本大使館の日高信六郎参事官と、ローゼン宅で昼食。

我々が記録した日本兵の強姦をはじめとする暴行はこの三日間だけでも

なんと八十八件もある。これはこの種のものとしては、

今まででいちばんひどかった十二月を上回っている。



報告書を渡すと、日高氏はまったく困ったものだとつぶやいて、

部隊が交代するときには往々にしてこういう事件が起きがちだといいわけした。

「前の部隊は評判が悪く、一月二十八日に離任させられたんですが、

撤退前にもう一度けしからぬふるまいに及んだという話です」

この事の逃げ口上は先刻承知だ。けれども我々は、

いま報告されている事件が実は新しい部隊のしわざだという証拠をつかんでいる。



難民が二月四日に力ずくで追い立てられるというのは本当かと聞くと、

自分が知る限りでは、ぜったいにそんなことはないと日高氏はいった。

「それに、二月四日以前に収容所を出れば、

もとの家に戻るにあたって多少補償があるはずです。

つまり、家が焼けている場合は別の家を与えられることになっています。

いままでにもう、八万人以上が戻るといってきましたよ」



私は念を押した。「近いうちに我々も収容所を解散したいと考えています。

ですからなおのこと、いくども難民に家へ帰るようすすめました。

けれどもそのためには、一にも二にも安全であることが条件になります」

日高氏は、強制執行しないということは中国人には黙っていてくれといった。

すんなりいかないと困るというのだ。私は約束した。



漢口のトラウトマン大使から、孔祥煕国民政府行政院長が、

私あてに委員会への謝意を伝えてよこしたといってきた。

これを、公式に委員会に伝えることにしよう。》



*   〉「前の部隊は評判が悪く、一月二十八日に離任させられたんですが、

   撤退前にもう一度けしからぬふるまいに及んだという話です」

   この事の逃げ口上は先刻承知だ。けれども我々は、いま報告されている事件が

   実は新しい部隊のしわざだという証拠をつかんでいる。〈



   しかし、もう、南京攻略時からの兵は一人もいない。

   それなのに、南京の状態は、全く同じ。

   ラーベ達は、日本兵全員が犯罪者と見ているが、

   犯人は日本兵ではなく、南京にいる別の者という発想はできないのだろうか。

   犯人が日本兵以外の者だったら、

   日本軍に抗議しても、兵を入れ替えても何も変わらないだろう。

共産党の策動3 コミンテルンの決議

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/16 18:53 投稿番号: [1462 / 2250]
K・カール・カワカミ著   『シナ大陸の真相   1931〜1938』(原題 Japan in China )
訳者   福井雄三    展転社   59〜60p


《 一九三五年八月モスクワで開かれた第七回コミンテルン大会で演説したとき、

ディミートロフは中国における日本の帝国主義を非難して次のように言った。



「中国では人民運動を通して広大な地域がソビエト化され、強力な紅軍が組織された。

しかし日本帝国主義の獰猛な侵略と南京政府の裏切り行為によって、

中国民族の国家的存続は危機にさらされている。

現時点において中国のソビエト地区のみが全ての反帝国主義勢力のための結集点となり、

中国を奴隷化し分割しようとする帝国主義列強諸国の野望と戦うことが出来、

さらに民族紛争に苦しんでいる中国人を助けることが出来る。



それ故我々は満場一致で中国共産党の次の提案を支持する。

すなわち、国土の保全と人民解放のために戦うべく準備された

中国内に現存する全ての軍隊と組織をまとめることによって、

日本及び中国人の裏切り者に対する広範囲の統一反帝国主義戦線を

打ち立てようという提案を。



数多くの戦いの試練を経てきた英雄的な中国紅軍に対して、

我々は心からの熱列な挨拶を送る。

そして我々は中国人民に次のことを保証する。

すなわち、全ての帝国主義的で獰猛な列強諸国と

その中国人の傀儡の支配から中国国民を解放する戦いにおいて、

我々は彼らを援助する決心がしっかり固まっているのであると」



この見解に従って、コミンテルンの会議は次の決議を採択した。

中国においては、ソビエト運動の拡大と紅軍の戦闘力の確立は、

帝国主義に対する全国規模の人民運動としての統一計画と調和させなければならない。

この運動はそのスローガンとして、これは帝国主義的圧迫

(とりわけ日本帝国主義とその中国人傀儡) に対する戦いであるという

考え方を掲げることによって、最もうまく行われるだろう。



ソビエト地区は、解放戦争を戦っている全中国人民の結集点とならねばならない。

帝国主義諸国のプロレタリアの人々は、

帝国主義の侵略者に対して戦っている植民地及び半植民地の人民に対して

援助の手を差し伸べなければならない」》


つづく

1月30日 天野中尉軍法会議に送致

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/16 18:46 投稿番号: [1461 / 2250]
アリソン事件の続き

飯沼守日記

◇一月三十日   曇

  天野中尉以下十二名軍法会議に送致。

(『南京戦史資料集』   P244)



*   天野中尉らは売春婦を買っただけなのに、狡猾な中国人の讒言により、

   女性を連行・強姦した様にされてしまいました。

   事情を知らない外国人達の訴えで、

   日本軍も立場上軍法会議に掛けざるを得なくなったようです。


   しかし、日本が善意で譲歩しても、それは逆効果しかもたらさないでしょう。

   「本当に悪い事をしたから裁かれたのだ。」

   「これは氷山の一角に過ぎない。   これで、お茶を濁す気か。」

   と言われるだけですから。


   現在、日本の   「善人でありたいと願う」   人達が、一生懸命譲歩して、

   中韓様のご機嫌をとっても、

   次から次へと難癖をつけられ   「反省が足らない」   と言われているように。

共産党の策動2 五・三〇事件2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/15 18:41 投稿番号: [1460 / 2250]
K・カール・カワカミ著   『シナ大陸の真相   1931〜1938』 (原題 Japan in China )
訳者   福井雄三    展転社    54〜55p


《 …事件が一九二五年、上海の国際租界区域で起こった。

その年の五月三〇日、数万の中国人学生が、

日本の綿糸工場での労働争議に関連した暴動行為のかどで混成法廷

(外国人の裁判官に監督された中国人の法廷) から有罪宣告を受けた

五人の学生に同情して、街路を行進した。



これに続いて、一五万六千人の中国人労働者を含む全市規模のストライキが起こった。

彼らを煽動した最大の指導者は陳独秀であった。

彼はモスクワで教育を受けた中国共産党員で、今なお著名な指導者である。

彼の背後にはチェルカソフというソ連の宣伝工作活動の専門家が控えていて、

国際租界区域のソ連領事館に事務所を構えていた。



この宣伝活動家が北京駐在のソ連大使カラハンにあてて書いた報告書が、

上海警察に押収された。

この文書によって、綿糸工場の労働争議とそれに続くデモ、ストライキは、

モスクワのコミンテルンが出した命令に従って前もって準備されていたことが

完全に証明された。》



*   この二年後に、第二次南京事件 (No.1291〜1348で書いた) が起こります。

   これを仕掛けたのは共産党と言われていますが、この流れから行くと

   多分そうかも知れません。

夏淑琴事件の疑問点

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/15 18:36 投稿番号: [1459 / 2250]
マギーが聞いた所の話が事実なら悲惨なことです。

ただ、この話には、不審な点がいくつかあります。



「1月29日のラーベの日記」   では、

「マギーが八歳と四歳の少女を見つけた。

親族は十一人だったというが、残らず残忍な殺されかたをしていた。

近所の人々に救け出されるまでの十四日間、母親の亡骸のそばにいた」

となっていました。



これだけを読めば、少女の家族が殺されたのは   「1月の15日」   かと思えますが、

仔細に話をうかがうと12月13日なのですね。

少女らを発見して、どうして一カ月以上も報告しなかったのでしょうか?

死体も何もかも片づけて、一カ月も経った後から見に行っても、よく判らないでしょう。



また、ラーベの日記では、 「親族は十一人」   となっているのに、

case 219では   「a family 十三人のうち十一人が殺され」   と変化し、

『南京難民区の百日』   では   「十三名を殺害した」   となっています。

戦後60年過ぎての証言なら、ボケて勘違いと言う事もあるでしょうが、

これは事件からそう月日の経たない時の証言です。



そして、事件は13日、場所は東南部です。

ここは激戦地区です。城門の外では戦闘があり、大砲の弾が城内に飛び込んで

来ていました。殆どの人が、安全区に避難しているのに、

この家族だけ、なぜ、そんな危険な所に留まっていたのでしょうか?



