ビックリ台湾!?

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土産物

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2008/01/07 20:56 投稿番号: [1419 / 3149]
  時折、ここの台湾トピに「台湾にお土産を持っていたいのですが、なにが喜ばれますか」という質問が寄せられる。旅行中に世話になり、再度の訪台で「なにか、喜ばれる日本の物を」というのは私も経験があるからわかる。これには、お約束のように「心がこもっていれば値段は関係ありません」という模範回答が出てくるのだが、わたしは綺麗ごとの建前を言うのは好きではないから、以前、「ソニーの最新のビデオカメラなんか喜ばれます」と、書いてやったことがある。もちろん冗談だが喜ばれるのは確かだろう。「なにか日本的なものを…」というのは誰でも考えるが、そうしたものは浅草の仲見世か東京タワーの土産物屋に並んでいるような安物の紛い品しかない。台湾人もよく知っているからそんなものは見向きもしない。だからといって、本物の浮世絵や輪島塗、御木本のネックレスを持っていく人はいないだろう。セイコーの腕時計でも10万を超えるアナログなら見栄えもいいが、アルバ・ブランドのデジタルじゃ礼も言ってくれない。話がすこしややこしくなるが、張家の長男から高山茶をお土産に貰って帰ったことがある。彼の姉を通じて聞いたその値段はにわかには信じられないほどである。彼は仕事をしている時間より座ってウーロン茶を飲んでいる時間のほうが長いのではないか、と思うような風雅な人で、わが家に帰って煎れたそのお茶はさすがに絶品だった。「これは会社の女性達の昼時に飲んでもらおう、自販機の伊藤園やサントリーの缶ウーロン茶とはまったくの別物だ。本物のウーロン茶とはかくも美味しいものだと認識を新たにするに違いない」と思い、お茶当番の人に渡してあげた。彼女が大きな急須にお茶を煎れたのは確認した。パートの女性は十数人もいたのだが、なんの反響もない。上手いもまずいもなんとも言ってこない。数日経って、「飲まないのなら返して貰おう」と思い、湯沸し室の戸棚を探したのだがモノがない。「あのお茶、どうした」と聞いたら、「以前、勤めていた○○さんが子供を連れて遊びにきたので上げちゃいました」

Re: 畳屋

投稿者: urfraternity 投稿日時: 2008/01/07 19:59 投稿番号: [1418 / 3149]
>畳屋さんの「プーッ」については・・・

もしやっていたとすれば、切り口を束ねて縁をつけるのにプーかも。縁を湿らすのに意味があるはず。しかし畳は新しいと言っても自然材料ですから手っ取り早い埃止めまもしれない、女房と畳は・・と言われたように匂いが独特でもあるし・・。
今でこそ霧吹きは安価な大衆品かもしれませんが、昔はそんなに安くはなかったでしょうし、江戸時代からの工芸品とも思えません。あるいは工芸品だったか・・・?確かに歯槽膿漏の匂いは適いませんが何度目からは弱まるでしょう。
ところで小学生のとき全く勉強のできなかった新宿某町の畳屋の息子が高層ビルのオーナーで羽振りがいいと聞く。足し算はできるようになったわけだ・・。こちらはヘンリーの法則やランキンの法則から逃れられないというのに・・。
とまあ、たまな投稿ですが、私見です。

Re: 畳屋

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2008/01/07 17:07 投稿番号: [1417 / 3149]
  畳屋さんの「プーッ」については機会があったら調べてみましょう。もし、この件で話が盛り上がり、あっちこっちから論客が来て、「やった」「やらない」の論争になったら、そこは私が≪言い出し兵衛≫ですから、頃合いをみて「もう、そんな水掛け論は止めようじゃないか」と畳み掛けてお仕舞いにします。
この正月から、漱石の「我輩は猫である」を読んでいます。これは若い頃に拾い読みをした覚えがあり、小学校の国語教科書にも載っていた記憶がありますが、こんどは猫が水甕に落ちて最後を迎えるまで読みきるつもりです。長編小説としてはストーリーが雑で、超短編をを寄せ集めたようなスタイルですが、英文学者であり、漢籍から落語まで通じていた作者の力作だけに予想外に面白く、たしかに一読の価値はあります。この作者、ダテに千円札の肖像になっているんじゃないんですねぇ。この話、これだけでは「トピずれ」になりますから、本の中頃に台湾の「生×」という言葉が一瞬だが出ていたことを付け加えておきます。明治時代は実に言葉の豊饒な時代で、それだけにこの小説も、今のNHKが絶対にオンエヤーしない単語が随分でてきます。

Re: 畳屋

投稿者: unhoo 投稿日時: 2008/01/06 16:23 投稿番号: [1416 / 3149]
>確かに、やかんの水を口に含み、満遍なく、霧吹いていました。<

うんと考えましたが、わしにはその光景が思い出せません。職人によって流儀が違うのかも知れませんね。

>手のひらに長い針を打ち抜くための
小座布団?みたいなものでガードしていました。<

これは思いだしました。

Re: 畳屋

投稿者: mrt952006 投稿日時: 2008/01/05 23:13 投稿番号: [1415 / 3149]
割り込みレスですが、お許しください。

>畳屋にはそんな作業はありません。>有りました。

私も見た記憶があります。
確かに、やかんの水を口に含み、満遍なく、霧吹いていました。
職人の手作りだと思いますが、手のひらに長い針を打ち抜くための
小座布団?みたいなものでガードしていました。
糸を締めるために肘でへりをしごいていました。

アイロンを掛ける時は、ポンプ式ではなく、口で吹く、霧吹き器がありました。

お邪魔しました。

Re: 畳屋

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2008/01/05 10:31 投稿番号: [1414 / 3149]
>しかるに日本人の洗濯屋は、ビール瓶の水をがぶりと口に吸い込んで、唾液もろともお客様の高価な…<

  そうでした、洗濯屋でした。いまの若い人には理解できない話ですが、昔から腕の立つ「お職人」には世間も一目置いていて、「あの親父に仕立ててもらった」と、その「プーッ」も親父の腕、技術として認め、「衛生」などは気にしてなかったのでしょう。そもそも町内からクリーニング店が消えて、もう40年以上経ちます。この正月でしたか、昨年の暮れでしたか、古株の歌手「さだまさし」と、大人気の若手漫才、「タカ・アンド・トシ」らが対談する番組がありました。テレビの草創期の話からニュース映画館の話など、若い芸人たちは「ニュース映画館」はその存在すら知らず、初めて聞く話に興味しんしんの様子でした。

洗濯屋

投稿者: unhoo 投稿日時: 2008/01/05 01:57 投稿番号: [1413 / 3149]
あるオヤジはお客様のスーツを2ダースアイロンがけしたから、口の中が清潔になって、晩ごはんがおいしくなりました。

