竹島

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Re: 自陸地歴々望見

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2008/02/06 10:05 投稿番号: [16283 / 18519]
  国際法を全く無視した侵略戦争を引き起こし、中立条約を破ってナチスを支援しつづけた犯罪国家は保護されるが、犯罪被害にあった被害国家は保護されないという理屈ですね。
  毎度おなじみヘンポコ流死せる国際法論法ですね。

  それならそれで一貫性を保っていただきたいのですが、その理屈ですと旧朝鮮を継承しているのは日本と云うことになりますが、この点は素直にお認めになれない?
  不思議な方ですねえ(笑)

Re: Re: 石島=独島説の秘密1

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2008/02/06 09:34 投稿番号: [16282 / 18519]
>鬱陵島民は竹島=独島も鬱陵島周辺の岩で出来た小島や岩礁も"Dol seom"と呼んでいるはずで、石島とあれば竹島=独島を指すとは必ずしもいえません。

  一般的にはその通りですが、この場合は1947年の現地調査で実際に現地の住民が独島を'Dol seom'または'Dok seom'と呼んでいたことが観察されたわけですね。
  'Dok seom'も一般的な用法でしょうか。

>次に問題になるのはやはり証言の信憑性ですね。証言というのは特定の立場に都合のよいようにでっちあげられてしまう可能性があるので慎重に検討する必要があります。

  日本が独島の領有権を主張し始めるよりも大分以前の話のようですし、何の目的ででっちあげる必要があったとお考えですか。
  少なくとも二国間の論争に有利に働かせる目的で作為を働かせた可能性はないと判定して宜しいでしょう。

Re: 自陸地歴々望見

投稿者: takigawamasuuji 投稿日時: 2008/02/06 02:05 投稿番号: [16281 / 18519]
疲れるっしょ?w

Re: 自陸地歴々望見

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2008/02/05 22:28 投稿番号: [16280 / 18519]
合意の上の併合ですから当然です。

Re: Re: 石島=独島説の秘密1

投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/02/05 21:41 投稿番号: [16279 / 18519]
Am_I_AHO_1st さん

  >>宋炳基氏の指摘しているように「今でも鬱陵島民は獨島を "Dok seom"あるいは "Dol seom"と呼んでいる。」のであれば、石島は獨島でほぼ確定かもしれませんね。


まず指摘しておきたいのは"Dol seom"の用法についてです。"Dol seom"という表現は固有名詞として特定の島を表すよりむしろ、普通名詞 として岩で出来た小島や岩礁一般を表す事の方が多いということです。
ソウル大学奎章閣の地図の解説にこのようにあります。

その他周辺の島に対する表示もすぎるほど大きく描かれていると言える.実在では大部分がドルソム位に過ぎない.
http://e-kyujanggak.snu.ac.kr/GZD/GZD_JIMYUNGS.jsp?ptype=class&subtype=yj&lclass=01&mclass=%EA%B0%95%EC%9B%90%EB%8F%84&sclass=GM33496IL0006_104.jpg&jido=

鬱陵島民は竹島=独島も鬱陵島周辺の岩で出来た小島や岩礁も"Dol seom"と呼んでいるはずで、石島とあれば竹島=独島を指すとは必ずしもいえません。

次に問題になるのはやはり証言の信憑性ですね。証言というのは特定の立場に都合のよいようにでっちあげられてしまう可能性があるので慎重に検討する必要があります。
例えば「史的検証竹島独島」の77ページにはこのようにあります。

鬱陵島開拓令の施行で朝鮮本土から人々が移住して開拓に従事していったのは前述の通りである。
そのなかで江源道の江陵から移住した洪在現は、東方にある独島を発見して出漁した経験を語った談話を残している。

   鬱陵島開拓当時、鬱陵島人はこの島を発見し、あるいはコンブ、ミミガイ、をとるために、あるいはザリガニをとるために、多数が独島に出漁しており、洪氏自身も十数回往来したと述べている。


この文章を読めば鬱陵島開拓民が独島で漁をしたのは事実であるように思えます。
しかし私があるサイトで見つけた洪在現の証言にはこのようにありました。

1883年旧暦 4月初8日江原道江陵から鬱陵島で都落ちしたお爺さん(洪在現翁)が 4日間波路にして今の鬱陵邑北面ヒョンピョドングに到着した時,その時鬱陵島住民とはわずか二つの家具が住んでいた.お爺さんが一日は高い山に登るようになったが,遠い東海でもう一つの島を見つけた.かつて読んだ事がある <世宗実録> 及び <東国輿地勝覧> など古書で明らかにした于山島,今の独島なのを見当をつけるようになったし,1897年 6月にお爺さんは独島道に上がってあの時鬱陵島で香木ひと株を持って行って今の独島同道に植えた.
お爺さんは鬱陵島に帰って来る時はアシカ三人の匹を捕って来て鬱陵島住民たちにめいめいに配った.葛とさざえや生関だけで食いつないだ住民たちに脂肪質を供給するようになったことを非常に喜んで以後では脂肪質を独島で得なくちゃいけないと心に決めるようになった.
翌年(1898年) 独島にアシカを捕りにいらっしゃったが,意外にその所で日本であるMurakami(村上)と言う(のは)人連中に会った.話し合って見ると彼らは生業でアシカをザブアパは動物像と言った.あの時お爺さんがこの島はザゴで我が国の地だから,これからは二度とこの島にオジマルのを話した.お爺さんはここで止まないで日本人が乗って来た船に同乗,日本に一緒に行った.
日本へいらっしゃったお爺さんはその所官憲に鬱陵島と日本間に位した于山島,今の独島は韓国の地だからこれから日本人の出漁を禁止することを頼んで日本人が渡す船で鬱陵島に帰って来たと私が幼い時何回武勇談のようにおっしゃった.