ドイツ大使館公文書綴によると、日本兵はドアを開けさせ、

いきなり   「マアを拳銃で殺した」   となっています。

しかしながらが、日本の陸軍歩兵は拳銃を持っていません。

将校は持っていますが、これは軍支給ではなく自前ですので、

弾薬の補給ができませんから、むやみには撃てません。

だから、非武装の市民を拳銃で撃つ、などという事は基本的にあり得ない事です。



次に、

「この子はここに十四日間居残った。この二人の子供はふかした米を食べて生きた。」

とありますが、南京は断水していたはずです。

おまけに、 「兵士たちthe soldiersは毎日この家に物を取るためやって来た」

とあります。

日本兵が一番必要としたのは食糧です。

彼らは毎日、物を取りにやってきていながら、どうして米に気づかなかったのでしょうか?


ドイツ人の店など荒らされて、食糧が奪われたと、ラーベは言っていました。

二人の少女は、 「シーツの下に隠れて発見されなかった」   と言いますが、

兵隊が気づかぬ筈はありません。

そんな間抜けだったら、彼らはとっくにゲリラに殺されています。


それは、いいとしても、日本兵は食糧を全部持って行くだろうし、

水も14日は持たないから   「米をふかす」   など無理では?

おまけに火を焚けば、日本兵に見つかります。

証言通りの残忍な日本兵なら、すぐ殺されたでしょう。



その他にも、『南京への道』・「マギーの遺言」・「来日での証言」・

「許伝音の証言」   などで、証言が、それぞれ異なっています。

どれが、本当なのでしょう?

共産党の策動2 五・三〇事件1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/14 18:53 投稿番号: [1458 / 2250]
『魔都上海十万の日本人』   NHK取材班編   角川文庫


90p

《 一九二五年、五・三〇運動の全国的な展開が上海から始まる。運動の発端は、

二月以来、上海の在華紡にひろがった待遇改善と組合承認を求める労働運動にあった。

中国の民族資本による繊維産業の追いあげを受けて、日本など外国の繊維企業は、

合理化によって利潤の増大をはかろうとした。

と同時に、勢力の拡大をつづける共産党へのおそれから、

管理・締めつけをいちだんと強化し、組合つぶしに本格的に乗りだした。



こうした状況のもとで、一九二五年二月、上海の紡績工場でストライキが続発し、

四月に入ると、青島の日本資本の紡績工場にも飛び火した。

五月十五日、さきに紹介した上海の内外綿第七工場で、

ストライキ中の労働者と工場側の警備員とが真正面から衝突し、共産党員の労働者

顧正紅が射殺されたほか、中国人労働者十数名が重軽傷を負うという事件が起こった。

これに抗議する運動は、たちまち学生・知識人・労働者をまきこむ

反日運動に発展していった。



五月三十日、共産党は千人の学生・労働者を動員して、上海の歴史上はじめて、

共同租界の内部で大規模な抗議のデモを繰りひろげた。

これに対して、共同租界のイギリスの警察隊は、デモ隊に向けて一斉射撃を浴びせ、

死者十三人、重傷者数十人という大惨事に発展した。これが、五・三〇事件である。



93p

この虐殺事件は、上海はもとより、全中国に憤激の嵐を巻き起こした。

一日おいて六月一日、共産党は帝国主義打倒をスローガンに、全上海にゼネストを指令した。

学生・労働者のほかに、民族資本家・商店主も参加し、空前の規模の闘争に発展した。

闘いの渦は、広州・北京・漢口など大陸全体に広まり、

香港の労働者もこれに足並みをそろえ、各地の租界で衝突事件が続発した。



上海のゼネストは、八月末まで続いた。

中国側の発表によれば、この闘いに参加した労働者・学生・農民は、

少なく見積もっても全国で一千七百万人余りにのぼったという。》



*   労働者顧正紅が警備員に射殺されましたが、この警備員はインド人の様です。


つづく

夏淑琴事件2 別の証言

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/14 18:45 投稿番号: [1457 / 2250]
東中野修道著   『南京大虐殺の徹底検証』   より


240p

事例二一九 (case 219) で語った、マギーの夏淑琴事件

《ジョン・マギー氏が説明してもらったところによれば、

十二月十三日から十四日にかけて、城南のある家族 a family 十三人のうち

十一人が日本兵に殺され、女たちは強姦されて手足を切断された。

この話は生き残った二人の小さな子供が語った。(マギー)》

括弧のなかにマギーという名前が見える。それはマギーが聞き書きしたことを意味する。



247p

『南京難民区の百日』 に出てくる、夏淑琴がマギーに語った話。

《日本兵たちが市内の南東部にある夏家にやってきた。

日本兵は、八歳と三歳あるいは四歳の二人の子供を残して

その家にいた者全員、十三名を殺害した。》



248〜249p
本多勝一 『南京への道』 に出てくる夏淑琴の話


  事件が発生したのは十二月十三日の   「朝九時ごろ」   であった。

夏淑琴は、恐怖のあまり叫び声をあげた途端、体の三ケ所を銃剣で刺され、気絶した。

やがて息を吹き返した夏淑琴は、妹と、 「家主の内庭にある防空壕」 の方へ行った。

防空壕といっても地下壕のような地下の穴ではなく、内庭の上に

「頑丈な机を四個ならべて上に戸板をのせ、下に干し草を敷いた」   ほどの

ものであった。その机の前に行くと、母と赤子の死体があった。

日中は怖いので   「机の下」   からほとんど出なかった。

水は共同炊事場の大きな水ガメから、箱を踏み台にして、

「重傷」   ながらも、水を汲んで飲んだ……。



249 p
「マギーの遺言」   に登場する夏淑琴

インターネット上で、 「マギーの遺言」   を見ていると、

そこにマギーの撮影したフィルムが映し出された後、夏淑琴が登場する。

そして、次のように語る。

《新路口五番地   それは私が住んでいたところです。

日本兵たちは父を追いかけ回し、後から撃ち殺したんです。

彼らは隣の家に住んでいた二人の両親と子供も殺しました……。》



250p
夏淑琴来日での証言


  戦争犠牲者を心に刻む会編   『南京大虐殺と原爆』 に出ている夏淑琴の証言によれば、

同じ敷地内に住む十五人のうち、日本軍にたいして家の扉を開けた夏淑琴の父   (即ちシア)   が

殺されたのを皮切りに、夏淑琴の六十歳を過ぎた祖父母と、

十五歳、十三歳の二人の姉を含めた十三人までが殺されたが、

当時八歳であった夏淑琴と四歳の妹が助かって、二人は事件から一週間後に

死体を収容しに来た人たちに発見された、と言うのであった。



250p
許伝音の証言


許伝音が戦後、東京裁判に出廷した。

そして、先の現場を、マギーと一緒に見に行ったと語った。・・・

許伝音は、〈十七歳   (十六歳の間違い)   と十四歳の少女の死体が

「テーブルノ上ノ血ノ海ノ中」   と   「ベッドノ血ノ中」   に横たわっていた〉   と証言した。

共産党の策動1 ソ連の反日工作

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/13 18:52 投稿番号: [1456 / 2250]
蒋介石は一応、釈放され、建前としては、取引は無かったとされていますが、

共産党への攻撃は停止され、劉少奇などが西苑の兵営などに出入りして

いますから、やはり何か取引があったのでしょう。



ところで、共産党の元締めソ連は、中国に対して早くから工作をしていました。

日露戦争に敗けた事で、ロシアでは帝国の力が弱まり、

それが革命へと導かれ、ソビエト社会主義共和国連邦が出来ました。

ソ連は中国に、反日をさせるよう画策します。



K・カール・カワカミ著   『シナ大陸の真相   1931〜1938』 (原題 Japan in China )
訳者   福井雄三    展転社


58〜59p

《 中山大学は中国人の学生を勧誘するために一九二五年一月、モスクワに設立された。

・・・この学校は中国人の入学だけを認めており、男女共学である。

在学中、学生たちは個人的な出費を含む必要経費を全て支給される。

一九二五年に第一回卒業生一五五名を出した。カリキュラムは東方大学と似ている。

テキストはロシア語と中国語の両方で使用されている。



現在の教授陣は約五〇名のロシア人と二五名の中国人から成る。

一九二八年以降、登録された学生数は年によって異なるが、

大体年間四百名から五百名といったところである。

さらにまた、中国人はソ連の軍事関係の学校、例えば赤軍陸軍大学、

歩兵士官学校、高級空軍学校などへの入学を許されている。



赤軍陸軍大学には一五名の中国人、高級空軍学校には二〇名の中国人、

歩兵士官学校には一二〇名の中国人と朝鮮人が在籍している。

このようにして学生と兵士双方合わせて毎年数百名の共産主義者たちが祖国へ

送り返され、そこで彼らはコミンテルンとその現地工作員の指示の下に働くのである。

中国の広大な地域が次々に共産化していったとしても何の不思議があろうか。

アジア経由で共産革命をヨーロッパへ導入するというレーニンの夢は実現するかも知れない。



日本は中国の目の前の隣国として、

他の資本主義諸国よりもはるかに鋭くその危険を察知している。

コミンテルンが中国人の間で宣伝工作活動を推し進める目的のために、

反日運動に共産主義の要素を付け加えた時 (ちょうど一九二五〜二七年にかけての

反英運動に共産主義の要素を付け足した時のように)、

この日本の恐怖感はさらに一段と大きなものになった。》



『魔都上海十万の日本人』   NHK取材班編   角川文庫   86〜87p


《 共産党は、一九二五年、労働組合の全国組織である中華全国総工会を設立するが、

上海にはそれより早く、一九二二年の共産党成立のころから、

中国労働組合書記部を設けて労働者の組織化を進めていた。

また、この年、労働者に対する教育工作を強化するため、上海大学が開校された。
・・・
末端の労働者に対する大衆工作にも力が注がれた。

その結果、上海の大小の工場には共産党の組織が網の目のように張りめぐらされ、

内外綿工場などの日本企業にも、共産党の細胞組織が設立されたのである。》



つづく

夏淑琴事件1 マギーの説明文

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/13 18:44 投稿番号: [1455 / 2250]
東中野修道著   『南京大虐殺の徹底検証』   240〜242p


