Re: 護郡所管島はチュク島と石島
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/02/03 09:26 投稿番号: [16249 / 18519]
>>皇城新聞1906年7月13日
http://ameblo.jp/public/image/displayimage.do?imagePath=/user_images/c3/2c/10046631579.jpg鬱島郡の配置顛末
「統監府で内部に公○された江原道三陟○管下に所在する鬱陵島に所属島嶼と郡廳設始月は示明する○故○○図され、光武二年五月二十日に鬱陵島統監に設證され、光武四年十月二十五日に政府会議を経由して郡守を配置するので郡廳は台霞洞に置き、護郡所管島はチュク島と石島で、東西が六十里で南北が四十里なので,合せて二百余里だという」
1899年に鬱陵島を調査した禹用鼎の調査報告書には、
「全島長可為七十里 廣可為四十里 周囲亦可為一百四五十里」
「本島地形石壁居多 而長可為七十里 廣可為四十里 周囲亦可為一百四五十里」
とあり1882年に鬱陵島を調査した李奎遠の調査報告書にも鬱陵島の周囲は「一百四五十里」とあります。
となると「東西が六十里で南北が四十里なので,合せて二百余里だという」は鬱陵本島の 東西・南北と周囲の距離を記したものであって、鬱島郡の管轄範囲を表しているとは必ずしもいえないのではないかと私は考えます。
>>1906年5月9日の皇城新聞では、竹島を「獨島」と呼称してます。
http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/rensa.htmlそれにも関わらず、1906年7月13日の皇城新聞は「石島」と呼称していることです。
即ち、皇城新聞の考える勅令の石島と獨島とは別の島だったということになります。
これは確かに不審ですね。皇城新聞が 石島と獨島を同じ島であると考えていたとは思えません。
ただ韓国側の論者であれば1906年7月13日の「石島」記事は1900年の勅令四十一号のことを述べた記事であるから古い呼び方を使っただけであって「石島」と「獨島」は同じ島である、と主張すると思われます。。。
これは メッセージ 16244 (henchin_pokoider01 さん)への返信です.
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