ttp://honyaku.yahoofs.jp/url_result?ctw_=sT,eCR-KJ,bT,hT,uaHR0cDo vL3Rrd24xMDAuZWdsb29zLmNvbS8xMzMxMjM5,ql ang=ja|for=0|sp =- 5|fs=100%|fb=0|fi=0|fc=FF0000|db=T|eid=CR-EJ,k835 4df22a649e77fd2dca3544b2de41b,t200705131 14846,
http://tkwn100.egloos.com/1331239

まず1898年に竹島で生業としてアシカを捕っていた日本人がいたなどという話は聞いたことがありません。日本にやって来て于山島,独島は韓国の地と言う話は安龍福のパクリとしか思えません。
1898年にはすでに多くの日本人が鬱陵島で活動していて、条約で日本人が韓国領内で漁をすることが認められていたにもかかわらず、独島は韓国の地だから漁をするなと要求しているのもおかしな話です。
しかも「史的検証竹島独島」では独島でコンブ、ミミガイ、ザリガニを捕っていたはずなのにアシカを捕った話にすりかわっています。は

Re: 自陸地歴々望見

投稿者: puracyaka2007 投稿日時: 2008/02/05 21:06 投稿番号: [16277 / 18519]
>鬱陵島は、峰巒と樹木の状態を、内陸でもありありと眺めることがでる・・・・
>と「輿地勝覧」に載っていると記されています。
>勿論、世宗実録と輿地勝覧は違うという主張は理論上はあり得ます。
>が、これは外交上の主張ですから・・・

「輿地勝覧」の付属地図である「八道総図」では于山島は鬱陵島の西に描いています。この于山島は、恐らく地殻変動で沈んでしまったものと思われます。架空の島である可能性も捨て切れません。
当然ながら、「輿地勝覧」は竹島の領有問題とは何の関係もありません。

Re: 石島=独島説の秘密1

投稿者: puracyaka2007 投稿日時: 2008/02/05 20:41 投稿番号: [16276 / 18519]
◆竹島(東経131度52分)
ttp://toron.pepper.jp/jp/take/image/map-take.jpg

年次    著書          著者:経度(韓国の東端)   画像(※韓国側の書籍)
1894「新撰朝鮮地理誌」             大田才次郎:130度35分      ttp://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/chosenchirishi-1894/08.jpg
1894「朝鮮水路誌」           水路部(現・水産庁):130度35分      ttp://toron.pepper.jp/jp/take/image/suiro11.jpg
1898「朝鮮紀行」               イザベラ・バード:130度33分      (Not Found)
1899「大韓地誌」                      玄采:130度35分(※)   ttp://toron.pepper.jp/jp/take/image/taikantisi.jpg
1901「朝鮮開化史」                 恒屋盛服:130度35分      ttp://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/enlightened-1901/05.jpg
1903「韓海通漁指針」        東京 黒龍会 葛生修吉:130度35分
                           ttp://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40034152&VOL_NUM=00000&KOMA=10&ITYPE=0 (40/274)
1904「最新韓国実業指針」             岩永重華:130度35分      ttp://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/businessguide-1904/08.jpg
1904「韓国地理」                   矢津昌永:130度58分      (Not Found)
1905「日本民族の新發展場萬韓露領地誌」   岡部福蔵:130度35分      (Not Found)
1905「韓国新地理」                 田淵友彦:130度58分      ttp://hanmaum.web-bi.net/dokdo/d401/KNew2.jpg
1906「韓国水産業調査報告」       農商務省水産局:130度35分      (Not Found)
1907「初等大韓地誌」                 安鍾和:130度58分(※)   ttp://hanmaum.web-bi.net/dokdo/d401/190705.jpg(1/2)
                                               ttp://hanmaum.web-bi.net/dokdo/d401/190706.jpg(2/2)
1907「大韓新地志」                   張志淵:130度58分(※)   ttp://dokdo.naezip.net/dokdo/d401/Daehan004.jpg
1908「初等大韓地誌」              安鍾和/柳瑾:130度58分(※)   ttp://dokdo.naezip.net/dokdo/d401/Dae190801.jpg
1909「韓国水産誌」          韓国農商工部水産局:130度42分      ttp://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka41/koreanfisheries-1909/26.jpg
1912「最新朝鮮地誌」            日韓書房編集部:130度54分      ttp://hanmaum.web-bi.net/dokdo/d401/ch4.jpg
1936「朝鮮現勢便覧」                朝鮮総督府:130度56分23秒      ttp://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/binran-1935/04.jpg
1947「朝鮮常識問答」                  崔南善:130度56分23秒(※)    ttp://toron.pepper.jp/jp/take/image/jyousiki3.jpg
1948「朝鮮常識」                     崔南善:130度56分23秒(※)    ttp://toron.pepper.jp/jp/take/image/jyousiki5.jpg

↓こんな理屈で↑こういう資料に対抗するのは無茶苦茶苦しいですな。同情いたしますwww

>宋炳基氏の指摘しているように「今でも鬱陵島民は獨島を "Dok seom"あるいは "Dol seom"と呼んでいる。」のであれば、石島は獨島でほぼ確定かもしれませんね。

Re: 自陸地歴々望見

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2008/02/05 20:03 投稿番号: [16275 / 18519]
  ほほう。朝鮮を滅亡させた日本は、「敵」ではないのですね。

  ヘンポコ君の解釈は難解ですね。

Re: 自陸地歴々望見

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2008/02/05 19:36 投稿番号: [16274 / 18519]
>一般国際法なのに普遍性がない
occupation of 「enemy」 territoryであり戦争をしてない朝鮮と日本では
条件が成立せず。
更に朝鮮については竹島の「legal person」だったという条件も非成立。