〈 この事件にかんするマギーのもう一つの記録が、ドイツ大使館のローゼンの手にも渡った。

各種の   「事件」   にかんするマギーの説明文   (英文七枚)   と、

マギー自身の撮影になるフィルム四本とを、本国外務省へ送付するよう、

ローゼンは南京から上海のドイツ大使館に依頼している。


それは   (マギーが八歳の少女を発見した一月二十九日から約十日後の)

昭和十三年二月十日のことであった。

そこで右の   「事件」   にかんするマギーの説明文を、

南京ドイツ大使館公文書綴   「日支紛争」   から全訳する



《 十二月十三日、約三十人の兵士が南京の東南部の新路口五のシナ人の家にきて、

中に入れるよう要求した。   玄関を、マアという名のイスラム教徒の家主が開けた。

すると、ただちに彼らはマアを拳銃で殺した上、もう誰も殺さないでと、

マアの死体に脆   (ひざまづ)   いて頼むシアさん Mr. Hsia をも殺した。

なぜ夫を殺したのかとマアの妻が尋ねると、彼らはマアの妻をも殺した。



シアの妻は一歳の赤ん坊と客間のテーブルの下に隠れていたが、

そこから引きずり出された。

そして、一人かもっと多くの男たちから裸にされ、強姦された後、

銃剣で胸を刺されて殺された。

その上、陰部に瓶を突っ込まれ、赤子も銃剣で殺された。



それから、何人かの兵士が隣の部屋へと行った。そこには、シアの妻の七十六歳と

七十四歳になる両親、それに十六歳と十四歳になるシアの娘がいた。

この娘たちを彼らが強姦しようとしたその時、祖母が娘を守ろうとして

拳銃で殺された。祖父が妻の体をつかむと、祖父も殺された。



それから、二人の少女が裸にされた。上の少女は二、三人に強姦され、

下の少女は三人に強姦された。その後、上の少女は刺されて陰部に茎を詰め込まれた。

下の少女も銃剣で突き殺されたが、母や姉の受けたぞっとするような扱いは免れた。

それから、兵士たちはもう一人の七、八歳になる妹も銃剣で突き殺した。

同じくその部屋にいたからである。



この家の最後の殺人は四歳と二歳になるマアの二人の子供 children (筆者註・性別不明)の

殺人であった。上の子は銃剣で突き殺され、下の子は刀で真二つに斬られた。

その八歳の少女 the 8-year old girl は傷を負った後、母の死体のある

隣の部屋に這 (は) って行った。

無傷で逃げおおせた四歳の妹 her 4-year old sister と一緒に、

この子はここに十四日間居残った。この二人の子供はふかした米を食べて生きた。



写真撮影者の私が、この話の一部を得ることができたのは、上の八歳の少女からで、

詳細は一人の隣人 a neighbor と一人の親戚 a relative から語ってもらって、

確認と訂正ができた。

兵士たち the soldiers は毎日この家に物を取るためやって来たが、

二人は古い敷布の下に隠れていたので発見されなかったと、この人歳の少女は語った。

このような恐ろしいことが起こり始めた時、近所の住民はみな避難民地帯に逃げた。



それから十四日して、このフィルムに出て来る老女性 the old woman が近所に戻って、

二人の子供を発見した。その後、死体が全て取り除かれたあとの部屋

an open space where the bodies had been taken afterwards に、

写真撮影者の私を案内したのは、この老女性であった。

彼女や、シアさんの弟 (または兄) Mrs. Hsia’s brother と、

この小さな女の子にたいする質問を通じて、

恐るべき悲劇についての疑問の余地なき理解が得られたのである。》


つづく

西安事件3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/12 15:45 投稿番号: [1454 / 2250]
焦った張学良は蒋介石を監禁して、

共産党討伐をやめ、共産党と手を組んで、日本と戦争するよう要求しました。

その具体的内容は以下の通り。



松本重治著   『上海時代・下』   中公新書
59

《   八項目の主張とは次のとおりです。

(1)南京政府を改造し、各党各派の参加を許し、ともに救国の責任を負わしめよ。

(2)すべての内戦を停止せよ。

(3)上海で逮捕された愛国運動の指導者をただちに釈放せよ。

(4)全国のすべての政治犯を釈放せよ。

(5)人民の集会・結社等すべての政治的自由を保障せよ。

(6)民衆の愛国運動を公認せよ。

(7)孫総理の遺嘱を確実に遵守せよ。

(8)ただちに救国会議を召集せよ」》



しかし、蒋介石は応じず、


56〜57p

《   蒋   「まだ、私を委員長と呼ぶか?   上官と認めるなら、命令に従って

     洛陽に送り還せ。さもなければ、君は反逆者、私は反逆者の捕虜だ。

     即座に銃殺しろ。他にいうべきことなどありはしない」

  張   「委員長がわれわれの意見を受諾されるなら、もちろん命令に従います」

  蒋   「君は、いったい、私の部下なのか敵なのか?……敵ならばただちに私を殺せ。

   二つに一つ、ほかに何もいう必要はない。私は何をいわれても聞く耳を持たぬぞ」》


と突っぱねた。

ここに周恩来がやって来、宋美齢もやってきた。

そして宋美齢は周恩来と会い、蒋介石も周恩来と会っている。


66p

《 宋美齢の   「回想録」   によると、彼女は二十三日には二時間、

また二十四日にも、周恩来と会談をしている。

張学良が頼んでも蒋介石が会いたくないといっている人だといって、

張は彼女に周思来を紹介している。

宋美齢は、周恩来に意外にも好感をもったようで、宋美齢の斡旋で、

周恩来は蒋介石に短時間会ったようである。



周は、蒋に対し、蒋介石領導での一致抗日、そのための内戦停止を簡潔に述べたが、

蒋としては、説得される必要は全然なかった。

それで、口頭で、

「統一戦線を約束したようであり、周恩来と   『再び共に仕事を』   したい」

(ハン・スーイン著   『毛沢東』   松岡洋子訳二五三ページ)   と、

いとも簡単な挨拶をしたというのが、ことばどおりではないにしても、

おそらく真相に近かろうと思われる。》



どういう取引が有ったか分かりませんが、ともかく、蒋介石は釈放されました。

そして、以後共産党の討伐は行われていません。

1月29日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/12 15:32 投稿番号: [1453 / 2250]
《 プリドー=ブリュン・イギリス領事とフィッチが今朝九時にピー号で出発した。

私の日記帳もお供した。フィッチが近いうちに戻れるなどと、だれも信じてはいない。



日本人との緊張感は日増しに高まっている。

委員会を解散して、新たに救援委員会を組織し、

新しい自治委員会と協力するようにしたほうがいいかもしれない。

目下真剣に検討しているところだ。



日本軍と協力しようと私は口を酸っぱくして言っているが、アメリカ人は反対だ。

委員会が賛成してもいないのに日本側と交渉するわけにはいかない。

それにむこうが同意するかどうかもまったくわからないのだから。

ひょっとするともう遅すぎるのかもしれない。

時機を逸してしまったのではないだろうか。



そうかといって、脅した通り、

日本軍が二月四日に難民を強制的に立ちのかせて収容所に入れ、

この前の赤十字病院の伝で立ち入り禁止にしてしまったら、我々は手も足も出ない。

ドイツ大使館は日本軍から覚え書を受け取った。

そこには、難民に対するさまざまな援助には感謝しているが、

二月四日に収容所を閉鎖するように、とあった。

私は会議を開いて、それぞれの大使館につぎのことを確認、

ないしは調べてもらうことにした。



一、日本は、外国人の土地、もしくは外国人の家にある収容所からも

   難民を立ちのかせることができるのか?