Re: 畳屋

投稿者: unhoo 投稿日時: 2008/01/05 01:51 投稿番号: [1412 / 3149]
>水を口に含んで「プーッ」とやっていたのは畳屋さんでしたか、ちょっと記憶が曖昧ですが、<

畳屋にはそんな作業はありません。日本人の洗濯屋がアイロンをかけるときにやっていました。

台湾人の洗濯屋は昔は口で吹く霧吹き器で悠長に霧を吹いていたが、これはまだ我慢できます。すこし後に、殺虫剤を噴射する霧吹き器でシュー、シューとやるようになって、唾液が混じる心配がなくなりました。

しかるに日本人の洗濯屋は、ビール瓶の水をがぶりと口に吸い込んで、唾液もろともお客様の高価なスーツにパーッと吹き付けて、ホイホイとアイロンをかけて、ハイ一丁出来上がりと来る。

Re: 畳屋

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2008/01/03 17:10 投稿番号: [1411 / 3149]
  昔はどこの家でも畳屋さんが出張してきて、その家の前の道端で畳表を替えていました。「畳替え」というのは普通、畳表を替える言葉ではなかったかと思います。今は、軽トラックで運搬もできるし、道路なんかで仕事はできませんから、幹線の大通りでなければ自動車なんか走っていなかった戦後の一時期までの話です。大きな針で畳の縁(へり)を縫うとき、「キュッ、キュッ」と肘を立てて糸を張っていたのを覚えています。今は、「時運の赴くところ」で、店のなかでロボットみたいなミシンが自動で動いて縫い付けています。水を口に含んで「プーッ」とやっていたのは畳屋さんでしたか、ちょっと記憶が曖昧ですが、多分、そうだったのでしょう。あの畳表にも随分と等級があって、高級品になると価格が「アパート用」の何倍もします。以前、日本の九州かどこかのイグサ農家の組合が特級の新品種を開発して特許を取りました。これはもう、文句のつけられないほどの高級品だそうですが、まさかというか、やはりというか、すぐに同等の品が中国が入ってきました。畳表も中国から輸入しているとは知りませんでしたが、DNA検査でそれが特許品と完全に同じものと判り、輸入禁止の措置が取られたとのことです。そんなに古いニュースではありません、

Re: 畳屋

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2008/01/03 13:52 投稿番号: [1410 / 3149]
  投稿のボタンを押してから、入れ違いですでにunhoo先生から丁寧なご返事がありました。「民生西路」と「南京西路」が違っていたようですが、だいたいはそのあたりでした。こうしたお話はきわめて貴重です。

Re: ビックリ台湾!?

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2008/01/03 12:09 投稿番号: [1409 / 3149]
  詳しいご説明をありがとうございました。その畳屋さんがあった場所は、わたしのぼんやりした記憶では、中山北路方面から行くと、民生西路の踏み切りを渡らずに線路方向を左折した左側にあったような気がします。その線路の向こう側は自動車部品店が密集する赤峰街、その手前が双連街で、そこも思い出のあるところです。あのあたりは国賓大飯店も近く、日本人が「下町見物」と、目的もない観光気分で徘徊するところですから、畳屋さんなんかを見つけたら私のような「お調子者」が遠慮もなしに話しかけるのでしょう。当時のあの鉄道、レールは陽炎のように曲がりくねり、その耐用年数なんかもとっくに過ぎて「これ、大丈夫なのかな」と心配するほど摩滅していました。線路の上を列車が走るのはなんの不思議もないのですが、雨ざらしで汚れ放題のディーゼル機関車が、あの狭い鉄路に轟音をあげ、巨体を震わせながら迫ってくると恐怖感さえ覚えて、脇の路地に逃げ込みたくなります。昔の台湾の鉄道は何度か乗りましたが、スピードもないのに揺れがひどく、今になって台湾の人々は「鉄道とはこんなに快適なものであったか」と思っているのではないでしょうか

畳屋

投稿者: unhoo 投稿日時: 2008/01/03 11:30 投稿番号: [1408 / 3149]
畳屋のあった場所は、南京西路と旧淡水線とが直交する場所で、踏切りのそばでした。大家さん(?)の前鉄道部職員は、退職後ときどき畳屋の親父の仕事に手を出して、ついに畳表替えの技術をマスターしたのである。畳屋の仕事が忙しいときには、大家さん(?)が手伝っていたが、むろん手間賃を貰っていたにちがいない。

ところで、日本の畳職人は、ホイホイと掛声勇ましく、駆け足のテンポで仕事ををしていたので、少年時代のわしは仕事ぶりを見るのがすきでしたが、台湾化した畳職人は悠然と、そぞろ歩きのテンポで仕事してて、見てもおもしろくない。

今その場所には、捷運淡水線の中山站(中山駅)があります。その部分は地下鉄ですから、地上にはエスカレータや階段への出入り口、エレベータへの出入り口があるだけです。地下一階には両隣駅まで通ずる商店街があり、地下二階には捷運淡水線のホームがあり、地下三階は捷運松山線のホームがすでにできているそうですが、松山線はまだ工事中で、開通するのは6年後です。

Re: ビックリ台湾!?

投稿者: unhoo 投稿日時: 2008/01/03 02:13 投稿番号: [1407 / 3149]
謹賀新年

>中山北路の西側に鉄道があって、その線路沿いに畳屋さんがあった。<

これは、これは、わしが詳しいレスを書くことのできる投稿ですよ。

その鉄道は淡水線と言い、狭軌単線で、台北駅から淡水駅まで28kmぐらい、地面と同じ高さの線路だから、全線に踏切がたくさんあった。慢行列車および貨物列車がしょっちゅう通行し、踏み切りの500mのかなたから、けたたましい警笛を鳴らすので、沿線の住民にとっては迷惑千番だったが、蒋政権時代のことだから、抗議する住民はいなかった。金門島へ送る大砲や戦車を運ぶ貨物列車も時々通過した。

その線路は1900年という覚えやすい年に開通し、蒋経国が死んだ年1988年に廃線となった。廃線の理由は「捷運淡水線」を建設するため。廃線にしてから十年ぐらいもかかって、やっと捷運淡水線が完成開通となった。標準軌で全線複線、台北市の中心部を走る部分は地下鉄、それから先は高架線、市外は地面線、台北駅から淡水駅まで27分で走る。旧淡水線では1時間もかかったものです。捷運淡水線の乗心持は、東京の山の手線、中央線、各地下鉄線などよりもよろしい。

さて、問題の畳屋ですが、旧淡水線は線路の両側約10mずつが鉄道付属地であって、本来はコンクリートの柵で立ち入りを禁止してあった。そこを図図しくも、一人の本省人の鉄道部職員が、柵を取り払って、違法建築を建てて、住家にした。その当時は中国人の難民が勝手に空き地を占領して住家にして、それを蒋政権がほったらかしていた時代だから、鉄道部の職員の不法行為も、とがめられずにすんだ。