終了。

Re: 石島=独島説の秘密1

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2008/02/05 17:47 投稿番号: [16273 / 18519]
  お説拝見しました。
  宋炳基氏の指摘しているように「今でも鬱陵島民は獨島を "Dok seom"あるいは "Dol seom"と呼んでいる。」のであれば、石島は獨島でほぼ確定かもしれませんね。
  領土問題が持ち上がる前の国語学者さんの紀行文とも一致するようで、現地住民の方言とする線が強いのかな。

  とすると、「鼠項島」は何だったのかとする疑念が残りますが。
  現地を調査した日本人が方言を理解できず、「石島」を「観音島」だと勘違いしたのでしょうか。

Re: 自陸地歴々望見

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2008/02/05 17:21 投稿番号: [16272 / 18519]
  とすると、一般国際法なのに普遍性がないと、そう云うことで宜しいのですね(笑)

  外国軍に占領されていた日本には都合良く適用されるけれども、外国軍に占領されていた朝鮮には適用したくないと。
  大変勉強になりますね。

Re: 自陸地歴々望見

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2008/02/05 17:12 投稿番号: [16271 / 18519]
戦争でも戦闘でもない、「合意に基づく」占領軍??や武装解除がどうかしたのかw

Re: 自陸地歴々望見

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2008/02/05 14:51 投稿番号: [16270 / 18519]
  なるほど、そっちへ逃げるわけですか。

  占領軍の駐留や現地軍隊の武装解除もなかったと?

  ふ〜ん(笑)

Re: 自陸地歴々望見

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2008/02/05 14:42 投稿番号: [16269 / 18519]
1905年当時において日本と朝鮮が戦争した事実はございません。
終了。

Re: 自陸地歴々望見

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2008/02/05 13:51 投稿番号: [16268 / 18519]
  なるほど、1905年当時、朝鮮は日本軍による占領状態にあったので、その間の領土処分は無効ということですか。

  それが一般国際法というご見解ですね。

Re: 自陸地歴々望見

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2008/02/05 13:29 投稿番号: [16267 / 18519]
PRINCIPLES OF PUBLIC INTERNATIONAL LAW by Ian Brownlie
"The very considerable derogation of sovereignty involved in the assumption of powers of government by foreign states, without the consent of Germany, did not constitute a transfer of sovereignty. A similar case, recognized by the customary law for a very long time, is that of the belligerent occupation of enemy territory in time of war. The important features of 'sovereignty' in such cases are the continued existence of legal personality and the attribution of territory to that legal person and not to holders for the time being."
終了。

Re: 石島=独島説の秘密2

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2008/02/05 10:03 投稿番号: [16266 / 18519]
  時系列の概要を整理すると。

1.まず、石島=独島説が1947年の国語学者による推定で存在した。
  (欝陵島ではこのころ、現地の住民は独島を「トクト」または「トルソム」と呼んでいたらしい)

2.その後1950年代になって、日本が独島の領有権を主張し始めた。

3.1965年以降、旧朝鮮の公文書を日本から韓国政府に返還する道が開けた。

4.返還文書の中から勅令第41号が発掘され、独島は石島であったことが裏付けられた。

  こんな感じでしょうかね。

Re: 石島=独島説の秘密2

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2008/02/05 09:54 投稿番号: [16265 / 18519]
  史料の提示ありがとうございます。

  故方鐘鉉教授の「独島の一日」など、大変興味深く拝見いたしました。
  韓国の勅令第41号が発掘されたのは比較的最近のことであり、それを見た筈のない故方鐘鉉教授が、独島視察結果を基にした紀行文の中で、独自に独島は石島から転じたものと推定しているのは大変興味深いことです。
  やはり国語学者として科学的に分析すれば、その様な結論に至るのだろうかと思いました。

Re: 自陸地歴々望見

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2008/02/05 09:08 投稿番号: [16264 / 18519]
  なるほど、欝陵島は陸地から見えると主張していたわけですか。

  しかしヘンポコ君から、その様な主張が出るとは意外ですね。
  ヘンポコ君の卓上論では、旧朝鮮を継承しているのは日本であって、だから戦後旧朝鮮の領土を日本が第三者と締結した条約で勝手に処分できると主張したと記憶しておりますが、その主張は取り下げると理解して宜しいわけですね。
  そうなりますと1910年の併合条約は違法なので、当初から無効だと主張していると理解するしかないのですが。

石島=独島説の秘密3

投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/02/05 02:54 投稿番号: [16263 / 18519]
この「1900年当時全羅道出身者が鬱陵島開拓民の過半数を占めていた」という主張は韓国側論者の国際法上の竹島=独島領有権主張根拠の根幹をなしている部分であり、非常に多くの韓国語の竹島=独島関連サイトで言及されています。
しかし私は1900年当時全羅道出身者が鬱陵島開拓民の過半数を占めていなかったことを証明しているのではないかと思われる史料を五つ挙げることができます。

1・「江原道鬱陵島新入民戸人口姓名年歳及田土起墾數爻成冊 」
   これは鬱陵島の開拓が始まった1883年に鬱陵島に移住した鬱陵島開拓民五十四人全員の名前と出身地を記した名簿です。
この名簿によると1883年に移民した五十四人の中に全羅道出身者が一人もいなかったことがわかります。
宋炳基氏の論文に「初入居の時のように江原道が一番多かったし、その次が慶尚道だった」とあるのはこの名簿を根拠にしています。
テキスト画像
http://outdoor.geocities.jp/yabutarou01/meibo.gif
(エンコードを韓国語に)
http://www.dokdocenter.org/dokdo_news/index.cgi?action=detail&number=3084&thread=23r04

