石島=独島説の秘密2
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/02/05 02:04 投稿番号: [16260 / 18519]
私はこの文章を読んでてっきり「勅令41号が発布された1900年当時の鬱陵島開拓民は全羅道出身者が過半数を占めていた」と宋炳基氏が自らの論文で主張しているものと解釈してしまいました。恐らくこの文章を読んだ人ほぼすべてがこのように考えることでしょう。
内藤 正中・金 柄烈共著『 史的検証竹島・独島』の中で 内藤氏が「島に移住してきた人たちの大多数が全羅道の人であることは前述した通りであるが、この石島が独島であるということについては、全羅道の方言で石(トル)を独(トク)と発音することから、トル島がトク島になり、中央政府が漢字表記するにあたり、石島にしたものである。(48ページ)」としているのも宋氏が主張したものであると私は思っていました。
しかしこれは事実ではありませんでした。半月城氏が引用した宋炳基氏の論文の文章の最後の一行の手前の「・・・」となっている部分には実はこのような記述が省略されていたのを発見しました。
全羅南道沿海民たちが呼んだこの 「独島」と言う島名は1883年(高宗 20)から入居し始めた島民らに影響を与えたはずだ。
しかし、それは入居人たちの方言によっていくら位ラムシックドエオ二つの語形が共存したということも見当をつけることができる。
入居人たちの出身地は詳らかにわからないが、地理的関係を考慮したら、初入居の時のように江原道が一番多かったし、その次が慶尚道だったことと考えられる.20)
だからこの入居人たちは彼らの方言、すなわち江原・慶尚道の方言によって21) 'Dok seom'を 'Dol seom'と呼んだりしたはずだ。
(日本語)
http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/choku41li.html
(韓国語)
http://i815.or.kr/media_data/thesis/1996/199614.html
この省略された文章からは二つのことが分かります。
一つ目は宋炳基氏は1882年に李奎遠が鬱陵島で出会った全羅南道沿海民を鬱陵島開拓民として移住してきた人たちであるとは考えていないということです。
宋氏は全羅南道沿海民たちについて「船乗りで造船、採かく、採魚などに従事したが、春に鬱陵島へ来て木を切り船を造ったのち、ワカメを採取し、魚を捕らえて帰った。」と書きましたが、これはあくまで出稼ぎ行為にすぎず生活の基盤が鬱陵島にあったわけではなく彼らを開拓民または移民と呼ぶのは適切ではありません。
一方鬱陵島の開拓は李奎遠の検察の翌年1883年に始まりそれによって鬱陵島に開拓民・移住民がやって来たのは広く知られた事実です。
二つ目は宋炳基氏は勅令41号が発布された1900年当時、鬱陵島開拓民は全羅道出身者が過半数を占めていたと考えていたわけではないということです。
「入居人たちの出身地は詳らかにわからないが、地理的関係を考慮したら、初入居の時のように江原道が一番多かったし、その次が慶尚道だったことと考えられる。」とあるのを見ればこれは明らかです。
実は「1882年に全羅道民が鬱陵島で多数派であったことを根拠に勅令41号が発布された1900年当時の鬱陵島開拓民は全羅道出身者が過半数を占めていた」と主張する説は愼𨉷廈(ハンキンポ)氏の唱えた説です。
愼𨉷廈氏の獨島百問百答Q60.にはこのようにあります。
これに大韓帝国の政府は、1900年10月25日付の勅令第41号において全文6条からなる「鬱陵島を鬱島に改定し、島監を郡守に改定する件」を「官報」に掲載し公布した。
(中略) そして石島が獨島をさすことは間違いない。当時、鬱陵島住民の大多数は全羅道出身の漁民であったが、全羅道の方言では「Dol(石)」を「dok」とし、
「Dol Seom(石島)」を「Dok Seom」とよぶ事実はよく知られており、大韓帝国政府は「石島」を意訳して「石島」としたのである。
http://www.han.org/a/half-moon/hm103.html#No.755
どうやら半月城氏は愼𨉷廈氏の説を説明するために宋炳基氏の論文を引用したものの都合の悪い部分があったので「・・・」でごまかしてしまったようです。