   (収容所のかなりの数がアメリカ人の土地にある。

   ジーメンス・キャンプといわれるラーベの収容所もその対象になる。

   ドイツ人の庭にあるからだ)

二、もっと多くの難民を受け入れても良いのだろうか?

三、我々の立場を明らかにするまで、

   各大使館に本件に関する日本側の返事を待ってもらいたい。



マギーが八歳と四歳の少女を見つけた。

親族は十一人だったというが、残らず残忍な殺されかたをしていた。

近所の人々に救け出されるまでの十四日間、母親の亡骸のそばにいたという話だ。

姉娘が家に残っていたわずかな米を炊いて、どうにか食いつないでいたという。


*   「マギーが八歳と四歳の少女を見つけた」

   これは、有名な夏淑琴の話に関係しますので、次は夏淑琴の話をとりあげます。

西安事件2 張学良のあせり

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/11 14:06 投稿番号: [1452 / 2250]
蒋介石は張学良が共産党と接触している事を知っていた。


児島襄著   『日中戦争3』   文春文庫
251p


《 蒋介石は、既述したように、

張学良の不穏な動きについての情報を耳にしていたわけであるが、

十二月七日、華清池を訪れた   『大公報』   紙主筆張季鸞との間に、

次のような問答をかわしている。



「請問ニイ們在延安的記者、最近有什麼重要消息マー?」

(貴社の延安駐在の記者から、最近なにか重要なニュースは入らないか?)


「謡言很多、但是他不相信這些無稽之談」

(デマは多い、信用できぬ話ばかりです)


「ニイ所謂謡言、是否己聴到了張漢卿   (学良)   輿共産党在廷安面商擁護中央、

一致抗日的消息マー?」

(そのいわゆるデマの中に、張学良が延安で共産党と中央の擁護、

一致抗日を交渉した話はふくまれていないか?)


「是的」   (あります)


この問答は、張学良・周恩来秘密会談が、すでに蒋介石の情報網に

キャッチされていたのみならず、一般にも知られていたことを告げている。》



松本重治著   『上海時代・下』   中公新書
53p

《 中共により、紅軍により、また救国会の運動により、学生運動により、

旧東北軍や西北軍が、約一年前からの   「内戦停止」 「一致抗日」

「中国人は中国人と戦わない」   などのスロ−ガンと、

その魅力あるアッピールのために、それほどまでにも   (張学良が)

「洗脳」   されていたとは、蒋はそのときまで全然知らなかった。



それで張季鸞の報告と忠言に耳を傾けた蒋介石は、ただちに、

第六次   「剿匪」   事業の作戦を根本的に練り直す必要を感じた。

「剿匪」   事業のためには、東北軍も西北軍もすでにつかいものにならぬと

感じたからであった。》


53〜54p

《 十二月九日になると、西安の学生たちは、一二・九記念デモをやり、

「内戦停止」 「一致抗日」   の要求書を、蒋介石に親しく会って手渡しするため、

華清池に向って出発した。間もなく、警察の発砲によって、

デモ隊、とくに年少学生に負傷者が出たので、学生たちは非常に激昂した。

張学良は、それを聞いて駈けつけ、

やっとのことでデモ隊を思いとどまらせ、市内に引き返させた。



その夜、張は華清他に行き、蒋に面会を求めて、学生に代り、その衷情を訴えたが、

逆に蒋からは、頭から叱られてしまった。

張は、 「極度の衝撃を受けた」   と   「懺悔録」   に書いている。

翌十日には、張は、前夜、学生に語ったように、蒋に面を冒して自己の所信を

述べるため、ふたたび蒋に会見を求め、 「内戦停止」 「一致抗日」   の立場から、

蒋の掃討計画に疑問を強硬に表明したが、にべなく拒否され、ふたたび蒋から叱正を受けた。



そればかりではない。西安綏靖主任たる楊虎城はまだしも、

いやしくも西北   「剿匪」   副司令たる張学良にとって、

「数回の軍事会議に ― これは張の思い過しでもあったが ― 召集されなかった」

ことは、異常のショックであった。

張の   「懺悔録」によれば、「それは、私   (張)   と楊虎城に疑惑と不安を抱かせた。》


*   ここで明らかなように、対日戦争を望んでいたのは、

   中国の学生たちであり、張学良だった。

1月29日 アリソン殴打事件つづき

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/11 13:38 投稿番号: [1451 / 2250]
松村俊夫著   『「南京虐殺」   への大疑問』


168p

《 一月二十九日、駐日アメリカ大使グルーは、

外務次官堀之内との会談において、被害女性はリッグズとベイツに対し、

連れてゆかれたところは以前カトリック司祭が住んでいた家で、

現在は日本兵が占領しているところである、と証言した。


174p
飯沼守日記

〈一月二十九日   小山憲兵隊長来リ   天野中尉以下ノ件ニ就キ報告、

事件送致ニ就キ   軍ノ意向ヲ聞ク、

依   (よっ)   テ中尉以下同宿ノ者   全部ヲ送致スベキヲ希望シ、

殿下ニモ報告セリ。〉


〈天野中尉出発ヲ差止メラレ   何トカ穏便ノ取計ヒヲ   トテ来リシモ、

男ラシク処理セヨト   諭シテ帰ヘス〉

(偕行社編纂   『南京戦史資料集』   243頁)》



*   第16師団は南京から出て行かなければならないが、

   天野中尉以下の者は出発を差し止められたため、哀願したもよう。

   しかし、状況証拠から見て、彼らは、女性を連行強姦したというよりも、

   売春婦を買っただけに見える。

   「買春」   を   「女性の強制連行強姦」   として外国人に訴え、

   事件にする、中国人の狡猾なやり方には舌を巻く。


   そして、これに騙される善人の如何に多いことか。

中国人は野蛮人

投稿者: anti_notarin 投稿日時: 2012/02/11 09:05 投稿番号: [1450 / 2250]
中国人は長い歴史を誇るが、確かに何千年の時間的歴史は存在した。

しかし、彼らは過去から何千年も同じことの繰り返しで進歩は全くなかった。

漢の時代から何代もの王朝の交代を繰り返し漢人王朝あり、胡人王朝あり、時に応じて征服されたり征服仕返したりで、王朝は変わってもその仕組みや政治手法は何ら変わりなく、国民は一部の貴族と奴隷的被搾取階級だけだ。

それが延々と20世紀半ばまで続き、文化・文明的には世界一遅れた国である。

彼らは口を開けば大中華は世界の中心で云々と自慢するが、毛沢東の文化大革命も人殺しに終わっただけで、結局、自分たちでは何ら成長できずにその後の改革開放政策に依って、外国資本、外国技術によってようやく成長経済を手に入れたのだ。

しかし、経済的に一部の国民が裕福になっても、短い期間に長く続いた中華思想から脱却できるわけはない。

変化した華夷秩序は裕福な人間は貧しい人間を見下し、他に対して必要以上の優越意識を持って他をバカにする。

一の事実は数人の口を経るたびに数百倍、数千倍に脹れあがり嘘を言うのが偉いと思っている民族である。

思いやり民族の日本人と、人を人とも思わない漢民族が表向きは兎も角、心から仲良くなどなれる訳がない。

西安事件1 張学良共産党と接触

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/10 18:50 投稿番号: [1449 / 2250]
蒋介石は日本が戦争する意思はない事を知って安心して、共産党退治に乗り出しました。