2・「通商彙纂」 第234号 - 1902年10月10日
   外務省で編纂されたこの文書にはこのように書かれています。

「本島韓民は古来永住の者なく今を経る廿一年前江原道より裴季周、金大木、下(?)敬云、田士日の四名来航し同行者は協力以って山間を開拓し、畠地を作りて農耕を業とせり、然るに其翌年に至り江原道江陵地方より黄鐘海、崔島守、田士雲、金花淑、洪奉堯、李孫八及全羅道地名不詳張敬移の七名来島せし以来年々歳々江原慶尚威鏡全羅の四道より移住するもの多くして・・・」

この文章には初期の鬱陵島開拓民十一人の名前と出身地が書かれていますが、全羅道出身者は一人しかいません。
加えて「江原慶尚威鏡全羅」とあるのを見れば朝鮮八道のうち全羅道出身者の人口は四番目であったように思われます。

通商彙纂 第234号( 07番目のリンク)
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/tsushoisan-1902/

3・奥原碧雲著「竹島及鬱陵島」明治40年
1906年(明治39年)に調査した報告に「在島韓人は、主として、江原道慶尚道地方より移住せしものなり。」とあるようです。

http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/ishijima2.html

4・「朝鮮誌」   1911年
「朝鮮人たる住民は江原道沿岸及び慶尚北道の移住者大部分を占め」とあります。

http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?tpl_wid=WBPA130&tpl_wish_page_no=1&tpl_select_row_no=64&tpl_hit_num=107&tpl_toc_word=+%C4%AB%C1%AF+%BB%EF&tpl_jp_num=40010295&tpl_vol_num=00000&JP_NUM=40010295&VOL_NUM=00000&KOMA=346&tpl_search_kind=2&tpl_keyword=%C4%AB%C1%AF+%BB%EF&tpl_sort_key=TITLE&tpl_sort_order=ASC&tpl_list_num=100&tpl_end_of_data=
朝鮮誌481コマ中346コマ

近代デジタルライブラリー
http://kindai.ndl.go.jp/index.html

5・「暮らしのなかの技術と芸能」(平凡社)
No.15925 のpuracyaka2007 さんの投稿によると
以下のような文章があるようです。

鬱稜島は1882年(明治15年)に開拓令が出され韓国人が定住するようになったが、それまで国家の空島政策により韓国人の定住がなかった。その定住の経緯を李永官氏(1921年生まれ)は次のように語っている。
鬱稜島の90パーセント以上の人が江原道、慶尚北道、慶尚南道から移住してきた人々である。全羅道からは機帆船、船を造るための材木を運ぶ目的で   鬱稜島へ来ていたが住み着く人はほとんどいなかった。

石島=独島説の秘密2

投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/02/05 02:04 投稿番号: [16260 / 18519]
私はこの文章を読んでてっきり「勅令41号が発布された1900年当時の鬱陵島開拓民は全羅道出身者が過半数を占めていた」と宋炳基氏が自らの論文で主張しているものと解釈してしまいました。恐らくこの文章を読んだ人ほぼすべてがこのように考えることでしょう。
内藤 正中・金 柄烈共著『 史的検証竹島・独島』の中で 内藤氏が「島に移住してきた人たちの大多数が全羅道の人であることは前述した通りであるが、この石島が独島であるということについては、全羅道の方言で石(トル)を独(トク)と発音することから、トル島がトク島になり、中央政府が漢字表記するにあたり、石島にしたものである。(48ページ)」としているのも宋氏が主張したものであると私は思っていました。
しかしこれは事実ではありませんでした。半月城氏が引用した宋炳基氏の論文の文章の最後の一行の手前の「・・・」となっている部分には実はこのような記述が省略されていたのを発見しました。

全羅南道沿海民たちが呼んだこの 「独島」と言う島名は1883年(高宗 20)から入居し始めた島民らに影響を与えたはずだ。
しかし、それは入居人たちの方言によっていくら位ラムシックドエオ二つの語形が共存したということも見当をつけることができる。
入居人たちの出身地は詳らかにわからないが、地理的関係を考慮したら、初入居の時のように江原道が一番多かったし、その次が慶尚道だったことと考えられる.20)
だからこの入居人たちは彼らの方言、すなわち江原・慶尚道の方言によって21) 'Dok seom'を 'Dol seom'と呼んだりしたはずだ。
(日本語)
http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/choku41li.html
(韓国語)
http://i815.or.kr/media_data/thesis/1996/199614.html

  この省略された文章からは二つのことが分かります。
  一つ目は宋炳基氏は1882年に李奎遠が鬱陵島で出会った全羅南道沿海民を鬱陵島開拓民として移住してきた人たちであるとは考えていないということです。
宋氏は全羅南道沿海民たちについて「船乗りで造船、採かく、採魚などに従事したが、春に鬱陵島へ来て木を切り船を造ったのち、ワカメを採取し、魚を捕らえて帰った。」と書きましたが、これはあくまで出稼ぎ行為にすぎず生活の基盤が鬱陵島にあったわけではなく彼らを開拓民または移民と呼ぶのは適切ではありません。
一方鬱陵島の開拓は李奎遠の検察の翌年1883年に始まりそれによって鬱陵島に開拓民・移住民がやって来たのは広く知られた事実です。
  二つ目は宋炳基氏は勅令41号が発布された1900年当時、鬱陵島開拓民は全羅道出身者が過半数を占めていたと考えていたわけではないということです。
「入居人たちの出身地は詳らかにわからないが、地理的関係を考慮したら、初入居の時のように江原道が一番多かったし、その次が慶尚道だったことと考えられる。」とあるのを見ればこれは明らかです。

