石島=独島説の秘密3
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/02/05 02:54 投稿番号: [16263 / 18519]
この「1900年当時全羅道出身者が鬱陵島開拓民の過半数を占めていた」という主張は韓国側論者の国際法上の竹島=独島領有権主張根拠の根幹をなしている部分であり、非常に多くの韓国語の竹島=独島関連サイトで言及されています。
しかし私は1900年当時全羅道出身者が鬱陵島開拓民の過半数を占めていなかったことを証明しているのではないかと思われる史料を五つ挙げることができます。
1・「江原道鬱陵島新入民戸人口姓名年歳及田土起墾數爻成冊 」
これは鬱陵島の開拓が始まった1883年に鬱陵島に移住した鬱陵島開拓民五十四人全員の名前と出身地を記した名簿です。
この名簿によると1883年に移民した五十四人の中に全羅道出身者が一人もいなかったことがわかります。
宋炳基氏の論文に「初入居の時のように江原道が一番多かったし、その次が慶尚道だった」とあるのはこの名簿を根拠にしています。
テキスト画像
http://outdoor.geocities.jp/yabutarou01/meibo.gif
(エンコードを韓国語に)
http://www.dokdocenter.org/dokdo_news/index.cgi?action=detail&number=3084&thread=23r04
2・「通商彙纂」 第234号 - 1902年10月10日
外務省で編纂されたこの文書にはこのように書かれています。
「本島韓民は古来永住の者なく今を経る廿一年前江原道より裴季周、金大木、下(?)敬云、田士日の四名来航し同行者は協力以って山間を開拓し、畠地を作りて農耕を業とせり、然るに其翌年に至り江原道江陵地方より黄鐘海、崔島守、田士雲、金花淑、洪奉堯、李孫八及全羅道地名不詳張敬移の七名来島せし以来年々歳々江原慶尚威鏡全羅の四道より移住するもの多くして・・・」
この文章には初期の鬱陵島開拓民十一人の名前と出身地が書かれていますが、全羅道出身者は一人しかいません。
加えて「江原慶尚威鏡全羅」とあるのを見れば朝鮮八道のうち全羅道出身者の人口は四番目であったように思われます。
通商彙纂 第234号( 07番目のリンク)
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/tsushoisan-1902/
3・奥原碧雲著「竹島及鬱陵島」明治40年
1906年(明治39年)に調査した報告に「在島韓人は、主として、江原道慶尚道地方より移住せしものなり。」とあるようです。
http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/ishijima2.html
4・「朝鮮誌」 1911年
「朝鮮人たる住民は江原道沿岸及び慶尚北道の移住者大部分を占め」とあります。
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?tpl_wid=WBPA130&tpl_wish_page_no=1&tpl_select_row_no=64&tpl_hit_num=107&tpl_toc_word=+%C4%AB%C1%AF+%BB%EF&tpl_jp_num=40010295&tpl_vol_num=00000&JP_NUM=40010295&VOL_NUM=00000&KOMA=346&tpl_search_kind=2&tpl_keyword=%C4%AB%C1%AF+%BB%EF&tpl_sort_key=TITLE&tpl_sort_order=ASC&tpl_list_num=100&tpl_end_of_data=
朝鮮誌481コマ中346コマ
近代デジタルライブラリー
http://kindai.ndl.go.jp/index.html
5・「暮らしのなかの技術と芸能」(平凡社)
No.15925 のpuracyaka2007 さんの投稿によると
以下のような文章があるようです。
鬱稜島は1882年(明治15年)に開拓令が出され韓国人が定住するようになったが、それまで国家の空島政策により韓国人の定住がなかった。その定住の経緯を李永官氏(1921年生まれ)は次のように語っている。
鬱稜島の90パーセント以上の人が江原道、慶尚北道、慶尚南道から移住してきた人々である。全羅道からは機帆船、船を造るための材木を運ぶ目的で 鬱稜島へ来ていたが住み着く人はほとんどいなかった。
しかし私は1900年当時全羅道出身者が鬱陵島開拓民の過半数を占めていなかったことを証明しているのではないかと思われる史料を五つ挙げることができます。
1・「江原道鬱陵島新入民戸人口姓名年歳及田土起墾數爻成冊 」
これは鬱陵島の開拓が始まった1883年に鬱陵島に移住した鬱陵島開拓民五十四人全員の名前と出身地を記した名簿です。
この名簿によると1883年に移民した五十四人の中に全羅道出身者が一人もいなかったことがわかります。
宋炳基氏の論文に「初入居の時のように江原道が一番多かったし、その次が慶尚道だった」とあるのはこの名簿を根拠にしています。
テキスト画像
http://outdoor.geocities.jp/yabutarou01/meibo.gif
(エンコードを韓国語に)
http://www.dokdocenter.org/dokdo_news/index.cgi?action=detail&number=3084&thread=23r04
2・「通商彙纂」 第234号 - 1902年10月10日
外務省で編纂されたこの文書にはこのように書かれています。
「本島韓民は古来永住の者なく今を経る廿一年前江原道より裴季周、金大木、下(?)敬云、田士日の四名来航し同行者は協力以って山間を開拓し、畠地を作りて農耕を業とせり、然るに其翌年に至り江原道江陵地方より黄鐘海、崔島守、田士雲、金花淑、洪奉堯、李孫八及全羅道地名不詳張敬移の七名来島せし以来年々歳々江原慶尚威鏡全羅の四道より移住するもの多くして・・・」
この文章には初期の鬱陵島開拓民十一人の名前と出身地が書かれていますが、全羅道出身者は一人しかいません。
加えて「江原慶尚威鏡全羅」とあるのを見れば朝鮮八道のうち全羅道出身者の人口は四番目であったように思われます。
通商彙纂 第234号( 07番目のリンク)
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/tsushoisan-1902/
3・奥原碧雲著「竹島及鬱陵島」明治40年
1906年(明治39年)に調査した報告に「在島韓人は、主として、江原道慶尚道地方より移住せしものなり。」とあるようです。
http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/ishijima2.html
4・「朝鮮誌」 1911年
「朝鮮人たる住民は江原道沿岸及び慶尚北道の移住者大部分を占め」とあります。
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?tpl_wid=WBPA130&tpl_wish_page_no=1&tpl_select_row_no=64&tpl_hit_num=107&tpl_toc_word=+%C4%AB%C1%AF+%BB%EF&tpl_jp_num=40010295&tpl_vol_num=00000&JP_NUM=40010295&VOL_NUM=00000&KOMA=346&tpl_search_kind=2&tpl_keyword=%C4%AB%C1%AF+%BB%EF&tpl_sort_key=TITLE&tpl_sort_order=ASC&tpl_list_num=100&tpl_end_of_data=
朝鮮誌481コマ中346コマ
近代デジタルライブラリー
http://kindai.ndl.go.jp/index.html
5・「暮らしのなかの技術と芸能」(平凡社)
No.15925 のpuracyaka2007 さんの投稿によると
以下のような文章があるようです。
鬱稜島は1882年(明治15年)に開拓令が出され韓国人が定住するようになったが、それまで国家の空島政策により韓国人の定住がなかった。その定住の経緯を李永官氏(1921年生まれ)は次のように語っている。
鬱稜島の90パーセント以上の人が江原道、慶尚北道、慶尚南道から移住してきた人々である。全羅道からは機帆船、船を造るための材木を運ぶ目的で 鬱稜島へ来ていたが住み着く人はほとんどいなかった。
これは メッセージ 16262 (yabutarou01 さん)への返信です.
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