内側に叛乱分子を抱えていては対日戦争などできませんから。

そこで、張学良を西北剿匪副総司令に任命し、

西安へ共産党討伐に行かせますが、張学良はこれに不満でした。

彼の望みは、対日戦争でしたから。



児島襄著   『日中戦争3』   文春文庫


244p

《 西安には、もともと西安綏靖公署主任・第十七路軍総指揮楊虎城が位置していた。

楊虎城は、馮玉祥系の軍閥将領で、その第十七路軍約五万人も、

いわば楊虎城があつめた部隊であり、「陝   (せん)   軍」の通称で呼ばれていた。

ただし、軍隊としては装備、素質ともに劣悪で、土匪なみの集団であった。


それだけに、楊虎城としては、勢力範囲とその中での   「静かな搾取生活」   を

楽しむのが望みであり、共産軍との戦いも中央軍の進出も好まなかった。

現に、楊虎城は共産軍   「紅第四方面軍」   と 〝相互不可侵協定〟 を

むすんでおり、蒋介石の剿匪作戦についても批判的であった。》



246〜247p

《 張学良は、 「剿匪がいやになった」   と楊虎城にもらし、

一九三六年をむかえると、共産党側との接触を開始した。

・・・・

四月四日、第六十七軍長王以哲を通じて、共産党連絡局長李克農と

洛川の第六十七軍司令部で会見した。

張学良は、より以上の幹部、たとえば周恩来との会談を希望し、

李克農はただちに連絡して、周恩来が会談に応ずる旨を返事した。



張学良は、延安での会談を指定し、同市に駐屯する第六十七軍第一二九師   (周福成)   に

安全を保障するよう、指示した。

四月九日深夜、延安市東方的五キロの天主堂で張・周会談がおこなわれた。

・・・・

共産党側にも、張学良の接近を喜ぶ   「内部事情」   があった。

共産党軍は、当時、ほぼ第一、第二、第四方面軍にわかれて、

甘粛省北部での合流をめざしていたが、総兵力は

「長征」   を開始した当時の三分の一以下、約七万人にすぎない。



しかも、中央軍の追尾をうけているだけでなく、

山西の閻錫山軍も動いて、側背をおびやかされている。

もし、中央軍側の総攻撃が開始されれば、全滅しないまでも

組織的戦力を破砕されるのは必至であろう。

その非命を回避し、叫んでいる   「抗日」   戦の第一線にたつには、

「停止剿共」   を国民政府側にもとめる以外に方法はない……。》


つづく

共産党の策動3 コミンテルンの決議

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/16 18:53 投稿番号: [1462 / 2250]
K・カール・カワカミ著   『シナ大陸の真相   1931〜1938』(原題 Japan in China )
訳者   福井雄三    展転社   59〜60p


《 一九三五年八月モスクワで開かれた第七回コミンテルン大会で演説したとき、

ディミートロフは中国における日本の帝国主義を非難して次のように言った。



「中国では人民運動を通して広大な地域がソビエト化され、強力な紅軍が組織された。

しかし日本帝国主義の獰猛な侵略と南京政府の裏切り行為によって、

中国民族の国家的存続は危機にさらされている。

現時点において中国のソビエト地区のみが全ての反帝国主義勢力のための結集点となり、

中国を奴隷化し分割しようとする帝国主義列強諸国の野望と戦うことが出来、

さらに民族紛争に苦しんでいる中国人を助けることが出来る。



それ故我々は満場一致で中国共産党の次の提案を支持する。

すなわち、国土の保全と人民解放のために戦うべく準備された

中国内に現存する全ての軍隊と組織をまとめることによって、

日本及び中国人の裏切り者に対する広範囲の統一反帝国主義戦線を

打ち立てようという提案を。



数多くの戦いの試練を経てきた英雄的な中国紅軍に対して、

我々は心からの熱列な挨拶を送る。

そして我々は中国人民に次のことを保証する。

すなわち、全ての帝国主義的で獰猛な列強諸国と

その中国人の傀儡の支配から中国国民を解放する戦いにおいて、

我々は彼らを援助する決心がしっかり固まっているのであると」



この見解に従って、コミンテルンの会議は次の決議を採択した。

中国においては、ソビエト運動の拡大と紅軍の戦闘力の確立は、

帝国主義に対する全国規模の人民運動としての統一計画と調和させなければならない。

この運動はそのスローガンとして、これは帝国主義的圧迫

(とりわけ日本帝国主義とその中国人傀儡) に対する戦いであるという

考え方を掲げることによって、最もうまく行われるだろう。



ソビエト地区は、解放戦争を戦っている全中国人民の結集点とならねばならない。

帝国主義諸国のプロレタリアの人々は、

帝国主義の侵略者に対して戦っている植民地及び半植民地の人民に対して

援助の手を差し伸べなければならない」》


つづく

1月30日 天野中尉軍法会議に送致

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/16 18:46 投稿番号: [1461 / 2250]
アリソン事件の続き

飯沼守日記

◇一月三十日   曇

  天野中尉以下十二名軍法会議に送致。

(『南京戦史資料集』   P244)



*   天野中尉らは売春婦を買っただけなのに、狡猾な中国人の讒言により、

   女性を連行・強姦した様にされてしまいました。

   事情を知らない外国人達の訴えで、

   日本軍も立場上軍法会議に掛けざるを得なくなったようです。


   しかし、日本が善意で譲歩しても、それは逆効果しかもたらさないでしょう。

   「本当に悪い事をしたから裁かれたのだ。」

   「これは氷山の一角に過ぎない。   これで、お茶を濁す気か。」

   と言われるだけですから。


   現在、日本の   「善人でありたいと願う」   人達が、一生懸命譲歩して、

   中韓様のご機嫌をとっても、

   次から次へと難癖をつけられ   「反省が足らない」   と言われているように。

共産党の策動2 五・三〇事件2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/15 18:41 投稿番号: [1460 / 2250]
K・カール・カワカミ著   『シナ大陸の真相   1931〜1938』 (原題 Japan in China )
訳者   福井雄三    展転社    54〜55p


《 …事件が一九二五年、上海の国際租界区域で起こった。

その年の五月三〇日、数万の中国人学生が、

日本の綿糸工場での労働争議に関連した暴動行為のかどで混成法廷

(外国人の裁判官に監督された中国人の法廷) から有罪宣告を受けた

五人の学生に同情して、街路を行進した。



これに続いて、一五万六千人の中国人労働者を含む全市規模のストライキが起こった。

彼らを煽動した最大の指導者は陳独秀であった。

彼はモスクワで教育を受けた中国共産党員で、今なお著名な指導者である。

彼の背後にはチェルカソフというソ連の宣伝工作活動の専門家が控えていて、

国際租界区域のソ連領事館に事務所を構えていた。



この宣伝活動家が北京駐在のソ連大使カラハンにあてて書いた報告書が、

上海警察に押収された。

この文書によって、綿糸工場の労働争議とそれに続くデモ、ストライキは、

モスクワのコミンテルンが出した命令に従って前もって準備されていたことが

完全に証明された。》



*   この二年後に、第二次南京事件 (No.1291〜1348で書いた) が起こります。

   これを仕掛けたのは共産党と言われていますが、この流れから行くと

   多分そうかも知れません。

夏淑琴事件の疑問点

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/15 18:36 投稿番号: [1459 / 2250]
マギーが聞いた所の話が事実なら悲惨なことです。

ただ、この話には、不審な点がいくつかあります。



「1月29日のラーベの日記」   では、

「マギーが八歳と四歳の少女を見つけた。

親族は十一人だったというが、残らず残忍な殺されかたをしていた。

近所の人々に救け出されるまでの十四日間、母親の亡骸のそばにいた」

となっていました。



これだけを読めば、少女の家族が殺されたのは   「1月の15日」   かと思えますが、

仔細に話をうかがうと12月13日なのですね。

少女らを発見して、どうして一カ月以上も報告しなかったのでしょうか?

死体も何もかも片づけて、一カ月も経った後から見に行っても、よく判らないでしょう。



また、ラーベの日記では、 「親族は十一人」   となっているのに、

case 219では   「a family 十三人のうち十一人が殺され」   と変化し、

『南京難民区の百日』   では   「十三名を殺害した」   となっています。

戦後60年過ぎての証言なら、ボケて勘違いと言う事もあるでしょうが、

これは事件からそう月日の経たない時の証言です。



そして、事件は13日、場所は東南部です。

ここは激戦地区です。城門の外では戦闘があり、大砲の弾が城内に飛び込んで

来ていました。殆どの人が、安全区に避難しているのに、

この家族だけ、なぜ、そんな危険な所に留まっていたのでしょうか?



ドイツ大使館公文書綴によると、日本兵はドアを開けさせ、

いきなり   「マアを拳銃で殺した」   となっています。

しかしながらが、日本の陸軍歩兵は拳銃を持っていません。

将校は持っていますが、これは軍支給ではなく自前ですので、

弾薬の補給ができませんから、むやみには撃てません。

だから、非武装の市民を拳銃で撃つ、などという事は基本的にあり得ない事です。



次に、

「この子はここに十四日間居残った。この二人の子供はふかした米を食べて生きた。」

とありますが、南京は断水していたはずです。

おまけに、 「兵士たちthe soldiersは毎日この家に物を取るためやって来た」

とあります。

日本兵が一番必要としたのは食糧です。

彼らは毎日、物を取りにやってきていながら、どうして米に気づかなかったのでしょうか?


ドイツ人の店など荒らされて、食糧が奪われたと、ラーベは言っていました。

二人の少女は、 「シーツの下に隠れて発見されなかった」   と言いますが、

兵隊が気づかぬ筈はありません。

そんな間抜けだったら、彼らはとっくにゲリラに殺されています。


それは、いいとしても、日本兵は食糧を全部持って行くだろうし、

水も14日は持たないから   「米をふかす」   など無理では?

おまけに火を焚けば、日本兵に見つかります。

証言通りの残忍な日本兵なら、すぐ殺されたでしょう。



その他にも、『南京への道』・「マギーの遺言」・「来日での証言」・

「許伝音の証言」   などで、証言が、それぞれ異なっています。

どれが、本当なのでしょう?