実は「1882年に全羅道民が鬱陵島で多数派であったことを根拠に勅令41号が発布された1900年当時の鬱陵島開拓民は全羅道出身者が過半数を占めていた」と主張する説は愼𨉷廈(ハンキンポ)氏の唱えた説です。
愼𨉷廈氏の獨島百問百答Q60.にはこのようにあります。

これに大韓帝国の政府は、1900年10月25日付の勅令第41号において全文6条からなる「鬱陵島を鬱島に改定し、島監を郡守に改定する件」を「官報」に掲載し公布した。
(中略)    そして石島が獨島をさすことは間違いない。当時、鬱陵島住民の大多数は全羅道出身の漁民であったが、全羅道の方言では「Dol(石)」を「dok」とし、
「Dol Seom(石島)」を「Dok Seom」とよぶ事実はよく知られており、大韓帝国政府は「石島」を意訳して「石島」としたのである。

http://www.han.org/a/half-moon/hm103.html#No.755

どうやら半月城氏は愼𨉷廈氏の説を説明するために宋炳基氏の論文を引用したものの都合の悪い部分があったので「・・・」でごまかしてしまったようです。
  半月城氏は「大韓民国海洋水産開発院独島研究センター海外諮問委員」として大韓民国の看板を背負って活動されていらっしゃるはずなのに、どうしてこのような「・・・」なことをされているのでしょうか。。私には皆目理解が出来ません。。。

石島=独島説の秘密1

投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/02/05 01:48 投稿番号: [16259 / 18519]
半月城氏のサイト「半月城通信」に「于山島から石島、獨島へ」と題された文章があります。

http://www.han.org/a/half-moon/hm095.html#No.694

内藤 正中・朴 炳渉=半月城共著『竹島=独島論争』(152ページから)にも同じ文章があります。
実はこの文章にはとんでもない秘密が隠されているのを発見しましたので報告します。

「于山島から石島、獨島へ」で半月城氏は初期の鬱陵島開拓民は全羅道出身者が多数派であったたため勅令41号の石島が竹島=獨島であると判断できると主張し、これを証明するために宋炳基氏の論文を引用しています。
問題になる引用箇所は以下の部分です。

   勅令41号にみえる石島の淵源は鬱陵島を往来した全羅南道沿海民に求められるようである。全羅南道沿海民たちがいつから鬱陵島を往来したのか明確にはわからない。ただ、鬱陵島に出漁した東莱出身櫨軍・安龍福の第2次渡日のとき(1696,粛宗22)、楽安(全南順天郡楽安)の人、金成吉、そして順天の僧・雷憲、勝淡、連習、靈律、丹責など6名が同行しているのをみれば、遅くとも17世紀末からは往来が始まったようだ。
   しかし、全羅南道沿海民たちの往来が紹介され始めたのは、1882年(高宗19)に李奎遠が鬱陵島を検察してからである。
   李奎遠の調査によれば、鬱陵島にいる内陸人の数は約140名であった。この中、全羅南道が一番多く、興陽(高興)94名、楽安21名など計115名であり、つぎが江原(平海)14名、慶尚(慶州、延日、咸陽)10名、京畿(坡州)1名の順である。
   この全羅南道沿海民たちは船乗り(船主6,格卒109)で造船、採かく、採魚などに従事したが、春に鬱陵島へ来て木を切り船を造ったのち、ワカメを採取し、魚を捕らえて帰った。
   全羅南道沿海民たちの鬱陵島往来は開拓が進捗するにつれ、さらに頻繁になった。すでに前にのべたように、禹用鼎、金〓秀などの調査によれば、かれらは10隻内外の船を建造したが、島民たちに米穀なども供給していた。
   また、かれらは鬱陵島にてワカメも採取したが、その額は年間 10,000円から 12,000円に達し、これは日本人の 1897-1899年の年平均海産物の採取量より 6,000円から 8,000円上回る金額であった。全羅南道沿海民たちの鬱陵島往来が開拓以来さらに活発になったことを物語っている。

   かれら全羅南道沿海民たちは鬱陵島を往来する途中に、その東側200里(約50カイリ)くらい離れて位置する獨島を目撃したであろう。また、ワカメを採取したり、魚を獲るために、あるいは潮流や風浪のため獨島に到達したり、付近を通りかかったこともあったであろう。
   そして鬱陵島、于山島に関する文献に接することも読むこともなかったかれら船乗りたちは、かれらが目撃したり到達した獨島にかれらなりの名前を付けたのである。
   そうして全羅南道沿海民たちは、かれらが目撃したり到達したこの島を"Dok seom"と呼んだと見られる。それは(1)獨島はよく知られているように、木が一本もなく、草すらあまり育たない石(岩)でできた島であることに加えて、全羅南道の方言では、石を Dolと呼ぶ例外はないでもないが(光州)、ほとんどが Dokと呼ぶか、一部の地方(麗水、順天、康津、霊光)で Dolおよび Dokと混用して呼んでおり、この石でできた島をかれらの方言にしたがって "Dok seom"と呼ぶようになったのはごく自然なことであると考えられるからである・・・
  (yabutarou01 注、「考えられるからである・・・」の「・・・」に着目して下さい。ここに重大な秘密が隠されています。)
   すでに前に書いたように、今でも鬱陵島民は獨島を "Dok seom"あるいは "Dol seom"と呼んでいる。(引用終わり)

Re: 自陸地歴々望見

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2008/02/05 00:46 投稿番号: [16258 / 18519]
光海君を持ち出す意味が不明(ただし、意図は明確)。