鉄道部の職員は、線路に沿ってどんどん建て増して行き、人に貸して家賃を取ったり、自分の家族に雑貨屋をやらせたりし、定年で退職すると、自分が雑貨屋の主人におさまった。畳屋は借家人の一人です。

わしは当時その近くをよく通ったので、様子を知っているのです。あるときも、そこを通ったら、一人の日本人がしきりに畳屋の親父に話しかけていたが、親父はうるさそうに、ろくに返事もしなかった。その日本人はきっとカチートさんにちがいない。

捷運淡水線を建設するために、政府は何年も前からそんな不法占有者どもに、立退き料を払ったのだが、占有者(「大家さん」および「テナント」)どもはお金だけ貰っておいて、いつまでも立ち退かない。とうとう政府が家をとり壊す機械(パワーシャベルというのかな)を出動させた。占有者どもは、あわてふためいて、家財道具、商売道具、商品、隠し飼っていた豚やにわとりをそばの道路に投げ出し、運送店を呼んで、運び去った。すかさずパワーシャベルが家を全部つぶした。その家は、バラックとは言えない瓦葺の木造建築であったのです。

福袋

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2008/01/02 23:55 投稿番号: [1406 / 3149]
今夜のニュースはどの局でもデパートの「福袋」をとりあげている。都心のデパートなら取材は楽でいいと思うが、放送局の報道部というところは、年中行事のようなものは「取材カレンダー」があって、毎年おなじところへ行ってカメラを回しているのだろう。そのニュースによると、デパートの福袋は、付けられている値段の三倍、四倍の価格の商品が入っていて、何万もするものを幾つも買っていくオバサンも多い。数年前のこの時期、台湾の友達とデパートに同行したことがある。ガイドというほどのものではない。正月だからどこにも福袋が置いてある。値段が書いてるから、説明を受けなくとも、それがどういうものかはすぐ察しがつくだろう。「日本人というのはなんというバカだろう。なにが入っているか判らない紙袋をよく買う気になれるものだ」という表情がありありと顔に出ていた。文化と習慣の違いだけはどうにもならない。しかし、昨年の訪台のとき、べつに旧正月ではなかったが、台中で福袋のようなものを見た気がする。

Re: ビックリ台湾!?

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2008/01/01 23:41 投稿番号: [1405 / 3149]
   新年快楽   謹賀新年

  なんだか、昔話ばかりで気が引けるが、中山北路の西側に鉄道があって、その線路沿いに畳屋さんがあった。畳屋さんは台北駅の近くにもあったような気がする。ひとりで仕事中だったオヤジさんに思い切って話しかけたが、そこは老職人の常で愛想はよくなかった。昔の日本人の畳屋に奉公して叩き上げられたのは間違いない。しかし、日本人が引き上げた戦後の窮乏の時代、畳職人に仕事があったのだろうか。その近くには襖や障子の建具屋があって、障子の桟がいくつも立て掛けてあった。「この桟、もう少し細くできないか」と思ったが、大きなお世話だろう。これは前にも書いたが、台湾の高級なマンションにはよく和室が付いている。だが、「これが和室かい」と思うほど違和感があって、あくまでも「台湾風日本間」である。もっとも、日本の家だってわが家も含めて大抵は新建材の安普請で、「洋間」などと言ってもプラスチックみたいな床材を敷き、ベニヤの壁と天井に壁紙を貼って「一丁上がり」だよね。憎まれ口のついでにまだ書きたいが眠いからやめた。

Re: ビックリ台湾!?

投稿者: yuwfui 投稿日時: 2007/12/31 22:56 投稿番号: [1404 / 3149]
東京カチート様
私がびっくりしたのは、台中の柳川街?のスナックで呑んでいたら
3人位でカラオケ!!綺麗な日本語で歌も上手いので、ついつい
話しかけたらキョトン!!   日本語は全く分らない台湾人でした。

Re: ビックリ台湾!?

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2007/12/31 22:16 投稿番号: [1403 / 3149]
  人生にはどう考えても不思議なこと、ゾッとするほどの偶然の一致を体験することがある。わたしのハンドルネームは歌手、フランク永井のデビューの頃の歌詞の題名から採っている。もちろん、この歌は好きなのだが、節回しが難しくてカラオケではどうしても上手く歌えない。もう、二十年ちかくも前か、この歌を口ずさみながら台中の駅前の歩道を歩いていた。駅前だからホテルだの店だのが並んでいる。そのとき、なんだか、事務所のような、しもた屋のような家だったが、そこの前を通りかかったとき、あろうことか、あるまいことか、いま自分で口にしているフランク永井の「東京カチート」がかなりのボリュームで聞こえてきたのである。鳥肌が立ち、体が棒立ちになった。発表されて20年以上も経つ、さほどポピュラーでもない日本の歌謡曲が台湾の町角で聞こえたというだけなら別に不思議ではないが、その歌を口ずさんで通りかかったという偶然とその確率はどうだろうか。あの事故から随分経つが、フランク永井さんはどうしているだろうか。



東京カチート・カチート・カチート
一、 赤い灯がつく 赤坂タウン
甘くながれる 夜の色
恋にゃ泣いたがカチートよ
カクテル・グラスにからませた
あの娘の白い指 白い指
好きになっては いけないかい
僕の可愛い 相棒よ
東京カチート・カチート・カチート

二、 霧に濡れてる 赤坂タウン
ミッド・ナイトの カーニバル
もしも あの娘がカチートよ
この僕 愛してくれるなら
踊って離さない 離さない
好きになっては いけないかい
僕の可愛い 相棒よ
東京カチート・カチート・カチート
いいよ いいんだカチートよ
あの娘が この僕夢にでも
みたらと思うのさ 思うのさ
好きになっては いけないかい
僕の可愛い 相棒よ
東京カチート・カチート・カチート

Re: ビックリ台湾!?