共産党の策動2 五・三〇事件1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/14 18:53 投稿番号: [1458 / 2250]
『魔都上海十万の日本人』   NHK取材班編   角川文庫


90p

《 一九二五年、五・三〇運動の全国的な展開が上海から始まる。運動の発端は、

二月以来、上海の在華紡にひろがった待遇改善と組合承認を求める労働運動にあった。

中国の民族資本による繊維産業の追いあげを受けて、日本など外国の繊維企業は、

合理化によって利潤の増大をはかろうとした。

と同時に、勢力の拡大をつづける共産党へのおそれから、

管理・締めつけをいちだんと強化し、組合つぶしに本格的に乗りだした。



こうした状況のもとで、一九二五年二月、上海の紡績工場でストライキが続発し、

四月に入ると、青島の日本資本の紡績工場にも飛び火した。

五月十五日、さきに紹介した上海の内外綿第七工場で、

ストライキ中の労働者と工場側の警備員とが真正面から衝突し、共産党員の労働者

顧正紅が射殺されたほか、中国人労働者十数名が重軽傷を負うという事件が起こった。

これに抗議する運動は、たちまち学生・知識人・労働者をまきこむ

反日運動に発展していった。



五月三十日、共産党は千人の学生・労働者を動員して、上海の歴史上はじめて、

共同租界の内部で大規模な抗議のデモを繰りひろげた。

これに対して、共同租界のイギリスの警察隊は、デモ隊に向けて一斉射撃を浴びせ、

死者十三人、重傷者数十人という大惨事に発展した。これが、五・三〇事件である。



93p

この虐殺事件は、上海はもとより、全中国に憤激の嵐を巻き起こした。

一日おいて六月一日、共産党は帝国主義打倒をスローガンに、全上海にゼネストを指令した。

学生・労働者のほかに、民族資本家・商店主も参加し、空前の規模の闘争に発展した。

闘いの渦は、広州・北京・漢口など大陸全体に広まり、

香港の労働者もこれに足並みをそろえ、各地の租界で衝突事件が続発した。



上海のゼネストは、八月末まで続いた。

中国側の発表によれば、この闘いに参加した労働者・学生・農民は、

少なく見積もっても全国で一千七百万人余りにのぼったという。》



*   労働者顧正紅が警備員に射殺されましたが、この警備員はインド人の様です。


つづく

夏淑琴事件2 別の証言

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/14 18:45 投稿番号: [1457 / 2250]
東中野修道著   『南京大虐殺の徹底検証』   より


240p

事例二一九 (case 219) で語った、マギーの夏淑琴事件

《ジョン・マギー氏が説明してもらったところによれば、

十二月十三日から十四日にかけて、城南のある家族 a family 十三人のうち

十一人が日本兵に殺され、女たちは強姦されて手足を切断された。

この話は生き残った二人の小さな子供が語った。(マギー)》

括弧のなかにマギーという名前が見える。それはマギーが聞き書きしたことを意味する。



247p

『南京難民区の百日』 に出てくる、夏淑琴がマギーに語った話。

《日本兵たちが市内の南東部にある夏家にやってきた。

日本兵は、八歳と三歳あるいは四歳の二人の子供を残して

その家にいた者全員、十三名を殺害した。》



248〜249p
本多勝一 『南京への道』 に出てくる夏淑琴の話


  事件が発生したのは十二月十三日の   「朝九時ごろ」   であった。

夏淑琴は、恐怖のあまり叫び声をあげた途端、体の三ケ所を銃剣で刺され、気絶した。

やがて息を吹き返した夏淑琴は、妹と、 「家主の内庭にある防空壕」 の方へ行った。

防空壕といっても地下壕のような地下の穴ではなく、内庭の上に

「頑丈な机を四個ならべて上に戸板をのせ、下に干し草を敷いた」   ほどの

ものであった。その机の前に行くと、母と赤子の死体があった。

日中は怖いので   「机の下」   からほとんど出なかった。

水は共同炊事場の大きな水ガメから、箱を踏み台にして、

「重傷」   ながらも、水を汲んで飲んだ……。



249 p
「マギーの遺言」   に登場する夏淑琴

インターネット上で、 「マギーの遺言」   を見ていると、

そこにマギーの撮影したフィルムが映し出された後、夏淑琴が登場する。

そして、次のように語る。

《新路口五番地   それは私が住んでいたところです。

日本兵たちは父を追いかけ回し、後から撃ち殺したんです。

彼らは隣の家に住んでいた二人の両親と子供も殺しました……。》



250p
夏淑琴来日での証言


  戦争犠牲者を心に刻む会編   『南京大虐殺と原爆』 に出ている夏淑琴の証言によれば、

同じ敷地内に住む十五人のうち、日本軍にたいして家の扉を開けた夏淑琴の父   (即ちシア)   が

殺されたのを皮切りに、夏淑琴の六十歳を過ぎた祖父母と、

十五歳、十三歳の二人の姉を含めた十三人までが殺されたが、

当時八歳であった夏淑琴と四歳の妹が助かって、二人は事件から一週間後に

死体を収容しに来た人たちに発見された、と言うのであった。



250p
許伝音の証言


許伝音が戦後、東京裁判に出廷した。

そして、先の現場を、マギーと一緒に見に行ったと語った。・・・

許伝音は、〈十七歳   (十六歳の間違い)   と十四歳の少女の死体が

「テーブルノ上ノ血ノ海ノ中」   と   「ベッドノ血ノ中」   に横たわっていた〉   と証言した。

共産党の策動1 ソ連の反日工作

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/13 18:52 投稿番号: [1456 / 2250]
蒋介石は一応、釈放され、建前としては、取引は無かったとされていますが、

共産党への攻撃は停止され、劉少奇などが西苑の兵営などに出入りして

いますから、やはり何か取引があったのでしょう。



ところで、共産党の元締めソ連は、中国に対して早くから工作をしていました。

日露戦争に敗けた事で、ロシアでは帝国の力が弱まり、

それが革命へと導かれ、ソビエト社会主義共和国連邦が出来ました。

ソ連は中国に、反日をさせるよう画策します。



K・カール・カワカミ著   『シナ大陸の真相   1931〜1938』 (原題 Japan in China )
訳者   福井雄三    展転社


58〜59p

《 中山大学は中国人の学生を勧誘するために一九二五年一月、モスクワに設立された。

・・・この学校は中国人の入学だけを認めており、男女共学である。

在学中、学生たちは個人的な出費を含む必要経費を全て支給される。

一九二五年に第一回卒業生一五五名を出した。カリキュラムは東方大学と似ている。

テキストはロシア語と中国語の両方で使用されている。



現在の教授陣は約五〇名のロシア人と二五名の中国人から成る。

一九二八年以降、登録された学生数は年によって異なるが、

大体年間四百名から五百名といったところである。

さらにまた、中国人はソ連の軍事関係の学校、例えば赤軍陸軍大学、

歩兵士官学校、高級空軍学校などへの入学を許されている。



赤軍陸軍大学には一五名の中国人、高級空軍学校には二〇名の中国人、

歩兵士官学校には一二〇名の中国人と朝鮮人が在籍している。

このようにして学生と兵士双方合わせて毎年数百名の共産主義者たちが祖国へ

送り返され、そこで彼らはコミンテルンとその現地工作員の指示の下に働くのである。

中国の広大な地域が次々に共産化していったとしても何の不思議があろうか。

アジア経由で共産革命をヨーロッパへ導入するというレーニンの夢は実現するかも知れない。



日本は中国の目の前の隣国として、

他の資本主義諸国よりもはるかに鋭くその危険を察知している。

コミンテルンが中国人の間で宣伝工作活動を推し進める目的のために、

反日運動に共産主義の要素を付け加えた時 (ちょうど一九二五〜二七年にかけての

反英運動に共産主義の要素を付け足した時のように)、

この日本の恐怖感はさらに一段と大きなものになった。》



『魔都上海十万の日本人』   NHK取材班編   角川文庫   86〜87p


《 共産党は、一九二五年、労働組合の全国組織である中華全国総工会を設立するが、

上海にはそれより早く、一九二二年の共産党成立のころから、

中国労働組合書記部を設けて労働者の組織化を進めていた。

また、この年、労働者に対する教育工作を強化するため、上海大学が開校された。
・・・
末端の労働者に対する大衆工作にも力が注がれた。

その結果、上海の大小の工場には共産党の組織が網の目のように張りめぐらされ、

内外綿工場などの日本企業にも、共産党の細胞組織が設立されたのである。》



つづく

夏淑琴事件1 マギーの説明文

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/13 18:44 投稿番号: [1455 / 2250]
東中野修道著   『南京大虐殺の徹底検証』   240〜242p


