石島=独島説の秘密1
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/02/05 01:48 投稿番号: [16259 / 18519]
半月城氏のサイト「半月城通信」に「于山島から石島、獨島へ」と題された文章があります。
http://www.han.org/a/half-moon/hm095.html#No.694
内藤 正中・朴 炳渉=半月城共著『竹島=独島論争』(152ページから)にも同じ文章があります。
実はこの文章にはとんでもない秘密が隠されているのを発見しましたので報告します。
「于山島から石島、獨島へ」で半月城氏は初期の鬱陵島開拓民は全羅道出身者が多数派であったたため勅令41号の石島が竹島=獨島であると判断できると主張し、これを証明するために宋炳基氏の論文を引用しています。
問題になる引用箇所は以下の部分です。
勅令41号にみえる石島の淵源は鬱陵島を往来した全羅南道沿海民に求められるようである。全羅南道沿海民たちがいつから鬱陵島を往来したのか明確にはわからない。ただ、鬱陵島に出漁した東莱出身櫨軍・安龍福の第2次渡日のとき(1696,粛宗22)、楽安(全南順天郡楽安)の人、金成吉、そして順天の僧・雷憲、勝淡、連習、靈律、丹責など6名が同行しているのをみれば、遅くとも17世紀末からは往来が始まったようだ。
しかし、全羅南道沿海民たちの往来が紹介され始めたのは、1882年(高宗19)に李奎遠が鬱陵島を検察してからである。
李奎遠の調査によれば、鬱陵島にいる内陸人の数は約140名であった。この中、全羅南道が一番多く、興陽(高興)94名、楽安21名など計115名であり、つぎが江原(平海)14名、慶尚(慶州、延日、咸陽)10名、京畿(坡州)1名の順である。
この全羅南道沿海民たちは船乗り(船主6,格卒109)で造船、採かく、採魚などに従事したが、春に鬱陵島へ来て木を切り船を造ったのち、ワカメを採取し、魚を捕らえて帰った。
全羅南道沿海民たちの鬱陵島往来は開拓が進捗するにつれ、さらに頻繁になった。すでに前にのべたように、禹用鼎、金〓秀などの調査によれば、かれらは10隻内外の船を建造したが、島民たちに米穀なども供給していた。
また、かれらは鬱陵島にてワカメも採取したが、その額は年間 10,000円から 12,000円に達し、これは日本人の 1897-1899年の年平均海産物の採取量より 6,000円から 8,000円上回る金額であった。全羅南道沿海民たちの鬱陵島往来が開拓以来さらに活発になったことを物語っている。
かれら全羅南道沿海民たちは鬱陵島を往来する途中に、その東側200里(約50カイリ)くらい離れて位置する獨島を目撃したであろう。また、ワカメを採取したり、魚を獲るために、あるいは潮流や風浪のため獨島に到達したり、付近を通りかかったこともあったであろう。
そして鬱陵島、于山島に関する文献に接することも読むこともなかったかれら船乗りたちは、かれらが目撃したり到達した獨島にかれらなりの名前を付けたのである。
そうして全羅南道沿海民たちは、かれらが目撃したり到達したこの島を"Dok seom"と呼んだと見られる。それは(1)獨島はよく知られているように、木が一本もなく、草すらあまり育たない石(岩)でできた島であることに加えて、全羅南道の方言では、石を Dolと呼ぶ例外はないでもないが(光州)、ほとんどが Dokと呼ぶか、一部の地方(麗水、順天、康津、霊光)で Dolおよび Dokと混用して呼んでおり、この石でできた島をかれらの方言にしたがって "Dok seom"と呼ぶようになったのはごく自然なことであると考えられるからである・・・
(yabutarou01 注、「考えられるからである・・・」の「・・・」に着目して下さい。ここに重大な秘密が隠されています。)
すでに前に書いたように、今でも鬱陵島民は獨島を "Dok seom"あるいは "Dol seom"と呼んでいる。(引用終わり)
http://www.han.org/a/half-moon/hm095.html#No.694
内藤 正中・朴 炳渉=半月城共著『竹島=独島論争』(152ページから)にも同じ文章があります。
実はこの文章にはとんでもない秘密が隠されているのを発見しましたので報告します。
「于山島から石島、獨島へ」で半月城氏は初期の鬱陵島開拓民は全羅道出身者が多数派であったたため勅令41号の石島が竹島=獨島であると判断できると主張し、これを証明するために宋炳基氏の論文を引用しています。
問題になる引用箇所は以下の部分です。
勅令41号にみえる石島の淵源は鬱陵島を往来した全羅南道沿海民に求められるようである。全羅南道沿海民たちがいつから鬱陵島を往来したのか明確にはわからない。ただ、鬱陵島に出漁した東莱出身櫨軍・安龍福の第2次渡日のとき(1696,粛宗22)、楽安(全南順天郡楽安)の人、金成吉、そして順天の僧・雷憲、勝淡、連習、靈律、丹責など6名が同行しているのをみれば、遅くとも17世紀末からは往来が始まったようだ。
しかし、全羅南道沿海民たちの往来が紹介され始めたのは、1882年(高宗19)に李奎遠が鬱陵島を検察してからである。
李奎遠の調査によれば、鬱陵島にいる内陸人の数は約140名であった。この中、全羅南道が一番多く、興陽(高興)94名、楽安21名など計115名であり、つぎが江原(平海)14名、慶尚(慶州、延日、咸陽)10名、京畿(坡州)1名の順である。
この全羅南道沿海民たちは船乗り(船主6,格卒109)で造船、採かく、採魚などに従事したが、春に鬱陵島へ来て木を切り船を造ったのち、ワカメを採取し、魚を捕らえて帰った。
全羅南道沿海民たちの鬱陵島往来は開拓が進捗するにつれ、さらに頻繁になった。すでに前にのべたように、禹用鼎、金〓秀などの調査によれば、かれらは10隻内外の船を建造したが、島民たちに米穀なども供給していた。
また、かれらは鬱陵島にてワカメも採取したが、その額は年間 10,000円から 12,000円に達し、これは日本人の 1897-1899年の年平均海産物の採取量より 6,000円から 8,000円上回る金額であった。全羅南道沿海民たちの鬱陵島往来が開拓以来さらに活発になったことを物語っている。
かれら全羅南道沿海民たちは鬱陵島を往来する途中に、その東側200里(約50カイリ)くらい離れて位置する獨島を目撃したであろう。また、ワカメを採取したり、魚を獲るために、あるいは潮流や風浪のため獨島に到達したり、付近を通りかかったこともあったであろう。
そして鬱陵島、于山島に関する文献に接することも読むこともなかったかれら船乗りたちは、かれらが目撃したり到達した獨島にかれらなりの名前を付けたのである。
そうして全羅南道沿海民たちは、かれらが目撃したり到達したこの島を"Dok seom"と呼んだと見られる。それは(1)獨島はよく知られているように、木が一本もなく、草すらあまり育たない石(岩)でできた島であることに加えて、全羅南道の方言では、石を Dolと呼ぶ例外はないでもないが(光州)、ほとんどが Dokと呼ぶか、一部の地方(麗水、順天、康津、霊光)で Dolおよび Dokと混用して呼んでおり、この石でできた島をかれらの方言にしたがって "Dok seom"と呼ぶようになったのはごく自然なことであると考えられるからである・・・
(yabutarou01 注、「考えられるからである・・・」の「・・・」に着目して下さい。ここに重大な秘密が隠されています。)
すでに前に書いたように、今でも鬱陵島民は獨島を "Dok seom"あるいは "Dol seom"と呼んでいる。(引用終わり)
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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