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2007/12/30 15:44 投稿番号: [1402 / 3149]
  いまはどうなのか知らないが、南京東路と林森北路の交差点にやたらに大きなマクドナルドがあって、若者で満員のその店には私も一度這入ったことがある。一時期、そこの売り上げはマクドナルド全店で世界一だったという。いまは上海の店がその地位を奪っているかもしれない。私もさんざん食ったから、「あんなものが…」というのは気が引けるが、台湾や中国のように「食」にうるさい国で、あのお粗末な食品がよく売れるものだと感心する。ここでわたしが書きたいのは、ハンバーガーではない。そんなものはどうでもいい。店には大勢の女子学生がいて中年の男には場違いだったが、台湾の女子学生はどこのテーブルでも、紙にボールペンで何かを書きながら話をしている。これは日本の女子高生あたりにはない習慣だ。話したいことを文字にして互いに確認しあっているという感じである。そのメモが床に落ちていたか、テーブルに残っていたか、手にしたときに驚いた。あまりに見事な崩し字で、他のテーブルをチラッと覗いても皆が皆、じつに達者な字を書いている。本場の「文字の国」だから当然といえば当然なのだが、日本の女子高生の(例外はあるが)お粗末で汚い字を知っているから、実に情けなくてもう慄然とする思いだった。悲しいことだが、日本は年々沈んでいる。二十年ほど前をピークにして当時は世界第2位だった一人あたりGDPが今では17位だという。国民の老齢化と天文学的な数字で破綻しつつある国家、地方財政。官僚の底知れない無能、無責任体制、うなぎのぼりの犯罪増加等々、はっきり言って当面はもう回復の見込みはない。

Re: 漫画

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2007/12/30 11:56 投稿番号: [1401 / 3149]
>手塚治虫は線が下手で日本の漫画の水準を下げたと思っています。・・が、今や偶像化されて悪口も言えない・・。

  実は、わたしも昔から手塚治虫の無機質なギシギシした感覚のマンガが嫌いで、どうしても拒否反応をおこします。彼が、伝説の「常盤荘」で多くの漫画家を育てたのは事実で、生前から日本のマンガ界の「元老」的存在でした。いまでは無条件に美化され、神格化されて、悪口でも言おうものなら「非国民」扱いです(笑)。おなじ考えの人がいてホッとしました。

Re: せどやかぜ

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2007/12/30 11:33 投稿番号: [1400 / 3149]
先生のご指摘通り、またわたしの記憶違いでした。しかし、「背戸」と言う言葉はありました。それにしてもインターネットとは重宝なもので、この童謡の歌詞を知ろうと思ったら図書館に出かけ、あるいは、古本屋を回らなければなりませんが、ちょいと文字を入れたらズラリと出てます。


  唄を忘れた金糸雀(かなりや)は
  後の山に棄てましょか   いえいえそれはなりませぬ

  唄を忘れた金糸雀は
  背戸の小藪に埋けましょか   いえいえそれはなりませぬ

  唄を忘れた金糸雀は
  柳の鞭でぶちましょか   いえいえそれはかわいそう

  唄を忘れた金糸雀は
  象牙の舟に銀の櫂   月夜の海に浮かべれば   忘れた唄をおもいだす

Re: 漫画

投稿者: katoytw 投稿日時: 2007/12/30 11:24 投稿番号: [1399 / 3149]
おもしろい話で。

>中国人の漫画家は、戦前も戦後もみなへたくそでお話にならない。

1960年代日本で成人向け漫画雑誌の走りに「ガロ」というのがありましたが、一時期カムイ伝なんかとは別に?台湾あるいは香港漫画家だったか、大変見事な線を描く漫画が連載されたときがありました。恐らく筆の線だったと思います。当時は中国人漫画家と私は思っていました。マレーシアにも国民的漫画家がいますが総じて線が美しく、手塚治虫は線が下手で日本の漫画の水準を下げたと思っています。・・が、今や偶像化されて悪口も言えない・・。

>その当時小学校の5年生、6年生だった子どもは、今では60歳近い年である。今どき60歳前後のおっさん、おばさんは、本省人であろうと、外省人であろうと、みな手塚治虫原作(?)の漫画によって、孫悟空の物語を始めて読んだのである。

殆どが鉄腕アトムで育っているのでしょう・・。孫悟空は日本ではマイナーの雑誌(小学生雑誌?)に連載されたのではなかったかと・・。一方アトムのときのアシスタント?だった竹内つなよしの赤胴鈴のすけが随分と子供に浸透しました・。おかげで今やオッサンたちの形式的正義感は強くなったかも・・・。そして・・直角一本勝負、だったかな?という漫画でさらに刺激されて・・しかし本郷学生運動で流行った明日のジョーが、その後の日本人を変えたような気がします・・。台湾では流行らなかったかも・・・原作者梶原一騎の娘が台湾で惨殺されたのはそんな内容に縁があるとは思いませんが・・。
ところで、日本でJRに乗るたびに、漫画雑誌に熱中するオッサンが増えている気がします。覗くとその漫画があまりうまくない・・。これを日本のオワリ・・と見る論もあるらしい・・。昔学生運動には興味を持たなかった超エリートの大蔵官僚が夜遅くに電車の中でエロ雑誌に夢中だったのを見かけましたが、しゃぶしゃぶ事件で名前が出ていたのを思い出すとどっちもどっち・・。今はもっとひどいし・・。

Re: せどやかぜ

投稿者: taiwanboom 投稿日時: 2007/12/30 11:13 投稿番号: [1398 / 3149]
cachito様

「背戸」は大分では裏口のことで「せど」といます。
裏口の狭い路地を空くか風を「せどやかぜ」といいます。
童謡のことですが、私の記憶では「ウシロのお山に…」なんですが…。
「ウーラのお山…」だったかも…。

Re: 林田刃物店

投稿者: unhoo 投稿日時: 2007/12/29 23:40 投稿番号: [1397 / 3149]
台北の名物に士林刀というナイフがあります。日本時代から作られていて、一時は非常に売れました。その元祖だと主張する店が、士林にすくなくとも2軒あります。今でも日本人に売れているそうですから、日本人には愛想良く対応していると思います。tokyo_cachitoさんは、もしかしたら、士林刀の店と、林田桶店とが記憶の中でミックスしたのではないでしょうか。下記のサイトに士林刀の写真があります。握りの黒い部分は水牛の角です。刃渡り5cmぐらいから、15cmぐらいのものがありますが、形や構造はみな同じです。

http://www33.ocn.ne.jp/~kogensya/burasi.html

↓化け字による失敗投稿

投稿者: unhoo 投稿日時: 2007/12/29 23:23 投稿番号: [1396 / 3149]
メッセージ1934は、化け字発生に気がついて、全文消そうとしたら、間違って[投稿]のボタンを押してしまったものです。無視してください。訂正した投稿は、メッセージ1935です。

鳳梨の台湾語読みがオンライ

投稿者: unhoo 投稿日時: 2007/12/29 23:09 投稿番号: [1395 / 3149]
戦前の在台日本人は、パイナップルという英語よりは、オンライという台湾語を使いたがりました。またバナナよりはキンチョーという台湾語を使いたがりました。キンは草かんむりに弓、チョーは蕉です。