〈 この事件にかんするマギーのもう一つの記録が、ドイツ大使館のローゼンの手にも渡った。

各種の   「事件」   にかんするマギーの説明文   (英文七枚)   と、

マギー自身の撮影になるフィルム四本とを、本国外務省へ送付するよう、

ローゼンは南京から上海のドイツ大使館に依頼している。


それは   (マギーが八歳の少女を発見した一月二十九日から約十日後の)

昭和十三年二月十日のことであった。

そこで右の   「事件」   にかんするマギーの説明文を、

南京ドイツ大使館公文書綴   「日支紛争」   から全訳する



《 十二月十三日、約三十人の兵士が南京の東南部の新路口五のシナ人の家にきて、

中に入れるよう要求した。   玄関を、マアという名のイスラム教徒の家主が開けた。

すると、ただちに彼らはマアを拳銃で殺した上、もう誰も殺さないでと、

マアの死体に脆   (ひざまづ)   いて頼むシアさん Mr. Hsia をも殺した。

なぜ夫を殺したのかとマアの妻が尋ねると、彼らはマアの妻をも殺した。



シアの妻は一歳の赤ん坊と客間のテーブルの下に隠れていたが、

そこから引きずり出された。

そして、一人かもっと多くの男たちから裸にされ、強姦された後、

銃剣で胸を刺されて殺された。

その上、陰部に瓶を突っ込まれ、赤子も銃剣で殺された。



それから、何人かの兵士が隣の部屋へと行った。そこには、シアの妻の七十六歳と

七十四歳になる両親、それに十六歳と十四歳になるシアの娘がいた。

この娘たちを彼らが強姦しようとしたその時、祖母が娘を守ろうとして

拳銃で殺された。祖父が妻の体をつかむと、祖父も殺された。



それから、二人の少女が裸にされた。上の少女は二、三人に強姦され、

下の少女は三人に強姦された。その後、上の少女は刺されて陰部に茎を詰め込まれた。

下の少女も銃剣で突き殺されたが、母や姉の受けたぞっとするような扱いは免れた。

それから、兵士たちはもう一人の七、八歳になる妹も銃剣で突き殺した。

同じくその部屋にいたからである。



この家の最後の殺人は四歳と二歳になるマアの二人の子供 children (筆者註・性別不明)の

殺人であった。上の子は銃剣で突き殺され、下の子は刀で真二つに斬られた。

その八歳の少女 the 8-year old girl は傷を負った後、母の死体のある

隣の部屋に這 (は) って行った。

無傷で逃げおおせた四歳の妹 her 4-year old sister と一緒に、

この子はここに十四日間居残った。この二人の子供はふかした米を食べて生きた。



写真撮影者の私が、この話の一部を得ることができたのは、上の八歳の少女からで、

詳細は一人の隣人 a neighbor と一人の親戚 a relative から語ってもらって、

確認と訂正ができた。

兵士たち the soldiers は毎日この家に物を取るためやって来たが、

二人は古い敷布の下に隠れていたので発見されなかったと、この人歳の少女は語った。

このような恐ろしいことが起こり始めた時、近所の住民はみな避難民地帯に逃げた。



それから十四日して、このフィルムに出て来る老女性 the old woman が近所に戻って、

二人の子供を発見した。その後、死体が全て取り除かれたあとの部屋

an open space where the bodies had been taken afterwards に、

写真撮影者の私を案内したのは、この老女性であった。

彼女や、シアさんの弟 (または兄) Mrs. Hsia’s brother と、

この小さな女の子にたいする質問を通じて、

恐るべき悲劇についての疑問の余地なき理解が得られたのである。》


つづく

西安事件3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/12 15:45 投稿番号: [1454 / 2250]
焦った張学良は蒋介石を監禁して、

共産党討伐をやめ、共産党と手を組んで、日本と戦争するよう要求しました。

その具体的内容は以下の通り。



松本重治著   『上海時代・下』   中公新書
59

《   八項目の主張とは次のとおりです。

(1)南京政府を改造し、各党各派の参加を許し、ともに救国の責任を負わしめよ。

(2)すべての内戦を停止せよ。

(3)上海で逮捕された愛国運動の指導者をただちに釈放せよ。

(4)全国のすべての政治犯を釈放せよ。

(5)人民の集会・結社等すべての政治的自由を保障せよ。

(6)民衆の愛国運動を公認せよ。

(7)孫総理の遺嘱を確実に遵守せよ。

(8)ただちに救国会議を召集せよ」》



しかし、蒋介石は応じず、


56〜57p

《   蒋   「まだ、私を委員長と呼ぶか?   上官と認めるなら、命令に従って

     洛陽に送り還せ。さもなければ、君は反逆者、私は反逆者の捕虜だ。

     即座に銃殺しろ。他にいうべきことなどありはしない」

  張   「委員長がわれわれの意見を受諾されるなら、もちろん命令に従います」

  蒋   「君は、いったい、私の部下なのか敵なのか?……敵ならばただちに私を殺せ。

   二つに一つ、ほかに何もいう必要はない。私は何をいわれても聞く耳を持たぬぞ」》


と突っぱねた。

ここに周恩来がやって来、宋美齢もやってきた。

そして宋美齢は周恩来と会い、蒋介石も周恩来と会っている。


66p

《 宋美齢の   「回想録」   によると、彼女は二十三日には二時間、

また二十四日にも、周恩来と会談をしている。

張学良が頼んでも蒋介石が会いたくないといっている人だといって、

張は彼女に周思来を紹介している。

宋美齢は、周恩来に意外にも好感をもったようで、宋美齢の斡旋で、

周恩来は蒋介石に短時間会ったようである。



周は、蒋に対し、蒋介石領導での一致抗日、そのための内戦停止を簡潔に述べたが、

蒋としては、説得される必要は全然なかった。

それで、口頭で、

「統一戦線を約束したようであり、周恩来と   『再び共に仕事を』   したい」

(ハン・スーイン著   『毛沢東』   松岡洋子訳二五三ページ)   と、

いとも簡単な挨拶をしたというのが、ことばどおりではないにしても、

おそらく真相に近かろうと思われる。》



どういう取引が有ったか分かりませんが、ともかく、蒋介石は釈放されました。

そして、以後共産党の討伐は行われていません。

1月29日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/12 15:32 投稿番号: [1453 / 2250]
《 プリドー=ブリュン・イギリス領事とフィッチが今朝九時にピー号で出発した。

私の日記帳もお供した。フィッチが近いうちに戻れるなどと、だれも信じてはいない。



日本人との緊張感は日増しに高まっている。

委員会を解散して、新たに救援委員会を組織し、

新しい自治委員会と協力するようにしたほうがいいかもしれない。

目下真剣に検討しているところだ。



日本軍と協力しようと私は口を酸っぱくして言っているが、アメリカ人は反対だ。

委員会が賛成してもいないのに日本側と交渉するわけにはいかない。

それにむこうが同意するかどうかもまったくわからないのだから。

ひょっとするともう遅すぎるのかもしれない。

時機を逸してしまったのではないだろうか。



そうかといって、脅した通り、

日本軍が二月四日に難民を強制的に立ちのかせて収容所に入れ、

この前の赤十字病院の伝で立ち入り禁止にしてしまったら、我々は手も足も出ない。

ドイツ大使館は日本軍から覚え書を受け取った。

そこには、難民に対するさまざまな援助には感謝しているが、

二月四日に収容所を閉鎖するように、とあった。

私は会議を開いて、それぞれの大使館につぎのことを確認、

ないしは調べてもらうことにした。



一、日本は、外国人の土地、もしくは外国人の家にある収容所からも

   難民を立ちのかせることができるのか?

   (収容所のかなりの数がアメリカ人の土地にある。

   ジーメンス・キャンプといわれるラーベの収容所もその対象になる。

   ドイツ人の庭にあるからだ)

二、もっと多くの難民を受け入れても良いのだろうか?

三、我々の立場を明らかにするまで、

   各大使館に本件に関する日本側の返事を待ってもらいたい。



マギーが八歳と四歳の少女を見つけた。

親族は十一人だったというが、残らず残忍な殺されかたをしていた。

近所の人々に救け出されるまでの十四日間、母親の亡骸のそばにいたという話だ。

姉娘が家に残っていたわずかな米を炊いて、どうにか食いつないでいたという。


*   「マギーが八歳と四歳の少女を見つけた」

   これは、有名な夏淑琴の話に関係しますので、次は夏淑琴の話をとりあげます。

西安事件2 張学良のあせり

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/11 14:06 投稿番号: [1452 / 2250]
蒋介石は張学良が共産党と接触している事を知っていた。


児島襄著   『日中戦争3』   文春文庫
251p


《 蒋介石は、既述したように、

張学良の不穏な動きについての情報を耳にしていたわけであるが、

十二月七日、華清池を訪れた   『大公報』   紙主筆張季鸞との間に、

次のような問答をかわしている。



「請問ニイ們在延安的記者、最近有什麼重要消息マー?」

(貴社の延安駐在の記者から、最近なにか重要なニュースは入らないか?)