>実際には対馬藩に対して「欝陵島は陸地から見える」旨の主張は為されなかった
>可能性が高いですね。

p76-77
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04_01/takeshima04c.data/shiryou-4-1-5.pdf
勝覧の解釈を変えるのは、エストッペル違反だな。

該郡所管島は竹島と石島

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2008/02/04 23:26 投稿番号: [16257 / 18519]
  統監府の言論統制下ですからね。
  世論を沈静化させるために、無理に出させたのかもしれませんね。

  以前、沈郡守への指令も差し止められた可能性がある(だから中央からの指令を実行した記録がないのでは)と指摘しましたが、当時の日本は謂わば合法的に内政干渉できたことを押さえておく必要があるでしょう。
  伊藤博文が握りつぶしたのかもね。

Re: 自陸地歴々望見

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2008/02/04 23:20 投稿番号: [16256 / 18519]
  検討してみましたが、貴君の投稿にはいくつか問題があるようです。

1.問題の事件は光海君の時代ですが、貴方が挙げられた史料は事件の80年後肅宗時代の実録であること。
2.事件発生当時(光海君時代)の記録の中で、欝陵島が陸地から見えると主張したものを見たことがありません。
  特に、日本との通交を詳細に記録した『辺例集要』にもその様な記録はないと思いますが。

  以上のように、原典にないわけですから、実際には対馬藩に対して「欝陵島は陸地から見える」旨の主張は為されなかった可能性が高いですね。
  肅宗実録の記録は、対馬班との遣り取りではなくて、別の件ではありませんか。少なくとも直接的な記録とは云えないと思いますが。

  その後に続く貴方の解釈についてですが、上記のような理由で承諾できかねます。

Re: 竹島

投稿者: siso_noli 投稿日時: 2008/02/04 10:58 投稿番号: [16255 / 18519]
よろしくです
http://sakurasakurasakura3.blog53.fc2.com/blog-entry-342.html

Re: 護郡所管島はチュク島と石島

投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2008/02/04 10:49 投稿番号: [16254 / 18519]
henchin さん資料ありがとうございます。

こりゃあきついですね。
顛末ってことだから、一連の騒動の結論ってえことですからね。
獨島も入ってるってんならそう書くでしょうし、石島が獨島なら範囲を示した意味がなくなりますね。
婉曲に獨島韓国領説を否定したと見るのが妥当ですね。

石島=獨島説には勅令当時のアリバイがないと何回も言ってましたが、
アリバイがないどころか不在のアリバイといえそうなのがあるってことですね。

指令第三号と新聞記事

投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/02/04 07:58 投稿番号: [16253 / 18519]
<指令第3号>

    来た報告はすべて読んだ
    独島領地之説は全て無根に属す
    該島の形使と日本人の行動の如何を更に査報する事


<以下は想像:1906年7月初旬   統監と参政大臣が指令第3号を挟んで対峙している>

   総監:   独島とは、どういう島ですか。
   大臣:   鬱陵島の外洋約40kmにある島で、アシカ等を産すると聞いています。
   総監:   中国では紀元前から自国領を絵図に残す習慣があり、日本でもその様にしています。朝鮮ではどうですか。
   大臣:   朝鮮でも、自国領を絵図に残しています。
   総監:   独島の絵図はありますか。該島が他の島と識別できる程度に記された絵図はありますか。
   大臣:   ありません。
   総監:   鬱島郡守の沈興沢は、区域を管轄するとは、予算と担当官をを配し、人口・生産多少を管理することであると承知しているようですね。
   大臣:   はい。
   総監:   独島の形使はあがってきましたか。
   大臣:   いいえ。沈興沢に該島を管轄しているという意識が無いようです。
   総監:   貴殿は、「独島領地之説は全て無根」と言われていますが、これは明治天皇の命令が無根であるとの意味ですか。
   大臣:   いいえ。私には、日本に問合せずに明治天皇のご命令を云々する権限はありません。私の権限に拠ってこの指令の意味を判断して下さい。そうすると、「来報のみで判断した」ので、沈興沢の唱える「独島領地之説」が「全て無根」の意味しかないことが自ずから明らかです。
   総監:   しかし、毎日・皇城の新聞記事を読む限りでは、貴殿の意思が誤って伝わっている様に見えますね。
   大臣:   それは、遺憾に耐えません。早速、修正記事を載せます。


<以下は想像:1906年7月13日   統監と部下が皇城新聞を見ている>

   部下:   相当の読解力がないと「独島は朝鮮領」を否定しているとは読めませんね。
   総監:   うん。行政能力はないくせに、面子だけは高いのだね。
   部下:   こんな官僚ばかりでは、朝鮮人民は救われませんね。
   総監:   うん。やっぱり、日韓併合が必要だ。ということだよ。

Re: 護郡所管島はチュク島と石島

投稿者: chaamiey 投稿日時: 2008/02/03 22:55 投稿番号: [16252 / 18519]
1900年10月   大韓帝国勅令第41号   鬱島郡の区域は鬱陵全島と竹島(チュクト)、石島と公示

1905年1月   日本   竹島(たけしま)を領土編入

1905年12月   日本   韓国に統監府を設置

1906年3月28日   島根県職員一行が鬱島郡守沈興沢を訪問、竹島領土編入の旨を説明

1906年5月1日   大韓毎日申報   鬱島郡所在の独島を日本が領地にしたというのは理の無い話だと報道

1906年5月9日   皇城新聞   沈興沢の「本郡所属独島が日本領になった」という報告を報道





<以下は想像:1906年5月   統監府内のとある部署で>

部下:大韓毎日申報と皇城新聞が書いているこの独島というのは、昨年我が国が領土に編入した竹島のことですよね。

上司:うむ、そうだろうな。

部下:しかし、彼らは鬱島郡の所属島だと言ってますよ。我が国の政府は大韓帝国の領土だった島を間違えて領土にしちゃったんですかね?