以前台湾カテのどこかのトピに、「戦前台湾に住んでいた母が、今でもまだ果物屋へ行って、そのキンチョーをくださいと言って、へんな顔をされる」とありました。

文旦は日本語も台湾語も「ぶんたん」、ザボンの一種で、簡単に言えばザボンのうちの果実の小型な品種です。

仝・蝉々の岬羅廈・みが仝オンライ々

投稿者: unhoo 投稿日時: 2007/12/29 22:44 投稿番号: [1394 / 3149]
戦前の

Re: 林田刃物店

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2007/12/29 22:21 投稿番号: [1393 / 3149]
  「蜜柑」といのは、そのあたりのイカレタ女子高生でも読めると思うが、文旦といのは何だろうか。鳳梨(おんらい)はパイナップルだと知っているが、こういう読み方を初めて知った。むろん国語辞典にもない。今、実家にいるので、自宅に帰ったら調べてみたい。スーパーの店員に「おんらいの缶詰ありますか」と聞いてすぐに判ったら丁寧にお辞儀をしてやりたいが、まず無理だろう。さて、「背戸」である。聞き覚えはある。「セト」と打ち込んでも出てこないから、ためしに「セド」で打ったら一発で出てきた。辞書には、家の「裏門」「裏口」とあったが、普段はまず使わない言葉だ。どこで聞いたか、必死になって思い出そうとしたら、思い当たった。童謡の「唄を忘れたカナリヤは、背戸のお山に捨てましょか…」である。よく、こんなことを覚えていると我ながら感心した。この童謡はいまでも耳にするから廃れてはいないのだが、こどもから「セドのお山ってなぁに?」と聞かれても幼稚園の保母さんはグッと詰まってしまうだろう。まぁ、漢字にカナがふってれば、ちょっとカンのいい人なら「後ろの山」だと答えられるかも知れない。

Re: 林田刃物店

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2007/12/29 20:58 投稿番号: [1392 / 3149]
  unhoo先生

  ご指摘ありがとうございました。記憶がどこかで入れ違ったものと思います。以前、台湾の旅行ガイドブックを何冊も買いましたが、そのあたりの記事と「ごっちゃ」になったのかもしれません。まず、刃物と桶では大変な違いですが、わたしがいくら「わからんじん」でも、unhoo先生を相手にまさか、「いや、桶屋じゃない。刃物屋だ」と強情を張るわけにはいきません。それにしても人間の記憶とはいい加減なもので、自分ではハッキリ覚えていたつもりでも、事実は大違いなんてことがあるものですね。例えば、昔見た映画の一シーンが強く印象に残っていて、それを何十年も経ってからテレビやビデオで見たとき、記憶していたものと随分違っていて驚くことがあります。そういえば、昔はあったけれども、いつの間にか消えてなくなった商売はいくらでもありますね。「桶屋」さんなどはもうどこにもないんじゃないかと思いますが、伝承された技術はいったん中断されると、もう復活しないようで、これも私の頼りない記憶ですが、どういう品物か、江戸時代の建具かなにかの木工品で、いまの職人さんが「どう作ったのかわからない」とテレビで言っていたのを思い出しました。

Re: 林田刃物店

投稿者: unhoo 投稿日時: 2007/12/29 19:51 投稿番号: [1391 / 3149]
林田刃物店でなく、林田桶店です。今でも同じ場所にあります。初代、二代、三代と同じ職を守っています。弟子を取ろうとしたが、みな根気が続かなくて辞めてしまったとか。ヒノキの桶を手作りで造っています。日本からも台湾内からも、いろいろな形、サイズの桶の注文があるし、今の台湾内で日本式の風呂桶を注文する人があるそうです。

初代は、日本時代にさかんに歌われた「台湾神社のお祭日」の歌を、消失の危機から救うという文化上の功績をたてました。わしはこの歌の一番だけ覚えていたが、二番、三番がどうしても思い出せいでいたところを、三年ほど前、下記のリンクで見つけて、飛び上がって喜んだものです。さっそく一歳年上の姉に知らせたところ、姉も大喜びでした。姉は惜しいことに2年前に亡くなりました。

http://my.so-net.net.tw/katakura/nihon/uta/omatsuri.html

林田刃物店

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2007/12/29 00:00 投稿番号: [1390 / 3149]
  以前、いや、今でもあることを願うが、中山北路の一等地に「林田刃物店」という小さな店があった。商売モノの包丁などが並んでいるほかはとくに変わったこともない。「林田というのは日本ふうな名前だな」という印象が残って記憶から消えなかった。ところが、ある日、日本のテレビの番組にこの店のオヤジさんが出てきたのでびっくりした。気のいい愉快な人で、日本の若者を食事に連れて行って、ちょっと台湾なまりのある日本語を使っていた。戦後(光復後)、警察からその日本式の名前を削れと散々に言われ(脅され)たが頑として聞き入れなかったとその時に知った。戒厳令下の台湾の警察は恐かったろうにと思うが、「そんなものは屁の河童」と、ものを恐れない人もいたものである。

嘘ばっかり

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2007/12/28 19:48 投稿番号: [1389 / 3149]
  のっけから偉そうなことを言うが、物事を学ぶものは、自分のシェーマに合ったものだけを選んで読み、あるいは見て、そうでないものは無条件で排斥するようなことがあってはならない。「あってはならない」とは、自分のことを言っているので見逃していただきたいが、それをやると「セクト」になってしまう。もう宗教の世界に踏み込んだようなものだ。本でも映像でもいったんは疑ってみる。品物もそうだ。この世はそれらしい偽物が大量に溢れ、出回っている。日本のテレビに「開運・なんでも鑑定団」という長寿番組があって台湾でも人気だという。それをマネた台湾の番組も現れては消えたそうだが、やはり企画力の違いだろうか、ただ品物に値段をつけるだけでは面白いはずはない。その「鑑定団」で、むかし、「土偶」を畑の地下から「発見」して、自己評価額、8000万と付けた若い男がいた。あの宇宙人みたいな顔の有名な土偶は中学の教科書には必ず載っていて、国宝に指定されている。それがまた出てきたのである。縄文、弥生時代にもゆっくりと時代が流れていて、当時の品物もそれぞれの時代的特徴があるのだが、その土偶、各年代の特徴が混じっていて、一発で偽モノと見破られてしまった。その男、いくつもの写真や博物館の展示品を見て自分で作ったにちがいない。このまえは戦国時代の武将の手紙を持ってきたオバサンが「歴史が変わります」などと騒いで得意になっていたが、これも偽物で、しょげながら帰っていったのが面白かった。わかったか、知ったかぶりババァめ。最近は戦時中の記録映画の企画がほとんどなくなったが、テレビでも堂々とニセの映像を流すことがある。もう、何年前だか忘れたが、1944年7月のヒトラー暗殺未遂事件のフィルムを発見したとして、特別番組として放映した局があった。爆発後に親衛隊に抱きかかえられて出てくるヒトラーがはっきり写っている。だが、これは当時のナチス親衛隊による再現フィルムであり、もちろん、ちょび髭のヒトラーも「そっくり」さんである。なぜ、戦争もたけなわの忙しいときに映画館で公開するわけでもない映画を作ったのか不思議な気もするが、わたしはすでにこのフィルムの存在を知っていたので「あとで騒ぎにならないか」と思って注目していた。が、なんの反響もなかった。これもかなり前だが、山下奉文大将がフィリピンで米軍に投降し、バギオの虐殺事件を命令したとして現地で裁判にかけられた。結局は勝者の裁判で、山下大将は絞首台の露と消えるのだが、なんと日本の大新聞がこの裁判のフィルムを発見したと特ダネ扱いで報道したことがある。ところが、そんなものは記録映画として日本の映画館でとっくに公開されて、わたしも見ている。あまりのデタラメぶりに新聞社に電話をしたのだが「ああ、そうですか」でおしまいだった。日本のマスコミもこの程度である。