「謡言很多、但是他不相信這些無稽之談」

(デマは多い、信用できぬ話ばかりです)


「ニイ所謂謡言、是否己聴到了張漢卿   (学良)   輿共産党在廷安面商擁護中央、

一致抗日的消息マー?」

(そのいわゆるデマの中に、張学良が延安で共産党と中央の擁護、

一致抗日を交渉した話はふくまれていないか?)


「是的」   (あります)


この問答は、張学良・周恩来秘密会談が、すでに蒋介石の情報網に

キャッチされていたのみならず、一般にも知られていたことを告げている。》



松本重治著   『上海時代・下』   中公新書
53p

《 中共により、紅軍により、また救国会の運動により、学生運動により、

旧東北軍や西北軍が、約一年前からの   「内戦停止」 「一致抗日」

「中国人は中国人と戦わない」   などのスロ−ガンと、

その魅力あるアッピールのために、それほどまでにも   (張学良が)

「洗脳」   されていたとは、蒋はそのときまで全然知らなかった。



それで張季鸞の報告と忠言に耳を傾けた蒋介石は、ただちに、

第六次   「剿匪」   事業の作戦を根本的に練り直す必要を感じた。

「剿匪」   事業のためには、東北軍も西北軍もすでにつかいものにならぬと

感じたからであった。》


53〜54p

《 十二月九日になると、西安の学生たちは、一二・九記念デモをやり、

「内戦停止」 「一致抗日」   の要求書を、蒋介石に親しく会って手渡しするため、

華清池に向って出発した。間もなく、警察の発砲によって、

デモ隊、とくに年少学生に負傷者が出たので、学生たちは非常に激昂した。

張学良は、それを聞いて駈けつけ、

やっとのことでデモ隊を思いとどまらせ、市内に引き返させた。



その夜、張は華清他に行き、蒋に面会を求めて、学生に代り、その衷情を訴えたが、

逆に蒋からは、頭から叱られてしまった。

張は、 「極度の衝撃を受けた」   と   「懺悔録」   に書いている。

翌十日には、張は、前夜、学生に語ったように、蒋に面を冒して自己の所信を

述べるため、ふたたび蒋に会見を求め、 「内戦停止」 「一致抗日」   の立場から、

蒋の掃討計画に疑問を強硬に表明したが、にべなく拒否され、ふたたび蒋から叱正を受けた。



そればかりではない。西安綏靖主任たる楊虎城はまだしも、

いやしくも西北   「剿匪」   副司令たる張学良にとって、

「数回の軍事会議に ― これは張の思い過しでもあったが ― 召集されなかった」

ことは、異常のショックであった。

張の   「懺悔録」によれば、「それは、私   (張)   と楊虎城に疑惑と不安を抱かせた。》


*   ここで明らかなように、対日戦争を望んでいたのは、

   中国の学生たちであり、張学良だった。

1月29日 アリソン殴打事件つづき

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/11 13:38 投稿番号: [1451 / 2250]
松村俊夫著   『「南京虐殺」   への大疑問』


168p

《 一月二十九日、駐日アメリカ大使グルーは、

外務次官堀之内との会談において、被害女性はリッグズとベイツに対し、

連れてゆかれたところは以前カトリック司祭が住んでいた家で、

現在は日本兵が占領しているところである、と証言した。


174p
飯沼守日記

〈一月二十九日   小山憲兵隊長来リ   天野中尉以下ノ件ニ就キ報告、

事件送致ニ就キ   軍ノ意向ヲ聞ク、

依   (よっ)   テ中尉以下同宿ノ者   全部ヲ送致スベキヲ希望シ、

殿下ニモ報告セリ。〉


〈天野中尉出発ヲ差止メラレ   何トカ穏便ノ取計ヒヲ   トテ来リシモ、

男ラシク処理セヨト   諭シテ帰ヘス〉

(偕行社編纂   『南京戦史資料集』   243頁)》



*   第16師団は南京から出て行かなければならないが、

   天野中尉以下の者は出発を差し止められたため、哀願したもよう。

   しかし、状況証拠から見て、彼らは、女性を連行強姦したというよりも、

   売春婦を買っただけに見える。

   「買春」   を   「女性の強制連行強姦」   として外国人に訴え、

   事件にする、中国人の狡猾なやり方には舌を巻く。


   そして、これに騙される善人の如何に多いことか。

中国人は野蛮人

投稿者: anti_notarin 投稿日時: 2012/02/11 09:05 投稿番号: [1450 / 2250]
中国人は長い歴史を誇るが、確かに何千年の時間的歴史は存在した。

しかし、彼らは過去から何千年も同じことの繰り返しで進歩は全くなかった。

漢の時代から何代もの王朝の交代を繰り返し漢人王朝あり、胡人王朝あり、時に応じて征服されたり征服仕返したりで、王朝は変わってもその仕組みや政治手法は何ら変わりなく、国民は一部の貴族と奴隷的被搾取階級だけだ。

それが延々と20世紀半ばまで続き、文化・文明的には世界一遅れた国である。

彼らは口を開けば大中華は世界の中心で云々と自慢するが、毛沢東の文化大革命も人殺しに終わっただけで、結局、自分たちでは何ら成長できずにその後の改革開放政策に依って、外国資本、外国技術によってようやく成長経済を手に入れたのだ。

しかし、経済的に一部の国民が裕福になっても、短い期間に長く続いた中華思想から脱却できるわけはない。

変化した華夷秩序は裕福な人間は貧しい人間を見下し、他に対して必要以上の優越意識を持って他をバカにする。

一の事実は数人の口を経るたびに数百倍、数千倍に脹れあがり嘘を言うのが偉いと思っている民族である。

思いやり民族の日本人と、人を人とも思わない漢民族が表向きは兎も角、心から仲良くなどなれる訳がない。

西安事件1 張学良共産党と接触

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/10 18:50 投稿番号: [1449 / 2250]
蒋介石は日本が戦争する意思はない事を知って安心して、共産党退治に乗り出しました。

内側に叛乱分子を抱えていては対日戦争などできませんから。

そこで、張学良を西北剿匪副総司令に任命し、

西安へ共産党討伐に行かせますが、張学良はこれに不満でした。

彼の望みは、対日戦争でしたから。



児島襄著   『日中戦争3』   文春文庫


244p

《 西安には、もともと西安綏靖公署主任・第十七路軍総指揮楊虎城が位置していた。

楊虎城は、馮玉祥系の軍閥将領で、その第十七路軍約五万人も、

いわば楊虎城があつめた部隊であり、「陝   (せん)   軍」の通称で呼ばれていた。

ただし、軍隊としては装備、素質ともに劣悪で、土匪なみの集団であった。


それだけに、楊虎城としては、勢力範囲とその中での   「静かな搾取生活」   を

楽しむのが望みであり、共産軍との戦いも中央軍の進出も好まなかった。

現に、楊虎城は共産軍   「紅第四方面軍」   と 〝相互不可侵協定〟 を

むすんでおり、蒋介石の剿匪作戦についても批判的であった。》



246〜247p

《 張学良は、 「剿匪がいやになった」   と楊虎城にもらし、

一九三六年をむかえると、共産党側との接触を開始した。

・・・・

四月四日、第六十七軍長王以哲を通じて、共産党連絡局長李克農と

洛川の第六十七軍司令部で会見した。

張学良は、より以上の幹部、たとえば周恩来との会談を希望し、

李克農はただちに連絡して、周恩来が会談に応ずる旨を返事した。



張学良は、延安での会談を指定し、同市に駐屯する第六十七軍第一二九師   (周福成)   に

安全を保障するよう、指示した。

四月九日深夜、延安市東方的五キロの天主堂で張・周会談がおこなわれた。

・・・・

共産党側にも、張学良の接近を喜ぶ   「内部事情」   があった。

共産党軍は、当時、ほぼ第一、第二、第四方面軍にわかれて、

甘粛省北部での合流をめざしていたが、総兵力は

「長征」   を開始した当時の三分の一以下、約七万人にすぎない。



しかも、中央軍の追尾をうけているだけでなく、

山西の閻錫山軍も動いて、側背をおびやかされている。

もし、中央軍側の総攻撃が開始されれば、全滅しないまでも

組織的戦力を破砕されるのは必至であろう。

その非命を回避し、叫んでいる   「抗日」   戦の第一線にたつには、

「停止剿共」   を国民政府側にもとめる以外に方法はない……。》


つづく
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