上司:いや、領土に編入するときはきちんと調べたはずだから、間違いは無いと思うがね。

部下:ええ、でもそうするとこれはどういうことなんですかねえ。

上司:鬱島郡の管轄範囲を調べればはっきりするだろ。

部下:そうですね、じゃ、電話で聞いて見ましょうか?

上司:いや、一応領土がらみの話だから、文書で正式に照会しなさい。少なくとも、鬱島郡の管轄する島はどこまでなのかと、それは何時からなのかを聞かなければならんな。

部下:はい、分かりました。すぐ文書を準備します。



(統監府から大韓帝国政府に照会)


(大韓帝国政府から統監府に回答)


(皇城新聞が大韓帝国政府の回答内容を取材)


1906年7月13日   皇城新聞   「鬱島郡の配置顛末」と題する記事を掲載

Re: 護郡所管島はチュク島と石島

投稿者: puracyaka2007 投稿日時: 2008/02/03 16:06 投稿番号: [16251 / 18519]
1899年に鬱陵島を調査した禹用鼎の調査報告書には、

>「全島長可為七十里 廣可為四十里 周囲亦可為一百四五十里」
>「本島地形石壁居多 而長可為七十里 廣可為四十里 周囲亦可為一百四五十
>里」

>とあり1882年に鬱陵島を調査した李奎遠の調査報告書にも鬱陵島の周囲は「一
>百四五十里」とあります。
>となると「東西が六十里で南北が四十里なので,合せて二百余里だという」は鬱
>陵本島の 東西・南北と周囲の距離を記したものであって、鬱島郡の管轄範囲
>を表しているとは必ずしもいえないのではないかと私は考えます。

yabutarou01様、私は杉野洋明氏の解釈で良いと思います。
全体として鬱島郡の説明なのに、突如として鬱陵島のみの東西南北の長さが出
てくるのは違和感を感じます。また、ここで鬱島郡の管轄範囲を説明せず、鬱
陵島に限定して東西・南北と周囲の距離を記すことに何か意味があるとは思え
ません。
鬱陵島からチュク島、石島の位置を説明していないのは、「東西が六十里で南
北が四十里」の範囲に入るからと考えるのが自然ではないでしょうか。
勅令第41号でもチュク島、石島の位置は出てきませんが、これも両島とも鬱
陵島の近傍の島なので位置情報をあえて示す必要が無かったのだと考えられま
す。
杉野洋明氏の解釈に従えば、今回発見された資料は直近の大韓新地誌(張志淵
1907年)をはじめとする地誌、地図類とも極めて良く調和します。逆に、東西
六十里南北四十里の範囲を大きくはみ出して鬱島郡の範囲が東へ広がっていた
と考えるならば、当時の地誌、地図類と齟齬を来すことになります。
杉野洋明氏が説明しているとおり、鬱島郡は東西六十里南北四十里の範囲に収
まり、チュク島、石島も当然その範囲内にあると解釈するのが相当と考えま
す。

Re: 護郡所管島はチュク島と石島

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2008/02/03 09:42 投稿番号: [16250 / 18519]
石のトク→ドクは一部地方の発音に基づく仮説です。

注釈もなく、一地方の方言をベースに
「石島、獨島が同じ島だと全国民が判断できる」と全国紙である
皇城新聞が判断したことになってしまいます。

勅令の石島と獨島は別の島の認識だったというのが自然でしょう。

Re: 護郡所管島はチュク島と石島

投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/02/03 09:26 投稿番号: [16249 / 18519]
  >>皇城新聞1906年7月13日
http://ameblo.jp/public/image/displayimage.do?imagePath=/user_images/c3/2c/10046631579.jpg

鬱島郡の配置顛末
「統監府で内部に公○された江原道三陟○管下に所在する鬱陵島に所属島嶼と郡廳設始月は示明する○故○○図され、光武二年五月二十日に鬱陵島統監に設證され、光武四年十月二十五日に政府会議を経由して郡守を配置するので郡廳は台霞洞に置き、護郡所管島はチュク島と石島で、東西が六十里で南北が四十里なので,合せて二百余里だという」


1899年に鬱陵島を調査した禹用鼎の調査報告書には、

「全島長可為七十里 廣可為四十里 周囲亦可為一百四五十里」
「本島地形石壁居多 而長可為七十里 廣可為四十里 周囲亦可為一百四五十里」

とあり1882年に鬱陵島を調査した李奎遠の調査報告書にも鬱陵島の周囲は「一百四五十里」とあります。
となると「東西が六十里で南北が四十里なので,合せて二百余里だという」は鬱陵本島の 東西・南北と周囲の距離を記したものであって、鬱島郡の管轄範囲を表しているとは必ずしもいえないのではないかと私は考えます。


  >>1906年5月9日の皇城新聞では、竹島を「獨島」と呼称してます。
http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/rensa.html
それにも関わらず、1906年7月13日の皇城新聞は「石島」と呼称していることです。
即ち、皇城新聞の考える勅令の石島と獨島とは別の島だったということになります。


これは確かに不審ですね。皇城新聞が 石島と獨島を同じ島であると考えていたとは思えません。
ただ韓国側の論者であれば1906年7月13日の「石島」記事は1900年の勅令四十一号のことを述べた記事であるから古い呼び方を使っただけであって「石島」と「獨島」は同じ島である、と主張すると思われます。。。