地下足袋

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2007/12/28 17:41 投稿番号: [1388 / 3149]
>日本の漫画を見ると、作者の絵画の基礎が並大抵でないと思うのが多い。

先生からこう言われると嬉しいですね。また、日本の大学に「漫画科」がないと思われるのは御年配の常識人として当然ではありますが、すでに日本の大学はごく一部を除いてすっかりレジャー施設になっていますから、なんと、最近になってこれが出来たんですよね。
日本には「ヘタウマ」という言葉があって、一見すると手抜きもいいかげんにしろと思うような下手な漫画だが、実はそうではない、他にはマネもできないほどの筆力の漫画家がいます。どこの小中学校にも上手いマンガを描く子供がいて、それが高校生くらいになると仲間をつくったりするので、日本のマンガの裾野は広く、厚いのです。台湾の街角で「どらえもん」を読んでいたいた子供たちを見かけたことがあります。これは中国でも大人気というのですが、ギャグ漫画には目がないわたしも、あの頭に竹トンボをつけて空を飛ぶというやつが嫌いで、あの作者は評価していません。もっとも、大のおとなが「ドラえもん」を読んでいたら周囲から白い眼で見られますよね。unhoo先生は多分、「谷岡ヤスジ」という漫画家はご存知ではないと思います。すでに亡くなりましたが、彼の筆致はその晩年になるほど枯れに枯れて、ここまでやるかと思うほど極限までデフォルメされましたが、虫眼鏡で見ると、遠くで鍬を振るっている人物(タゴ)も地下足袋から腰の手拭までまったく手抜きがないという驚きがあります。
話は変わります。その地下足袋で思い出しました。もう、十数年前、台湾の九族文化村に行ったことがあります。実物展示の家屋などは、中にはいると予想外に繊細な造りでした。その近くで高砂族の年配の男性が、これも実演ということでしょうが、なにか作業をしており、よく見ると「地下足袋」を履いていたのです。万感胸に迫るというと大袈裟ですが、「ははぁ、ここは昔、やっぱり日本の領土だったんだな」と思わずにはいられませんでした。生ゴムと木綿で作られた地下足袋は現場で働くものにしかわからない良さがあり、時代が変わってもやはり良いものは捨てられないということでしょうか。
戦時中のフィルムだか写真だかに地下足袋にゲートルの日本兵が写っているのを見て「いくらなんでも兵隊が地下足袋かよ」と驚いたことがあります。しかし、写真は手を加えない限り嘘をつくはずはありません。
また、話が飛びます。こんどはそのゲートルです。
十年ほど前、フリーマーケットでほとんど未使用の戦中、戦前のゲートルを入手しました。まだ大切に保管してありますが、当時、これを、ご懇意をいただき、教えをいただいていた御年配に見せ、「これはなんのために足に巻くのですか」と質問したことがあります。そのかたは奈良県の特攻基地で一式陸攻に吊るしたロケット機「桜花」の搭乗員として辛くも終戦を迎えた人で、足に巻く理由や巻き方まで丁寧に教えていただきました。斜めに竹を編むように巻き、その紐の結び方もキチンとした決まりがあって、軍隊では何秒以内に巻かなければ容赦なく鉄拳が飛んだというから凄い時代です。モノを知らない人はたとえそれが足に巻くものだと知っても「何のために、どのように巻くのか」は知りようもありません。ただ、下からグルグル巻いて膝の下あたりで紐で結ぶというのではないんですね。そんな巻き方ではすぐにズリ落ちてしまうというのです。ところが…、わたしは半分は趣味のように日本、中国の近現代史を勉強していて、記録フィルムなども相当数、ビデオで保管していますが、そのなかに変な日本兵が出てくるのです。中国人を引きずって穴に突き落とし、上からスコップで土を掛けるかなり有名なフィルムがあるのですが、その何人もの日本兵のアップで写っているゲートルがどう見てもただのグルグル巻きなのです。さらには穴に落とされた女性が、孫文の「三民主義」を両手に持ち、その表紙を見せているシーンがあります。あれはなんどみても「やらせ」であり、蒋介石の政府が捏造したプロパガンダフィルムだと断言します。わたしはわが国の右翼陣営には絶対に加担する者ではありませんし、南京での虐殺も殺害された人の数字はともかく、当時の戦闘詳報、陣中日記、欧米人の証言等、様々な資料から完全な事実と認識していますが、奇怪なことに当時の中国ではそれらを「再現」した証拠フィルムや写真を製作して世界にバラ撒いてもいるのです。特に写真はいくらでも変造、修正が可能で、これも相当数が出回っており、こうしたものが日本の右翼ジャーナリズムに取り上げられて「虐殺はなかった」だの、「反日左翼だ、自虐史観だ」などと逆宣伝の材料にされている事実があります。戦後(解放後)の中国でも大躍進時代から「演出された」宣伝写真が随分あって惑わされます。話が長すぎました。

Re: 漫画

投稿者: unhoo 投稿日時: 2007/12/28 13:46 投稿番号: [1387 / 3149]
日本の漫画家は、どのように勉強して漫画家になれたのか知らないが、美術学校に漫画科があるとは聞かないから、多分独学で成功したのであろう。美術学校で絵画を習って、卒業後独学で自分の漫画を創作した人が多いのではあるまいか。日本の漫画を見ると、作者の絵画の基礎が並大抵でないと思うのが多い。

中国人の漫画家は、戦前も戦後もみなへたくそでお話にならない。

1960年ごろ、台湾で子ども向けの読み物雑誌を発行していた出版社があった。雑誌の名も出版社の名も忘れたが、雑誌の内容は、戦前の日本の「少年倶楽部」「少女倶楽部」からの翻訳物が多かったようだ。初めはあまり売れなかったが、そのうちに孫悟空物語の漫画を連載しはじめたら、たちまち台湾の子どもたちを引きつけて、大いに売れた。その孫悟空の漫画は、画風や故事の展開のしかたから見て、どうも戦後の日本の雑誌からのパクリと思われた。原作者は手塚治虫ではあるまいかと、当時わしは推定していた。