半月城氏は「大韓民国海洋水産開発院独島研究センター海外諮問委員」として大韓民国の看板を背負って活動されていらっしゃるはずなのに、どうしてこのような「・・・」なことをされているのでしょうか。。私には皆目理解が出来ません。。。
内藤 正中・金 柄烈共著『 史的検証竹島・独島』の中で 内藤氏が「島に移住してきた人たちの大多数が全羅道の人であることは前述した通りであるが、この石島が独島であるということについては、全羅道の方言で石(トル)を独(トク)と発音することから、トル島がトク島になり、中央政府が漢字表記するにあたり、石島にしたものである。(48ページ)」としているのも宋氏が主張したものであると私は思っていました。
しかしこれは事実ではありませんでした。半月城氏が引用した宋炳基氏の論文の文章の最後の一行の手前の「・・・」となっている部分には実はこのような記述が省略されていたのを発見しました。
全羅南道沿海民たちが呼んだこの 「独島」と言う島名は1883年(高宗 20)から入居し始めた島民らに影響を与えたはずだ。
しかし、それは入居人たちの方言によっていくら位ラムシックドエオ二つの語形が共存したということも見当をつけることができる。
入居人たちの出身地は詳らかにわからないが、地理的関係を考慮したら、初入居の時のように江原道が一番多かったし、その次が慶尚道だったことと考えられる.20)
だからこの入居人たちは彼らの方言、すなわち江原・慶尚道の方言によって21) 'Dok seom'を 'Dol seom'と呼んだりしたはずだ。
(日本語)
http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/choku41li.html
(韓国語)
http://i815.or.kr/media_data/thesis/1996/199614.html
この省略された文章からは二つのことが分かります。
一つ目は宋炳基氏は1882年に李奎遠が鬱陵島で出会った全羅南道沿海民を鬱陵島開拓民として移住してきた人たちであるとは考えていないということです。
宋氏は全羅南道沿海民たちについて「船乗りで造船、採かく、採魚などに従事したが、春に鬱陵島へ来て木を切り船を造ったのち、ワカメを採取し、魚を捕らえて帰った。」と書きましたが、これはあくまで出稼ぎ行為にすぎず生活の基盤が鬱陵島にあったわけではなく彼らを開拓民または移民と呼ぶのは適切ではありません。
一方鬱陵島の開拓は李奎遠の検察の翌年1883年に始まりそれによって鬱陵島に開拓民・移住民がやって来たのは広く知られた事実です。
二つ目は宋炳基氏は勅令41号が発布された1900年当時、鬱陵島開拓民は全羅道出身者が過半数を占めていたと考えていたわけではないということです。
「入居人たちの出身地は詳らかにわからないが、地理的関係を考慮したら、初入居の時のように江原道が一番多かったし、その次が慶尚道だったことと考えられる。」とあるのを見ればこれは明らかです。
実は「1882年に全羅道民が鬱陵島で多数派であったことを根拠に勅令41号が発布された1900年当時の鬱陵島開拓民は全羅道出身者が過半数を占めていた」と主張する説は愼𨉷廈(ハンキンポ)氏の唱えた説です。
愼𨉷廈氏の獨島百問百答Q60.にはこのようにあります。
これに大韓帝国の政府は、1900年10月25日付の勅令第41号において全文6条からなる「鬱陵島を鬱島に改定し、島監を郡守に改定する件」を「官報」に掲載し公布した。
(中略) そして石島が獨島をさすことは間違いない。当時、鬱陵島住民の大多数は全羅道出身の漁民であったが、全羅道の方言では「Dol(石)」を「dok」とし、
「Dol Seom(石島)」を「Dok Seom」とよぶ事実はよく知られており、大韓帝国政府は「石島」を意訳して「石島」としたのである。
http://www.han.org/a/half-moon/hm103.html#No.755
どうやら半月城氏は愼𨉷廈氏の説を説明するために宋炳基氏の論文を引用したものの都合の悪い部分があったので「・・・」でごまかしてしまったようです。
半月城氏は「大韓民国海洋水産開発院独島研究センター海外諮問委員」として大韓民国の看板を背負って活動されていらっしゃるはずなのに、どうしてこのような「・・・」なことをされているのでしょうか。。私には皆目理解が出来ません。。。
これは メッセージ 16259 (yabutarou01 さん)への返信です.
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