Re: 護郡所管島はチュク島と石島

投稿者: puracyaka2007 投稿日時: 2008/02/03 01:20 投稿番号: [16248 / 18519]
杉野氏のブログはいい資料をアップしてくれるので注目していますが、これはかなり凄い資料だと思います。
石島=竹島説はこれでとどめを刺されたも同然でしょう。
石島の存在範囲が具体的に示されたわけですが、それ以前の地図・地誌類ともぴったり整合します。

もう一つ注目すべき点があります。

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2008/02/03 01:15 投稿番号: [16247 / 18519]
1906年5月9日の皇城新聞では、竹島を「獨島」と呼称してます。
http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/rensa.html

それにも関わらず、1906年7月13日の皇城新聞は「石島」と呼称していることです。

即ち、皇城新聞の考える勅令の石島と獨島とは別の島だったということになります。

Re: 護郡所管島はチュク島と石島

投稿者: chaamiey 投稿日時: 2008/02/03 00:37 投稿番号: [16246 / 18519]
なるほど、そういうことでしたか。


「東西六十里、南北四十里、合せて二百余里」は何を指すのかは、若干読み取りにくい感もありますが、鬱陵本島と所管する竹島(チュクト)、石島にわたる全体海域の広さを示すと見るのが妥当でしょうから、竹島(たけしま)は完全にはずれますね。

Re: 自陸地歴々望見

投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/02/03 00:03 投稿番号: [16245 / 18519]
   肅宗は、輿地勝覧の「風日清明   則峯頭樹木及山根沙渚   歴歴可見」の主語を于山島・欝陵島の2島であると解したと理解しています。すると、世宗実録の「風日清明則可望見」の主語も又于山島・欝陵島の2島であると解されます。
   この肅宗の解釈は、「弊邦江原道蔚珍縣   有屬島曰鬱陵」に続くものですから、同様の内容が対馬藩に伝わったことを意味します。

   李氏朝鮮の後継国家である韓国は、かかる解釈を日本に伝えた外交上の責任をも継承しなければなりません。しかるに、韓国は、鬱陵島から于山島が「風日清明則可望見」できるを世宗実録の解として示されていると伝え聞いております。これは、著しく信義則に反する行為であると考えます。

護郡所管島はチュク島と石島

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2008/02/02 22:59 投稿番号: [16244 / 18519]
http://ameblo.jp/nidanosuke/

皇城新聞1906年7月13日
http://ameblo.jp/public/image/displayimage.do?imagePath=/user_images/c3/2c/10046631579.jpg

鬱島郡の配置顛末
「統監府で内部に公○された江原道三陟○管下に所在する鬱陵島に所属島嶼と郡廳設始月は示明する○故○○図され、光武二年五月二十日に鬱陵島統監に設證され、光武四年十月二十五日に政府会議を経由して郡守を配置するので郡廳は台霞洞に置き、護郡所管島はチュク島と石島で、東西が六十里で南北が四十里なので,合せて二百余里だという」

Re: 自陸地歴々望見

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2008/02/02 22:41 投稿番号: [16243 / 18519]
  なるほど。主張をしてますね。
  そこまでは了解しました。

  しかし何故外交上問題になるのでしょう?
  後日同じ箇所を引用して全く違う主張をしたのでしょうか?

自陸地歴々望見

投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/02/02 21:35 投稿番号: [16242 / 18519]
  肅宗実録、1694年08月14日の項に次のとおりです。
  http://sillok.history.go.kr/main/main.jsp

(漢文表示)
   弊邦江原道蔚珍縣, 有屬島曰鬱陵, 在本縣東海中, 而風濤危險, 船路不便, 故中年移其民空其地, 而時遣公差, 往來搜檢矣。 本島峰巒樹木, 自陸地歴々望見, 而凡其山川紆曲, 地形闊狹, 民居遺址, 土物所産, 倶載於我國《輿地勝覽》書, 歴代相傳, 事跡昭然。

(ハングル表示)→(ヤフーの機械翻訳)
  我が国の江原道の蔚珍県(蔚珍県)に属した鬱陵島と言う(のは)島があるのに,本県(本県)の東海(東海) の中あって波が刺刺しくて波路が便利ではないから,何年前に民を移して地を留守にしておいて,随時に公差(公差)を送って行ったり来たりして受検(捜検)するようにしました.本島(本島)は峰巒(峰巒)と樹木を内陸(内陸)でもありありと眺めることができるし,凡そ山河(山川)の屈曲と地形が広くて猫の額及び住民の維持(遺址)と私は物産(土産物)が皆我が国の 《ヨジスングラム(輿地勝覧)》と言う(のは)書籍に載せられていて,歴代に伝えて来る史蹟が明らかです.


   鬱陵島は、峰巒と樹木の状態を、内陸でもありありと眺めることができる・・・・と「輿地勝覧」に載っていると記されています。
   勿論、世宗実録と輿地勝覧は違うという主張は理論上はあり得ます。
   が、これは外交上の主張ですから・・・

不戦親父さんへ

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2008/02/02 19:20 投稿番号: [16241 / 18519]
  不戦親父さんは「江戸時代には陸地から見えると書いてあるから鬱陵島は朝鮮領だとしたんでしょ」と書いたようですが、これについてのお尋ねですか?

  ネット上に氾濫する無責任なデマに惑わされず、原典(「光海君日記」)などの記録をご覧になるべきと思いますが。
  ちなみに、「光海君日記」には、対馬班が欝陵島の領有を主張した際に「これはすなわち朝鮮の鬱陵島であり『東国輿地勝覧』にも掲載されている」と反駁したとの記録はあるようですが、「陸地から見えるからウリタンにだ!」と主張したとはどこにも書かれていないようですが。
  違うんですか?
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