台湾中の子どもが、その孫悟空が読みたいために、毎月新刊を待ち焦がれた。孫悟空の漫画を何回も何回も繰り返して読み、ついでにそれまでは見向きもしなかった子ども向けの読み物も熱心に読んだ。その様子は当時の外省人の親たちを驚かせた。当時の新聞に出ていた記事では;

新刊が出ると、子どもたちは「廃寝忘食」で、雑誌にかじりつく。もう遅いから寝なさいと命令して本を取り上げると泣き出す。我々が大陸に住んでいた時期に、子どもがこんなに本に夢中になってなっているのは、見たことも聞いたこともない・・・・。

その当時小学校の5年生、6年生だった子どもは、今では60歳近い年である。今どき60歳前後のおっさん、おばさんは、本省人であろうと、外省人であろうと、みな手塚治虫原作(?)の漫画によって、孫悟空の物語を始めて読んだのである。

孫悟空の連載漫画は2年ほど続いた後に、原作が終結してしまった。孫悟空がなくては、雑誌が売れないから、台湾の画家に続編を書かせたたが、絵に魅力がなく、物語の展開の仕方がへただった。その上、孫悟空物語のうちの子どもにもおもしろい部分は、大方出尽くしてしまった。その雑誌は間もなく廃刊になった。

手塚治虫の作品には、たしかに孫悟空がある。わしは、漫画本を貸す店で、開いてみたことがあるが、どうも台湾の雑誌に出ていたものとはちがうような気がした。

漫画

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2007/12/26 12:29 投稿番号: [1386 / 3149]
  昔、台湾の喫茶店だか軽食堂だかに「老夫子」という漫画があって手に取ってみた。香港のマンガだが、あまりにも有名で中国語を話す人なら誰でも知っているという。「これは面白い」と、台湾や香港に行くたびにシリーズを何冊かづつ買ってきたからもう何十冊もある。あるが、たいして読みもしない大量の本に紛れ込み、一、二冊を除いてどこに隠れているかわからない。中国のマンガは描き方が生真面目で、日本の四コマ漫画やナンセンス漫画と違ってほとんどディフォルメしない。背景までキチンと描いて手抜きをしないから「漫画」というより「劇画」のような作品が多い。この「老夫子」も人物の表現と細密さは「お見事」の一言で、これに比べたら、わたしの好きな谷岡ヤスジの爛熟期の漫画などは子供のイタズラ描きだ。ただ、この「老夫子」、筋の展開に冗長さがあって日本なら四コマで済むところを、その二倍、三倍のコマを費やしている。わが国の文化のどこにそのルーツがあり、どういう方面から発展したのかは知らないが、喜ばしいことに日本のアニメは世界を席巻している。ただ、わたしの好きなナンセンス漫画は「天才」谷岡ヤスジの死と赤塚不二夫の長い病床生活でもうどこにも見当たらない。

Re: グーグル・アース

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2007/12/25 20:14 投稿番号: [1385 / 3149]
  なぜ、高速道路沿いを「遊覧飛行」したのか、実はちょっと理由がある。台北から台中までバスで南下すると、半分あたりを過ぎたあたりか、大きな山が左手に迫って見え、道路はその脇をすり抜けるように走っていて、バスのフロントガラスからあの山を目前にすると、「ああ、またここに来たな」と、いつも印象に残っていた。で、その山を探そうと思った。「これがそうかな」というところが何箇所もあって判然としない。台中までは二時間ほどだが、大きい岩がゴロゴロとある川を何本か渡る。もちろん、これはグーグルアースではっきり判るが、日本にはあれほど広々として野趣に満ちた河原はない。

グーグル・アース

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2007/12/25 16:37 投稿番号: [1384 / 3149]
  どういうわけでタダで公開しているのか知らないが、「グーグル・アース」とは面白くて便利なものだ。左右を調節しながら台湾の高速道路をゆっくりと南下して台北から台中まで「遊覧飛行」をしてみた。これはバーチャル(架空体験)には違いないが、かなりの臨場感もあってなんとも不思議な気分である。タダで見せてもらって「もうすこし、鮮明にならないか」というのは身勝手な言い分だろうが、ただ、なぜか、ヨーロッパやアメリカの一部の地域は他所とちがって、びっくりするほどの解像力があり、よく見ると人の姿かたちまでわかる。はっきり言い切ってしまえば、これはグーグル社の欧米優先のなせる技だろう。どこの国だって「撮影禁止」の場所があると思うのだが、飛行場の軍用機まで写っていて機種まで判定がつくが構わないのだろうか、数センチのものまで判別できるという軍事衛星の発達もあり、空から見えるものは隠しようがないということなのか

Re: 林森公園

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2007/12/22 00:05 投稿番号: [1382 / 3149]
  お話は大変勉強になりました。先生の「証言」は、台湾戦後(光復)史の一部を知るナマの声として貴重なものであります。近頃は桃園空港から台中に直行するので台北はほとんどご無沙汰です。南京東路も名称こそ違え、てっきり戦前からあったものとばかり思っていましたがそうではなかったのですか。商業地とは変遷するもので、以前、台中も駅付近だけが繁華街で、五権路を過ぎると急に寂しくなりましたが、現在はむしろ逆で高速道路に近づくほど賑やかになっています。来年は新装なった故宮の見学のため、せめて一日、二日は台北に逗留したいと思います。十年ほど前から「書」に興味があるので、昔は素通りだった「書」の一角はしっかり見てみたいです。しかし、航空券だけで行くと台北のホテルは高いですね。どうみても中級かそれ以下にしかみえないのに平気で「五千元だけ」なんて言って料金表を指差したりします。帰ろうとすると「二日泊まれば半額ね」とか「日本円なら一万円でいいですよ」などとわけのわからないことを言われたこともずいぶんあります。あたりまえだといわれそうですが、台湾と日本では商売のやりかたが随分ちがいます。今は知りませんが、十年ちかく前、香港などは日本人に対するあまりのえげつなさがマスコミの話題になって観光客が激減したことがありました。

Re: 林森公園

投稿者: unhoo 投稿日時: 2007/12/21 22:04 投稿番号: [1381 / 3149]
林森公園になる前の墓地に侵入して居住場所にした中国難民は、当初はテントや板切れ、トタン板で雨露をしのいでいたのであろうが、30年、40年とたつと、そこはかなり景気のよい商業区になっていました。おしゃれな婦人靴を売る店がずらりとならんでいたのを記憶しています。

その墓地が商業地区になった原因は、今から四十數年前に、幅40mの南京東路が建設されたからです。それ以前は「通り道」としか言えない程度の通路があっただけです。阿扁が追い出したときの公園予定地不法占拠民は、当初のあわれな難民ではなく、小金持ちの商人たちでした。最初の難民がそのまま居続けていた例はすくなかったであろう。土地の不法占拠権が、転々と転売されたのが多いのであろうと思います。

Re: 林森公園

投稿者: tokyo_cachito3 投稿日時: 2007/12/21 14:10 投稿番号: [1380 / 3149]
unhoo先生
お教えをいただきました。

> そこを陳水扁市長が、断固として公園建設を完遂した。陳水扁市長の偉功の一つであるが、そこに住んで商店や市場まで開いていた外省人の深刻な恨みを買った。

こうした市政を「偉功」というか、「暴政」というかは意見が分かれるところかと思います。ただ、わたしは台湾の国外の者ですから意見を言える立場にはありません。先生も訪日のおり、新宿駅の通路で一群のダンボール・ハウスを見かけたようですが、さすがにあれは撤去されました。外省人による林森公園の不法占拠もそれと同一線上にありますが、規模、歴史的背景、諸般の事情等々を考えると、必ずしも質的に同一とはいえないようです。その時の立ち退きと接収の現場の様子はどのようなものだったでしょうか。釈迦に説法にならぬよう注意しなければなりませんが、政治は人民の生活こそがすべてであります。北京でもオリンピックのために半強制的立ち退きを強行していると聞きますが、「邪魔だからどけ」「不法占拠は許さん」と、警察権力を行使するばかりではただの「支配」になつてしまいます。わたしが(恐らくは先生の大嫌いな)毛沢東の著作を読んでいることはすでにご存知だと思いますが、この話に関連する彼の談話を思い出し、記憶をたよりに検索した結果、探しだすことができました。ただ、「共匪の話なんか身震いがする。とんでもないことだ」とお思いでしたら以下は眼を通す必要はありません。


  「数年前、河南省のあるところに飛行場をつくることになったが、事前に農民への配慮がゆきとどかず、よく説明もしないで、むりやりかれらを引っ越させようとした。そこの村の農民たちは、長い棒で木の上のスズメの巣をつつき落とせば、スズメだってすこしは文句をいうさ、と言った。訒小平、きみにも巣があって、わたしがそれをめちゃくちゃにしたら、きみはなにも文句を言わないかね?   そこでだ、ここの大衆は三段がまえのピケット・ラインを敷いた。第一段は子供たち、第二段は婦人たち、第三段は青壮年男子のピケット・ラインだ。そこへ測量にいった人たちは、みな追い返されて、結局、農民が勝利した。そのご、農民に十分に説明をし、ゆきとどいた配慮をしたら、農民はやはり引っ越し、飛行場はちゃんとできあがったのである。こうしたことは少なくない。いま、天下をとったので枕を高くして寝られる、横暴のかぎりをつくせる、とでも思っているような人たちがいる。大衆がこうした人に反対し、石をぶつけ、鍬をふりあげるのを、わたしは当然のことだとおもうし、これを大歓迎する。それに、腕ずくに訴えてはじめて問題が解決されるばあいもあるのだ。共産党は教訓を汲みとらなければならない。学生が街頭にくりだし、労働者が街頭にくりだす、およそこうしたことがおきたならば、同志諸君は、これをよいことだとみなければならない。成都の百人あまりの学生が、北京に請願に来ようとしたが、ある列車に乗った学生は四川省の広元駅でとめられ、別の列車に乗った学生も洛陽まできたが、北京には来られなかった。これらの学生を北京に来させて、関係部門へ参上させたらよい、というのが、わたしの意見であり、また周総理の意見である。労働者のストライキを許すべきであり、大衆のデモを許すべきである。デモ行進については、憲法にその根拠がある。今後、憲法を改正するときには、もう一つ、ストライキの自由もくわえて、労働者のストライキを許すべきだ、とわたしは主張する。こうすることは、国家、企業長と大衆とのあいだの矛盾の解決に有利である。いずれにせよ矛盾であって、世界は矛盾にみちている。民主主義革命は、帝国主義、封建主義、官僚資本主義とのあいだの一連の矛盾を解決した。こんにち、所有制の面では、民族資本主義および小生産とのあいだの矛盾も基本的に解決したが、また、別の面の矛盾がきわだってきて、新しい矛盾が発生してきているのである。県委員クラス以上の幹部は数十万人おり、国の運命は、かれらの手に握られている。もし、りっぱに仕事をせず、大衆から浮きあがり、刻苦奮闘しないならは、労働者、農民、学生が、かれらに賛成しないのは当然のことである。われわれはかならず、官僚主義の作風がはびこらないように、人民から浮きあがった貴族階層がうまれないように、警戒しなければならない。官僚主義におちいり、大衆のぶつかっている問題を解決せず、大衆をののしり、大衆をおさえつけ、またいつまでもあらためようとしないならば、大衆が、こうした者をクビにするのは当然のことである。わたしは、クビにすることはたいへんよいことであり、クビにすべきだとおもう」

Re: 林森公園

投稿者: unhoo 投稿日時: 2007/12/20 22:37 投稿番号: [1379 / 3149]
日本時代は、たしか三板橋墓地(正式の名)または大正町墓地(俗称)と呼んでいた。「三板橋」は台湾人が前からつけた地名、そこが内地人(戦前の在台日本人)用の墓地になった。しかし台北市の発展とともに、そこを墓地にしておくことは不都合になり、日本時代すでに公園予定地になっていたらしい。

その墓地へ大陸からの難民(外省人)が入り込んで、始めは仮住家を建てて住み、十年、二十年と年月の経過とともに建物も進化し、日本人の墓を埋めて墓碑を建築材料に使ったりした。長い間十四号公園予定地、十五号公園予定地という公定番号がつけられていたが、歴代の台北市長は公園建設に踏み切ることができなかった。そこを陳水扁市長が、断固として公園建設を完遂した。陳水扁市長の偉功の一つであるが、そこに住んで商店や市場まで開いていた外省人の深刻な恨みを買った。

明石総督の墓のほかに、乃木総督の母堂の墓もあった。乃木総督の総督在任期間は短かったが、任期中に母堂が台北で亡くなったので、そこに墓を建てた。母堂の命日を、のちの台湾総督が勝手に「乃木節」と呼んで、台北の中学以上の学校は、生徒20人ほどを学校の代表として墓参せよという規定をつくった。わしも旧制中学の時代に、すくなくとも1回は代表に選ばれた。

学生を明石総督の墓に墓参させる規定はなかった。

林森公園を建設するとき、地下から出てきた数多くの遺骨は、台北市外のどこかのお寺の納骨塔に収められたと聞く。
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